※写真をクリックで拡大します。
Home

昭和二十年の暮頃からボツボツ落つきを見せて来た
業界各部門ともに繁栄時代へ

《昭和二十一年》 終戦後における社会的情況の過程を振返ってみると、大体次のようにまとめられる。先ず、昭和二十年の終戦の年は、文字通りドサクサ的時代であったから、これといって明確に記すところはない。ただアメリカ兵が侵入して来て、物資の交換時代が拓けたという程度である。従って日本人本来の自主的な行動としては、昭和二十一年に入ってから前進したといっていいようである。それだけに、その前の年の暮頃から徐々にではあるがボツボツ落つきを見せて来ていたということが言えるであろう。
何れにしても、昭和二十一年に入ってからは、本格的に各部門ともに活動が展開されたことになる。新円との切換えが二十一年の二月十七日に行われたのであるから、この時は明らかに世代が転換された時であるといえる。ここで考えたいのは、この頃までの日本は永い間続いた戦争のために外国との交流が絶たれていた。従って国内で取引していた所謂国際性をもつ商品についての価格(註、ダイヤモンド、時計の類)の点では皆目わからないということになっていたのである。だから国内事情が落ちついて来たとみられる昭和二十一年頃の取引価格も、これまで馴れていた価格のそれをそのまま継続していたに過ぎなかった。だから昭和二十一年の暮れ押詰まった二十五日頃になって、買い取ったダイヤモンドは、何と六カラッ卜、四カラッ卜、一・八十力ラットの計三本で四十万円という代金で私か決済したのであった。これが、その年が明けた二十二年の元旦になったら途端、三十倍にも跳ね上がって終ったという現象が起った。
これは、前述したように日本が戦争期間中、鎖国的環境にあったがための一大損失であったと言える。平和を迎えたお陰で外国事情が漸次投入されて来たことから、かくは国際的商品が急上昇し、国際水準に近よった価格にまで引上げられるようになったのだということだ。ダイヤモンドに対する価格が一挙に引上げられたのは、昭和二十一年の暮を峠にして、二十二年の正月と二十三年の新年早々からの二度に亘って一大変化を期している。
以来、ダイヤモンドに関する限り、それほど大きな価格上の変化はないが、然し平和な時代が続き、国内の貨幣価値の関係から、ダイヤモンドに対する値段は、漸次世界的標準に近づきつつあるのは事実で、優良品が漸次大衆からも注目されるようになっていた時代だ。

南京虫時計が動き始めた最初の頃
一応ヤミ物資取締りの対象にあげられていた

《昭和二十一年》 ダイヤモンドの価格変動時代に続いて、時計もこの頃にはスイス物にアメリカ物等、いろいろ雑多な品物が入荷していた。特に、婦人用の俗称南京虫といった小型の時計が流行を煽って来た。だが、この南京虫という婦人向きの時計は、ヤミ物資の中に入るので、一応ヤミ物資取締りの対象にあげられていたのはいうまでもない。だから表立って大っぴらな持歩きは出来ないものとなっていた。時として、MPあたりの関係になった場合には、違反物資として取り上げられたようである。
しかしこの頃、この南京虫という婦人用時計に対する流行と愛用熱は、とてもではないが盛んであり、違反というそんなことが存在するかどうかは別問題の如き情況で品物は売れ過ぎる程であった。
その売れ行き具合ときたら、他品を省みるいとまもなかった程だったのである。国産時計の側から見ても、少しく羨望的な見方がされていたようでもある。
だが然し、このことによって時計の小売店それ自体の懐ろ貝合がまた頗る的に、豊かな状況になっていっていた。この面からは寧ろラッキーであったという見方をしないでもなかった。いうなれば、おかけで時計界は助かったという内面的事情が含まれていた時代であったわけである。

占領軍命令で石福金属興行が活躍した時代
押収した地金製品の精錬事業

《昭和二十一年》 そんなような状況が続いた時代から、業界事情はとみに良化していった。だが然し、一面これら日本国内事情に注目していた連合軍のCID(巡邦警察)当局では、占領事業の中で重点施策にされていたダイヤモンドの押収、貴金属地金の占領等の事柄が続いていた。前者のダイヤモンドは、現に日銀に保管してあるものが当時押収したもので、これに対する品質鑑定は、巽忠治、松井栄一、久米氏ら三氏により、これに米人二人を加えた計五人の手で初めて行なわれたようである(巽氏が大蔵省で説明した中から)。
次に、貴金属地金については、いろいろな所蔵品を押収して来たようであり、それを連合軍指定の石福金属興業KKの下谷の練塀町の精錬工場で当時昼夜を問わず精錬していた時代。業界ではこの頃、石福金属興行が実際に精錬していた状況を実地に検分していたことで疑いはなかったが。それは当時業界では、この石福工場の精錬事業について、いろいろな噂が取沙汰されていたのである。
人によっては、連合軍のスパイ行動の現われであるなどといっていたものがあった位で、実際の状況を見に行ったのであった。後で石福工場からこの当時の状況を聞いてみたところ、まことに遺憾な話であったが、この頃、業界内にも大量に精錬する場所がなかったので、否応なしに連合軍の命令としてマッカーサー司令部から示達されたことによって、受けざるを得ながった次第であると石福興行自身が釈明していた。これによってこの当時の事情が明かになったという次第である。

市場に出廻ったヤミ物資時代
面白いほどに儲かった時代でもあった

《昭和二十四年》 物の交換市場というものの利用度は、そこに出入りする業者の人々によって、他の店子(小売店)へ流れうるものでなければならない。商売上当然の理屈である。そのような環境から終戦後二、三年を過ぎた頃の市場における売買状況は変った。国内物では、華ちゅう界方面から流れ出て来たのであろう。ご紋章入りのデコレーション的な物などの珍品がぞくぞく出品されたのである。
この外には、エメラルドカットのダイヤモンド、または五キャラ、七キャラもあるダイヤモンドなどが出品されるというような状況となった。それらは全て生活資金のために現金に交換するためのものと読み取れた。
然しながら、この頃はまだアメリカ兵がそう沢山やってきた時代ではなかった。そうこうするうちに、昭和二十四年ごろからアメリカ兵が持ってきた物資の中に高級品が持ちこまれるようになって来た。即ち時計類である。アメリカ兵の駐屯しているPXからのものもあれば、ヤミ物資の中には、直接米国から輸送して来たものも出廻るという時代になっていたので、交換市場は勿論のこと市内の小売店辺りでも到って商況は活発になっていた時代である。
一方、時計の小売店界の売行き状況の中で、呉、横須賀等の軍需港地内の時計の売買商況と来たら、また活発すぎるほど繁栄を果していた。だがそれらに供給する品物は。凡そ、東京または大阪方面の業者から供給されていたものであろう。然し、この頃、東京方面では、アメリカ兵が好むような宝石入りの指輪やその他の製品が作れるところは少なかった。作業する飾り職人屋も、またこれを商う貴金属卸商というような業種のものも、戦後のことだけに、そうあくせく仕事をするものもいなければ、またやろうと意欲を深める人も見当らなかったものである。ところが私の方は、物品交換の市場を開いていたのだから品物の動きは活溌であった。これを聞いてか三輪屋関係のカザリ屋連中がやって来た。そして「貢金属品を作らせて呉れ」というのである。商売などやったことのない私ではあったが、この頃クシ、甲がい、かんざしなどの売物を買って、これを時代性に向くようなブローチ、ペンダントに作り替えたのが飛ぶように売れたのである。売れるだろうと予測して、その道中の希望に応じて作らせることにした。
作ったのは、カメオの原石を取入れたブローチ、それに銀台枠に真珠を取込んだ高彫り指輪等である。これがアメリカ兵向けに飛ぶように売れたのである。だから横須賀方面向けの卸商には、特によく売れた。当時扱っていたものは、それら指輪類は総て一個売りしないで一束毎に、二十本差こんだ一束売りである。“寝ていて儲かった時代”というのは、この頃の事をいうのかも知れない。このような情景であったから、仕入れる側の卸商もこの頃は、頗る熱心であった。商売が盛んになり、利益が思うように上ってくると、面白いものと見えて、私が寝ている朝の寝込みを襲って出来上りの製品を先取りに来たのである。その頃、飛び廻って儲けた某々商社主などは、現在では大きな卸商として堂々たる存在となっている。それらの商号と氏名はここでは略すが、兎に角儲かり過ぎて笑いが止まらなかった時代であった。品物の取引はするが、その代金の現金をいちいち数えて取扱うというのが寧ろ面倒くさいという考え方を持ったほどの時代であったのだから愉快な話である。

銀地金の事からCID行き
押収物件の中の約二トンの銀が、突然行方不明になった事件

《昭和二十二年》 貴金属地金については、この頃、銀地金のことなどでCID(連合軍警察)当局が追及していたことがある。ここで断っておくが、この頃俗にいうアメリカ兵側のMPとは、米軍事関係の取締り官で、CIDというのは、連合軍の物資摘発警察をいうのである。だから、何れとも、いざ踏み込みの場ともなれば、土足のままでやってくるのである。一方は軍関係、CIDは民間警察の関係という差があったもの。
貴金属地金についての所在などを追及していた連合軍の側の取締り当局では、この頃銀地金の行方についても諸所を追及していたようだ。ところが、銀に関するその押収物件の中の約二トンばかりの銀が、突然行方不明になった事件が突発した。そして、それに対するMP、CID当局の活動が始まっていた時だったから警戒の要があるという情報がこの頃飛んでいたのである。
この頃の時計業界は、アメリカ兵向きの銀製品作りなど極めて盛んであったのだから、あるいはそれらの面に流れていたかというでも懸念などあった。そうこうしている中に、この頃下谷入谷町に「五の日会」なる市場を二十二年の十月から始めたのがある。
その管理人は、松井栄一と大平吉蔵の両人が主となりタクトをとることになっていたので、病気上りの私も、商売上のおつきあいということで二十五日のその日の市に都合して出席したものだ。ところが、この市場においてこの日(十月二十五日)突発事件が起きた。突如として、CID当局の強襲があったのだ。当日の午後一時頃だったと思う。ここの会場は二階にあったので、その二階から外部を眺めた人の眼に一寸不可思議なものの人の動きがあるのを見たので、早速この情報に基いて参会者一同に一応の注意をした。
各方面の顔役連中までがその場を引きあげるということは出来ない立場もあったので、そのまま引止まっていた。

ブラックマーケットに烙印された時の恐怖
「五の日会」にCID当局の強襲があった

《昭和二十二年》 すると午後二時を過ぎた頃一台のジープの音がして、表に止まったと思った瞬間、会場の入口から早くも土足のままで入って来た眼色の変った豪州兵らしきものがピストルを向けて何やらいって立っている。恐らく、手をあげろといったのだろうと思う。私達は、机の上に白布を張りめぐらした台の上に所持品をおいたまま両手をあげた。すると、二十五、六人もいたであろうか、その中の一人一人の身体を軽く手でさわってから品分けをする時のようにしてだんだん列外に除けていった。最後に残されたのは、越光、飛田、白石、竹内、松井(長男)に私の計六人だったと思うが、その一連のものは、所持品の関係で大物の部類にあげられたようである。このとき私の持っていた品種の大体は、色石約一千カラット、ダイヤの裸石と、枠入り指輪、銀製角形印台指輪に彫入りのもので、価格は推定約一千万円位と報道されたという。その他の面々も、つぶし金諸々に色石とダイヤモンドの各種を取まぜ所持していた。豪州兵らしいピストルを持った兵隊らは、ここまで点検して来たので一応納得したらしく見えた様子で、これから品定めをして更に訊問だけが残されることになったのである。
そんなことがあったので、一体何か目標でこの日のガサを行ったのかが一向に判らない。そこでその理由を聞いてみたところ、手持ち品の中の銀製高彫り・つき指輪とブローチ、ダイヤモンドの裸石は、何れも占領政策違反に問われる品種であり、ルビー、アレキはガラスという見解で無関係だという取扱いにされた。兎に角六人一行は、このあとジープに乗せられて麻布警察署に送検されて取調べをうけることになった。
取調べの結果、金塊の所持者は一応押収され、その他は無事帰宅することが出来だのだが、このときの調査目的のポイントがどこにあったのかと聞いてみたところ、「業界開係のある一人が進駐軍の管理している銀塊二トンを紛失したので、その捜査を行った段階でブラックマーケッ卜らしき所を急襲することになったのだという。そのことが判ったので正に正直者が馬鹿を見たという馬鹿馬鹿しい一巻となったのである。だが、このとき麻布署の奥深くには(留置場)物資活用協会関係にかかる金塊事件の違反事件に問われて攻められていた貴金属業界の某人氏等数人の顔が見えていたなど、当時の蔭の状況の一部がのぞかれていた。

物品税撤廃や養殖真珠業界を救済するための融資運動など
当時の鉄道大臣だった三木武夫氏を訪れ、大きく業界に貢献した

《昭和二十三年》 私は、その時三木君を虎ノ門脇にある国民協同党本部を訪ねて、何回も懇談を重ねた。三木君から国策について意見を聞かれた私は「敗戦した日本の社会は、資本主義でもなければ社会主義でもない。上下、左右にとらわれない為の方策といえば、“協同経済方式”を取らねばならない事になろうから、この点を考慮して新しい日本の国作りを考えるべきではなかろうか」と一つのポイントを提示した。
果せるかな、芦田内閣が生まれた時の経済的国策は、協同経済主義の下に協同組合方式を奉持する旨を明言した。以後、日本の組合性格は現状のごとく、協同組合時代が続いているのである。
その時の芦田内閣は、“昭和電工疑獄事件”のため昭和二十三年七月に総辞職した。この時にも、三木武夫君を通してこの業界の為になった事が様々ある。その一つは時計・宝飾業界あげて推進を図っていた「物品税問題」に対する陳情運動の場である。当時、全国時計宝飾眼鏡商連盟の佐川久一会長を伴って当時の鉄道大臣だった三木武夫氏を訪れ、いろいろな工作を図ったことがある。
更には、日本の養殖真珠業界を救済するための融資運動の陳情についても今は故人となった三輪豊照社長や真珠界の大御所的存在の高島吉郎氏らと共に三木武夫氏を通じて、業界に大きな貢献をしたことを思い出す。このように裏面工作をした思い出が沢山あるが、私的な関係を利して業界の諸事にわたって貢献しえたという事になる。

商品の仕入れは、市場を通じての時代
各市場を一本にまとめて大きな組織にしようという動きが始まった

《昭和二十三年》 市場での取引が盛んになってきたころ、この状況が地方の業者の間でも知れ渡り近県の人は勿論、遠くは北海道からもやってくるようになった。そんな関係で市内の小売業者は、この市場に出入りして取引が成立する場が見られるようになった。
そんなことから昭和二十三年になって、各市場を一本にまとめて大きな組織にしようという動きが始まった。
その結果、上野公園内の東照宮前にある貸席である「梅川亭」に交渉して、定期的にここを会場にして開催することにした。この会場に決めたのは、ただ規模を大きくするだけでなく、この頃警察の取り締まりも厳しくなっており、市場会場を整備管理しなければならないことになっていたからでもある。
管理体制をしっかりするという警察からの要請もあり、その為に「古物組合」を設立した。その組合によって運営するコースがとられた。兎に角会場を上野の森に移すことにした。このとき市場関係に主として当っていたのが、古物商仲間の永井平保武氏、飛田新吉氏、越光保氏、赤沢幸吉氏、白石憲二氏、竹内武一氏に私(藤井)を含め、計七人で立ち上げた。そこで呼称を「七福会」と名称した。この会場に決めた梅川亭というのは、名を横井さんといって、その昔は徳力本店に勤めており、その当所私は少しく顔見知りがあったのだが、今はそのあとの当主である。三百五、六十年も昔から存在している由緒ある茶店である。この梅川亭に会場を移してからは、来場者の数が増え出し、商品もグンと増えた。
その筈である。市中はアメリカ兵気風が交ってくるので商品の交流は激しくなる一方、それだから本職の質屋買出人も登場するようになったのだから、市場はそれに応じて盛んになるばかりであった。
そこヘアメリカ兵方面からのPX用の舶来時計なども出始めて来た。この新品のアメリカ兵が持ち込む時計は、最初の中はアメリカ兵が自分ではめていたものを物々交換したりしたものが、業者の手を経て市場へ出て来たというコースを辿ったものであったのだが、この頃のものは真正真明の古物品であったわけである。

ヤミ時計が出廻った昭和二十四年の頃
南京虫が登場した頃は、正にヤミ時計オンリーという時代を呈した

《昭和二十四年》 ところが、駐屯部隊の落ち着き具合が進んだものと見えて、それ以来引き続いて新品の舶来時計が市場に出品されるようになった。たしか昭和二十四年の頃が最初ではなかったかと思う。但し、これらの時計も最初は銀座辺りでズベ公辺りを相手に売買していた程度のもののようだったが、よく売れるようになって来てからは、品物の量が極端に増えて来た。だから一個や二個での取引では捌き切れなくなったのである。
この頃、PXの場に登場した外人の名はいろいろ雑多だったが、その中でもバンドと時計を大量に持込んで来た外国人は、ジェームス・ベーカーという名の人だと聞いていた。ハワイ生れの商館出の人で、日本に来てからは、オフィスを芝のマソーフクというビルにおいて常連を相手に取引をしていたのだという。
品物は米国製の時計が主だったが、ウォルサム、グルエン、べンラス、ブローバ、エルヂン、それにスイスもののロンジン、ナルダンも時には入っていた。この外にパーカー万年筆、キーストン製腕バンドなどが供給されるようになってからは、市場における取引と来たら正に目まぐるしいほどの光景を呈したものだ。就中、婦人用の俗称、南京虫(五型と四型)が登場した頃は、正にヤミ時計オンリーという時代を呈した感があった。
その代り、このヤミ時計のことで事件化した場合もないではない。ある時には、ヤミ時計を持って逃げる輩もある程であったが、それは商売上に伴う当然の結果として大した問題ではなかったようであった。
矢張り何れの場合でもそうだが、完全に無事故であるという状態のものはありえないようであった。兎に角、この頃のヤミ時計は男ものと、また女物の時計(南京虫)も何れともよく売れたものである。そのよく売れたという実例でこういうことがあった。
ある日、市場にやって来たヤミ時計持参の特定の人が会場に着くと、いきなりカバンを開いてアメリカ兵が持ってきた時計の取引が始まったものだ。それが十人も二十人もの人だかりとなって取あっているので、市場の方は商売にならないということで管理人が怒った。そこで市場では、雨後「一切個買い取引は禁止する」という規定を出したほどであった。このような光景からしても、このヤミ時計の売れた程度が想像出来ようというものだ。
また、これは過ぎた時代の事蹟ともいう範囲のことだが、この当時、ヤミ時計専門に扱っていた仲間取引業者が相当数あった。そこへやってきた連中は、荷物の来るのを待って一梱りごっそり持帰るという状態であった。それらがそのまま、大阪、名古屋、そして九州、札幌へと飛んで行ったのだから売れた筈である。
この当時の売れ方を考えてみると、戦争中に腕時計を失くしたり、また持っていなかった人達の腕にするための活動用に供したのだから売れたのも当然という感じである。

腕時計のバンド業界も活況を呈し出した
時計の売行き良好に伴って目覚しい発展を遂げた

《昭和二十四年》 社会状態が活発化して来たのにつれて業界の各関係筋でもだんだんと勢いを盛返していった。ヤミ物資の商品に混ざってきた舶来バンドの出現について、腕バンド業界では大いに注目し、且つ反省され始めた。この頃、腕バンド組合は、昭和二十二年の頃、涌井商会の社長涌井増太郎氏の発奮によって復活することになった。当時の時計バンド組合の書記長だった藤松氏がその先駆になり、活躍したという記録がある。
従って、これからの時計バンド業界は、時計の売行き良好に伴って目覚しい発展を遂げたものである。その結果、到るところで札束が乱れ飛んだというエピソードなども披露されたことがある。
時計バンド業界の最古参株の宮田伊太郎氏らは、この頃遊興にふけり過ぎた結果、遂に財を失くして終ったという悲劇的話題などを残している。そのような経過の中で奮起した時計バンド業者は、この頃から品質の改良に積極的に努め、堂々世界的水準の優良商品に比して独歩的地位を占め、且つ高めつつある美装組合の掌中に権利を収めるに到ったエバー式バンドのそれは、技術的にもその優秀性を実証されうるもので、且つ日本製品の権威を世界に広めるという点で誇るべき商品といえる。



admin only:
12345678910111213141516171819202122232425262728293031323334
page:5