| 支那の知識人は宗教心には強い尊敬心を払う
《昭和十四年》 その次に寒山時に詣でて、物色した中で感じたことは、寒山時の駕監の中にある建物の力べには、何一つ落書されていないことに注目をひいた。然も支那では、到るところに沢山の子供がいて、日本人を見てはシーサン(先生)シーサンを連呼し、物乞いをしていたのである。だから、日本における場合なら極めて簡単に何か落書きをされて力べのキレイさなどは、見られたものではないのに比べれば、大変な相違であると感嘆した。 その次に、寒山寺の寺院の苑内で、いろいろの土産物を物色していた。そこの住職も手伝い、二、三の寺坊が手まめに応待していたが、格別日本人だからと言って特別の態度も見せてはいなかった。ところが、私が指さしだした南無阿弥陀仏の六字の称号を求める段になると、私を取巻いて見ていた支那人の大勢が突然、已の傍から遠のいて円陣を張った。そしてはるか離れた小屋で土産物の応待に努めていた住職を手招きで呼んでくれた。すると、その住職は手早くその場を処理して私のところへやって来た。私は六字の称号を求めて六十銭の代金を支払ったところ、住職は自分の名刺を取出して私に渡して合掌し敬意を表された。そこで、私も商品興信新聞社長名入りの名刺を出して交換し、そのあと住職は私を案内して本堂までの茄監を見せて廻って呉れた。この本堂には十三尺にも余るような大きな一枚の宝来山に千羽鶴の絵巻軸が掛けられていたので、これを指さして「売りますか」と聞くと、二百円と答えたので、先日路傍で経験した状況を思い出して、「値段は負かりますか」と反問して見た。するとこのとき物静かな足どりで案内していて呉れたその住職は、くびすを返すが如くに後についている私の姿を振り向きもせず、ツト彼方の寺坊に飛び去って離れて行って終ったのを覚えている。そこで直感したのだが。支那の知識人は宗教心には強い尊敬心を払うものだという、実感にうたれたのである。 |
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