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材料界にもブランド物が勢いを増した時代
バンドの種類とその頃の業者活動

《昭和三年》 時計用バンドとして利用された品物の順位は、この頃時計のケースがパリス側に作られていた関係で、これに使用するためのリボンが用いられて
おり、このリボンコにも一つのパテントが採られていた。つまり意匠と構造から来たものであろう。昭和になって初めて、皮バンドというものが使用されるようになったので、流行はこれから追うようになっている。
皮革バンドの製造者の古参は、池上彰冶氏など古い方だ。だが皮革バンドの皮質は、最初は低級品を使っていたが、需要が高まるに従って高級品が選ばれるよう
になり、コードバンが出現したのは谷口の「ホマレバンド」がトップではなかったかと思う。かくしてバンドの需要が高まるようになった頃のバンド界の概況は、次のようにつづれる。
本所・両国の大熊喜佐雄、浅草・並木の谷口誉四郎、牛込・矢来の丹羽留吉、下谷・の木村大資、浅草・鳥越の并村松五郎、浅草・山谷の若林善治、浅草・柳橋の山崎福太郎、寿町の合月商店と中野新助、宮田伊太郎、栃木勲、本所の石田国三郎、石田基吉、赤坂新町の平岩商店などがあげられる。
この中でブランド物として宣伝に努めたものは、ヤナギバンドの山福、ホマレバンドの谷口、軍人バンドの大熊、矢印の丹羽、地球印の平岩等で、銘柄についての宣伝活動が高まり競争が激しかったものだ。おかけで一頁大の新聞広告を毎号やらかして、業界を賑わしていた。それだけに業界紙に対する勢力批判もひとしお強く、特に谷口と山崎、大熊氏らの対立は激甚であって、組合会議の席上などでは、囗角あわを飛ばし、大激論をやったものだ。
当時組合会議では、最も賑やかだった眼鏡小売組合の騒ぎに劣らないほど活況を見せていた。バンド業界の活発さと来たら他の業界から注目をあびたものだ。
そこへ意匠や製造上のパテント問題が飛び出して来たのだから問題はいやがうえにも大きくなる性格を持っていた。写真は、昭和5年当時の組合従業員の表彰式。

近常時代の東京の時計材料界
銀座・天賞堂、服部時計店なども扱っていた

《昭和初期》 東京の時計材料界は、明治時代からの材料界の元勲である三十間堀の近常が輸入商の王座としての誇りを持っていた。このほか、銀座・天賞堂、服部時計店なども扱っていた。
昭和の初期時代、東京市内にあった時計材料店は小川静、山内材料店,榊原材料店、小島商店、小峰材料店、五味材料店、大田材料店、馬場喜一郎、八田商店、松下商店、伊藤材料店、吉田昌一、上岡実、海野幸保、松本吉五郎、中村徳松、高橋井五郎、小松沢国之助、足立治郎吉、荒木虎次郎、木村健吉、水谷平吉、南岡正躬、宮島伊三郎、清水幸、岩永商店などがある。写真は、腕時計の付属商工組合の新年会。

昭和5年のころ、時計材料卸界が廉売合戦で想像を絶する混乱ぶり
3都連合会の代表が「業界損失防止案」を作り話がついた

《昭和5年》 時計材料卸の五味商店と小峰商店の対立劇は、他地区の同業者にまで広まっていた。昭和5年ごろの時計材料界は、廉売合戦でその混乱ぶりが想像を絶するものがあった。そこで昭和7年7月、東京時計原料組合と関西時計材料組合、名古屋時計材料商組合の3都連合会の代表が集まって、時局収拾の為に話し合った結果、「業界損失防止案」なる決議書を作り、実行に移す声明で話がついた。

昭和7年、3都市時計原料商組合は「業界損失防止案」を可決
東京・大阪・名古屋の三都材料組合連合会

《昭和7年》 当時は為替の変動や財界の極度の不況により、業者間の競争が激化し、破壊的な相場の広告が出現するなど、3都市時計原料商組合は緊急会議を開き「業界損失防止案」なるものを決議した。
東京の五味材料店と小峰材料店が対立抗争劇は、昭和7年以降の材料界における廉売合戦の口火を切った。このようなことから、東京時計原料組合と関西時計材料組合の「時盛会」、名古屋時計材料商組合の各代表者たちが集まって、事態の収拾に乗り出した結果、三都連合会の名において、「業界損失防止案」なる決議書を作り、実行を声明する話し合いを付けた。それは、昭和7年7月のころであり、世の不景気風によって来た影響の締めくくりとした。
当時は、為替の変動が甚だしく、かつ財界も極度の不況の結果、同業者の競争激甚となり、あるいは商報に、あるいは広告に破壊的な相場の出現となり、同業者の迷惑一方ならず、これを放置すると、ついには救われない結果を見ることになるとして、三都材料組合連合会が、緊急理事会を開いて、以上のような決議文を作成、会員の賛同を得て、業界の健全なる発展を期すものであるとした。
全国の業者に発令した内容は、
@ 定価表は、一般的に普及した商品及び再低価格品の価格を時の相場により、協定した建値以下で販売することを禁ずる。
A 本会員は、商道徳を重んじ、他人に迷惑を及ぼすような挑戦的な宣伝、または、虚偽の広告を行ったものを不徳行為と見なし罰する。
B 業界を攪乱するがごとき不当廉売をするものに商品を供給するものにまで、取引の停止を求める。この三項目に違反した者には警告を発し、改められない場合は連合会決議により売買の取引停止とする。賛同者は、時計材料に関連する全国の業者多数となった。会員の賛同を得て、業界の健全なる発展を期すものとする。

昭和三十一年、「全国時計附属品卸組合連合会」を設立
組合員の相互便利機関として毎月一日を定例日に展示会を開催

《昭和三十一年》 腕時計バンド業者を集めた卸業組合は、二団体存在している。前述した仮称「美装組合」、いうなれば大卸商団体となり、「東京時計バンド装身具卸商業組合」は、小売店向けの卸商団体である。この二団体が歩み寄り一本してきた時代の組合状況は、昭和二十二年、涌井増太郎氏の発案で組合の復活を計り、初代理事長には、この涌井増太郎氏が就任した。以降理事長は、村井寅吉、安藤喜男、長谷川恵章、遠藤僖一、村井寅吉、今田正雄氏の順に理事長職を全うしている。ところが組合員の中には、商品の供給するものの「睦会」と、それを受け入れる卸サイドの業者があり、時により利害が相反することが度々あった。その利害を調整する意味から、昭和三十一年、ついに両者が分裂して独立した組織を立ち上げた。方や「東京時計バンド卸組合」と「東京時計バンド装身具卸商業組合」では、全国業者の一本化を図ることになり、東京組合を主体に、名古屋、大阪の同業団体に呼び掛けて「全国時計附属品卸組合連合会」を設立、業界諸般の指導改善に寄与することに努めた。この他、組合員の相互便利機関として毎月一日を定例日に指定し、商品展示会を開催、業績を上げている。

多くのブランドが乱立、宣伝活動が活発化し競争が激しくなった
意匠登録やパテント問題などの問題が飛び出し、活況を呈した

《昭和三十七年》 時計バンドの需要が高まるようになったころの付属品業界は、本所・両国の大熊喜佐雄、浅草・並木の谷口誉四郎、牛込・矢来の丹羽留吉、上野・下谷の木村大資、浅草・鳥越の井村松五郎、浅草・山野の若林善治、浅草・柳橋の山崎福太郎、浅草・寿町の中野新助、本所・両国の石田国三郎、赤坂・新町の平岩商店があげられる。この中でブランドとして宣伝に努めたのが、ヤナギバンドの山福、ホマレバンドの谷口、軍人バンドの大熊、矢印の丹羽、地球印の平岩などで、宣伝活動が活発化し競争が激しくなった。そこへ、意匠登録やパテント問題などの問題が飛び出し、活況を呈した。
皮革バンドの最初は、低品質だったが需要が高まるにつれて高級品に

時計用バンドは、その当時時計のケースがパリス側で作られていた関係で、これに使用するためのリボンが用いられていた。このリボン釻のもパテントが付けられていたことから、意匠問題や構造問題から来たらしい。
昭和の時代になって初めて革バンドが使われるようなった。皮革バンドのメーカーでの最古参は、池上彰治氏。皮革バンドの最初は、低品質だったが需要が高まるにつれて高級品になり、コードバンが出現したのは、谷口の「ホマレバンド」がトップだったと思う。
戦争中は、国産の製品オンリーだったのが、リボン類に続いて皮革製品が主力になった。終戦後は、アメリカ製の金属バンド(S式)の流入により、取引が旺盛を極めた。それに準じて、国産のS式バンドが流行り出だした結果、伸縮可能なパーフェクトバンドのパテント問題が起こり、ドイツのロジェ社との間で係争を繰り広げた。エバー式パテントで受けて立った「東京時計附属装身具商工協同組合」が勝訴して平静化した。
この間販売戦線では、消費者に直接販売するマルマンが出現、バンド業界は波瀾めいた動きを見せ始めた。
昭和三十七、八年頃から、金融界の新しい政策の影響で、バンド業界の受けた打撃は大きく、業界筋では一部倒産などの憂き目を見た向きもあり、堅実な業者のみが残存しているのが実態である。

「東京眼鏡商組合」は明冶三十七年、六十五名の組合員で発足
眼鏡の由来と眼鏡界

《明冶三十七年》 眼鏡とは、「眼前に使用し頭の両側、鼻梁に固定して物を見る光学器具である」と定義づけられているほどだから眼鏡というものの歴史は相当古い時代から伝わってきているようである。ここにいう日本の眼鏡業界とは、組合を作った頃をその始めとして振返ってみることにする。
「東京眼鏡商組合」は、明冶三十七年二月十日、加藤菊太郎、杉若重右工門両氏の発起人で組長に田中栄太郎、副組長に佐々木房太郎両氏を選任、組合員六十五名をもって発足している。
明冶四十年、小林清五郎氏が組長に就任した時から「重要物産同業組合法」への昇格運動を起こし、明冶四十年十一月「東京眼鏡製造販売同業組合」を設立している。
大正十年、岩崎広松氏が組長となって明冶四十年、鈴木定吉氏が組長になってから、この当時の組合員の発言はすこぶる活発で、常に賑やかな総会風景を呈したものである。

眼鏡界に多くの名士が誕生した
大正十二年に起きた関東大震災の復興を契機に

《大正十二年》 この間、大正十二年九月一日の関東大震災では、業者の全部が被災し、死亡した組合員は二十九名を出した。組合は、労災救済金を借り込む状態で振わなかった。しかし、震災後の復興力が緒につくと次第に目芽える時期が到来した。この頃の眼鏡界は、組合の名称が示すように、製造と販売業者を一括して組織されていた。従って販売店がお客の立場になるという関係で常に有利に動いていたようだ。
組合行政では、神田の五味行長、小柳重憲、民野勇、鈴木金蔵、谷勇、村田嘉兵衛、亀山末義、加藤亀太郎ら小売の面々に、時計界から向島の水口茂美氏などが加わって賑やかな総会風景を展開したものだ。
メーカー畑では、小沢元重、佐野義雄、奥田平兵衛、卸界から井戸武義、吉田幸三郎、田中喜八の諸氏が役員陣営に参画していた。
当時の眼鏡組合の会議風景は、正に甲論乙論といえるものであり、一言一句が議事法に則るものでなければ許されなかったというほどだ。俗称神田組と称された
五味、谷、鈴木の三氏は、必ず発言なしでは済まなかったものである。
平野組長によって、時計関係では同業組合への昇格は見たものの、公認制組合としては、この眼鏡組合の方がはるかに先輩というだけに、論議の場ともなれば、物すさまじいばかりの光景などが見られたものだ。
とにかく、神田組に神楽坂の民野勇氏(俗称コブ)を加えたら、つぎつぎに質疑が発せられ、議長はヘコたれるだろうということであったほど。
従って次代の組長たるものは、この猛者連を程よく統制出来るものでなければ到底務まらないものだという定評さえつけられていたのである。

伊勢定店主鈴木定吉さんの勇躍登場の巻
業種三部制(製造・卸・小売)が実施されることになった

《大正十五年》 この頃、このような賑やかな眼鏡組合の状態ではあったが、また時としてこの光景をほくそ笑んでいる人もいたようである。当時、蔵前の交叉点角から二軒目に伊勢定眼鏡店と称するメガネの卸店があった。秘書役に、辻さん、商売の方は、古参店員として加藤六次郎氏がいて、堅実な体制を布いていた。
伊勢定のおやじ曰く「俺が死んだら通夜には三味を入れて賑やかに接待しろよ」と妻君に常に言いきかせていた位であっただけに、気性はまたとない強さを持っていて、朗らかな性質の人であった。
私たちが、「天下の形勢はいかがですか?」と問いかけると、途端に眼鏡の奥の目が光り、コップに一杯の酒がなみなみと注がれたものだ。カラシの入った柿の種をつまみながら酒を飲むときの快感ときたら、大満足の体。
伊勞定のおやじは、いいおやじであったことをこの機会に言っておく。
この伊勢定の主人公鈴木定吉が、とうとう組長候補に出陣の用意が出来た。そうなると用意は周到だ。先ず諸方に手を差しのべて、事前の了解工作が行われた。
市会議員の選挙にも負けないくらい、真剣な体制を整えたのである。
前述したように、神田組の五味行長氏等の猛者連を制御する術もすでに整えられた結果で、大正十五年一月の総会席上で組長当選の栄冠を担った。この選挙の当日には、時計界から、山岡、千野、干葉、水口、槙野の諸氏が眼鏡組合の資格で観戦していたので賑やかさと来たら文字通りであった。
こうして鈴木組長は、昭和五年まで組長を歴任したが、当時小沢副組長の資格問題が取りあげられたことから遂に辻書記長とともに辞任する結果となった。この間、常に私達を通じて業界の諸情勢に関する情報の収集には熱心に気を配られたものである。水も洩らさぬという体制だったのであろう。
そのあとの組長は、昭和五年に秋元清次郎氏、同七年に田中喜八氏、同八年に加藤亀太郎氏、同十三年に安西俊治氏、十四年に亀山末義氏らの順に就任しているが、この頃は既に戦時体制時代に移っていたので、組合の会議も自然とおだやかに変っていた。かくて組合事業の諸般がスムースに運ばれたこの間、同業組合の永年の希望案件に上っていた業種三部制(製造・卸・小売)が実施されることになったのである。写真は、昭和十七年当時の慰問団一行のスナップ。

OM眼鏡と小沢SSの立正会
飲みながら説教をしてもらった良き想いで

《昭和五年頃》 鈴木組長の下にメーカー畑から出て副組長に任じていた小沢元重氏は、今も元気に組合事業の諸般に活躍を続けているが、この小沢氏を市川の自宅によく訪れたものである。私の外にも竹雅、黒川、鳥越(故人)らも時には加わっていた。
OM金張眼鏡伜を製造して有名なだけに、その信拠するところも常人と違っているところがあった。自宅の庭に立正会の祈祷所があり、日を決めて説法を行なっていた。小沢さんは信念の人であると私たちは信じさせるように、飮みながらよく語ってくれたものだ。市川の国府台近く、または真間の大松に、時としては江戸川を舟で逆上して川のほとりの茶亭に竹雅、黒川氏ら四人がたむろしたこともあった。丁度、浦竹さんが私達を愛好してくれたように、眼鏡界ではこの小沢さんを何より頼りにしていたものだ。だから市川行は、スポンサーの目的にしたときばかりではなかった。電話で打合せて午後四時という時間時か多かった。信念に生きる小沢さんは、今でもOM眼鏡の主として活曜、業界の諸般に貢献している雄姿を見る時、当時を思いうかべて心中敬意を表することがある。



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