※写真をクリックで拡大します。
Home

ヤミ時計検挙事件当時の秋嘆場など
小売店一軒で仕入れる量が、男物と女物数百個単位というものもあった程

《昭和二十六年》 ヤミ時計のもっとも盛んであった昭和二十六・七年頃の時計界は、何処でもここでもというほど盛んにヤミの取引が続けられていた。小売店一軒で仕入れる量が、男物と女物(南京虫)を合せて一種類数百個単位というものもあった程だ。従って警察の眼も、この点に注がれたものである。
然し商人という性格は、例えそれが悪いことであると承知していても、自分以外の同業が儲けているのを見て見ぬふりは出来ないものと見える。よほどの成長人でない限り、昭和二十七年の秋頃、東京市内の大どころに警視庁第二課発の捜査網が突然布かれた。その状況が新聞に出て、その店は一応閉めるという騒ぎを演じたのだが。そして、「今後ヤミ品は一切取扱いません」という一筋の念書を当局に入れて済ませることにはなったものの、この調査中の数カ月間は、内心ビクビクの情況で押し通したものだったという。もちろん事件の表面だったその小売店の主人公は、雲がくれという寸法である。この事件の取調べに当った警視庁のN主任は、経済係のS某といってその後時計業者とはだいぶ馴染が交わされるようになったようである。
この時の事件に関連した供給者側には、東京在住の大手筋が殆ど加わっていたようである。
従って取調べが進むのにつれて、摘出された時計の数は、なんと数十万個にも及んだようだったから、ヤミ事件としては、大変大きく且つ珍らしいものであったようでもある。
結局、八ヵ月間を費して一件書類は検事局送りとなったのであるが、その以前に係刑事が検事局にこの事件の取調べ経過を内申したところ、係刑事連があべこべに脅されたとして憤慨していた光景があり、その事実を本人から聞かされて笑えない一幕を感じたことがあり、正に珍事であったようだ。
ヤミ事件を摘発して、そのヤミ品のアリバイが明確であるのにもかかわらず、検察当局からお叱りを受けたということそれ自体は、取調べの根本にミスがあったからだということになる。係主任刑事の告白によると、ヤミルートは一応明らかに摘出することが出来た。勿論、数量と金額も合い、又それによる利潤計算も明かに算出されたのではあるが、ヤミ品の供給者である杲氏が事件開始の直前に死亡していることにより、これによって事件の全体が見えなくなったというもの。つまりヤミ品であるかないか、又そのルートが如何なる方法によるものかどうかの点を明かにすべき立場の人(証言すべき人)が死という事実によって、総ては清算されなくなったのである。係刑事のN某は、顔を青ざめて怒つて見たが致し方なく、事件はそのまま白紙となり、その中の一部だけが送局されたに過ぎなかったようである。この問題は、戦後を通じてヤミ事件中最大のものであったようである。「泰山鳴動して鼠一匹」という結果になって終ったというもので、戦後のこの種事件では特記すべき一節である。

佐川氏と山岡氏が交代で理事長の職を分担する痛み分け
全時連の首班を指名する選挙戦の最中

《昭和二十六年》 そのような経過を辿りながら、理事長互選会の当日がやって来た。
その改選の場には、首班立候補を目指す山岡、佐川の両氏を中心に各理事者がぞろり静かに座列され、投票開始の場に備えて何れも緊張していた。
然し前述したようなこの間の経過事情があったのだから、投票の結果については必ずしも何れに軍配が上るか否かは予断を許し難いものがあった。ところが、その投票時間を待つ間に、佐川氏と山岡氏は何やら話し合いを進めていたらしい。従って会場に居並ぶ一同の視線は、この両者の一挙手一投足に集まっていたといっていいようだ。そうこうする中、やがて両者間の話合いの結論がついたものと見えて、選挙場でその結果が報告された。
それによると理事長という首班の決定は見送り、山岡、佐川の両氏が常任理事という交替制で理事長の職を分担しようということに話し合いの結果がついたのだという説明である。とにかくこのことは首班争いの経過としては、時計界の歴史の中では特記すべき一項ということがいえる。だが、その次の昭和二十九年の改選期には、山岡氏が理事長に選任されており、佐川氏は常任理事という席に止まった。
次いで昭和三十一年の改選期にも山岡氏の理事長時代が出現したが、一年にして病気のため倒れて辞任、代ってこんどは副理事長だった木村信男氏が理事長を代役した。この間、山岡氏は全時連会長として物品税に関する運動に没頭し、積極的に活動したのは有名な事蹟である。かくて東京時計組合は、全時連と共に全国の時計小売業者のために大いにハッスルしていたが、山岡氏が昭和三十二年に到り病のため倒れたそのあとは、東京組合は副理事長の木村信男氏が代った。全時連は神奈川県時連会長の今野徳一に衆望が集まって就任することになったのである。それからの今野会長時代に全時連の強化策が打出されて大いに推進体制をとったのである。然しこの頃他方で依然関時連の会長に止まっていた金山重盛氏は、所謂金山式我流戦法の及ぼすところから業界内にトラブルを起した。その問題は、当時金山会長は、六、七人の組合幹部連を伴って近江地方に旅行し、義援金の一部を消費したというのがこの一件の中心課題となったのである。そんな関係のあと仕末の交渉の電話連絡などに神経を使った今野氏は、昭和三十三年の二月六日横浜の店で遂に倒れることになったのである。
その様な経過で遂に翌三十四年の全時連総会の時には否応なしに次回会長の選任が行われねばならないことになっていた。会場は熱海温泉の富士屋ホテルであったと思う。従って会長の候補に登板したのは、佐川久一氏を筆頭にして、これに木村、金山氏ら
の指食も少しはあったように見られていたが、開票の結果、佐川久一氏が断然栄冠に浴した。この時の司会役は、東京組合の沢誉司氏が担当した筈である。
写真は、昭和三十二年六月、全時連の強化策にハツスルした当時の今野徳一全時連会長のスナップ。

出刃包丁も飛出た理事長選挙劇についての闘争事情
景気も良くなり組合活動に関心を持ち始めたころ

《昭和二十六年》 組合というものの情況は、どこの組合でもそうだが、総会などの場でよく表現されるものである。
「東京時計眼鏡小売協同組合」もご多分にもれず昭和二十六年の頃は、ヤミ時代の収入増に恵まれた時勢のお陰で組合の事業面にもたまには顔を出して見たいなどの希望者が現われるようになって来たのである。
昭和二十六年に関東時計連合関係の一騒動が起きてから、東京時計組合内部でも役員の改選期にはボツボツ興味を持つ輩が現われて来た。翌年の昭和二十七年の春には、役員の任期満了期に当っていた。そこでこの改選期に理事長への栄冠を目掛けて打って出て来たのは、終戦後銀座のどまん中に進出した日本堂の社長佐川久一氏の躍進ぶりである。もう一人は、東京組合の役員歴では最古参に属する銀座・審美堂の社長山岡猪之助氏であり、つまり銀座に店を持つこの二人が躍り出て組合理事長の地位を争そうことになったのだから組合人気は一際湧いた。 
この他にも、品川区会議議員の肩書を持ったことのある五反田・天竜堂店主・大沢善次郎氏なども出馬の呼声が放たれていたので、世評は喧々轟々たるものであった。
だが山岡猪之助氏の出馬情報が確定してからは、大沢氏が断念したので佐川氏との二大対立候補者だけとなった。
そのような空気の中で昭和二十七年の春を迎えてからは、選挙方式を公式に改ためるべきと業界では、突飛な呼かけをやったものである。つまり古参歴に対する新手の方法とであったのであろう。そうでもしなければ勝味がないとでも思ったのであろう。
それだけに当時の理事長選挙に備える前哨戦の場では、東京都内の到るところで裏面工策が積極的に行なわれていた。山岡猪之助氏の参謀は、木村氏と内田氏に大口氏辺りというところ。佐川久一氏側についているものは、業界紙群の中の二、三社がまとまっていたのだから、一方の作戦が如何に妙策を尽くそうともこれを喝破することには妙を得ていた。この選挙戦に関することで、突飛な大事件が起こった。改選期がだんだん差迫り、あと十数日しかないという昭和二十七年五月中旬の頃だと記憶する。
山岡氏側は、組合の現職役員の大多数の十七、八名を五反田の料理屋「黒塀」に招いて酒宴を張ったのである。それを探知した佐川氏側の陣営では、その切り崩しのためにその酒盛の料亭を急襲することにした。ところが陰謀的策略を見破られたというその場の感触上の反動が突如として湧き起った。その結果、勝手口から持出して来た出刃包丁を振かざし、切るか切られるかという乱闘騒ぎが起きたという始末。大変な騒ぎになったわけである。
それはどうして起きたかというと、仮りに山岡氏が自分側の応援者を呼んで御馳走するのであれば人間自由の立場から考えても、何ら差支えないことである。だが山岡氏のその日の宴席には、佐川氏側からの依頼によって金数万円也の運動費を現実に受理した某氏がおり、更にその人が当日のこの会席を取もったというこの間の情況が推定されたところから、事態は並大抵のことでは納まらないことになったのである。そんな関係だったから、事態は穏やかには済まないものと見てとったのである。そこの席に集っていた十七、八名の役員たちは、その場を何とか収めるべき気持で両者の間に割って入ったりして大騒ぎを演じたのだ。とどのつまり兎に角その場はそのまま納めることにしたのだが、然しその場の光景からしてもあと味の悪い理事長選になって終ったのはいうまでもない。

昭和二十七年頃の時計の需要状況
漸次ヤミ取引時代が精算されていったようである

《昭和二十七年》 この頃時計に対する日本人の愛好心はすこぶる強められていた。戦争のために死んだ人の数もあるにはあるが、それでもなお八千万人は降らない人間が、この限られた日本の狭隘な地域に生き長らえていかなければならないのであるだけに、働かなければ喰えない時代であるという観念からか、人間的活動上に必需品となって来た時計は、誰の眼から見ても欲しがられていたものである。だからヤミであろうが、正規であろうが構わない。人々は自分の許すサイフの力の限度において、買い求めたいものと願っていたのであった。
ところが時計の供給力はどうか?というと、吾国ナンバーワンの世評にある精工舎製品が何と月産六、七万個という時代であったのだから、大約月産量六十万個位の消化を欲求していたこの頃の需要力には、ほど遠いものであったのだ。
ヤミの時計のルートに関係を持つ業者筋では、この状況を見たためか特別非常にこの時計の面に力を入れたものであるようだ。
この二十六年頃から二十七、八年ごろに及んだこの間のヤミ実績を衙かれて東京税関につかまえられた某輸入商社の罰金額が、なんと三百七十八万円にも達したというのだから、この間の輸入量の程度が想像出来たであろうと思う。
だが然し、日本の時計界でも何日までもこのヤミ事情が続くわけには行かなかった。昭和二十七年ごろには、世情が段々平静の状態に回復していった。
時計関係の部門でもこの頃は、OSSの払下げに続いて、私の新聞社が主催して出来た輸入業者による懇和会という団体の設立などを機会に、漸次ヤミ取引時代が精算されていったようである。それはヤミ物資を取り扱うことによって利益する反面、そのヤミ行為により罰せられる場合の事件代を算定したときは、利害相反する結果ともなり、一面では、未だにヤミ物資を取扱っているという非難を避けようという気持になって来たからでもある。だから旺盛を極めていた時計関係のヤミ時代は昭和二十七年の頃をもってス。キリした時代への転換期に移ったといえるのである。

輸入時計業者団体「輸入時計業者懇和会」を設立した
有力な輸入業者13社を集めて

《昭和二十七年》 昭和二十七年頃になってからは、時計の購買力がだんだん伸びていったように見られていた時だ。然しヤミ時計の市場進出は、依然として低まってはいないようだったので私は考えてみた。
如何に敗戦したからとはいえ、何時までもヤミ時代そのままの状態であってはよくない。時計界の改善のためにも、必要な範囲の時計の輸入量は認めさすべきであると決断がついたので、さっそく私はその面の活動に移ることにした。
その最初の段階として企画したのは、第一に時計の輸入を行っている業者を集め、業種団体を作ることであると考えた。そこで業界のメンバーを一応調査した上で、昭和二十七年六月七日を期してスイス時計の輸入をしている業者に対して「輸入時計業者懇和会」開催の案内を出した。そして上野・精養軒に集合してもらった。
この日集まったメンバーは、当時の大手輸入業者の大沢商会(岩沙、増田)、日本デスコ(加藤)、ヘラルド・コーポレーション(草日)、スイコ(鹿野)、シーべルヘグナー(小倉)、リーべルマン・ウェルシュリー・カンパニー(亀田)、中央時計商会(肥田)、平和堂貿易(高木)、堀田時計店(小田切)、シュルテス商会、太洋貿易、相互貿易、シュリロ貿易等であったと記億している。
会談の結果は、私の抱いていた時計の輸入許可陳情運動を起こして、広く時計業界に認知してもらうという点で一同賛意を表してもらい「日本輸入時計懇話会」なるものの団体の設立にこぎつけた。確かこの席に小売業者を代表して、銀座の金山重盛さんも参加してもらった。
国内における時計の需要は、月間ザット六十万個ぐらいと予想されていた。ところが、この頃、国内における腕時計の生産量は、次のような状況が記録されていた。

昭和二十七年:百二十一万個
昭和二十八年:百六十一万個
昭和二十九年:二百万個
昭和三十年年:二百二十四万個

輸入時計懇和会が設立されてからは、事業活動のために1ヵ月二千円宛の会費を徴収して会の運営を行った。そしてその結果、日本の時計界では有史以来始めての輸入時計の大展示会を開催することに決め、一切の企画は私の手で進めることになったのである。写真は当時の有力な輸入業者の顔ぶれ。

宝石業界の概況としては「東京貴石倶楽部」がわが国の宝石団体のはじめ
昭和二十七年「全国宝石卸商協同組合」なるものを設立

貴金属宝石類の取扱業者の事歴は、明治時代から存在しており、可成古いものである。その中で特に宝石類を取扱う業者の存在は大要大正時代以降に属するものが多い。
然して、その団体的な動きは、「東京貴石倶楽部」がわが国内では筆頭となろう。
また、宝石類の取引は品物の性質上おおむね個人間で取引される例事が多い。そして業者の親睦、商品の研究等を計るため、前記の東京貴石倶楽部のほかに「若葉倶楽部」などの名称による小グループが、東京、大阪、名古屋等の各主要都市を中心に数多く設立されている。
然し組合というものがないので、各都市の主立った業者が相寄り、昭和二十七年「全国宝石卸商協同組合」なるものを設立する事になったのである。
設立当時の会長は、故古川伊三郎で、当時東京都千代田区神田東松下町四十八番地に事務所を置き、業界発展につとめ、今日の隆盛を見たのであるが、昭和四十年現在の中央区明石町五十二番地に「株式会社東京美宝会館」が設立されたのを機に事務所をここに移転したのである。
組合の事業としては、終戦後宝石類の輸入促進に成功し、又物品税の撤廃運動を押進め、その間何回かの改正に成功しており、昭和四十年度の運動の成果として、昭和四十一年度より実施された免税額オール壱万五千円の引上げ改訂の実現に成功したのである。
だがなお、今後も引続き撤廃運動をして、最終的には撤廃という最終目的を成功させるというのが現況である。なお、全国宝石卸商協同組合は、関東、中部、関西の各支部に分れ組織されており、その各支部役員は次の通りである。

全国宝石商協同組合
東京都中央区明石町五十二番地
東京美宝会館
電話(五四二)八三二一番
理事長:巽忠春、副理事長:大平吉蔵

関東支部員名:▼支部長:大平吉蔵、▼副支部長:鈴木正雄、岩沢正三(監事)、▼顧問:巽忠春、▼幹事:石井正夫、石川文一、岩田有弘、小倉和助、国井博隆、黒沢為重、黒沢為定、岡本憲一、長田猛、甲斐正澄、加藤松彦、茅野福二、川瀬剛二、草山重松、堀田良作、広川博之、福沢仲治、越光保、後藤清貞、佐藤邦男、白石憲二、諏訪喜久男、塚田虎勝、中村秀吉、野辺勝五郎、野辺浩司、原潔、松井英一、松井厳司、三輪邦彦、森岩吉、森田時春、山口為一、梁田轍、山田政次、横山栄太郎、吉川清。

昭和四十年当時の仲問連(仲問連時計付属眼鏡協同組合)
昭和二十九年、仲御徒町に店舗を構える時計・眼鏡・貴金属卸業者十二店により結成

事務所:東京都台東区上野五丁目十五番十八号
プラチナビル四階
電話:前橋(三七二)七四七一番
[沿 革]昭和二十九年に春木義男氏の提唱で、仲御徒町(住居表示法により現町名は上野)に店舗を構える時計・眼鏡・貴金属卸業者十二店により「仲御徒町問屋連盟」を結成発足した。共同サービスと共存共栄の趣旨に賛同する卸商社は逐年移入して四十店に達し、“お仕入れは何んでも揃う仲問連へ”というスローガンの下に有名問屋街として全国から注目を集めるに到った。
昭和三十八年には協同組合に改組し、初代理事長には石川英敏氏が就任して現在なお重任している。去る昭和四十年度は創立満十周年に当り各種の記念特別売出しおよび諸行事を実施して好評を博した。
[サービス]仲問連加盟店店頭で現金一千円買上げ毎に、サービス券一枚を贈呈(但し特殊商品買上げの場合を除く)このサービス券の所有枚数に応じて次のサービスを実施している。
▼春の観劇会、▼秋の温泉一泊招待会、▼随時観劇・温泉一泊招待、▼景品贈呈、▼“吉池”コーナープレゼント等。

組合加盟店(五十音順)【時計】共和時計宝飾、久津間商店、佐藤時計商会、東京三光舎、東陽時計、東和時計、中礼時計、冨尾時計店、堀田時計店、【時計・付属品】ワク井商会、ござる商会、十二屋、フクヤ商店、【時計付属品・貴金属】石川商店、鈴文、宝商会、三上商事、ミヤコ商事、【貴金属・宝石】由良商店、【材料工具機器】五十君商店、大滝商店、小川静商店、銀杏商会、三和商事、松井時計材料、【眼鏡光学器】東眼鏡、梅沢良男商店、清川商店、岸田、澤本現況店、島田秀之助商店、春樹眼鏡、丸八眼鏡商会、【喫煙具】沖山商店、田辺昇商店、フカシロ商店。

「日本時計輸入協会」の設立と大蔵省関税部の活動
正式に輸入許可を認めて貰った数量は二百万個位

《昭和二十八年》 日本の国内事情が漸次整備されてきた関係で、治安方面の取締りも前進してきた。ヤミ物資の取扱高についても、当局の活動が見られるようになって来た。
昭和二十八年に入ってから、遂に社団法人組織による「日本時計輸入協会」が設立されることになった。理事長には、戦時中、商工省の物資局長官を任じていた千葉県出身の衆議院議員の始関伊平氏を招聘してスタートした。この日本時計輸入協会の発会式には、輸入時計懇話会設立者の関係もあって私も列席した。
この協会のメンバーに連なったものは、時計輸入協会というハッキリした団体が出来たことによって、明るく開かれた時代への再スタートを切ったような輝きに満ちていたのである。
然し、この当時この時計輸入協会に加入したメンバーは、俗にいって、猫も妁子もという程度で、確か七十余名という多数に及んでいたようである。この頃の大蔵省側でもやっと諸物資の取扱状況について特に注視するようになり、関税部の中の審理課というのを監督して、ヤミ物資の摘発に乗出した。勿論、時計とダイヤモンドの関係についても、当然輸入してくるルートについて細かい調査などを進めたものである。
そこで、この調査によって当面の問題に取り上げられたのは、輸入時計の古物品についての処理ということであった。勿論大蔵省側では、古物品なる時計の関係についても、事前に調査をしていたようである。
そこで、小売店頭に現に列べて販売に供している時計については、どう取扱うか等の点で東京時計小売組合側の代表などとも打合せた結果、兎に角、進駐軍将兵からの横流れ的な処分という特例の下に処理することにして貰い、それを組合が一括処理する方式をとったので、昭和二十八年から働きかけた、この処理事項は昭和三十年にまで及んだので大した騒ぎを演じたものである。それでも、表面上は当然違反事項に取上げられるべき問題であったものを特別処理ということで、ケリつけることになったことは甚だ仰幸であった訳であり、この当時が終戦後のヤミ時代から絶縁することになった最大のヤマ場であったのである。
但し、このような画期的な騒ぎを演じつつあった中で、一方では日本時計輸入協会としての立場で、正式に輸入許可を認めて貰った。その数量は二百万個位になっていたようである。従って時計の輸入許可量が僅少ということから、輸入許可証書だけでも、相当にプレミアがついたという時代であった。業者間では、この輸入許可証をめぐってプレミアつき取引時代が展開されており、賑やかな風景であった。この頃、輸入時計を専門に取り扱っていた商社と当時のブランドは大体次のようにあげられる。
△日本シーべルヘグナー(オメガ、チソット)、△リーベルマン・ウエルシュリー商会(ロレックス)、△シュリロ貿易(インターナショナル他)、△ヘラルド・エンド・カンパニー(エニカ、シーマ、グルエン、ジュべニャ、オレオール、あとで日東貿易が継承)、
△日本デコスシユルテス商会(エチル六サーテイ六才Iデマピケ)
△大沢商会(モバード、ジャズ)、△服部時計店輸入部(ロンジン、ジラード外)、一新時計(ブローバ)、△平和堂貿昜(テクノス、モンディア、ローヤル、ピアジェ、ウオルサム)、△スイス時計輸入商会(ウイラー、ナルダン、エキセルシャパーク)、△瑞穂商事(ビュ1‐レン、レビュー、ユーハンス)、△堀田時計店(エレクション)、△村木時計(プレシマックス、ユニバーサル)、△東邦時計(ゼニット、ドクサー、ニバダ)、△洒田時計貿昜(ラドー)、△豊陽商事(キャミー)、△エデイキン商会(フレコ)、△磯村時計商会(リップ、グリシン)、△大洋商会(モットー)、△新日本時計(べンラス、イメージ)、△シチズン時計(ミドー、エンベ)、△リコー時計(ハミルトン)。

日本初の「輸入時計大展示会」を開催した
東京・銀座の松屋デパートの七階で

《昭和二十八年》 以上のような経緯によって、輸入時計を正規のルートによる輸入を促進するという意味から、輸入業者団体の懇話会の設立を見ることになった。
その翌年の昭和二十八年六月六日より十五日間に亘って、東京・銀座の松屋デパートの七階で「輸入時計大展示会 」を開催した。最初の計画では、会場を日本橋の三越にしたいと
思って交渉したのだが、時間的な関係でうまく行かなかったのである。
銀座・松坂屋の選定には、金山重盛さんの協力も大いに役立っていた。とにかくこの計画は図に当った。何故ならば日本で輸入時計専門の展示会を開いた例は、一度もなかったのである。私が神戸、大阪方面をとび廻って輸入関係業者とは、既に四十年を過ぎる深い馴染を持っていたが、その間にも一度の催しを見たことがない。それに又、戦後の混乱期の中にあった頃だっただけに、この計画は大成功した。
従って、この時の展示会に参加した企業は、服部時計店、シチズン時計等の国産メーカーを始め、輸入時計を取り扱う全商社が参加、盛況を収めた。
六月六日の開場式当日は、スイス公使(この頃は公使館)が出席して祝辞をのべられたので一段と意義づけた。そして六日間の期間は大過なく済んだ。このときの展示会の光景をカラー印刷にして、日本の全業界はもち論のこと、スイスの全メーカーにまで本紙(時計美術宝飾新聞)を通して宣伝したので、日本の時計界の存在がいやが上にも光彩を放ったことはいうまでもない。だから本社に宛てて数々の賛辞が寄せられた。

「輸入時計大展示会 」に協賛した当時の15の商社名

大展示会への出品商社名は次の通り。
太洋貿易KK(ラコー・ブライドリング、)ヘラルド・コーポレーション(エニカ、オレオール、ドクサ、ウイトナー、バルカン、マーテイ、チソッ卜、モリス、インビクター)、 オメガ・サービスステーション、天賞堂、平和堂貿易KK(ウォルサム他)、服部時計店輸入部(ロンジン)、大沢商会(モバード)、シチズン商事KK(ミドー、セーフト)、シュリロ貿易KK(インターナチョナル、シーマ、ナルダン、サンドーズ、ギラード、ポールビューレ)、中央時計商会(ブローバ)、KKスイコ(ウイラー、エキセルシヤパーク)、デスコドシユルテス商会(オーデマ・ピケ.エテルナ、ホイヤー、グレドス、コラル、チユガリス、サーティナ、エンヂュラス、ルービング)、リーベルマン、ウエルシユリー商会(ロレ
ックス、マービン)、日光商会(ユニバーサル、ウエコ)、相互貿易KK(ウオッチ・マスクー)。写真は、銀座の松屋デパートの七階で行われた「輸入時計大展示会 」の会場入り口とスイス公使が祝辞を述べているところ。右側が本紙の藤井勇二社長。

養殖真珠業界を厚生させた融資運動と三輪豊照氏の功蹟による銅像建立
九億円という巨額な融資の決定に真珠業界はあげて喜びに湧いた

《昭和二十九年》 時計と宝飾品業界を通じて親しまれ且つ愛されながら商売の一つに取りあげられているものに真珠がある。この日本真珠については、その発明者である御木本幸吉翁の遺徳に仰ぐところであるが、戦後経済の混乱を来たした時代に、この養殖真珠の厚生に特別細心の注意を払ったものは、今は故人となったみつわ真珠工業の初代社長の三輪豊照氏である。
この日本真珠界の厚生について、故三輪豊照氏はあるとき私を自宅に呼んで述懐した。
「日本真珠の世界的進出を計るためには、何としてでも養殖真珠業者の資金的救済を計るのにある」という観点を決めてかかったことに発足している。
この資金的救済策を打立てなければならなくなったのは、過ぐる昭和二十九年当時の赤潮の災害によって真珠業界が壊滅的打撃を蒙ったときからである。勿論、三輪豊照氏の営む三井、大村などの真珠養殖場も莫大な被害を蒙ったものであった。これらを救済する施策には、政府に理解ある救済策を仰ぐ以外に処置なしということに决めたのである。
その結果、私と三輪豊照さんは、三輪さんの自室で相談しながら、次の陳情文言を書き上げた。たしかその傍には、堀口、片山の日本真珠振興会の組合幹部もいたと思う。そして、この陳情書に基づいて奔走した結果、鳩山一郎氏が総理大臣を務めていた時代に、確か運動が成功して「九億円」という低利の融資を受けることに漕げ付けたのである。
この時の方法を考えると、このような運動とその効用というものは、部内が一致していなくてはダメである。そして、また智者が考え出す案と相まって、更にこの間を奔走する人の行動に対しても、ねたみを持ったり、自分の功名心にあせるような人達が運動の内部に存在しているようなことでは絶対に奏効するものではないという事がはっきり分かった。
故三輪豊照さんと私の合作が功を奏した結果を祝って、二人で乾杯したのを憶えている。九億円という巨額な融資の決定が閣議の了承を得られた時には、真珠業界はあげて喜びに湧いたものだ。しかも超低率の金利貸付によるものだけに、真珠業界は文字通り救済されることになった。しかし、人間というものは得て物事を喪失しがちである。このような恩恵に浴していながら、その中間を斡旋した故河野農林大臣に特別な敬意を表すことを忘れてしまったのである。
その為にえらく不満を持っていると伝え聞いたので、その間の仲を取り持って貰うために、当時の鉄道大臣だった三木武夫氏を業者側に紹介してくれるよう、その斡旋を私に頼んできた。その為、私はその翌日、三輪豊照さんと真珠業界の大手筋といわれる高島吉郎氏を伴って、三木武夫大臣室を訪れて、他に先んじて会談した。そのコースを取ったおかげで、更に第二回目の融資十億円という巨額の許可を与えられたという事である。この事実は、結局、現在の真珠業界を更生させた根本的に役立ったことになると思う。
そこで、この日本真珠業界の功労者である三輪豊照氏は、今は亡く惜しまれながら日本真珠業界債権の礎石を作ったものとして、今や永劫不滅の功労者として九州・大分県の一角に三輪豊照氏の碑石が建てられてある。当時提出した日本真珠業界救済用の陳情書は下記の通り。養殖真珠業界の救済に尽力した功績を称えて大分県の真珠の中心地である畑野浦湾ふ頭に建立された三輪豊照さんの銅像。



admin only:
12345678910111213141516171819202122232425262728293031323334353637383940
page:23