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時計の創始時代
二千六百年前、即ち西暦紀元前七百年の頃エジプトで発明された日時計が発祥とされている

時計の発祥は、今を遡ること二千六百年前、即ち西暦紀元前七百年の頃エジプトで発明された日時計が発祥とされている。
爾来、幾星霜を経て、西暦九世紀の半ば頃、イタリヤのハシフック僧正が始めて歯車を利用して時計を作ったのが、機械式時計の端緒を開いたものである。以来、次第に時計の開発技術が進歩して、十六世紀、今より四百年程前に懐中時計が世に公にされて以来、進展して今日の如き実用化時代に至ったものであると伝えられている。
我国では、人皇三十八代目の天智天皇の御代、紀元一千三百二十一年六月十日に水時計が製作されたのがその始まりで、機械式の時計が輸入されたのは、室町時代の末期か徳川時代の初期であった。
その頃の懐中時計は、鍵巻きで、主として高貴のお方以外の一般には知られて居らず、明治十三、四年の頃から竜頭巻に改良されたのが古代歴史の概要である。
【註】時計国と自称するスィスの時計産業の経路について調べてみると、十六世紀のころ、ヨーロッパ全土に起った宗教革命の時代に、フランス革命がイギリスに伝わったことから農業国のスイスにもこれに伴なって産業革命が及んでいる。
雪に閉される時期の生活を助けるために金属用家内工業に慣らされているスイスでは、それ以後時計作りの手細工に転換することになったもののようであるが、その起源は、ロックル生れのスイス人ダニエルという人が渡米したとき、歯車によりボンボン時計を作る機械を買って持ち帰った時から、以来、スイスの時計作りが始まっているという。しかし、その最初は、叩き鍛冶屋の方式により掛時計を作ったものであると博物館側では説明している。
ドイツのシュワンベルグの博物館、スイス国、ロックルにある時計の博物館でも同様にその由来を説明していた。

明治初期の時計業と時計組合発祥の由来
明治十年に横浜港の戸長が「時計組合を作れ」という命令で作ったのが時計組合の初め

《明治三年》 日本における時計業者としての存在経路については享保二年に創生したという江戸時代の東京、八官町の小林時計店の始祖、小林伝次郎氏がそれであることは、いろいろの記録上からも認められる。何時、如何なる経路によって形作られて来たものなのか、という点の資料はこれまで得難いとされていた。それが最近に至って、奇しくも発見する機会を得たのである。
それは、明治三年以降、横浜港にある太田町四丁目に開業していた立正堂時計店主の若松冶助氏に従事していた池内某が明治十年に横浜港の戸長、島田豊寛という人から当時、「時計組合を作れ」という命を受けて設立したのが日本における時計組合というものの初めであると、池内氏の亡父の遺書の中に記録されている。池内某が取引関係の故亊記に綴られていたものによると、明治初期の横浜居留地の商館時代の取引業者の情景は次のようなものである。

明治元年頃の有名な貿易商館は
鉄砲、ピストル、時計、宝石類を扱っていた

●横浜居留地:海岸通り一番館:生糸、茶、英国製時計類の扱い:代表者:英国人・ショーネン氏
●横浜居留地:太田町通り居留地一七五番:鉄砲、ピストル、時計、宝石、高級諸機械:フランス人、ファーブル氏
●横浜居留地:海岸通り居留地十番館:時計、宝石、材料、高級品:フランス人・ジノコロン氏
●横浜居留地:海岸通り居留地十番館:高級懐中時計:ドイツ人、レーツ氏
●横浜居留地:海岸通り居留地十番館:ワーゲン商会、時計類と材料その他
●横浜居留地:海岸通り居留地十番館:ジャツコ商会、時計類と材料その他
●横浜居留地:海岸通り居留地二十四番館:ヴルウル商会、時計類と材料その他
●横浜居留地:海岸通り居留地二十九番館:ハーレンス商会、時計類と材料その他
●横浜居留地:海岸通り居留地二十九番館:アイザック商会、時計類と材料その他
●横浜居留地:海岸通り居留地八十九番館:ウォルサム代理店、赤松孫一出張所所長
●横浜居留地:海岸通り居留地二十八番館:米国貿易商館、キーストン、エルジン代理店

明治元年頃の横浜居留地の素描
盗難品を追う警察関係から団体なるものを作るよう司直の方から指示があったらしい

《明治元年頃》 下田港のお吉の話しではないが、日本の港が外国人に開港するようになってからの国内での取引(貿易)は、急進展を見たようである。それを裏づけるものに、前記のような横浜港の居留地には早くも外国商館が立並んでいたのである。その数、十余軒に及んで居り、これらの商館を通じて時計、宝石等の商品取引が活発化されたていたようだ。
懐中時計の輸入物もカギ巻時代から転じ、竜頭巻式のものに改められているなどの経路が示されている事実についても、このころの業界情況がのぞかれるというものである。
明冶初期時代の時計商というものは、その取り扱い品が時計そのものばかりではなく、取引商館が取扱っていて、特にこれは面白いという向のものは、誰かれなしに、それを仕入れていたものである。従って、時計、袋物、小問物の業者は、皆同じ経路を辿っていたものだと見いいだろう。それを証明する例をいえば、宝石を取扱う業者の中には、袋物の取扱業者が現在でもなお引続いているなどは明治時代からの流れをそのまま取継いでいるものである。
そうこうしている中に、時計に対する需要が日を追うごとに多くなって来たことから、当時盗難品などの行方を追う警察方面の関係もあってか、業者数の多いものから組合なるものを作るよう司直の方から指示さていたようだ。
そのような経路は、当時の横浜港の区長である島田豊寛という人が(故島田三郎氏の養父)横浜居留地の太田町四丁目において時計卸商として営業していた若松治助氏を直接呼んで、時計商組合の設立を奨めたものである。

交換市場の開設
「弘時会」や「開時会」の二つがあった

《明治初期》 かくして時計組合というものが出来てからは、毎月二回の時計の交換市暘が開かれることになった。その一つは、「弘時会」といって、日本橋西仲通りの事務所で開市した。
この外に「開時会」というのがあり、これはその都度貸席の亀尾で開くことになっており、神田明神境内の「開花」という貸席で催していた「開花の市」なるものがあった。
但しこのころから商業人の種類には、市場取引を通じて売買するものと、また別に、横浜の商館畑からの仕入品だけに限った売買取引を常としていたものに分れていたようである。
次に故池内の遺書から転記した若松治之助によるその写しを記載し、明治初期時代の業界状況を知る一片の資料に供しょう。

明治初期時代の業者の活動と若かりし頃の服部金太郎翁の活躍
故池内氏の遺書の中から

《明冶十八年》 私は兄(父の亊)の店に見習奉公し、横浜では、兄は時計商の率先者(指導者の意?)と申しても宣敷、諸商館と取引致し卸売又は小売もしていた。その頃は、夜はランプを使用しており、明冶十八年には汽車が始めて開通した時代だ。それまで吉田橋(可ねの橋)際に高島屋と申す馬車屋が出来ており、横浜と神奈川との間を往復せるもの。このころ関内の太町一丁目角に町会所と申す役所が出来て、連瓦石を使用した西洋風の建物にて始めて瓦がついた。此建物の廻りには、角桐の瓦斯を日曜祭日に点ざいしたので見物人が集りたり。当時の区長は、島田豊寛氏(島田三郎の養父)で、戸長は小野光日京氏なり。明治九年より十年にわたり、当時の陸軍大将であった西郷降盛が征韓論を唱え議論が噛み合わず、ために鹿児島に退き兵をあげたが、昭和十年九月、城山に於て遂に戦没す。
此の時、東京の警視庁にて巡査をつのり(徴募巡査という)横浜市より乗船して戦地へ向け出発した。それについての時計が必需品となり、東京で買えぬ時は横浜で買い取る事にしていたので、諸多の人は宿屋に押かけたものだ。
私は十三才の時だったので時計と附属品をカバンに入れて宿屋へ商売に出かけていった。売れて売れて品物が間に合わないほどで、一個残らず売って帰店したところ御馳走ということになり、実に面白かった。此の時は横浜での時計商況は、どこの時計商館も売切れと相成り、仲間中をあさりまわって買取り、当時は懐中時計にて竜頭巻はなく鍵時計ばかりなり。銀側片硝子十六、十七型にて卸し売り値段、一個十五円内外の上物機械流金中彫アンクルしたほど、その値段は二十円より参拾円位まで。付属品は主に銀鎖、磁石、銀のカギ付合せ金、普通物では三十円、上物で四、五十円位あり、割合に高価なる物が売行旺盛となったので、兄は太田町四丁目にて袋物商の小売を南仲適り三丁目、その頃の取引所近所で時計卸部を開店した。
此仲通りに銀貨ドル相場取引所が出来、仲間店が多く、毎日ロンドン相場が立ち、外国商館との取引者は支払う物故自然思惑売買を致し、そのために料理屋、待合などは何れの町も大繁盛となり、そんなことから兄は東京・日本橋の横山町三丁目へ支店を開設した。卸部だったので、地方からの客が多く、私はその支店の支配人として毋と共に同町に転勤することになった。ここは問屋町なるため、夕刻には何れの店も閉鎖致し、店員は風呂に行き、小僧達は手習いなどを致させてから午後の十時には寝床につかせたものだ。夜遅くは閉鎖後のお客は来ないため、寝床について居るのが通常だった。
ある夜の十時過ぎに表戸をトントンたたく音がしたので私が目覚めて戸を開けて見れば、そのお客はなんと服部金太郎翁であった。同氏は、其当時は京橋采女町に店を持ち、未だ小資本だったために毎日仲間を廻り歩いて売買していたので、少しでも資金が集まれば、直に私の店に来て、成るべく見切品を見つけては買取り、十二時過ぎになると自分で両国で客待している人力車を連れて荷物と共に自分も乗り、采女町へ帰店するのだった。店の直前にそば屋があり、此の店が夜分おそくまで営業しているので、この店で腹ごしらいをして帰店してから帳合せを済ませて寝に付くと云う勉強ぶりである。
此の十一時過ぎにトントン叩く音のするのは四、五日間も続き、激しい時は毎晩と申しても宜敷く、私は雇人が起きないので必ず自分が応対する事にしていた。品物の仕入は横浜の本店よりは掛時計で、支店よりは現金で値切りながら仕入れる式。見切り時計を買い取って、東京の小売仲間をかけ廻ることに兄も感心していた。
この頃の服部さんは、まだ商館館との直接取引が出来るようになっていなかったので大喜びで、ますます商売に励まれていたようだった。当時の服部金太郎翁は三十九歳。私の父も三十九歳、勝之助が二十二歳であった。
ところが明治十八年にいたり、アメリカのドル相場に大変動が起きて、ドル相場一円二十銭のものが一挙に二円まで値上がってしまった。この時たまたま全国的に悪疫病が流行したので、この結果到るところに貸倒れが続出することになり、そのため兄も諸所の商館に支払う額が倍近くにもふくれ上ってしまい融資につかえることになった。兄は元来が潔癖な人柄であったところから、本・支店を剛鎖してまで債務の決済につとめることにした。そのため商売は脱落する憂目を見ることになった。兄は妻子と妻の母を佯い、また私も実母と共にまず横浜へ立戻ることにした。そして古物商を営み、兄の手助けをすることに決めた。それについての善後策を協議した結果、これまで折角培って来たところの全国のお得意先全部を取まとめて服部金太郎
氏にゆづることに決めたのである。そんなことから当時服部時計店の支配人だった松田啓次郎氏は明けて昭和十九年に服部時計店に入店した。そんな事情から服部さんの商勢は伸びて、店舗を銀座四丁目の中部に移耘することにし、業務の拡張を計った関係で、その後は一流商館とも直取引が出来るようになり、兄ともども喜びあったものである。
この当時幸いのことに横浜にあったワーゲン商会の主人公は兄を非常に信用してくれていたので、月二回にわたり、入荷する武者印の懐中時計を全部、兄に委託してくれることが決まったのである。この武者印時計は、当時の時計店にはなくてはならない存在として大切にされていたものである。
大阪、神戸方面のお得意先などは、武者時計を仕入れるために、わざわざ神戸からの船便を利用して横浜港まで先を争って仕入れにやって来たほどである。
それだけに服部さんもこの頃、この時計を多量に仕入れられていた。これで兄も一息つけることになったので、私も東京市中の得意先廻りをして中に、明治二十三年に松田啓太郎氏が独立する心組みを持っていたのでそれに代って私が服部さんの希望を入れて、明治二十三年四月に入店することになったものである。その服部さんは、翌二十四年には本所石原町に小規模な掛時計の製造所を建設し、わずか三十名そこそこの使用人により操業することになったのであるが、あとの進展から遂に世界に財たらしめる今日の大精工舎を建設するに到った。その間の努力に対して最大の敬意を表したい。
(註)この遺書の写しは、当の若松治之助氏が健在な昭和三十五年の頃、私の指定を訪れて、自分の持つ古い業界事情についてまとめたものを提供して、後日何らかの役に立つであろうからと被見させてもらった時写し取っておいたものである。若松さんからは、他にもいろいろ詳しい当時の事情を聴きとっている。写真は服部金太郎翁が勅選議員だった頃の雄姿である。

明治初期時代の時計商組合員(昭和三年以降)
時計の小売業が大半で、メーカー卸のメンバーが

《明治初期》【横浜】若松治助(時計商)、小島房太郎(時計商)、金森桝吉(タバン)、小笠原文五郎(時計商)、河北直次郎(懐中時計商)、渡辺謙次郎(仲卸)、伊勢梅(タバン)、【東京】小林伝次郎(時計商)、京屋伊和造(時計商)、宮田藤左ヱ門(時計商)、金田市兵衛(時計商)、高野周吉(時計商)、高木大次郎(時計卸商)、関岡由兵衛(時計卸商)、玉屋菊次郎(時計卸商)、大野徳三郎(時計卸商)、金田友七(時計卸商)、村井友七(時計商)、小笠原近友(時計商)、伊勢半(時計商)、近常商店(時計材料)、竹内治右エ門(時計商)、京屋支店(時計卸商)、小林支店(時計卸商)、吉沢又右衛門(時計商)、田中仁吉(時計商)、若松支店(時計卸商)、天賞堂(江沢金五郎(時計卸商)、服部時計店(時計卸商)、伊勢惣(時計商)、熊谷惣太郎(時計商)、有賀利助(時計商)、松浦玉甫(時計商)、松田啓太郎(時計商)、橋都万吉(時計商)、精工舎(時計製造)、東京モリ時計工場(時計製造)、中江幾次郎(時計商)、吉川時計店(時計商)、吉田庄五郎(時計商)、直江房吉(時計商)、中村芳方(時計商)、島村寛叶(時計商)、島村助治(時計商)、米川工治郎(時計商)、福田藤吉(時計商)、亀田平次郎(時計商)、梅屋(時計商)、鈴木源治郎(時計商)、亀田平吉(時計商)、中山直正(時計商)。

前述したようにこの当時は、時計を取扱う専門業者というものが少なかったので、時計類を取扱う範囲の時計、袋物、小間物の三業者を集めて明冶十年に時計組合を作ったのがそもそもの始めである。
組合設立の最初は、三十五、六名位だと記しているが、故人である池内氏の控え帳に記されているメンバーは五十一名に増えているのを見れば、その後に増えたものを含めたメンバーではないかとの想像が出来る。
【註】池内さんは、この当時から時計組合の事務的処理に当っておられ、故人の遺書により明治時代の情況を説明してくれたその人で、立正堂の若松時計店に在って大正十二年の関東大震災当時は、当主若松冶之助氏と共に関西巡回から、修理品の工具材料を鉄道を使ったり、徒歩で持ち帰り、これらを多方面の時計業者に提供した一人である。従ってこの当時も、なお横浜時計商組合の復興に精出して努めていた事実を私は熟知している。

日本時計工業の始めの頃
明冶十年に名古屋の林時計店、明治二十二年に「大阪時計製造会社」

《明治八年》 日本において時計の製造を始めた頃の経路は、横浜の時計商館の手を経て外国製の時計が輸入され始めてからのことはいろいろな文献にも示されている。
明治八年、東京・麻布に水車を使って時計の製造を始めた「金元時計製作所」というのが、時計を企業家した最初であると伝えられている(金石時計商編)。その後、これを模倣したものがもう一軒出来たが、これも共共失敗に帰している。
次いで明冶十年、名古屋の林時計店(林市兵ヱ氏)が生れており、これに続いて大阪に石原系の「大阪時計製造会社」が、明治二十二年に出現している。これが本邦の時計工業としての草創時代であろう。
このあと、明治二十五年に今の精工舎を生んだ服部金太郎翁が、隆隆心苦して東京・本所の石原町に掛時計工場を造って発足したのが偉大な日本の時計工業史発達の初歩である。

それ以後、下記の時計を製造した経営者の名があげられる。
▽明治十八年:岡崎(水谷駒次郎)、
▽明治二十年:名古屋時盛舎(林市兵衛)、
▽明治二十二年:大阪時計製造株式会社、姫路(播陽時計会社)、
▽明治二十四年:京都時計製造会社(大沢善助、後の大沢商会)、
▽明治二十五年:名古屋・水野時計製作所(現在の愛知時計株式会社の前身)、大阪・渋谷時計製作所、東京・精工舎(服部金太郎)、
▽明治二十六年:名古屋・名古屋時計製造合資会社、遐欠員会社、名古屋・山田鉄次郎、大阪・江久保時計製造所。

時計、袋物、小間物の三業者を集めて明治十年に時計組合を作った
池内氏の控え帳に記されているメンバーは五十一名に

《明治十年》 前述したようにこの当時は、時計を取扱う専門業者というものが少なかったので、時計類を取扱う範囲の時計、袋物、小間物の三業者を集めて明治十年に時計組合を作ったのがそもそもの始めであるようだ。
組合設立の最初は三十五、六名位だと記しているが、故人の池内氏の控え帳に記されているメンバーは五十一名に増えているのを見ればその後に増えたものを含めたメンバーではないかとの想像が出来る。
「註」池内さんはこの当時から時計組合の事務処理に当っておられ、故人の遺書により明治時代の情況を説明してくれたその人で、立正堂若松時計店に在って、大正十二年の関東大震災当時は、当主若松治之助氏と共に関西方面から修理品の工具材料を鉄道や徒歩で持ち帰り、これを多方面の時計業者に提供したひとりである。
従ってこの当時もなお、「横浜時計商組合」の復興に精を出して努めていた事実を私は熟知している。

東京時計小売組合史とその経路
明治十年、横浜港時計商を営んでいた若松冶助氏らが作ったのが始まり
 
《明治十年》 日本において時計が使用されたのはその昔で、歴史は古く発祥経路など詳らかになったものはないが、時計組合という団体が生まれたのは明治十年、横浜港の当時の戸長島豊田豊寛という人の指令より、当時横浜港管内の吉田町で時計商を営んでいた若松冶助氏らが同業者と語らいながら「時計組合」なるものを作ったのがそもそもの始まりらしい。
その事実経過は分かっているが、その後の時計組合という筋書きはどんな経路をたどったのであろうか。この機会に記しておく必要があろう。
明治十年当時、時計組合を作った頃の横浜居留地街には、時計商館では本邦における草分け的存在のハーブランド商会を始め、多くの商館群が存在していた。
そこから時計類を仕入れる時計扱い業者という人たちが三十余名いたようである。若松冶助さんは、その商館に出入りしていた人で、商館で仕入れたものを分け合って商う人などの取扱業者で組合を作ったのが始まりのようである。
その頃の同業者間では、これらの商品取引機関として「開時会」なる名称の商品交換会を毎月定例で開催していた。この組織こそ時計などの商品取引場所の最初であったような気がする。
取引機関である「開時会」が、いうなれば時計の組合としての発祥になるものではないだろうか。当時は、この外に「弘時会」なる名称の交換会も出来ていたという記録があ
る。その開時会の席上で、「横浜で時計組合が出来たのだから、東京でも時計組合を作っては」と提案するものがいたそうだ。



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