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第二回目の買入商品の受付は、昭和十五年七月一日を以て開始
業者側各委員延べ人員は三千三百人の多数に及んだ

《昭和十五年》 ▽昭和十五年二月十日:業界新聞二対シ第一回取扱商品ノ出荷勧奨ノ件発表、▽昭和十五年四月十二日:矢板専務理事京阪神出荷勧奨会開催ノタメ同方面へ出張、▽昭和十五年四月二十四日:出荷勧奨懇談会開催。
第二回目の買入商品の受付は、昭和十五年七月一日を以て開始した。広汎に亘る買入だけに此の操作における繁忙さは、又想像の外にあったのである。此の買入は、昭和十六年二月二十五日を以て終末したのであるが、引続き第三回の買入れが計画され、その年五月十七日を以て次の如く買入案の骨子を発表した。
一、石入金製品処理ノ件=@連盟預り分買入ノコト、A業界保有分向上、B取外シタル石、原則トシテ買入レザルコ卜、二、評価方法ノ件=@担任委員制ヲ設ケ評価委員中ヨリ担任者ヲ疋メテ評定ヲ指導シ委員会二於テ(各担任委員ノ報告二依り裁決スルコ卜、三、買入方法=(イ)石ノ等級、種類ノ分類、(口)石ノ大小、鶩目ノ決定(ハ)商品ノエ料、等級ノ決定、四、石入金製品の予想点数および金顴(省略)=もっともこの第三回分は主として預り分の処置であったが、此の間、業者以外の一般国民からの金製品供出もあって、一切の取扱いの終了を見たのは十六年の十二月はじめてあった。商品の買入は是を以て一段落となったが、買入れ商品の処理については、業者側各委員が熱心に商品の鑑別、価格の評定、金性調べ等に協力しその延べ人員は三千三百人の多数に及んでいる。

供出量の府県別比率
東京、大阪、愛知、兵庫、福岡、京都の順

《昭和十五年》 この当時の全国に亘る供出量を百分比として、これを府県別に見ると次の如くなっている。
▽東京:二四・三、▽群馬:〇・六、▽千葉:〇・七、▽長野:一・一、▽山形:〇・三、▽大阪:一七・三、▽静岡:一・八、▽和歌山:一・六、▽福井:一・九、▽広島:二・九、▽新潟:一・四、▽島根:〇・三、▽愛媛:〇・六、▽大分:一・二、▽熊本:〇・九、▽沖縄:〇・一、▽朝鮮:〇・三、▽神奈川:三・七、▽栃木:一・二、▽岩手:一・〇、▽福島::〇・六、▽京都:四・〇、▽青森:〇・一、▽奈良:〇・九、▽岐阜:〇・七、▽滋賀::〇・七、▽富山:〇・九、▽山口:一・四、▽徳島:四・〇、▽ 高知:〇・三、▽佐賀:一・一、▽宮崎:一・二、▽北海道:二・三、▽台湾:〇・一、▽埼玉:〇・九、▽茨城:〇・六、▽宮城:〇・三、▽山梨:〇・四、▽秋田:〇・二、▽兵庫:四・九、▽愛知:五・四、▽三重:一・三、▽石川:〇・九、▽岡山:〇・九、▽鳥取:〇・八、▽香川:〇・九、▽福岡:四・二、▽長崎:一・八、▽鹿児島:〇・四、▽樺太:〇・一計100となっている
かくて商品の供出者へは、感謝状を送付し、当局へも十二月三十日付で買入終止を報告した。

蒐集金製品の輸出事業の展開とその終結
事業着手の第一歩としてブラジル輸出品展示会を計画

《昭和十五年》 金銀連盟が当時の貴金属業者からその保有する金製商品を蒐集した事業
は、連盟設立の主眼であり、政府の時局策に順応したものである亭はいうまでもない。しかし、この蒐集のために一定の機構を整え、多数の人員を配し、且つその減り工料を加算した商品代金を支払った等の細かい点にまで及んだ事業を行ったことで連盟としては相当の金額を損失したということから、その損失を補填する意味と、また、一つには、国内物資不足の対応策として輸入物資の引当のために連盟が集めた金製商品を輸出品資材に当てはめることがよいとして、輸出向に転用したことが注目された。このため昭和十五年三月十九日にブラジル同輸出品展示会を学士会館で開いたのが連盟として、この種事業着手の第一歩であり、四月十三日にはブラジル向輸出品の見本写真の携行方を外務省の三浦事務官に依頼した。
輸出に関する記録としては、昭和十五年五月七日の第一回輸出相談会において討議された結果、中南米方面ならびに印度南洋方面に対して具体的な運行策を講ずることを申し合せた。第二回相談会開催の折には、輸出向商品の選定について、各出席者から専門的な意見を徴されたが、こうなってくると時計、貴金属界との因縁関係は漸次薄らいでいくことになった。しかし、当局としては時局下、輸出振興の国策にも一助するという状況下であったので、この面の事業に服部時計店、御木本真珠店などが事業面を通してタイアップしていた記録がある。
しかし、この中、直接巡連盟が輸出面に手を下したのは、上海と広東とであり、当時この連盟がこの両方面への進出を企図した所以は、一:金銀、宝石類が軍需又(生活物資二非ズシテ高価ナル外貨獲得資材ナルコト、ニ:未開地ナル共栄圏、特二南方諸地方二於テ(金製品ノ需要旺盛ナルニヨリ商品トシテ有利二売却シ得ルト同時二、従来ノ手段二依リテハ蒐集シ得ザリシ物資吸収、従ッテ華僑工作ノー端二資スルコトヲ得ルコト、三:軍需対策トシテ(関係当局ニョリ物資交換所ノ如キモノヲ開設スル事ヲ得バ金(ソノ最高ノ効用タル使用の基礎トシテ活用セラレ通貨タル軍票ノ信用二好結果ヲ及ボシ得ルコト、四:国内的二ㇵ製造販売禁止セラレタル貴金属製品ニツキ特二我国伝来の特技トシテ尊重シ得ル象嵌高彫其ノ他ノ技術ヲ輸出二依り保持シ得ルコト。
という点に外ならなかったのである。

戦時体制下、社団法人金銀製品商連盟設立の時の足取り
会長の選定には男爵の東郷安氏を起用することに決めた

《昭和十四年》 時計とその附属品、貴金属宝石類の総てが販売を禁止された昭和十四年
頃の業界は、戦争のための対策ということでただあわてふためいていただけで、これといってまとまるものは何一つとして見られなかった。聖戦の趣旨に応えて一億民衆は、ただ奉公の至誠に燃ゆるのみという態度であった。
この時、貴金具業界を代表して貴族院議員に籍を置いていた山崎亀吉氏が考案して、大蔵省の銀行畑の古手役員であった矢板氏という人を活用、埋れた貴金属品の処理について相談した。その結果、会長の選定という件について、男爵の東郷安氏を起用する案が出来上ったのである。これによって、「金銀製本商連盟」なる団体を設立しようということになったのである。この話は、私が梶田、越村氏などと一緒に中支那方面の経済視察から帰
ったばかりの夏の頃で、山崎氏から梶田氏に相談があり、それから越村氏が私に対して意見を求めたもので、その結果、発足へのコースをとったのである。かくて、その年の十月五日に東京会館で設立認可の披露会が催されている。
従って、戦時下におけるこの当時の業界体制は、この団体一本の息吹きに絞られたといっていいようである。「社団法人金銀製品商連盟」設立の時の足取を辿ってみると次のような概要となる。

昭和十四年七月二十九日「社団法人金銀製品商連盟」が発足した
大蔵省の肝いりで連盟の設立趣意書などが決まる

連盟の設立趣意書
《昭和十四年》 「金二関スル国策ハ現理事変進展ニツレ益々其重要性ヲ増加シツツアリ我等金銀製品販売ヲ業トスル者ハサキニ政府ノ国策二順応シテ金地金蒐集二当り多大ノ国家的貢献ヲナシ得タルハ銃後ノ国民トシテ密カ二本懐トスル所ナルモ今ヤ全国策ノ遂行ニツレ更二業者保有ニカカル金銀製品ヲモ挙ゲテ之ヲ中央二蒐集シ、独り国家財政ノ根本ヲ培養スルニ努ムルノミナラズ、進ンデ其ノー部ヲ海外二輸出シ仍テ以テ外貨ノ獲得二資スルコ卜ハI属国策二順応スル所以ナリト謂ハザルペカラズ」。
この計画は、昭和十四年の六月十日大蔵省迫水金融課長、西原事務官臨席の下に、山崎首長を主唱者として細沼浅四郎ほか九氏の業界代表者が設立協議会を開いたのに始まり、以来数次の準備委員会を開催して着々と結成の歩が進められたのである。
この間、政府側からと関西業者の代表者を網羅し、全国の団体としたい希望もあったので、第一回設立協議会には大阪から辻田峰次氏ほか、中里、生駒、梶、江藤の四氏の賛同を得て、かつ業界外からは、男爵の東郷安、矢板玄蕃の両氏が参加した。かくして七月二十九日の設立委員会となり、社団法人金銀製品商連盟の発足を見ることになった。
この委員会には、東郷男爵を会長に、矢板氏を専務理事、越村暁久氏を常務理事に推挙、創立委員長に山崎亀吉氏を顧問に推戴し、兼ねて評価委員長を委嘱し、滋に機構の大綱が完成することとなった。
紆余曲折を経て設立までに漕ぎつけた亊は欣快に堪えない。役所(大蔵省の調)としてはこの連盟に対し全幅の支持を為すものであり、各位は一体となって、この事業の完遂に当られん事を切望する……というのが、席上における大蔵省の迫水課長の激励の辞であった。

社団法人金銀製品商連盟の事業計画書
政府指導の下、国庫に収納又は輸出を試すものとする

一、 本社団法人は、「社団法人金銀製品商連盟」と称す。
二、 本社団は、国策に順応し貴金属製造卸業者及小売業者より商品たる金銀製品及び宝石類その他を蒐集して、政府指導の下、国庫に収納又は輸出を試すものとする。
三、 本社団は、この目的を達成するために、定款第四条に則り、以下の事業を行うもの
とする。
(イ) 同業者が保有する金製品の買い入れ及びその処分。
(ロ)同業者が保有する銀製品の買い入れ及びその処分。但し、本項(イ)と必ずしも同時に行うものに非ずして時局の推移により必要と認められる場合において行うものとする。
(ㇵ)同業者が保有する製品たる貴石類の買い入れ及びその処分。
(二)金銀白金に代用すべき地金の配給斡旋。
(ホ)この他この社団法人の目的達成に必要なる諸事業。

連盟設立当初の協力者が役員に選ばれる
東郷安会長、矢田玄蕃専務理事、越村暁久常務理事らが誕生

《昭和十四年》 因にこの間、設立の機構及び定款事業計画案などに関して、数次の会合に参加した主たる人々は、
《東京》 東郷安、山崎亀吉、矢板玄蕃、関谷延之助(日本百貨店組合理事長)、土方省吾(服部時計店代表)、細沼浅次郎(東京貴金属品製造組合理事長)、野村菊次郎(東京時計商工業組合理事長)、亀山末義(東京眼鏡組合)、越村暁久、梶田久次郎、溝口万吉(東京装美会)、山本信助、水野伊三郎(日本金地金梶j、伊藤重次郎、土屋好重(日本百貨店組合書記長)。
《大阪》 中里治三郎、生駒権七、梶彦兵衛、辻田峰次、江藤順蔵(大阪貴金属商工組合)

かくして、この社団法人金銀製品商連盟は、昭和十四年八月二日、社団法人設立の願いを東京府を経由して大蔵省、商工省の両大臣に提出、八日には日本工業倶楽部において東京関係の業者組合代表を招き、懇談会を開くと共に、大阪、仙台、札幌、金沢、新潟、広島、福岡の各地においても業者懇談会を開いた。これは、全国の業界にこの事業を周知せしめることに努める一方で、矢板専務理事が機構、事業の遂行の段取りや当局との打ち合わせとその進行に画した。実に目まぐるしいまでの活躍の中、九月二十八日付を以って大蔵省、商工省の両大臣から設立認可の指令が下され、重大局面を担って生まれた晴の子に「社団法人金銀製品商連盟」の名札が付けられることになった。
そして十月五日、東京会館で盛大な設立披露会が行われた。次いで十月十六日には、設立登記も終了し、二十六日には神田・一橋の学士会館で臨時の社員総会を開催、業界紙を交えて業界に設立宣言をした。当時の役員は下記の通り。
▽会長=東郷安、▽専務理事=矢田玄蕃、▽常務理事=越村暁久、▽理事=生駒権七、江藤順蔵、梶田久次郎、亀山末義、梶彦兵衛、野村菊次郎、中里治三郎、▽監事=関屋延之助、土方省吾、▽顧問=山崎亀吉、服部玄三、御木本幸吉、大沢徳太郎。

金銀製品の買い入れ制度が実施される
買入れの価格設定と処分方法の評価委員会が結成された

《昭和十四年》 連盟の設立から三カ月がたち、連盟の活動もすくすくと育っていった。設立認可に先立つ九月中旬、独り立ちの仕事に就いた。「同業者が保有する金製品の買い入れについて」の諸般の手続きが着々と進められ、買い入れ商品に対する価格設定とその処分方法を決定すべき評価委員会が結成され、九月の二十二日に一橋の学士会館で結成式が行われた。

金製品の買い入れ評価とその基準
東京、大阪の有力業者を評定員、実務員に委嘱して

《昭和十四年》 昭和十四年から十六年まで続けられた金銀商品連盟の事業の中には、買い上げ評価委員会を設けて、連盟が買い入れた商品の選定とその買い入れ価格の決定審査が行われた。従ってこの審査委員会においては、この連盟が買い入れるべき商品を選定し、各々の価格表を作成したのである。買い入れ基準表原案の作成に当たっては、まず時計、貴金属、眼鏡の三部門に分けて、各展示会の調査検討を行い、適正価格を算出し、製造、卸、小売りの三種別に、高価な買い入れ価格を定めるなど、煩雑と苦心とを要したのである。第一回目の買い入れ基準は下記の通り決められた。
(イ) 時計側(機械ナキモノ菊座及びかん付、但シ七宝、宝石入ヲ除ク)
(ロ) 時計鎖(提鎖、腕鎖、コートチェーンヲ含ム)
(ハ) 指輪(甲丸、印台、高彫、但シ石ノ入ラザル無地物二限ル)
(ニ) 眼鏡枠(生地枠ニ限ル)

昭和十四年の十月いっぱい、あらゆる準備で忙殺された連盟は、各府県の代表的業者を地方委員に、また夥して買入商品のために東京、大阪の有力業者を評定員、実務員に委嘱して、事業の普及と集荷の促進を期する朧立を終った。
次いで、迫水金銀局長の特別の斡旋で日本銀行の倉庫借用願を提出し、君島文書局長と再三折衝の結果、ようやくにその許可を得て、十月十五日から受入を開始した。そして第一回の買入商品を最も安全に格納する事が出来たのである。民間としては、ほとんど前例のないことだといわれている。雄々しい第一歩はかくて踏み出されたのであった。

四百人を超える技術者の放流
本紙が「時計の修理職人」の斡旋を無料で行っていた時代

《昭和十二年》 私の商品興信新闊社の方針は、新聞事業が本来であるという信条であったのを、どこかの欄で書いたが、戦前における当社は、新聞紙上に紙上紹介欄を設け、時計の修理職人の肩書と就職の斡旋を無料で行っていた。そのため人によっては、私自身が採用テストを行った上で、希望の時計店へ直接差向けたものもある。「お陰様でいい職人が参りました」と喜ばれたものである。その紹介が何年も続いたのだからザット四百人にも余ることになっただろう。私が必要に応じて地方に出向いたことがある。すると店にいる店員や技術者連の顔がほころびて、やがて店先へ出て来て、「藤井社長、その節はありがとうございました」と礼を言われたことが少なくなかった。そんな事があったので、斡旋者数を数えてみたらザット四百」人は超えたろうという結論に辿ったのである。然し、昭和十二、三年頃から、「徴用だ、出征だ」ということで、それらの人達の行方については皆目不明であっただけに、健在でありうる数が果していくら存するかなど、休息時のはなしの種になる程度のものであった。



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