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昭和三十四年、佐川全時連会長時代にようやく全国統一機運が高まる
山岡猪之助、今野徳一両氏の労苦は筆舌に尽しがたいものがあった

《昭和三十四年》 全国の時計宝飾販売業者三万軒を呼称する小売団休「全国時計宝飾品連合会(全時連)」は、内容的にはまだ名称が存在していたという程度のもので、まだ実質の伴わない団体であった。
「東京時計小売組合」の理事長だった山岡猪之助氏と神奈川県時連会長の今野徳一氏がそれぞれ全時連会長に就任して業界の黎明期に灯をともしたが、まだその頃は全国統一というには立ち至らずして東北、関東、中部、近畿などのブロックが全時連傘下に名をつらねていたに過ぎない。全国組織づくりの過度期にあたった山岡猪之助氏、今野徳一両氏のこの間の労苦は筆舌に尽しがたいものがあった。
山岡氏が病に倒れたそのあとを受け継いだ今野氏も、また三年たらずの在任中に倒れて終ったなどの経過をみても、当時の時計業界指導者が全時運の育成指導の点で如何に苦心を重ねていたかを察することができよう。このような時期を経て、名実ともに全国連合としての全時連が築かれ始めたのは、現佐川久一会長の代になってからである。
昭和三十四年に就任した佐川会長時代になってから、それまで全時連の傘下に名を連ねていなかった北海道を先ず加入させるのに成功した。そのほかの四国、九州など遠隔地方の団体も全時連という活動母体の重要な時代性を認めて、漸次全国時計小売業者共通の時局問題などに取り組むようになって来たのである。
とくに全時連の事業活動の中心は「物品税の軽減運動」に置かれ、同運動に対する全業者の熱意が盛り上るに平衡して、全国連合としての組織力や結束の度合もまた強まったといえる。
物税軽減運動のほか、時計の需給不均衡による乱廉売問題の「スーパー時計部の進出」、流通革命の名のもとに波紋を呼んだ一部メーカー筋の直販計画など、全国の時計小売業者が共通の立場に立って速やかに対処すべき重要問題が続出した。
それらの問題は、いずれも時計販売業者の生活権の範囲にまで及ぶ課題であり、業界全体の進路を大きく左右する政治問題でもあった。それだけに全国連合の組織力、政治力が必要欠くべからざるものである点を全業者の個々が身をもって認識させられた時代だった。
それというのもこうした時計業界問題と取り組んだ全時連へ、それぞれの問題で一応の処置を打ち出し、何らかの形で成果を得てきた結果である。中でも全時連の金看板である「物品税運動」が予期以上の成果をあげ続け、政府当局が減税方針を打ち出す時期には必ず時計貴金属関係に対する“物品税を手直しする”という慣習まで出来上がっているような形となっていたころは、佐川久一会長を中心とする全時連の活気を一層ひき立たせ、今後一層強化していこうとする熱意の原動力になっていると言っても過言でない。
物品税運動の推進に当っては、貴金属、宝石、真珠など関係業者団体を抱合した全国宝飾品連合会(全宝連)も結成され、全時連はその一単位の団体という形で活動を支援、昭和四十一年度の物品税改正の時には、一率免税点一万五千円(旧制、宝石一万円、貴金属類五千円)を勝ち取った意気盛んな時である。
写真は昭和三十四年、佐川久一全時連会長就任の年に東京会館で開催した全時連大会。

昭和四十一年 物品税改正の時には一率免税点一万五千円を勝ち取った
物品税の税率引き下げ運動が意気盛んな時

《昭和四十一年》 政治的運動には、地域団体との結びつきが重要な力となるわけだが、全時連の組織を地域別にみると、まず全国を北海道、東北六県、関東七県、東京、東海四県、北陸三県(新潟は単独加盟)、近畿六府県、中国四県(うち広島は復権保留中)、四国四県、九州五県(北九州は単独加盟)の各ブロックに分れ、ブロック会長が全時連の副会長に就任している。
ブロック会員は、▽北時連(北海道)=徳永茂雄(札幌)、▽東北六県連(東北)=三原庄太(宮城)、▽関時連(関東)=会沢義二(茨城)、▽東海ブロック(東海)=長谷川宗義(愛知)、▽東京時眼小売協組=河内録幤(東京)、▽北陸ブロック=蓮玲司(石川)、▽近畿連=薮内正信(大阪)、▽四国時連=川村増洽(高知)、▽九時連=牧野次一(熊本)の諸氏氏。

このブロック別編成の中で、特に強固な地域連合として固まっているのは、北時連、東北六県、関時連、近畿連、九州連、四国時連などがあげられる。
全時連傘下会員の総数は、一口に三万軒といわれているが、実数はそれよりいくぶん少ない。とくに地方都市の会員数の変動は日々に変っているといってもよいほどであり、地域事情によっては、町村ごとの小グループが一地域ぐるみで入会や退会する場合もあるとされるので、全国の時計小売業者の正確な実数は現在でも把握できないのが実情である。
しかし全時連本部は、毎年一回ずつ開催する全国大会の会場を、できるだけ地方都市で持ち回るという仕組みをとってきたため、オリンピック開催国の場合と同じように設営を担当する地域が大会を通じて全時連への理解を深めるという効果もあげてきた。
特筆されるのは北海道大会(昭和三十八年)、四国大会(昭和三十九年)、東京大会(昭和四十年)に示した参加者の動員数で、三つの大会はいずれも千名を越える来場者で会場を埋めた。千名以上の同業者が一堂に参集するという例は、これまで全く例のないことであっただけにこれらの大会を境として、全時連の存在価値が関係諸団体をはじめ、あらゆる関係業者の注目を集めたことは言うまでもない。このような未曽有の集会を経て地域ごとの会員数も定着、ゆるぎない“きずな”で同業者が結ばれることになったと言える。
なお各都道府県ごとの時計小売組合連合団体名、代表者名、所在地を列記すると次のとおりである。
《北海道》▽札幌=徳永茂雄会長、《東北六県》▽宮城=三原庄太会長、▽福島=樋口虎二郎会長、▽山形=蜂屋五郎兵衛会長、▽秋田=村越俊夫会長、▽岩手=小井田新一会長、▽青森=横島豊一理事長、《関東》▽長野=田中勘一会長、▽千葉=小原理一郎会長、▽茨城=会沢義二理事長、▽群馬=渡辺明康会長、▽山梨=天野寿太郎理事長、▽埼玉=海老原恒吉会長、▽神奈川=村田国雄会長、▽栃木=河合健冶会長、《東海》▽名古屋=長谷川宗義会長、▽岐阜=岩田時男会長、▽三重=三木隆男会長、▽静岡=
新貝保太郎会長、《関東》▽東京=河内録幣理事長、《北陸》▽富山=碓井弥平会長、▽石川=蓮玲司会長、▽福井=白崎圭太郎会長、《近畿》▽大阪=薮内正信理事長、▽兵庫=美田真治理事長、▽京都=岡本福重理事長、▽滋賀=今堀勘右衛門理事長、▽奈良=玉井武治郎理事長、▽和歌山=土橋美一理事長、▽《中国》▽広島=昭和四十年に広島県連の下村会長から全時連へ退会届が提出され、翌四十一年二月末、現在も復帰届は提出されていない。このため中国ブロックとしての代表者名も記録されていない。▽岡山=服部太郎会長、▽島根=原田雅生会長、▽鳥取=清水喜市会長、▽山口=藤井朝夫会長、《四国》▽神奈川=森田信之助会長、▽愛媛=新田礼一会長、▽高知=川村増治会長、▽徳島=佐藤徳夫会長、《九州》▽佐賀=伊藤二七会長、▽長崎=永橋末八郎会長、▽熊本=牧野次一会長、▽鹿児島県時連=池田恵蔵会長、▽宮崎=堀場清会長、▽大分=牧晋会長、《新潟》▽新潟=大矢庄一会長、《北九州》▽北九州=石津勇会長。

全国都道府県ごとの時計小売業者連合団体とその代表者名は以上の通りだが、全時連本部は、これらの県別団体を事業推進の最端母体として各県連会長を常任役員としているほか、政治、経済の中心地である東京地区など、限られた地区からからは、事業運営上の便宜のため常任級役員の複数選任を行なっている。
従って会長の佐川久一氏を頂上に各ブロック会長を副会長とし、全国都道府県連会長を幹部役員として諸事推進しているわけだが、実質的には東京など大都市の地域団体の幹部級が実質上の亊業運営にたずさわることも多い。しかし、あくまでも全時連の組織は都道府県単位の集合体であるとの見地から佐川会長は問題があるごとに東奔西走して県単位地区を歴訪、地方団体の声を直接全時連施政へ反映させるよう努力した結唄全時連の基礎をなす地区団体の、全時連本部に対する結束は一層固まっていた。
なお全時連本部は、事業を進める上での合理的処理のため事業委員会制を設置、物品税関係を関東の会沢氏、価格問題については、東京の河内氏、技能検定関係を東海の長谷川氏、全時連機構強化を近畿の薮内氏に、それぞれを委員長として常任役員以上の幹部をこの四部門にふりあて、業界の問題ごとに直接折衝や問題解決への任に当るシステムをとっており、漸次運営面でも進歩改善されつつあった。
だが、会費など賦課金を集める段になると各県ごとの地域的な諸条件も重なる場合もあるので必ずしも円滑に進むとは限っていないようであった。なお全時連団体は政冶的運動の場合に備えて、衆議員関係では田中伊三次、津雲国利の両議員を顧問にしていた。
因に業界人として顧問には次の諸氏が名を連ねている。
関誠氏(東京都中央区新富町一ノ六)、山岡猪之助氏(東京都中央区銀座八−二)、江藤順蔵氏(大阪市東区大川町一九)、今野徳一氏(横浜市中区伊勢佐木町一ノニ六)

次に物品税に関する陳情書を当局に提出した最初の頃の一項を次に示す。

請願書(物品税第一種に関するお願い)
一、課税範囲の整備
  第一種甲類は一号貴石及び三号貴金属製品とする事
二、免税点の引き上げ
  現行二千五百円を一万円に引き上げること
三、税率の引き下げ
  現行二十%を三%に引き下げること

標記の件について左の通り御審議御決定を御願い申上げます。

戦後十五年を経てその経済的発展のため、生活水準の向上と、国民生活の安定は旧来のあらゆる生活様式から完全に脱皮し得る結果に至り、就中宝石、貴金属製品のたぐいは既にその用途からして奢侈的と言うより、むしろ財産の蓄積的要素を多分に含み、消費生活に充分浸透するまでに至りました。戦前より宝石、貴金属製品類は、ややもすればその装飾的、奢侈的意義のみ強調され、消費税の面においても特別扱いを受ける状態だったが、昭和十二年戦争の開始と共に政府は我々業者に対し手持商品にまで及ぶ強制買い上げという法律の下に、協力を求め、我々三万軒の業者をして精神的、肉体的な苦痛を背負わせ、生活を侵害するなど多大なる犠牲を払わしめたものであります。しかも戦争協力に尽くした我々業者の功績は認められることなく戦後も未だに過酷な冷遇に耐えているのであります。
ここに我々業者は、物品税第一種に関し、現在の経済安定の基盤の上に立ってその再考を促す次第であります。

先ず第一に第一種甲類の課税範囲を、一号貴石及び三号貴金属製品とのみ限定し、その免税店は、現行二千五百円より一万円に引き上げ、且つその税率を二十%より三%に引き下げをお願いする次第であります。
税率三%については、政府の社会保障及び減税政策に率先協力する我々業者として、是非ともこの際物品税の撤廃に踏み切っていただきたい熱望する折柄、いささかなりとも協力の意思表示として三%とお願いする者であります。
昭和三十五年八月、全日本時計貴金属眼鏡小売組合連合会。

以上の運動の成果で、貴金属製品については五千円、宝石または宝石を取り入れたものは一万円に、免税額を引き上げたのである。だがしかし、これだけでは業者は不満足であり、引き続いてこの陳情は続けられた。
その結果、四十一年一月十一日の税制調査会の決定というコースを辿ったのであるが、この年の運動は、前回の場合の運動方法とは異って、宝石業者と全貴連の業者たちが一括行動をとった所に新鮮味を帯びて、協力性が感じられたので好結果を生んだものと言われている。
第一回:東京大会 昭和三十四年(東京会館)、第二回:熱海大会 昭和三十五年(大月ホテル)、第三回:近畿大会 昭和三十六年(京都市)、第四回:東北大会昭和三十六年(国際ホテル)、第五回:名古屋大会昭和三十七年(仙台市)、第六回:物税大会 昭和三十七年(東京サンケイホール)、第七回:札幌大会 昭和三十七年(札幌市)、第八回:四国大会 昭和三十九年(高知市)、第九回:東京大会 昭和四十年(東京教育会館)、第十回:九州大会 昭和四十一年(熊本.市)。
写真は昭和三十八年、札幌に1,200名が参集して行われた全時連札幌大会。

昭和40年度 全国時計小売業者会員数=16,509名(会費:¥1,981,080)
全時連各県会員数と会費一覧表(昭和40年5月17日現在)

▽北海道=1,060名(会費¥127,200)、▽青森=295名(会費:¥35,400)、▽岩手=314名(会費:¥37,680)、▽宮城=350名(会費:¥42,000)、▽山形=299名(会費:¥35,880)、▽福島=400名(会費:¥48,000)、▽秋田=331名(会費:¥39,720)、▽群馬=321名(会費:¥38,520、▽埼玉=400名(会費:¥48,000)、▽千葉=382名(会費:¥45,840)、▽神奈川=577名(会費:¥69,240)、▽栃木=317名(会費:¥38,940)、▽山梨=154名(会費:¥18,480)、▽長野=499名(会費:¥59,880)、▽茨城=336名(会費:¥40,320)、▽東京=1,649名(会費:¥197,880)、▽新潟=609名(会費:¥73,080)、▽=295名(会費:¥35,400)、▽富山=258名(会費:¥32,160)、▽石川=231名(会費:¥27,720)、▽福井=208名(会費:¥24,960)、▽岐阜=397名(会費:¥47,640)、▽静岡=591名(会費:¥70,920)、▽愛知=870名(会費:¥104,400)、▽三重=308(会費:¥36,960)、▽滋賀=171名(会費:¥20,520)、▽京都=386名(会費:¥46,320)、▽大阪=832名(会費:¥99,840)、▽兵庫=500名(会費:¥60,000)、▽奈良=111名(会費:¥13,320)、▽和歌山=197名(会費:¥13,320)、▽和歌山=197名(会費:¥23,640)、▽鳥取=127名(会費:¥15,240)、▽島根=170名(会費:¥20,400)、▽岡山=347名(会費:¥41,400)、▽山口=289名(会費:¥34,680)、▽徳島=164名(会費:¥19,680)、▽香川=210名(会費:¥25,200)、▽愛媛=185名(会費:¥22,200)、▽高知=139名(会費:¥16,680)、▽佐賀=196名(会費:¥23,520)、▽熊本=308名(会費:¥36,960)、▽大分=236名(会費:¥28,320)、▽長崎=280名(会費:¥33,600)、▽宮崎=198名(会費:¥23,760)、▽鹿児島=299名(会費:¥35,880)以上、会員数=16,509名(会費:¥1,981,080)。
写真は東京大手町のサンケイホールで開催された「物品税撤廃決起集会」全国大会。この席上には、衆議院議員の田中伊佐治代議士と各県選出の議員数名が演壇上から激励の演説を行った。

「関東時計宝飾眼鏡商連盟(以降:関時連)」団体の設立とその経過
関誠平氏が主導した「中央時計宝飾品商業協同組合」が基に

《昭和二十三年》 「関東時計宝飾眼鏡商連盟(以降:関時連)」という団体は、関東地区内に所在し、東京を中心にしてこれに連なる隣接県を持って組織している時計業者団体。その傘下には東京の外に、神奈川県時連、千葉県時連、埼玉県時連、栃木県時連、
茨城県時連、群馬県時連、山梨県時連、それに長野県も業務上の連絡関係で傘下の一部に加えてある。東京組合は、昭和二十七年の山岡猪之助理事長時代に到るまでは、関時連の中核的存在として重き立場におかれていたのだが、山岡氏が主張する東京組合としては、関時連の操作上から昭和二十九年の春、湯ヶ原温泉の翆明館で開いた総会当日の議事録における感情上の対立をキッカケにして、以後別れ、東京組合は単独で全時連傘下に所属するということになった。その後は、この東京組合に所属している京橋方面の業者が設立し、関氏がタクトをとっている「中央時計宝飾品商業協同組合」がこの関時連として残り、東京時計組合としての名をなさしめている。
関時連が発祥した概要は、関時連という団体はもともと独立して発足したものでなく、時計業界の中の小売部門を統一するためには、全国的組織が必要であるという観点から戦時中の統制時代に対処した貴重な体験に鑑みて終戦の昭和二十三年、関誠平氏が東京組合の理事長に就任していた頃卒先して全時連なる全国的業者の結成を呼かけたことに始まっている。
全時連結成についての第一回の会合は、昭和二十三年秋、東海道線の愛知県蒲郡の御油田駅前の引馬旅館において、東西業者の初会合が行なわれた。この時の出席メンバーは△東京=関誠平、千葉豊、△大阪=江藤、須藤、△名古屋=恩田茂一の諸氏であり、この時の会合で全時連の結成を申し合せ、翌二十四年五月九日に東京・新富町所在の時計会館において全時連なる団体の発会式が挙行されている。それに基いて、全時連の中核的組織体ともなる東京及関東地区業者団体の統一を計り、協力を求めようと呼びかけたのであるが関誠平氏の努力にもかかわらず、業者側からは案外同調する気配が見られ
なかったのである。
この時代は、まだ小売業者自体の政冶的自覚心が乏しかったのだといえるかも知れない。そのため超えて昭和二十四年五月に結成した全時連設立後の役員陣営には、関時連から選び出すべき常任理事者の登録さえ行えなかった事実に徴してもこの関の状況判断がつくわけである。
それにまた関誠平氏が就任していた東京組合の理事長は、昭和二十五年の役員選挙の際に金山氏にバトンタッチを行っているというようなこの間の情況など織りこまれていただけに、東京組合と関時連との関係の繋がり作りにも一つの欠陥が生じていたともいえる。然し関誠平氏による関時連初代会長の努力によって、兎も角関時連なる団体を生ませることが出来た。そして昭和二十六月、関時連の総会が千葉県の船形に於て開催された結果、関誠平会長に代って金山会長の就任を見るに到ったが、この当時は、この間必要を痛感された物品税の改正運動の機会などを通じて漸次業者側の団体的感動を呼び起すことに努めたので、関時連はいよいよ伸びていくようになったのである。昭和四十一年三月現在の関時連傘下の会員は、三千六百余名で全時運傘下では強大勢力の一つにあげられている。
△関時連の役員事蹟
昭和二十三年、関誠平初代会長時代の役員は、副会長=千葉豊、中山文次郎、
戸村秋朔、監事=中川仁左衛門、浜中正、組合員=二千余名。
昭和二十六年、関誠平会長に代り金山重盛氏が会長に就任、副会長=千葉豊、梶野光
秋、河内録幣、監事=永井万吉、坂本幸吉の諸氏。
この時代に貴金属製品に対する店頭課税、時計類の物品税悪税撤廃の呼びをあげ陳情に努めた。

昭和二十九年 東京組合が関時連から分離
 
八県連に加え中央時計宝飾品協同組合を合わせ当時の勢力は、二千八百余名

《昭和二十九年》 関時連は本部と支部ともに固定的な組織体ではなかった。そのために東京組合の指示方針に追随して活動するように馴らされて来ていた。従って組合活動に関する所要経費の支出面についても、時として東京組合側との意見が折合はないという場合も見られた。時に昭和二十九年の総会が湯ヶ原温泉で開催されたのを契機にして東京組合は関時連から離脱して、以降独立の存在として全時連傘下にその籍を移すことになったのである。
このため同日の席上で再び金山氏を関時連会長に選任をすることになった。この時代の役員名は次の通り、会長金山重盛、副会長=千葉豊、梶野光秋、永井万吉、坂木幸吉、監事=石川哲次郎、本村政吉の諸氏。
但し、東京組合が分離したことにより関時連としてのブロック内容は次の如くになった。神奈川、千葉、埼玉、栃木、茨木、群馬、山梨、長野の八県連に、東京地区は中央時計宝飾品協同組合を合わせ当時の勢力は、二千八百名と推算された。
▲関時連の事蹟=関時連は以上のような段階を経てから毎年の総会を各県持廻りで開催するようになってから、組織部内の平静と親密度が高まり和やかな情景を展開して
いる。事業部では、永年勤続者の表彰、役員に対する在任中の感謝状贈呈、技術講習会の開催、セールスマネージメントの開催、新学期における宣伝売出し等々を毎年の行事とし、この外にも近江神宮奉賛会員として東部漏刻会を設立、関誠平氏が会長に就任以来奉仕している。

関時連と東京時計組合との関係
昭和三十九年の総会で茨城県時連の会沢義二関時連会長の時代に至る

《昭和三十三年》 東京時計組合が離脱したあとの関時連と東京時計組合との関係は、勢い上円滑に運ばれ難いものが見られていた。ところがこの頃、九州ブロックを代表して時たま上示して来ていた九州時連会長の安倍正人氏と金山氏との間にある種の提携があってか、業界騒動の種を作っており、この外にも関時連自体の行政面で芳しがらざる事象が発生したので、傘下各県代表役員の奮起するところとなり、遂に昭和三十三年を期して金山氏は引退せざるを得ない環境に陥った。
従って、このあと関時連の主脳陣営内では、諸事についてまとまりがつき難く、三年間を経過して終ったので、昭和三十六年に到って関誠平顧問が再び登場して関時連の正常化を促がさなければならないという事態に立到ったのである。
そんな関係で、それからまたまた関誠平氏の会長時代が続くことになったのである。昭和三十九年の総会の折、改選を希望されて現会長の茨城県時連会長の会沢義二氏が会長に就任することになり、爾来目覚ましい発展を続けているのが現状である。

▲最近の事業活動=時計と貴金属の販売を通じて共通した業者の希望点は、物品税法の問題である。第一種甲類に属した物品税についての撤廃または免税額の引上げ改正運動であった。この運動は全時連を主体として既に十余年間も続けられて来ていた。ところが昭和三十六年一月十一日の衆議院税制調査会で貴金属に関する免税額をオール一万五千円に引上げる決定を見たのである。そのあとは衆院本会議を通過することにより昭和三十六年四月一日からはそのまま実施することになり、全業界間では満足の意を表している。
この運動奏効のかげには、全時連会長の佐川久一氏と全宝連を代表する大平蔵吉氏、全貴連会長の三富平次郎氏らの努力もあげねばならないが、関時連会長の会沢義二氏が全時連機構の中の物品税担当委員会委員長を任じ、この間に努めた功蹟は真に著大であり、これは関時連としての誇りでもある。
関時連の現勢力は、全会員三千六百余名に達し、現在の役員は次の諸氏が就任している。
△名誉会長=関誠平、△会長=会沢義二、△副会長=渡辺明康(群馬)、村田国雄(神奈川)、鈴木武雄(茨城)、海老原恒吉(埼玉)、小原理一郎(千葉)、河合健治(栃木)、
天野寿太郎(山梨)、田中勘一(長野)、△常任理事=長江宗太郎、武藤丑寿、井上善助、 川名彦壽、大塚緑、村松豁、斎藤徳次郎、阿部藤二郎、松崎勲夫、永井干馬太、△会計=松尾又次郎、谷山栄、△監事=佐藤末悦、北村京治、猿田晴二、△顧問=金山重盛、
△相談役=千葉豊の諸氏。

近江神宮に奉賛会と「東部漏刻会」
関誠平氏が自ら「東部漏刻会」の会長に

《昭和二十四年》 滋賀県大津市錦織町所在の近江神宮は、天智天皇を祭ったもので、時計業界には縁の深い神社である。昭和二十四年に建立されて以来、だんだん神社に参
詣するものの数が増えているという。その近江神宮に奉賛会があり、その奉賛会の中に漏刻会があった。東京では関誠平氏が自ら「東部漏刻会」の会長に任じ、いろいろと奉賛事業を推進している。この東部漏刻会は、昭和二十五年の春頃に設立したもので、当時は関誠平氏の片棒をかついて飛回り、その発会に努めた平并幸之助氏が業界紙社を訪れて協力を求めた当時の事績もあげられている。
以来、この漏刻会は毎年六月十日の時の記念日の祭事と秋の例大祭の日をめがけて、参拝団を募り、近江神宮に詣でる等、敬神の念を厚うしている。東京では、東部漏刻会の総会を、高輪の高輪閣で行うのを例として、高松宮殿下の御来賓を仰いで、厳粛な光景をもたらすのがこの漏刻会の持つ誇りでもあり、特徴とされている。写真は、東部漏刻会の総会スナップ。正面に座っているのが高松宮両殿下。

東京時計小売組合史とその経路
明治十年、横浜港時計商を営んでいた若松冶助氏らが作ったのが始まり
 
《明治十年》 日本において時計が使用されたのはその昔で、歴史は古く発祥経路など詳らかになったものはないが、時計組合という団体が生まれたのは明治十年、横浜港の当時の戸長島豊田豊寛という人の指令より、当時横浜港管内の吉田町で時計商を営んでいた若松冶助氏らが同業者と語らいながら「時計組合」なるものを作ったのがそもそもの始まりらしい。
その事実経過は分かっているが、その後の時計組合という筋書きはどんな経路をたどったのであろうか。この機会に記しておく必要があろう。
明治十年当時、時計組合を作った頃の横浜居留地街には、時計商館では本邦における草分け的存在のハーブランド商会を始め、多くの商館群が存在していた。
そこから時計類を仕入れる時計扱い業者という人たちが三十余名いたようである。若松冶助さんは、その商館に出入りしていた人で、商館で仕入れたものを分け合って商う人などの取扱業者で組合を作ったのが始まりのようである。
その頃の同業者間では、これらの商品取引機関として「開時会」なる名称の商品交換会を毎月定例で開催していた。この組織こそ時計などの商品取引場所の最初であったような気がする。
取引機関である「開時会」が、いうなれば時計の組合としての発祥になるものではないだろうか。当時は、この外に「弘時会」なる名称の交換会も出来ていたという記録があ
る。その開時会の席上で、「横浜で時計組合が出来たのだから、東京でも時計組合を作っては」と提案するものがいたそうだ。

東京時計業組合は明冶二十三年九月の頃できた
同業者間の親睦を図るために時計業者団体がいくつも誕生していた

この提案をキッカケに東京時計業組合がこの時始めて出来ることになった。それは明冶二十三年九月の頃である。
この時の初代頭取(組合長の意)は、小林時計店第二代目の小林伝次郎氏に決り、それから明治二十七年の八月、「東京時計商工業組合」と称号を変えている。
この名称の変更は、時計販売業の外に製造関係者らの総てを包含するための意味ではなかったかと推測される。精工舍は、明治二十四年に大手町で創業している。
この称号変更と同時に、頭取は銀座一丁目にあって時計材料等の輸入商で名の通っていた新井常七氏に変っている。そのあと明治三十四年の頃、服部金太郎氏の頭取時代が生れたのであるが、それから大正十年十一月、服部翁が辞任するまでの約二十年間というものは、そのまま服部金太郎頭取時代が続いた。
服部候が頭取を辞めた大正十年、当時の副頭取であった神田の吉川時計店店主・吉川仙太郎、銀座五丁目の大勝堂店主・椙野辰蔵の二人で、幹事には山崎亀吉、村松市次郎、松田啓太郎、高木清助の諸氏が役員を務め、組合員五十数名で時計組合の船出を切った。
この頃の東京地区には、いくつもの時計業者団体が誕生していた。同業者間の親睦も活発に行われていたようだ。
当時の時計組合。
『本郷時計商友会』
明治三十四年設立、会長=竹内元次郎、副会長=中山孝三郎、幹事=二十名。
『城西時計会』
大正六年、千野善之助氏の提唱により設立されたもの。赤坂、麻布、青山、渋谷地域の時計業者八十名が参集、連合組織を作った。組合長=千野善之助、副組合長=鈴木竜之介。
『神田時計商懇話会』
会長=吉川仙太郎、組合員五十七名。
『小石川時計商組合』(後に東京時計商組合と改称)
組合員七十名、組合長=花沢徳蔵氏が初代、後に伴市五郎氏に代る。
『城北時計商組合』
下谷、浅草地区で立ち上げたもので、吉田庄五郎氏(先代)を組合長に百二十名の組合員を擁し勢力を張っていた。後に野村菊次郎氏に代った頃は本部組合の関係で松井氏が事務的一切の衝に当っていた。
『城南時計睦会(芝)』 
水谷喜代蔵氏が会長となり、七十六名の組合員を擁していた。
『山の手時計商業組合』
四谷、牛込方面の業者を統括しており、百名程度の組合員を有してあり、紺野九次郎氏が組合長で、近藤援三氏が副組合長、会計に四谷の鈴木卯八氏が任じていた強固な団体であった。
『日京時計商組合』
他地区業者団体が合流する時代に、京橋と日本橋の時計を使う業者が提携して日京時計商組合なるものを組織していた。この当時は神田の一部も加わっていた。そのあと東京が一本の組合にまとまってからは銀座方面の業者筋を主体にして作った「十二日会」なる組織が今なお続きている。この十二日会は、業者間の親睦を目的にしたものだけに交換会などを主催し続けていたものである。
以上のように大正十二年頃までは、東京市内に大小の各団体が雑然としていたが、時勢に訴えて大正十三年末の頃、「東京時計業組合連合会」を結成するに至った。理事制をとり、専務理事には新宿三丁目の紺野九次郎氏を推し、常務は花沢徳蔵、垣内亥郎氏で会員は五百余名で新勢力となった。かくて翌大正十四年に至り、小石川組合を除いた他の総てが大同団結を計ることになり、合併総会を日比谷公園の松本楼で開催した。
この時の組合代表は、連合会長に吉川仙太郎、別に檳野辰蔵氏を推し理事十名、監事二名、評議員二十名を選出している。

進歩派の平野峯三氏時代が登壇
野村菊次郎、関誠平、金山重盛、山岡猪之助、木村信男、河内録幣時代に

《昭和二年》 ところがこの頃の時世に鑑みて、業者の中にも進歩説を唱えるものがあり、特に銀座二丁目にあった平野峯三氏は、組合刷新派の第一人者であっただけに同業組合への昇格を強く主唱した。こんなことから銀座の時計を扱う業界人は、「平野峯三氏を組合長にしてもいいではないか」という機運が高まっていた。
昭和二年、上野公園の精養軒で開催した東京時計組合の定時総会において、平野峯三氏が組合長に選任されることになった。その結果、進歩派に同調していた本郷の時金堂主・広瀬孝一、上野広小路の白金堂・荒木豊氏が副組合長に推されて就任、これに理事十四名、監事二名を選出して東京時計組合としては永年の殼を破った新体制時代に入った。
この時代に始めて組合に顧問制が布かれ、服部金太郎、吉川仙太郎の両氏が顧問に推薦された。次いで、昭和四年六月の総会の際にも平野、広瀬、荒木の主脳陣営は崩れず、新たに溝口万吉氏を加えて一歩を進めたという体勢であったが、これは平野氏時代になってから同業組合制への昇格に踏み切った功績が大きく買われた結果であった。
だが平野氏は昭和五年病気のため退くも他界されたので役員陣に変化は生ぜず、そのあとは組合長に広瀬孝一、副組長に、梶山平三郎、古川長三郎の両氏が就任、翌昭和七年には野村菊次郎氏が登場することになったのである。この時代の副組合長は、梶山平三郎、千野善之助、秋本春吉の諸氏が就任、このあと更に森川浅次、川名啓三、後藤安平、山岡猪之助の諸氏が入替っている。昭和二十二年春までの約十五年間というものは、野村菊次郎組長時代が続いていたのであるから、故野村氏の功績は、東京時計組合史の中では、最たるものであるといっていい。
この後は、終戦後の舞台に移り、野村菊次郎組長に代わった関誠平(二十二年)時代を第一陣にして金山重盛(二十五年)、山岡猪之助(二十七年)、木村信男(三十一年)、河内録幣(三十七年)氏の各理事長時代が続いたことになる。今年(四十一年)は、この五月に役員の改選があり河内氏の三選出馬声明に対抗して、漆原副理事長が立候補声明を発して活躍したが、結果は二十対二十六の六票差で河内氏の三選が成った記録がある。



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