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ダイヤモンドの十割課税の撤廃運動
業界で撤廃を目指して業界運動を起こそうという機運が高まってきた

《昭和十一年》 この頃、貴金属品業界の景気は時計界とは不可分の関係にあるので、余り良かったと言える時代ではなかった。だから技術面での向上、デザイン面での改良という所に力を入れて少しでも業界事情を良くしていこうと全体で努力を重ねていた。業者が常に狙いとしてのポイントにダイヤモンドの動き具合があった。しかし、ダイヤモンドについての動き具合は、依然として鈍いという観点から、その理由がダイヤモンドに掛けられている十割という重税が掛けられていることとなった。そこで、昭和十一年になってダイヤモンドに対する十割という課税は論争が始まった。
この悪税であるダイヤモンドに十割課税を何としてでも止めさせるべく、業界で撤廃を目指して業界運動を起こそうという機運が高まってきた。
このダイヤモンドに対する十割という悪税は、大正十一年、浜口内閣総理大臣が不景気のために緊急財政策として打ち出された産物であり、以来そのままになっているものである。ところが満州事件が起きたりして世情が変化しているのに、貴金属業界では十年一日の如く変化しないという所に不満が台頭してきた。
またこの間、ダイヤモンドに関する国際的な密輸事件があったりして世間を騒がしていた。それだけにこのダイヤモンド撤廃運動は、元衆議院議員であった山崎亀吉氏に依頼する程度ではなかった。この頃山崎さんは、銀座の山崎商店を手放し日本橋の馬喰町の角のビルに移っていた。
この運動の為に、二百万円もの大金を集めていたこの撤廃運動の推進本部となっていた原清、三輪、水渓、沢本氏らの業者が何とかメドをつけなければならない時期に来ているとして策を講じるために集まっていた。
ある日の夕方、私の事務所に三輪豊照氏から「知恵を借りたい」という電話がかかり、指定の宿に出かけて行った。すると沢本平四郎さんの常宿となっているこの孔雀荘に三輪さんと沢本さんが待っていた。そこへ隣に住んでいる原清さんが加わり、四人で撤廃運動について話を始めた。
三輪さんが、「君も聞いている通り、ダイヤモンドの十割課税の撤廃運動の件で東京に陳情を進めているが、山崎君ではラチがあかなくて困っている。運動資金も集めてしまったし、運動が挫折したら我々が責任を問われかねない。何とかいい考えはない物だろうか」と頼まれた。
三輪さんは、私が昭和八年、当時の衆議院議員であった三木武夫を我が社の特派員としてアメリカに送ったことを知ってか、その伝手で何とかならないだろうかと思ったらしい。当時の私は、「輸出金属雑貨工業組合」の推進を図っていた頃で、かなり忙しかったが、この三人に頼まれたのでは断るわけにはいかなかった。またこれが業界の為になるならと思い、協力することに決めた。

私が説明した通りに石渡局長が本議会で説明して可決した
ダイヤモンドの十割課税は悪税であり、犯罪予防の意味からも撤廃すべき

《昭和十一年》 私は、孔雀荘で三人から頼まれたダイヤの十割撤廃運動について協力するとの腹が決まったので猛然と奮起することにした。新聞の編集も伴ってのことであるから一際いそがしいことになる。そこで、このような政治問題についての推進は、三木武夫君では代議士になりたてのホヤホヤだからどうにもならないという観点から、明大のクラスメート連中の五、六人の声をかけて歓談した。
ところがその中に、九州出身の某氏の口から、「上塚司先生」の名が出てきた。上塚先生という人は、二・二六事件による災禍で倒れた高橋是清大蔵大臣の懐刀といわれた位の智能明晰な方である。その人は、九州出身の関係で知り合いの間柄であるというところに私は元気を得た。その人を経由して陳情の成果を収めようと決意したのである。従って、大蔵省の主税局長に行くまでの間に、陳情する本旨の全てを上塚司先生に説明しておかなければならないことになった。上塚先生の都合を計って、正弍に諒解を得るまでには、かれこれ二週間位を費やしたことを思い出した。上塚先生は、当時東拓ビルの三階にいて、私の説明を静かに聞いていた。
しかし、上塚先生は「これ以外の陳情はないからね」と念を押して、名刺に石渡主税局長宛の紹介状を書いてくれたのである。その日の衆院本会議にダイヤの税率問題が上提されることになっていた時だった。私は心の中ではとてもあせっていた。仕方がないとあきらめながら、そしてその名刺を貰うなり一目散に大蔵省に車を飛ばした。電話をしてくれてあったと見えて石渡主税局長は、七、人名が控え室で待っているより先に私を局長室に呼んでくれた。そしてダイヤモンドの十割という税率が加重であるのかと、十割を一割に引下げれば、犯罪が減少する理由などについて細かく聞き取り、それをメモしていたようであった。それは二十分位の短い時間であったのだが、この時、石渡主局長さんがメモしながら言ったのは、「山崎亀吉という人が来て話をしていたが、話の意味が判らなくて困っていたのだ。これでいい、今日の議会で説明するよ」といい残して自室を出ていった。この時の時間は夜中の十二時を少しまわっていたと思う。かくて、その日の午後一時開会の本会議で石波主税局長が「ダイヤモンドの十割課税は悪税であり、犯罪予防の意味からも撤廃すべきだと思うがとりあえず、一割の引き下げにとどめたい」と説明、その通り可決されたのである。私はこの時、ニニースを喫茶店のラジオを通じて聞いていた。
この頃私は、「輸出金属雑貨工業組合」などの組織替え後の仕事の運用上の関係があって、特別に多忙で合った。この事に関しての報酬については、格別求めなかった。
だが然し、明大のクラスメートに頼み、智恵を借りたお陰で悪税を撤廃することに成功した代償としでの報酬は当然私の責任であるから、自腹で払ったものだ。その光景を見ていた同僚らは、大いに同情してくれたのだが、然し、私はいい結果を残したことになったと喜んだのである。
[注]ここで言っておきたいのは、世間で行なう場合の陳情ごとについての費用などという問題は、亊前に決済面を明らかにしておかなければならない。終ったあとでは、絶対に問題を起すことになるものであるということを私がこのとき経験したのでこの機会に明示しておく。このダイヤの撤廃運動資金として納めた金額は、二〇〇万円だったのだから、当時では大した金額のものだった。その中から山崎氏に手渡したものは、二〇万円だと幹部連の一人から後日この間の事情を聞いていたので、結局一八〇万円がとこの巨額がこれらの間で消費したことになっていた。

白金が安く愛国メダルを売ったころ
徳力、田中、石福の三商店などの地金協会メンバーが推進

《昭和十一年》 貴金属地金の中で白金は、金の価格より担当高額な金額におかれているのが常識のようになっている。その白金が余りにも安くなり、金の価格に比較して二、三割位しか高くなかった当時の昭和十一年ごろには、この白金の需要を大衆に向けようという計画を立てて、白金製愛国メダルと銘打って、一個二十円かで大衆への売出しを敢行したことがある。たしか山崎亀吉さんの計画で徳力、田中、石福の三商店などの地金協会メンバーが卒先して、これらの推進を計つたことを記憶している。
この白金が、すぐる三十年ごろにも匁単位二千円近くに低落していったことがあった。この時も地金協会のメンバー連は、白金の将来性について慎重に検討したところ、「こんな安い値段で止まっている訳がない」との見解を示していた。ところがその翌日になったらトタンに高騰し始めたという奇蹟的な変動があったことがある。白金についての価格の変動は、えてしてソ連側の投機的な結果による影響が大きいようである。
因に、この白金地金の用途は、常に工業用に要するものが多い。それだけに、軍需用に関することで需要を増した時には、その及ほすところが自然大きく、且つ厳しい制限をうける例がある。わが国ではこの白金が採鉱されないので、勢い輸入に頼るほかはない。従って、こと軍需用時代に入ったとなると、この白金の取扱いに関しては、国の管理規定に違反するような事態に迫られる場合が案外多かった。従って、この場合の処罰ときたら極めて厳重すぎるほど厳罰がとられたものだ。白金にからむ違反事件で、且て、命脈を断ったものは、前後三件に及人でおり、非業な最期を遂げている。

蓄音器業界と時計業界が兼業していた時代
部数を増やす意味でも時計界からも宣伝効果として大いに期待されていた

《昭和十年頃》 現在の時計店が、戦前にメガネの販売を兼業として取り入れるようと推進したが、合意が得られなかった。当時は、メガネに対する国民的文化の意識が欠けていたとみられたのかもしれない。しかし、今メガネを兼業しているように、当時はこれに代わって蓄音器レコードの兼業店がかなり多かった。
それだけに新聞社としても「蓄音器版」というページを作り、蓄音器業界に専門紙として堂々と入っていった。蓄音器業者は、全国で三千軒あったのだから、部数を増やす意味でも時計界からも宣伝効果として大いに期待されていたものである。
当社の「商品興信新聞」は、その意味では創刊以来、蓄音器業界に向けて大いに気を吐いた。
当時のレコード会社は、ビクター、コロンビア、テイチク、ポリドール、キングなど。それ以前からの古いものは、ツバメ印の日東レコード、ワシ印のニッポノホン(日畜)などがあり、当時の蓄音器業界も華やかであった。洋譜では、スタンダードなどレコードも発売されており賑やかであった。従って、毎月新譜発売に備えて、各社の試聴会の開催などは、一流のレストランなどで行われ、たくさんのご馳走が出された。
銀座の三光堂は松本常次郎さんの経営、そこに関さんという支配人がいて、支店が浅草に合った。この店は、日本の蓄音器業界の草分け的な存在として有名。ご主人の松本さんは、フルートの名手で店の二階にはツバメ印の日東蓄音器の吹込み室があったほど。
このツバメ印の日東蓄音器に対立して、日畜の勢力があった。その支配人に米山さんという人がいて、ユーモアたっぷりな山下文芸部長もいた。
その後支配人になった山下さんは、自社のレコードを販売する小売店を回り、人気を博していた。その山下さんの後には、松村亀吉さんという人がいた。紳士的な人だけに信用も厚かった。

ヤマハ楽器店はビクターの専門店だった
銀座には三光堂と並んで十字屋とヤマハ楽器店があった

《昭和十年頃》 銀座にこの三光堂と並んで十字屋とヤマハ楽器店があった。十字屋の倉田さんは銀座の蓄音器業界の組合長をしていた。山野さんも昭和十年頃、ビクターの専門店としてロータリーのメンバーでもある。気さくな性格で、常に新しいアイディアを持ち、大いに期待された実業家でもあった。
日東と対立していた日本蓄音器鰍ヘ、米国系の資本で潤っていたので、ワシ印を表徴していた。従って代表の社長J・R・ゲアリイ氏は、東京芝浦電気の社長と同一人物であり、バタ臭い方針が取られていた。
この頃の業界の情勢は、ひと頃の日東勢力がだんだん低下して行った時代であり、その反対に資本力にものをいわせた日蓄の伸び方がすごかった。業務は支配入制であって、日東の勢力は人物的にも日東の米山専務対松村日畜支配人という構図がとられ、対立のもようを見せていた。その勢力のIコマをあげると、業者組合が何ごとか催をする際に伺いを立てると、その系統的色彩の如何によって寄附金額に差がついたものだった。然も、その差のつけ方がうまく、強かったものであり、またハツキリするところに当時の蓄音器業界の商業努力を表示することにもなり、興味を持ったのである。
私達のスポンサー目当の職業分野は、日蓄、日東ともにその文芸部の勢力次第で処理されていたものだ。後に伸展して宣伝部は独立することになったが、当時はレコードを作る文芸部が会社の主軸となっていたのである。
会社内の勢力は、常に文芸部長によって左右されていたものだといえる。日畜の村松武重氏は通訳をかねて入社し、文芸部長になったのだが、入社後は一気に勢力を高めた人だった。

日蓄のスト騒動と当時の内紛
日刊紙上にも大きく報道されて興味をもたれた

《昭和十年頃》 この日畜KKに突如ストライキが持上った。このストには文芸部の動きが非常なものだった。川崎のコロンビアが当時の日蓄工場であり、私達はこの工場をときたま参観もし、案内されたものである。
文芸部は赤坂霊園にあったものが川崎工場に移ったのは、ストライキが終わってからのことである。
文芸部の松村氏は、その上にいたアウィンという米人支配人との折合いかつかなかったのでいろいろ内粉が起こった。然し、内容は完全に勢力の争奪戦であったのである。だからこの当時のストライキは、日刊紙上にも大きく報道されて興味をもたれたものだ。社長のゲアリイ氏が解決を急いだ結果、支配人のアウィンの強引力と松村営業部次長の権勢力はついにハカリにかけられる段階に到った。このため、業界新聞側でも何れかにこびを売るものが現れて、米人のアウィン側に片よって全頁の広告を貰った。
私は日本人側の松村次長と共鳴するところが多かったので、結局は勝利する側に組することになった。かくて、日蓄王国は松村支配人の勢力下に収まったというのが当時の歴史は、畜界の歴史を顧みるのに特に面白く説明されている。この頃活躍していた堀恒夫氏らは、当時の社長で合った佐藤房浪氏と共に、現在でも業界人として活躍しているという。

精工舎までが「三笠号」という蓄音器を発売した時代
戦前、銀座の八千代宝飾店は、芝において同じ店名で蓄音器店を営業していた

《昭和十年頃》 当時の時計界は前述したように、眼鏡を兼業している時のように、大方三分の一ぐらいは、蓄音器の兼業をしていた。それだけに時計界のトップである精工舎でさえも三笠号という蓄音器を売り出した。卸としては、全国各地で取り扱われていたが、東京では、銀座の十字堂を本拠としていた。
それほど、時計界と蓄音器界との繋がりは深かったのである。銀座四八丁目にある八千代宝飾店は、戦前は、芝で同称号として蓄音器店を営業していたもので、蓄音器業界では有名な話である。私と親交を深めたご主人の松崎平治さんは、いつも変わらない信頼のおける人であって、常に平和を愛する優しい人である。

荒木さんが往年の蓄音器情勢を語る
当時の蓄音器業界の細部に亘る情報がいっぱい

《昭和十年頃》 当今の時計店が眼鏡を売っているように、昔(三、四十年前)の時計店では蓄音器を売る店が多くあった。私が業界入りした当時、銀座の日の出時計店では、蓄音器を扱っていてコロンビアの十一枚ラッパで客を呼んだものです。
コロンビアは、銀座・天賞堂が特約店で、ビクターは山下商会が扱い、象印レコードは三光堂か輸入元でした。コロンビアレコード(地球印)は、芳村伊太郎の勧進帳や娘道成寺の特盤、吉原メ冶の端唄や民謡などが多くを占め、呂昇の義太夫、錦心の琵琶、
納所文子の童謡、奈良丸の浪花節、小さんの落語など。
ライロホン(象印)は、楽遊の小松嵐や、雲右衛門の義士伝ものは、素晴らしく売れた。
洋楽ものはビクターにも稀です。
コロンビアが蓄音器鰍ニして銀座に出現したころ「黄金時代」と表題して、大仏様が蓄音器に耳を傾けた表紙画のパンフレットを出版し、鷺印として針音の少ない両面盤で、小売り一円二十銭で売り出した。
次いで、ビクターも日本で吹込むようになってから一貫作業を始めて日本ビクター会社となり、銀座の十字屋、山野楽器店、上野の十字堂を特約発売元(ジョバー)として売出した。
複写機は、至極簡単に出来るので帝蓄はヒコーキ印、それにオリエント印というのが関西からやってきて、十字堂では鳳凰印でいずれも両面盤で一枚二十五銭、のちで複写機は版権問題が起こり、多種類の複写機が氾濫した。
日畜を退社した米山さんが延寿の清元三千歳など十二面に吹込み、その吹込み料六千円というのが突飛な値段として当時話題となった。
その富士山印は、線香花火的に終り、大和音映という会社が三本足の鳥印のレッテルで吹込みを準備したままで姿を消した。その後にキングレコードが生まれ、フイルム式長時間レコードを完成させたのだが、戦時中のため消えてしまった。
畜針は、ビクターから輸入された飛行船印二百本入一缶二十銭売りのほか、国産では大畜のナポレオン印が柱広告までして売行一番だった。その代り、ニセ物針が出てそれがグンダン勢力を延ばしたので業界を賑わしたものです。
次いでタングステン針、宝石針などと進歩の頻度が増してきた。この当時は九枚ラッパ、十一枚ラッパなどの器械は過去のものとなり、無ラッパ物が歓迎されてきて、日畜のユーホン、服部の三笠号、ユタカホンは、十字堂から最初に売出された。
この頃、蓄音器の時間貸しというのがあり、学校のクラス会などにも利用されていた。レコード二、三打をつけて二時開ぐらいで五円の賃貸でした。この蓄音器の昔、円筒形のろうかんレコードで、縁日や夜店でべっ甲飴、虎丸の浪花節をイヤホーンで聞いた人もいる。
上野広小路の十字堂さんは、蓄音器専門の小売店でご主人の橋倉新五郎氏は、永年組合長に推された徳望家である。私が一番尊敬していたのは、開華の市で竹町の村松富冶さんの話を聞いたのがきっかけとなった。橋倉さんは現品を引き取って見てから、その価値が引き取った時の値段以上の物であったので、それだけの分を店じまいの店主に追加払いしたことを聞いたから。
商人魂としては、あまり感服すべき事柄ではないかも知れないが、氏の心情を知る私には頭が下がる思い。
私が日の出時計店に勤めの合間に、十字堂の卸部内報の編集を手伝っていた。橋合さんは浅草から広小路に移り、間口は狄いが鉄筋の三階建てを作り、その地下室で仕出し屋を営んでいたことを知り、稀に見る経営者だと感じた。お子さんは娘さん二人で、娟さんに恵まれないために、戦後十字堂の名は消えましたが、返す返すも残念です。

時計バンドが作り出された最初の頃
堀切の小幡製作所や本所の池上彰治製作所が歴史を作った

《昭和二年頃》 わが国の時計附属界というものの概況を辿ってみると、明冶時代から永く使い慣れてきていた時計は、懐中時計ぐらいだけだったので、明治から大正にかけて市販されてきた附属品は、ヒモ、鎖、メダル(磁石付き)、特殊堤もの、堤時計用外側サックの類にとどまっていた。だからこの頃は、時計の付属品と総評していた。
それが大正年代に入り、腕時計が市販されるようになってきた。ニッケル側やクローム側などに用いる腕リボンが出現し、それから皮バンドの登場という順序になってきている。
だから、ヒモ(提げ用)、リボン(腕用)などが市販されていた時代に至っても、腕時計のバンド界の名称は付けられていなかった。当時は、時計の付属品として取り扱わていたに過ぎなかった。それがやがて、布製のリボン式腕時計バンドが登場するようになり、バンドへの改良に拍車がかかり、以降は皮革製品が登場することとなった。
皮革バンドの製造所として、当時有名であったのは、堀切にあった小幡製作所などで組織だった製法を用いていた。更に、小規模ながら本所・石原町にあった池上彰治製作所も、この道では職人畑として古参株と言われていた。
皮製バンドの需要が旺盛になった頃の池上氏は、毎日朝から酒びたりだったと聞いている。私もなんとか広告を出して貰いに行こうとするがなかなか会ってくれない御仁であった。この頃、時計の付属業界に顔を売っていた櫻井潤一くんが同僚としていて、小幡さんに合わせてくれた。ところが、そう簡単には広告は出してくれない。そこで私も戦略を練って十二、三回訪問し続けた。ある時、小幡さんが「君の精根尽した努力には負けた。ご希望通り広告を出そう」と言いてくれた。人間の活動力は、各人それぞれが自由に伸ばしうるように与えてやることである。人間はやはり働かなければ得られないものだという事を実感させられた。こんなことがあって、私の活動について業者側から特別好意的に迎えられるようになった。その例えとして、東海方面に顔が聞いている貴金属付属品卸の原徳商店などは、親戚付き合いをしてくれるようになり感謝している。
この延長が、当時の時計バンド業界でナンバーワンの地位にあった若林善治氏にも及び、格別な待遇をしてもらったことを今更ながら業界記録として残しておきたい。かくして、時計バンド業界の体形は、業務上の伸張性と共に、進展し、昭和時代に移ってからも急速な進展を見ている。写真は、明治時代の日本橋・百沼時計店。

昭和初期時代における時計の需要状況
セイコー腕時計の発売当初は批判もあった

《昭和二年》 震災でうけた惨害も一般都民の努力によって漸次復興を見せ、市井はだんだん落ち着きを見せてきた。旺盛な労働力で勢い「時と時計」に関する需要にも大きな関心をみせるようになった。そのためか、時計はますます売れるようになって来た時代だ。この頃売れた時計の種類は、掛、置時計類では、丸に菱S印の精工舎製品が好評で、高級品では、ドイツ、フランス等の舶来品ということになっていた。
携行用の時計としては懐中時計が中心で、腕時計を持つ人は高級かつㇵイカラな人という印象があった。輸入品の腕時計も漸次需要を増して行ったが、価格競争が需要のアンバランス関係もあって、なかなか激しさを見せていた。御徒町の時計の卸業者の中には、ボツボツ整理を行なうものが現われる時代ともなった。つまり、震災による痛手が保てなかった部類かも知れない。今津、見沢、大西、アイチ(酒井)などという時計卸商群がつぎつぎに倒れていった。つまり景気のよい悪いというよりも、経営そのものの感度がよく保てなかったのかも知れない。このようなときに、精工舎製の国産第一号が、昭和二年に服部時計店から発売された。
精工舎は、時計メーカーとして歴史に残る、かつ製品そのものも懐中時計の品質を通じて信頼を持たれていた。しかし、いざ発売という段になって見ると、これに対する批判もなかなか強かった。
商人というものは何でも、新しいものを好むものである。それは、売る方法が比較的容易であるからという狙いに基づくものでもある。そんなことでセイコー腕時計が発売されると、時計の卸連合会「五日会」の連中から、特殊卸商部隊への批判は相当なものだった。
しかし、数量的に充分というわけではなかったので、これを取扱う店の選択が行なわれたようであった。このセイコー腕時計の発売に注目していたシュミット工場のスイス人の故ネフさんやスイスウォッチ(当時神戸在住)の故ミラー氏などは、自分の腕に新発売のセイコー腕時計をはめながら、その保持性の検討を怠らなかったものである。
そして批評して曰く、「保持性能は二年と断言した。その理由として、用材の真鍮地金の柔軟性が時計の保持性の生命を損なわせることになるからであると説いていた。そんなこともあって、国産腕時計の宣伝はますます広まっていった。しかし、各時計の卸商では、この頃でもまだスイス製品に頼る気運が強かったように見うけられていた。だから服部時計店では、掛時計を仕入れる場合には、小物の半打を添えるというような条件販売を行なわれたようである。しかし、天下の服部時計店という勢力下であるだけに、セイコー腕時計の将来性には十分な自信を持っていたようである。



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