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東京と近畿で金製品の集荷と輸送
警官十数名の護衛のもとに、日本銀行内の連盟倉庫へ安全に収納した

《昭和十五年》 一方東京方面においては、新市内同業者のために六月中旬を期して左記四力所に商品の持込所と持込日を指定して、職員出張の上これらの受入を行ない、七月四日には、横浜市において神奈川県下業者のために、石田組合長以下幹部の斡旋を得て、またその月の中旬には、近畿地方業者のためにも同様施設を催した等、スピード行動を続けたものである。即ち
▽東京方面は渋谷・東横デパート(六月十八日)、浅草松屋デパート(六月十九日)、大塚白木屋デパート(六月二十日)、新宿伊勢丹デパート(六月二十一日)。
▽近畿方面では、大阪実業協会(七月十五日より二十日まで)、神戸・湊川勧業館(七月十八日)、京都商工会議所(七月十九日)。
近畿地方の蒐集商品は、矢板専務理事以下多くの教職員が同地に出張し、各地組合長その他幹部の非常な努力により予想以上の蒐荷を得、現品を数十個の行李に収めて東京へ愉送した等、連日に亘り酷熱炎暑の下に各地の蒐荷が行なわれたものである。
そこでこの荷物は、造幣局が蒐荷の保管を引受け、また輸送途中の沿線各府県警察部の協力を求め、移動警察の申送りによる護衛を受けて東京駅に到着するや、堀留、丸ノ内両警察署の警官十数名の護衛のもとに、日本銀行内の連盟倉庫へ安全に収納したなど、物々しい光景を呈したものであった。

第二回目の買入商品の受付は、昭和十五年七月一日を以て開始
業者側各委員延べ人員は三千三百人の多数に及んだ

《昭和十五年》 ▽昭和十五年二月十日:業界新聞二対シ第一回取扱商品ノ出荷勧奨ノ件発表、▽昭和十五年四月十二日:矢板専務理事京阪神出荷勧奨会開催ノタメ同方面へ出張、▽昭和十五年四月二十四日:出荷勧奨懇談会開催。
第二回目の買入商品の受付は、昭和十五年七月一日を以て開始した。広汎に亘る買入だけに此の操作における繁忙さは、又想像の外にあったのである。此の買入は、昭和十六年二月二十五日を以て終末したのであるが、引続き第三回の買入れが計画され、その年五月十七日を以て次の如く買入案の骨子を発表した。
一、石入金製品処理ノ件=@連盟預り分買入ノコト、A業界保有分向上、B取外シタル石、原則トシテ買入レザルコ卜、二、評価方法ノ件=@担任委員制ヲ設ケ評価委員中ヨリ担任者ヲ疋メテ評定ヲ指導シ委員会二於テ(各担任委員ノ報告二依り裁決スルコ卜、三、買入方法=(イ)石ノ等級、種類ノ分類、(口)石ノ大小、鶩目ノ決定(ハ)商品ノエ料、等級ノ決定、四、石入金製品の予想点数および金顴(省略)=もっともこの第三回分は主として預り分の処置であったが、此の間、業者以外の一般国民からの金製品供出もあって、一切の取扱いの終了を見たのは十六年の十二月はじめてあった。商品の買入は是を以て一段落となったが、買入れ商品の処理については、業者側各委員が熱心に商品の鑑別、価格の評定、金性調べ等に協力しその延べ人員は三千三百人の多数に及んでいる。

東京時計商工同業組合が廃品物資の回収や飛行機の献納運動
三十六の全支部が日比谷公園の中央広場の集荷所に運んだ

《昭和十五年》 この当時の時計業界の行動を代表するものとしては、「東京時計商工同業組合」が唯一の団体であった。当時の組長であった野村菊次郎氏(野村時計店の先代)の活躍と衆望は大きな存在になっていた。
この頃の時計組合は、時局に面した事業の推進に努める機会が多かった。組合陣営は、野村菊次郎組長、梶山平三郎副組長(故)、古川清太郎(故)と山岡猪之助氏の諸氏に、会計は秦利三郎氏、島田辰蔵氏、川名啓之の諸氏であった。そして事業面では、物価統制令の対策運動に続いて、廃品の回収事業が三十六の全支部に向けて強く打出された。それに答えて、神田支部の八森支部長と王子支部の木村支部長などは大八車に山積みした業者供出の廃品物資を組合員が手で押して歩いて日比谷公園の中央広場の集荷所に運んだことがあり、その問の状況は、当時の時計界の気分を反映して特に舌発性を思わせていた。
もっともこの外に、時計卸商団体の「五日会」では、愛国時計号と題名した飛行機一台、外に時計組合の「時宝号英工舎」の英工舎号など献納された。

七・七禁令という販売禁止の処置を打ち出す
五十円以上の時計は販売禁止に

《昭和十五年》 戦時中の経済統制令は、戦争が拡大し長びくに伴れて国内の経済状態が窮屈になって来たので、勢い物心両面にしめくくりをやることになった商工大臣岸信介氏時代である。
鋼使用制限規則、鋼製品製造制限規則等七規則が打出された結果、「七・七禁令」に次いで販売禁止措置が採られることになった。この禁止令を受けた時計業界は、一大打撃であったことはいうまでもない。そのために「東京時計商工同業組合」では、緊急措置として禁止品の「販売延期願い」を申請して向う一年間の許可をうける事態に遭遇した。俗に○公、
○停、に次ぐ○免の証紙が使用されたのはこの時からである。この○免は、地方の組合又は団体から申請があった場合、その地方の情況に合せて地方長官が許可を与えることになっており、東京では都長が許可を与えていいことになっていた。
五十円以下の置時計、目覚時計、皮革バンドと金属バンド、提げクサリ、方針、メダル等が、昭和十六年の八月まで販売許可されるということになった。(注、提げクサリ、方針、メダル等がここに記録されているのは、この当時は時計店での販売品目に取扱われていた主なものの中に入っていたことをこのことによって立証される)。たしか大阪地方の時計組合が申請して同様の許可になったのは昭和十六年の十月頃までの期間であったように覚えている。

中古時計の販売も禁止に
「七・七禁令第二条」の規定によって

《昭和十五年》 ところが以上の販売禁止措置は新品の場合であったのだが、政府は「七・七禁令第二条」の規定によって、中古品でも主務大臣の指定した期日(十月七日)以後は販売を禁止すると発令されたので、これによって受ける打撃は大きかった。
それは新品の時計は、国産品の外は輸入品が杜絶されているので、総ての時計が中古品という名目で要領を使えるという見込みであったからである。その中古品の販売も禁止されるということになったのでは手も足も出ないということになったわけである。
このときの政府命令を見て、国民の大多数は、戦争へのかり立ての激しさを予想していたが、ガッカリしたような面持を見せていたものだ。既に軍隊への徴用令も出ていた時だけに、業者の年輩者も場合によっては、いよいよ国民皆兵の域に突入せざるを得ないのか?という気持を内心秘めていたようであり、元気など誰からも見られない頃だった。

専門新聞業界もいよいよ断首時代へ
業者側から七十余名の賛助株主を求めて資本金三万円の会社が出来た

《昭和十五年》 戦争は拡大する一方である。従って国内の経済統制令は、次ぎ次ぎに無雑作に打出されて来る。街には知人友人を問わず、軍隊への送り込みのため歓送会が毎日街頭風景を呈していた。それが毎日課題のごとくだから、その忙しいこと。毎日の日刊紙の紙上には、戦線の状況が報ぜられているので、なおさら戦禍に巻込まれる気分が深められていた。そのためか、このころから業界新聞に対する断圧もまたひとしきり激しくなった。
支那事変に移ってから警視庁にある検閲係の呼び出しで、新聞紙法に低触するものはドシドシ断首の処置を執られていた。それだけに経済統制令の強化に伴なって新聞への断首措置が強くなったので、時計業界でもだんだんに廃刊の運命を辿っていった。しかしこの断首措置の裏をかいて同僚の勢力と運命を断とうとした悪辣な手段をとろうことを画策し、これをウラで描いていたのがある穏のことから暴露されるに到った事件があった。
警視庁検閲鰥の漸首係は田中杲という巡査査部長、それが業界の杲メーカーの畑の中にあって、今は故人となった某氏と新聞人の二人が共謀して画策した陰謀遂行のために密会した事実が暴露されるに到ったということである。
陰謀事件の本体は、昭和十四年十一月一日、武州御嶽山の山ごりに出かけた時の陰謀計画の際にも含まれていたものである。この事実を知って私に密告して呉れたその人は、それらの悪業を痛烈に攻めた。正義は強かった。警視庁で不当の断圧に責められていたとき、私の知人で親交の深い少しく力を持つ某が検閲、特高課長に直接会ってその是正を要求したことがある。そんな事情から悪くどい断首計画は中止して、今度は新聞に対する組織制を新たに打出すことになった。それは業界新聞の真実の貫録をみる手段でもあったようである。つまり業界の新聞である限り業者も加わった組織でなければならない。それを証明するためには、株式会社を設立して来ることだという、新たな命令を打出して来たのである。この新しい条件について行けるものは少なかった。業者側から七十余名の賛助株主を求めて資本金三万円の会社が出来た。私はレコード新聞の堀某氏と話合って設立した。新聞の新題号は「時計蓄音器興信新聞」というのであった。私の社の外には、山本、竹雅の両氏が主軸となり、浦竹を参謀にして吉田庄五郎氏の助力を得て、五社を併合した光学新聞が出来上った。その他は、このとき既に自然に消滅していったようである。

新聞陣営へのきびしい株式組織命令
光学新聞とは勢力上での対抗馬となったことはやむを得ない

《昭和十五年》 光学新聞とは勢力上での対抗馬となったことはやむを得ない。両社の中に板ばさみとなったのは、東京時計商工同業組合組長の野村菊次郎氏である。
その野村さんとは、私的なことでもいろいろと懇意にしてもらっていたので、当時の情況についても仲介に立って苦心してもらっていたこともある。対相手側には、故浦田竹次郎とその指図によって吉田庄五郎氏が助力者となっていろいろの面で暗躍していた。バカ臭くて、面白くないと思う面のことまでもタッチしていた情報が入った位だから、その間の心底のほどが計り知れたものだ。
吉田庄五郎氏と私との関係は、吉田氏の個人的所用なことまでも頼まれ、いろいろの相談相手になっていたほどであったのだが、急に態度を変えて相手側の立場に廻るようになった。そのねらいは、結局は、聞屋関係者におどらされたようだ。今でも当時の彼の行動の裹判断には苦しむほどである。結局は、吉田氏が気が弱かったがために浦田氏に引ずられた結果であろうというほかはないと思っている。
あの巨大なまでに一時は伸ばした東洋時計を遂に倒産にまで追い込んだなどのことを思い出すと、今さらながら当時の同社のウラ事情など考えて、おかしな意味で惜しいような気がする。

七・七禁令(販売禁止)の品目は
利益のために所蔵または取扱ったものに対しては国賊としての処置を

《昭和十五年》 昭和十五年七月七日以後の製造を禁止した七・七禁令当時の禁止品目は
次の如くである。
禁止品物は、十月七日以降その販売を禁止された(新品も中古品も販売を禁止)指輪、腕輪、耳かざり、首かざり、ネクタイピン、身辺装飾品たるペンダント、ダイヤモンド、ルビー、サファイヤ、アレキサンドライト、ヒスイ、アクアマリン、トルマリン、ジルコン、ガーネット、クリン、ペリール、トパーズ、スピネル、オパール、メノー、猫目石、虎目石、孔雀石、上耳古石、旦長石、青金石、クンフアイト、プラットストーン、又はへマクイトの人造品及模造品。
銀製品にして飲食用器具、厨房用器具、家具什器、美術装飾品、喫煙用器具、身辺用品、装身具、牌盃、被服附属金具など。
販売を禁止した品目(中古品を含む)
時計:一個五十円を超ゆるもの、帯止:一個三十円を超えるもの、バックル:ー個十円を超ゆるもの、眼鏡縁:一個又は一組十五円を超ゆるもの、写真機:一個五百円を超ゆるもの。

第二条第一項第二章による禁制品

銅製品の製造制限に関する件による指定品(シガレットケース、ライター、置時計、蓄音機及び針、万年筆、煙草セット)、銅使用制限規則第四条による指定品(腕時計バンド、腕輪、置時計、オペラグラス、楽譜台、喫煙用器具、蓄音竃ネクタイピン、ネクタイ止よ諮、耳かざり。
▽白金使用規則第一条による指定品装飾用品(装身具、身廻品、什器)、▽亜鉛、錮等使用制限規則第三条による指定品(置物、花器、賞盃、函物。その他美術装飾品、煙草セッ卜、シガレトケース、灰皿、その他喫煙具セット、髪飾、帯止、ブローチ、その他の装身具又は被服附属金具。▽ゴムの使用制限に関する件による指定品(ゴムバンド)、▽皮革使用制限規則第一条に(時計腕革、眼鏡サック、写真ケース)以上の各種目の製造と販売禁止は時計宝飾品界に大打撃を与えたことはいうまでもない。その結果は違反事件が随所に起り摘発されるまでに到ったなど、当時有名な事件である。昭和十六年の五月頃、警視庁の渡辺刑事が中心となって大がかりな摘発事件を起した。これによって時計宝飾品のそうそうたるメンバーが留置された。然しその事件は、裁判にかけられた結果、無罪を言い渡されている。
だがこの事件と同様な性質のもので、白金地金の違反に間われたものには“国賊の汚名”の下に死罪に相当する最大の処遇をうけたものもあり、逐に死を招いた被告もあったなど痛ましい限りである。
当時の白金は、戦争のための重要資材であったので、利益のために所蔵または取扱ったものに対しては特に国賊としての処置をとったものである。然し、この事件の裏街道に仕組まれたものがあったのではないか?という説もあるが。

「全国時計眼鏡装身具工芸組合連合会」を設立して団体を統合一本化
全国他団体の組織化を決め、結成に到る斡旋を連盟側に一任

《昭和十五年》 この当時は、業界の救済的団体として人気を高めていた金銀製品商連盟は、その事業とする金銀製品の買入が第一回に次いで第二回に亘り行われた昭和十五年六月の頃、突如として時計、眼鏡、装身具業界全般を統一した団体の結成を提唱して来た。これは金銀製品の買入れ事業を通じて業者側の便利さを眼の辺りにしたことから起った必然的な声であった。そこで、金銀製品商連盟では、業者側の要望に応えて次のような設立趣意書を配布した。

「結成ノ趣意書」

政府が所謂七・七禁止令ヲ以テ奢侈品ノ全面的管理ヲ断行セヨトスル時二当り、全国ノ時計、装身具業者モ亦進ンデ現時局二対処スル充分ナル認識ヲ以テ国家ノ新体制二順応スべク且ツ斯業経営ノ将来ノタメニモ全国関係業者が一大団結ヲナスベキコト(当然考慮セラルベキ問題デアル。
当時の業界世論に応じて金銀連盟は右の趣意書を配布すると共に六月十日右団体の設立小委員会をまず開催した。この日集った団体は、連盟関係の外からは、次の十団体名があげられ、その代表者が列席した。

△東京貴金属品製造同業組合(久米武夫、松山繁三郎、溝口万吉)、▽大阪時計貴金属商工組合(中里治三郎)、△神戸明石時計貴金属小売商組合(柴崎安雄)、△東京時計側工業組合(在間朋次郎)、△神奈川県時計眼鏡商組合連盟(石田修一)、△全京都時計貴金属商組合(小西一郎)、△名古屋時計商業組合(水渓直吉)、△東京輸出金属雑貨工業組合(梶田久冶郎)、△東京装美会(越村暁久)、△東京腕時計バンド卸商業組合(外園盛吉)。

この委員会では、満場一致で全国他団体の組織化を決め、結成に到る斡旋を連盟側に一任することに決定した。而して、この決議に基き、連盟側では急速に推進を計り六月二十九日、十六の関係団体の代表二十八名の参集により、全国を統一する団体の結成は時宜を得たものであるという意見で一致し、その結果七月五日、東京・神田・一ッ橋の学士会館において設立委員会を開催する運びとなった。新団体の名称は、「全国時計眼鏡装身具工芸組合連合会」に決った。かくて連合会は同年十月二十四日盛大に開催した。

団体名は「全国時計眼鏡装身具工芸組合連合会」に
設立の趣意としては

《昭和十五年》 今ヤ我等業界ハ政府ノ金国策二即応シ生業報告ノ実ヲ示シツツアルコトハ銃後国民トシテ本懐トスル所ナリ、而シテ国際情勢ノ発展ニヨリ愈愈緊迫セル国家ノ現勢二鑑ミ我等業界二於テモ新タナル指導原理ノ下二新体制ヲ確立シ以テ国策二順応スルト共二、業者生活ノ安定ヲ期シ併而将来ノ国際経済戦二寄与セザルベカラズ、玆二業界ノ有志相図り社団法人金銀製品商連盟ノ斡旋ヲ得テ全国組合連合会ヲ組織シ政府ノ指導ノ下二別二定ムル所ノ綱領ニヨリ叙上ノ目的ヲ達成センコトヲ期ス。

綱 領
@ 全国業者ヲソノ職能技術二応ジテ製造、卸、小売ノ業態二従ヒ新体制二帰属セシムベキ限界ヲ定ムルコ卜
A 日常生活二必要ナル工芸資材ニツキ適当ナル限度ヲ定ムルコト
B 生産資材ノ配給斡旋機関ノ統一ヲ図ル事
C 商品ノ適正円滑ナル配給ヲ図ルコト
D 政府ノ低物価政策二順応スル価格ノ規正ヲ図ル事
E 我国ノ特能タル美術工芸ノ技術保存二務ムル事
F 現存スル製作技術、設備、資材及販売機構ヲ以テ努メテ輸出振興ヲルコト

選任された役員
▽会長=東郷安、▽副会長=宮村暦造、▽常務理事=川名啓之、亀山末義、越村暁久、五味行長、外園盛吉、松山繁三郎、森川浅次、▽顧問=矢板玄蕃(その他省略)。
(注)連合会の称号は、眼鏡業界の要請を容れて「全国時計眼鏡装身具工芸組合連合会」と改められた。
かくて連合会の結成を見るや、商工省からは逸早く業界事情の調査方を要望し来り、特に七・七禁止令により販売を禁止せられたる手持商品の実態に関しての諮問があったので連合会では直ちに全国の加盟団体にこれらの申告を手配した。連合会がその使命の前に活動したのはこの調査が第一歩である。



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