※写真をクリックで拡大します。
Home

養殖真珠業界を厚生させた融資運動と三輪豊照氏の功蹟による銅像建立
九億円という巨額な融資の決定に真珠業界はあげて喜びに湧いた

《昭和二十九年》 時計と宝飾品業界を通じて親しまれ且つ愛されながら商売の一つに取りあげられているものに真珠がある。この日本真珠については、その発明者である御木本幸吉翁の遺徳に仰ぐところであるが、戦後経済の混乱を来たした時代に、この養殖真珠の厚生に特別細心の注意を払ったものは、今は故人となったみつわ真珠工業鰍フ初代社長の三輪豊照氏である。
この日本真珠界の厚生について、故三輪豊照氏はあるとき私を自宅に呼んで述懐した。
「日本真珠の世界的進出を計るためには、何としてでも養殖真珠業者の資金的救済を計るのにある」という観点を決めてかかったことに発足している。
この資金的救済策を打立てなければならなくなったのは、過ぐる昭和二十九年当時の赤潮の災害によって真珠業界が壊滅的打撃を蒙ったときからである。勿論、三輪豊照氏の営む三井、大村などの真珠養殖場も莫大な被害を蒙ったものであった。これらを救済する施策には、政府に理解ある救済策を仰ぐ以外に処置なしということに决めたのである。
その結果、私と三輪豊照さんは、三輪さんの自室で相談しながら、次の陳情文言を書き上げた。たしかその傍には、堀口、片山の日本真珠振興会の組合幹部もいたと思う。そして、この陳情書に基づいて奔走した結果、鳩山一郎氏が総理大臣を務めていた時代に、確か運動が成功して「九億円」という低利の融資を受けることに漕げ付けたのである。
この時の方法を考えると、このような運動とその効用というものは、部内が一致していなくてはダメである。そして、また智者が考え出す案と相まって、更にこの間を奔走する人の行動に対しても、ねたみを持ったり、自分の功名心にあせるような人達が運動の内部に存在しているようなことでは絶対に奏効するものではないという事がはっきり分かった。
故三輪豊照さんと私の合作が功を奏した結果を祝って、二人で乾杯したのを憶えている。九億円という巨額な融資の決定が閣議の了承を得られた時には、真珠業界はあげて喜びに湧いたものだ。しかも超低率の金利貸付によるものだけに、真珠業界は文字通り救済されることになった。しかし、人間というものは得て物事を喪失しがちである。このような恩恵に浴していながら、その中間を斡旋した故河野農林大臣に特別な敬意を表すことを忘れてしまったのである。
その為にえらく不満を持っていると伝え聞いたので、その間の仲を取り持って貰うために、当時の鉄道大臣だった三木武夫氏を業者側に紹介してくれるよう、その斡旋を私に頼んできた。その為、私はその翌日、三輪豊照さんと真珠業界の大手筋といわれる高島吉郎氏を伴って、三木武夫大臣室を訪れて、他に先んじて会談した。そのコースを取ったおかげで、更に第二回目の融資十億円という巨額の許可を与えられたという事である。この事実は、結局、現在の真珠業界を更生させた根本的に役立ったことになると思う。
そこで、この日本真珠業界の功労者である三輪豊照氏は、今は亡く惜しまれながら日本真珠業界債権の礎石を作ったものとして、今や永劫不滅の功労者として九州・大分県の一角に三輪豊照氏の碑石が建てられてある。当時提出した日本真珠業界救済用の陳情書は下記の通り。養殖真珠業界の救済に尽力した功績を称えて大分県の真珠の中心地である畑野浦湾ふ頭に建立された三輪豊照さんの銅像。

「十六億円を月別に融資する必要があります」と陳情して融資を受けた
わが国特産の「養殖真珠」は、約二十億円の外貨獲得商品

陳情書

日本真珠輸出組合    理事長 高島吉郎
真珠養殖漁業協同組合  組合長 堀口初三郎

《昭和二十九年》 天然真珠に代って登場した養殖真珠は、わが国で独得の発展をとげ、現在わが国の持産品として、その九十七%までは輸出され、欧米はもちろん世界に至るまで販路を広め、各国夫人の愛玩の的となっている。
しかも、輸出純度は高く百%を示し、わが国特産の輸出商品として貿易改善に寄与しております。現在、年間約五百万米ドル、すなわち約二十億円の実績を示し(このうち在住外人の買上げを含めれば、約三十億円以上)、外貨の獲得に役立っております。しかも、世界の需要市場は、未だ開拓の余地が充分あり、その施策よろしきを得られる将来有望な国際商品であります。
現在、養殖真珠に対する海外からの引合は、非常に活発でありまして真珠購入のためわが国に来日する外人商社も次第にその数を増し、販売については何等の不安を感じませんが輸出の現況は、輸出総額はほとんど不動であるにもかかわらず、輸出量は年々百二貫ないしは三千貫の増加を示しつつあります。すなわち平均単価が低下して来ている状況となっております。これは必ずしも、輸出不振を意味するものではありませんが、真珠の粗悪品が輸出されていることを示しております。
元来、真珠が宝石としての価値を保つためには、その価格が高い値にある事が必要であり、他の一般商品の如く、安くして多く売る商品となっては真珠に対する貴石としての価値を減じ、その取引に不安を抱かせる事になり、わが養殖真珠に対しては誠に憂慮すべき状態となります。かかる事情に対する原因として考えられる第一の事は、金融事情による市価不安定によるものと思われます。生産された真珠は、生産者から加工業者(又は輸出業者)が買取り、加工業者はこれを加工して輸出業者に売り渡し、輸出業者は、自己又は外人輸出業者を通じ、直接輸出に振り向けております。この二段階における、加工業者又は輸出業者の金融事情が思わしからざる場合は、真珠は不当な安値を示し、常に不安定な相場を示現しております。
加之真球事業の特殊事情から
@ 生産業者の資金は、長期に渡ることと、その投下資本は金融担保の対象とならないので生産業者の金融の路は、著しく拘束されているため、生産者は不本意にも生産品を早揚げして、現金化することに急ぐため粗悪品の汎濫となり、その価格を低下させます。
A 真珠輸出、加工業者においても資金事情のため同様に安値売りを余儀なくくされて、価格不安定を来しております。
 なお、この状態が続けば、わが特産品である養殪真珠の声価を落し、せっかくの外貨獲も不可能となり、わが国家経済より見て誠に寒心にたえない状況であります。
 ここにその価格を持続させ、業界を堅実に導き、その重大なる役割を果たさせるためには価格安定資金ともいうべきものを融資し、その輸出価格を安定せしめ、外人商社も安心して見込み買い入れも出来、かつ一般の者も危惧の念なく、真珠を貴石として購入し得るような状態に置く必要があります。
 その方策として、前記二段階の集積資金を円滑に供給して
@ 生産者よりの集荷資金(荷揚げ真珠の買上げ)全真珠養殖漁業協同組合にて、集荷す  ること。
A 加工、輸出業者において、直ちに輸出せらるる段階の真珠は、日本真珠輸出組合にて集荷すること。
いずれの場合においても、不当に安値で販売する必要のない状態に置くのであります。この目的を達するためには、総額金八億円也、年二回合計十六億円也を左記月別に融資する必要があります。
 一、生産業者よりの買上げ資金
   十月より翌年三月まで六ヵ月間=金八億円也
 二、輸出、加工業者よりの買上げ資金
   四月より九月まで六ヵ月間=金八億円也
以上の金額算定の基礎は、左記の通りであります。
 年間生産真珠量        三、五〇〇貫
 右のうち市場に出る数量 七〇勿二、四五〇貫
 匁当たり八百円替として 約二十億円
 業者の自己資金で賄える分として、十分の六を控除した残額金八億円也
右 八億円を一年間二回転として金十六億円也を加工、輸出業者に供給出来れば、市価も安定して生産業者も救われ、不当な安価に買い叩かれる心配もなく、真珠の貴石としての価値を保ち得られ、外貨獲得に一段の効果を上げることが出来るものと信じます。
すなわち匁当り八百円也を千円または千二百円に持続することも容易となり、現在の生産量を以てしても金五〇億円の外貨を取得することが出来るものと思われます。
因みに、寒天及びビタミン業界においても輸出振興施策として、いくらかの補助があったと聞いておりますが、真珠業界にも同様の趣旨からご援助がお願いできれば一層輸出効果を上げることを確信し、右お願い申し上げる次第で御座います。養殖真珠業界の救済に尽力した功績を称えて大分県の真珠の中心地である畑野浦湾ふ頭に建立された三輪豊照さんの銅像。昭和三十九年十一月二十九日除幕された。

僅か三十億円で日本の養殖真珠事業が全部外国資本に独占される可能性が
真珠業界に特別融資をお願いする理由

《昭和二十九年》 【真珠は日本独特もの】我国の養殖真珠は、世界に類例の無い独特の産業であり、欧米は勿論のこと、未開国の文化が進むに従って、その需要は益々増大し、輸出産業としての真珠は、将来永久に外貨獲得の面で、国家に大きな貢献が出来るものと確信いたします。
【真珠と他産業との異る点】日本の貿易を振興させる何れの産業と雖も、常道とするころは、生産原価を国際物価の水準にまで引き下げるか、独り真珠の輸出を増大するために、これと反対に、価格の安定を図るか、乃至は、暫時の歩調を辿るかの何れかの途を選ぶことが絶対に必要であります。
その理由としては、この真珠は生活必需品ではないが、ひとたび価格が下落すれば世界の人に、一般大衆は、その価値を疑い、買入れを差し控える。その結果、輸出は困難となり、相場が上昇する機会を失うことになり、輸出が不可能になる危険性もある。真珠を買い求める人々の心理は、装飾品として文化生活上必要であり、且つ、何時でも換金の出来る資産とも考えているので、他の消費物質とは異る。以上の如くして、真珠の輸出増進を計るには価格の安定が絶対条件である。
更に一歩進めて、浙謄の歩調を辿るよう施策を講ずることが絶対必要である。従ってこの際、国家が積極的に、真珠の価格を安定し、浙膤の傾向が進まないようあらゆる施策を施すことが当然の義務であると考えます。
【外資の導入】真珠業界には外資を導入することは極めて容易である。既に、その交渉も受けている。外国資本を僅か三十億円導入すれば、日本の養殖真珠事業は挙げて全部外国資本に独占される可能性があり、国家の前途に非常な打撃を与えることは明らかであるので、現在業界は資金に苦しみながらもこの外資の導入を拒んでいる。
この見地からも、日本独特の真珠事業を育成助長する意味で、特別の金融処置を講ぜられることが至当と考えます。
【真珠業界の現状】真珠業界は、政府のデフレ政策の結果、短期資金と雖も市銀の圧迫により非常な困難を来たし、その結果、手持品の投げ売りとなり価格の漸落を来たし、輸出面で多大な被害を受けている。今後このまま放置すると、やがては真珠業界に倒産者が続出、乱売戦が展開され、価格は日ごとに下落するのみではなく、再び反謄への歩調を辿らしめることは永久に困難となる。就いては、この急場をしのぐために速やかに特別の金融施策が必要と存じます。
【真珠に対する根本策】真珠の養殖には、五年乃至七年の永き歳月を費やすので、去る二十七年の国会に於ては、「真珠事業法」までも成立させているが、未だにその施策は水産当
局並に真珠審議会で審査研究中である。現下、急変の激しい経済界の対象には、なお縁遠いことは誠に残念である。
養殖資金が一回転するには、同様に五年から七年の長期問を必要とする。また加工の面では、六ヵ月乃至十ヵ月一回転の長期資金がなければ出来ない事業である。従って、現在の業界の状能、即ち、中小企業体では荷が重すぎて、国家が特別の保護政策を行わねば、事実上価格の安定を期することは困難である。
これが根本対策としては、国家が専売制を行なうか、一括購入の政策を取るか、或はまたダイヤモンド政策、共販制の如き根本対策を立てるかにある。現段階にあっては、取り敢えず前途有望な輸出商品であるから、輸出に対する相当額の一時的金融の道を講ずることが当然である。
【輸出の現状】現在輸出量が増加しても、金額が増大しない。その理由は、市価が下落し、
商品自体の将来に不安を感じさせている点にある。その証拠としては、バイヤーが前途に不安を感じ、手持商品をたえず買控えをしている結果である。従って、輸出量は増加しても外貨取得の金額が増大していない、これが現在の状況である。もし、これと反対に市価が安定し漸謄の傾向にあれば、各バイヤーは安心して手持商品を多く仕入れ、市価も自然上昇し輸出の振興にもなる。その証拠に別表を参照すれば明瞭である。
【輸出振興上、多量の手持ちが必要】真珠の輸出を増大するには、国内に多量の手持品があることが必要である。然るに、現在の日本内地には手持ち品は極めて小量で、多くは海外に輸出されている。そのため真珠は日本で生産されながら、その完全な加工品、即ち、その時々の流行品は何れも欧米で作られ極めて有利に販売されている。若し国内に多量の手持ち品があれば、日本で発案した流行品を輸出することができて外資獲得上、極めて有利となる。完成した流行品を輸出するために国内に、多量な手持品が必要であるが実際にはその反対である。
その理由は、業者が金詰りの結果、換金に迫られ。その年に浜揚げされた品物をその年に売却してしまうからである。もし、業者に金融の道が開かれているならば出来るだけ多量の品物を手持ちとし自己の手許で完全なる選別、即ち品種別の選別、巻完成、厚巻は厚巻、薄巻は薄巻と、大小それぞれに応じた流行品を作り、有利な立場で輸出することが出来るのである
就いては、輸出を有利に、しかも増大させるためには
I、養殖業者の資金回転は五年乃至七年に一回転、極めて長期にわたる仕込資金が必要で
あること。
2.加工輸出業者も、資金五ヵ月に一回転、しかも、色・巻・大小等の点で多量の手持ち
品、多額の運転資金を必要とする。
以上の点を充分認識して、真珠業界にそれ相当の特別融資の道を開くことか当面の急
務であります。
【漸落の原因】現在の業者は前述の通り、資金の面で非常な困難を来している。即ち業者と金融機関との関係を見るに、たとえ、金融の道があると雖もそれは六十日乃至九十日が常道で、六ヵ月一回転の特殊商品として、自然に僅少の利益でも換金を急ぐから、乱売の結果、漸落歩調を辿ることになる。その証拠には、本年六月別表の如く僅か一億六千万円の担保付金融を受けたのみで二割から三割五分の漸勝歩調に移っている亊実に照らして明瞭であります。
【結論】要するに、養殖真珠の輸出を盛んにし、外貨をより多く獲得するには、価格の安定を計り、いわゆる漸落の傾向を未然に防止することである。価格の安定を図るには、業者に簡単にして容易に金融の道が開けること、また融資は確実に返済出来ることは過去において証明している。言い換えれば、特別融資による相場の平漸、即ち輸出振興策であるとの結論が生まれてくる次第であります。
これらの事情を検討の上、速やかに特別融資の道が開けるようお願い致す次第であります。
日本真珠振興会
日本真珠輸出組合
協同組合日本真珠交換会
以上、第二回目の融資が成功したことにより三輪豊照氏の真珠業界における存在は、弥が上にも高められた。その結果、日本真珠の養殖事業は、目ざましい発展をとげ、昭和三十二年に到っては「日本真珠祭り」を敢行して不良品を海に投げ捨てる実演を敢行するなど日本真珠業界の歴史を飾ったのであるが、三輪氏は昭和三十三年五月、六十五才を最後に他界され惜しまれている。

ヤミ物資の第三期的症状時代
食糧事情を筆頭に、生活物資の総てがヤミの時代

《昭和二十年》 終戦後の日本の社会状況を概括すると、昭和二十年の終戦時を契機にし
て、その年の十一月頃から、物ごとの動きが始められたと見ていいようだ。
だから昭和二十年の暮は、これまで経験したことのない淋しい越年であったわけである。つまり、正月という明日への光明も持ちえない哀れな状況下であったからである。だから正月の元旦だからといって、正月らしい風景もなければ又そういう気持にもなれなかったものである。
然しヤミ物資の動きのお陰で細々ながらではあったが、オトソとお餅という程度で正月気分を味わうことが出来たという情景だったのである。ただし、この程度は良い方の生活環境であったと見たいもの。従ってこの頃を過ぎてからは、何ごとにつけても物の動きにはヤミというものが付きものになっていったわけである。
食糧事情を筆頭に、生活物資の総てがヤミということで動くようになっていたのであるから、勢い業界関係の商品の動きについても、総てヤミ値がついて回っていたのである。それらを終戦後第二期の頃といえばいえるのであろう。このような状況は、昭和二十五年頃まで続いたといっていいだろう。
つまり、ヤミ時代の中期とでもいえようか。誰もかもヤミという気分には馴れて来ていた。昭和二十六年頃からはその第三期という頃合いになる。

輸入時計業者団体「輸入時計業者懇和会」を設立した
有力な輸入業者13社を集めて

《昭和二十七年》 昭和二十七年頃になってからは、時計の購買力がだんだん伸びていったように見られていた時だ。然しヤミ時計の市場進出は、依然として低まってはいないようだったので私は考えてみた。
如何に敗戦したからとはいえ、何時までもヤミ時代そのままの状態であってはよくない。時計界の改善のためにも、必要な範囲の時計の輸入量は認めさすべきであると決断がついたので、さっそく私はその面の活動に移ることにした。
その最初の段階として企画したのは、第一に時計の輸入を行っている業者を集め、業種団体を作ることであると考えた。そこで業界のメンバーを一応調査した上で、昭和二十七年六月七日を期してスイス時計の輸入をしている業者に対して「輸入時計業者懇和会」開催の案内を出した。そして上野・精養軒に集合してもらった。
この日集まったメンバーは、当時の大手輸入業者の椛蜻商会(岩沙、増田)、日本デスコ梶i加藤)、ヘラルド・コーポレーション梶i草日)、潟Xイコ(鹿野)、シーべルヘグナー梶i小倉)、リーべルマン・ウェルシュリー・カンパニー梶i亀田)、樺央時計商会(肥田)、平和堂貿易梶i高木)、竃x田時計店(小田切)、潟Vュルテス商会、太洋貿易梶A相互貿易梶Aシュリロ貿易鞄凾ナあったと記億している。
会談の結果は、私の抱いていた時計の輸入許可陳情運動を起こして、広く時計業界に認知してもらうという点で一同賛意を表してもらい「日本輸入時計懇話会」なるものの団体の設立にこぎつけた。確かこの席に小売業者を代表して、銀座の金山重盛さんも参加してもらった。
国内における時計の需要は、月間ザット六十万個ぐらいと予想されていた。ところが、この頃、国内における腕時計の生産量は、次のような状況が記録されていた。

昭和二十七年:百二十一万個
昭和二十八年:百六十一万個
昭和二十九年:二百万個
昭和三十年年:二百二十四万個

輸入時計懇和会が設立されてからは、事業活動のために1ヵ月二千円宛の会費を徴収して会の運営を行った。そしてその結果、日本の時計界では有史以来始めての輸入時計の大展示会を開催することに決め、一切の企画は私の手で進めることになったのである。写真は当時の有力な輸入業者の顔ぶれ。

日本初の「輸入時計大展示会」を開催した
東京・銀座の松屋デパートの七階で

《昭和二十八年》 以上のような経緯によって、輸入時計を正規のルートによる輸入を促進するという意味から、輸入業者団体の懇話会の設立を見ることになった。
その翌年の昭和二十八年六月六日より十五日間に亘って、東京・銀座の松屋デパートの七階で「輸入時計大展示会 」を開催した。最初の計画では、会場を日本橋の三越にしたいと
思って交渉したのだが、時間的な関係でうまく行かなかったのである。
銀座・松坂屋の選定には、金山重盛さんの協力も大いに役立っていた。とにかくこの計画は図に当った。何故ならば日本で輸入時計専門の展示会を開いた例は、一度もなかったのである。私が神戸、大阪方面をとび廻って輸入関係業者とは、既に四十年を過ぎる深い馴染を持っていたが、その間にも一度の催しを見たことがない。それに又、戦後の混乱期の中にあった頃だっただけに、この計画は大成功した。
従って、この時の展示会に参加した企業は、服部時計店、シチズン時計等の国産メーカーを始め、輸入時計を取り扱う全商社が参加、盛況を収めた。
六月六日の開場式当日は、スイス公使(この頃は公使館)が出席して祝辞をのべられたので一段と意義づけた。そして六日間の期間は大過なく済んだ。このときの展示会の光景をカラー印刷にして、日本の全業界はもち論のこと、スイスの全メーカーにまで本紙(時計美術宝飾新聞)を通して宣伝したので、日本の時計界の存在がいやが上にも光彩を放ったことはいうまでもない。だから本社に宛てて数々の賛辞が寄せられた。

「輸入時計大展示会 」に協賛した当時の15の商社名

大展示会への出品商社名は次の通り。
太洋貿易KK(ラコー・ブライドリング、)ヘラルド・コーポレーション(エニカ、オレオール、ドクサ、ウイトナー、バルカン、マーテイ、チソッ卜、モリス、インビクター)、 オメガ・サービスステーション、天賞堂、平和堂貿易KK(ウォルサム他)、服部時計店輸入部(ロンジン)、大沢商会(モバード)、シチズン商事KK(ミドー、セーフト)、シュリロ貿易KK(インターナチョナル、シーマ、ナルダン、サンドーズ、ギラード、ポールビューレ)、中央時計商会(ブローバ)、KKスイコ(ウイラー、エキセルシヤパーク)、デスコドシユルテス商会(オーデマ・ピケ.エテルナ、ホイヤー、グレドス、コラル、チユガリス、サーティナ、エンヂュラス、ルービング)、リーベルマン、ウエルシユリー商会(ロレ
ックス、マービン)、日光商会(ユニバーサル、ウエコ)、相互貿易KK(ウオッチ・マスクー)。写真は、銀座の松屋デパートの七階で行われた「輸入時計大展示会 」の会場入り口とスイス公使が祝辞を述べているところ。右側が本紙の藤井勇二社長。

昭和二十七年頃の時計の需要状況
漸次ヤミ取引時代が精算されていったようである

《昭和二十七年》 この頃時計に対する日本人の愛好心はすこぶる強められていた。戦争のために死んだ人の数もあるにはあるが、それでもなお八千万人は降らない人間が、この限られた日本の狭隘な地域に生き長らえていかなければならないのであるだけに、働かなければ喰えない時代であるという観念からか、人間的活動上に必需品となって来た時計は、誰の眼から見ても欲しがられていたものである。だからヤミであろうが、正規であろうが構わない。人々は自分の許すサイフの力の限度において、買い求めたいものと願っていたのであった。
ところが時計の供給力はどうか?というと、吾国ナンバーワンの世評にある精工舎製品が何と月産六、七万個という時代であったのだから、大約月産量六十万個位の消化を欲求していたこの頃の需要力には、ほど遠いものであったのだ。
ヤミの時計のルートに関係を持つ業者筋では、この状況を見たためか特別非常にこの時計の面に力を入れたものであるようだ。
この二十六年頃から二十七、八年ごろに及んだこの間のヤミ実績を衙かれて東京税関につかまえられた某輸入商社の罰金額が、なんと三百七十八万円にも達したというのだから、この間の輸入量の程度が想像出来たであろうと思う。
だが然し、日本の時計界でも何日までもこのヤミ事情が続くわけには行かなかった。昭和二十七年ごろには、世情が段々平静の状態に回復していった。
時計関係の部門でもこの頃は、OSSの払下げに続いて、私の新聞社が主催して出来た輸入業者による懇和会という団体の設立などを機会に、漸次ヤミ取引時代が精算されていったようである。それはヤミ物資を取り扱うことによって利益する反面、そのヤミ行為により罰せられる場合の事件代を算定したときは、利害相反する結果ともなり、一面では、未だにヤミ物資を取扱っているという非難を避けようという気持になって来たからでもある。だから旺盛を極めていた時計関係のヤミ時代は昭和二十七年の頃をもってス。キリした時代への転換期に移ったといえるのである。

「日本時計輸入協会」の設立と大蔵省関税部の活動
正式に輸入許可を認めて貰った数量は二百万個位

《昭和二十八年》 日本の国内事情が漸次整備されてきた関係で、治安方面の取締りも前進してきた。ヤミ物資の取扱高についても、当局の活動が見られるようになって来た。
昭和二十八年に入ってから、遂に社団法人組織による「日本時計輸入協会」が設立されることになった。理事長には、戦時中、商工省の物資局長官を任じていた千葉県出身の衆議院議員の始関伊平氏を招聘してスタートした。この日本時計輸入協会の発会式には、輸入時計懇話会設立者の関係もあって私も列席した。
この協会のメンバーに連なったものは、時計輸入協会というハッキリした団体が出来たことによって、明るく開かれた時代への再スタートを切ったような輝きに満ちていたのである。
然し、この当時この時計輸入協会に加入したメンバーは、俗にいって、猫も妁子もという程度で、確か七十余名という多数に及んでいたようである。この頃の大蔵省側でもやっと諸物資の取扱状況について特に注視するようになり、関税部の中の審理課というのを監督して、ヤミ物資の摘発に乗出した。勿論、時計とダイヤモンドの関係についても、当然輸入してくるルートについて細かい調査などを進めたものである。
そこで、この調査によって当面の問題に取り上げられたのは、輸入時計の古物品についての処理ということであった。勿論大蔵省側では、古物品なる時計の関係についても、事前に調査をしていたようである。
そこで、小売店頭に現に列べて販売に供している時計については、どう取扱うか等の点で東京時計小売組合側の代表などとも打合せた結果、兎に角、進駐軍将兵からの横流れ的な処分という特例の下に処理することにして貰い、それを組合が一括処理する方式をとったので、昭和二十八年から働きかけた、この処理事項は昭和三十年にまで及んだので大した騒ぎを演じたものである。それでも、表面上は当然違反事項に取上げられるべき問題であったものを特別処理ということで、ケリつけることになったことは甚だ仰幸であった訳であり、この当時が終戦後のヤミ時代から絶縁することになった最大のヤマ場であったのである。
但し、このような画期的な騒ぎを演じつつあった中で、一方では日本時計輸入協会としての立場で、正式に輸入許可を認めて貰った。その数量は二百万個位になっていたようである。従って時計の輸入許可量が僅少ということから、輸入許可証書だけでも、相当にプレミアがついたという時代であった。業者間では、この輸入許可証をめぐってプレミアつき取引時代が展開されており、賑やかな風景であった。この頃、輸入時計を専門に取り扱っていた商社と当時のブランドは大体次のようにあげられる。
△日本シーべルヘグナー梶iオメガ、チソット)、△リーベルマン・ウエルシュリー商会(ロレックス)、△シュリロ貿易梶iインターナショナル他)、△ヘラルド・エンド・カンパニー梶iエニカ、シーマ、グルエン、ジュべニャ、オレオール、あとで日東貿易が継承)、
△日本デコスシユルテス商会(エチル六サーテイ六才Iデマピケ)
△椛蜻商会(モバード、ジャズ)、△兜桾博梃v店輸入部(ロンジン、ジラード外)、一新時計梶iブローバ)、△平和堂貿昜梶iテクノス、モンディア、ローヤル、ピアジェ、ウオルサム)、△潟Xイス時計輸入商会(ウイラー、ナルダン、エキセルシャパーク)、△瑞穂商事梶iビュ1‐レン、レビュー、ユーハンス)、△竃x田時計店(エレクション)、△村木時計梶iプレシマックス、ユニバーサル)、△東邦時計梶iゼニット、ドクサー、ニバダ)、△洒田時計貿昜梶iラドー)、△豊陽商事梶iキャミー)、△潟Gデイキン商会(フレコ)、△活髑コ時計商会(リップ、グリシン)、梶「大洋商会(モットー)、△新日本時計梶iべンラス、イメージ)、△シチズン時計梶iミドー、エンベ)、△リコー時計梶iハミルトン)。

落ち着いてきた古物品旺盛時代の業界
物資面におけるヤミ価格での取引状態はまだやみそうもなかった

《昭和二十五年》 いろいろな変貌を見せて来た時計業界も昭和二十五年を過ぎて二十六年頃からは、何れともなく所次落ち着きを見せて来たようだ。だが、物資面におけるヤミ価格での取引状態はまだやみそうもなかった。この当時の業界は次のような状況をみせていた。
時計が表面切って入荷を証明出来るものは、腕時計では国産のセイコー、シチズン、オリエントだけである(オリエントは昭和二十五年に再組織して発足した高野時計だった)。
この他に舶来時計はあるにはあったが、何れ正統に入荷された筋合のものではなかったのである。それだけに、しいてあるとすれば、外国から持ち帰ったものか、又は進駐軍からの横流れのモノであった。
従って、舶来時計は仮に、その品物が店頭に列べられていたとしても、それを統一した価格はつけられなかった性質のものだ。だから客筋は舶来時計の陳列品があれば、その店の中に入って行って、時計の値段を聞いてから買ったものだった。だから店内における客との応対ぶりは、その客が素人であるか、または玄人筋かを一応警戒しながら取引に応じなければならなかった。
だから陳列時計の殆んどは、古物品として取扱われていたのである。この頃の古物業者への供給筋では、案外小売業者の側からは、人気を博し、珍重がられた存在であったのである。

古物時計の取引上の標準相場を新聞紙上に掲載した
流通史上に革命的所産を示したことになった

《昭和二十五年》 そのような当時の時計業界の状況に対処するため、私はこの頃から古物時計の取引上の標準相場を私の新聞紙上に掲載することにした。つまり、新品同様の品物を一として、二位は、古さが二番手、機械がキレイで側替えを要する程度のもの等、内訳して中庸の値段を出したものだ。それを実行したことによって、地方の小売店や時計卸の仲間業者からは、特別な称賛を博した。
ところが、仲間の業者の中には、自分らの取引している現品の取引値段がそのまま新聞紙上に発表されるのでは、具合が明らかになってしまうから取引上うま昧がないと言った考え方を持った向もチラホラあったようである。
然して、日ならずしてこの雰囲気も解消して、この標準相場表そのものが取引上に大いに役立つようになり感謝されるようになった。これなどは、取引上一つの新しい型を打出したことになった。いうなれば、流通史上に革命的所産を示したことになる。この標準相場表は、時計の場合だけでなく、ダイヤモンドについての取引価格でも同じようなことがいえるのである。ダイヤモンドに対する価格を本紙上に掲載し、取引値段を公表することになったそれ自体が、何となく業者らの取引上の権益を侵すような感覚を持つ向もあったようである。現実には地方業者間では、本紙上の公表値段が大いに中値式の価格に役立つものだと喜ぶようになったのである。
このように、一つの改革とそれを断行するということは、当初はショックらしい感じを受けるが、それらが自然にならされるまでは、一種の錯覚を生みやすい。
だから、それから後の時計界は、古物時計に関する相場表の活用が強くなり、現在でも、それに馴れて利用している向が多くいる。



admin only:
no_back
12345678910111213141516171819202122232425262728293031323334
page:1