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服部時計店の財力は大変なものだった
不景気で一年、二年売れなくても生産したのを倉庫に積込んでおく余裕がある
 
《昭和四十年》 前述のように、スイス物の格安組立品には到底太刀打ちできなくなった
セイコーは、遂に景品付特売を断行することになりました。一回の出荷数量十万個を単位で宣伝することになり、業界紙にも堂々と特売広告が掲載されました。
この事は、国産時計の企業性についてとかくの批判を投げていたようです。それにもまして、財力についての服部時計店の評判は相当なものでした。私の耳に入った噂は、「服部時計店の財力は大したもので、不景気のために一年や二年の問、一個の時計が売れなくても毎日生産したものを倉庫に積込んでおくだけの余裕があるというほどのものでした」。
話は戻りますが、セイコー九型の出来たのを披露するために、取引関係卸商を星ケ岡茶寮に招いたことがありました。初代の服部正一社長に中川支配人、湯川卸部主任の接待で、モリスを型取った非常に具合のいい時計を披露しました。私は今津文三郎氏の代理で出席しいたのですが、初代の服部社長以下、喜びに満ちた顔で話された当時が今なお想い浮かんでいます。
さて、少し前の時代に戻りますが、その頃の時計業界は、特に卸業界では他製品を仕入れて、これに自家製商品のマークを付けて売ることに努めたものでした。ですから、腕の輸入品などの多くは、バラ機械を入荷して、これに自社製の銘柄をつけたものです。競争時代の最も激しかった様相が、このことでも判ると思います。
大物商品では、名古屋製品を仕入れて、自家商品のマークにはり替えました。つまり自由競争が、余りにも激しい所から、資本力の闘いとなった時代だったのです。

当時、流行った通信販売
儲かり過ぎて失敗した経験も

《昭和四十年》 通信販売で有名だったのが、東京の加賀屋商店(野尻雄三氏)、名古屋の小菅時計店(小菅甚左衛門氏)、奈良の保険堂等で、立派な案内書を定期的に発行していました。それは丁度、現在の週刊誌を良くした体載で、それに定価表を付けたので小売店の仕入には便宜をしたものでした。その後、加賀屋さんが整理されたことがあったので、その原因を尋ねたところ、性来気らくな野尻さんが、その経験を詳しく話してくれました。
「確かに通信販売というものは、成績が良かった。仕入れは手形で、売りは現金という条件だから金の余裕があり過ぎた。そのため、いろいろの仕事に手を出したことが倒産した原因である」と述懐していました。
つまり、儲かり過ぎて失敗したということになったわけです。野尻さんは、私と年が相当違ったので、何事でもいろいろ親切に教えてくれました。この時も、「君は若いから私のようなテツをふまぬように」と訓諭されたことがあり、今更ながら感慨深く考え出されます。

私が精工舎専門の卸を目指し始めた頃
銀座一丁目の山崎商店の山崎亀吉社長に憧れていました

《昭和四十年》 話は少し戻るが、シチズン時計が操業していた初期の頃の話。創始者の山崎亀吉さんは屋号を清水商店といって、日本橋馬喰町四丁目で貴金属製作所を営んで盛大にやっていました。その後、日本橋通一丁目に清水ビルを建設したのを機に、山崎商店と改称したと記憶しています。また、銀座一丁目に山崎商店の小売部を開設したのはこれに続いたもの。その頃私は、山崎社長を非常に尊敬していました。なぜかというと、大正初期の頃、電話が非常に少なく、私の勤めていた今津時計店にもありませんでした。ときどき山崎商店へ電話を借りに行ったものでした。
ある時、当方の客筋から山崎さんを通じて電話があり、私がまいりましたところ四十才位の立派な男性が「電話はこちらでございますから」と丁寧に案内してくれたので、恐縮しながら帰ってきたのですが、主人に話しをしたところ、その人こそ社長の山崎亀吉さんであることを聞いて驚いた次第です。山崎さんは、私のような小僧に対しても、同じ人間として丁重に扱われたのに畏敬の念を抱いた次第です。
山崎さんの、人を差別しない態度に大きな教訓を受けたのです。確か、大正十一年頃だと思いますが、十七型の懐中時計が尚工舎から発売され、その披露会が下谷の伊予紋(当時は下谷で一流に属しており、現在は松坂屋の発送部になっているところ)で開かれました。発表されたシチズン時計は、十七型でウォルサムの形に似たものでありました。この頃から、将来私は時計の卸商として独立したいものだと考えるようになったのであります。
そのころ、私の実兄が名古屋で各種の卸商を営んでおりましたが、上京の際など時計業界の話題が出てよく論議したものです。そこで私が、兄に精工舎専門の卸をはじめてはどうかと勧めてみました。当時は、日本広しといえども、精工舎専門はおろか、何々専門などいうような時計の卸商社はありませんでした。それどころか、セイコー製品は融通品位にしか取扱っていなかったのが多かったようでありました。そんなことから、私は兄に対し精工舎専門卸を相当強く進言し、全面的な協力を申し出たのですが、いろいろな事情でその実現を見なかったのであります。それでは、東京で私が始めたらいいではないかという事になりましたが……。
その当時、主人の今津時計店のご子息が幼少ですぐには、商売の跡目には間に合わない状態でありました。そこで世問にありそうな話と同じく、私を今津の跡取りという相続人の話が持ち上がったのです。男の本分として、はなはだ困ったことではありますが、さりとて足跡でケルというようなことも出来ないので、今津時計店にいなければならないような境遇になったのです。そのような訳で、私が独立した昭和五年に到るまで、精工舎専門卸店の夢を抱いて数年、独立の機会を待っていたような次第です。精工舎専門卸店として独立しようと考えたのは、何かの想い付やアイデアなどから取り入れたものではなく、信念にもとづいて考えた結果の真剣そのものの創業企画であったのです。

シチズン時計の起死回生に努めた中島与三郎氏の功績
その間の努力と功績は特記する必要がある

《昭和十年》 我が国の腕時計工業が歩んできた過去を振り返ってみると、時計工業そのものに選別をつけた服部時計店の精工舎と雖も易易たるもので、今日の地歩を占めたのではないようだ。
型・デザインにと改良を積み重ねていった中にも、とりわけ性能の完成度という点については進歩を築く上に一段と苦心と努力が払われていたであろうことは、十分想像が出来る。
従ってシチズン時計の場合も同様に、再建は容易でなかったわけである。シチズン時計が今日の隆盛
を招くに到ったその間の努力と成功へのコースの中には、いろいろ他の詮索を許さない苦労もあったであろうが、取りわけ尚工合時計研究所時代から、そのまま埃にまみれて埋もれ放しになっていた生産技術のそれを起死回生に努めたその間の努力と功績は特記する必要がある。
シチズン時計を再生復活させたその功労者は、中島与三郎初代社長である。昭和十年に但しくも八十四才を以て天寿されたその後で、シチズン時計が発行した中島与三郎伝(福田某氏の内容を一読した)が、故人中島氏の個人的生い立ちなどが十分に盛られており、シチズン時計の再起に及んだ場合のものも認められてはいるが、苦心を払った当時の心境を記してないのを見て私は残念に思った。この機会に、特に在りし日の中島与三郎氏が、シチズン時計の再生復活を終生の事業とし、奮起した当時の経路について少しく記すことにする。

私が中島さんと知り合った経路
下谷村でも顔であった中島さん

《大正十三年の春頃》 当時私が下谷村と呼んでいた時計卸畑を廻っていた頃、巣鴨にあるナポルツの時計工場(ヱルーシュミットエ場)の本間さんという人に出会った。本間さんは、時計の商売をするため卸屋巡りをしていたのである。本間さんが、「シュミットさんに会って広告でも貰いなさいよ」といってくれたので、それから巣鴨の同工場へ足を運ぶようになった。巣鴨の工場へ行った時、私は最初鈴木良一さんに会って広告を頼んだのだが、「中島さんの許可を得ないとダメ」ということだったので、それ以来、中島さんに会う機会待った。そしてまた、スイス人のシーネフさんにも会うことになった。それから二、三度行く内に、横浜山下町の居留地に震災直後の昭和十三年頃、バラック建てのナポルツ商会を訪問したことがある。その時、中島さんに会い、少しく顔見知りになった。その頃の思い出を尋ねたことから、わがままな頼みも聞いてくれるようになった。それ以降ここだけは私にとっては親身のように懐かしさが湧いて来たところである。
外人では、シーネフさんの外にアベックという人がいて、日本人では中島さんの外は鈴木良一さん、本間さん、加藤さん、桜井さん、安西さんという方々に会う機会があり、今でも顔なじみである。それらが二、二年続いているうちに時計界の情勢にもいろいろの変化が生じてきた。中島さんは、下谷村にも時々足を運ぶようになってきた。しかも輸入時計についてはうるさい税関上のことなども湧き上がってきていた。
中島さんは、欧州に行ってから事業の都合で時計業界に入る事になって二十五年間も時計一筋に専門的に働いてきた。「人間というものは、生命に限度がある。だから私は出来ることなら生きている中に、何かの事業を残して死んでいきたいと思っていた。その意味でシチズンを回生出来るなら、終生の事業にしたい」と思っていたと漏らした。「それは立派ですね」と語り合ったものだ。

昭和五年六月二十八日、資本金二十万円でシチズン時計株式会社を設立
深い馴染みの中島与三郎氏が起業家の立場で起死回生

《昭和三年》 本社主催の業者大会が終ったある日、中島さんが私の社を訪れて二人で懇談した事あった。話題は、「時計とその製造」という話になった。「シチズン時計の製造機械の全てが埃に埋もれているのは惜しい」という話題に移った。しばらくしてから、再度中島さんが私の社を訪問した際に、私が「シチズンの再生を進めてはどうか」と中島さんに自分の意見を言った時、初めて中島さんが私に次のように意中をもらした。
私はその話合いに基づいて、当時銀座一丁目の山崎商店と共に尚工舎工場の管理の立場にあった田中地金店を訪れて故人となった田中一郎社長に尚工舎に埋もれている時計機械部品の全部の譲り受けについて下話しをしてみたところ、「あれが役に立つならいくらでもいいよ、私が安田銀行に話をしてやる」といってくれたので、それを中島さんに報告した。それは昭和三年の秋頃だと記憶している。
そのような経過をたどった後、中島さんはシチズンの起死回生についての相談を金森時計店、小林時計店(川村支配人)、京都の大沢商会(森田支配人)を訪れて、それに協力を求めるためにはるばる単身出張したことがある。その時、私は旅先で中島さんに会って聞いている。このとき大阪の富尾時計店の社長に一応意見を求めたようである(これは現社長の話)。
かくして、昭和五年六月二十八日、資本金二十万円でシチズン時計株式会社を設立、自ら初代社長の座に就任したが、会社設立直前、初代社長就任を回避するような気持を私にもらしたことがあった。私は、「それは絶対グメですよ」といったことを覚えている。シチズン機械の譲り受け価格は、安田銀行の担保計算の関係で、最初は二十万円がとこを主張していたものだが、結局は五万を割った四万七千円という金額になったというから中島のおとっつぁんも、如何すべきものかとあとで苦笑したことがあるのを思い出した。
それから二、三年を経て、一応時計の生産体制も順調になったように見られた昭和八、九年の頃のことかと思う。シチズン時計会社への入社、または販売会社の設立という案を私に提唱されたことがあった。中島さんは、シチズンの再生復活を図っただけでなく、生産即消費という企業者の立場についても常に、苦慮されていたその事実を身近に感じたその時には、再度感動せざるを得なかった。
[注]中島与三郎氏については、私は深い馴染みを感じていたので、常におとっつぁんと呼んでいた。中島さんには、私と同年輩の倅がいて、下落合で薬剤店を経営していたので親交を計ってくれといわれたことがある。働手の私はその機会を得ることが少なかったまま戦争へ突入してしまったというのがその後のコースである。
それから後の同社は、現社長の山田栄一氏の努力が奏功して、シチズンは、日本時計工業の一翼を担い、堂々世界に雄飛しつつあるのは慶賀すべきであるが、その基礎を作ったのは、故人の中島おとっつぁん(与三郎)の功績で、特筆絶賛するに価するものがある。同社の現況の主なるものをあげれば要項次の如し。
シチズン時計鰍フ生産能力は、月間四十五万個、資本金三十億円、本社:東京新宿区角筈二丁目七十三番地。取締役社長山田栄一氏。工場=淀橋工場:新宿区戸塚町四―八五六番地、田無工場=東京都北多摩郡田無町一六五〇、販売所シチズン商事株式会社(東京都台東区御徒町一―十二番地、取締役社長山田栄一氏、専務取締役太田敬一氏。写真は、在りし日の中島与三郎氏。

白金事件と代償の一万円
想い出のエピソード三題

《昭和二十年》 これは、終戦の年、昭和二十年五月頃のことだと記憶しているが、私の社が二十年の三月十日の帝都大空襲の災害で丸焼けになったので群馬県の鬼石町にあった日本ニッケル会社社宅に疎開した時のことである。隣りに寄居していた人から金田屋の主人金田某が死んだという悲報を聞かされた。その金田氏は、駒込警察署を通じて東京地検で取調べを受けていた戦時中の物資統制令に違反した事件である。その時の証拠物に提出したのは、戦時中に買い上げたダイヤモンドを輸出することによって外貨獲得という線を打出したいから許可して貰いたいという業界の陳情運動をしたときの関係書類を一括風呂敷包みにしてあったものを参考上必要だから届けてほしいという頼みであった。それによって私は元富士前町の金田氏の居宅に届けたのである。但しこの代償に金一万円也の予約報鴟金を支払う件を約束されたのである。これを実行されないまま彼は捕われの身となり悲報に接したという経過である。つまりこの場合の報奨金流れが第三番目になる話。

日本橋大伝馬町に所在した村松本店の卷
貴金属業界秘話その一

《昭和十二年》 貴金属品を取扱う業者の頭の中には、誰かれなしに何か潜んでいるのではないか?と聞きたくなるほど、他に倍するお金儲けへの執着心が秘められているようである。このことは業者全部に該当する言葉ではないかも知れないが、兎に角これらにまつわるエピソードともいえるものを二、三紹介してみよう。
☆村松本店の卷=日本橋大伝馬町に所在して、明治から大正、昭和の時代にまたがった頃の村松本店といえば当時の貴金属業界では第一人者的存在であった。四角の中に犬印を以て商標としていたから、この角犬印の品物は何所へ出しても通りが良かった。
村松万三郎代表の下に青木という支配人がおり、性格温厚であったが一角の筋が通っていて格式を重んじた人だった。この青木さんが他の想像もつかない業者筋のある店の奥座敷の真ん中で、何やら低頭しながら静座しているような格好の場があった。話から推測したところでは、支払いの期限についての事のようだった。万が一にもそんな筈はないのだが、と思っだのだが、そのあと暫らくして村松本店が整理することになったのだと聞いたのだから驚いた。温情らしく持ち掛けて品物を大束に売り込むなどの向には決して油断がなりませんぞ、というのがここでの第一幕。

一足飛びに昇進、大佐から少将に進級して遂に企画院総裁にまで昇任した
陸軍士官学校出身の鈴木貞一さんに話を聞く

《昭和十四年》 「軍では八絃一宇を呼称しているが、その意味は天からのぞき見た一連の眼界を悉く平定するという謂にあるものと思う。然りとして、戦争は陸続きの最尖端、シンガポール辺で終息さすべきだと信じている」と。ところが、間髪を入れずに、それを説く理由は何か?と鈴木さんが鋭く反問して来た。そこで私は主張を次のように続けた。
「私は先に幸い中支方面を視察して見て、その広大な地域に驚いた。仮りに、軍の攻略が成功して全支那を平定することが出来たとしても、これを統繝するために天皇が直接支那大陸まで出禦することは許されないものだと推定する。そうだとすれば、攻略成った支那大陸は出先軍官だけになり、宛ら往時の徳川幕府時代の行政に陷るはいうまでもない。国乱れて忠巨出づの反対の戦果が成って反乱が起こる懸念なしとはしない。だから天皇は日の出る国日本に止まって、その手の届く範囲で政治を行なうべきである。従って目下進行中の支那大陸での攻略戦果は、南支を將介石に委ね、中支を緩衝地帯にして統治を収め、北支を満州に属領として手中に帰す事にして、事態の平定を計らなければ果てしない広域戦争のために、国力の自信に問題か起きて来る危険性がある。これは私たち青年層が見ている「八絃一宇の定則」であると思っていると語った。
この時の鈴木さんと野村さんの眼光は静かではあったが鋭かったように覚えている。従って言うだけはいったが先様の結論がどういうふうに出て来るかに瞬間少しくおののきの気持さえ手伝っていたが、佐官服姿の鈴木さんは口を開いて、「私も同感です」とこう答えて私の手を固く握った。そこで一同の緊張はたちまち崩れ去り、女中払いをして戸障子をしめた室内は明け放たれて、盃を交わして上海戦争当時の名パイロット野村さんの上海攻略の経験談などを中心に歓談したのであった。その鈴木さんは、そのあと間もなく東条首相に呼ばれて一足飛びに昇進、大佐から少将に進級して遂に企画院総裁にまで昇任したのである。
序であるから話は後の分までここに結びつけるが、その鈴木さんが大東亜戦争時代の企画院総裁という肩書にある限り、戦争はシンガポールでお終いになるはずだと私は思っていた。そこで後日、軍需省航空兵器総局に判任官として勤め、時計部主任を担任していた当時の私はいろいろな計画がこの時の状況から割出してみたのでズサンに終ったことがある。

国民運動という指標で日米親善国民大会を日比谷で催した
日米親善国民大会を開いた時の情景

《昭和十四年》 第二次世界大戦を起した日本の立場そのものの発端は、満鉄沿線の鉄路約一尺を切断したことから国際間の紛争へ、そして戦争へとかり立てられたのである。元来、戦争というものは偶発的に起るものではないということがその間の現実を見て判る。“小人が閑居して不善をなす”などということとは違って、国と国との闘いになるのだから、そう容易に行えるものではない。然し戦争という事実は、計画に基いて行われるものであり、その源は思想的企画の予定行動に基くものであるようだ。
日本が事変を起して行ったその動機は、この狹い日本本土に六千万人とも七千万人もの国民が生きられる訳がないではないかという一筋の観点から来た心理関係の侵略思想が発生せしめたものであるというのが明らかな事実となっているらしい。それが支那事変に拡大して行ったと米英両国の連合外交が相携えて、日本を経済封鎖という戦略により押えつけようとした行動の現実性が、ひいては大戦争を誘発せしめたものである。
戦争当初からこの問題は、表立って話題にされていたし、又その事実が公然と認められてもいた。しかし、当時は国民皆兵式の一大戦争にかり立てられていたので、さして気に止める事もなかったようである。そこで私と三木武夫君と話合った結果、国民運動という指標で日米親善国民大会を日比谷で催したらどうかということを話合ったものだ。これに参加したのは何れも明治大学の友人ばかりたった。当時の社会情勢は米国に対しては、直接抗戦的な行動をしている訳ではないのだが、然し英米両国の経済封鎖そのものを緩和させることが日本の戦略的行動の範囲としては必要であるという見地から、この日米親善国民大会の開催プランが組まれたのである。



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