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売れに売れた金のペコ側にも終焉が来た
劣等品の出現は業界のために不利益なものである

《大正年代》 この頃、私の肝入れで設立した東京都内所在の時計貴金属卸店のセールスマンから成る「東交会」という会が既存していた。その東交会の会員に新本商店のセールスマンの清水君というのがいた。常に高級品を持ち歩いていた清水君の売り先は、銀座の一流店ほか、日本橋、浅草など極少数の一流店しか回っていなかった。
その頃人気だった金ペコ側は、如何に安いからと言って銀座辺りの一流どころへは持っ
て行けず、また注文もされなかった状態であった。しかし、物の流行というものは、勢いを持つもので、その金のペコ側の取扱いが日を追うごとに売れるようになり、銀座方面の一流時計店でも取扱かわざるをえないような破目になってきた。
それが売出してからたった二週間か三週間位が経った頃のことだと記憶している。そうした結果、当の清水君がそれからは連日、このペコ側の時計を専門に取扱うようになった。持ち廻って歩くための手提げカバンの中味はぺコ側だけ。しかも朝九時からの仕事始めの時から一、二時間を経ただけで全部売り切れという好調ぶりを見せていた。それが毎日の連続というのだから、売れに売れたと言わざるを得ない。
こんな状況でペコ側に対する人気は全国的に広がっていった。東京の時計卸業者間でも、次第にこの金のペコ側の供給が行なわれるようになった。ところが、この金のペコ側の出現について一つの問題が台頭して来た。それは、金側時計そのものの商品的価値は、時計の機械を側そのものが保護する役目を持つものであるのに、ペコ側を取り付けた場合、側そのものがペコペコしているために、機械を保護するという役目はおろか、側それ自体が側そのものを完全に保持していくことさえ寧ろ危険であるということが分かった。これら劣等品の出現は業界に不利益なものであり、阻止すべきであるという声が大きくなり始めた。次第にペコ側防止の声がだんだん高まるのに伴って、このぺコ側が安いから売り昜いというのを目安にして扱う店と、店の信用を標榜して高級品以外は取扱わないとする業者とが相対立する傾向を見せることになってきた。時計界の情勢は、ようやくそれらの論議を中心に混とん足る空気を醸しだして来た。

粗悪な金側時計を排撃した時代
日刊紙に十八金製のペコ側金時計の広告を掲載して全国で成功を納める

《大正年代》 もの事について万が一、絶好のチャンスという場に出合ったり、ぶつか
ったりした場合は、それを捕えて生かすことにベストをつくさなければならない。こういう気持は、これから伸びていこうという気概に富んでいる人であれば、誰でも考えていることであろう。その意味では、本紙が大正十五年に創刊してから、それらのチャンスの場にぶつかった場合に十分生かすことが出来た例がある。
大正年代における時計業界は、引続いた不景気風に晒されて来ていたものだ。それに大正十二年の大震災という不測の災禍の場に遭遇したのだから、業者の中には、何らかのチャンス来ればという気概を持って待機の姿勢でいたものが多かったように見受けられた。従って、この頃の時計界の状況は、懐中時計の利用時代から転じて、腕時計を使用する大衆の眼が次第に移りつつあったころだけに、金側に対する品質上の選択の場でも、頗る的に批判が高かったものである。そこへ突如として、十八金製のペコ側が登場してきたのである。
それが安いからというので、これをオトリ商品として他店との競争上の安売の目玉商品として扱われるようになってきたのだのだから困ったものだ。遂にペコ側に対して粗悪品排撃という情勢さえ生かすようになったのである。このようなことは、業界内部の関係として処理しえても、需要家である大衆に向って公然と安売りを始めるということになるので、時計店という看板の手前からでも、どうもやりにくいという場面もあり、逡巡したものであったようだ。このような情勢に合わせて業者側では、進んでペコ側を求めようとしない空気が漂い始めたので、ベコ側の売行きにも影響し、時には品止まりとの場面も出来るように変ったようである。そのような関係で、常日頃から通信販売の策戦に妙味を持っていた日本貴金属時計新聞社の社長福田正風氏のところへ新本氏本人がやってきて話し合った結果、このペコ側をつけた金側の腕時計の「大安売りデー」を展開することにした。場所が新聞社のすぐ前にある日米ビルの軒下空き地二十間程の広さを借りて、これに紅白の帳幕を張りめぐらしての大廉売所を作りあげたのである。時事、毎日、報知等の当時の日刊紙に大々的に広告を打ち出したので、安売りデ―のその日の早朝から、お客が大勢押し寄せ大変な賑わいを呈した。
所が、その場で写した写真を広告を掲載した日刊新聞の紙上ニュースの一種として掲載したことと、この状況を新聞がさらに煽った関係で、この種の廉売は売れに売れたものである。
そこでこのような状況の続くものを見て地元の京橋と日本橋の時計業者は珍しく大いに憤怒した。その結果、植野、秦、大町、石井、森川、川名の地元の組合代表と、日本橋の古川支部長らが打揃って日本貴金属新聞社を訪れ、業者側に与える迫害行為をなじり、即時停止するよう厳重に抗議を申し入れたのである。その上、組合側では、その夜緊急会議を開いて同紙に対する不買決議まで行った情報がもたらされた。
このような業界情勢が現われてきたので、東京市内とその近郊での安売り合戦は、しばらくの問停止せざるを得なくなったたようだ。大正十五年の夏以後は、地方への進出を企画して、郡山、福島。仙台、青森地方を経て、遂には北海道を目がけて廉売団の綴込みを策した情報が入手されたのである。
従って、この方面に対する防御活動は、業界の声援をバックにしたので頗る活発なものと見られるようになった。安売り隊の動きは、大正十九年夏頃から始まっていた。そしてその安売戦法は、その土地の地方新聞に広告を掲載してから、“安い、安い金時計を”
とあおった揚句、お客がその時計を買う姿を写真に写して、これを日刊新聞の社会面に掲載して気勢をあおるという寸法だからたまらない。これがこの頃の素人衆を射落すもっとも効果的の処法であったようである。

本紙はこの廉売に反対、北海道の各支部から集まり緊急会議を招集した
集まった人の顔ぶれは、懐かしい人ばかり

《大正年代》 私か発行していた新聞の趣旨は、「新聞は業界の公器であるから業界を毒するがごとき行為には断固反対の姿勢を執る」という建前をとっていたので、業者側の味方になって、これらの大廉売に対して大反論をすることになった。廉売団のニュースは、既に仙台地方を終っていたので、このあとの進入コースとして函館、室蘭、小樽、札幌、釧路、旭川等の主要都市をねらっているような情報がもたらされた。
それに対処するためということから、私は東北地方の仙台において行なったぺコ側廉売団の暴れ方などの状況を調べながら青森から函館市に渡って先ず、函館の時計界を訪れ、対策第一歩の相談をした。
函館の組合長は金久商店の主人加藤さんであったが、この函館というところは、この頃も組合が二派に分れていて、一つにまとまるということが至難な情勢にあったものだ。やむなく、その次の室蘭に飛んで大賞堂の藤浪さんに話をしたところ、藤浪さんは大いにハツスルしたものだ。寺島、西村の幹部を呼んで、この間の状況報告に基づいて、早速廉売団の防御対策を講ずることになり、土地の新聞社側に急いで連絡して、その場合の防御措置防などについての方法を取った。
そして一段と対策を強化する意味から、全北海道地区の団結を固めてはどうかということに意見が合意したので、早居対策推進本部を作るため、札幌市に出向き緊急会議を召集することにしたのである。
私は一足先に札幌に向い、相良さんを通して梅沢、小阿瀬、吉永、高木氏らの組合幹部と会談した。札幌では、当時中野時計店の職場長であった佐々木源助氏が組合側のタクトをとっていたので佐々木氏の自宅に各地の代表が集まって協議した。然る上で市内の料亭「元東」に於て発起人会を開催する段取りまでに急展開を見たのであるが、この頃の各地区代表の活躍ぶりは実に涙ぐましいばかりであった。この当時、札幌に集まった各地代表の主なる顔ぶれは、次のようなメンバーであったと覚えている。
【札幌】佐々木、高木、小阿瀬、本田、吉永、相原、【小樽】岩永、保坂、【釧路】梶浦、金安、早川、【室蘭】寺島、藤兼、西村、【旭川】星野、大滝、芥川、成沢、【岩見沢】堀、【根室】三浦。

廉売阻止の為に北海道時計商工組合連合会なる団体を創立した
連合会役員が服部時計店を訪れ、国産腕時計の供給を受ける快挙に

《大正年代》 かくて北海道時計商工組合連合会なる名袮のもとで、越えて、翌昭和二年の五月に創立総会を挙行したのである。このような結果、一大廉売団の侵入はその当時、全道の何れにも姿を見せないまま終結したようだった。そのあと形を変え、地方の日刊新聞の事業部という名に変え、新たな方策で八型、十型の腕時計の安売りを始めて来た。
この場合にも、第二次的対策が立てられた。そして、その対策に必要な国産腕時計の仕入れの為に、北海道連合会長の岩永氏と共に、旭川の星野、大滝、札幌の鹿島、釧路の梶浦氏らが上京して、私と協議したことを覚えている。
その結果、一団が服部時計店を訪れて、当時の高島さんの配慮のお陰で腕時計の供給を受けたことがあり、当時、団体配給という建前であったことなど、今でもその当時のことが思いだされる。

前橋市における時計廉売対抗の闘争劇
調停がうまくいき手打ち式が、前橋市の赤城館で行われた

《大正年代》 時計の廉売行為などというものは突飛でもない気分でないとやれないものらしい。つまりバナナの叩き売りのやり方であるからである。金のペコ側をオトリにした廉売はたしか大正十四年の頃のことだと思う。
その頃、東京・上野にあった某時計の肝いりで高橋市の中央地区で突然時計の安売りをやらかすという情報が入り、大変な騒動となったことがある。
当時、それに対処する前橋市の時計業者は宛ら明治時代から残っている上州の脇差姿そのままといういで立ちで騒いでいた。現存する深沢時計店の五郎平さんなどは、その頃の丸山組合長のデチにしたがって文字通り、赤鞘の三尺を小脇に差し込み、スゴイいでたちで安売現場への切込み用意の仕度を整えていた。その時の勇壮な姿など、今でも私の脳裏に彷彿している。
私は情報に接して前橋に急行、安売り現物をのぞいて見た。すると私とは顔見知りである売場担当者の某が主となって懸命に売場つくりに精を出していた。
これは大変な結果になると直感したので、今晩中にでも廉売団側が手を引くように手配するのが肝要だと思い、その足で東京に引返した。
そして野尻、吉田、鶴巻の五日会主脳陣を案内して、事態収侑のため前橋に急行した。ところが、両者間の主張の隔たりが大きく、しかも廉売停止の調停条件に商品の供給断絶の線を厳重に打ち出していたので、それを活用して、この場の調停がうまくいくことになった。この時の手打ち式が、前橋市の赤城館で行われた。その席上には、緊急招集にはせ参じた群馬県時連各地区代表の面々がずらりと顔を揃えており、その席上で私の活躍を讃えてくれたので大いなる面目を施した。
このことをきっかけとして、以来、群馬県時計貴金属組合連合会は、ますます部内の結束を固めている。私は当時から、同連合会のコモンという名誉ある役職を仰せ付けられ光栄に浴している。

六月十日の「時の記念日」と宣伝活動の始めの頃
幾多の難問を乗り切って、成功裏に終わる

《大正十三年》 天智天皇の御代が、六月十日に水時計というものを作り、これを使って時を計ったのが時計というものの始めだということで、爾来、日本ではこの日を「時の記念日」と定めているが、時の記念日の活動を起した最初は、大正九年、当時の内務大臣伊藤博文公が、西欧文化の進運に倣って日本国民の生活改善を計り、進めることにしたのがそもそもの始めである。
そしてこの、生活改善という具体的な進め方のために、時というものの貴重性を社会的にも強調することが必要だということから、その方法を街頭における宣伝活動を以て活用することにしたのである。この街頭宣伝活動についての具体的な進め方は、当時(大正十三年)業界紙の一つであった日本貴金属新聞の大阪支局長になっていた中川という老人がいて、この中川という俗称、ヒゲのおっさんというのが昭和十三年の四月頃、わざわざ上京して来て、福田社長に時の記念日の宣伝活動の実行を進言したものだ。ところが、余り事業そのものが公共的な性質の面が多くて収益性が乏しいと見てとったのか、福田社長自身余り乗り気でないようだった。従って、大正十三年五月に入ってから神田一ツ橋会館に於て、社団法人中央生活改善同盟会主催の「時の記念日事業活動に関する執行方法の打合せ会」が開かれ、その席には、私か代って出席したものである。
会議の席には、吉屋のぶ子女史始め、社会的にも有名な十二、三人か集ってその年の事業執行種目について協議を行なったが、街頭宣伝についての具体化案については私か社に帰ってから相談した上で返事をすることに約束して帰った。かくて社内における相談の結果、六月十日の時の記念日における街頭宣伝事業を敢行することに決めたのである。そしてビラ三十万枚を印刷して東京全市に撒布することにした。但し市内での散布方法については当時、東京地区には服部時計店の社長が頭取(組合長の意吁)をしていた日本橋、京橋地区内の時計業者に神田の一部を含め範囲で、出来ていた俗称、「日京組合」というものの称号の東京時計商工業組合というのがあり、また別に、山の手地区内の業者団体をまとめて設立されていた「山の手八組合連合会」という二つの団体が存在していたのでこの方面への交渉他一切の連絡は私か責任を持つことになった。そこで俗称「日京時計組合側」には、組合のことの一切を代表する立場にあった槙野さん(大勝堂)に先ず話をした。そのあと秦利三郎氏(伊勢伊)と大西五郎平氏(錦綾堂)にも連絡をとって話を進めたところ、別に悪性のものではないのでよろしかろうということになり、組合名の利用の諒承を得ることになった。
次いで山の手連合会側に対する交渉は、当時新宿二丁目にあった紺野時計店を訪問、組合名利用の交渉をしたところ、それはよいことだから当日の宣伝ビラ散布の活動に全支部を動員して協力しようではないかということに話が決まった。その結果、十日当日の撒布ビラは三十万枚ということに内約した。このような話合いの最終的決定をするために紺野連合会長は、副の近藤拾蔵氏(肴町の富士時計店)と会計の鈴木卯八氏(四谷三丁目)を即刻呼んで合議してからこれを決定したのである。
かくて六月十日当日は、生活改善同盟会主催の時の記念日宣伝本部なる小旗を押立て、日本貴金属社を本部とする宣伝ビラの撒布活動はその日の午前八時から私か陣頭に立って活発に全地区を馳けまわり、敢行したが俄然問題が起った。それは約束による数量のチラシが配布されるというので撒布する数量に割当てて、人員の出動を手配してあったのに届けられたピラの数量が余りにも少なく、足りな過ぎるという不満の訴えである。
山の手組合の混合会側の主将、紺野さんは、電話で約束の数量が足りないではないか、早速不足分の配給をするようにと強い催促が電話で送られてきた。本部で合った新聞社側では、社長の福田氏はそれ以上の刷増をしようとはせず、そのままのほおかぶりを決め付けたものだから、組合側の態度が強く、急遽、印刷場に頼み込み午頃までに全部の数量ではなかったが、兎に角一応追加配給を行ったことで事態を沈静の場に持込むことが出来た。京橋方面は森川時計店主(次次氏)が宣伝隊の主将株で、これに八丁堀の川名、銀座一丁目の石井氏ら各時計店主連十数名がズラリ顔をそろえてこの日の宣伝活動のためのビラまきに努めた。かくして、宣伝日当日の夜は、夕刻から料亭で慰労会が開かれることになり、その席に私は特別接待をうけて出席した記憶がある。写真は、大正十四年六月十日当時の「時の記念日」のビラまき光景。

大震災直後に横浜の業者を救援する活動を展開
三日をかけて線路上を歩き、修理用部品と工具の一式を持ち帰った

《大正十二年》 横浜の立正堂時計店若松治之助さんの店にあって横浜時計商組合の書記を努めていた山田さんが、その当時(昭和十三年)私に説明してくれた大震災直後の救援活動状況について次のような光景であったという。
大正十二年九月一日正午近く、突如関東地方の全域が大震災のために壊滅て終った。横浜地方と東京の時計業者は、何れも復興力を失ったと見る外はなかった。仮りに、立ち上がることが出来たとしても時計商としての最初に必要な時計の修理に欠くことの出来ない工具と時計部品の備えがない限り営業することは覚速がない、という状況判断をすることが出来たので、それを補うために主人の若松冶之劭さんは決意を新たにして被災から免かれた名古屋地方への買出しに出かけることにした。もちろん、山田さんその人も若松治之助さんと同行した。然し、災害のために汽車が走っていないので鉄道線路上を歩行する以外に持ちはこぶ方法がなかったので、二人は三日をかけて線路上を歩いたのだという。そして修理用部品と工具の一式ずつそろえたのを背に背負って持帰ったのだ。それをそのまま、弌横浜地区居住の時計組合員に無償で提供したのだというからその義侠心には驚かされた
ようである。この話は若松さんと、買出しに同行した山田さん本人の口から、賞めたたえた状況を聞いたのだ。大正十四年の正月関内の料亭「いろは」で開催した横浜時計商組合の総会でも、この頃の状況を当時伊勢佐木町通りに開業していた石田時計店の主人石田修介氏(副組長)から報告されて、若松さん(組合長)に感謝状を贈ったことがある。それほど震災当時にはいろいろの義侠的美談が生まれ賞讃されたものである。
【注】この話題の中の山田さんが亡父の遺言から拔晝きしたものが前記、明治十三年頃の日本の時計界関東の巻があり、これにより当時の資料が得られたものである。

大正年代の業界と関東大震災前後の状況
「商品興信新聞」時代を通じて入手した情報が大いに役立った

《大正十五年》 これまでに記した業界関係にまつわる古記事というべきものの資料は、大正十五年五月の創刊になる本紙の前身、「商品興信新聞」時代を通じて入手したものであり、この他にも、それらの事実を裏づけるに足る、かつ沢山の資料が湯島天神町時代の本社内に山積みされていたのであったが、過ぐる昭和二十年三月十日の帝都大空襲の災禍のために全てを烏有に帰しめたのは甚だ残念である。従ってこれからは、大正十二年九月一日に起った不測の災禍の関東大震災という突如として急変した当時の時計業界事情を中心にしたものの資料を主に、またその他からの資料を裲っで集録することにする。
大正十二年九月一日に起きた大震災当時の日本の姿について概述すると、大正年代というものは、明冶時代の自然的延長の姿そのままであるという外に格別いうことがないようである。明治時代の間に日清、日露の両役を通じて大きな経済的国力の消耗を来している。それだけにその当時、日英両国間に結んだ同盟条約により大正五年の第一世界大戦の際に独乙に対する戦争をしなければならなくなったのである。この時の戦争で日本は大勝したが、戦争という結果の経済的傷痕はこれから続いたのである。従って、それからの日本国内における国民生活の上には、いろいろと恐慌が襲ってきたのである。それらによる不景気風は、大正九年頃を絶頂時として、以来漸事立直って来たかに見られていた時だったので、大正十二年九月一日、午前十一時五十八分突如として襲った関東地方の大震災は余りにも大きな痛手を与えたことはいうまでもない。震災によって受けた被害の結束は、東京姶め、横浜はもちろん関東地方の全土が破壊されて終った。だが、その復興は予想外に早かった感じがした。
九月一日の被害で右往左往していた市中の焼跡は、三日を迴ぎたころからは立退き先の立札が立ち始めて来ると、そのあと数日するころには、焼跡へ復帰するバラック建の工事が諸々に見え始めた。大工さん達のツチ音が焼跡の諸所に響くようになったその年の十一月には、銀座二丁目に服部時計店の仮営業所が出来た。東北方面のお得意先に便利な吉田時計店は、上野の不忍池の池畔に面した大通りにバラック建の仮営業所を設けて商売を始めることになった。またその翌年の春頃までには、池の端仲町にあった加賀屋商会、広小路の鶴巻時計店、浅草・並木町の見沢万吉商店、浅草橋の今津時計店、日本橋通三丁目の大西時計店など、市内の時計卸商群が続続と軒を並べ、商売をおっ始めかけたので時計界はこのころでも他業界に卒先して明るさを見せるような状況だった。
このころ、バラック建の仮営業所での商況でも、焼けてなくなったお陰というか、目覚時計などが飛ぶように売れたものだ。このためどこの卸商社でも、新入荷即品切れという光景を続けていたので、時計業界の景気は一際上向いた傾向を見せていた。今でもその頃を想い出して、当時の光景を彷彿させるものがある。かくして時計界は、バラック建ながらも、アチコチに建てられ始めた小売店の数の増えるのに伴って復興が緒についた。
そのころ、時計業界を根城にしていた業界紙の種類は次の如き面面であった。
〇名古屋時計商報社(名古屋)(雑誌媒体)=吉田浅一氏、〇日本宝飾時報社 (大阪)(タブロイド版)=岩田喜一氏、〇日本貴金属時計新聞社(東京)(新聞体)=福田正風氏、
畤計タイムス社(東京)(雑誌体)=水上社長。
【注】この外、東京時計卸商報と名称した時計卸組合「五日会卸団体」の月報をその五日会の書記役を勤めていた浅草・花川戸に所在、をし東京履物商報社を経営していた飯田剣山氏という人が担当しており、月刊の綜合月報なるタブロイド判のものを出していた。「藤井さんよく活動しますね」と鶴巻時計店で会ったその際に、当の飯田剣山氏から私にジカに吐かれた言葉など思い出せるのだから、恐らく東京時計商報と名称して時計の業界畑に食い入って来だのは、昭和年代に入ってからの事だと記憶している。だが時計界の空気は、大震災の年の翌年十三年の正月明けは、街頭のバラック建のツチ音と共に活気に満ちて来ていた。
それは、街の復興景気に伴って時計界も時計の売行がよすぎる位に売れていたので、何処もここも好景気に押されて明るい気分が展開されていたからである。そうなって来ると新しい品物の売出広告の掲載の申込みもあるし、店舗新設の案内広告の申込みもあるといった具合に、新聞の利用度も漸次高まっていった。
私は大正十二年の大震災の年の暮から、日本貴金属時計新聞社に入籍していたので大正十三年の春からは外務畑を飛び歩くようになっていた。この当時の同僚社員はというと、先輩に桜井潤一氏がただ一人という状態であったのだから、桜井君の社の内外におけるその頃の勢力は大したものだった。屋内社員では、高橋(緇集)、寺尾一十(発行名儀人)、集金係の大竹老というところへ私か飛び込んでいった。だから働く余地は十分にあったわけである。
ところが私の歩きまわったのは、他の社員活動の範囲を侵すことにならない、新規スポンサー開拓という面が多かった。それだけに横浜のようにスポンサーになってくれる面の少ないところは専門的領分として分けて貰うことになっだので、この方面の業界事情には案外精通するようになっていった。この当時、横浜には時計組合という既存の歴史を持つものとしては、日本最己のものがあり、その頃の組合長だった若松時計店の御主人の若松洽之助さんは、あらゆる人に対してとても親切に世話をしてくれたものである。その若松さんの店に山田某という時計組合の事務的な面倒を見ていた書記役の人がその店に起居していたので、横浜にある外人居留地街のことなどについて、古い時代からの話などよくしてくれたので新聞の資料集めのためには大いに役立ったものである。

明治二十三年九月に創立された「東京時計商工業組合」経過あらまし
初代組合の頭取は八官町の小林伝次郎氏

《明冶十年》 日本において時計商組合を設立した最初は前述してある如く、明冶十年に、横浜の居留地に出入していた時計商業人をして時計組合を作らしめたのがそもそもの始祖であることがわかった。東京時計商組合は、このころから毎月定期に開催していた「開時会」なる物品交換会の中の有志連の推挙によって、明治二十三年九月に創立されている。初代組合の頭取は、八官町の小林伝次郎氏で、同店支配人の川村義一氏が組合長の代理として一切の相談の役に立っていた(川村氏在命中の話)。その後の二代目組合長は、新居氏に移り氏の歿後、三代目には、服部金太郎氏が選ばれている(明治三十五年頃)。雨後、約二十年間にわたり服部頭取時代が続いたのだが、大正十二年の関東大震災後は、実質上は副頭取の大勝堂主の槙野辰蔵氏が一切の衝に当っていた。確か、大正十三年六月十日の時の記念日の街頭宣伝のことで組合名を使用することの関係で了解を求めにいった際も、この間の組合事情について、槙野さんが自身の口から漏らしていたことでも明らかである。この頃の東京地区の組合情況は、服部頭取を主体にして、東京時計商組合は、日本橋、京橋の業者に神田の一部を含めた範囲の約百名そこそこのものであり、山の手八地区を含めて別途に設立していた「山の手八組合」(紺野九明治郎組合長)は、四百名を突破する新興勢力の二分野に分れていた。
このような空気の中で、大正十四年、業界全般の希望と相反する立場になった関税問題の台頭した時期を機に、服部さんは組合長の役を固辞した。だが然し、このあとも次代を負う新たな頭取も出なく、引続いていて大正十二年の大震災が起き、その後の諸般処理が必要の場に迫られる度合の多くなるに従って各方面から大同団結の声が台頭しだした。
そして大正十四年、遂に合同総会を日比谷の松本楼で開催することになったのである。この間、組合最初の創立当時から、約三十年という期間を経過しているが、合同した時の名称は、「東京時計商工業組合」と決め、この時の初代組合長は、神田の吉川仙太郎(旧市会議員)、副組合長に松野辰蔵の氏がそれぞれ就任している。
そのあと昭和二年の総会で、庶民派代表呼ばれた銀座の平野氏が組合長に選ばれることになり、広瀬、荒木の副組会長を並べて主脳陣を固めた。この時すでに同業組合への昇格が目指されていた。かくして、平野組合長時代に同業組合の正式認可を得てから、同氏は昭和五年の暮れ、押しつまって病に倒れ他界した。そのあとは、野村菊次郎氏の組合長時代が出現し、戦時中の諸般に携わったというのが組合経過の概要である。

明治四十年当時の東京時計商工業組合員名鑑
大勢の懐かしい顔ぶれが

【日本橋区】=岡野事二、松田啓太郎、福井政吉、江川親松、村松合資会社、岩戸商店、山田東京山張所、鈴木銀次郎、清水商店、大島時計店、宮本庄七、高木新次郎、高木大次郎、松田亀七、田中栄次郎、横川直蔵、青山捨次郎、西村時計店、高木六三郎、金田市兵衛、高野周吉、館林恒太郎、大場菊次郎、山本時計店、秋谷時計店、久保田商店、関岡由兵衛、岩下清、清水鎗次郎、大沼時計店、古川時計店、小島時計店、中村時蔵、福田藤吉、 佐藤利三郎、小林善兵衛、小林源次郎、池田忠兵衛、小沢金平、中島長太郎、守福蔵、玉屋時計店、久我伝三郎、別所平七、森川時計店、大沼定次郎、川合四郎作、森村時計店、吉岡伊三郎、辻九兵衛、山浦干伊、岸上由超、金子時計店、堀田時計店、山本時計店、鳥海時計店、丸岡時計店、金鳳堂、三直時計店、村井時計店、小森時計店、深井時計店、林芳太郎、見沢万吉、小菅喜太郎、中田吉之助、岩崎宗吉、草深与五郎、栗田房二、朝日商店、吉沢喜代蔵、稲垣繁次郎、坪田時計店、吉原時計店、入江時計店、中川時計店、町田松五郎、中川時計店、佐々木時計店、佐野金太郎、明冶堂時計店、井田竜火、和泉田佑太郎、田中義一、大隅時計店、渥美時計店、中川米吉、沢杉鎬次郎、永田時計店、鈴木時計店、冲田時計店、倉田時計店、寺島時計店、坂本時計店、棚橋時計店、新井時計店、伊勢本亀太郎、中村時計店、大松時計店、坂田時計店、小西時計店、河合時計店、進藤時計店、山田時計店、鈴木時計店、島岡春吉、茅野静吉、【京橋区】=石川米太郎、美術工芸品梶A服部金太郎、伊勢伊時計店、新井常七、長栄堂時計店、三光堂本店、竹内治右衛門、秦猪之助、玉屋商店、清水惣太郎、京屋時計店、瑞穂商会、伊勢惣時計店、江沢金五郎、大西錦綾堂、槙野辰蔵、青木時計店、栗山藤吉、戸叶時計店、佐久間時計店、宇都木時計店、浅井喜三郎、エークラウス商会、野尻雄三、梅本文冶郎、大塚時計店、金子直吉、吉川作太郎、小林伝次郎、平野峰三、高木時計店、和田時計店、小西光沢堂東京支店、川名時計店、江水時計店、上田時計店、遠山喜三郎、森川真次郎、鈴木セイ、小山時計店、奈須時計店、小浪時計店、小泉時計店、伊藤時計店、石井時計店、森田時計店、【下谷区】=奥野福太郎、横田時計店、村松時計店、松本時計店、石栗時計店、手塚時計店、奥野佐吉、松本時計店、吉田庄五郎、鈴木茂八、南条時計店、会田時計店、横井時計店、野村清太郎、飯塚伊兵術、小山時計店、岡部時計店、田中亀吉、水島利助、横田時計店、川井久吉、山内時計店、伊藤時計店、富山治郎、岸福太郎、三田時計店、大橋時計店、満岡時計店、長谷川時計店、橋本時計店、小林清五郎、【深川区】=五十嵐房言、楠山仁兵衛、高橋時計店、御正信友、小川時計店、上岡時計店、安西時計店、杉田時計店、平沢時計店、茂野時計店、小林時計店、南雲時計店、高橋時計店、【麹町区】=松山時計店、山本久太郎、玉井時計店、小林時計店、西山忠三郎、島田善孝、河野時計店、小杉時計店、佐藤六太郎、小林時計店、鈴木畤計店、岡野時計店、中江時計店、松本常次郎、足立次郎吉、伊藤佐太郎、金子時計店、吉川仙太郎、新島清、戸田時計店、中山幸三郎、小川時計店、鈴木藤兵衛、松浦玉圃、早川時計店、井上時計店、伊勢藤時計店、京屋時計店、田畑鶴吉、中村金次郎、清水孝太郎、須田時計店、梅本文次郎、金光堂時計店、佐野竹次郎、鈴木卯吉、殿上時計店、滝野時計店、天賞堂支店、山崎孝之助、平山時計店、神谷針之助、桜井時計店、長尾時計店、佐佐木時計店、小川時計店、元木時計店、福吉時計店、中田時計店、荒船時計店、菊岡時計店、八森時計店、大久保時計店、中村善吉、堀井時計店、井上時計店、谷藤時計店、宇都木時計店、高橋時計店、【芝区】=グロウス商会、雨宮時計店、長栄堂分店、岡本菊三郎、永井鉄次郎吉村仙之助、寺内時計店、吉田時計店、井上時計店、村田時計店、水谷時計店、渡辺時計店、中村兼太郎、小林時計店、村田与吉、遠藤兼吉、網中啓次郎、酒本千代助、山本清七、高木時計店、吉川時計店、木村時計店、吉野時計店、三五堂時計店、新井時計店、中根時計店、清水時計店、竹本時計店、中川時計店、亀谷時計店、【本所区】=宇田川清吉、谷口時計店、西沢時計店、前川寅次、亀田平次郎、中村房吉、精工合、齊藤時計店、中根時計店、福地時計店、中里時計店、山本時計店、尾崎時計店、宝玉堂時計店、小峰時計店、関戸時計店、松田時計店、稲村時計店、野田時計店、伊藤時計店、【本郷区】=中山直正、竹内元次郎、伊藤幸作、大滝亀太郎、奥田時計店、小川八百蔵、小西富之助、笹間翁、小河原時計店、牧野時計店、佐藤時計店、中岡時計店、齊藤時計店、新島時計店、関屋時計店、楢谷時計店、澄川時計店、梶川時計店、黒巣時計店、大野時計店、大野時計店、川崎時計店、松下時計店、【小石川区】=中島春太郎、通山時計店、伴市五郎、桜井時計店、岩井健蔵、高野時計店、宮原時計店、大沢時計店、野秋時計店、花沢時計店、貴栄堂、小西時計店、鈴木時計店、野呂瀬時計店、中井時計店、竹田時計店、井上時計店【麻布区】=、田島伊助、村松時計材料店、野口サト、須籐時計店、石川時計店、佐藤時計店、柴田時計店、三汳時計店、中谷時計店、高橋時計店、堀田支店、堀田本店、島田時計店、【四谷区】=原田松次郎、中村積善、山田時計店、吉田屋時計店、田中時計店、原時計店、小山時計店、岩上時計店、原達時計店、高野時計店、住田時計店、合原時計店、福田時計店、【赤坂区】=中田米松、秋元吉次郎、松井定次郎、小林久次郎、横田時計店、千野時計店、伊藤時計店、伊藤時計店、佐藤時計店、山田時計店、鈴木時計店、神田時計店、【牛込区】=大川兵四郎、国可時計店、飯岡時計店、金子時計店、桜井鎌三郎、清水淳、小浜寅之充、丸山時計店、二六堂時計店、菊岡福次郎、藤田時計店、大塚時計店、本多時計店、米持時計店、佐藤時計店、白倉時計店、内山時計店、井上丑五郎、千葉豊、加藤正之、中村直一、木島安五郎、井田冶平、中島万吉、細川健冶、樋口平魔、植村時計店、吉沢春太郎、布目安太郎、紺野九明治郎、藤武時計店、今井時計店、加藤寅之助、吉永時計店、小峰時計店、桑田時計店。



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