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御木本パールの始祖、御木本幸吉翁が開発した養殖技術
世界に誇る日本の養殖真珠

《明治二十一年》 貴金属宝飾品業界の歴史中で忘れてはならないものに、日本産の養殖真珠の世界進出がある。日本の真珠は、明治21年頃、三重県の鳥羽町にあった御木本パールの始祖、御木本幸吉翁が装飾品の中でも特に珍重がられる真珠の養殖を開発、世界に打って出ていた。日本の真珠の採取量は極めて少ないにもかかわらず、その需要は年々伸びていた。御木本幸吉翁は、伸びつつある真珠の需要に着目して、アコヤ貝の中に稚貝を入れて養殖真珠の技術を開発した。日本の養殖真珠は、御木本幸吉翁の苦心研究の結果生まれたもので、この頃より世界的な発明品として世に謳われるようになった。
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真珠に対する保険とその対策を取らなければならないと決意した
志摩国海産物改良組合理事の立場にあった御木本幸吉翁

《明治二十一年》 明治維新以来、真珠の需要はますます著増の傾向にあり、特に明治12,13年頃は品質の良い伊勢真珠が、乱獲の兆候が見られた。この頃、日本国の真珠生産状況は、三重県志摩の英膚湾、肥前の大村湾、能登の七尾湾などから産出され、生産額は1万円を下らなかったようだ。保護増殖の途が講じられないまま、真珠に対する需要増を見せる反面、生産量は逆に減少した。
御木本幸吉翁がこの対応策に腐心し続けている明治20年の頃は、僅かに2,3千円程度に落ち込んでいたのである。当時、志摩国海産物改良組合理事の立場にあった御木本幸吉翁は、真珠に対する保険とその対策を取らなければならないと決意したのである。
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昭和24年春ごろ、時計小売業者間から全国的組織の結成が叫ばれていた
全時連の結成

《昭和二十四年》 戦後から五年たった昭和二十四年春ごろ、時計小売業者間から全国的組織の結成が叫ばれていた。全時連結成に尽力した人たちは、名古屋の恩田茂一氏に加え、関時連会長の関誠平氏(東京)、近畿連会長の江藤順蔵氏(大阪)、千葉豊氏の四氏であった。全時連は、昭和二十四年五月九日、東京・新富町の時計会館で発足したものだが、その一年前に上記の四氏が東海道線御油田駅前の「引馬旅館」に集まり、準備会を開いたのが戦後における全時連のスタートとなっている。
次いで第二回目の会合は三月十三日、伊東の大和館で開らかれた。結成した全時連の役員の顔ぶれは、会長=関誠平、副会長=千葉豊(東京)、江藤順蔵(近畿)、恩田茂一(東海)、常任理事=原(東海)、川本(近畿)、安部(九連)。関東勢はまだ役員に入っていなかった。
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28年6月6日、銀座松屋デパートで初の輸入時計大展示会を開催
輸入時計の団体発足

《昭和二十二年》 昭和二十七年六月七日、上野・精養軒で輸入時計懇話会を開催、大沢商会から岩沙、増田、日本デスコ・加藤、ヘラルド・コーポレーション・草日、スイコ・鹿野、シイベル・ヘグナー・小倉、リーベルマン・亀田、中央時計・肥田、平和堂・高木、堀田時計・小田切、シュルテル商会・大洋貿易、相互貿易、シュリロ貿易などが集合した。
この懇話会が話し合いを重ね、翌二十八年六月六日、銀座松屋デパートで初の輸入時計大展示会を開催、大盛況をおさめた。

三団体が統合し「東京時計眼鏡小売統制組合」を設立
戦時中の組合法の改正が行われ「小売組合」の概史

《昭和二十二年》 東京時計組合は、戦時中の統制経済法に従って組合法の改正が行われ、以下の三団体(東京時計商工業組合、東京眼鏡光学器小売商業組合、東京府下時計眼鏡商工組合)が統合し、「東京時計眼鏡小売統制組合」を設立した。同組合の会員数は千四百四名、総出資口数は千六百八十五口となっている。理事長=野村菊次郎、理事=山岡猪之助、白山鎮博、千葉豊、金山重盛、監事=中山文次郎、関口鹿十郎、内田亀楽の各氏。
昭和二十二年協同組合法に基づき「東京時計眼鏡小売商業協同組合」と改めた。その時の組合員は、千百二十名、関誠平氏を理事長に、常任理事(千葉豊、金山重盛、中山文次郎)の他、理事十一名、監事三名。昭和二十四年五月に東京中央区新富町に時計会館を建設、組合事務所とした。
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大正3年9月東京貴金属品製造工業組合が設立されている 
昭和初期の貴金属界

《大正三年》 大正三年九月、「東京貴金属品製造工業組合」が設立されている。このころ貴金属に対する関心と、特にダイヤモンドや金に対する関心は高かったようだ。そこで金の品位についての問題が発生した。
そこで登場したのが、製品に刻印するマークである。服部時計店のツバメマーク、溝口万吉商店の三つ柏、三輪屋、タツミ商店等、続々と刻印マークが台頭してきた。
この頃から宝飾品の卸業者が小売店を回るようになってきて、小売店の仕入れに供する展示会が流行り始めた。
当時の大手宝石商の三輪屋さんが初めてデザインコンテストをするなど、新しいスタイルの展示会が流行り始めた。この頃ダイヤモンド製品には10割の課税がかけられた。この頃から組合組織が充実して、ダイヤモンド課税に対する撤廃運動の声が上がり始めた。
昭和11年頃、貴金属地金の白金の相場価格が安かった。当時は地金協会のメンバー(徳力、田中、石福)は、白金の将来性について「こんな安い価格で止まっているわけはない」と公言していた。白金の用途は、工業用で、特に軍事用での扱いが多かった。
大正12年、当時の浜口内閣当時、ダイヤモンドに10割課税が決められた。

今岡時計店社長の今岡芳太郎さんは、商人として一風変わった人
関西での顔なじみ

《大正15年》 今岡時計店社長の今岡芳太郎さんは、商人として一風変わった勇敢な人として知られていた。主としてセイコーの時計を販売していた今岡さんは、上京するたびに服部時計店の服部正次翁と会談し、商魂たくましく取引面でも直接交渉したという。それだけに服部正次翁が故人となられてからの今岡さんは、上京の都度に服部正次翁の墓参りに精を出したそうだ。時計の他に、古い銀貨を扱い事件に巻き込まれたこともあるが、戦争がさせた物資不足に絡む事件だった。
あるとき今岡社長が時計業界の大手セイコーの時計部品メーカー蒲ム精機製作所の林市太郎社長と一緒に日宗右衛町の料亭に招待してくれた時のことである。しこたま料亭で御酒を飲み、大阪・南場のキャバレーに芸奴十余人を伴って遊んだ時、裏面に粋な図柄のある芸奴の羽織をもって踊った今岡社長が大喝采を受けたことを今でも忘れられない光景だった。
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2世たちで作った東京と大阪の研交会
《大正15年》 大正15年という年は大正天皇が崩御した年で景気が良くなかった。大阪の時計材料界で主導的立場にあった冨尾時計店の令息清太郎さんが商用で上京するたびに、時計業界の二世会の話が出ていた。
大正十六年二月十一日の紀元節、帝国ホテルで二世会「東京研交会」が発会式を挙げた。メンバーは、平野昌之(小売)、吉田庄五郎(時卸)、天野国三郎(宝卸)、野村康雄(小売)、小柳政重(眼小売)、吉田幸男(眼卸)、松本武司(材料)、橋倉利平(畜卸)、小西孝信(眼小)、古川清太郎(小売)、大場孝三(小売)、秦伊兵衛(小売)、村松鉄三(貴卸)、石橋幸太郎(宝卸)、秦藤次、山岡保之助、岡田政人、藤井勇二(本紙社長)。
この研交会は、毎月11日を例会日にして勉強会を行っていた。大阪研交会は、大正12年冨尾時計店肝いりで創立されている。
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明治時代から懐中時計ぐらいだったから付属品としてはヒモ、鎖ぐらい
時計付属業界

《大正年代》 日本の時計付属業界は、明治時代から懐中時計ぐらいだったから付属品としてはヒモ、鎖ぐらいで、堤時計の外側サック類に止まっていた。それが大正年代に入ってから腕時計が市販されるようになり、ニッケルやクローム側の腕リボンが出現、それ以来革バンドの時計ベルトが登場、皮革製品改良に拍車がかけられた。
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野尻雄三、吉田庄五郎、小林伝次郎、鶴巻栄松らの提唱で発足
大正八年十一月五日、東京の唯一の時計卸団体である「五日会」

《大正八年》 東京の唯一の時計卸団体である「五日会」は、大正八年十一月五日、野尻雄三、吉田庄五郎、小林伝次郎、鶴巻栄松らの提唱で発足した。発足の目的は、販売価格協定を主眼に、大阪や名古屋などが連携して、春秋二回の売り立て会が行われたという記録がある。
そのころ資金力があったのが須田町の金森時計店。西の横綱は大阪の沢本平四郎氏であった。同氏は岡伝商店に在籍し、独立してダイヤと時計の卸業を営んでいた。
貴金属業界での資金力は、上野の金田屋・金田徳治、池之端の三輪屋・三輪三輪豊照、原清右衛門、名古屋の水渓商店・水渓直吉、大阪の角谷栄蔵などが名を連ねていた。
当時の時計卸業の勢力図は、御徒町の吉田時計店、加賀屋商店、大正5年に上京して開店した鶴巻時計店の三店が激しく争っていた。この他に、服部時計店、矢島時計店、天賞堂、山崎商店、天野時計宝飾店、エルシュミット工場、小林時計店などがあった。
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