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「明治・大正・昭和業界三世代史」のコラム

■昭和5年、再建して復活したシチズン時計 ■2017年4月20日 木曜日 15時24分57秒

資本金30億円、時計の月産35万個生産能力を持っていた

《昭和5年》 シチズン時計の現況はセイコー時計と並んで日本製時計の中野キリン児的存在として広く海外にまでその性能を誇っていた。その発祥は、昭和5年、再建して復活したシチズン時計鰍フ初代役員には、日本の貴金属業界で横綱格であった東京・日本橋の山崎商店(旧清水商店)社長であった山崎亀吉氏を取締役会長にし、中島与三郎氏が取締役社長に就任した。しかしこの会社設立にあたっては中島さんが、かねてエル・シュミット工場時代の取引先であった小林時計店、金森時計店、大沢商会、澤本時計店、大阪の富尾時計店などに相談を求め、その間の働きぶりは、すこぶる活発であったようだ。当時のシチズン時計の現勢力は、山田栄一社長、大田敬一専務を業務の主軸に置き大きく羽ばたいた。資本金30億円、時計の月産35万個生産能力を持っていた。

■リコー時計 ■2017年4月20日 木曜日 15時23分50秒

針がいらない時計「ハミルトン」の発売もあり、人気を高めていた

《昭和5年》 リコー時計は,前身のタカノ時計を改称したものであるが、カメラ界で有名なリコーカメラの名声とともに、大衆に対する宣伝は大きい。社長である市村清氏の構想は一際大きく、リコー時計の勢力倍増の為に必要な新工場の建設は、岐阜県恵那町に建設された。完成の暁には月産30万個を生産するという構想を発表している。ハミルトン社との提携により、針がいらない時計「ハミルトン」の発売もあり、人気を高めていた。同社の生産能力は月産10万個と称されていた。

■精工舎は、大正12年の関東大震災の災害復旧を俟って翌年の13年に至り復興作業に ■2017年4月20日 木曜日 13時58分36秒

服部時計店から売り出された9型、10型の腕時計にスイス勢が深い関心を

《大正12年》 服部時計店の工場である「精工舎」は、大正12年の関東大震災の災害復旧を俟って翌年の13年に至り復興作業が緒につき、腕時計の製造にも本腰を入れる段階になった。
腕時計が生産された最初は、大正14年で初めに9型を発売した。よく15年には10型腕時計を発売したが、この頃から精工舎の腕時計製作部門については、外部から注目が集まっていた。特に、スイス勢からの関心が高く、服部時計店から売り出された9型、10型の腕時計を手に入れ、動き具合をテストしているほどで、このような状況からして日本の腕時計工業の将来性にスイスの時計業界では深い関心を寄せていたものである。

■精工舎では大正15年、16型堤時計を完成している ■2017年4月20日 木曜日 13時56分44秒

昭和20年の8月15日、終戦に至りいよいよ時計製造での本格化へと移行

《大正15年》 精工舎では大正15年、震災当時の災害から立ち直ることが出来たのを契機に、その年に16型堤時計を完成している。続いて昭和2年に8型腕時計の製造を開始し、同年3年には、腕時計の生産に備えるために2300坪の工場を増築、5年間という歳月をかけて完成させた。昭和7年には、腕時計の最小小型の5型を発売する域にまで伸展した。かくして昭和12年に日華事変が始まったことから、軍需品の受注関係が生じて腕・懐中時計の工場を分離して第二精工舎を資本金500万円東京・亀戸に設立した。しかしこの間、服部金太郎翁は昭和9年3月1日、確たる業績を残し、惜しまれながら他界した。続いて戦時状態の拡大により、昭和20年までは軍需面の瀬さんが中心となり、時計の製造は、作業継続という範囲に縮小せざるを得なかった。昭和20年の8月15日、終戦に至りいよいよ時計製造での本格化へと移行していく。当時の精工舎の生産状況は次の通り。▽昭和35年=3,690個、▽昭和36年=4,740個、▽昭和37年=5,700個、▽昭和38年=6,080個、▽昭和9年=7,442個(単位千個)。

■廉売合戦で「業界損失防止案」なる決議書を作り、決着をつけた ■2017年4月3日 月曜日 15時2分20秒

東京・大阪・名古屋の三都材料組合連合会

《昭和7年》 東京の五味材料店と小峰材料店対立抗争劇は、昭和7年以降の材料界における廉売合戦の口火を切った。このようなことから、東京時計原料組合と関西時計材料組合の「時盛会」、名古屋時計材料商組合の各代表者たちが集まって、事態の収拾に乗り出した。その結果、三都連合会の名において、「業界損失防止案」なる決議書を作り、実行を声明する話し合いを付けた。それは、昭和7年7月のころであり、世の不景気風によって来た影響の締めくくりとした。

■「業界損失防止案」なる決議書の内容 ■2017年4月3日 月曜日 15時1分33秒

会員の賛同を得て、業界の健全なる発展を期すものである

《昭和7年》 為替の変動甚だしく、かつ財界も極度の不況の結果、同業者の競争激甚となり、あるいは商報に、あるいは広告に破壊的な相場の出現となり、同業者の迷惑一方ならず、これを放置すると、ついには救われない結果を見ることになるとして、三都材料組合連合会が、緊急理事会を開いて、以上のような決議文を作成、会員の賛同を得て、業界の健全なる発展を期すものであるとした。

■特別な技術が必要となったため東京の時計材料店がその存在感を示し始めた ■2017年4月3日 月曜日 14時31分47秒

大正から昭和にかけての時計材料界

《大正12年》 大正12年の関東大震災が世の中の状況を一変させた。東京の時計材料界は小売業だったため、ほとんど業務は起こらないで復興は遅れていた。それでも大正13年ごろからは小売業が復活するに向けて活発化してきた。時計の種類も大物類は別として、身近な必要な腕時計や懐中時計の類が多かったので材料部品もそれなりに用意されている。小売りの注文が主として一個合わせというものが多かった。震災によって特に時計への修理という必要性が起こってきたからであろう。ところがこの頃、腕・懐中時計の場合でも舶来品の扱いが多かっただけに、修理品も舶来品の取扱量が主力であった。だが舶来品の部品は完全に揃っていなかっただけに、天真のホゾまたは真というような合わせものの仕事になると特別な技術が必要となった。だから東京の時計材料店がその存在感を示し始めた。日本橋の伊藤材料店、神田の榊原材料店、須田町の山内精材料店、下谷の五味材料店、小峰材料店といったところだ。この頃、横浜、静岡という遠隔地からも注文があリ、繁盛していた。

■時計の修理に携わる業者が繫栄し始めた ■2017年4月3日 月曜日 14時30分54秒

時計の側合わせ、側直し、メッキなどの需要が高まる時代

《昭和初期》 この頃、時計の側合わせが流行していた。時計の側合わせ、側直しなどの営業は、日本橋・馬喰町の高木メッキ工場、大井町の吉原工業所はメッキと側の修理を行っていた。それに幡ヶ谷に工場を持ち、都内を駆け回っていた金栄社のぞんざいは大きかった。金栄社は、側のへこ直し、側の一個合わせを看板に掲げて評判も良かった。そのあと、セイコーやシチズン時計の卸売りを行うなど同社の発展は目覚ましい。社長の荒木虎次郎氏は、80歳で、時計業界では最長老者として尊重されていた。

■近常時代の東京の時計材料界 ■2017年4月3日 月曜日 13時47分38秒

銀座・天賞堂、服部時計店なども扱っていた

《昭和初期》 東京の時計材料界は、明治時代からの材料界の元勲である三十間堀の近常が輸入商の王座としての誇りを持っていた。このほか、銀座・天賞堂、服部時計店なども扱っていた。昭和の初期時代、東京市内にあった時計材料店は小川静、山内材料店,榊原材料店、小島商店、小峰材料店、五味材料店、大田材料店、馬場喜一郎、八田商店、松下商店、伊藤材料店、吉田昌一、上岡実、海野幸保、松本吉五郎、中村徳松、高橋井五郎、小松沢国之助、足立治郎吉、荒木虎次郎、木村健吉、水谷平吉、南岡正躬、宮島伊三郎、清水幸、岩永商店などがある。

■白金の価格が安かった為、愛国メダルを売り出し、話題となった ■2017年3月15日 水曜日 11時36分14秒

当時の時計の輸入税は、重量税であり完成品は2円40銭

《昭和11年》 この頃白金の価格が純金の2,3割高という安値の時代だったので、山崎亀吉翁は、白金製の愛国メダルを売り出し、話題となった。側には、純白金だけでは不適当なので純金を少量混ぜ硬度度を調整していた。当時はほかにも白金側のナルダンやロンジンなどがあった。当時の時計の輸入税は、重量税であり完成品は2円40銭、ムーブメントが90銭となっていた。また製造工賃は、18金の男物堤時計、専売側、パリス側とも5円から6円50銭、腕時計は3円50銭前後で、18金はへり込みで380円という値段だった。
その後、景気が悪くなり競争も激しくなってきて、腕時計のパリス側の工賃が1個、1円となり、80銭に下がり、中には50銭、30銭まで値下がりした。ついには、金ろうを使うべきところ、真鍮ろうを用いたり、また金性を落としたため、ノーマーク物まで出現するようになった。

■昭和5年のころ、時計材料卸界が廉売合戦で想像を絶する混乱ぶり ■2017年3月14日 火曜日 13時15分2秒

3都連合会の代表が「業界損失防止案」を作り話がついた

《昭和5年》 時計材料卸の五味商店と小峰商店の対立劇は、他地区の同業者にまで広まっていた。昭和5年ごろの時計材料界は、廉売合戦でその混乱ぶりが想像を絶するものがあった。そこで昭和7年7月、東京時計原料組合と関西時計材料組合、名古屋時計材料商組合の3都連合会の代表が集まって、時局収拾の為に話し合った結果、「業界損失防止案」なる決議書を作り、実行に移す声明で話がついた。

■昭和7年7月7日、3都市時計原料商組合は「業界損失防止案」を可決した ■2017年3月14日 火曜日 13時14分3秒

賛同者は、時計材料に関連する全国の業者多数となった

《昭和7年》 当時は為替の変動や財界の極度の不況により、業者間の競争が激化し、破壊的な相場の広告が出現するなど、3都市時計原料商組合は緊急会議を開き「業界損失防止案」なるものを決議して、全国の業者に発令したのが昭和7年7月7日。その内容とは、
@ 定価表は、一般的に普及した商品及び再低価格品の価格を時の相場により、協定した建値以下で販売することを禁ずる。
A 本会員は、商道徳を重んじ、他人に迷惑を及ぼすような挑戦的な宣伝、または、虚偽の広告を行ったものを不徳行為と見なし罰する。
B 業界を攪乱するがごとき不当廉売をするものに商品を供給するものにまで、取引の停止を求める。この三項目に違反した者には警告を発し、改められない場合は連合会決議により売買の取引停止とする。
賛同者は、時計材料に関連する全国の業者多数となった。

■当時の懐中時計側は、無双側(両ふた)時代から専売側、バリス形片ガラス時代 ■2017年3月14日 火曜日 13時13分1秒

材質は、金、銀,洋伯、赤胴を使用していた

《大正5年》 大正5年の第一次大戦後の好景気を受けた当時の懐中時計側は、無双側(両ふた)時代から専売側、バリス形片ガラス時代に移った。
このころの材質は、金、銀,洋伯、赤胴を使用しており、精工舎では、斜子無双側を作っている。赤銅側には、花鳥や富士山などの彫刻色とりどり、象嵌などは、骨董価値のあるものが多かった。

■この頃の時計側工場は専属工場がほとんど ■2017年3月14日 火曜日 13時10分46秒

主として金側の堤時計が大流行していた時代で、少しづつ腕時計用に

《昭和11年》 この頃の時計側工場は専属工場がほとんど。吉田の浦田工場、加賀屋の白石工場、大沢商会の脇工場、天野の尚工舎、平野(精工舎の元地金部長)工場、金栄社は金森、藤田の専属、新本の斎藤工場、鶴巻の竹内工場など。
このころは、主として金側の堤時計が大流行していた時代で、少しづつ腕時計用になっていった。金栄社では、銀側の16型レナー用を作り、2円で卸していた。

■大正から昭和にかけての時計材料界 ■2017年3月13日 月曜日 16時44分57秒

大正13年ごろからは小売業が復活するに向けて活発化してきた

《大正12年》 大正12年の関東大震災が世の中の状況を一変させた。東京の時計材料界は小売業だったため、ほとんど業務は起こらないで復興は遅れていた。それでも大正13年ごろからは小売業が復活するに向けて活発化してきた。時計の種類も大物類は別として、身近な必要な腕時計や懐中時計の類が多かったので材料部品もそれなりに用意されている。小売りからの注文が主として一個合わせというのが多かった。震災によって特に時計への修理するという必要性が起こってきたからであろう。ところがこのころは、腕・懐中時計の場合でも舶来品の取扱量が多かっただけに、修理品の場合でも舶来品が多かった。
だが舶来品部品が完全に揃っていたのでないので特別な技術を持った技術者がいないと、注文に応じるわけにはいかなかった。材料店もこのような一個合わせの特殊な注文に応じる店はいつでも満員だった。
■東京皮革時計バンド工業組合は、昭和13年東京・浅草で135名のメンバーで発足 ■2017年3月13日 月曜日 14時49分40秒

昭和5年、16名の発起人によって設立した「東京腕時計付属品商工組合」が開祖

《昭和13年》 東京皮革時計バンド工業組合は、昭和5年2月、小宮増太郎氏ほか16名の発起人によって腕時計用皮革およびリボンの製造販売業者並びにその付属品販売業者85名で結成した「東京腕時計付属品商工組合」が開祖で、その後戦時体制に移るに従って次第に発展、昭和13年11月28日、東京・浅草で135名のメンバーで発足した。出資総額は2万5千円。
理事長:若林善治、専務理事:春山錦造、理事:谷口誉四郎、岡部太郎、山崎福太郎、宮田伊太郎、越村暁久、藤巻勝範、原徳太郎、監事:長島次郎、大熊喜佐雄、平岩徳三郎の諸氏。
■昭和31年、全国組織の「全国時計付属品卸組合連合会」を設立 ■2017年3月13日 月曜日 14時48分50秒

波乱含みの付属品業界の生い立ち

《昭和22年》 時計バンド業者を集めた組合は、「東京時計付属装身具工業協同組合(美装組合)」と「東京時計バンド装身具卸商業協同組合」の二つの団体が存続している。
美装組合は、大卸団体で東京時計バンド装身具卸商業協同組合は小売店向けの団体ということになる。この両団体のメンバーが歩み寄り一本化して、昭和22年「東京時計付属装身具工業協同組合(美装組合)」を設立、涌井増太郎氏を初代理事長に据えた。以降、村井寅吉、安藤喜男、長谷川恵章、遠藤僖一、今田正雄氏の順に経過している。
組合の中で商品を供給する「睦会」と「これを受け入れる側の立場の二派があり、利害が反する二派となり、ついには昭和31年、「東京時計バンド装身具卸商業協同組合」は全国業者の一本化を図り、東京組合を主体として大阪、名古屋の同業団体に呼び掛けて「全国時計付属品卸組合連合会」を設立した。この組合は、組合員の相互便利機関として毎月1日を定例日として商品展示会を開催して業績を上げた。
■繫栄する業態に、生産・直売のマルマンが参入、業界内は波乱含みの動き ■2017年3月13日 月曜日 14時47分29秒

企業体が一部整理倒産という憂き目を見た時代となった

《昭和37年》 時計バンド業界の商況は、戦時中は自国製の時計バンドが主流だったのでリボン類に次いで皮革品が主力製品だった。終戦後は、アメリカ製の金属時計バンド(S式)の流入により、商いは旺盛を極めた。それが影響したか国内産のS式バンドが流行し始め、伸延可能なパーフェクトバンドのパテント問題が起こり、ドイツのロジ社との間で紛争問題が勃発した。エバー式のパテントの商材をもって争った「東京時計付属装身具工業協同組合(美装組合)」が勝訴して平静化した。この間、生産・直売のマルマンが出現、業界内は波乱含みの動きを見せていた。昭和37年ごろから金融界の新しい処置による影響で、不健全な組織体による企業体が一部整理倒産という憂き目を見た時代となった。
■昭和3年5月に「東京時計付属品研究会」と称した団体が草分け ■2017年3月10日 金曜日 15時14分24秒

腕時計バンド業界の由来

《腕時計バンド業界》 時計付属業界の団体作りの始まりは、昭和3年5月に東京・浅草寿町の料亭「吹き上げ」で発会した東京時計付属品研究会と称した団体が草分けであろう。その団体の初代会長となったのは、合月商店系の外園盛吉氏である。当時時計付属品と貴金属品の販売で一大勢力を誇っていた合月商店の店主・前川案山子が商品の円滑な仕入れを狙いとして設立されたものである。
更に昭和5年2月、時計バンドメーカーが発展してきたのを機に初代組合長となった小宮増太郎氏ら16名の発起人で東京腕時計バンド商工業組合を設立した。
■高級品のコードバンが出現したのは、谷口の「ホマレバンド」がトップ ■2017年3月10日 金曜日 15時13分35秒

皮革バンドの最初は、低品質だったが需要が高まるにつれて高級品に

《腕時計バンド業界》 時計用バンドは、その当時時計のケースがパリス側で作られていた関係で、これに使用するためのリボンが用いられていた。このリボン釻のもパテントが付けられていたことから、意匠問題や構造問題から来たらしい。
昭和の時代になって初めて革バンドが使われるようなった。皮革バンドのメーカーでの最古参は、池上彰治氏。皮革バンドの最初は、低品質だったが需要が高まるにつれて高級品になり、コードバンが出現したのは、谷口の「ホマレバンド」がトップだったと思う。
■多くのブランドが乱立、宣伝活動が活発化し競争が激しくなった ■2017年3月10日 金曜日 15時12分40秒

意匠登録やパテント問題などの問題が飛び出し、活況を呈した

《腕時計バンド業界》 時計バンドの需要が高まるようになったころの付属品業界は、本所・両国の大熊喜佐雄、浅草・並木の谷口誉四郎、牛込・矢来の丹羽留吉、上野・下谷の木村大資、浅草・鳥越の井村松五郎、浅草・山野の若林善治、浅草・柳橋の山崎福太郎、浅草・寿町の中野新助、本所・両国の石田国三郎、赤坂・新町の平岩商店があげられる。この中でブランドとして宣伝に努めたのが、ヤナギバンドの山福、ホマレバンドの谷口、軍人バンドの大熊、矢印の丹羽、地球印の平岩などで、宣伝活動が活発化し競争が激しくなった。そこへ、意匠登録やパテント問題などの問題が飛び出し、活況を呈した。
■昭和40年、日本眼鏡卸組合の設立20周年を祝して盛大な式典を ■2017年3月9日 木曜日 15時21分25秒

東京眼鏡小売、東京レンズ協同組合、東京眼鏡枠工業組合の各団体が

《昭和20年》 井戸理事長らの発奮により全国の業者を一丸とする全日本眼鏡商工組合連合会を結成、官界と医療界、眼鏡業界間の連絡協調を計るなど、更には視力衛生問題に絡んで眼鏡販売に対する認可制問題等に対処するなど文字通りの活躍が見られている。
同組合は先に、日本眼鏡卸組合の名において眼鏡の歴史を編纂刊行したが、昭和40年11月3日、日本眼鏡卸組合の設立20周年を祝して盛大な式典を、東京・文京区の椿山荘で行った。東京には、この組合のほかに、佐野義雄理事長が率いる東京眼鏡小売商協同組合があり、メーカー団体では、東京レンズ協同組合、東京眼鏡枠工業組合の各種団体が存在している。

■欧米流の眼鏡検眼技術を習得する為に青年二人が渡米 ■2017年3月9日 木曜日 14時15分18秒

吉田眼鏡店の吉田幸男氏と京橋の金鳳堂の小柳政重氏

《大正末期》 眼鏡業界の歴史を紐解くと「レンズ」は、13世紀ごろイタリアのヴェネツィアで作られたことが記されている。日本にメガネが入ってきたのは、奈良天皇の享保2年に宣教師が大内義隆に望遠鏡とともに献上したというほか、天文2年にフランシスコザビエルが持ってきたとする記録が残っている。
また日本に眼鏡として初めて輸入されたのは、寛政5年に浜田弥平衛という人が、南蛮に渡ってメガネの製造を習得し、長崎にいた生島藤吉という人に伝授した記録が残っている。
そんな古歴に関することではあるまいが、欧米流の眼鏡検眼技術を習得する必要から、眼鏡界の青年二人が大正の末期に洋行している。その人は、時計界の各支所で眼鏡学の講師の経歴を持った吉田眼鏡店の吉田幸男氏と京橋の金鳳堂の小柳政重氏の二人である。
■昭和20年8月、戦災から復帰した同業者を集め、業界再建に努めた ■2017年3月9日 木曜日 14時14分15秒

昭和16年12月8日に至り、日本は大東亜戦争へと突入した

《眼鏡組合》 従って、大正の末期ごろは、眼鏡小売組合、卸商組合、レンズ組合、枠などの各種団体がそれぞれ別動体をとっていた。しかし、いずれの時代も眼鏡に関する部門は、卸組合が中心となって活動していた。昭和14年当時、部制実施について改められた卸組合は、四転して東京眼鏡光学器卸商業組合と決まった。このころ戦争はますます酣となっており、組合関係は、安西俊治氏が団長となり、北志那方面の皇軍慰問団を編成、一か月にわたって実施した。且つまた、統制令に関しては、公定価格の作成という仕事も生まれたほどであったから、戦局はいよいよ思わせるものがあった。かくて昭和16年12月8日に至り、日本は大東亜戦争へと突入した。これからは、勤労奉仕に軍需工業にと協力体制をとる以外に処置はなかった。かくして昭和20年8月15日に悲しむべき敗戦の日を迎えたのである。
かくして組合は、戦災から復帰した同業者を集め、業界再建に努めた小島秀海氏のあとを受けて、昭和24年8月、井戸武義氏が理事長の座についた。
■明治30年1月10日、「東京眼鏡商組合」が組合員65名で発足した ■2017年3月8日 水曜日 16時12分5秒

組合長には、田中栄太郎、副組合長に佐々木房太郎両氏が選任

《眼鏡の由来と眼鏡界》 明治30年1月10日、加藤菊太郎と杉若重エ門両氏が発起人になって「東京眼鏡商組合」が発足した。組合長には、田中栄太郎、副組合長に佐々木房太郎両氏が選任され、組合員65名で発足した。明治40年、小林清五郎氏が組合長に就任した時から「重要物産同業組合法」へ昇格運動をおこし、明治40年11月東京眼鏡製造販売同業組合を設立している。大正10年、岩崎広松氏が組合長となり、大正15年、鈴木定吉氏が組合長になってから、この当時の組合員の発言はすこぶる活発になり、常に賑やかな総会風景を呈した。
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■大震災を契機にした眼鏡界、次第に芽生えの時期が到来 ■2017年3月8日 水曜日 16時9分57秒

大正12年9月1日の関東大震災では、ほとんどの業者が被災

《眼鏡の由来と眼鏡界》 大正12年9月1日の関東大震災では、ほとんどの業者が被災し、死亡した組合員は29名を数えた。組合では、被災救援金を借り込むという状態で振るわなかった。しかし、震災後の復興力が緒に就くと、次第に芽生えの時期が到来した。
このころの眼鏡界は、組合の名称が示すように、製造・販売業者を一括して組織されていた。従って販売店がお客の立場という関係で、常に主位にあるように動いていた。
組合行政では、神田の五味行長、小柳重憲、民野勇、鈴木金蔵、谷勇、村田嘉兵衛、亀山末義、加藤亀太郎ら小売りの面々に、時計界から向島の鈴口茂美氏などが加わって、賑やかな総会風景を展開している。
■当時の眼鏡組合の会議風景は、正に甲論乙駁といえるもの ■2017年3月8日 水曜日 16時8分47秒

議論の場ともなれば、まさに物すさまじいばかり

《眼鏡の由来と眼鏡界》 メーカー畑では、小沢元重、佐野義雄、奥田平衛、卸界からは、井戸武義、吉田幸三郎、田中喜八の諸氏が役員として参画している。当時の眼鏡組合の会議風景は、正に甲論乙駁といえるものであり、一言一句が議事法に則るものでなければ許されなかったというほどだ。俗称「神田組」と称された五味、谷、鈴木の三氏は発言なしでは、済まなかったようである。平野組長によって、時計関係では同業組合への昇格は見たものの、公認組合としては、この眼鏡組合のほうがはるかに先輩というだけに、議論の場ともなれば、まさに物すさまじいばかりの光景が見られた。
■昭和21年全国水産品評会で二等賞を獲得した ■2017年2月24日 金曜日 15時46分0秒

この受賞が御木本幸吉翁が公の場で受賞した初めてのもの

《昭和21年》明治20年の頃、真珠は輸出商材としては極めて有望な品物であった。だが横浜や神戸では、外国人相手の取引となると、品質が良いものは羽が生えたように売れていた。最も良質な真珠は、数千個の真珠貝の中から僅かに二、三個程度しか採ることが出来なかった。そんな中、昭和21年6月、全国水産品評会が東京の京橋木挽町の厚生館で開催され、御木本幸吉翁がかねてから改良を重ねていたイリコと真珠を出品、二等賞を獲得した。この受賞が御木本幸吉翁が公の場で受賞した初めである。御木本幸吉翁はこの時の光栄に鑑みていよいよ真珠貝の培養試行を決意した。昭和21年9月の頃、御木本幸吉翁はアコヤ真珠貝を沢山集め、その飼育培養のスタートを切っている。
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■アコヤ貝から出来た真珠は小さいが形が整っていて正円形のものが多い ■2017年2月24日 金曜日 15時43分55秒

御木本幸吉翁の養殖の研究結果

《昭和21年》御木本幸吉翁は、この時、何の貝の中にできる真珠が最も良質で、人工的にどうしたら創り出せるか、頭の中で考えた。その結果、長年の経験からアワビ貝から出来た真珠は大きいが、形が歪んでいて光も鈍い。アコヤ貝から出来た真珠は小さいが形が整っていて正円形のものもあり、色合いの美しいものが多い結果となった。真珠の品質は、その母貝の如何により粗悪品と良質品が生まれることが判った。この判断は水産業的に見ても大きな前進となったといえる。更にこの養殖技術を推進していく事に決めた。
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■御木本パールの始祖、御木本幸吉翁が開発した養殖技術 ■2017年2月23日 木曜日 14時46分29秒

世界に誇る日本の養殖真珠

《明治21年》 貴金属宝飾品業界の歴史中で忘れてはならないものに、日本産の養殖真珠の世界進出がある。日本の真珠は、明治21年頃、三重県の鳥羽町にあった御木本パールの始祖、御木本幸吉翁が装飾品の中でも特に珍重がられる真珠の養殖を開発、世界に打って出ていた。日本の真珠の採取量は極めて少ないにもかかわらず、その需要は年々伸びていた。御木本幸吉翁は、伸びつつある真珠の需要に着目して、アコヤ貝の中に稚貝を入れて養殖真珠の技術を開発した。日本の養殖真珠は、御木本幸吉翁の苦心研究の結果生まれたもので、この頃より世界的な発明品として世に謳われるようになった。
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■真珠に対する保険とその対策を取らなければならないと決意した ■2017年2月23日 木曜日 14時45分43秒

志摩国海産物改良組合理事の立場にあった御木本幸吉翁

《明治21年》 明治維新以来、真珠の需要はますます著増の傾向にあり、特に明治12,13年頃は品質の良い伊勢真珠が、乱獲の兆候が見られた。この頃、日本国の真珠生産状況は、三重県志摩の英膚湾、肥前の大村湾、能登の七尾湾などから産出され、生産額は1万円は下らなかったようだ。保護増殖の途が講じられないまま、真珠に対する需要増を見せる反面、生産量は逆に減少した。
御木本幸吉翁がこの対応策に腐心し続けている明治20年の頃は、僅かに2,3千円程度に落ち込んでいたのである。当時、志摩国海産物改良組合理事の立場にあった御木本幸吉翁は、真珠に対する保険とその対策を取らなければならないと決意したのである。
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■白金製の愛国メダルと銘打って一個20円で売り出したことがあった ■2017年2月23日 木曜日 13時54分29秒

当時白金の需要を高めるために地金協会のメンバーが

《昭和11年》 貴金属地金の中で白金の価格は、常に高い価格が付けられていた。ところが昭和11年頃、その白金の価格が金の価格に比べて二、三割しか高くない時期があった。当時白金の需要を高めるために、白金製の愛国メダルと銘打って一個20円で売り出したことがあった。確か山崎亀吉さんのデザインで徳力商店、田中貴金属、石福貴金属などの地金協会のメンバーが率先して対応したのを覚えている。
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■白金の価格についてはソ連の投機筋がかかわっているとの説が有望 ■2017年2月23日 木曜日 13時53分13秒

白金地金の用途は工業用ないしは軍事用

《昭和11年》 この白金が過ぐる30年ごろには、匁単位で2千円近くに低迷したことがあった。この時地金メンバーたちは、白金の需要の将来性について検討したところ、「こんな安値で止まるわけがない」との結論に達した。ところがその発表した翌日、途端に高騰し始めたという奇跡的な変動があったと聞く。白金の価格については、ソ連の投機筋がかかわっているとの説が有望であった。
因に、この白金地金の用途は常に工業用に使用されている。それだけに軍事用に関することで需要を伸ばした時には、その及ぼすところが自然大きく、かつ厳しい制限を受ける例がある。日本では白金が採掘されないので、輸入に頼るしかない。従って、こと軍事用の時代に入ったとなると、この白金の取り扱いに関しては、国の管理規定に違反するような事態に迫られる場合が多かった。従って、この場合の処罰が極めて厳重すぎるほど厳罰が採られたのも、白金に絡む事件が多発、命脈を断つたものが前後三件に及んでいる。
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■大正11年当時からのダイヤモンドに10割課税、撤廃運動始まる ■2017年2月22日 水曜日 14時59分48秒

世間が目まぐるしく変化していた時代に、この重税だけが取り残されていた

《昭和11年》 貴金属業界の景気は、時計業界とは不可分の関係にあるものなので、余りいいとは言えない。この頃はダイヤモンドに10割という重税が課せられていた。業界としてこの10割課税は重税であり、この悪税を撤廃する動きが始まった。この悪税は、大正11年当時、浜口内閣総理大臣が不景気の為に緊急財政を打ち出した、その時のゼスチャー的物産として決められたものであり、以来そのままになっていたもの。ところが、満州事変が起きたりして、世間が目まぐるしく変化していた時代に、この重税だけが取り残されていたのである。
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■ダイヤモンドの10割撤廃運動が始まり、悪税が撤廃された瞬間 ■2017年2月22日 水曜日 14時58分49秒

大蔵省の主税局長に悪税の説明をして、本会議で取り上げられた

《昭和初期》 ダイヤモンドの10割撤廃運動が始まった。明治大学のクラスメートに相談したところ、九州出身の仲間から、2・2事件で災禍で倒れた高橋是清大蔵大臣の懐刀と言われた知能明晰な人・大塚司先生が出てきた。大塚先生を経由して陳情を展開、大蔵省の石渡主税局長あての紹介状をもらい、早速石渡主税局長に会いに行き、重税の説明をした。その時は、衆議院本会議に、ダイヤモンドの税率問題が上程されることになっていたことから、石渡主税局長が説明、提案どおり可決された。大正時代からのこの悪税が撤廃された瞬間であった。
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■三輪豊照氏はジュエリーデザインに大きな関心を持っていた ■2017年2月13日 月曜日 14時21分55秒

業界の進歩にも大きく寄与したようだ

《昭和初期》 東京・湯島に本社を置く三輪屋商店が輝いていた。代表者である三輪豊照氏は当時からジュエリーデザインに関してかなりの知恵を絞っていた。当時三輪屋が主催した催しに参加したメンバーは80名にも達したという。同社は、当時一等に3千円という破格な賞金を付けて技術者の競争心をあおった。自作の装身具を持ち寄って優秀なデザインの作品に賞金が贈られた。このようなことでこの時代から新しいデザインが生み出されるようになり、業界の進歩にも寄与したようだ。
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■貴金属店の有名な刻印が80有余に上っていた ■2017年2月9日 木曜日 14時58分9秒

貴金属の品位を保証し、店の信用を保持する

《昭和年代》 しかし貴金属の品位を保つということは、その店の信用を保持するということで、貴金属メーカーでは、自店のマークを宣伝したものである。当時の有名なマークは、服部時計店のツバメ印、村松本店の犬印、天野宝飾店の日章印、松本常治郎商店の兎印、細沼貴金属工業の菱H印、溝口万吉商店の三ツ柏印、井村商店の重ね松葉に一の字印、巽商店の三階松印、合月商店の月に合の字印など。この他にも朝日商店、喜多村保太郎商店、三輪屋商店、中善商店など有名な刻印が80有余に上っていた。
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■「平和博覧会」で起きた盗難事件がきっかけで刻印がデビュー ■2017年2月9日 木曜日 14時57分21秒

品割捜査に協力、警視庁の刑事たちも印を確認した

《昭和年代》 貴金属の品位を保証し、店の信用を保持するマークで思い出すのが昭和の初めころ、上野の不忍池湖畔で「平和博覧会」が催された。その時、出展物の盗難事件が起こり、警視庁の刑事たちはこの刻印マークを知らせる事により、品割捜査が成功すると考えた。当時の業界紙が各店のマークを掲載し始めたのが、刻印の初めである。
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■展示即売会が始まったころ ■2017年2月9日 木曜日 14時56分26秒

宝石の販売が増え始めた

《昭和年代》 貴金属業界の形態は組合規約に盛られた内容なものが常であり、あまり変わり映えがしない。昭和5年の春に勃発した国際的なダイヤモンドの密輸事件もようやく片付き、時代に即した技術上の改良など、業界ぐるみで問題の解決をした。
このころから貴金属品の流行は旺盛になった。卸業者が小売店を訪問して販売する他に、時期を決めて、販売店を招待して展示即売会を催した。当時、依田忠商店が翡翠やサンゴの展示会をしたのが初めてで、以来、細沼商店、中村善太郎商店が新作発表会などを催した。
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■設立早くも産業組合を設けて大蔵省に陳情、米貨の払い下げなども ■2017年2月8日 水曜日 16時38分41秒

現在の東京貴金属装身具卸商業組合

《大正時代》 日本の貴金属業界の組合事業としては、設立早くも産業組合を設けて大蔵省に陳情、米貨の払い下げを受けて地金商と業者間の地金の配給上の円滑化を計った。大正15年、細沼組合時代に金位検定事業を推進、東京商工奨励館内に東京貴金属品検定所を設置して金品位の保存に努め、昭和4年、造幣局に移管した。引き続き昭和14年まで銀地金の配給事業を行った。なおこの組合は、昭和15年東京貴金属工芸品卸商業組合に改組、中村善太郎氏が初代理事長を務めた。以降、松山繁三郎氏に代わり、現在の東京貴金属装身具卸商業組合に改称した。
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■販売側よりも彫金界の方が勢力を持っていた ■2017年2月8日 水曜日 16時37分54秒

歴史ある東京貴金属装身具卸商業組合

《昭和初期》 昭和初期の貴金属業界の動きは、時計業界の激しい動きとは対照的に貴金属卸組合にメーカー側の工芸品協同組合などが分散して、それぞれが独立している。
昭和6,7年頃の貴金属業界は、東京貴金属装身具卸商業組合が一本で何事も押しまくっていた感がある。
貴金属業界の動きを紐解くと、その昔明治26年に創立された日本金工協会に淵源するものである。従って、大正3年9月14日に東京一円の同業者を包括して設立した東京貴金属品製造同業組合には、海野勝a、黒川義勝、平山寛亭など、の彫金界の大家が居て、服部時計店、小林時計店、村松本店、天賞堂、玉宝堂、玉屋などが販売店側に加わっていたが、組合の力はこの彫金界が勢力を持っていた。
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■金性をごまかすニセモノが出回り始めた頃 ■2017年2月8日 水曜日 16時37分2秒

貴金属に対する魅力が理解され始めた頃

《大正年代》 この頃の一般人は貴金属に対して魅力を持ち始めた頃だ。ダイヤモンドとなるとまるで別世界の人達が持つような高嶺の花のように思われていた。従って貴金属品に対する見方が変わってきた。貴金属品の品位の低いニセモノが出始めたのも、この時代からである。指輪と金クサリの金性の品位についてとかくの問題が出始めた。貴金属だけでなく時計の金側の金性落ちなど。この時代の時計は堤時計が全盛であり、時計の堤クサリには、金の目方が多く付けられていた。そこに目を付けたのが、クサリの駒つなぎにまで銀ろーを使ったものまで出回るようになった。1本の鎖で何百円もする時計が売れるようになった時代だから。
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■明治時代からの貴金属業界とその経路 ■2017年2月8日 水曜日 13時22分1秒

日本で最も古い貴金属業界団体「日本金工協会」

《日本金工協会》貴金属品とは、金・銀・プラチナ等の素材で製作した美術・工芸装飾品を総称したモノを言い、貴金属宝飾品の業者団体の創生は明治時代だった。
その最も古い団体は、明治26年ごろに創立した「日本金工協会」であった。貴金属業界の草分け的存在の「日本金工協会」のメンバーは次のような諸氏の名が挙げられている。
▽美術工芸家=海野勝a、海野美盛、豊川光長、塚田秀鏡、船越春a、平田宗幸、黒川義勝、桂光春、香取秀真、平山寛亭。
▽販売業者=小林時計店、服部時計店、天賞堂、玉宝堂、大西白牡丹、村松本店、玉屋など。
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■貴金属そのものが高貴な方たちの「特殊な愛好品」であったことが伺える ■2017年2月8日 水曜日 13時21分17秒

初代会長には、金子賢太郎画伯、名誉会長として宮内次官や財閥の名前が

《日本金工協会》日本で最も古い貴金属業界団体「日本金工協会」の初代会長には、金子賢太郎画伯、副会長には日本美術学校長の正木直彦氏、名誉会長として宮内次官、宮中顧問官と財界の三井家の人達を選んでいた点からしても、貴金属そのものが高貴な方たちの特殊な愛好品であったことが伺える。
「日本金工協会」が毎月開いていた上野の作品展覧会や競技会などには天皇陛下の臨席もあったと聞いている。
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■大正3年「東京貴金属品製造同業組合」が設立された ■2017年2月8日 水曜日 13時20分20秒

組合員は67名、賦課金月額5円の時代

大正3年9月13日、東京市芝区新橋5丁目2番地に「東京貴金属品製造同業組合」が設立された。初代組合長には、山崎亀吉氏、2代目は、細沼浅四朗氏、3代目は、久米武夫氏が就任している。組合員は67名。賦課金月額5円。
役員には、松山繁三郎、溝口万吉、伊沢栄太郎、細沼浅四郎、池田嘉吉、田中一郎、高木新次郎、野村菊次郎、黒川義勝、松村伊助、宮本庄吉、
戦争の為その姿は、変えられているが、当時の組合規約に盛られている内容がほかの組合とは異なる点があるので、参考の為に抜粋した。
組合員資格としては、貴金属製造並びに美術工芸装飾品(盃、花瓶、茶器、置物、)、貴金属、装身具(指輪、帯もの)、賞牌、徽章を製造販売するもの。但し金・銀・プラチナ又は、合成金にしても付則第5条に定める金質を有するもの。組合員が製造する貴金属製品には金質を表示する刻印を成すべきものとする。
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■政府が30万ctのダイヤモンド民間買上げ ■2016年11月24日 木曜日 15時22分51秒

ダイヤモンドの密輸入が横行した時代

《明治・大正・昭和『業界三世代史』》 昭和19年頃から政府は戦争に向けた必要な物資の民間買い上げを始めた。中でもダイヤモンドは小売値より2〜3割高く買い上げてくれ、総量で25〜30万ctのダイヤモンドが各地のデパートを窓口に集められた。金、プラチナなども同じく買い上げられていた。

昭和23年は、増長するインフレを克服しようと政府は莫大な復興資金を基幹産業に入れたが、上手くいかず明けて24年、輸出による日本経済の自立を基本方針に、インフレ抑制策(ドッジ・ライン)を強制、一挙に不況へと転落した。この年の為替は360円だった。 
このころからダイヤモンドの密輸入が横行し始める。新しいカットのダイヤモンドが市場に出回り始めるが、メレ―価格は暴騰し、カラット当り10万円〜15万円の値が付いた。
 昭和25年6月、朝鮮戦争が勃発、日本の産業は朝鮮特需ブームに沸く。宝飾業界も活況を呈した。
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■大正7年、第一次世界大戦が勃発、日本は空前の好景気に沸いた ■2016年11月24日 木曜日 15時19分43秒

発展から暗黒へ

《明治・大正・昭和『業界三世代史』》 大正7年、第一次世界大戦が勃発、日本は空前の好景気となり消費に沸き立ち、宝飾品が飛ぶように売れた。戦争の為、欧州におけるダイヤモンドの生産量が低下し、宝飾品は完全に売り手市場になった。しかし、大正12年の関東大震災、財政難から宝石に対する10割という輸入関税が課せられた。その結果宝石の密輸の横行が始まった。主に上海、北京あたりから。
日本の経済はますます混迷を深め、浜口内閣は緊急対策として金輸出を解禁したが財政は逼拍、宝飾品の売れ行きも下落、業界も疲弊した。
昭和15年7月7日、奢侈品等製造販売制限規制が施行され、業界は大打撃、世にいう「七・七・禁令」。小売価格25円以下の商品以外は販売を認められず、業界は完全に息の根を止められた。大正4年からの25年間は天国と地獄を味わった波乱万丈の年だった。
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■宝石を身に着ける風習が浸透、和風小物店や時計店で宝石を扱う店が増えてきた ■2016年11月24日 木曜日 15時17分16秒

鹿鳴館の時代は日本国の“宝石元年”

《明治・大正・昭和『業界三世代史』》 明治10年の終わり近くから20年代の初めにかけて、いわゆる鹿鳴館と呼ばれ、ひたすら欧風化を目指し、煌びやかな舞踏会など上流社会が誕生し、女性たちの身は燦然とした輝く宝石で飾られた時代であった。この鹿鳴館の時代を日本国の“宝石元年”と言って過言でない。
明治30年から読売新聞に連載された「金色夜叉」にダイヤモンドが登場、宝石を身に着ける風習がゆっくりと浸透、和風小物店や時計店で宝石を扱う店が増えてきた。
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■昭和41年に宝飾品類に課せられた15%の物品税の撤回運動など ■2016年11月24日 木曜日 15時14分9秒

宝石業界100年の歩みが始まる

《明治・大正・昭和『業界三世代史』》 昭和41年に宝飾品類に課せられた15%の物品税の撤回運動や、宝石の輸入自由化、日銀ダイヤモンドの鑑定、CIBJO OF JAPANやジュエリー協会の設立など宝石業界でも大きな動きがあった。
1953年は、政治史上でも有名な吉田茂総理大臣が「バカ野郎解散」を行った年である。その後第5次吉田内閣が成立、昭和27年の対日講和条約と日米安全保障条約の正式発効を踏まえて、国民の意識の中に“敗戦”“戦後””新生日本”などが雑居し、国情が落ち着きを取り戻した感がある。
昭和45年頃から日本経済は好景気に入り、大手商社や化粧品業界、呉服業界に至る様々な企業が宝石の販売に乗り出してきた。商品知識の乏しい販売員に宝石を扱わすことになるため、補助的な機能である鑑別書が前面に押し出されることとなった。
いわゆる、熟練した販売員を養成するには時間を要するため、素人のような販売員を店頭に立たせるには、鑑別書に頼よわざるを得なかった。その場限りの企業の方針が、業界全体に蔓延してきた時代だ。
1952年は、皇居前広場を血で染めた第23回メーデーの悲惨さの記憶が薄れる中で、国民生活は豊かになっていった。小型婦人用腕時計“南京虫”が大流行、街頭のテレビに人気が集まりかけた時代。
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■今岡時計店社長の今岡芳太郎さんは、商人として一風変わった人として知られていた ■2016年11月24日 木曜日 15時7分12秒

関西での顔なじみ

《明治・大正・昭和『業界三世代史』》 今岡時計店社長の今岡芳太郎さんは、商人として一風変わった勇敢な人として知られていた。主としてセイコーの時計を販売していた今岡さんは、上京するたびに服部時計店の服部正次翁と会談し、商魂たくましく取引面でも直接交渉したという。それだけに服部正次翁が故人となられてからの今岡さんは、上京の都度に服部正次翁の墓参りに精を出したそうだ。時計の他に、古い銀貨を扱い事件に巻き込まれたこともあるが、戦争がさせた物資不足に絡む事件だった。
あるとき今岡社長が時計業界の大手セイコーの時計部品メーカー蒲ム精機製作所の林市太郎社長と一緒に日宗右衛町の料亭に招待してくれた時のことである。しこたま料亭で御酒を飲み、大阪・南場のキャバレーに芸奴十余人を伴って遊んだ時、裏面に粋な図柄のある芸奴の羽織をもって踊った今岡社長が大喝采を受けたことを今でも忘れられない光景だった。
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■28年6月6日、銀座松屋デパートで初の輸入時計大展示会を開催 ■2016年11月24日 木曜日 15時3分31秒

輸入時計の団体発足

《明治・大正・昭和『業界三世代史』》 昭和27年6月7日、上野・精養軒で輸入時計懇話会を開催、大沢商会から岩沙、増田、日本デスコ・加藤、ヘラルド・コーポレーション・草日、スイコ・鹿野、シイベル・ヘグナー・小倉、リーベルマン・亀田、中央時計・肥田、平和堂・高木、堀田時計・小田切、シュルテル商会・大洋貿易、相互貿易、シュリロ貿易などが集合した。
この懇話会が話し合いを重ね、翌28年6月6日、銀座松屋デパートで初の輸入時計大展示会を開催、大盛況をおさめた。

2世たちで作った東京と大阪の研交会

大正15年という年は大正天皇が崩御した年で景気が良くなかった。大阪の時計材料界で主導的立場にあった冨尾時計店の令息清太郎さんが商用で上京するたびに、時計業界の二世会の話が出ていた。
大正16年2月11日の紀元節、帝国ホテルで二世会「東京研交会」が発会式を挙げた。メンバーは、平野昌之(小売)、吉田庄五郎(時卸)、天野国三郎(宝卸)、野村康雄(小売)、小柳政重(眼小売)、吉田幸男(眼卸)、松本武司(材料)、橋倉利平(畜卸)、小西孝信(眼小)、古川清太郎(小売)、大場孝三(小売)、秦伊兵衛(小売)、村松鉄三(貴卸)、石橋幸太郎(宝卸)、秦藤次、山岡保之助、岡田政人、藤井勇二(本紙社長)。
この研交会は、毎月11日を例会日にして勉強会を行っていた。大阪研交会は、大正12年冨尾時計店肝いりで創立された。
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■28年6月6日、銀座松屋デパートで初の輸入時計大展示会を開催 ■2016年11月24日 木曜日 14時56分44秒

輸入時計の団体発足

《明治・大正・昭和『業界三世代史』》 昭和27年6月7日、上野・精養軒で輸入時計懇話会を開催、大沢商会から岩沙、増田、日本デスコ・加藤、ヘラルド・コーポレーション・草日、スイコ・鹿野、シイベル・ヘグナー・小倉、リーベルマン・亀田、中央時計・肥田、平和堂・高木、堀田時計・小田切、シュルテル商会・大洋貿易、相互貿易、シュリロ貿易などが集合した。
この懇話会が話し合いを重ね、翌28年6月6日、銀座松屋デパートで初の輸入時計大展示会を開催、大盛況をおさめた。

2世たちで作った東京と大阪の研交会

大正15年という年は大正天皇が崩御した年で景気が良くなかった。大阪の時計材料界で主導的立場にあった冨尾時計店の令息清太郎さんが商用で上京するたびに、時計業界の二世会の話が出ていた。
大正16年2月11日の紀元節、帝国ホテルで二世会「東京研交会」が発会式を挙げた。メンバーは、平野昌之(小売)、吉田庄五郎(時卸)、天野国三郎(宝卸)、野村康雄(小売)、小柳政重(眼小売)、吉田幸男(眼卸)、松本武司(材料)、橋倉利平(畜卸)、小西孝信(眼小)、古川清太郎(小売)、大場孝三(小売)、秦伊兵衛(小売)、村松鉄三(貴卸)、石橋幸太郎(宝卸)、秦藤次、山岡保之助、岡田政人、藤井勇二(本紙社長)。
この研交会は、毎月11日を例会日にして勉強会を行っていた。大阪研交会は、大正12年冨尾時計店肝いりで創立された。
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■戦時中の組合法の改正が行われ3団体が統合し「東京時計眼鏡小売統制組合」を設立 ■2016年11月24日 木曜日 14時52分5秒

東京時計小売組合の概史

《明治・大正・昭和『業界三世代史』》 東京時計組合は、戦時中の統制経済法に従って組合法の改正が行われ、以下の3団体(東京時計商工業組合、東京眼鏡光学器小売商業組合、東京府下時計眼鏡商工組合)が統合し、「東京時計眼鏡小売統制組合」を設立した。同組合の会員数は1,404名、総出資口数1,685口となっている。理事長=野村菊次郎、理事=山岡猪之助、白山鎮博、千葉豊、金山重盛、監事=中山文次郎、関口鹿十郎、内田亀楽の各氏。
昭和22年協同組合法に基づき「東京時計眼鏡小売商業協同組合」と改めた。その時の組合員は、1,120名、関誠平氏を理事長に、常任理事(千葉豊、金山重盛、中山文次郎)の他、理事11名、監事3名。昭和24年5月に東京中央区新富町に時計会館を建設、組合事務所とした。
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■戦後5年の昭和24年春ごろ、時計小売業者間から全国的組織の結成が叫ばれていた ■2016年11月24日 木曜日 14時47分17秒

全時連の結成

《明治・大正・昭和『業界三世代史』》 戦後5年の昭和24年春ごろ、時計小売業者間から全国的組織の結成が叫ばれていた。全時連結成に尽力した人たちは、名古屋の恩田茂一氏に加え、関時連会長の関誠平氏(東京)、近畿連会長の江藤順蔵氏(大阪)、千葉豊氏の4氏であった。全時連は、昭和24年5月9日、東京・新富町の時計会館で発足したものだが、その一年前に上記の4氏が東海道線御油田駅前の「引馬旅館」に集まり、準備会を開いたのが戦後における全時連のスタートとなっている。
次いで第二回目の会合は3月13日、伊東の大和館で開らかれた。結成した全時連の役員の顔ぶれは、会長=関誠平、副会長=千葉豊(東京)、江藤順蔵(近畿)、恩田茂一(東海)、常任理事=原(東海)、川本(近畿)、安部(九連)。関東勢はまだ役員に入っていなかった。
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■明治時代から懐中時計ぐらいだったから付属品としてはヒモ、鎖ぐらい ■2016年11月24日 木曜日 14時44分48秒

時計付属業界

《明治・大正・昭和『業界三世代史』》 日本の時計付属業界は、明治時代から懐中時計ぐらいだったから付属品としてはヒモ、鎖ぐらいで、堤時計の外側サック類に止まっていた。それが大正年代に入ってから腕時計が市販されるようになり、ニッケルやクローム側の腕リボンが出現、それ以来革バンドの時計ベルトが登場、皮革製品改良に拍車がかけられた。
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■大正8年11月5日、野尻雄三、吉田庄五郎、小林伝次郎、鶴巻栄松らの提唱で発足 ■2016年11月24日 木曜日 14時41分19秒

東京の唯一の時計卸団体である五日会

《明治・大正・昭和『業界三世代史』》 東京の唯一の時計卸団体である五日会は、大正8年11月5日、野尻雄三、吉田庄五郎、小林伝次郎、鶴巻栄松らの提唱で発足した。発足の目的は、販売価格協定を主眼に、大阪や名古屋などが連携して、春秋2回の売り立て会が行われたという記録がある。
そのころ資金力があったのが須田町の金森時計店。西の横綱は大阪の沢本平四郎氏であった。同氏は岡伝商店に在籍し、独立してダイヤと時計の卸業を営んでいた。
貴金属業界での資金力は、上野の金田屋・金田徳治、池之端の三輪屋・三輪三輪豊照、原清右衛門、名古屋の水渓商店・水渓直吉、大阪の角谷栄蔵などが名を連ねていた。
当時の時計卸業の勢力図は、御徒町の吉田時計店、加賀屋商店、大正5年に上京して開店した鶴巻時計店の3店が激しく争っていた。この他に、服部時計店、矢島時計店、天賞堂、山崎商店、天野時計宝飾店、エルシュミット工場、小林時計店などがあった。
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■天智天皇の御代、6月10日に水時計を作ったことを記念して「時の記念日」 ■2016年11月24日 木曜日 14時36分44秒

「6月10日」時の記念日と宣伝活動

《明治・大正・昭和『業界三世代史』》 天智天皇の御代、6月10日に水時計を作ったことを記念して「時の記念日」と制定した。以来日本では時の記念日活動を起こしたのは大正9年、当時の伊藤博文公が、西欧文化の進展に伴って日本国民の生活改善を計り進めることが始まりであったという。
大正13年5月、神田・一橋会館で社団法人中央生活改善同盟会が主催する「時の記念日事業活動に関する打ち合わせ会」が開かれた。会議には、社会的にも著名な吉屋のぶ子氏はじめ12,13名が集まり、協議の結果、6月10日の時の記念日に街頭宣伝事業を敢行することを決め、ビラ30万枚を東京全市に配布することに決めた。
当時は、日本橋、京橋、神田地区の業者で「東京時計商工組合(日京組合)」と「山の手八組合連合会」の二つの団体が存在した。当時、組合の代表として大勝堂の槙野さん、伊勢伊の秦さん、錦綾堂の大西さん、紺野時計店・紺野さん、富士屋時計店・近藤さん、京橋の森川時計店、八丁堀の川名さん、銀座の石井さんらが結束して、ビラ巻きに努め、大成功をおさめた記録がある。
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■大正5年東京製作所が生まれて電気時計の製作を開始 ■2016年11月24日 木曜日 14時33分48秒

大正9年吉田時計店が東洋時計製作所を興し置き時計の製作を開始

《明治・大正・昭和『業界三世代史』》 大正5年東京製作所が生まれて電気時計の製作を開始、大正7年隆工社がマルテー置時計を発売、同年尚工社が時計研究所を設立、大正9年吉田時計店が東洋時計製作所を興し置き時計の製作を開始している。
更に、10年雄工社が、同年8月東京時計製造鰍ェ50万円を投じて目黒に工場を建設、14年には鶴巻時計店経営の英工社、15年には村松時計店が池袋に工場を建てた。

関東大震災の時計業界

大正12年9月1日午前11時58分突如襲った関東地方の大地震。関東地区のほとんどの地域が壊滅状態。だがその復興は以外にも早かった。震災の被害で立ち往生をしていた市中の焼け跡は三日も過ぎた頃から立ち退き先の立て札が立ち始め、焼け跡へ復帰するバラック建ての工事が始まった。11月には、銀座の服部時計店と上野・池の秦の吉田時計店が仮営業所を開設、翌年の春には、池之端の加賀谷時計商会、広小路の鶴巻時計店、浅草の見沢万吉商店、浅草橋の今津時計店、日本橋の大西時計店などの卸商達が商売を始め、他業界に比べて明るさを見せた業界であった。   
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■時計商組合が設立されたのは明治10年、横浜の居留地に出入りしていた業者が作った ■2016年11月24日 木曜日 14時29分14秒

東京時計商工業組合

《明治・大正・昭和『業界三世代史』》 日本において時計商組合が設立されたのは明治10年、横浜の居留地に出入りしていた業者が作ったのが始まり。このころから毎月定期的に開催していた「開時会」は、明治23年9月に創立されている。初代の組合長は、八官町の小林伝次郎氏で、二代目は新居氏、3代目として服部金太郎氏が引き継いだ。
このころの東京地区の組合活動は、日本橋・京橋・神田の100名前後の業者と山の手8地区を含め設立した山の手組合は400名程度であった。大正14年頃、「関税問題」が浮上して服部金太郎氏は役員を辞退したが、大正12年大震災が起き、大同団結が叫ばれるようになった。大正14年ついに合同総会「東京時計商工業組合」が東京・日比谷の松本楼で開催、組合最初の創立時から30年が経過していた。初代組合長は、神田の吉川仙太郎氏が就任した。その後昭和2年に銀座の平野峯三氏が2代目組合長に、正式組合として認可された。3代目は、上野の野村時計店の野村菊次郎氏が就任している。
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■服部時計店は明治14年、個人で経営した事業の一切を受け継いで大正6年改組 ■2016年11月24日 木曜日 14時25分47秒

精工舎の偉業

《明治・大正・昭和『業界三世代史』》 兜桾博梃v店は、服部金太郎翁が明治14年以降、個人で経営してきた事業の一切を受け継いで大正6年改組したもので、精工舎は同社の工場である。明治25年5月、東京・本所に仮工場を設け、初めて掛け時計の製造に着手、16名の従業員で発足した。
明治28年中国に掛け時計を輸出したのを皮切りに、29年22型シリン式懐中時計を製造、32年には服部金太郎翁が欧米視察に赴いた。帰国後設備の一新を図り、新しい技術の導入で新しい時計の完成を見た。明治37年の日露戦争の際は軍需品の製造に努め、39年欧米の工場視察に赴いている。
帰国後は工場の施設の改善に努め、新しい形の時計を作成した。その後第一次欧州戦争勃発に及んでは、ドイツ国から、豪州、インド、南米、南ア、欧州諸国に大量輸出をした。
当時は時計に加え、蓄音機、扇風機などの製造もしていた。大正12年9月1日、関東大震災に遭遇、工場の全ては灰と化したが、翌13年3月には各種の時計を製造、早くも災害後2年にして震災前の業績までに復興している。昭和7年には最小型の5型腕時計の完成を見ている。
昭和12年に時計製造部門を江東区亀戸に移転、第二精工舎として分離、写真用シャッターなどの専門工場として太平町に工場を移した。しかし昭和20年3月の戦災により、同工場施設の約30%が焼失、同年8月終戦の為一時工場を閉鎖するまで残存施設によって操業を続けていた。
昭和21年1月操業開始以来、次々と新製品を開発、同年末には月産2万5千個を数えるに至った。
昭和21年4月、戦後初めてシンガポールへ目覚まし時計3,600個を輸出したのをはじめ、海外からの注文も多くなっていた。
このように精工舎の時計の生産は、亀戸の第二精工舎を軸に、上諏訪精工舎、鎌ケ谷精工舎などで増産された。昭和39年に開催された東京オリンピックで競技の計時時計が従来までのスイス製オメガに変わり、セイコーが担当することになり、“世界のセイコー”となった。
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■袋物、小間物も扱う業者を集めて明治10年に時計組合が作られた ■2016年11月24日 木曜日 14時20分37秒

組合創設の始まり

時計だけを専門に使う業者が少なかったため袋物、小間物も扱う業者を集めて明治10年に時計組合が作られたのが初めてである。設立の最初は、51名のメンバーで立ち上げている。

交換市場の開設

時計組合が出来てからは、毎月2回の時計の交換市場が開かれた。その一つが日本橋西仲通りで開いていた「弘時会」、このほか神田明神境内で開いていた「開時会」の二つの市場があった。
このころから商売人の種類には、市場取引を通じて売買するものと、商館からの仕入れ品に限り売買するものにと分かれていたようだ。
日本に初めて貿易商館が出来たのは文久2年、そのころ日本で時計を扱った最古の商館ファーブル・ブラント商会をはじめ、コロン商会も開館している。また慶応3年に横浜町通りに時計台が建設されている。
関西方面における時計製造初期を記録した大阪時計製造会社は、明治22年12月、当時の大阪時計業者21名が20万円の出資金を集めて設立したもの。同社は大阪市の桃谷に時計工場を設け、高木市兵衛氏によって発足した。同社が製造した商品は、当時の明治大帝に献上した記録がある。大阪時計製造会社は社長に土生正泰氏を就任させ、従業員35名で、掛け時計の製造を開始した。
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■当時盗難品の行方を追う警視庁関係から組合の創立を呼びかけられてきた ■2016年11月24日 木曜日 14時18分17秒

横浜居留地時代の素描

《明治・大正・昭和『業界三世代史』》 池内氏が取引書の古事記に綴られていたものによると、明治初期の横浜居留地の商館時代の素描は次のようなものである。
日本の港が外国人に開港するようになってからの国内取引の貿易は急進展を見ている。明治元年の頃、横浜港の居留地には早くも外国商館が立ち並んでいた。その数、およそ十余軒に及んでおり、これらの商館を通じて時計、宝石などの商品取引が活発化されていた。
輸入懐中時計も鍵巻きの時代から竜頭巻き式のものに改められてきた。明治初期の時計商は、時計だけでなく商館が扱っている袋物、小間物類に至るまで扱っている。そんな中、時計に対する需要が高まってきた中、当時盗難品の行方を追う警視庁関係から組合の創立を呼びかけられてきた。
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■日本における時計業としての草分けは、江戸時代 ■2016年11月24日 木曜日 14時14分50秒

明治初期の時計業と組合発祥の由来

《明治・大正・昭和『業界三世代史』》 日本における時計業としての草分けは、江戸時代、東京・八官町の小林時計店の始祖・小林伝次郎氏が創生したとされている。享保二年小林伝次郎氏が創業した時計鍛冶屋が時計師の名を高め西欧との鎖国の夢を破り、江戸が東京に変わる頃、尺時計を製造して江戸文化に貢献していた。
明治3年以降、横浜港太田町4丁目に開業した立正堂時計店の若松治助に従事していた池内氏が明治⒑年に横浜港の戸長、島田豊寛氏という人から当時、「時計組合を作れ」という命を受け、設立したのが日本における時計組合のはじめであったという記録が残っている。
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■時計の発祥は、2,600年前(西暦紀元前700年)、エジプトで発明された日時計 ■2016年11月24日 木曜日 14時12分8秒

時計の創始時代

《明治・大正・昭和『業界三世代史』》 この間社会現象としては、昭和6年に勃発した満州事変から支那事変を経てついに第二次世界大戦という人類未曽有の悲惨な苦難時代に遭遇した。続いて大正・昭和にかけてのどん底景気時代から戦時中の七、七禁令や奢侈品などへの十割課税を一挙一割に引き下げる運動など、様々な情報が記載されています。発刊から40年という記念するべき年に、筆者が体験した諸般の記録や資料に基づき三世代にわたっての業界歴史の収集に努めたものです。

時計の発祥は、2,600年前(西暦紀元前700年)の頃、エジプトで発明された日時計が発祥とされている。以来幾星霜を経て西暦9世紀の半ば頃、イタリアのハシフック僧正が初めて歯車を利用して時計を作ったのが機械式時計の端諸を開いたもので、今より約400年前の十六世紀、懐中時計が開発され、以来進化して今日のような実用的な時計に至っていると伝えられている。
わが国では、38代天智天皇の御代、紀元1321年6月10日、水時計が作られたのが始まりで、機械式時計が輸入されたのは、室町時代の末期か徳川時代の初期と言われている。その頃の懐中時計は鍵巻きで、高貴な方しか所有出来なかったもので、一般的には知られていなかった。明治13、14年頃から竜頭巻きに改良されたのが古代史に残っている。
時計王国スイスの時計産業について調べてみると、十六世紀の頃、ヨーロッパ全土で起こった宗教革命の時代に、フランス革命がイギリスに伝わったことから、農業国のスイスに産業革命が及んでいる。雪に閉ざされた期間、生計のために金属家内工業に慣れていたスイスの機械製造業者が、手細工による時計作りが始まったという。その起源は、ル・ロックル生まれのスイス人・ダニエルという人が渡米し、歯車によるボンボン時計を作る機械を持ち帰った時から始まったといわれている。
しかし最初は、叩き鍛冶屋の方式で掛け時計を作ったものであると説明されている。
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■大正3年9月東京貴金属品製造工業組合が設立されている ■2016年11月24日 木曜日 14時6分3秒

昭和初期の貴金属界

《明治・大正・昭和『業界三世代史』》 大正3年9月東京貴金属品製造工業組合が設立されている。このころ貴金属に対する関心と、特にダイヤモンドや金に対する関心は高かったようだ。そこで金の品位についての問題が発生した。
そこで登場したのが、製品に刻印するマークである。服部のツバメマーク、溝口万吉商店の三つ柏、三輪屋、タツミ等、続々とマークが台頭してきた。
この頃から卸業者が小売店を回るようになってきて、小売店の仕入れに供する展示会が流行り始めた。
大手の三輪屋さんが初めてデザインコンテストをするなど新しいスタイルの展示会が流行り始めた。この頃ダイヤモンドに10割の課税がかけられた。この頃から組合が充実して、撤廃運動の声が上がり始めた。

昭和11年頃貴金属地金の白金の相場が安かった。当時は地金協会のメンバー(徳力、田中、石福)は、白金の将来性について「こんな安い価格で止まっているわけはない」と説明していた。白金の用途は、工業用で、特に軍事用での扱いが多かった。

大正12年、当時の浜口内閣当時、ダイヤモンドに10割課税が決められた。
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■明治26年に創立した「日本金工協会」が組合の草分け的存在 ■2016年11月24日 木曜日 14時1分10秒

明治時代の貴金属業界

《明治・大正・昭和『業界三世代史』》 貴金属品とは、金、銀、プラチナ等の素材をもって作られた美術、工芸装飾品を総称したモノを言い、その業者団体の創生は明治時代であった。
明治26年に創立した「日本金工協会」が組合の草分け的存在だった。メンバーには、美術工芸家の海野勝a、海野美盛、豊川光長、塚田秀鏡、船越春a、平田宗幸、黒川義勝、桂光春、香取秀真、平山寛亭。販売業者は、小林時計店、服部時計店、天賞堂、玉宝堂、大西白牡丹、村松本店、玉屋などがあり、会長には金子堅太郎伯、副会長には美術学校の正木直彦学校長、名誉会長には宮内庁の技官と三井財閥の人が就任している点から見ても、貴金属そのものが高貴で特殊な愛好品であったことがうかがえる。
この「金工協会」は毎月上野で開いた例会に天皇陛下の臨幸があったほどである。
大正3年9月13日、東京貴金属品製造業組合が設立された。初代組合長には山崎亀吉が大正14年まで、二代目が細沼浅四朗、三代目:久米武夫が就任したが戦争によりその姿は変えている。当時の組合員数は67名、賦課金として月額5円、3円、2円となっている。役員には、久米武夫組合長、▽副組合長=松山繁三郎、溝口万吉、▽名誉顧問=伊沢栄太郎、細沼浅四郎、山崎亀吉、▽参与=池田嘉吉、田中一郎、高木新次郎、野村菊次郎、黒川義勝、村松伊助、宮本庄吉、鈴木喜兵衛、▽評議員=加藤清十郎、梶田久治郎、巽重雄、谷口加良俱、中村善太郎、越村暁久、後藤清貞、喜多村保太郎、三輪豊照、水野伊三郎、森岩吉、世木延七。
組合の事業としては、設立早くも産業組合を設け、大蔵省に米貨の払い下げを受けて地金商と業者間の地金配給上の円滑化を計る自自統制を陳情している。大正5年、細沼浅四朗組合長時代に金位検定事業を推進、東京商工奨励館内に東京貴金属検定所を設置し、金品位の保存に努め、昭和4年造幣局に移管した。引き続き昭和14年、まで金地金の配給事業を行った。なおこの組合は、昭和15年東京貴金属工芸品卸商業組合に改称、中村善太郎氏が初代理事長に就任したが、途中解任され、松山繁三郎に代わり、東京貴金属装身具卸商業組合に改称した。
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■明治・大正・昭和『業界三世代史』 ■2016年11月24日 木曜日 13時54分38秒

初代代表である藤井勇二が私的感覚で綴って発刊したもの

 この書は、本紙(時計美術宝飾新聞)の初代代表である藤井勇二が大正15年5月に時計、貴金属を主軸に蓄音機、眼鏡、徽章、喫煙具の専門紙を創刊、新聞が業界に生まれて40年になった昭和40年11月、明治から大正、昭和にかけての業界事情を『業界三世代史』と称し、私的感覚で綴って発刊したものである。著者は発刊当時65歳。96歳で永眠した。
 この間社会現象としては、昭和6年に勃発した満州事変から支那事変を経てついに第二次世界大戦という人類未曽有の悲惨な苦難時代に遭遇した。続いて大正・昭和にかけてのどん底景気時代から戦時中の七、七禁令や奢侈品などへの十割課税を一挙一割に引き下げる運動など、様々な情報が記載されている。発刊から40年という記念するべき年に、筆者が体験した諸般の記録や資料に基づき三世代にわたっての業界歴史の収集に努めたもの。
今後の業界に役立つものとして掲載する。
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■新コラムスタート ■2016年8月12日 金曜日 15時43分30秒
新コラムスタートします。

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