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英文のカタログの発行を世界に発送した
当時としては、大きな決断だった

《昭和十四年》 昭和十四年の頃、戦争はますます激化していた時代である。この頃の企画として、国産品を輸出に向けるための方策を推進することが必要となってきた。当時は、輸出金属雑貨工業協同組合を設立した直後であり、更に中支那方面の外国市場の実施調査も行った後だったのでそんなことも考慮に入れたものだった。光村原色版印刷会社と交渉して全英文のカタログの発行を考えた。スポンサーには、セイコー、シチズン両社に加え、真珠、時計バンド、眼鏡類に加えて、喫煙具業界の協力を得て発行することになった。このカタログは世界の主要国に発送した。当時、日本製品が今のように世界的に人気があったわけでなく、このカタログが取引上に大いに役立ったというわけではない。それでも専門新聞社がこのようなカタログを発行した点では、各界からある程度認められたようだ。
当時としては、大きな決断だったようだ。

支那事変が急速に進展、英米連合軍との戦争勃発に
産金法施行令で貴金属業界事情も勢い急変する

《昭和十二年》 この頃支那事変が急速に進展、いつ何が起こっても可笑しくない時代になっていた。英米連合軍が、日本の対満進出を阻止する手段として経済封鎖を断行、戦争の発端が余儀なくされたのである。そこで徴兵制の強化とその影響が物資の統制にまで行くとは国民は予想していなかった。戦争によって金の需要度が高められ、政府は産金奨励を行ったが、一面、消費規制の面でも抑制策をたてた。昭和12年8月に、産金法施行令が出たので、ついには金の使用は制限せざるを得なくなり、貴金属業界事情も勢い急変することになった。

疲弊する貴金属業界に立ち上がったのが東京時計付属品同業組合
輸出組合への組織替えの構想が持ち上がる

《昭和十二年》 貴金属業界はこの頃から火が消えたような状態になっていった。業界では、業界の救済する道はないかという緊急会議が各地で起こっていた。しかし同業組合では、何も結論は出ず、無策すぎるという声が多く上がった。何しろ本来が原材料を扱ってない立場の卸業界であり、術がなかった。この時、生産者連盟である東京時計付属品同業組合が対応策に乗り出した。やはり中間流通業ではなく、製造業者の時計付属界の井村組合長を筆頭に、顧問の小森宮、浦田竹次郎、梶田久治郎、谷田賀良俱、中野新助、青木房吉、山田乙二、宮田伊太郎の諸氏が協議の結果発案したのが、輸出組合への組織替えの構想であった。

商工省輸出振興課に書類を提出、設立許可書の出を待った
輸出実績やら用紙や書式形体なるものを用意して

《昭和十二年》 中野新助氏の自宅から「この状態から救うには輸出業務への切り替え以外ない」として、現在の東京時計付属品同業組合の輸出実績を調べ、輸出組合への設立の手伝いをしてくれと懇願された。一時は辞退したが、気丈な中野新助氏と小森宮氏とが共になって男と見込んで頼むと頭を下げたのだから、否応なしに引き受けることにした。しかし、当局への書類の提出期間はあと5日、というように差し迫っており、徹夜で書類づくりに追われた。
書類を作りにしても輸出実績など、そう簡単には作れずに行き詰っていた頃、中野氏の長男が当時中近東へ輸出した実績があると聞いたので、統計に用いられる用紙や書式形体なるものを用意してもらい、更に輸出先の状況を聞いて参考にするなど、大いに役立った思いがある。何とか書類を作り、当時の商工省輸出振興課にて提出、設立許可書の出を待った。

当初は二十七名で東京セイコー会を設立した
東京・中央区を中心に各店を回り、情報収集に努めた

《昭和三年》 時計業者の全国大会の成功は当社にとっても大きな成果をもたらした。まだ二十歳の若き青年であった私は、全国をまたに歩き続けた。先ずは、神田・旅籠町の坂野商店を皮切りに、須田町に移転した金森商店は資金力にモノを言わせて、時計の取引、金融面でも大きく活躍していた。集まってきた人たちは、大阪の沢本さん、エルシュミットの中島さん、エデキンの清水さん、日瑞貿易の川野さんなど、多彩な面々。八重洲の小西光沢堂の小西さんと森川時計店、銀座に進めば石井時計店、更には伊勢伊時計店の秦さん、平野時計店、玉屋、御木本真珠店を回るのが常だった。終戦後私の社が復刊してから時計業界は、関東セイコー会が存立していた。膝元の東京にセイコー会がないのはおかしいということで、当初は二十七名で東京セイコー会を設立した。

支那事変特別税法というのが発令されるなど
当時は貴金属品への課税軽減運動が流行っていた

《昭和十二年》 当時世の中は満州事変を通じて戦時体制の色を濃くしていた時であり、何かが起きたら団体が必要になるという概念がどこかにあったのだろうか。何となく活動期に入る機運が生まれていたように見えていた。かくして時世の進展につれ支那事変特別税法というのが発令された。当時は貴金属品への課税軽減運動が流行っていた。金及び金製品の買い上げに協力するようになっていた。

東京貴金属品製造同業組合は生まれた
組合事業はほとんどなかった

《昭和十二年》 、細沼浅四郎氏を組長にした「東京貴金属品製造同業組合」の書記長に大室乙弥という役人上がりの男がいた。彼は、養女のてる子さんを育てるために新橋でレディーメードの洋品店を営んでいた。その片手間で組合の書記を務めていたのだから、ほとんど何にもしていなかった。この状態に不満を募らせた業界人が、他の団体つくりに奔走した。その一人が越村暁久と仲良しの後藤清貞、梶田久治郎氏らが協力したそうだ。
浅草・三筋町に事務所を持っていた越村暁久氏が私に相談を持ち掛けてきた。越村氏は硬骨漢溢れる人で満州方面へ営業で歩いた人である。当時御徒町の駅前にあった手島製作所という貴金属卸商があった。そこの店の債務整理をしたことから貴金属業界の事情を知ることになり、業界入りして団体つくりの相談を持ち掛けてきた。

時計・眼鏡・バンド・喫煙具など英文のカタログを発行した
戦時中の輸出推奨策として

《昭和十四年》 戦争が益々激化していった時代だから、この頃の企画としては、国産品を輸出に向けるための方策を推進することが重要であろうと考えた。
当時は、輸出金属雑貨工組を設立した直後でもあり、更に、中支那方面の外国市場の実地調査も行ったあとだったので、その面のタクトをとることに設計したのである。そこで光村原色版印刷会社と交渉して、全英文のカタログを発行することにした。スポーサン関係ではセイコー、シチズンの両社、それに真珠、時計バンド、眼鏡類、更にシガレット界方面では丸山清次郎商店などの協力を求められたと今でもその当時を思い出す。
そして、そのカタログは世界の主要国に発送した。従ってその結果の反響はあったが、この当時は、今のように、日本製品の人気が世界的に評価されている時代ではなかっただけに、そのカタログによって取引上の効果を直接収めたかどうか詳らかでないが、それでも新聞社としての活動効果の点では外国からの通報増加により認められたようである。

「東京装美会」の誕生と当時の業界
「東京貴金属品製造同業組合」の他には、団体という組織がなかった

《昭和十二年》 ダイヤモンドの十割課税を一挙に一割に引下げた成功のその間の努力と功績は当時昭和十二年の貴金属業界に大きく響いた。勿論、当時ダイヤモンドを取扱っていた店は、貴金属専門店というだけではなく、堂々たる時計店であれば恐らく扱っていたものである。だから時計貴金属業界に活躍していた私の活動は各方面から賞讃された。
最も当時「商品興信新聞」としては、号外を発行し陳情の経過を特報したものである。このような業界の空気が反映して、貴金属界の中にも一つの団体の息吹きの気配が見られてきた。既に十一月にもなった頃のことだった。当時、東都の貴金属業界には、浅沼浅四郎氏を組長にした「東京貴金属品製造同業組合」の他には、団体という組織がなく、僅かに時計小売組合があっただけである。然も、この貴金属組合という団体の活勁状況は、当時でも毎日シルクハットにモーニングという姿で自分の店に出社していた細沼社長が代表者であっただけに、余りこれといった仕事などしようとはしなかったようである。年に一度の総会をやることが精一杯といいたい程、仕亊はしなかったものである。
この組合の書記長には、大室乙弥という何処かの官吏上りがデンと納まっており、新倍の四丁目にに養女のてる子さんというのを育てるために、レディメードの洋服店を営んでいた。その片手間にやっていたのだから組合の事業たるや、何おか言わんである。私たちが組合に必要な話を持ち込むと、とんでもないと怒られたものである。
このような状態であったのに不満を感じていた少壮連は、他に別の団体を作ることに希望を持っていた。この奔走の第一人者は、越村耀暁久氏であった。仲よしの後藤清貞相談役や梶田久治郎氏等と話が出来ていたらしい。
そして私に電話があったので、当時越村氏は浅草三筋町に営業所を持っており、満州方面への出張、販売に専念しながらの硬骨漢の持味を見せたものである。越村氏が貴金属界入りした元は、今の御徒町の駅前に手島製作所という貴金属卸商があった。そこの債務整理をしたことから貴金属業界の事情を知ることとなり、チャンスを得たのである。
だから手島氏によく会っていた私達のことは、予め知っていた。そのような関係だったか
ら業界入りしてからは勿論じっこんにしていたので、団体作りの場で相談をかけられたのは当然ということになる。
兎に角、東京装美会の設立は、十二月十二日頃になって満州の出張から帰った越村氏との
間で決められた。発会式は翌年の一月六日、浅草・裏田浦の草津亭で挙行された。この時の写真には、当時の貴金属業界では、第一線の天野、山崎、御木本、金忠、溝口、藤田の各店に加え、伝統最古参の村松商店の一族が加わって、賑やかに行われた。当時の会員数は五十二名、事務所は三筋町の越村氏宅においた。役員としては、理事長=越村曉久、専務理事=溝口万吉、後藤清貞、理事=谷口賀良倶、梶田久治郎、藤田貞一、巽重雄、荒木虎次郎、在間朋次郎、長谷川恵章、外園盛吉、加藤清十郎の諸氏。

東京装美会は、誕生したもののこれといった目標もなかった
貴金属品への課税軽減運動に努めた頃

《昭和十二年》 かくして東京装美会は、誕生したもののこれといった目標もなかった。だが世の中は、満州事変を通じて戦時体制の色を濃くしていった時代であり、何かの場合には、団体活動が必要となるであろうと思われていた。それだけに装美会が生まれてからは、何かと越村氏に対して業界からの呼びかけがあったようである。
かくして時世の進展につれて支那事変特別税法というのが発令された。このころから貴金属品への課税軽減運動に努めたことなどがある。就中、目立つたのは、金及金製品の買上
げについて協力することになったということである。



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