高野耕一のエッセイ

2020/02/07
■ ヘミングウェイの嘘

ヘミングウェイは、戦争など実際にはまったく経験しなかった。イギリスの作家でありミュージシャンのハンフリー・カーペンターが「失われた世代、パリの日々」の中でそう言う。そもそも人に話を聞いてもらうためには、嘘をつかざるをえない。ヘミングウェイ自身もそう言っている。
嘘であってもかまわないような軽いもので、他人の行動や見聞を自分の経験にすり替え、典拠は怪しいがだれでも知っているような出来事を事実として述べること。それを彼は否定しない。1917年、アメリカが第一次世界大戦に参戦したとき、ヘミングウェイは18歳だった。彼はカナダに行ったというが、カナダにも行かなければ入隊志願もしなかった。視力障害で軍務には不適だと判断されていたからだ。
カーペンターによれば、イタリア軍のために弁当を配った経験はある、という。それが事実かどうか、わたしは問わない。ヘミングウェイにおける、嘘と真実とは。それは興味深いことだし、わたしの生き方においても、嘘と真実との明快な解析はぜひ望むところである。
まず、ヘミングウェイは小説家である。小説が嘘か本当か、と問えば、間違いなく嘘である。小説は創作である。誰がために鐘がなる、の主人公はヘミングウェイであってヘミングウェイではない。
彼が例え弁当配りであってもイタリア戦線に参加したとしよう。怪我をして病院に入り、年上の美人の看護士と恋をした。これは本当のようだ。だが、主人公のようにドラマチックに活動したかとなると、これはまったく問う意味のないこととなる。事実と真実の違い。これを笑って容認する覚悟がなければ、小説は読者の心のうちで圧倒的に価値を失う。小説に真実を求める、という会話は成立するが、小説に事実を求める、という会話はどこに意味があるのかわからない。(この場合は、事実とリアルとの違いの解析となる)。
新郎新婦が神前で、永遠の愛を誓う。だが、事実は永遠かどうか実はわからない。むろん、永遠と思うから永遠を誓うのであるが、離婚に至る夫婦もいるから、誓いつつなにか怪しさが残る。永遠と思いたい気持ちが強いのは理解できるが、怪しさは残る。
新郎にしても、新婦にしても、まず誓っておかなくては始まらない、という気持ちは確かだ。これを嘘と決めつけるわけにはいかない。事実ではないが、真実であり、嘘ではないと断言する。営業マンが営業目標を立てる。達成できない場合、それを嘘として叱りとばすことはできない。努力不足を責めるだろうが、嘘とは断定しないだろう。
嘘に対する恐怖心のあまり、営業マンが目標を下げてしまうことが必ずしも正しいとは思わない。嘘と事実と真実の微妙な関係を認識しない者に、創造、創作、希望、夢、目標はどう位置づけられるのだろう。映画、芝居、小説、絵画はどう解釈されるのだろう。
わたしは真実を曲げようとは思わないが、事実を曲げることはあると思う。迷惑をかけないという条件で、興味を抱いてもらうためにヘミングウェイ程度の嘘をつくだろう。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
2020/02/07
■ ドイツチームに乾杯

ペーター・ベッツがドイツのナショナルチームを率いてやってきた。11月11日のことだ。空手道世界選手権大会に出場するためだ。大会は11月13日武道館で行われた。壮行会は渋谷の国学院大学若木タワー18階、有栖川宮記念会館で行われた。試合直前とあって選手は参加できなかったが、会長夫妻、監督、コーチ陣が参加した。
こちらはというと、空手道部初代主将であり、わが空手道部と応援団の創設者でもある小倉基名誉会長を筆頭に、空手道部ОB会小柴会長、次呂久英樹監督、ドイツチームの日本での調整に道場を提供し、滞在の細々したことのすべて面倒を見ていた埼玉の小林君と同期の石井君、坪井君、そしてОB会有志の面々。事務局長の斉藤君は、図々しくも文学部教授の橘先生に通訳をお願いした。
橘先生はいつものように、空手部のためだ、と快く引き受けてくれた。学校関係からも御来賓をいただいた。応援団の諸君がドイツチームにエールを送るために駈けつけてくれた。わたしはベッツとはまったく面識がなかった。彼は、わたしより10歳ほど後輩だった。
小林君が主将時代に特別練習生として空手部にいたという。
小林、石井、坪井3君たちが、愛情のこもった拳でベッツを鍛えたのだ。その後、ベッツはドイツに帰り、空手道の普及に貢献したのだ。いやいや、ベッツは決して誉められた練習生ではなかったですがね、ここだけの話。小林君がにこにこ笑いながら耳元でいう。結構やんちゃなこともしましてね。実は逃げ出してドイツに帰ったようなもんです。そう言いながら、小林君のものいいには愛情がこもっている。
ある年、ヨーロッパを旅した途中に寄ったんですよ、ドイツに。ベッツの道場を覗くといましたよ、えらそうな顔をしたベッツがね。黒帯しめて。わたしの顔を見て、ぎゃっといって逃げ出しましてね。日本からわたしが、ベッツを殺しに来た、と本気で思ったのだそうです。当時の空手道部では話としてありうることだった。わたしと小林君は声をあげて笑った。小倉名誉会長は、急遽ドイツ語の挨拶だけを覚えて親しみをこめて歓迎の意を伝えた。小柴会長も考え抜いた几帳面な挨拶をして、次呂久監督が乾杯で座を盛り上げた。
雅楽部の演奏は、ドイツチームに大いに受けた。このアイディアは、斉藤明彦君の提案であった。ベッツは細身の体だったが、他のコーチ陣には大男がいた。わたしたちはある大男をタワーと呼び、日本語と英語のチャンポンの会話をしたが、ほとんど通じないためにワインをジャブジャブとグラスに注いだ。ベッツにОB会から感謝状を贈った。ベッツはОB会員ではないからそれには反対だ、という者もいたが、ドイツに帰ってわが空手道部の教えを広めていることを考えれば、これは感謝に値するとして実行された。
後輩の日下部君が、こういううれしいニュースは大歓迎ですね、と帰りのエレベーターでいった。13日。ドイツ女子チームが優勝した。その夜、渋谷のいつもの居酒屋で次呂久監督と塩沢君とわたしは乾杯した。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
2020/02/07
■ 園歌

雨上がりの濡れた木々の間を澄んだ歌声が流れていく。濃い緑の葉が歌声でかすかに震える。鳥たちは自分が歌うのを忘れ、風見鶏のように細い枝の上でじっと歌声に耳を傾ける。
赤や黄色の絵の具を点々と垂らしたように色づき始めた森は、秋の装いだ。土曜日の昼下がり。井の頭公園。まだ厚い雲の残る空の下で時間はゆっくりと流れる。
歌声は、江戸幕府のご用水に使われたという公園の湧水よりさらに澄み切っている。池に浮かぶボートの若い二人は、オールを動かすことも忘れ、ただ黙って見つめあうだけだ。観客はおよそ400人。年配の人が多い。前列には青いシートが敷かれ、3列ないしは4列に重なった人たちがじっと歌声に耳を傾ける。その人たちの外側を大勢の人たちが取り囲み、大きな輪を作っている。その外側を歩く人々も足を止めて耳を傾ける。
歌姫は人の輪の真ん中にいる。ビールケースを逆さに置いたステージの上に立ち、ギターを抱え、マイクなしで歌っている。マイクを使うとご近所に迷惑がかかる、という配慮でマイクを使わないのだと言う。だが、歌声はどこまでも力を失うことなく、公園の人々の心の中に沁み込んでいく。
わたしはその歌声を昭和の大スター美空ひばりと重ねている。幼い日に父と母に連れられて行った映画館。スクリーンの中でひばりが歌う「悲しき口笛」は、いまもわたしの心の中に響いている。一生、わたしの心から消えることはないだろう。
ひばりの歌は、暗い時代に光を灯した。井の頭公園の歌姫の名は、「あさみちゆき」と言う。月に1度公園でギター1本とビールケース1個でライブを重ね、すでに100回を越えている。
歌と歌の間に、周りの人たちと楽しい会話をする。今日はNHKの取材班も入り、カメラが衛星のように歌姫の周りをぐるぐる回っている。ちゆきの会の面々が黄色いハッピを着て整理に当たっている。彼女はすでにテレビにもよく出演していると聞く。友人でちゆきの会の会員である佐藤光二郎に言わせれば、ちゆきを知らないわたしがどうやらもぐりらしい。作詞家の故阿久悠が彼女のためにいくつも詞を書いた。宇崎竜童が新曲を創り、CDを出したばかりだ。山口百恵を思い出す。百恵ちゃんは、菩薩と称された。その歌声が人々に勇気を与え、その微笑みが人々を救うからだ。
天に舞い、宙から降臨するやさしい歌声と人々と交わす暖かい眼差しには、理屈を超え、心の底から湧き上がる喜びがあった。
歌を媒介にして歌手はファンを救い、また歌手はファンの純粋な笑顔によって救われていたのであった。そして彼女は、カリスマとなった。歌は、喜び集うための媒体であった。歌は、日々の生きる勇気を生み出す栄養であった。天は、「ひばり、百恵」という人間を通して、人々に歌を届けたのであった。あさみちゆきは天に代わって歌を歌う歌手なのか。公園に響く歌声。演歌。援歌。怨歌。呼び方はいろいろあるが、天に響く園歌こそが彼女の歌にふさわしい呼び方かも知れない。大スターになっても彼女は、公園を去ることはないだろう。秋の日、ふらりとスケッチブックに絵を描いたような、いい1日だった。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
2020/02/07
■ すくった金魚が救われない

子どもの頃、お祭りは天国だった。お御輿は天国に行く乗り物だった。担ぐととてもいいことをした気分だった。昼間から仮設舞台の上で酒を飲んでいる大人たちを見ると安心した。大人たちがどんな気持ちで酒を飲んでいたかはわからなかったが、みんなが笑っているのを見ると、子どもたちはそれだけで世の中は大丈夫だと安心した。
同級生の女の子の浴衣姿が眩しかった。赤いヨーヨーを持ってクスクス笑う白いうなじと細い足首に胸が熱くなった。
屋台の店がずらりと並ぶのが好きだった。べっこ飴屋、お面屋、風車屋、薄いピンクの煎餅にソースをつけてくれる店、プアーと音を出す風船屋、吹き矢や模型飛行機やメンコを置いている駄菓子屋、わけのわからないお菓子を舐めると当たりが出てくる店、糸の先に針をつけてくるくるルーレットみたいに回すと高価そうなブリキの車が当たると言うけれど当たったのを見たこともない変な店、ラムネも置いてある水飴屋。中でも子どもたちの人気の店の一つが金魚すくい屋だった。値段の安い赤い和金が夢中で泳ぎ回っていた。高いリュウ金が大きな尻尾を振っていた。それより高い黒い出目金がえらそうに泳いでいた。どの金魚も一生懸命泳いでいた。和金は数が多く、すくい易かった。赤と白の斑模様の金魚もたくさんいた。金魚をすくう丸い針金製の金魚ポイは、薄い紙のものしかなかった。紙は習字の半紙のように薄くすぐ破れた。モナカなんかなかった。だから、モナカの金魚ポイが登場したときは、邪道だ、世も末だ、と思った。
一回10円だった。和金がすくい易いのは、尻尾が小さいからだ。リュウ金や出目金は和金より動きは遅かったけど尻尾が大きく、尻尾の動きに力があった。だから和金は、動きは早いけれど狙われた。
すくうコツは、金魚の尻尾を紙の上に乗せないことだ。水につけた金魚ポイを真上に真っすぐに上げないことだ。水と紙の面を直角に上げないこと。水の抵抗を受けない角度で滑らかにあげる。その動作の途中で金魚を軽やかにポイの上に乗せる。金魚の下をすっとポイを通過させる要領。これがコツだ。
ある日、天ぷらを食べながら妻が言った。最近はすくった金魚を家に持って帰らないんだって。え、なんでよ。家で金魚を飼いたくないみたいよ。そりゃおかしい。なに考えているんだ。自分がすくった金魚は家に持ち帰り、餌を与えて面倒をみる。週末に子どもといっしょに金魚鉢を買いに行くなんて、なんとも素敵な親子ではないか。
酸素を出すブクブクも買う。子どもは金魚に名前をつけて毎日話しかける。おはよう。ただいま。元気? 金魚は答えたりしないが、そこに愛情がわいてくる。金魚は答えないが、愛情は伝わっている。死んだら涙を浮かべながら庭の隅に埋めてあげる。命の大切さを知り、命あるものはやがて死ぬことを覚える。金魚すくいは、すくって、家で飼って、餌をあげて、話しかけて、死んだら泣く。そこまでの一連の行動があってこそ、金魚すくいなのだ。それが、金魚の中でもおそらくいちばん安い金魚すくいの金魚の精一杯の人生なのだ。それをただ追いかけ回して、すくって、笑って、オシマイ? それでは金魚は救われない。すくった金魚が救われない。子どもは貴重な教育の手段をまた一つ失った。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
2020/02/05
■ トイレ進化考

河原で一日中鯉釣りをしていると、当然のごとく、途中で用を足したくなる。背後の土手を越えると立派なパブリックトイレがあって、どうせ暇なのだからトコトコ歩いて行けばいいのだが、どうもわれら男は、広い河原のそこここにある木蔭草陰で、ちょいと失礼と相なる。こんなことを書くと、登戸駅前派出所の警察官が飛んでくるかも知れない。「はい、3000円」、と罰金を取られるかも知れない。だが、さほど心配はしていない。
この新聞は、警察官が好んで読む性質のものではないし、河原に立ててある看板によると、河原の管轄は、国土交通省だ。わが国は縦割り行政だから、警察官も3000円のために敢えて越権行為はしないだろう、とわたしはタカをくくっている。
最初にトイレでびっくりしたのは、経堂の友人山川邸だ。改装なった山川邸に招待され、親しい仲間たちとひととき酒宴を楽しませてもらった。旦那の料理の腕が並みではなく、魚もうまいし、和え物、炒め物、揚げ物、なんでも実においしくいただき、またメンバーたちの軽妙な会話も存分に楽しませてもらった。途中、ちょっと失礼、とトイレを拝借した。最新のトイレに緊張して入る。いやはや、ドアを開けて中に入ったとたんに、びっくりした。美しいメロディに迎えられたと思うと、ヒョイッと容器の蓋が開いたのだ。いったいだれが潜んでいるというのだ。ズボンのジッパーを下ろそうにも、だれかが見ている気がして不安だ。ジッパーを上下させながら、四方の壁や天井をきょろきょろと見渡す。いない。だれもいない。おかしいではないか。きっとだれかいる。あるいは向こうのテーブルで、旦那がリモコンで蓋を開けたのか。これで、帰りに「ご苦労さま」とか「お疲れさま」なんていわれたら、きっと腰を抜かす。
いつの頃か、恋女房がトイレに得意のメモを貼りつけ「トイレを汚すな。一歩前へ」としっかりと書いてきた。そのうち「もっと前へ」と文字が大きくなった。面倒くさいので、座って用を足しているうちに、ふと気がついた。わたしが、女性化している。確実に女性化している。オネエ言葉が増えた。歩き方に、妙にシナを作る。そんな自分に仰天して、座って用を足すのを急いで止めた。男は、原っぱで、天に向かって、大きく、悠々と用を足してこそ、男なのだ。下落合では、そうして育ってきた。
思い出すと、用足しには実に格好の原っぱや麦畑が、たくさんあった。爽快だった。いま、都会ではあらゆる場所で用足しが禁止され、最近では犬さえ恨めしそうに電柱を見上げてガマンする時代となった。ある日、井の頭線渋谷駅前の喫茶店に入った。古い木造の郷愁誘うたたずまいである。コーヒーの香り漂う店内は、年季の入った調度品が備えられ、あちこちに置かれた装飾品も十分に時代をくぐってきた感があり、ほっと心安らぐ。ゆっくりとコーヒーを味わい、落ち着いて広告コピーを書く。帰り際にトイレを借りた。細長い店の突き当たりにあるトイレのドアを開け、思わず戻ろうかと思った。そこは、近未来の世界だった。床も壁もきらきらと眩いばかりに輝いている。きょろきょろ見渡し、容器に目を向ける。お、なんだヴィトンか、と目を見張るほど豪奢だ。
「いらっしゃいませ」。突然、女性の声が耳元で聞こえた。ため息にも似た甘いささやきだ。飛び上がった。首をぐるぐる回して、血走った目でもう一度、床、壁、天井を穴の開くほど見つめる。いない。だれもいない。いるわけがない。深呼吸して心を落ち着け、ジッパーを下げる。「どうぞ」。女性がいう。飛び跳ねる。用足し寸前で急停止。ジッパーは、下りたまま。容器をしみじみのぞく。いない。女性の姿はない。いるわけがない。人魚じゃあるまいし、こんな水の中で女性が泳いでいる道理がない。「お止めですか?お続けですか?」。もはや、出るものも出ない。あわててジッパーを上げる。「お帰りですか?」。目の前が真っ暗になる。気が遠のいていく。まあ、これは半分冗談だが、ITだけでなく、トイレの進化にもびっくりさせられる今日この頃である。
2020/02/05
■ キヨさんありがとう、さようなら

宮原キヨ。義母が百歳で天寿をまっとうした。彼岸に旅立つのは5月、穏やかな丘の上、それが理想とブッタはいった。
キヨさんは、やさしい陽射しの5月のその日、丘の上ではないが、一生を過ごした懐かしい荒川沖の町から旅立った。お別れ会の日、親戚一同が集まった。高野家を代表して下落合から来た弟の信治に親戚一同を紹介する。「キヨさんには5人の子どもがいる。ほら、あれが長女の妙子姉さんな、喪主だ。妙子姉さんには、3人の子どもがいる、あれが長女の真実ちゃん、隣が千秋、おい、基幸、長男の基幸な、これ、弟の信治だよ。基幸はよ、チッチャイときから車オタクでさ、ついにミシュランに勤めちゃった、タイヤのな。ちょっと見には、イ・ビョンホンに似てるだろ、韓国スターの、だけど、みんな、渥美清に似てるっていうんだ。
確かによく見るとそう見えるな。生き方は不器用だけど手先が器用で、テラスなんかも一人で造っちゃったんだ。隣が基幸のかみさんでかおちゃんな、どっか吹っ飛んだ感じがいいだろ、太鼓がんがん打つんだよ、がんがんだぞ、仲間たちと近所の迷惑返りみずによ、筑波の麓でがんがん騒音立てるから、最近筑波のガマも鳴かなくなっちゃったよ」。ここまで紹介して、信治はにこにこ笑っているが、もう覚えきれない。「博兄さんはさ、電源開発、いまのジェイパワーな、そこにいた、経理な、守男と同じだ。ダム工事の現場に泊り込んでさ、奥只見ダムな、何千人もの給料計算だ。手にツバつけながら夜通し札束数えてたらしい。横の人が奥さんのゆう子さんな、和歌山の新宮出身だ、宝塚スターみたいだろ、そう、越路吹雪に似てるよな。よりによってなんで不器用な博兄さんと結婚したのか、それが世間の七不思議の一つよ、まあ、人間、ときとしてトンチンカンなことをしでかすもんだからな。晃兄さんは、水戸の茨城県庁に勤めてた、親父と似てるだろ、豪放磊落というか、スキだらけというか、まあ、評価はまちまちだけど、大物だ。県庁の慰安旅行で酒に酔ってさ、課長のネクタイを寝巻きの帯がわりに結んでよ、翌朝ネクタイがないって部下たちは大騒ぎよ、それが原因で出世を棒に振った。豪傑だろ。洋子姉さんは、宮原家の優等生な。すべてに完璧。彼女の人生に失敗の文字はない。唯一で最大の失敗は、ほら、あそこにいるご主人な、明憲さんをご主人に選んだことだな。明憲さんは、この地上で生きながら、すでに天上人だ、あらゆることが人間の枠に納まらない、狭い家ん中で平気でアーチェリーよ、玄関から風呂場に向かって矢を放つ。客の目の前をビュって音立てて矢が飛んでくんだぜ、客はもう命がけよ、お茶なんか飲んでられないってさ。キヨさんの姉さんは谷田部で「ガマン」という食堂をやってた、うん、いったいなにを「ガマン」するのか、それがわからない。4人の子どもがいてさ、ほら、あそこの美人3姉妹な、とこちゃん、かこちゃん、ふうちゃんな、その下についでのようにヨシオっていう雲突く大男がいる。ジャンボ鶴田にそっくりだ。とこちゃんは、草木染の先生、文化服装学園で先生をしてた。かこちゃんは、ご主人は山口さんていってさ、早くに亡くなったが、おれ、二人が恋愛真っ最中のときから知ってんだ。土浦の町な、古い城下町だ、ご主人と人目もはばからず腕をからめて歩く姿なんか、通りの反対側からよく見かけたよ、まるで「青い山脈」の主人公、新子と六助、そんな二人だったよ。まあ、遠くから見たから映画の主人公に見えたんだな、近くで見ないでよかったよ。その隣が息子な、谷田部の消防士やってる。お父さんにそっくりになってきたな、いや、独身だ、美人の母さんに育てられたせいか、世の中の女たちがブスに見えるんだな。隣がふうちゃんのご主人の糸賀さんだ、気さくで、面倒見がいい、真っ直ぐ話をする、正義感が強いんだな。信治、どうだ、これが親戚だ。で、あっちの人がさ」。「あんちゃん、おれ、もう、だれがだれだかわからないよ」。残りは次の機会にする。キヨさん、ありがとう。こんなにいい親戚をありがとう。のり子を生んでくれてありがとう。そして、さようなら。

2020/02/05
■ 新宿ものがたり

こんにちは赤ちゃん、わたしがママよ。もう何10年前になるのだろう。新宿駅中央口、武蔵野館通りに梓みちよの歌声が流れると、女たちは薄い胸を突き出し、続いて石原裕次郎の歌声が街中に響くと、男たちはくわえタバコで肩で風を切り繁華街を闊歩した。
今はビックロになってしまった三越デパートの真裏に白十字という喫茶店があって、隣接して「チャーミングコーナー」という日本最初のスーパーマーケットがあった。その隣はビヤホールだ。いつも客が賑わい、景気のいい掛け声にあふれるそのスーパーマーケットの社長は、侠客として名高い関東尾津組の親分、尾津喜之助さんだ。
喜之助親分は、水戸の武家の出身だ。日本がアメリカとの戦争に敗れて新宿も焼け野原と化し、夜ともなると真っ暗闇になる駅前を見て、水戸の屋敷を売り払い、当時の金で300万円の私財を投じて街灯を設置したと聞く。
新宿中央口一帯に縄を張り、織田信長のごとく裸馬にまたがって駆け回り、縄張りを作ったとも聞く。
テント張りの大マーケットを作り、敗戦で暮らしをズタズタにされた人々のために生活物資を供給した。伝説の新宿尾津マーケットだ。
その延長にあったのか、喜之助親分はその後三越裏にスーパーマーケットを作り、人々の暮らしを助けた。父の知り合いの安次郎さんは、喜之助親分の義理の弟だ。小柄で温厚な人で、いつも「勉強しなよ」と学生のぼくに声をかけた。
寡黙な安次郎さんがかつて「人斬り安」と呼ばれ、任侠の世界で懼れられている尾津組の特攻隊長だったとは、とてもぼくには思えなかった。安次郎さんの紹介で、ぼくはスーパーマーケットのアルバイトを始めた。3階建てのスーパーマーケットは、1階に食品売り場、化粧品売り場、薬品売り場、石鹸や歯ブラシなどの日用生活品売り場があり、2階には呉服売り場とファッション売り場があった。3階は倉庫と事務所だった。屋上があって晴れた日にベンチで昼寝をすると気持ちがよかった。従業員は30人以上いた。だれが尾津組の元組員で、だれが堅気の人間か正確にはわからなかったけれど、地方出身の正直者でいかにも堅気だという人々もたくさんいた。みんな、学生のぼくに親切にしてくれた。
安次郎さんは、呉服売り場の主任だったが人前にあまり出ず、いつも人気の無い3階の事務所の隅にぽつんと座っていた。1階食品売り場で働くぼくが3階の倉庫から重い缶詰のダンボールを担いで走る姿を、にこにこと笑って見ていた。
ピー子姉さんは1階化粧品売り場の主任で、ゲイだ。ぼくは、生きて動いているゲイを見たのはその時が初めてだった。資生堂やカネボウやマックスファクターなどの美人美容部員たちを「やれ働け、それサボるな」と厳しく見張っていたが、ぼくには「おまえ、帰りに晩飯食わせてあげるわ」と、自分の金ではとても行く気にならない高い寿司屋や天ぷら屋に連れていってくれた。
広島出身で、高校時代に女の子にもてすぎ、女に飽きてゲイになったんだとピー子姉さんは胸を張った。確かにアメリカの有名コメディアン、ジェリー・ルイスに似た彫りの深い日本人離れをした風貌だった。秘密めいたビルのゲイバーで作家三島由紀夫さんに合わせてくれたのもピー子姉さんだ。あんまりいつも晩飯を奢ってもらっていると、相手がゲイだけにあれこれ噂になるので、時々理由をつけて断ると2、3日拗ねて口もきかなかった。顔を合わせても大袈裟にプイっと横を向くのだ。まるで女そのものだと思った。
ある時、「彼女ができた」とぼくがいうと、「不潔」と叫んでぼくのほっぺたに平手打ちを食らわせ、それから晩飯に誘ってくれなくなった。どっちが不潔なんだと腹の中で叫んだが、口には出さなかった。
2020/02/05
■ 東方に、黄金の国あり

東の空を染めて初日が昇る。一年の豊作を祈り、人々の息災と世界の平和を祈る歳神が、初日とともに光臨する。
日本古来の歳神は、日本の崇高な精神が生み出した固有の神だ。世界のどの国にも、固有の文化がある。古代中国の人々は、東方の海にユートピアがあると、強い憧れをもった。悠々たる大河の無限の水をことごとくそそいでも、いっこうにあふれ出ることのない、はるかなる東方の海。
「水は東に流れて溢れないが、そのわけを誰が知ろう」。詩人屈原も神秘の想いでそう詠んだ。西高東低、日本の冬の気圧配置と同様に、アジア大陸の地形は、西が高く東が低い。西には、世界の屋根といわれるパピール高原がある。その大高原を中心に、ヒマラヤ山脈、カラコルム山脈、崑崙山脈が東西にはしり、アルタイ山脈、天山山脈が東北につらなっている。
地球の回転がもたらす偏西風は、疾風となってアジア大陸を駆け抜け、地球が不変の回転を続ける限り、永遠に東方の海へと向かう。一年の始まりを告げる太陽が、歳神の宿る光を世界に投げかけるのは、永遠に東方の海からだ。
伝説によれば、秦の始皇帝は、不老不死の妙薬を求めて、三千人の使者を東方に向かわせたという。孔子は、論語の一節でこう言った。「わたしの理想とする道徳は、この世に実現しそうもない。筏に乗って東の海に行きたい」。東方の海には、憧れのユートピアがある。夢と希望にあふれる日出る国、黄金の国、ジパング。それはもはや伝説となり、過去のイメージに過ぎないのかも知れない。
だが、太陽は当時と変ることなく東方の海に昇り、アジア大陸の東端に位置する日本は、当時のままに日出る国だ。伝説のイメージこそ、日本の精神的ルーツであり、日本文化の出発点だ。同時に、いまだ日本の精神の支柱として、多くの人々の心に残っている。それが、国の基だからだ。
現実主義に徹した孔子でさえ憧れた夢と希望にあふれる国、日本がいま、時代の潮流に翻弄され、なにか大切なものを見失っているかに見える。北極星を見失った船のように、めざす星を見失っている。
星を見失った船は、出発点の港をめざす。それが最良にして、唯一の方法だ。いまこそ出発点である日本のルーツ、精神の支柱を思い起こす時だ。
振り返れば、昨年は、日本も世界も多くの問題を積み残した。それぞれの国、それぞれの人が、固有の文化をもっている。固有の文化は、それぞれ異なる固有の価値をもつ。異なる固有の価値は、互いにぶつかり合う。当たり前のことだ。国と国、人と人の間には、溝があるからだ。
人間とは、人と人の「間」を意味する。世間とは、世の中の「間」を意味するという。「間」とは、違いであり、異なる価値のことだ。「間」があって当たり前、溝があって当たり前、ぶつかるのは当たり前だ。問題は、ぶつかったらどうするか、どう解決するかである。戦争もテロも、問題の解決にはならない。むしろ、さらなるぶつかり合いを生み、溝を深くし、最悪の事態をもたらす。
溝を埋めるのは、お互いに欲をぶつけ合うのではなく、それぞれが知恵をしぼり、勇気をもって、お互いを「思いやる」ことだ。問題の解決は、相手に対する「思いやり」だ。
明鏡止水。自分の欲を捨て、素直な心と目で見れば、相手の心が見えてくる。相手の欲や、目的が見えてくる。心の鏡に映る。それが、欲なのか、正義にもとづいた、みんなのための正しい目的なのか、明快に見えてくる。それが見えなければ、解決の糸口がつかめない。
明鏡止水の心で、誠心誠意相手と向き合う。理解できなくても、お互いを認め合う。そこから始める。もはや日本には、伝説の黄金もなければ、伝説の妙薬もない。だが、それにかわる知恵がある。勇気がある。「思いやり」がある。夢と希望の国、黄金の国は、健在だ。
初日の歳神に手を合わせ、一年の豊作と人々の息災と世界の平和を祈りながら、今年が始まった。
2020/02/05
■ 時代は、なにを友厚に求めたのか。

幼少期から、薩摩の徹底した教育を受けた。好奇心の強い少年だった。ある時、世界地図を見て驚いた。わがもの顔で世界を闊歩するイギリスは、日本と同じような小さな島国ではないか。
驚くと同時に不思議だった。イギリスは、なぜ、これほどの力を持っているのか。その力は、どこから沸いてくるのか。どうすれば、この力を手に入れることができるのか。少年の目はイギリスを見つめ、世界を見つめた。
きっかけは、父から世界地図を写す作業を命じられたときだ。薩摩藩主、島津斉彬から命じられた父が、その仕事を14歳の息子に頼んだ。息子は、殿に献上するものと自分用のものと、二枚の地図を創り上げた。それをもとに地球儀まで創り上げてしまった。地球儀を見ながら、次々に植民地を獲得して世界に拡大するイギリスの正体を知りたかった。
息子の名は、五代友厚。NHKの連続ドラマ「あさが来た」に登場する実業家である。人がなにかを成し遂げるには、なにが必要なのだろうか。
時は、幕末。友厚は、薩摩藩主、島津斉彬に仕えた武士。斉彬は、大きく大らからな心、時代を見抜く目、物事の判断力、すべてに優れた藩主だ。あの篤姫の養父となり、篤姫を将軍の妻とした手腕の持ち主だ。
下級武士だった西郷隆盛や大久保利通の才能を見抜き、要職に抜擢したのも斉彬だ。友厚の才能を見抜いた斉彬は、彼を長崎の幕府の海軍伝習所に留学させた。当事は、藩から外に出るなどとんでもない時代だった。龍馬も、江戸に行くのに脱藩しなければならないほどの時代だ。才能のあった友厚もえらいが、その後の友厚に活躍の場を開いた斉彬がえらかった。いい殿様との出会いが、彼を大人物に仕上げた。長崎では、勝海舟と出会った。榎本武揚と出会った。後に日本赤十字を創設した佐野常民と出会った。イギリス商人グラバーと出会った。人生は、人との出会いだ。いつ、だれと、どこで、どのように出会うか。それが人生を決める、といっても過言ではない。それが運だ。
強運の持ち主は、いい人材と出会い、自分の道を大きく開く。運の悪い者は、いい人材を見逃しているか、出会っていない。そういうことだ。それには、出会う相手が自分にどう影響を与えるかを見抜く力が必要だ。
薩摩に生まれ、斉彬と出会い、勝海舟と出会った。海舟との出会いが、坂本龍馬との出会いにつながった。開国・貿易・留学生の派遣による、日本の富国強兵を目指す。まず、薩摩に力をつける。目標がはっきりした。教育、才能、人との出会い、目標、なにかを成し遂げるには、これらが必要だ。そして、行動だ。イギリスに出かけて、時代の先端を学ぶ。
ベルギーを見、フランスに赴き、世界を学ぶ。時代を拓く力、世界に負けない力がなんであるかを知る。帰国し、グラバーの助けを借りて、薩摩藩の軍艦を購入するために奔走する。上海に渡り、四万両で大型汽船を購入する。この四万両を借りるために大阪に行き、あさと出会った。四万両は、あさの姉はつの嫁ぎ先から借りた。事実かどうかは不明だが、話ではそうだ。
航海技術に優れた友厚は、幕府の大型汽船千歳丸で長州の高杉晋作と同船する。薩長同盟で、坂本龍馬、高杉晋作、桂小五郎、井上馨らと会う。海舟の頼みもあって、坂本龍馬の海援隊のために汽船を調達する。竜馬の経済力の後ろ盾となって株の知識を駆使し、日本最初の株式会社亀山社中の創設に尽力した。
戊辰戦争では、西郷隆盛、大久保利通らとともに活躍し、徳川幕府を壊滅させた。明治新政府では、外国事務掛を勤め、その後、大阪の府判事を勤め、紡績業、鉱山業、製塩業など、大阪の経済復興に貢献した。大阪証券取引所を設立。三井商船の前身である大阪商船の開業に貢献し、南海鉄道の設立にも貢献した。
この間、日本初の英和辞書を刊行した。教育、才能、人との出会い、目標、行動。それを支える、強い信念。幕末という革命の時代の求めに、友厚は強い信念で応えた。いまという時代、幕末と酷似していないか。出て来い、平成の友厚。
2020/02/05
■ コロンボのやり方

コロンボは、フルネームを言わない。「わたし、ロスアンゼルス警察コロンボ刑事です」としか言わない。だから、フルネームを知る者はいない。
ところが、69話中に2回だけ、ポケットから出した警察手帳がアップで写され、フルネームが見えた。「フランク・コロンボ」。それが、フルネーム。これを知っているあなたは、かなりのコロンボ通だ。
彼は口癖で、「うちのかみさんが、うちのかみさんが」としきりに言う。だが、誰ひとりとしてコロンボのかみさんの姿を見た者はいない。あるパーティで、「うちのかみさん、見なかったですか」とかみさんをさがして、コロンボがウロウロするシーンがあって、「初めてかみさんの姿が拝めるぞ」とテレビ画面に顔を押しつけたが、結局登場しなかった。
背が低く、がに股、ロスアンゼルスだから寒くもないのにいつもよれよれのコート、クシャクシャの髪、おんぼろのプジョー。名前のない太目のイヌを重そうに抱えている。真っ直ぐに相手を見る澄んだ眼差しは、どんな小さなミスでも映し出す。少年の無邪気さと好奇心。横を向いたり、後ろを見たり、頭を掻きながらウロウロ歩いたり。その愛すべきキャラクターで、犯人の鉄の鎧を少しづつ剥がしながら、じわじわと追いつめる。
コロンボのドラマを始めるとき、スタッフはこう思ったそうだ。刑事ものは有名俳優を犯人に起用するから、視聴者にすぐわかってしまう。面白くない。よし、それなら初めから犯人がわかっていて、犯人の完全犯罪を、コロンボが違う視点で、小さなアリの穴から崩すようにポロポロ崩してゆく。これならどうだ。そう考えた。これはミステリー小説の倒叙物と呼ばれる形式で、古畑任三郎が同じ手法をとった。
コロンボのこのやり方は、広告づくりやコピーライティングに、役に立つ。広告づくりやコピーライティングは、犯人ではなく、初めに成功のイメージを目標として描く。売りたい商品に、人々がどこでどのように押し寄せるか。そのシーンを想像する。どんな人が、どんな笑顔で商品を手にするか。その幸せな表情を描く。その成功のイメージが描けなければ、コロンボのやり方はできない。目標となるイメージを描いたら、あとは、あらゆる方向のあらゆる手がかりをじわじわとさぐり、目標に一直線に向かう。
会話においても、真っ直ぐに相手を見て、透明な目と心で、どんな小さなものでも写しこんでいく。ときにはそっぽを向いたり、目を閉じたり、真剣に慎重に相手のことばを聴き、吟味し、わずかなヒントでも逃さない。どんな細かいことでも気になったことは、「そこがどうも気になるんです」などと、相手に確かめる。1ミリ、2ミリ、じわりじわりと目標に向かう。じっくりと丁寧に。この忍耐、このしつこさが広告づくりには実に役に立つ。
もちろん、われらは刑事じゃないし、犯人さがしではないから、相手に嫌がられてはいけないが、物づくりには、この忍耐、このしつこさが必要だ。
ある若い広告マンと話していた。「どうも相手の要望が明確に伝わってこない、相手の言うことがころころ変る」と嘆く。「待てよ。コロンボ会話を試してみたらどうだ」と提案する。根掘り葉掘り、相手が嫌がらない程度に質問をくり返し、確認し、相手の真意を導き出す。「コロンボのやり方、使えるぞ」。そう言い、「メモを忘れずに」と念を押す。「やってみます」。やがて、「前よりずっと深い会話ができた。相手の言いたいことが正確に理解できました」と頷いた。
シャーロック・ホームズは、大胆な仮説に基づき拡大鏡を持ち出して絨毯の目をさぐるような捜査をする。真似てみたいが、ホームズは天才、その推理力にはとても頭がついていかない。
その点コロンボは、事実の追及が基本だから、これは真似ができる。最近、「コミュニケーションがうまくいかない」という風潮だが、会話が軽く、浮ついて、真意が伝わらないのだ。みんなでコロンボになりましょう。ちょっとくどいけど。
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