| 山岡猪之助、今野徳一両氏の労苦は筆舌に尽しがたいものがあった
《昭和三十四年》 全国の時計宝飾販売業者三万軒を呼称する小売団休「全国時計宝飾品連合会(全時連)」は、内容的にはまだ名称が存在していたという程度のもので、まだ実質の伴わない団体であった。 「東京時計小売組合」の理事長だった山岡猪之助氏と神奈川県時連会長の今野徳一氏がそれぞれ全時連会長に就任して業界の黎明期に灯をともしたが、まだその頃は全国統一というには立ち至らずして東北、関東、中部、近畿などのブロックが全時連傘下に名をつらねていたに過ぎない。全国組織づくりの過度期にあたった山岡猪之助氏、今野徳一両氏のこの間の労苦は筆舌に尽しがたいものがあった。 山岡氏が病に倒れたそのあとを受け継いだ今野氏も、また三年たらずの在任中に倒れて終ったなどの経過をみても、当時の時計業界指導者が全時運の育成指導の点で如何に苦心を重ねていたかを察することができよう。このような時期を経て、名実ともに全国連合としての全時連が築かれ始めたのは、現佐川久一会長の代になってからである。 昭和三十四年に就任した佐川会長時代になってから、それまで全時連の傘下に名を連ねていなかった北海道を先ず加入させるのに成功した。そのほかの四国、九州など遠隔地方の団体も全時連という活動母体の重要な時代性を認めて、漸次全国時計小売業者共通の時局問題などに取り組むようになって来たのである。 とくに全時連の事業活動の中心は「物品税の軽減運動」に置かれ、同運動に対する全業者の熱意が盛り上るに平衡して、全国連合としての組織力や結束の度合もまた強まったといえる。 物税軽減運動のほか、時計の需給不均衡による乱廉売問題の「スーパー時計部の進出」、流通革命の名のもとに波紋を呼んだ一部メーカー筋の直販計画など、全国の時計小売業者が共通の立場に立って速やかに対処すべき重要問題が続出した。 それらの問題は、いずれも時計販売業者の生活権の範囲にまで及ぶ課題であり、業界全体の進路を大きく左右する政治問題でもあった。それだけに全国連合の組織力、政治力が必要欠くべからざるものである点を全業者の個々が身をもって認識させられた時代だった。 それというのもこうした時計業界問題と取り組んだ全時連へ、それぞれの問題で一応の処置を打ち出し、何らかの形で成果を得てきた結果である。中でも全時連の金看板である「物品税運動」が予期以上の成果をあげ続け、政府当局が減税方針を打ち出す時期には必ず時計貴金属関係に対する“物品税を手直しする”という慣習まで出来上がっているような形となっていたころは、佐川久一会長を中心とする全時連の活気を一層ひき立たせ、今後一層強化していこうとする熱意の原動力になっていると言っても過言でない。 物品税運動の推進に当っては、貴金属、宝石、真珠など関係業者団体を抱合した全国宝飾品連合会(全宝連)も結成され、全時連はその一単位の団体という形で活動を支援、昭和四十一年度の物品税改正の時には、一率免税点一万五千円(旧制、宝石一万円、貴金属類五千円)を勝ち取った意気盛んな時である。 写真は昭和三十四年、佐川久一全時連会長就任の年に東京会館で開催した全時連大会。 |
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