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創刊三十五周年記念事業として東南アジア宝飾業界視察団
アクシデントに見舞われながら羽田空港を総勢十九名が飛び立った

《昭和三十六年》 新聞という事業をやっていると、何となく団体事業をやらなければならないものだと考えるらしい。それがまた業者の側でも、そういう仕事をやること自体が、新聞社としてのサービスの一つであると考えているようだ。そんなことから昭和三十六年の三月二十五日、羽田空港から香港に向けて「東南アジア宝飾業界視察団」総勢十九名が飛び立った。
このツアーは、東南アジア宝飾業界視察旅行と題した十二日間に旦るプランで、本紙「時計美術宝飾新聞」の創刊三十五周年を記念した事業という題目で行ったのである。
当時は外国旅行については、貿易が自由化される前であったから旅券(パスポート)の申請の許可などいろいろと難関があったので、そう沢山の参加者はなかった。それでも総勢十九名という一団ができた。名鉄航空旅行社の斡旋によるものであったから、私は形式上の団長ということになり、旅行中の実質上の総ては、その旅行社から同伴して行くコンダクタが一切の世話をしてくれるのが通例になっていた。
かくて旅行申請から旅行日程についての打合せ会も済み、明後日出発するという時になって、旅行社から同伴を予定していた漆原というコンククターの旅券が降りなくなってしまったという報告に接したのである。正に困ったことになった次第である。国内旅行ならいざ知らず、こと外国語を使わなければ用がたりない国への案内役のことであったから何とも致し方ない。いっそのこと出発を視察団の延期を考えてみたが、十九名の申込み者は既に、旅行に関する各般の用意万端を整えてしまっていた。止めるにも止められない状態に追い込まれたので、最後の方法として通訳の人を他に探せないかと打ち合わせを繰り返してみたところ、特に通訳の世話だけを頼むことができることになったのである。
ただし、その代り私自身は事実上の団長ということになってしまった訳である。だからコンダクターに代って諸事面倒を見なければならなくなった。「なるようになれ。行くところまで行け」と心の中で思ってはみたが、内々は心細い感じがしない訳ではなかった。
しかし団員の中には、業界関係の知り合いばかりで、既に旅行馴れした人もいたので、いざという時には、という心強さもあり皆に協力を頼んでとにかく予定通り出発することに
した。
出発の時、羽田空港のロビーは見送りに来てくれた人達で大賑わいを呈した。待合室に入りきれないで廊下にまではみ出した程である。羽田空港ロビーの出発の場では、佐川久一全時連会長が大勢の見送り人の中で元気のいい声で万歳三唱をしてくれた。
かくして本社主催の「東南アジア宝飾業界視察団」の一行は、午前十時健やかに飛び立っていったのである。この時の旅行団に参加した一行のメンバーは次の通りである。
バンドメーカー・竹本商店:竹本茂次社長(東京・台東区浅草)、バンド卸:高島商店:高島倍社長(東京・台東区東上野)、中井梅商店:中井梅次郎社長(大阪・南)、バンド卸:影山鋼鎖製作所:影山元節専務(東京・台東区竹町)、眼鏡卸の三共社:北岡茂美社長(東京・文京区湯島)、メッキ業:大須賀メッキ工業:大須賀実専務(東京・墨田区・石原)、宝石卸:伊勢正商店:大平吉蔵社長(東京・神田・須田町)、時計卸:沢木時計店:沢木誠太郎専務(東京・新宿区百人町)、時計小売:審美堂:山岡猪之助社長(東京・銀座)、時計小売:伊勢伊時計店秦藤次社長(東京・銀座)、時計小売:野村時計店:野村康雄社長(東京・台東区)、時計小売:倉林時計店:倉林春男社長(東京・文京区竜岡町)、時計小売:まつ屋宝飾店:渡辺陽一(札幌市)、輸出業:東京商工・小関滝社長(東京・千代田区)、、輸出業:武藤工業兜嵩。与四郎社長(東京・丸の内)、輸出業:東洋信号通信梶E小島安幸社長(東京・港区)、山本昇神戸支店長(神戸市)、輸出業:富士電鎌倉製作所・堀江純一郎社長(鎌倉市)、時計美術宝飾新聞社・藤并勇二社長(東京・文京区湯島)の十九名。
写真は、勇躍飛び立って行く一行を歓送する光景。

六時間半を飛んでタイ国のバンコクに入国した
日本人はどこへ行っても大いにモテた

《昭和三十六年》 搭乗した飛行機は、スカンジナビア航空のジェット機であった。この頃、日本にはジェット機はまだなかったので、途中マニラ空港を中継してから一挙にタイの主都バンコクまで飛んだのである。だから計六時間半位を飛んだことになる。
かくて一行の眼に映ったものは、南国の赤色焼けたバンコク空港に着陸した光景であった。タイの主都バンコクというところの人口は百七十七万人。新聞を通じて知っている範囲では、親日性に富んだ君主制の国であると承知していただけに、税関の場で受ける税関係の態度についても、極めて注意深く見守ったのである。いろいろ所持品のことなど尋ねる点でも、親密さを示す態度が受取れたので、心易いような気持でそれからのバンコク視察に元気が出せたのである。
我々一行は、空港の外で待っていた旅行社差し回しのバスに便乗し、指定のホテルに到着した。ホテルの名は「アスター」といって、その近辺には航空会社などが散在している繁華街に面した賑やかなところである。ホテルの待遇は、ツーリストクラス旅行だから、大体月並のものだったが、困ったことは馴れない通貨の使い方についてであった。一応飛行機の中で聞かされてはいたが、ホテルに着いたトタン両替店が開いており、そこで所要すると思う程度のUSドルをタイのドルに交換したのであるが、これを持って行けば、どこへでも行けて、何んでも支払はOKということを聞いたのだから到着したその晩からバンコクの夜の景色などの見物に大いに羽を伸ばした。
一行に参加している年輩者の山岡、大平両氏などは、私よりも年上であったので、その連中が率先してハッスルし、飛び回つたのだからこの時の旅行はまだまだ元気旺盛という時代だったのである。
我々をホテルに運んでくれたガイドの中に、日本の学校で二年間ほど勉学に努め、日本語が少し判るスーピーさんという青年がいてくれたお陰で、夜中の遊び回りの場などでは、いとも楽しく、且つ行詰るようなこともなく東京の地を飛び回っているような環境にあったのではないかと思うほどだった。
もっとも、この頃バンコクで受けた日本人に対する印象は、どこへ行っても日本人は大いにモテたもんだ。それだけに夜のナイトクラブの場などでは、東京のドまん中のキャバレーで遊ぶのと少しも変わりがなかった。日本人経営の「二ユーシャトー」というナイトクラブは、支配人が日本人でもあり、また女性の中にも支配人的な立場の人と日本人のウエートレスなどがみられて安心できた。
ここのウエートレスが、我々一行のタイ国内の諸々を見物して歩く時、毎日そのバスに便乗して一緒について歩いてくれたのである。何年間かの約束に基づいてここまで送られて来た日本女性にしては、案外自由な行動をとるものだと考えたのだが、事実は旅券など持たなければ国外への行動の一切は不可能になっているのだから、外出したからといって不安がない訳である。その説明を女性ら本人から聞いて、なるほど外国の事情というものはこういうことになっているものかと思いうなずいたような次第である。
バンコクの滞在は三泊四日だったから、王宮のほか数多い寺院など見て回ったあとの夜ともなれば、このナイトクラブが一行のためには唯一、且つ毎晩の遊び場所ともなっていたのである。写真は、タイ国の水上生活の景色。

マガイもの(合成)ではないかと疑いたくなるほどの天然宝石がゾクゾク
目の効いた人は、相当量の宝石を買い求めたようだ

《昭和三十六年》 一行の日程の中で、商業視察などは日割したプランに従って宝石関係の業界状況を主にして見て回った。ニューロードの表通りから少し裏側に面した道を行くところあたりに宝石の加工所を設けてある宝石販売店があった。
一行はこの数軒で相当の買物をした。ヒスイ、スター、スタールビー、ジルコン、サファイアなどのほかにエメラもあった。特にスタールビーの多いのには驚いた。それだけに、そのスタールビーが何んとなくマガイもの(合成)ではないかとさえ疑いたくなるほどキレイに仕上っていたので、思い切って多量に買取ろうという勇気が出せなかったように見られた。
天然石ともなると石の価格が相当多額になるので、品物についての真疑の見分けに自信を持てない人は、このような場合に勇気を奮い立たせることができないのである。一行の中には、相当に所持金していた向もあったようだが、それだけに石に目のきいていた連中は、その人達から一時的に融通してもらってまで相当量を買い求めて来た者もあるなど、帰国してから東南アジア旅行の思い出の会合を開いた際に、儲けた話しをしていたものもいた。
バンコクには、このあとでシンガポール経由の場合に、もう一度この空港に降りたことがある。その際でも電話で連絡すれば前回の宝石業者はこの空港の控え室にまでわざわざ出向いて来て、取引に応ずるというほど商売上には熱心さをみせていた。もっともこの頃は、まだ日本人の旅行者が少ない頃であったのだろうし、それに宝石など買うという人には、売る方の相手側が懸命になっていた頃であった。写真は、右側に立って手に石を持っているのは山岡猪之助氏。

バンコク特有の水上生活の状況視察などを行なった
日本製品の評判はよく、イタリー品は高く、ドイツ品は値が安い

《昭和三十六年》 バンコクに滞在中、日曜日に出会ったので、この日はバンコク特有の水上生活の状況視察などを行なった。メコン川の下流に位置する大きなこの川の両岸に家が建てられていて、それらの冢の生活物資は水上を航行する商業船によって売られ歩くのである。だから水上生活者の実態を見て一つの異った感動を覚えない訳にはいかなかった。
商業状況の視察では、ニューロートの大南公司(斎藤氏)三角路の永利公司(陳家永)を訪問して、時計界の業態を中心にした時計関係の商取引の実態について説明してもらった。日本製品の評判はよく、イタリー品は高い、ドイツ品は値が安い、という条件のもとに、入り乱れて競争をしている現地での状況などについて知ことが出来た。
全般的にタイ国の施政は、総てがコミッション制度に終始しているので、やり難い国情だという説明はどこでもどんな場合でも共通しての訴えであったのには驚ろかされた。
そういう実態に接した為か、日曜日に、水上での彼らの生活ぶりを見て廻っていた時、日本の大使館要員がボートの上から手をあげて我らの船に愛嬌を振りまいてくれたのだが、お洒落な服装ぶりから推して、これらの人もコミッションによる収入などがそうさせているのか?など思わせられて不愉快な想いを感じた位である。

クアラルンプールとシンガポールを見る
「緑の丘に近代的な建築物が建てられている」国

《昭和三十六年》 当今の海外旅行のほとんどは飛行機が利用されている。我々一行はバンコクからクアラルンプールに着いた。もちろん乗物は飛行機である。だから空から乗入れる旅行だけに、着陸間際になると機内の窓から飛行場の外景にまず目を止めるのが乗客としての常であるようだ。クアラルンプールの空港には、地元旅行社の代表者が迎えにやってきており、「TBS旅行団のミスター藤井」を連呼していた。そして指定のメルリンホテルヘ着くやいなや日本航空の出張員が私の傍にやって来て、日本航空を利用してくれないかという交渉をしにきた。そこへまた、三井物産の安田さんという人が、我ら一行に加わっていた武藤さんという人との取引関係のことで訪れて来た。
その安田さんという人は、当時のタカノ時計(今のリコーの前身)を東南アジア地方で身をもって売込むためにわざわざやって来でいる人であるということを聞かされたのである。そこでその晩は食後の時間を利用し、安田さんを囲んだパーティをすることにした。お陰でいろいろ現地の状況を聞くことができたので、その収穫にお互いが喜んだのである。翌日は、クアラルンプール一帯の視察旅行に出かけるコースをとり、この安田さんにガイドをしてもらうことにした。
地元の旅行社のガイドマンは、日本語が全然できなかったので大いに助かった。クアラルンプールという国の姿は、一口にいって「緑の丘に近代的な建築物が建てられている」という格好である。だから日本のような狭隘な地面関係や、交通量に比較した場合のものとは異なって、正に夢の国か、オトギの国にでも来たのではないかとしか思えるほどの美しさである。
このあとのコースの途中で香港に立ち寄った際に、ヘラルドコーポレーシヨンのブロックさんという外国人に会ったとき、問はれたので、クアラルンプールのことを緑の楽園と思いましたと感想を述べたところ、そうでしよう、クアラルンプールは世界の楽園として建設途上にあるのですといわれたことを合せ考へ、そのとおりだと思えた次第である。
この国はゴムが主要生産物で、その輸出で年間の国の予算額の約七割方が収穫されるという恵まれた環境にあるのだという。だから他国との比較にならないものかある。
この地方に五本の足を持った奇牛が一頭おり、お金を払った特別参観に供してくれた。
写真はマラヤのゴム林を訪れた一行、右から、山岡.北岡、中井.野村、秦、ガイドマン・安田(三井物産)、倉林、藤井、竹本の諸氏。

シンガポール旧正月のキャセイホテルでの晩餐会
金属製バンドのニューデザイン物に関心を見せたが価格の点では不成立

《昭和三十六年》 クアラルンプールという国は、そんなに大きな国ではない。だから見て歩くところもそう広範囲に亘るものではない。時計バンドの見本など持参した業者陣とともに、三井物産とは別の東京時計のクロックを特約販売している原地人(マラヤ)の時計卸商館を訪れ、その主人公のダンジョン・プリョタという人に会って話を聞いてみた。
会談の内容から、「日本の置時計は素晴らしい」という一点を述べただけで、その外は東京時計に感謝しているというだけ。これをこのように、というような具体的な改良や進歩という点についての意見は出なかったところは、日本人とは少し違っているようにみられた。だがシンガポールとの合併が伝えられているではないか、という私からの質問に対しては、「ノー」、宗教が異なっているからとハッキリした回答をしていた。
このような点から推しても、東南アジアの人達の民族的意識というものは根強いものがあるという判断が持てたのである。
シンガポールに行くのには、陸つづきであるのだから飛行機を用いる必要はなかった。バスでOK。シンガポールは英領の支配下にあったのだから、ここの港には米英両国の軍艦の姿など見られた。シンガポールの街は海岸に面したあたりが英領らしく、植民地的な風景を漂わせるものがあり、清潔な街の設計には目をそば立たせるものがあった。
ひとたび商店街に足を踏み入れてみると、そのほとんどが華嬌の群衆である。
私は東京時計の特約店をしている星東商会の紹介状を持っていたので、華商街の中にあるその商社を訪れたのである。この華商街の中のビルの階上に行くとき、支那人のボーイが案内してくれた。四階までエレベーターで行くのであるが、ここでチップを貰うのが案内人の狙いらしい。この案内人はクリーという種類のものであるらしく、華商のいうこと以外には立ち働くことさえ許されていないようだ。だから気狭な身振舞いをしていたのに気をつけて見た。
この後もう一軒の昌成公司という時計など各般の卸売りもしている時計専門の店を訪れてみた。昌成公司は、シンガポールでは目抜きのミットロード五番地に店舗を持ち、時計に
バンド類も扱っている小売店である。それだけに東京時計の置時計についてもマラヤにおける場合と同様聞いてみたが、それよりも日本製腕時計を東南アジア地方に売り込もうとする場合に、果たして現地人業者がどのような観察をしているであろうか、ということについて現地人の実際の声に親しく接してみたいというのがこのときのねらいであった。 この昌成公司の社長は、マラヤ語だけでイングリッシュは解せない。支配人の唐徳平という人が話せるということであったので、私が名刺を通じて会談したときは、この唐徳平さんが通訳してくれた。私の方は日商株式会社(シチズンの特約店)の所長、石橋斗さんという人が通訳してくれた。この会談で、昌成公司は東南ア地区の各方面に商売を拡大することができるが、それは品物の価格が拡売するに相当する利巾があるかどうかによって決ると説明していた。勿論その通りである。そして品物については、@時計は、大物では名古屋物と東京時計が入荷しており文句はないが、デザインの点で新らしものを期待する、A腕時計は、スイス物の方が銘柄がPRされており、需要者に提供するのが早い、B日本の腕時計を売り込もうとするにはPRを大いにすること、そして価格をスイス物に匹敵するように考えることができれば相当量を扱うようになる、C時計バンドについては、日本製品はいいものがあるが価格が高いという。私はこのとき、金属製バンドのニューデザイン物を提示して、見たいかと聞いてみたら、「是非見せてほしい」というので、ホテルでその日の夕刻五時に合うことにした。
その時間に支配人と共に昌成公司の主人公の二人がやって来た。ホテルの私の部屋で高島君が持参したサンプルを出して見せたら、“べリーナイス”を連発していたが、いざ値段の点になると、ナタ(半額)という。テンデ問題にならないといったのであるが、しかし昌成公司の立場としては、ナタ(半額)という差し値を出したので、日本側にとっては安くてダメだということになったのである。現実に取引をするための値段決めという場の切札としては、この時代の状況としては止むを得ないのではなかったかと静かに考察することができた。写真は、シンガポール旧正月のキャセイホテルでの晩餐会。

シンガポールでの買物は、ワニ製品が選ばれる
ワニ製品を六、七十個も持ち帰ったが羽田税関ではたった二千七百円を課税

《昭和三十六年》 このS式バンドは、このあと香港に立寄った際の視察の場で、香港製の安価なバンドが作られつつある状況について、その現品を示し説明したことがあるのでその判断のための参考資料になったわけ。
このことが終ったその翌日、観光ということになり、その昔、薬問屋の千万長者・湖文虎という人が建設したという私設公園を見た。ここには、あらゆる動物を型どって作った型像物を見るのに二時間以上もかかった。このあと且ての大東亜戦争当時、山下将軍指揮で有名をとどろかせたジョホール水道について、当時の追跡を見て回った。ここで感動したのは、この水道塔の上部に当時の艦砲射撃のあとの穴が、今なおハッキリ残されているのに目を見張った。そしてまた、フォード自動車工場の中で降伏条件に調印を求めたという当時の遺跡についても説明されたが、ここだけはピンとこなかった。既にその付近が使用されていたからでもある。シンガポールを見て歩いた中で、特に気がついたのは、細い畔道のようなジョホール水道を境にして、シンガポールとは外国の国境になっているというところである。だから一歩足を跡み越すだけで、外国扱いになるのである。だから関税の関係で、ここでは週一回家庭用の日常品を展示販売することで有名である。
“税金がかからないのだから安いというのがねらいであろう。週に一度は、定期的に開かれることになっているという。だからこのジョホール水道際の定期市場は、その開市のたびに沢山の人出があり、賑わうので有名であるという。
私達一行が滞在していた三月一日のことだと思う。東南アジア方面では旧正月というので、この日は名物の爆竹が到るところで打鳴らされた。その日の晩餐会は、一行が宿泊していたキャセイホテルの二階の中華料理店で午後六時から晩餐会を開くことになった。
ところが一行が席をとったキャセイホテルの宴会場は、シンガポールでは一流のレストランであることから、この日は支那人の正月を祝う集りで大変な賑わいを呈していた。つまりシンガポールのお正月に出会ったのである。だから一同は、その珍らしい環境に親しむことができ、幸福なひときわ満足を抱いたものである。
シンガポールの観光の途次、ワニの養殖場を見学したのだが、ワニというものは目で見た格恰は物すごい様相をしている。児ワニの鳴き声などときたら、とてもかわいいものである。そのワニが製品になるので、シンガポールでの買物は、ワニ製品が選ばれる。値段は安いがデザインのよくないのが欠点であり、それが特長になっているから安いのだという向もある。われら一行の中でこのワニ製品を六、七十個も買い求めて持ち帰ったものがあったが、純正なる土産品ということで羽田税関ではたった二千七百円を課税されただけで済んだ。写真は、シンガポールの昌成公司の二人と日商の石橋さん。

世界三大景勝の香港島へ
「ウェルカムジャパン」と書かれた横長の旗幕を前に記念撮影を

《昭和三十六年》 香港には、昭和三十六年三月二日の夜になって入国した。世界三大景勝の中の香港であり、特に香港の夜景は素晴らしいと聞いていたが、われら一行を乗せた飛行機が九竜空港に着いたのは夜の八時を過ぎた頃であったかと思う。だから空から見た香港ということになったのである。「ウェルカムジャパン」と書かれた横長の旗幕を前に記念撮影をした一行は、バスで指定のホテルへ案内された。
香港のホテルの看板文字は、漢字で表わしたものと英文字で表わしたものとの二つの種類がある。われら一行のホテルは、九竜の酒保(ホテルの意味)アスターというのであった。六時間以上空を飛んで来たので旅の汗を流すことだけは、誰もが望んでいたので、手早くお風呂につかったあと、秦、野村、竹本、藤井、小関らの一組は出迎えてくれた秦君のお馴染みである豐さんという宝石店主に九竜の丘陵の頂上まで車を飛ばして案内してもらった。そしてハイボールの水割りを片手に、九竜の夜景を楽しんだのであった。静かな空をこがす如くに九竜の街の夜遅くまで、赤、青、黄色のイミルネーションがまばゆいばかりに輝いていたのを観賞することが出来て、大変愉快に感じた。
このような場でホステスと顔なじみになっておくと便利な場合があるものだ。
その翌日の夜のことであるが、あるレストランで食事をしたあとの必要な遊興の場などの案内には、このようなコースの人達が大いに役立つものである。だから危険もなく安心して遊んでいられるということになる。謝礼金も大して高くなくて済まされた。顏をきかすのは、その意味では何所でも同じようである。写真は、九龍のメインストリート。

九龍市街や香港島にといった順で見学する
海抜一六一八フィートもあるライオンロックなども見学した

《昭和三十六年》 翌日は九龍市街や香港島にといった順で見学することになった。九竜市街の中には、香港政庁が予め作っておいてある大陸から逃げて来た難民のために備えたアパート群の立ち並んでいるのに、まず度胆を抜かした。
難民アパートに到るまでは、道の両側にパンヤンの樹が立ち並ぶネイチェンロードの九竜のショッピングセンターがあり、そのあと海抜一六一八フィートもあるライオンロックを経て来ている。
次いでニューテリトリー、サーテン(沙田)を超えて、ゴルフ場のあるフォンリングを経由してから中共との国境々界繚の展望台のある勒馬州に到る。このあとのコースに続いているニューテリトリーは最も古い町、中国時代の農村の大地主が居住した古城ユンロンは、今なお城廓をめぐらしており、農産物の集散地となっていて有名だ。それからキャスルピークに到って、この日の観光を終るというコースである。写真は、難民アパート群。

一着分七千九百五十円の洋服生地を選んだ
日本の相場では三万七、八千円ぐらいのものに相当した

《昭和三十六年》 二日目はビクトリアロード(香港島)の見学コースであるが、まずスターフェリーでビクトリア本島に上陸してからコンナートロード、スターフェリー広場平和記念塔を見ながら、有名なビクトリアピークに登る。ここのピークは、海抜一八〇九フィートあり、ケーブルで登るようになっている頂上から眺めた景勝は、とても壮観である。次いで香港大学、クイーンメリー病院などを見て、アバディーンに到る。
世界的に有名になっているフローテインクレストランに行くのには、渡し船(サンパン)で渡るのだが、ここのレストランでは新鮮なものが食されるというので有名である。
次いで、パルスベイを通りスタンリーべイなどを経て、タイガーバーム(胡文虎公園)に到る。ここは古文虎兄弟の私邸で、時価に換算すれば数十億円にも及ぶという。ヒスイや白玉などの宝石で作られた各種の美術品を保蔵した古文虎記念館があり、また地獄極楽を表わした極彩色石造物などが並べてある異色の庭園である。それからクインロード、ロンナットロードを経て、スターフェリー広場に到る。
なおビクトリアロードで買物をする場合には、店の信用度を知ることが大切であると思った。私がこの当時買い求めたものの中には、洋服生地を選んだのであるが、邦価換算で一着分七千九百五十円になっていた。この洋服店は一銭たりとも負けるといったことはしない。この生地について帰国してから三越で見てもらったところ、日本の相場では三万七、八千円ぐらいのものに相当する代物であると言われた。香港では値切るものだという考え方は、時には当らないものもあるということを記しておきたい。写真は、中国時代の古城楼。



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