※写真をクリックで拡大します。
Home

陳情した団体名が公認組合でないところに採用の方法がないということで頓座
ダイヤモンド買上げに関する陳情書を商工省当局に提出

《昭和十八年》 以上のような経過で、ダイヤモンド買上げに関する陳情書は、商工省当局に提出、買上げ実行についての情況見通しについての瀬踏は、私が一応説明したのであったが、この陳情の趣旨は一時局に適応しているのであり、採用可能な線もないではないが、陳情した団体名が公認組合でないところに採用の方法がないということで頓座の形となって終った。これは市内の某料亭において話合った時の当局側の説明であったのだ。とに角ここまでは私の手で努めて来だのだが、これ以上に秘術を尽すということについては一考したのである。
それはこの当時、「東京貴金属品製造同業組合」なる組合は、久米武夫氏が代表であり、表面上は既に戦時体制時代に突入していたので、貴金属組合としてはなすべく方法もないということにしていた。だから事業というものに手をさし延べるであろうか、などとの予想など到底持てなかった時代であった。いうなれば有名無実という存在のものだったのである。そのような関係から久米さんの組合に交渉しようとは考えなかったのである。従って私としては、陳情書を出して実情具申をしたあとは、当局の呼出待ちといった程度に考えていたから、他のいろいろ起きてくる問題の処理に取り組んでいたのである。
ある日、私が国電の御徒町駅から降りて帰宅する途中で、亀田基一氏と路上で出会った。そのとき亀田さんは、私にズバリいった。「藤井さん、貴方の努力した陳情効果は、結局久米さんの組合の名に切換えて成功しました、トンビに油揚をさらわれた格好ですね」、と心
なしか、せせら笑われたように受けとれた。
だが然し、私の努力によって進めた民間ダイヤモンドの買上げ事業が、曲りなりにでも成功したのなら結構なことだと思った。それだけにまアーこの辺で諒解すべきものだと私自身は心の中で決めたのである。
ところがこのときの私を評して曰く、「正に正直者がバカを見る」といわれたことがある。たしかにそうであったのかも知れないとは思ったが、矢張り私はそのままあきらめた方がいいと思った。

ヒットラーの使者が、日本に原子用資源を海底輸送して来る話も
昭和二十年春、帝都爆弾強襲のころ

《昭和二十年》 B29が帝都を襲来してから軍当局の行動は一層曖厳味を加えて来たようであった。然し、国民自体は敵B29が帝都初訪問した時の戦闘状況の実際を凝視することが出来たので、これからは軍側の報道などは問題にしていなかったように思えた。
つまり、戦局は日本側に不利になっているという活況の一部が判断出来たからである。総局の二階に軍需省参与官の職にあった三木武夫君がときどきやって※たので、その都度私は政府の方針と戦局の推移について語り合ったものである。戦争に勝味があるかないかという点で、心配する空気が案外強まっていた頃だったから、その情報を知りたいがためでもあったが、戦局の情報については、三木君よりも庁内の尉官左官の連中のほうがはるかに詳しかったし、適格性を持っていた事の判断も出来た。
それは戦局の進展に備えて、官位通達というものが出されていたからである。
私が三木君と会談することを誰かが田中という官房長官(少佐)に知らせたものがいて、ある時、長官室に呼ばれて、三木君とどんな話があったのかについて詳しく聞かれた。
しかし、明治大学の同輩ということで、その場を押し通した。この頃は、すでに敵機の帝都襲来が激しく、東京方面をめがけて段々激化してきた時代である。
既に昭和二十年代に移った頃で軍需省内の空気には少しくあわただしいものが見られていた。第一線から飛行機を送れ、飛べる飛行機を送って来いという注文なのである。之に反して国内の生産体制はというと、生産された飛行機の二割しかパスしていない。それなのに不良の八割方についても一応軍からの支払いが行われているというだらしなさである。一体これで戦争が出来るのか?と、涙を流さんばかりに強く訴えて来るのは下士官連中であった。
一塊の時計屋に過ぎない私にこのように軍の機密を明かして訴え、且つ嘆くのであった。こうなってからは少尉中尉の連中までが時計部の室に毎日のように入り込んできて、原子爆弾用の資源ウランを求めるための悲痛な訴えは、この頃特に激しかった。独逸の戦況と日本軍の南方戦局との小競り合いが、いろいろの面で日本の国内に影響していたのである。この頃の軍需省内は、大部分のものが受持つ仕事そのものに手がつかなかったようである。つまり、手が浮いているのである。かくしている中に、昭和二十年の五月十日に到り御前会議が開かれた。そして、戦争の継続可否について討議された事実も秘密裏に報告を受けた。独逸のヒットラーの使者が、日本に原子用資源を海底輸送して来る話もあるなど、なかなか深刻なものが伝えられるようになり、この頃から戦局情報のきわどいものが刻々持込まれるようになったのである。

尉官佐官級将官連が混乱した頃の状景
敵B29の編隊は、東方海上から本土に進入、伊豆地方から関東地方を襲う

《昭和二十年》 そんなように戦争の中味が、国民の眼に直接映るようになって来てから
は、業界関係のことでもいろいろ影響するものが見られていた。品物は間に合わない、それにまた商売をしていたとしても将来への見通しがないなどのことから、卸商群ではなんでもござれ方式に取扱いの種類が随時変っていったようである。
私の社の近くに、戦時中の仕事として始めていた中沢時計工作所もこの頃の戦局の進行状況に見切りをつけてか、「藤井さん、もう見切時ですよ」といって修理部の総てを引払っていった。それは昭和二十年の春の頃のことであった。
戦争が一日一日と苛烈化して来た。沖縄の敗戦が伝えられてからは、本土は一方的に守備する体制の外なかったようである。そんなような状況と共に軍需省における悲報状況を聞くに伴れ、日本計器工業KKの作業所の疎開も考えなければならなくなった。そこで、その候補地を群馬か、茨城かということで越光氏ら幹部連と相談したところ、予定地に予め決めていた群馬県鬼石町の候補地を選ぶことにしたのである。
現地調査あのため、私と越光夫妻、それに浜田氏が同行した。それが昭和二十年三月八日である。その晩は現地に一泊、翌日に帰ったところその晩からB29の帝都爆撃という警報が発令された。
防備体制といえば従業員が帰ったあと、家族が疎開先へ避難したので私一人ということになった。防寒用具にゲートル巻の防火体制というより方法はなかった。この時から帝都は
焼野原と化すことに至った。然し帝都を空襲する前後に行った鶴見、川崎地区の工業地帯への爆撃の方が物すごかった。それが連日に亘ったのだから、その凄惨さときたら表現できないくらい。
その時のラジオ放送は今でもこの耳に残って忘れられない。敵B29の編隊は、東方海上から本土に進入、伊豆地方から関東地方を襲う形勢である。全員防空壕へ待避すべしという放送が繰り返されたのであった。その声は今でも忘れ難い。

敵機B29による帝都爆撃当夜の惨状
正に凄惨そのものという言葉以外にはいえない

《昭和二十年》 昭和二十年三月九日、敵機B29は編隊を組んで帝都の空を襲った。その時の凄惨な状況ときたら筆舌につくし切れるものではない。夕景近くなってから空襲はつづいた。これに対するわが防空陣の活動は始まった。上野の森の博物館前に据えてあった対空陣地からは中空に向けてズドンズドンと発射された。その間隙をぬって敵機は、縦横に帝都の空を襲い舞うたのである。それは宛ら、夏の雨の際になりひびく百雷の騒音にも等しく、あるいはもっと、激烈さを感じたものであったのかも知れない。
防空壕に避難しながらも、時折りどこかで炸烈する時限爆弾の強烈な響きを片耳に受けながら耳を覆って沈思黙考あるのみという姿勢をとるのであった。私の会社の前の不忍池に直面する広い昌平橋筋の大通りも、爆撃から来た火災のためにとんで来る火の粉が銜中いっぱいに流れていた。このような事実は、この世の中に実在するものであろうか、と問いたいほどであった。正に凄惨そのものという言葉以外にはいえない。
昭和二十年三月九日の真夜中頃になってからの敵機B29の爆撃は更に一層物凄かった。
このため郤内の諸所から火の手が上った。大火災の出現である。こうなってくると逃げるという気持にはなれない。ただ身の廻り品をまとめるという程度の外は、防火用意に過ぎなかった。
この時私は、軍需省のお客筋から預っていた修理品の避難措置を考えた。然し、電気が消えていて家の中は真っ暗である。金庫に収めておいた修理品を出すのに手くらがりだった
ので閉口したが、それでも戸外に降り落ちる火の粉の明りでどうやら品物は旅行カバンに収納することが出来た。時計であるがために、薄い座ブトンか木綿のフロ敷堤込んで保存したのである。特配の軍人バンドの残り品約四十打ばかりは家の前に作ってあった防空壕の中に放りこんだので、時計をつめこんだ皮製のトランクだけをひっ提げて親せきの中尉
から貰った昭和刀を小脇に帯刀し、火の粉が雨の如く降りそそぐ街路を池の端添いに広小路に向って進んでいった。
この時、吉田時計店の裏側では保科君ら東洋時計の関係者が出て防火体制に努めていた。そこで、この地下室に私の荷物の保管を頼むことが出来たので、再び家に戻ったのだ。こ
の頃は、既に広小路一帯に到るまで火の海と化していた。当時の日活映画館の裏に「丸万」という料亭があり、それに並んで揚出しなどが並んでいたが、それもキレイに焼け落ちる間際であった。火の街頭を走る車から放り出された一つのコウリ包みに手カギをぶっこんで見たが、重くてどうにもならなかった事を今でも覚えている。
死に直面した時の人問の心理というものは、案外に無慾のものであるということをこのときの光景から考えることが出来た。私の社屋は、その翌朝の明け方頃になって焼け落ちたのだ。然し、床下に保存しておいたガソリン三鑒は決死の覚悟で戸外へ運び出すことができた。そのおかけで、作り立ての夜具を盜まれたという笑えない光景も残している。
夜が明けてからも敵のB29は、吾等が帝都の空を飛び廻っていた。物凄い一夜を明かしたおかげで、それから二日間を駒込林町の三輪屋の寮で西川君と共にぶっ通して眠った当時の行動など思い出して、今更ながらほくそ笑む場合がある。

本社焼跡の復旧認可指令書が出る
借りた家が隣の不始末でまた焼けたついてない話

《昭和二十年》 とにかく三月十日の戦災で全焼した。そこで省内の人から預かった時
計の修理を再開するため、軍需省から復旧指令書をももらうことにした。
しかし、その前に処理工作をしなければならないので、電車通りにある乾物屋跡の間口五、六問の家を月百円也の家賃で借りうけた。ここへ頂けておいた時計の修理品を持ち込んできたのは三月十三日である。ところがこの家が隣りの人の不始末から、また焼け出されたのである。このとき、私の家族が鬼石町に疎開していたので、そこへ行くための留守中の用意に修理品を預けに行ったその留守中の出米事だったから品物については一面助かった
ようなもののその代り、私有物の一切は焼け出されてしまったという、ついてない話である。

焼け跡の金庫内でロンジンのカラフが動いていた
火災で金庫の中身がどこまで持つかが分かった

《昭和二十年》 そこで会社の焼け跡と業者側の焼け跡の見回りをして歩いた。上野・仲町通りにあった金田屋の店は、隣の平井幸之進氏の店とともに焼け落ちていた。その焼け跡を掘り起こしてバラックを建てる工作なども見られたが、焼け跡には何処でも同じように、金庫が独り孤立していたのである。
私の会社の金庫は、裏ブタをブチ壊して中の品物を出したのだが、焼けて一週間目にロンジンのカラフが普通の状態でチクタクと動いていたのには気をよくした。もちろん一緒に入れてあったコップの中の水は乾いていたが、この外提時計を包んであった皮製サックの類はボロボロになっていたので、金庫の中の品物が、火の重圧に対してどの程度に耐えうるものであるかという点の参考資料にすることができた。

戦況不利になった頃の御前会議
省内は上を下への大騒ぎとなっていた頃である

《昭和二十年》 昭和二十年の六月頃だったと思う。軍需省の久保監理部長から褒章を受けたので私は何の課に行っても通りがよくなっていた。ある時、航空兵器総局総裁の遠藤三郎海軍中将から呼出しがあって、海軍中将の奥さんの時計を直すことになった。この時、省内のK少佐から、望があれば閣下にズバリ話せば何でも聞いて呉れると言われたが、直々に面接の機会があったが、ついにいい切れなく終った。このあと。中島飛行場復旧救援隊
出動のあと始末のときに、軍のトラックが相次いで出動したその数五〇〇台にも及んだのである。中島飛行機工場は、他の工場と異って制作機能が頗る良い成績を収めていたので、
復旧を急がなくてはなっていたのである。
然し、この頃の戦局は、だんだん我れに利あらずという戦況に変っており、ラバール戦の
撃沈から、テニヤン島の撤兵、沖縄の敗戦等次々に戦力は朽ち果てていた。
昭和二十年五月十日には、皇居内で御前会議が開かれて、戦争継続の成否について大論戦がたたかわれた情報も入っており、省内は上を下への大騒ぎとなっていた頃である。
これは、軍の階級通報により知らされていたものだけに、他言が出来ないことになっており、それだけに、この辺で戦争はお終いになるのだとも感づいたのである。この時は、まだ憲兵というという特権の活動があった時でもあったので、このようなことは、ほかに漏らすと危険であった時代である。

修理晶を納めて軍需省から褒賞貰う
褒状にサントリーの角ビンを添えて褒賞して呉れたのである

《昭和二十年》 焼けてから二週間もしたら市内の焼け跡がだんだん片づいて行ったので
私の会社でも修理を急ぐことになった。兩稲荷町の三和時計材料店の三階に和田さんの疎開後の留守を引き受けながら工作を急ぐことにしたのである。竹本、村田君の外二、三人がやって来て呉れたが、この時は、頂り品の仕上げ処理ということに重点をおいてやった。その結果、修理品を軍需省の中の各課を訪れて、届けて歩くとすごく喜ばれた。
時計屋さんは自分の家が焼けたのに時計を直して届けて歩いている。「実に正直なものである」と褒められた。
この頃、日刊紙に出ていた記事の多くは、預かり時計を持逃げしたという時計店に関する悪性の記事が多い時であっただけに、私の会社の名誉は一際高く評価されたのであろう。ところがある日、軍需省監理部から速達で出頭命令書が私の職場先に届いた。突然の呼出しだけに何事か大事な問題でも湧き起ったのかと、この書状を受け取った瞬間、頭の中をかき立たせた。然し思い出す何ものもなかったのだが、ただ一つ、軍関係のダイヤモンドの件について突っ込んだ話を思い出した事と、原子爆弾用資源のウランの件で省内で話し合ったことを思い出した。
その他には、群馬県大田町の中島飛行機製作所の復旧工事に参加した中のトラックについて談合したことがあるが、これらは何れも係の課長との諒解があったからのことで、格別問題はないと思っている。
この間の速達便の内容が簡単には読み取れなかったのである。そんな気持で、書状を持って管理官の係官を訪れてみた。
行ってみるとそれは軍需省監理部長の久保少将が私の行為を称賛して、褒状にサントリーの角ビンを添えて褒賞して呉れたのである。私は急変して笑顔になった。久保少将は「軍需省内に君のような真面目な人がいるのを喜ぶ」というのであった。うれしかった。
カットはその当時の賞状の写し。

八月十五日の正午、遂に敗戦の大詔が渙発されるに到った
敗戦の大詔遂に渙発された

《昭和二十年》 そのようなことだったから省内の大半はすでに終戦コースの線に動いて
いたものとみられる筋が多かったように感じとられていた。
それを証明づけるような情景は、兵器総局内の何の課に行っても主だった階級官は部屋の中に見えず、まるで空巣のような感じがしたものである。それだけに、また別の作業面である飛行機課の仕事になると、昭和飛行機会社の納品率などはわずかに製品の二割位しかパスしないという劣勢ぶりである。それが報告されてくるので、その都度係の下士官連中
痛快切歯させていたものだ。
その反面、市中の状況ときたら全都が焼野原と化していたのでトント処置なしという状況であって、行く人の多くはヤミ物資の入手に、または売込みにと、あわただしい人の動きが見られたものだ。このような状況判断から推して、戦争はもう終りに近づいているという直感が持てたのである。かくて、昭和二十年の七月頃から、トタンに終戦の声が省内に伝えられるよう
になってきた。その結果、八月五日頃には終戦の大昭が渙発されるなどの情報が軍から流れてきていた。ところが五日になってもツンともスンとも反響がないので、市中はすでに物情騒然たる様相を呈するようになっていた。然し反面各町内会を通じて、この頃竹ヤリの訓練が進められており、敵の上陸作戦の場に備えなければならないという悲壮な情景が伝えられていたときである。
南方作戦の敗北、それに次いで沖縄壊滅の悲報も相次いだので頗る混乱を呈した。軍需省
としては、南方作戦の敗北が伝えられたころから寂戦へのきざしが投げられ固めていたので、これに対して五月後の航空隊の動きなどは頗る激しかったものだ。
八月に入ってからは、立川の横田基地から飛立った飛行機は全軍特航機として南方に向け消えていったのをこの眼で見ている。とくに、八月十五日の大詔渙発の日の前後三日間位の軍の動きと来たら檄昂そのもので、今にも国内のどこかで戦闘行動が勃発するのではないかとさえ思えた程であったのだ。
しかし八月十五日の正午、遂に敗戦の大詔が渙発されるに到った。そのときの、私達国民は、ラジオの前に座してこの日のドス暗い天皇の渙発の声を聞いて泣いた。私は、否、日本人の総ての人が、この時ほど心の底から泣いたことはなかったであろうと思った。負けたことがない日本の伝統が、天皇の名においてはじめて日本の歴史に汚点を印したのであるからだ。

昭和十九年の夏に敵機B29来襲で大慌て
開設一週年記念祝賀大会で歌手の灰田勝彦や淡谷のり子も特別出演

《昭和十九年》 戦争状況は、日がたつにつれて苛烈になるばかりだった。昭和十九年の夏になって、軍は航空兵器総局の人事について、新しい指令を出した。つまり航空に関する限り陸海軍の別をなくそうというのであった。それが実行されたおかけで時計の修理も勢い多くなった。
この時の軍需省は、現在の国税庁に、また航空兵器総局はその前の会計検査員、現在の通産省の建物を全部使い、更に管理部を内幸町の東邦ビル内に別離してあったものだ。
そして昭和十九年の十一月一日は、開設一週年記念祝賀大会ということで頗るデコレーションの催ごとなどが行なわれた。陸海軍の人事交流が行なわれてから初めてのことだけに全館をあげて祝賀気分に隘れたものだ。
そのときの状況は、局の裏庭では双葉山一行が大相撲をとっていた。それに歌手の灰田勝彦や淡谷のり子も、特別出演していたので大賑わいという光景である。館内は酒タルなどが並べられ乱痴気騒ぎそのものという光景を呈したころだ。丁度午前十一時、約一万メートルの帝都上空に突然敵機らしきものが現われて地上では大変な騒ぎになった。
然しこの混乱の中にあっても、事務員等を統卒する避難命令を出す人がいなくなってしまった。つまり酒にたわむれ且つ自分の危難を考えて他を省みることが出来なくなったのであろうか、止むなく南方から帰ったばかりの一人の中尉と私の二人でこのとき全館に檄を発した。そして、女子たちの待避行動のタクトをとったのである。このとき語り合ったの
が軍人と雖も人間である。
沈着性に欠けているものは、尉官であろうが佐官であろうが問うところなく、無責任そのものであると、責めるようにいいあったのである。帝都に初めて来襲したこのB29は、約
一万メートルの上空をゆうゆう飛翔して何れかへ姿を消したのであった。この時が瀬踏みで、このあと帝都の空襲は日をおって一段と激しくなっていったのである。
このようにして戦時体制下の私は、業者と共に適当にその場の法に甘んじざるを得なかったのである。
その間、業界の一部にも顔を出してみたことがある。服部時計店からは昭和十九年の春まで一定額の広告料を頂いていた。この頃は大塚さんの時代から離れて昭和十七年頃精工舎
側から転任されて来た片山さんの時代ではなかったかと思っている。時計の卸部には同店の最古参の梶原さんが、業者の注文品に応じながら、藤井君、まだマゴマゴしているのか、と言われたことを覚えている。
時計組合の関係では、野村さんが組合長の時代であり、野村さんのご令息康雄さんが応召されてからの心労ぶりは想像の外、兎に角連絡が取れたら頼むよ、という子ぼんのうぶりを聞かされたものである。従ってこの頃の時計の小売店と来たら、どこも同じように活溌な光景はなかった。然し私の業界廻りは、これまでの業者側との馴れ染めの関係で顔を出した程度であっただから、そのあとは依然軍需省通いの時計部勤めの判任官ということで勤勉に活動を続けていたのである。



admin only:
no_back
12345678910111213141516171819202122232425262728
page:1