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昭和初期時代の銀座地区の時計を扱っている業者群
懐かしい店ばかり

《大正十五年》 大正から昭和当時の銀座街を中心にした時計業者店名群を拾い出すと次の通りとなる。

「小西光沢堂」、「長栄堂時計店」(京橋一丁目)、貴金属卸商の「溝囗商店」(京橋一丁目)、禎町の「森川時計店」、「柄沢時計店」(八重州)、「諏訪喜之松商店」(京橋)、「石井時計店」、「伊勢伊時計店」、「服部時計店」、「山崎商店」、「平野時計店」、「十字屋楽器店」、「玉屋商店」、四丁目際に到って左に「精好屋商店」、「中央堂時計店」、(後に佐野正に変る)、右側に「山野楽器店」、「御木本真珠店」があり、その裏通りの二丁目に「大沢商会」と大沢商会出身の「シオン商会」(森茂樹氏)があった。五丁目に到って左側に「大勝堂」(槙野辰蔵氏)、「日の出時計店」(野島氏)、「村松時計店」、「白牡丹」とその階上に「天野時計宝飾店」があり、右側には今の「はまのや」のところに「大西鏥綬堂」が厳然としていた。六丁目の「日本ダイヤモンドKK」と八丁目に「小林時計店」があり、八官町には最古参の卸商の「小林時計店」(小林伝次郎、川村支配人)があり、時計界の名望家として名高い存在であった。新橋を越えたところの土橋口には、蓄音機の「八千代商会」と「亀谷眼鏡店」があり、「調和堂時計店」も三田から移っていた。写真は、明治時代の銀座の街角。

「平野時計店御一同様」と書かれてあった看板で大いに揉めた
大正年代の高尾山でのエピソード

《大正十四年》 この銀座街を巡り歩く中に必ずといっていいほど出会ったのは、その当時の大沢商会の岩沙兼松氏、岡田政人氏と小西光沢堂の福原述氏であった。
何れも豪快で快舌なお互いであった。当時、この三人を“業界の三羽ガラス”といわれたものである。故人となった同業組合の初代組合長の平野峯三氏曰く、「業界の三羽ガラスの活用度は強い」といって笑い放ったものである。
京橋組合の中には、八丁堀の川名時計店と三原橋際の江原時計店が加わっていた。川名啓三氏は日本橋支部と結ぶためにも地域的に役立っていたのと、月島地区からの攻め手の場合にも役立った存在であった。組合的には、平野粗長の下で会計役を担い、後に森川浅次氏がこれに代ったものである。京橋組合の連中は、俗に銀座マンの一人として呼ばれるだけに、すこぶる我量の強いものがあった。これに類する一つのエピソードがある。
京橋組合だけで大正十四年の頃、紅葉の高尾山に旅行会を催したことがある。これにはもちろん新聞人としては私だけが加わっていた。ところが高尾山に着いて、休息するため寺院の坊に入ったところ、予めその日の世話役をした関係で「平野時計店御一同様」と白墨太く書かれてあったのに気がついた大西錦綾堂主が開口一番して、「ヤアー今日は平野時計店の店員になったみたい」とやったもんだ。ところが案外茶目っ気のある平野さんであったから、「光栄でしょ、始めて店員になれて」と笑いで放った言葉がどう受取れたか、大きくしかもカンカンに怒り出して大変な場面となった。平野さんが取持って見たが収まりそうもない。そこへ秦さんが間に入って気勢を上げたのだからたまらない。
宛ら紅葉ならぬその場にいた連中の顔色と来たら、真赤に染まり取りつく術もなかった程だ。この時、私と森川さんが気を利かせて問題の看板を書き換えて、坊主の責任ということにして平謝まりを敢行したので、お蔭でことなきを得たが、それほど銀座の店主達は、一国一城の強い持ち主であることを裏付けた話である。
その席には、御木本の池田支配人、玉屋の田口支配人、天賞堂の関卸部次長、服部時計店の土居さんらも参加しており、有名な昔ばなしである。このような関係だったから、私が独立して創刊するという場に到ったときは、大いに援助してくれたのである。

昭和初期時代における時計の需要状況
セイコー腕時計の発売当初の批判など

《昭和初期》 関東大震災でうけた被害も一般都民の努力によって漸次復興力の著大で
市井はだんだん落ち着きを見せてきた。労働力の旺盛から勢い「時と時計の需要」にも大きな影響をみせるようになった。そのためか時計はますます売れるようになってきた。
この頃に売れたモデルは、掛・置時計類では、丸に菱S印の精工舎のモノが好評で、高級価格帯の品では、ドイツ、フランス等の舶来品というのが常識のようであった。
携行用の時計としては、懐中時計が需要の中心で、腕時計を持つ人は高級かつハイカラな人という事になっていた。輸入品の腕時計も、漸次需要を増して行ったが価格の競争が需要度とのアンバランスもあって、なかなか激しさを見せていた。この頃、時計の卸業者の中には、ボツボツ整理を行なうものが現われる時代ともなった。つまり震災による痛手が保てなかった部類かも知れない。
今津、見沢、大西、アイチ(酒井)、などの時計卸商社が倒産していった。つまり景気が良い、悪いというよりも、経営そのものの感度がよく保てなかったのかも知れない。このようなときに、精工舎製の国産腕時計第一号が、昭和二年、服部時計店から発売された。
精工舎は、時計メーカーとしての歴史が古く、かつ製品そのものも品質を通じて信頼を持たれていたのだが、いざ発売という段になって見ると、これに対する批判はなかなか強かった。
商人というものは、何でも新しいものを好むものである。それは売る方法が比較的容易であるからというねらいに基くものでもある。そんなことでセイコー腕時計が発売されると、時計卸商の「五日会」の連中の中でも、特殊卸商部隊の批判は相当なものだった。しかし、数量的に充分というわけではなかったので、これを取扱う店の選択が行なわれたようであった。このセイコー腕時計の発売を注目していたシュミット工場のスイス人の故ネフさんやスイスウォッチの(当時神戸在住)故ミラー氏などは、自分の腕に新しく発売したセイコー腕をはめながら、その保持性の検討を怠らなかったものである。
そして批評して曰く、「保持性能は、二年でつきる」と断言したものだ。その理由として、「材料の真鍮地金の軟柔性が、時計の保持性的生命を損なわせることになるからである」と説いていた。そんなこともあったが、国産腕時計の宣伝は益々と高まっていった。しかし、各卸商社では、この頃でもまだスイス物に頼る気運が強かったように見うけられていた。だから服部時計店では、掛時計を仕入れる場合に、小物時計を半ダース添えるような条件を行っていたようである。しかし天下の服部時計店という勢力下であるだけに、このセイコー腕時計の将来性には十分な自信を持っていたのであろう。

時計安売り時代の頃の状況
売値九十銭位の置時計をつけても利益が上がった時代

《昭和二年》 時計の廉売・乱売という問題をやかましくいっているが、これは景気が悪くなった頃に起きる商業上の自然現象である。
廉売だ、乱売だというが、時計の販売価格というものは、戦前の頃には正札制などという制度はなかったから、各店それぞれ自由に仕入値段に自店の利益を乗せて計算、それを掛けた価格が即ち店頭掲示価格となっていたのである。だからAの時計店の店員は、Bのお店の値段をソットのぞき見てまわり、自店の価格と比較して直すというケースのものであった。従ってサービス企画などを実施する時期になってくると、先づは腕時計のガラス入れ替えは無料、修理や時計の具合見なども無料に奉仕するというのが多かった。その上の競争状態の時は、戦前は九十銭程度であった目覚まし時計を買い上げた人に無償進呈という方法など行っていたのが諸々であった。
もっともその頃の時計を買上げのお客さんには、売値九十銭位の置時計をつけても利益面では大いに儲けがあったからである。だからこのサービス用に備えるために目覚時計を時計卸商が発行するカタログに提示されるのが目立っていた。要するに安ければいいというねらいの品物であったから安物の価格品は引つぱり凧といった時代であったわけ。
最近の頃とは情況が違うが、出来るだけ安売りをしない方針の服部時計店でさえ、目覚時計などが滞貨したときには、大阪の今岡時計店気付けで荷箱がドット送りつけられたものだ。元気な時代の今岡芳太郎社長曰く。商売というものは仕方がないよ、服部社長でも会談したその瞬間に、「どうだ今岡君、五万個の目覚があるが」といった話を聞かしていた頃の時代であったのだ。
昭和二年頃から七年に到る頃の景気は、特に悪かったものだ。それだけに時計の安売りなどは到るところに出現していた。その中でも大阪の小売店・中西白牡丹など当事は日本中での安売り王であったかも知れない。その中西さんが戦争が終わってから組合会議の席上で、「安売はダメですよ」と積極的な意見を吐露したことがある。そのように安売り戦法だけでは店の繁栄は絶対に成立つものではないことを証明しえたのである。だがこの戦前の頃はお宝(通貨)が特に貴重な時代であったのだから、薄利多売という式の商売が案外表面に打出されていたのである。

「商品興信新聞」の1ページ全面広告料が五百円也
満州、支那、南洋、スイス、アメリカ方面等、各地域から購読の申込みが

《昭和二年》 創刊当時の本紙の広告料は、全面一頁で五百円であったと記憶する。生活費が月二、三十円もあれば足りた時代であったから、この料金は大したものだということになる。こんな具合のトントン拍子であったのだから毎号の刊行は安易に続いたが、しかし、それだけでは勢力上足りないものがあるとして、翌くる昭和二年には大阪に支局を開設、寺沼支局長以下三橋某社員らを専従させた。私はこのあとの発展に備えて、毎月三回宛は大阪を主軸にして京都、神戸、名古屋と定期的に巡回、業者を歴訪した。
名古屋の名蓄商会の柴田さん、日蓄商会の野村さん、大阪の安井ニッポン堂、中西商会、快声堂に今岡時計店、奈良の保険堂の今久保清吉氏らとの親交ぶりは今でも当時を回想し愉快になった。
このような活躍時代の続くことにより、社業はますます進展、新聞の発送先も、内地の全土はいうに及ばず、遠く満州、支那、南洋、スイス、アメリカ方面等、世界的地域から購読の申込みを受けるという伸展ぶりを見せた。しかし社会という場で、平和な独占場を安易に占めていくということには時として問題があった。この伸長ぶりをねたむがためのあくなき謀略事件がこの間にいろいろ仕組まれていたのである。私の社に対するあくどいその実例のあったのを参考にあげてみる。

クロームという新しいメッキ処理法が登場
想いでのエピソード其の一「大阪の大藪商会」

《昭和初期の頃》 時計界は腕時計の流行から腕時計の側に対する魅力に注がれていた。この頃の時計側(ケース)は、主としてニッケルであり、ニッケルの仕上げメッキを施したものに一歩改良されたものがクロームという新しいメッキ処理法が登場したのである。だからクローム仕上げの良質なものは、デパート辺りで売られているものの多くは、舶来品ということになっていた。それだけに、この頃平野陸三郎氏を組長にしていた東京時計側組合では、クロームメッキの良質仕上げを中心問題にして、カンカンガクガクの論を交わしていたものである。それがいつになっても一向に改良されないままであったので、少しくあせり気味が持たれていた頃のことである。大阪・日本橋の堺筋通りに大藪商会という店が生れ、当時、この店がクロームメッキの一手引き受けを業務としていたので一時的ではあったが大いに鳴らしものである。大薮商会は、正不さんとの権利争いがあったが、そんなことは弁護士まかせということで、日本橋の家では真昼問から三味線をひかせて、酒盛りをやらかしているとの噂が四辺に広がった位であるから大した景気を見せていたようである。だが、その後その大薮商会は、日ならずして沈黙して終ったようであるが、この頃私達新聞社(当時は六社?)に対して大判一頁全段通しの広告を何度か出してもらったので大きく収入を得たものだ。
クロームメッキの発明者といった正不さんのほうは、それほど賑やかでなかったことの経過を見ると、商売というものはPRが必要であり、そのための広告など大きく打出すところに戦果があるということの現実をこの時証明されたような気がした。

白金の代用金プラチナとして「サンプラチナ」の始めの頃
統制が強化される時代に小森宮さんに紹介した

《昭和二年》 サンプラチナは、昭和初期の物資欠乏時代を当てこんで売込んだ白金の代用金プラチナとして「サンプラチナ」というものであり、昭和二年十一月に創立した「三金研究所」から発売された。社長の加藤信太郎氏は、その年に上京、私の社に朝昼となく訪問して、その宣伝技術に協力を求めてきた。
加藤さんのその頃の曰くに、「藤井社長、サンプラチナが成功した暁には、御社の社屋三階建てを本建築にして差上げます、ほんとうです、どうか面倒見て貰いたい」とい懇願ぶりであった。サンプラチナと名称はつけたものの、地金が堅くて金の代用どころか白金の代用にはなおのこと、なかなか利用の役には立て難いというものであった。然も貴金属業者には、一片の面識もないズブの素人であった加藤さん。然し、そうこうしている中に貴金属品に関する統制が一層強化される時代になり、業者側でも堅いのが難点ということで作業の点で芳しいものではなかったのだが、さりとて所用資材が欠乏する時代に変っていった頃からは、これを使うほかないということにもなり、漸次観念化された時代ともなったのである。統制が強化されたおかげである。それをチャンスに貴金属組合やその関係方面に使用方を説いて廻った中で、眼鏡方面への開拓にも一歩を進める必要から、サンプラ地金の取扱業者の選択について相談を持ちかけられた。
だが地金関係の事情では、堅いという特質があるだけに、積極的な協力ぶりをとるのに少しく逡巡していたのであった。ある晩、加藤さんが私の会社に押しかけて来て、狙いをつけている小森宮さんにその取扱い方を頼んでくれというのであった。勿論、小森宮さんは加藤さん自身には未知の人であったので、私が紹介したことによって始めて知ったという事である。
小森宮さんのお宅を訪問していろいろ懇願した結果、それでは、店のものがどういうか一
応相談してみようというところまで進展した。この頃は、現当主の小森宮さんは、大学に在学中で、専務の福ちゃんだけが残ったのだと思う。そうして漸く頼み込んだ緒果、小森宮、加藤さんご両所が既に亡くなられた現在でもサンプラ地金の発売元として永続しているという現況である。
このエピソードは、且て、大阪時計業界の某卸店が、密輸事件からの脱落を条件に金五万円の謝礼金を出す約束したのをホゴにしたのに次ぐ第二番目の話。

進歩派の平野峯三氏時代が登壇
野村菊次郎、関誠平、金山重盛、山岡猪之助、木村信男、河内録幣時代に

《昭和二年》 ところがこの頃の時世に鑑みて、業者の中にも進歩説を唱えるものがあり、特に銀座二丁目にあった平野峯三氏は、組合刷新派の第一人者であっただけに同業組合への昇格を強く主唱した。こんなことから銀座の時計を扱う業界人は、「平野峯三氏を組合長にしてもいいではないか」という機運が高まっていた。
昭和二年、上野公園の精養軒で開催した東京時計組合の定時総会において、平野峯三氏が組合長に選任されることになった。その結果、進歩派に同調していた本郷の時金堂主・広瀬孝一、上野広小路の白金堂・荒木豊氏が副組合長に推されて就任、これに理事十四名、監事二名を選出して東京時計組合としては永年の殼を破った新体制時代に入った。
この時代に始めて組合に顧問制が布かれ、服部金太郎、吉川仙太郎の両氏が顧問に推薦された。次いで、昭和四年六月の総会の際にも平野、広瀬、荒木の主脳陣営は崩れず、新たに溝口万吉氏を加えて一歩を進めたという体勢であったが、これは平野氏時代になってから同業組合制への昇格に踏み切った功績が大きく買われた結果であった。
だが平野氏は昭和五年病気のため退くも他界されたので役員陣に変化は生ぜず、そのあとは組合長に広瀬孝一、副組長に、梶山平三郎、古川長三郎の両氏が就任、翌昭和七年には野村菊次郎氏が登場することになったのである。この時代の副組合長は、梶山平三郎、千野善之助、秋本春吉の諸氏が就任、このあと更に森川浅次、川名啓三、後藤安平、山岡猪之助の諸氏が入替っている。昭和二十二年春までの約十五年間というものは、野村菊次郎組長時代が続いていたのであるから、故野村氏の功績は、東京時計組合史の中では、最たるものであるといっていい。
この後は、終戦後の舞台に移り、野村菊次郎組長に代わった関誠平(二十二年)時代を第一陣にして金山重盛(二十五年)、山岡猪之助(二十七年)、木村信男(三十一年)、河内録幣(三十七年)氏の各理事長時代が続いたことになる。今年(四十一年)は、この五月に役員の改選があり河内氏の三選出馬声明に対抗して、漆原副理事長が立候補声明を発して活躍したが、結果は二十対二十六の六票差で河内氏の三選が成った記録がある。

前歴者は第二を追うの例
立法趣旨を知るための勉学と反省

《昭和三年》 デカ連中を買収してまで、己れが望む野心を遂げようと企らんだ謀略のその悪源は、旦て四国の生家を出てから大阪で通信販売を業としていた頃に、詐欺事件にかかわった関係の朱印がその本人の戸籍をけがしていた。これを取除くための策略を、上京してから京橋区内の某署刑事を使って戸籍を転転とさせていた機会に脱落させるに成功した例がある。その事例に倣って行った大井署の刑事使用事件ということになるのであるが、結局は犯罪の前歴を持つ者は、その第二を追うという事象が顕現したことになる。
前科歴は第二を踏み易いという例を知るための参考にあえて記した次第である。

以上のような思わざる他からの迫害、または知らずして起り得る犯罪防備上のためにも、執筆関係を業とする立場にあっては、それらに備えるための法律上の意義体形を知っておかねばならないものと考えて、私はそれから明治大学の法科に勉学することにした。哲学とは、深遠奥妙を極めた科学であるとするなど、九法のメンバーとして三年間を費やして、法律のよって来る淵源とその本質的論拠についても少しく会得したのである。今の世には時としてあくなき行為を敢てなしつつ、なおデンとして恥じることなく、しかも反省のない非常識極まる行為者のあるのを思うとき、正に冷汗三斗の思いをすることがある。この機会にあえて反省を望んでおく。

前代未聞の同業者間の謀略事件
妬みから企らんだ悪計謀略劇の一部始終

《昭和三年》 勢力を妬んでか、発刊三年目を記念して催すことになった「全国商工業者大会」の日を控えて、日本貴金属紙の福田某は、もう一人の陰謀家と共に大井署のデカ連を買収してまで、私を陷し入れんとする劣悪な謀略を企てたのである。その日は、全国商工業者大会を翌翌日に控えていたので、新調の本社旗を明治神宮の神前で奉告式をあげることになっていた。
昭和三年五月三日の朝のことである。一人の男が私の住んでいた大井町の居宅にヒョッコリやって来て、「聞きたいことがあるので大井署まで同行してくれ」ということであった。業界の事件らしいものには、何ら関係ない私であるが、勿論その同行を突っぱねたのであるが、「何がなんでも来てもらう外ない」というので止むなく求められるまま、大井署に同行した。
しかし、腑に落ちない事ばかりで、即刻私は社の顧問弁護士を電話で呼び、警察署長に「何のための取調べなのか」を資してもらった。その質問にはさすがデカ連中も困ったと見えて、そのまま私の帰宅を許した。然しその場の結論がついていないままだったので、大丼署は数日おいて、再び私に出頭を求めてきた。そして同署で刑亊連のいうまま聞いていたところ、何がなんだが質問の要点が解らなかったのに不審を感じて私は激怒して帰った。大井署から帰る道すがら考えてみた。私をして陥いれようとした狙いは、勿論犯罪なるものをデッチあげて困らせようという魂胆であったのであろうことは読めるが、全然事件らしい関係のものがないのに、あったかの如く仕立てたそれ自体が犯罪ではないか、とも思ってみた。
然し大井署の刑事が質問していたときの内容から推測すると、その頃私は時計の密輸事件を追って、神戸税関にまで足を運んでいた。
その当時、事件に関係していたのが東京の新本某であり、安時計を売る為の工作に組み込まれていたようである。そのことで松林某が、私をその自宅に呼んで「新本に対する攻勢を止めてくれないか」といったことがあった。勿論私は、「とんでもない」、と突っぱねたことがあり、これに関しての金銭についてはビター文たりとも関係していないのだが、この時の事を仕組んだ悪戯極まる謀略劇であることが、私の頭をよぎった。それだけに大丼署は全く訳が分からぬままに終わったわけである。
然し、頗る危険な茶番劇を辿って来たことは事実である。そこで大井署の謀略関係は終ったのだと思っていたところ、意外にも大井署が私に関するこの時の聞き取り書なるものを東京地検に送達していることが後日になって判った。それは、その後に至って東京地方検事局から、私宛に出頭通知の令書が届いたのである。それはたしか、その年の秋頃であったと思う。私の取調べに当った係官は、たしか石原検事であったと記憶している。そして私に関する事件の調書として、検事は大井署から送達されてきた書類の内容を読み聞かせた。そのあとで、私の署名がしてあると説明されたので、これはおかしいと思い、その場で検事に反問した。当人の私が署名した覚えのないものをどうして警察署側から聞き取り書として送達されるのか知りたいと。私のこの質問に係の石原検事はちょっとあわてた様子をした。そして聞き取り調書として大井署が作って送検してきた書類を私の眼の前に提出して、これに覚えがないのか、と性急に問うてきた。これに対して私は、大井署における謀略劇なる状況を説明した上で、私が署名したものだという調書なるものと大井警察署の主任刑事が書いた調書の文字が同じであるという事はどういう訳か、とその書頽を指さして質問すると、係の検事は驚いた。そして席を立って電話器を手にして大井署に連絡し、佐藤なる係刑事を尋問したらしい。そしてそのあとで検事曰く。「藤井君、これは司法上の重大汚職事件になるのだから黙過してくれないか」と私に諒解を求めたのである。私はこのとき心中で思った。かかる謀略こそ天下に公表すべき絶好の機会だと、そして告発のチャンスでもあると思い、歯をかみしめてはみたが、相手は福田という悪党であることと、それに福田正風と共に謀略劇に参加した四国出の某なる悪徒の存在を合せ憎んではみたが、一度は私が職籍をおいた関係もあるのと、事の次第が同業者間の泥試合的な内容が外部に明らかになることをはばかる建前の考え方からも、この時の係検事の要請を入れて司法権の擁護という立場の上からも、この特殊事件の法的措置を断念することにしたのである。謀略こそは芽生えるものではない、と私はこのときのことを通じて痛感した。この問、福田側か企らんだ悪計謀略劇の内容は、後日その時の茶番劇に登場した松林丑三氏本人の囗から、「悪かった。許してくれ」と謝罪されたことがあり、明かになった次第である。



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