路傍のカナリア

2023/01/12
路傍のカナリア 97

荒れる成人式から見える男と女の風景

新成人の若者たちが成人式の最中に無理やり壇上に上がる、あるいは大声で会場全体を威圧したりする、そういう映像を何度もみた。荒れる成人式は一部とはいえ年中行事になっているが、かれらに社会的なあるいは政治的な主義主張があるとも思えない。むしろ度が過ぎた悪ノリのように映像からは読み取れる。気が付くのはこの「暴走成人」たちが全員男性だということだ。(女性は見たことがない) なぜだろうか、女性はしとやかで、男はわんぱくだというのは男女平等が加速している今の時世では説得力に欠ける。
人が思春期を通過する中で、女児は肉体的な変化が顕著に表れる。体全体が丸みを帯び生理が始まり胸が膨らみ腰回りが張ってくる。この大人の女性への肉体的変身は意識自体も変化を強いられる。昨日までの女児であることの意識は根こそぎ否定され、大人の女性になったことを否応なく自覚させられる。それは「成熟」への一歩を踏み出すことでもある。男児にはこのようなことは起きない。起きないがゆえに、体は大きくなっても意識転換はドラステックには進まない。つまり男には「未熟」がいつまでもついて回る。車、釣り、ゴルフ、サーフィン、ギャンブルなど惜しげなく金をつぎ込む男の道楽は少年の心そのものではないか。堅実な生活を持続していくという人生の鉄則からはずれてしまうのは「大人」になり切れない男というものをよく表している。
この男の幼さは女性の成熟と釣り合わない。ただ女性の母性がそれを受け止めているとはいえる。だから男は女性の中に擬似的に母を見て払拭できない少年の心のままに無意識に女性に甘えているということになる。と同時に実の母親との乳幼児の時の関係性もたぶん二重写しに投影させている。夫婦や恋人同士が順調であるとすればそこには女性の母性としての受け止め方が深くかかわっているのだろう。男女の関係は対等に見えて幾重にも屈折し錯綜しているが、心理の位置関係は女性優位であることは自然のことである。ただそう見えないように社会が出来上がっているだけだ。
余談になるが、甘えると言えば一般には女性の側が男に甘えるものだが、少女の心が戻ってきたわけではない。それは既に捨て去ったものだ。だから成熟を身に着けた女性の甘えは意識的な計算なのだが、その誘いに男の側が往々にして財布を緩め、ありもしない妄想にとらわれるのは所詮男というのはその程度の成熟のレベルだということだ。ただ未熟であるがゆえに大志を抱き夢を追い冒険に踏み込むエネルギーを内在しているともいえる。男の価値は未熟と裏腹かもしれない。
暴走成人に女性が付き合わないのは、かれらの狼藉が子供のバカ騒ぎにしか見えない「成熟」を獲得しているからであり、また付き合ってあげないのはそれほどには母性を育んでいないからであろう。未熟は成熟に勝てない。当たり前のことだ。文芸評論家江藤淳は「女性は背後から歴史に参加する」と「成熟と喪失」のなかで書いたが、この真っ当な言葉の意味はとても重いと思う。     貧骨
2022/11/13
路傍のカナリア 195

人が生まれてくるということの話

たとえそれが趣味の世界のこととはいえ新しい経験をするということは、楽しみと期待感がある一方で、不安と緊張を伴うことはごく自然な心理である。まして命にかかわること妊娠から出産、育児という過程は、女性にとってことさらに不安と緊張の連続だろうとおもわれる。
胎児というのが妊娠何ヶ月くらいからを指すのかはよくわからないが、体内で人間の形になればもう外界のことはそれなりに聞き分けているというから、母親の心の動きも受け止めているに違いない。人間になりたてのまっさらな心に母親から伝わる心理というものは、後々修正できるものではなく、たぶんその人の心の在り方を生涯制約してしまうぐらいの深さを持っている。もちろん不安や緊張ばかりではなく、母親の子への諸々の思いも同時に伝わっていく。「元気で健康で生まれて欲しい」という願いもあれば、暮らし向きへの心配から産むことへのためらいもあるだろう。子にとつて母は、母のすべてを受け止める特別な存在なのだ。そこに父親が入り込む余地はない。母子は一体であり、そして「三つ子の魂百まで」なのだ。
そのうえで、その子が母親にとって初産であれば、なおのこと不安感や苛立ちやストレスは、より強く子に伝わるに違いない。過度に臆病であったり人見知りをしたり引っ込み思案だったりする性格現象は、第一子であることとなにがしかの相関性があると私は理解している。長男か長女かというよりも、その人が第一子か否かの方が人間把握としては、はるかに正確だと思える。それでも女児であれば同性の感覚で、ある程度の扱いやすさ理解度が保てるけれども、男児ともなるとその所作振る舞い成長度という点で、異性であるがゆえに戸惑うことが多く、第一子の長男なんて言うのは、大体があちこちぶつけられてきわめていびつな心理で育ってきていると思っていてそう間違いはない。「一姫二太郎」とは実に見事な格言である。
加えてこの第一子というのがいささか曲者で、戸籍上はそうであっても母親が流産死産を経験していれば、出産の過程は必要以上に神経質にならざるを得ないし、子にとっても同様に影響を受けることになる。
こう考えてくると、子が生まれてくるということは実に難儀な事なのだが、その言わば初心の傷を癒し人間として、まっとうに育っていくのは、平凡なことだが母親が注ぐ愛、 アガペーとしての愛に他ならない。それは一身に代えて尽くす愛であり、慈愛ともいうべき柔らかで包み込むような愛である。生涯にわたって消えることのない刻印を、その人の心に刻む愛である。だから人は皆、たとえ悪人となり果てても、いつまでも母を思い慕うものなのだろう。それが我々人間の人間としての出発点であると言える。
世情ジェンダーフリーの流れが加速している。が私はさほど心が動かない。女性が子を産むことの意味を掘り下げれば掘り下げるほど男女平等の軽さが見えてくる。
女優神田沙也加が亡くなって一年近くがたつ。彼女は望まれてこの世に生を受けたのであろうか  
その疑念が彼女の訃報に接したとき真っ先に思い浮かんだ。自死の直接の原因はともかくとしても、胎児から乳児にかけて刻まれた存在不安こそが彼女を苦しめたのではないだろうか。女優として大輪の華を咲かせたであろうオーラを持った魅力的な女性であっただけに残念でならない。 貧骨 cosmoloop.22k@nifty.com

2022/10/12
路傍のカナリア 194

雑感  株式投資の話

政府が「貯蓄から投資へ」と旗を振っているが、株式相場というのはそう簡単に儲けさせてもらえない。書店へ行くと初心者向けの解説書が並んでいる。ほぼ共通しているのは、株式投資の留意点である。●手元余裕資金で運用しなさい。●銘柄の分散投資をしなさい。●損が出たら素早く売却しなさい(塩漬けにしてしまうとその後の運用が窮屈になりますよ)。●信用取引は大損する可能性があるから手を出してはいけません。●自分なりの投資スタイルを作りなさい。●罫線の読み方をこの本で身につけなさい。
これらの指摘は特段のことではないが、底に流れているのは「あまり欲をかかずにほどほどのところで折り合いなさい」ということになる。しかし、この「ほどほど」が難しい。株価が上がりはじめると「もうちょっともうちょっと」と欲が出て、なんとか売却して利益が確保できたとしても、その後、株価がさらに上がると悔しいような損をしたような気分になって今度こそはと気持ちが力むのである。逆に株価が下がり始めて損が出ると、同じように「我慢我慢」と念じていても、さらに下がると不安感に圧し潰されて、大損して売却する羽目になる。
それでも取引に慣れてくると、もう少し資金があったら儲けも膨らむだろうと、信用取引の扉を開くのである。そして株式相場の怖さを知るのも、この信用取引にはまるところからである。たとえば、手元金が100万円でも400万円位までは運用できるようになる。単純に考えれば得られるはずの10万円の利益が、40万円に化けるわけだから魅惑的だが、その裏側に損した場合の10万円は40万円に膨らむというリスクを含んでいる。加えて信用取引では、損が一線を越えると更なる追加金を要請される。儲かる欲にとらわれていると、そのあたりを意外と見えていないのである。しかし、経験値で言えば、年に二度三度はほとんどの株が売られる相場の崩落がある。また10年に一度は、大崩落に見舞われている。(最近でコロナウィルスによる暴落) その一瞬にうまく立ち回れるかどうか。即時の判断いかんでは、元手の100万を失うどころか、多額の借金を抱え込むことになりかねない。
株は世界経済を映す万華鏡である。その鏡の中には確かに利益の種が埋まっているが、また崩落の兆しも生まれている。種と兆しをいかに見極めるか、投資家の生死はそこにかかっている。それでも天変地異思わぬことは起きる。2011年3月11日PM2時47分東日本大震災である。2時47分を鮮明に記憶しているのは、3時で株式市場は閉まるからである。その13分の間にガタガタと揺れるビルの中で、必死にわずかながらの持ち株を売り急いだものだ。13分間で助かった投資家と持ち越して肝を冷やした投資家の明暗は、もちろん過去の話ではない。9.11も3.11もその再現は明日にも起こりうることなのだ。
自分の中の欲をほどほどに抑え崩落の不安と恐怖におびえながら、政治経済の情報に敏感に反応してその場その場で売り買いを判断する。安心と油断と深い眠りはご法度である。神経は昼夜を問わず自然に張りつめている。政府が推奨し、解説書が誘う株式投資のごくありふれた日常がここにある。      貧骨 cosmoloop.22k@nifty.com
2022/09/13
路傍のカナリア 193
          
統一教会問題のモヤモヤ
尻馬に乗る知的脆弱 
 
事の発端は安倍元総理を銃撃した容疑者の犯行動機からはじまる。
母親が統一教会への多額献金を行った結果家庭崩壊が生じ、その恨みを晴らすために教会と関係の深い(と思い込んだ)安倍元総理を殺害した事件である。
報道から知る限りだが、献金額はおよそ1億5000万円で、親族がその後5000万円を教会から取り戻したが、その5000万円を母親が再び教会へ献金してしまったこと。そして今なお教会の信者であり続けているということ。この事実関係の中に、メディアが取り上げている統一教会問題が凝縮されている。と同時に社会正義で一刀両断できないモヤモヤ感もついて回っている。
教会を糾弾している弁護士等は、この多額献金や過去の霊感商法を取り上げているが、宗教というのは信者の心の救済という面とビジネスという面を持っている。ビジネスという面で言えば献金は様々な名目でどの宗教団体でも行われているものであり、額の多寡は信者の資産状況もあり簡単に線引きなどできるものではない。件の母親はいささか常軌を逸しているとはいえ調査すれば多額の献金という事例など他の教団からも明らかになるであろう。また壺商法に問題があるとすれば仏教の戒名商法を含め宗教教団の収入方策全体が問われなければならないはずである。
今一つ統一教会に関して被害者の会があるらしい。しかし被害者とは誰のことだろうか
自ら入信した信者本人が被害者と名乗ってくるとは考えにくい。大方は信者の身内が一家破産、一家離散の現実を目の当たりにして救済を申し出たものであろうが、資産を差し出した本人に信仰への揺らぎがなければ、巻き添えを食った形の彼らを被害者と呼ぶべきだろうか。確かに身内目線で見れば怪しげな宗教に騙されて金を巻き上げられたように見える。
しかし宗教とはもともと怪しげなものなのだ。「イワシの頭も信心から」というではないか。
神が天と地を創造したか、念仏を唱えたら極楽浄土へ行けるか だが、信じるということは科学的納得ではない。宗教的真実を生きることだ。そこに「宗教の価値」がある。なぜ人は宗教にすがるか、病苦、貧困、失恋、事故、家族の不和、失業、おのれの無力を思い知らされた時、彷徨する魂がその居場所を求めるからである。その信仰の心から見れば、イワシの頭も拝みべき神なのである。その在り様を誰が嗤えるか、誰が非難できるか、わが身を振り返ればすぐわかることだ。「マインドコントロール」、「洗脳」の石礫は知識人の傲慢である。
統一教会の問題が、悪を退治する社会正義と大衆の不安心理に付け込む似非宗教という単純な善悪問題に還元されて騒がしい。が、本来冷静であるべき知識人が「信教の自由」という憲法条項を軽んじてバッシングの尻馬に乗る光景を見るにつけこの国の知的脆弱性は、結局また「いつか来た道」をたどりそうな予感がする。令和四年 憂鬱な秋である。
貧骨 cosmoloop.22k@nifty.com
2022/07/12
路傍のカナリア 191

誰も掲げない新しい共産党(共産主義)という旗

いわゆる中間層というものがいつの間にかいなくなって、少数の持てる人達と大多数の持たざる人達に分解されてしまったのが日本の現実である。だから政治の世界において、野党とりわけ共産党の支持率はもっと伸びていいはずなのにそうはなっていない。むしろこの現実を生み出した張本人ともいうべき自民党が安定して政権を担っているのは不思議でもあり皮肉な話でもある。
共産党はなぜ伸び悩むのであろうか。主張していることはことさらに過激な事でもなく相変わらずの日米関係批判と大企業批判に終始している。それでも労働者利益の代表ともいうべき「連合」のトツプなどは共産党と左派系野党の政治連携をはっきりと嫌っている。
共産党に付着している「革命」「独裁」のイメージが今尚払拭できず、政治の世界ばかりではなく国民一般にも強い警戒心を抱かせていることは否めない。それは根拠のないことではなく、旧ソビエト、現中国の政治的在り様を見れば誰しもが感じる素朴な感情である。がそればかりではなく共産党の政治姿勢そのものにも不透明な部分があるからだ。彼らは常に「憲法を守れ/守る」と主張している。けれども一方で機関紙が「前衛」でも分かるように共産党は大衆を社会主義へと導く役割として自らを位置付けている。これは大衆の声を聴きそれに従うのではなく自らの方針に大衆を従わせる組織力学が働いていることを意味している。議会制民主主義を一方で認めながら一方でそれを否定する思考を党内論理として内在していることになる。
思考実験として仮に衆参両院において共産党が過半数を獲得し単独政権を樹立したと想定してみる。がその後国民の支持率が低下し下野することが確実視されたとき、自民党や民主党が下野したように粛々と政権を渡すだろうか。そこは本当にわからない。もしも「前衛」意識が優位に作用すれば支持率の低下は党の政策に問題があるのではなく、国民の意識改革が進まず資本主義を是とする間違った考えに毒されているという結論になる。そこから大企業資本家、保守的政治家のホワイトパージ、国民の再教育という名目での収容所送り、選挙介入、弾圧という旧ソビエトの手法までは距離がない。警察、公安、自衛隊といった秩序関係の機関を共産党が抑えている限り現実味のある話なのだ。
搾取がなく誰もが豊かで平和な暮らしという社会主義の政治理念は尊重するが、共産党自らが自己変革を遂げて議会制民主主義と共産党の関係性を整理しなおし、国民に不安と警戒心を抱かせない新しい党を打ち出せない限り共産党は資本主義体制下の批判的補完勢力の位置から脱却するとは思えない。それは国民にとっても不幸な事態でもある。現在の政治経済の状況を考える時「新しい共産党」の旗は求められているはずである。
情勢不利と見れば党首の首をすげ替え看板もアベノミクスから怪しげな「新しい資本主義」に書き換える自民党の擬似革新性と、革新を掲げながら自己の独善性を墨守しただ自己満足的に自民党批判に安住する保守共産党の政治的茶番の構図の中でマグマのごとく蓄積されたままの国民の不満はどこへ行き着くのだろうか。 貧骨

2022/06/13
路傍のカナリア 190

生活の中の時間学
「無職の世界」と「落ちこぼれの世界」

ネットの三面記事を賑わす面々というのは、さほどの大事件を起こすわけではない。
コンビニの弁当万引き、酔っぱらっての喧嘩沙汰、バスや電車の中での痴漢行為、家庭の中での暴言暴力、ルール無視の近所迷惑、脅迫めいた金銭トラブル、その他もろもろキリがないが、無職の「肩書」が多い。
「無職ねえ、やっぱり無職か」と記事を読み流しながらいつも思う。「つまんないだろうな、一日が、朝起きて何にもやることがない」とも思う。社会の外にはみ出して、無職の人ってどうやって生活しているのだろう、収入がないわけだから。家族を含めた同居人に金をせびっているか、知り合いか金貸しから借りてくるか、貯えを食いつぶすか、いずれかだろう。なんにせよ展望はみえない。「無職はつらいよ」。
でもそれは生活苦につながる窮屈感からくるようにみえ、金さえあれば何とかなりそうに思える。でも本当は違う。無職の辛いのは明日が来るからだ。そして明日が終わればまた次の明日がくる。次から次へどんどんとやって来る。未来から流れ込んでくる時間という器の中に入れるものがない。入れるものがないと時間に潰される。じっと耐えているだけでは精神が変形してくる。罪なき無期懲役とでも言うべきか。そこから自爆のような犯罪まではもう距離がない。
時間の不思議であり、怖さでもある。充実した時間とは、器の中にいっぱい入れるものがあるということだ。やるべき仕事は山積み、週末は家族と団欒、あっという間に一週間が過ぎていく。時間を忘れるように過ごせることが幸福の基準なのだ。暇を持て余す、たまにはいい、心の休養にはなる。でもその束の間の時間の中に潜むからっぽの時間の怖さを「退屈」と呼ぶなら今日も退屈、明日も退屈と続くと時間の怖さが分かってくる。時間に隙を見せるな。われわれの精神はいつも無意識に時間と格闘している。時間をつぶさなければ時間に潰される。人が生きることの基本がそこにある。翻って言えば動物には「時間」がないということだ。
無職の人たちを追い込む時間の力は、授業についていけない子供たちにも同じように作用している。先生の話が理解できない、ぼおーとしているしかない。時間が長い。でも修行僧のようにそこに座って聞いているしかない。このしんどさに寄り添えれば子供たちのいくらかは救える。でもシステムはそうなっていない。置き去りにされた子供たちの退屈が共感できていない。数学を、英語をどう教えるかという技術論の前に、退屈であることへのシンパシーがなければあるのは上から目線の教育論になる。難しい話ではない。理解できない講義に毎日通うことを強いられている自分を想像してみればすぐわかることだ。だれだってすぐ音を上げる。
「無職」であることも「落ちこぼれ」であることも世間の蔑みの視線の中にある。でも時間という視角から見れば彼らの辛さとそこからくる犯罪や素行不良には汲むべき心情がある。
人間にとっての時間というテーマはおろそかにできない深さを秘めていると私には思える。
                  貧骨 cosmoloop.22k@nifty.com
2022/05/13
路傍のカナリア 89

知床観光船はなぜ沈没したのか
社長バッシング報道姿勢への疑問

多くの人命が失われたことを言わば大義名分にして観光船社長への非難報道が連日おこなわれている。この非難の元になっているのは、社長が利益を追求するあまり観光船の安全対策をおろそかにしたことらしいということにある。
確かにベテラン船長達全員を解雇し経験の浅い船長に切り替えたことも、また事故当日には観光船との無線連絡に不備があったことも事実ではあるが報道のコメントの中には事実の歪曲や誤認も含まれていて実際の事情が今一つ不分明なのである。がそんなことにはお構いなしに各メディアや識者たちが洪水のように非難競争に明け暮れていて、 その世界に取り込まれると今回の事故が社長の言わば強欲によって起きたような錯覚に陥る。ベテラン船長なら事故は起きなかったはずだと誰もが考えてしまう仕掛けになっている。  
そうだろうか事故当初から疑問なのだが「観光船はなぜ沈没したのか」。はっきりしているのは「エンジンが停止して前の方から船が沈みはじめている」 という無線連絡だけである。  この事実から想定される船の沈没原因は何だろうか なぜエンジンが突然停止したのか、なぜ船の前方から沈むのか、なぜ後方からではないのか、 船の技術的専門家のコメントを訊きたいと思ったが自分の知る限りではなかった。
事故の現場は風波とも高く出航すべきではなかったという指摘もあるが、 果たして19トンの船というものはその知床観光船はなぜ沈没したか社長バッシング報道姿勢への疑問 程度で沈没するものだろうか素人なりに調べてみると今の船はなかなか転覆しないような構造になっているという。無線からも横波を受けてひっくり返った状況とは違う。天候の急変と事故との因果関係ははっきりしない。またこの観光船は以前座礁事故を起こしている。その時のキズが広がった可能性はあるだろうが、そうした場合は必ず検査を受けないと運行ができないのだという(社長の記者会見から)。 この検査の見落とし、不備が事故につながったとすれば責められるべきは検査機関(行政か民間かはともかく)ではないのか。調べるべきこと、報道すべきことは多々あるのに社長バッシングでは事故の核心に迫れるとはとても思えない。まずは沈没した観光船の引き揚げとその後の調査が優先されねばならないはずである。  
今一つ注目すべきは救命具をつけていたにもかかわらず人命が失われたことである。海水温が1℃〜2℃程度だと一時間程度しか命は持たないという。それならなぜ救命いかだの装備を北の海の観光船(小型船舶であっても)には義務付けなかったのか 行政の盲点ともいうべき事柄でこのあたりも追及されてしかるべきである。  
日本のメディアはたしかに権力の横暴や腐敗と戦うことはあるにしても、一般大衆の怒りや悲憤慷慨の波に立ち向かって冷静に「社会の木鐸」としての役割を果たしているかという疑念がわく。むしろ大衆を煽りその大衆に煽られ感情スパイラルの果てに誰かを人身御 供のように悪役に仕立てて満足しているように私には見える。メディアを批するメデイアの不在はこの国にポピュリズムの禍をもたらすのであるまいか。
      貧骨 cosmoloop.22k@nifty.com

2022/04/16
路傍のカナリア 188

「外れてしまう人達」の居場所

本人はごく普通に振舞っているつもりなのに世間とずれてしまう人達がいる。何事によらず一言多い人、いかばかりか正義感が強くて、事なかれの在り様に我慢が効かない人を思い浮かべればわかると思うが、人付き合いが苦手な人、場の空気を読めない人もその部類だろう。組織が縛る暗黙の規律というのは不条理の部分が多々あるが、 そういうものとして受け入れていかないと出世どころか片隅に追いやられるのである。管理をする側から見れば、困った人なのである。  
加えて同調意識が強いこの国では 自分自身の考えを持つこと自体が異物として排除されやすい。黙して語らずというか個性そのものが本音の部 分では余計なものとして扱われている。組織人として生きていくことと自分を無にすることが同列なのである。  
この「外れてしまう人達」がなにか一芸に秀でていてその芸で世の中を渡っていけるならば問題はないが、たいていの人は特段の才能に恵まれているわけでもなく凡庸である。  私もそのうちの一人で商店街のイベントが終わって「反省会」をやろうということになった。いまなら「反省会」がご苦労さん飲み会であることは分かるが、学生上がりの当時の私には納得がいかない。反省するならきちんと議論をしてイベントのどこがどう問題なのかを明らかにすべきだと酒の席でぶったものだから総スカンを食った。  
まともな議論の席で「では皆様の忌 「外れてしまう人達」の憚のないご意見を」と言うから額面通りに意見を言ったら幹部連中から文句が出た。「それなら忌憚のない意見を言っても構わないが幹部批判はしないように、むしろ幹部称賛でお願いしますと事前に話したらどうだ」と反論して一悶着あった。本音と建前の使い分けは世の常だが、その本音のところできちんと向き合わなければ何一つ前に進まない。しかしそういう正論はただ煙ったいだけで何事も阿吽の呼吸と「なあなあまあまあ」が上手な人が世の中とかみあうのである。  ではこの凡庸にして外れてしまう人達には、この世の中に居場所がないかというとそうでもない。公務員はその一つで地方、国家を問わず試験に合格すれば職を得ることができ身分は保証されそれなりの仕事をなすことができる。要は勉強ができればいいのである。公務員という職業に使命感を持っている人ももちろん多数いるだろうが、 一方で「外れた人達」の救いの場でもあり、吹き溜まりでもある。知人の息子さんが国税局試験を受けた際成績順に合格者が決まると聞いて(面接は形式的なもの)そのシンプルさに拍手をしたくなった。地縁血縁、出自や学閥のようなウェットな関係性とは無縁に 試験一本で職の合否が決まる世界がこの国にあるというのは、風通しの良い窓のような感がある。人間同士の面倒なところは官民共通だろうが、試験による選抜というのが一定の知的水準の集団を意味して居心地の良さを担保している。  
国全体の行政を担う人材を万人に公平に開かれた形で集めているこの国の公務員制度は、(他国の場合を知らないが)とても貴重なものだと思っている。
              貧骨    cosmoloop.22k@nifty.com/
2022/03/14
路傍のカナリア No187

ロシア、プーチンが突きつけているもの

2022年2月24日未明ロシアはウクライナに軍事侵攻をした。この大儀なきロシアの行動に世界は非難こそすれ直接的な援軍派兵はせずいわば傍観に終始して今もそうである。ここで冷戦終結後世界が積み上げてきた秩序は一変した。無法がまかり通ったのである。第三次世界大戦、核戦争が現実味を帯びたとき、プーチンはひるまず世界はひるんだ。だからロシアの強気の進撃は止まらない。  
核兵器の開発に莫大な資金と人材をつぎ込みどの国よりも強力な軍備を備えても、使うことなどありえないという油断があればそれは所詮軍と政府の自己満足的な玩具にすぎない。  そうであったからこそ核保有の米英仏はプーチンに対応できなかったのだ。平和は何より貴重だし核使用は人類の危機ではあるが、それで躊躇なく核ボタンに手をかける独裁的人物が現れたとき彼が突きつけている選択肢は、彼に世界がひれ伏すか核戦争を戦うかであ る。いまプーチンの手中に地球の運命があると言っても過言ではない。  
欧米首脳の困惑と苦悩は深く、その弱腰を嗤うことはできる。彼らは核戦争という現実と正面から向き合わない。できれば避けて通りたい。そのヒューマニズムの精神がプーチンの強気を加速させる。が考えてみれば我々もまた、いや我々こそプーチンに問われているのだ。核戦争を選択するか、それともウクライナ侵略を認めるか。ウクライナへの外部からの人道的支援がどうのこうのという問題ではない。経済制裁という迂回のような反撃にしても限度を超えれば宣戦布告とみなすとプーチンが語る以上、結局選択肢は二つに一つである。  
事態がさらに先鋭化すれば核戦争を覚悟しなければならない。撃ち合う規模にもよるが多くの人命が直接的に失われ、大地の核汚染によって更なる人命が失われるであろうことは誰でもが想像できるが、さほど悲観しないことだ。60億の人類が30億に減少したところでその生き残った人間たちがまた新しい文明を長い時間をかけて築き上げていけばいいだけの話である。その長い時間が数千年でも一万年でも宇宙時間で考えればほんのわずかな期間でしかない。愚かしいといえば愚かしいのであるが、それは自ら開発した兵器によって自滅していく人間の愚かさという意味以上に、むしろ人間は国家という共同体、共同観念(共同幻想)を超えて人類という共同性をついに獲得しえなかったという意味においてである。  
核戦争が現実に起きれば巻き添えで多くの生物の命が失われていくのが悲しい。鮒もトンボも蛙も蛇もトカゲも猿もホッキョクグマも虎もライオンもキリンもペンギンもカラスもスズメもコオロギもカマキリも牛も馬も犬も猫もイノ シシも鶏もそれからきっと我が家のポン(オス犬)もジョンソン(オス猫)も、かれらには何の罪のない。  
一体「地球は誰のものか」この問いかけだけがプーチンの二者択一の問いを押し返すだけの力と重さを持ち合わせている。我々はここで踏みとどまって地球上の生命の体系について思索を深く深く掘り下げなくてはならないのだと私には思える。               貧骨    cosmoloop.22k@nifty.com
2022/02/13
路傍のカナリア 186

生活のささやかな楽しみ

自宅と店を往復しているだけの生活を十数年も繰り返している。いやそれ以上かもしれないが、だからと言って味気ないかというといささか違う。知的楽しみはどこにでもころがっている。
一年を通してほぼ毎日朝起きると散歩をしてそれから風呂に入る。出勤はそのあとだが、真冬など湯冷めをして風邪をひきませんかとよく言われる。そんなことはあるはずがない。朝から昼へと気温は上昇するわけだから夜風呂に比べて湯冷めリスクは少ない。そう答えても大概怪訝な顔をされる。
湯冷めはなぜ起こるかといえば、ふろ上がりの湯滴をきちんと拭き取らないで急いで下着を身に着けるからである。その湯滴が体を冷やすのである。小児の場合が特にそうで風邪をひかせてはいけない一心で慌てて着せるからかえって体調を壊す。乾いたタオルで隅々まで水分をふき取りその際体を強めにこすってやれば事実上の乾布摩擦の効果で風邪どころか体がポカポカして丈夫な子が育つのである。朝風呂、夜風呂関係なく、また子供だけに当てはまるわけではない。別段難しい話ではないが、常識にとらわれすぎると見えるものが見えなくなる。そこで水分を素早く吸収することに優れたバスタオルはいかなるメーカーのものかということでいろいろと検索するのが面白い。バスタオル一枚にも問題意識を持つと世界はひろがるし、風邪をひかない真冬の過ごし方にも通じるのである。

三木成夫はその著「内臓とこころ」の最後のところで我々は太陽中心の生活をしているけれど月の引力も私たちの生活に陰に陽に影響している、それは無視できないほどのもので「生命記憶」なるものに繋がっていると指摘している。こうなると月のエネルギーに興味がわく。太陽暦と太陰暦 どっかで習ったが忘れていた。今では太陽暦がごく当たり前になっているから太陰暦というのは古臭く役に立たないものだと思い込んでいたがそうでもなさそうだ。太陰とは月のことだ。早速「月のカレンダー」を購入して普通のカレンダーの横に並べてある。この月カレンダーにはいくつもの新しい発見がある。新月から新月前までが一か月で一年は354日。今年の元旦が2月1日で今は睦月(1月)で当たり大晦日が来年1月23日になる。毎日月の満ち欠けが表示してあり大潮中潮小潮も記されている。今までは夜空など見上げたことはなかったのに最近はよく見るようになった。学生時代の合宿で長野に行った時星が降るように輝いている夜空の美しさを思い出した。
月の引力は人の出産や死と関連付けられてはいるがそればかりではなく「生命記憶」というところで深く影響を受けているのではないかと言及されると、改めて月の自転公転を含め月について考えさせられるのである。

スマホに指を滑らせると画面が拡大するように、ごく当たり前の生活に思考の知恵をいささかなりとも差し込んでみると新鮮な世界が現れてくる。取り柄とてない凡庸な自分のひそかな楽しみではある。         貧骨 cosmoloop.22k@nifty.com
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