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アメリカ映画のワンシーンだ。ある少年のひと夏の物語。金持ちの老人がいる。若いときヨーロッパで稼いだ金だと老人はいう。その夏を2人の老人と暮らした少年はその老人たちに好意を寄せていたが、ある日、老人が銀行ギャングではないかという世間の風聞に流されそうになる。老人は少年の疑いにこう答える。「大事なのは、どちらが正しいかではない。おまえが何を信じるかということだ」。腰をかがめ、少年の瞳の奥を覗き込みながら老人はいう。その夏休み、少年は大きく大切なものを2人の老人から学んだ。真実とは何か?という問いに対する解答が、この老人の言葉の中で手招きしてはいまいか。「大事なのは、どちらが正しいかではなく、あなたが何を信じるかなのだ」。もちろん、どちらが正しいのかを問い、分析することも非常に大事なことだ。ヘミングウェイの生誕100年を記念して出版された日本名「ケニア」という著書の原題は「True of First Light」夜明けの真実、という。ヘミングウェイのいう真実とは何か?アフリカでは曙光の一条に映し出された真実が、昼には偽りに変わる。やがて太陽に焼き焦がされた岩塩の彼方には、美しく縁取られた湖が広がり、この湖ほど尊厳なものはほかにはない。夜明けとともに平原を歩いて行くと、そんなものはどこにもないことを知るのだ。しかし、いま、湖は厳然たる真実として、そこに美しく信ずべきものとして横たわっている。夜明けとともに生まれた「真実」は蜃気楼であり、昼の光とともに偽りとして消滅するというヘミングウェイの「真実」とはいったい何か?大英帝国の植民地主義政策により、禁猟区に追い込まれ生活基盤たる狩猟さえも禁止されたアフリカ原住民たちが失ったものか。彼はそれをヨーロッパの白人たちに居留区に追い込まれ偽りの自由に縛られたインディアンたちと重ね合わせる。偽りの奥に息を潜める新たな真実を彼は追い求める。偽りの奥に新たな真実などあるのか?それとも偽りは、金太郎飴のごとく、切っても切っても、探っても探っても永遠に偽りに過ぎず、あるのは無限の絶望だけなのか?だが、われらはいま、何をもってそれを真実と呼び、何をもってそれを偽りと呼べばいいのか。21世紀を迎えてなお、われらの前に立ちはだかる世界のあらゆる戦争と紛争、国内のあらゆる問題。そのどこを偽りと呼び、どうすればそれは真実となるのか。真実と偽り。希望と絶望。ヘミングウェイのごとく、われらは真実の追究を諦めてはならないのだ。真実はどこにあるのか。われらひとりひとりの真実。日本の真実。世界の真実。そこでわれらは冒頭の老人の言葉を思い出すのだ。「どっちが正しいかではなく、何を信じるかだ」。そして、再び頭を悩ませるのだ。ひとりひとりが「信じるものが真実である」と堂々と叫ぶことができる人格、品格、教養、能力を持ち合わせているだろうか、との疑問の壁にぶつかる。真実と偽り。その判断能力を持ちうるかどうか。それを持たなければならないときがきた。判断基準となるアイデンティティがあるか。ひとりひとりのアイデンティティ。日本のアイデンティティ。アイデンティティがなければ正しい判断はできない。真実の追究などできない。ネット社会が進み、情報の濁流の中でリアルとバーチャルが分別できないまま、時代は激流となって果てを目指す。真実と偽りが絡み合う流れの中で、確固たるアイデンティティという沈まぬボートに乗らなければ、われらはこのまま激流に流されるだけだ。子どもたちが流される。オトナたちも流される。日本が流される。日本には日本固有の武士道というアイデンティティがあった。神道、儒教、仏教を基盤とした道徳というアイデンティティがあった。武士道とか道徳という言葉に抵抗感をもつひともいるが、呼び方はどうでもいい。ひとも国家も真実と偽りを見極めるためには、確固たるアイデンティティは絶対に必要であるのだ。自分を見つめ、自分から直して行こうという謙虚な気持ちで、アイデンティティを確立しなければならないのだ。宝石にも、人間にも、会社にも、国にも、世界にも、今年は「本物」をこそ確立させることを願う。確固たる理念と実績、確固たるアイデンティティに裏打ちされた「真実」をこそ願うのだ。

2007年元旦
    謹んで新年のご挨拶を申し上げます。
    文・高野耕一  イラスト・佐川能智