※写真をクリックで拡大します。
Home

月産十万個のリコー時計
針がいらない時計「ハミルトン」の発売もあり、人気を高めていた

《昭和5年》 リコー時計は,前身のタカノ時計を改称したものであるが、カメラ界で有名なリコーカメラの名声とともに、大衆に対する宣伝は大きかった。社長である市村清氏の構想は一際大きく、リコー時計の勢力倍増の為に必要な新工場の建設は、岐阜県恵那町に建設された。完成の暁には月産三十万個を生産するという構想を発表している。
ハミルトン社との提携により、針がいらない時計「ハミルトン」の発売もあり、人気を高めていた。同社の生産能力は月産十万個と称されていた。

廉売合戦で「業界損失防止案」なる決議書を作り、決着を
東京・大阪・名古屋の三都材料組合連合会

《昭和七年》 東京の五味材料店と小峰材料店対立抗争劇は、昭和七年以降の材料界における廉売合戦の口火を切った。このようなことから、東京時計原料組合と関西時計材料組合の「時盛会」、名古屋時計材料商組合の各代表者たちが集まって、事態の収拾に乗り出した。その結果、三都連合会の名において、「業界損失防止案」なる決議書を作り、実行を声明する話し合いを付けた。それは、昭和7年7月のころであり、世の不景気風によって来た影響の締めくくりとした。

「業界損失防止案」なる決議書の内容
会員の賛同を得て、業界の健全なる発展を期すものである

《昭和七年》 為替の変動甚だしく、かつ財界も極度の不況の結果、同業者の競争激甚となり、あるいは商報に、あるいは広告に破壊的な相場の出現となり、同業者の迷惑一方ならず、これを放置すると、ついには救われない結果を見ることになるとして、三都材料組合連合会が、緊急理事会を開いて、以上のような決議文を作成、会員の賛同を得て、業界の健全なる発展を期すものであるとした。

時計の修理に携わる業者が繫栄し始めた
時計の側合わせ、側直し、メッキなどの需要が高まる時代

《昭和初期》 この頃、時計の側合わせが流行していた。時計の側合わせ、側直しなどの営業は、日本橋・馬喰町の高木メッキ工場、大井町の吉原工業所はメッキと側の修理を行っていた。それに幡ヶ谷に工場を持ち、都内を駆け回っていた金栄社のぞんざいは大きかった。金栄社は、側のへこ直し、側の一個合わせを看板に掲げて評判も良かった。そのあと、セイコーやシチズン時計の卸売りを行うなど同社の発展は目覚ましい。社長の荒木虎次郎氏は、八十歳で、時計業界では最長老者として尊重されていた。

白金の価格が安かった為、愛国メダルを売り出し、話題となった
当時の時計の輸入税は、重量税であり完成品は二円四十銭

《昭和十一年》 この頃白金の価格が純金の二,三割高という安値の時代だったので、山崎亀吉翁は、白金製の愛国メダルを売り出し、話題となった。側には、純白金だけでは不適当なので純金を少量混ぜ硬度度を調整していた。当時はほかにも白金側のナルダンやロンジンなどがあった。当時の時計の輸入税は、重量税であり完成品は二円四十銭、ムーブメントが九十銭となっていた。また製造工賃は、十八金の男物堤時計、専売側、パリス側とも五円から六円五十銭、腕時計は三円五十銭前後で、十八金はへり込みで三百八十円という値段だった。
その後、景気が悪くなり競争も激しくなってきて、腕時計のパリス側の工賃が一個、一円となり、八十銭に下がり、中には五十銭、三十銭まで値下がりした。ついには、金ろうを使うべきところ、真鍮ろうを用いたり、また金性を落としたため、ノーマーク物まで出現するようになった。

当時の懐中時計側は、無双側(両ふた)時代から専売側、バリス形片ガラス時代
材質は、金、銀,洋伯、赤胴を使用していた

《大正五年》 大正五年の第一次大戦後の好景気を受けた当時の懐中時計側は、無双側(両ふた)時代から専売側、バリス形片ガラス時代に移った。
このころの材質は、金、銀,洋伯、赤胴を使用しており、精工舎では、斜子無双側を作っている。赤銅側には、花鳥や富士山などの彫刻色とりどり、象嵌などは、骨董価値のあるものが多かった。

この頃の時計側工場は専属工場がほとんど
主として金側の堤時計が大流行していた時代で、少しづつ腕時計用に

《昭和十一年》 この頃の時計側工場は専属工場がほとんど。吉田の浦田工場、加賀屋の白石工場、大沢商会の脇工場、天野の尚工舎、平野(精工舎の元地金部長)工場、金栄社は金森、藤田の専属、新本の斎藤工場、鶴巻の竹内工場など。
このころは、主として金側の堤時計が大流行していた時代で、少しづつ腕時計用になっていった。金栄社では、銀側の十六型レナー用を作り、二円で卸していた。

大正から昭和にかけての時計材料界
東京の時計材料店がその存在感を示し始めた

《大正12年》 大正12年の関東大震災が世の中の状況を一変させた。東京の時計材料界は当時は小売業だったため、ほとんど業務は起こらないで復興は遅れていた。それでも大正13年ごろからは、小売業が復活するにつけて活発化してきた。
時計の種類も大物類は別として、身近な必要な腕時計や懐中時計の類が多かったので材料部品もそれなりに用意されている。
小売りの注文が主として一個合わせというものが多かったそうだ。震災によって特に時計への修理という必要性が起こってきたからであろう。ところがこの頃、腕・懐中時計の場合でも舶来品の扱いが多かっただけに、修理品も舶来品の取扱量が主力であった。
だが舶来品の部品は、完全に揃っていなかっただけに、天真のホゾまたは真というような合わせものの仕事になると特別な技術が必要となった。だから東京の時計材料店がその存在感を示し始めた。日本橋の伊藤材料店、神田の榊原材料店、須田町の山内精材料店、下谷の五味材料店、小峰材料店といったところだ。この頃、横浜、静岡という遠隔地から多くの注文があリ、繁盛していた時代だった。

昭和初期 時計の修理に携わる業者が繫栄し始めた
時計の側合わせ、側直し、メッキなどの需要が高まる時代

《昭和初期》 この頃、時計の側合わせが流行していた。時計の側合わせ、側直しなどの営業は、日本橋・馬喰町の高木メッキ工場、大井町の吉原工業所はメッキと側の修理を行っていた。それに幡ヶ谷に工場を持ち、都内を駆け回っていた金栄社の存在は大きかった。金栄社は、側のへこ直し、側の一個合わせを看板に掲げて評判も良かった。
そのあと、セイコーやシチズン時計の卸売りを行うなど金栄社の発展は目覚ましいばかり。社長の荒木虎次郎氏は、80歳で、時計業界では最長老者として尊重されていた。

昭和五年「東京腕時計バンド商工組合」を設立
初代組合長は、小宮増太郎氏が就任している

《昭和五年》 時計附属業者の団体作りの始まりは、昭和三年五月に浅草寿町の料亭「吹上げ」で発会した「東京時計附属品研究会」と称したものの発足がこの分野での草分けであろう。その初代会長には、合月商店系の外園盛吉氏が推挙されている。この研究会というのは、当時時計附属品と貴金属品の販売で一大勢力を誇っていた合月商店(前川案山子代表)出身者の一統が親睦を計る一面と、商品の仕入のも供するという狙いから設立されたものである。
それだけにこの当時は、業界からは「公共性に乏しいものだ」との批判があった。然し、研究会そのものを牛耳っていた合月商店の相談役(顧問に坂口甚作氏)である中野新助氏は同業者組合の結成の意欲に燃えていたので、昭和四年頃には、腕バンドメーカーがだんだん増えて来たのを機会に、団体作りを進めることになり、十六名の発起人を立てた結果、昭和五年の二月、大塚の料亭「大塚」において「東京腕時計バンド商工組合」を設立、発会式を挙行した。初代組合長は、小宮増太郎氏が就任している写真は、昭和5年2月に大塚の料亭で行われた東京腕時計附属商工業組合の設立総会。



admin only:
12345678910111213141516171819202122232425262728293031323334
page:23