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軽金属の輸出メーカー組織として「東京輸出金属雑貨工業組合」が発足
軽金属の輸出メーカーとしての体制つくり

《昭和十四年》 この当時の商工大臣の岸信介大臣が一般物資に対する統制令を出していた。しかし、昭和七年頃から始まった戦争状態は、次第に拡大しながらも国民は慣れ始めてきた。統制令では、金の使用が禁止され、地金の銅の使用も禁止令が出ても、それに対処する方法がまず先んじられた。昭和十一年には金に対する使用制限が発令され、真鍮地金の使用についても品種や量的に制限を受けるようになった。それへの緊急対応策を打ち出そうと努めたのが井村氏が組合長を務める東京時計附属品製造同業組合であり、その改組した新組合であった。その名も「東京輸出金属雑貨工業組合」で、資材使用許可の認定が正式に降りた。貴金属業者が真鍮地金業者に転換しようとしているときだけに何れも真剣そのものであった。結論としては、軽金属の輸出メーカーとしての体制で組織として踏み切ることに決めたわけである。改組して新組合になった時の会場は、小森宮さんの貸家の二階であった。当時の役員は、中野新助、小森宮、井村松五郎、浦田竹次郎、青山仁作、大須賀正太郎、青木房吉、持田憲作、山田乙二、宮田伊太郎、中村竹松、梶田久治郎、谷田賀良倶氏など。

「東京輸出金属雑貨工業組合の設立当時」
時計附属界の大転換時代に備えて

《昭和十四年》 浅草・烏越の井村組長宅に決めてあった「東京時計付則品製造同業組合」の組織を戦時体制時代に急ぎ処すべく計画で輸出に関する統計実績を作ったその書類が、
申請締め切り日にようやく間に合い、輸出工業組合への切り替えの可能性が生まれた。急遽、新生組合の許可が下りたらどうするかの緊急役員会が招集された。勿論、新規に組合を設立しようとしているのだから、準備会は何回も開かれるのが当然である。貴金属業界では、全く新しい統制命令にぶつかったのだから、唯単に政府(当時は商工省)の指令に従うより仕方がなかった。当時の商工大臣は、岸信介氏の前任者だったような気がする。
岸氏は、次官時代に統制経済の点で少壮青年官吏として国民からも嘱望されていた。それが栄進したあとで大臣になったのだが、この当時は戦争が苛烈化しつつあったときだったので、国民間の気持ちは当局の指示以外にいうところはなかった。だから当時の統制官は、ただ単に統制を発する人は、岸信介氏であると思っていた位である。
この岸さんが、一般物資に対する統制命令を出したものである。然も、昭和七年頃から始まった戦争状態は次第に拡大されて行ったので、国内ではその戦争というものの空気に既に馴れ染めかけていた。だから統制令が出て、金の使用が禁止され、又は銅地金の使用が制限されたと発表されても、それは困るということを訴えるよりは、それに対処する方法が先ず考えられたものである。つまり戦争への転換ということになっていたのである。

金属資材を取り扱う業務の団体作りに奔走、喫煙具団体を作る
当時の地方庁では、工業畑の団体や組合には補助金が出されていた

《昭和十四年》 何故このような方途を採ったかというと、当時の地方庁では、工業畑の団体や組合には補助金が出されていたので、完全な金属資材を取り扱う業務の団体作りに奔走したのである。以前にも述べたが、東京徽章工業組合を設立して、政府から補助金として現金十五万円とフレクション7台を譲り受けた。
組合の資本金一切を決めるための発起人会を作り、扱い品目の内容をまとめた。この時の資本金は十五万円で、第一期四分の一払いだったとおぼえている。品種は、時計クサリ、時計針、ネックチエーン、ブローチ、腕クサリ、バックル、徽章、コンパクト、喫煙具、ライター関係を新規に加えた。
当時時計関係には、喫煙具類はあまり含まれていなかった。ライター関係者を新規に加えることにより組合員の開拓にもなり、商工省への顔も経ち、定款に取扱品目の条項を挿入した。当時顔を出したのが、金丸氏と広田氏であり、両者が活躍して組合を作った。当時の組合所在地は、東京・台東区の寿町のお風呂屋の隣に面した50坪の二階建てを買い取って事務所に改装したもの。補助金25万円が決まっていたのでいとも大らかな組合発足体制であった。

英文のカタログの発行を世界に発送した
当時としては、大きな決断だった

《昭和十四年》 昭和十四年の頃、戦争はますます激化していた時代である。この頃の企画として、国産品を輸出に向けるための方策を推進することが必要となってきた。当時は、輸出金属雑貨工業協同組合を設立した直後であり、更に中支那方面の外国市場の実施調査も行った後だったのでそんなことも考慮に入れたものだった。光村原色版印刷会社と交渉して全英文のカタログの発行を考えた。スポンサーには、セイコー、シチズン両社に加え、真珠、時計バンド、眼鏡類に加えて、喫煙具業界の協力を得て発行することになった。このカタログは世界の主要国に発送した。当時、日本製品が今のように世界的に人気があったわけでなく、このカタログが取引上に大いに役立ったというわけではない。それでも専門新聞社がこのようなカタログを発行した点では、各界からある程度認められたようだ。
当時としては、大きな決断だったようだ。

支那事変が急速に進展、英米連合軍との戦争勃発に
産金法施行令で貴金属業界事情も勢い急変する

《昭和十二年》 この頃支那事変が急速に進展、いつ何が起こっても可笑しくない時代になっていた。英米連合軍が、日本の対満進出を阻止する手段として経済封鎖を断行、戦争の発端が余儀なくされたのである。そこで徴兵制の強化とその影響が物資の統制にまで行くとは国民は予想していなかった。戦争によって金の需要度が高められ、政府は産金奨励を行ったが、一面、消費規制の面でも抑制策をたてた。昭和12年8月に、産金法施行令が出たので、ついには金の使用は制限せざるを得なくなり、貴金属業界事情も勢い急変することになった。

疲弊する貴金属業界に立ち上がったのが東京時計付属品同業組合
輸出組合への組織替えの構想が持ち上がる

《昭和十二年》 貴金属業界はこの頃から火が消えたような状態になっていった。業界では、業界の救済する道はないかという緊急会議が各地で起こっていた。しかし同業組合では、何も結論は出ず、無策すぎるという声が多く上がった。何しろ本来が原材料を扱ってない立場の卸業界であり、術がなかった。この時、生産者連盟である東京時計付属品同業組合が対応策に乗り出した。やはり中間流通業ではなく、製造業者の時計付属界の井村組合長を筆頭に、顧問の小森宮、浦田竹次郎、梶田久治郎、谷田賀良俱、中野新助、青木房吉、山田乙二、宮田伊太郎の諸氏が協議の結果発案したのが、輸出組合への組織替えの構想であった。

商工省輸出振興課に書類を提出、設立許可書の出を待った
輸出実績やら用紙や書式形体なるものを用意して

《昭和十二年》 中野新助氏の自宅から「この状態から救うには輸出業務への切り替え以外ない」として、現在の東京時計付属品同業組合の輸出実績を調べ、輸出組合への設立の手伝いをしてくれと懇願された。一時は辞退したが、気丈な中野新助氏と小森宮氏とが共になって男と見込んで頼むと頭を下げたのだから、否応なしに引き受けることにした。しかし、当局への書類の提出期間はあと5日、というように差し迫っており、徹夜で書類づくりに追われた。
書類を作りにしても輸出実績など、そう簡単には作れずに行き詰っていた頃、中野氏の長男が当時中近東へ輸出した実績があると聞いたので、統計に用いられる用紙や書式形体なるものを用意してもらい、更に輸出先の状況を聞いて参考にするなど、大いに役立った思いがある。何とか書類を作り、当時の商工省輸出振興課にて提出、設立許可書の出を待った。

当初は二十七名で東京セイコー会を設立した
東京・中央区を中心に各店を回り、情報収集に努めた

《昭和三年》 時計業者の全国大会の成功は当社にとっても大きな成果をもたらした。まだ二十歳の若き青年であった私は、全国をまたに歩き続けた。先ずは、神田・旅籠町の坂野商店を皮切りに、須田町に移転した金森商店は資金力にモノを言わせて、時計の取引、金融面でも大きく活躍していた。集まってきた人たちは、大阪の沢本さん、エルシュミットの中島さん、エデキンの清水さん、日瑞貿易の川野さんなど、多彩な面々。八重洲の小西光沢堂の小西さんと森川時計店、銀座に進めば石井時計店、更には伊勢伊時計店の秦さん、平野時計店、玉屋、御木本真珠店を回るのが常だった。終戦後私の社が復刊してから時計業界は、関東セイコー会が存立していた。膝元の東京にセイコー会がないのはおかしいということで、当初は二十七名で東京セイコー会を設立した。

支那事変特別税法というのが発令されるなど
当時は貴金属品への課税軽減運動が流行っていた

《昭和十二年》 当時世の中は満州事変を通じて戦時体制の色を濃くしていた時であり、何かが起きたら団体が必要になるという概念がどこかにあったのだろうか。何となく活動期に入る機運が生まれていたように見えていた。かくして時世の進展につれ支那事変特別税法というのが発令された。当時は貴金属品への課税軽減運動が流行っていた。金及び金製品の買い上げに協力するようになっていた。

東京貴金属品製造同業組合は生まれた
組合事業はほとんどなかった

《昭和十二年》 、細沼浅四郎氏を組長にした「東京貴金属品製造同業組合」の書記長に大室乙弥という役人上がりの男がいた。彼は、養女のてる子さんを育てるために新橋でレディーメードの洋品店を営んでいた。その片手間で組合の書記を務めていたのだから、ほとんど何にもしていなかった。この状態に不満を募らせた業界人が、他の団体つくりに奔走した。その一人が越村暁久と仲良しの後藤清貞、梶田久治郎氏らが協力したそうだ。
浅草・三筋町に事務所を持っていた越村暁久氏が私に相談を持ち掛けてきた。越村氏は硬骨漢溢れる人で満州方面へ営業で歩いた人である。当時御徒町の駅前にあった手島製作所という貴金属卸商があった。そこの店の債務整理をしたことから貴金属業界の事情を知ることになり、業界入りして団体つくりの相談を持ち掛けてきた。



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