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エッセイ

■ボトル入れよう、ハトヤマ君。 ■2012年4月17日 火曜日 12時50分8秒

桜の花が、はらはらと風に舞う。渋谷は、爛漫の春である。さて、今宵も天下国家を論じますか、と伊藤さんと桜並木の坂道を下って、いつものガード下社員食堂やまがたに向かう。肩にふりかかる花びらを片手でふりはらいながら、ふらりと坂を下るなんぞ至極贅沢な気分である。
「いやはや、われらのハトヤマ君が、またまたやってくれましたね」。われらの目の前の関心事は、元総理のハトヤマくんと北朝鮮の衛星打ち上げである。普段、酒の席では政治と宗教はあまり語らないが、ハトヤマ君のトンチンカンぶりは、同じぶりでもぶり大根以上の酒の肴となる。トンチンカンとは、鍛冶屋が、調子よくトンテンカントンテンカンと打つのに、どうも調子が狂って、テンといかなきゃいけないところに、チンとくる。トンテンカンが、トンチンカンと聞こえる。トンチンカントンチンカン、つまり、調子っぱずれ、調子が狂うということだ。元総理が「個人で行ったのよ」と言ったときから不安だった。単純に、個人で行ったらあんなえらい連中が会うか?と思った。例によって、お得意のトンチンカンが始まった、と思ったら案の定、最後までトンチンカンを貫いた。
「ボンボンなんだよね」。「実は、いいやつなんじゃないでしょうか」。「大王製紙のボンボン社長、やっこさんもいいやつかもね。友だちにはいいな。金もちだから。やまがたでいっしょに酒を飲むくらいがちょうどいいんだ」。
「そういえば、わたしの前の会社の社長、これが面白い。いい人です。清水というのですが」。「いいねえ、ボンボンの名前だ、ボンボンといえば、ハトヤマか清水か長嶋だ」。
伊藤さんの前の会社、銀座にある交通広告の代理店だが、その社長は、父親が社長時代にアメリカ留学をしていて、帰国して父親の会社に入社した。
「まだ社員の時代ですが、みんなに飲みに行こう飲みに行こうと、誘われるんです。いい人だから断らない。にこにこついて行くんです。そして、ボトル入れろボトル入れろって言われるんです。うれしそうに、にこにこしてボトル入れるんです」。「いいねえ、いやな顔ひとつしないんだ」。しません。それこそ、ここが自分の出番、いまこそ自分の使命と、うきうきしてボトルを入れるんです」。
「それこそ立派なボンボンだ。ボンボンの鏡だ」。
そこで、われらは「ボンボンの定義」について論じる。ボンボンとは、まず、親が金持ちでなくてはいけない。大地主とか、大会社の社長とか、有名スポーツマンや大物芸能人とか、そういう類の親でなくてはいけない。ハトヤマ君のように、「生まれてから一度もお金で困ったことがない」と、さらりと言えるようでなくちゃあだめだ。下落合の染物屋の倅は、逆立ちしてもボンボンにはなれないのだ。次に、ボンボンとは、トンチンカンでなくてはならない。トンチンカンで、いいやつでなくてはならない。宇宙人と評されるくらいのトンチンカンがいい。一茂君も、いいとこ行っているが、ハトヤマ君に比べたら、まだまだ足りない。
「清水社長の息子がまたすごいんです」。伊藤さんが言う。「子どものときから知っていますが、いつも青っ鼻たらしてるって感じです」。「そう、その感じ、青っ鼻、それは重要なことだ」。でも、そうなるとボンボンとは、ある意味天才でなくてはならない。赤塚富士夫の天才バカボンのイメージである。天才バカボンの父親は、金持ちではない。となると、われらがハトヤマ君は、バカボンを超えているわけだ。バカボン超えである。できれば、ハトヤマ君に、やまがたにボトルを入れてもらいたい。そして、政治以外の話をしてみたい。罪のないトンチンカンは好きである。夜になった。風はおだやかだ。桜の花も散り急いではいない。「風はないけど、金もない」。それが、いま、われらのさびしい合言葉となっている。
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■孫子のヘイヘイホー ■2012年3月30日 金曜日 15時7分47秒

やれ、ぐうたらしてるんじゃない、ほれ、畑へ行け、それ、働け、と女房に尻を叩かれる。それがいやでいやで、ふらりと旅に出る。(なんだかわたしのような男で身につまされる)。いろいろな国をぶらぶらと渡り歩いて、この男なにをしていたかというと、土地の人々から話を聞いて情報を集めたり、戦場の跡をつぶさに眺めたり、地形や自然を念入りに調べたりして、書きとめている。そして、そこらへんにごろりとひっくり返って戦略戦術を考える。だが、本人は戦争が大嫌い。戦略戦術を練ることだけが大好き。痩せて、ひょろりと背が高い。家来の少年に注意されて「あ、そうかそうか、ごめん」と謝ったり、貫禄なんてものがまるでない。孫子とは、そんな男だった。
もっとも、孫子は実在しなかった、とも言われている。子とは、先生とか師という意味だから、孫子とは、孫先生という意味で、それは孫武とその末裔の孫濱のことだ、と言う説が有力である。女房に尻を叩かれ、あわてて、そしていつもふらりと旅に出るのは、斉の国の出身である孫武のほうだ。
斉といえば、魚釣りをしながら王の誘いを待ちわびたという逸話の主、かの太公望呂尚の国として名高い。中国、群雄割拠する戦乱の春秋時代、いまから2500年ほど前から伝わり、いまもって貴重な書物として各方面に愛読されている「孫子の兵法」は、孫武とその末裔孫濱の二人の兵法を著した書であり、後に三国志で有名な曹操によって研鑽された、として有名だ。
ところで孫武は、出世欲というものがまったくない。働くことが嫌いで、父から受け継いだ領地を手放して田舎へ引っ込んでしまった。その村の名を孫家屯と言う。一族と使用人に畑をやらせ、自分は暇さえあれば離れの部屋でごろごろひっくり返って戦略を練っている。最初の女房が死に、後妻をもらうが、これがしっかり者、鬼嫁、そして冒頭のように孫武は尻を叩かれ、旅に出る。
この男の13篇から成る兵法は、日本でも天下の戦略武将武田信玄が用い、日露戦争においては東郷平八郎がバルチック艦隊を破った戦法にも使ったと言われている。単なる兵法書にとどまらず、処世術の書、経営の書、政治の書、人間の書とも言われているが、それは、人の心を読み、人の行動を予測し、裏をかき、思うがままに勝利する高度な方法論が説かれているからである。「敵を知り、己を知れば、百戦して危うからず」のことばで知られるが、実は「戦って勝つのではなく、勝ってから戦え」とか「戦わないことが最善である」とか、孔子と同時代の男だけに、理屈が明快なだけでなくどこか哲学的で「孫子の兵法」は読み物としても実に興味深い。当時、敵を打ち破ればその国も財も人もすべていただいてしまう時代なので、なるべく損害を与えずにおくことが重要だった。もちろん、こちらも損害の少ないほうがいい。だから、戦わないで相手を降伏させることが最も善いのである。
13篇の最後の「用間」篇は、スパイ、諜報部員、山本勘助とかジェームス・ボンドの重要性を説いているが、「戦争は人間と人間のやること、だから人間を知れ」と言う。この「人間を知る」というところが面白い。さんざん戦略を構築した上で、人間を知れとくる。「人は、人に始まって、人に帰する」。これほどすぐれた兵法書、処世の書が、孫子の趣味の産物だと思うと、実に皮肉で、面白い。
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■みんな、いいやつ。 ■2012年3月19日 月曜日 11時33分43秒


映像プロデューサーの高橋達也くんは、少林寺拳法の初段である。試合の近づいたある日、あまり稽古に熱を入れない先輩に言った。「先輩、稽古しなくていいんですか?」先輩は答えた。「バカヤロー、熊が稽古するか!?」試合当日、一回戦でころりと負け、すごすごと帰ってきた先輩が言った。「むこうの熊は、稽古しやがった」

友人3人で久しぶりに飲んだ。一軒二軒と行き、かなり酩酊してきたが、「まあもう一軒、タクシーでワンメーターだから」と3人で乗る。すぐ目的の店の前に着き、支払いとなった。友人の和田くんが言った。「760円。よし、割り勘な、一人200円な」すると、運転手が振り返って言った。「だんな、わたしも入ってませんか?」

トキワ松教授の研究室でいつものように酒宴となる。歴史学の教授の話は例によって面白く、書物の山からがさごそと、時代を超え、地域を超え、それはそれはいろいろな品物が次々と出てる。あるとき、ぬっと取り出したのは火縄銃だった。伊藤さんが、思わず叫んだ。「先生、許可証はお持ちですか?」

コピーライターの中島敬一郎氏から聞いた話だ。ある広告代理店の新人営業マンが、寿司チェーン店に飛び込み営業に行き、その報告を課長にすると、課長が言った。「そんな店じゃ、ちらしくらいしかないだろう?」新人営業マンが、胸を張って答えた。「いえ、にぎりもあります」

空手部の後輩である日下部諒くんとは、飲むとえせ哲学話となる。その日も「どっちがえらい話」となった。「経堂駅と千歳船橋駅は、どっちがえらい?」とか「鉛筆と消しゴム、どっちがえらい?」とか「ジャガイモとナス、どっちがえらい?」とか、よくわからない。数軒はしごをして、千歳船橋の駅前でラーメンを食う。「二つに割ったこの割り箸、どっちがえらい?」という話になり、ふとカウンターの向こうの大将に聞いた。「大将、どっちの箸がえらいのかなあ?」しばらく考えた大将、ぽつんと言った。「ラーメンに聞いてください」

沖縄出身、空手道部次呂久秀樹監督の若き日の話だ。渋谷道玄坂を心地よく酔いふらふらと歩いていると、二人の外国人にどんとぶつかった。外国人が血相変えて大声でなにか叫んだ。次呂久監督、にこりと笑って言った。「おぬし、名はなんという」

漫画家はらたいらさんとよく飲んだ。雪の日、窓の外で一人の男が滑って転び、立ち上がって、また転んだ。はらさんがぽつんと言った。「起きなきゃいいのに」

クロスポイントの社員食堂と勝手に決めているガード下の「やまがた」で、後輩のコピーライターと熱燗を飲んでいる。サントリーの「水と生きる」というコピー、あれだけ開き直ってやられると、まあ、キリンやアサヒも手が出ませんね。後輩が言い、そうだ、あれ以上のコピーとなるとなかなかなあ。隣のテーブルで熱燗を手酌で飲んでいたお年寄りがぼそりと一言、「酒と生きる」

経堂で飲んで自転車で帰る途中、警察の尋問にかかった。住所と名前を聞かれた。「わかりません」そう答えると、若い警察官は、「おやっ」という顔をして懐中電灯をこちらに向けた。「すいません、いま、妻に電話して聞いてみます」そう言って、ケータイをかけ、「おい、おれはだれだっけ?」電話は、がちゃんと切れた。それから30分、警察官はわたしを離さなかった。

世田谷のテニス仲間が駅前のカラオケ酒場で待ち合わせをした。クラブでいい加減飲んだあとで、いい気分に酔っている。いちばん遅れてきたのは大村くんだった。「お待たせ」見ると、自転車ごと店の中に入っていた。

友人のアートディレクターの松本隆治氏が、世界的な賞をもらった。みんなが祝った。同じアートディレクターの男が笑いながら近寄り、さらに笑いながら握手を求め、ずっとうれしそうに笑っていた。横にいたコピーライターの友が、耳元で言った。「あいつ、悔しいと笑うんだ」

「正義(まさよし)」という名の友人がいる。飲んだ勢いであるとき聞いた。「正義(せいぎ)って本当にあるのか?」友人が答えた。「おやじに聞いてくれ」
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■島の国、陸の国。 ■2012年3月12日 月曜日 16時28分32秒

孔子の姿は彷彿と浮かぶが、孫子の姿は漠然としている。まだ出会って日が浅いせいもある。「孫子」の主人公は、孫武と孫濱である。だから、孫氏といっても二人いるし、はたして実在の人物であるかどうかも疑わしい。
「論語」の現代訳を著したのは2年前だから、孔子と馴染み深いのは当然のことだ。いま、テーブルのワイングラスの横には、海音寺潮五郎先生の「孫子」が一冊置いてある。さて、孫子との付き合いはこれからだ。海音寺先生はわが大学の先輩にあたるので、気後れはするものの、実に面白い小説だ。孔子もそうだが、孫子は中国春秋の時代、つまり群雄割拠する戦国の世の傑出する偉人である。楚や呉や晋、斉が、隙あらば攻め込んでやろうとぎらぎらした目で四方八方を睨んでいる時代だ。兵法家として高名な孫武は、こうした戦国の世であるから当然戦いの場で大活躍と思っていたが、実はこの男、戦いが大嫌いなのだ。広大な領地を捨てて、孫家屯なる田舎へ引っ込み、一族の者や家人や奴隷に田をまかせっぱなしで、一日中ゴロゴロしている。それならわたしも似たようなものだが、孫武は、ただゴロゴロしていたわけではない。そこがわたしとちがう。
頭の中は戦術が渦を巻いている。兵法を考えることが大好きだ。兵法とは、一種の読心術ともいえる。そういえば聞こえはいいが、いかにして敵を欺くか、裏をかいて勝つか、ということだ。孫武はそればっかり考えているが、田の忙しいときは、かみさんに怒られる。その上、就職して出世しようなんて気はさらさらないのだから、これは怒られるのも当たり前。
「忙しいときは、田の見回りくらいしなさいよ、まったく」と、尻をびしびし叩かれる。再婚したかみさんはしっかり者だ。だから、あまり家にいたくはない。これもわたしと同じだ。ちょろちょろと旅に出て、あちこちの情勢を見聞きして、情報を集めている。読心術には、情報こそ不可欠である。有名な「敵を知り、己を知れば、百戦危うからず」を、身をもって実践研究していた。
「先輩、そういえば中国4000年、いまを除いて平和の時代っていつでしょうか?」テーブルの向こうで赤ワインを飲む次呂久英樹師に尋ねる。「さて、どうだろう?始皇帝の頃はどうだったか?」漢民族は、集合離散を繰り返し、巨大化してゆく民だ。黄河のごとく、長江のごとく、あるときは呑み込み、あるときは吐き出し、そうしながらやがて大海に注ぐ。秦の始皇帝が、初めて中国大陸を統一したが、平和であったかと聞かれれば、わたしたちには知る由もない。
「先輩、中国4000年は、戦いの歴史ともいえるのではないでしょうか?」「もしそうならば、すぐれた兵法が生まれるのは自然の理だな。それは、陸の国であるがゆえの宿命かも知れんな。島の国の日本には想像のできない兵法の深さや妙があるかも知れなんぞ。そういえば、東郷平八郎も孫氏の兵法を抱いて、日本海海戦に勝利したのは有名だ」
そこだ、とわたしは思う。広がろう広がろうとする中国と、まとまろうまとまろうとする日本では、発想のすべてがちがう。価値観がまるでちがう。島の国日本は、スケールよりも緻密、力よりも繊細な情感である。陸の国中国は、比類なきスケールの大きさをもち、歴史という時間さえも世界の頂点にいる。まさに大河である。わたしたちは、多くの知識、多くのものを中国に学んでいるし、アジアの同胞という意識から、同じ感覚をもっているかに誤解しているのかも知れない。戦争とか平和についても、基本概念に誤差があるかも知れない。そしていま、日本の経済戦争の中で、わたしは孫子に学ぼうとしている。孫子のように、戦うのは大嫌いであるが、企業には戦い続け、勝ち残る兵法が必要だと思うからだ。だが、白状すれば道徳を説いた孔子のほうが、わたしは好きである。いずれにしろ、孔子も孫子も信じ崇めた天を信じて日々を送っている。天は、島も陸も区別することはない。
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■男は、とがって、三角で。 ■2012年2月7日 火曜日 16時50分4秒

天王洲アイルからのバスが遅れ、渋谷に着いたのは、トキワ松教授との約束の午後6時を回っていた。小池くんと伊藤さんが先に行ってくれているので安心は安心だが、今日は土門拳の弟子で仏像写真家として高名な藤森武氏を教授に引き合わせることもあって、駆け足で日赤行きのバスに乗り換える。
トキワ松教授は歴史学者である。博物館学の重鎮である。和歌山県出身で、温厚な性格がそのまま丸い穏やかな顔に表れ、これが大学教授かと驚くほど気取りがない。失礼だが、子どものようなそのむき出しの人間性に真っ直ぐな人柄がうかがわれる。学生たちの人気もそこにあるのだろう。わたしの学生時代は、教授は偏屈で近寄りがたいと相場は決まっていたが、トキワ松教授にはそんなイメージは微塵もない。だが、ひとたび歴史学の話になると火がついたように夢中になる。話が面白い。熱中のあまり、次から次へと話題が飛び出てくる。
遅れて研究室の扉を開けると、ちょうど教授と同じ博物館学の下落合准教授も到着し、楽しき研究室の新年の宴が本格的に始まった。「男は、とがって、三角です」。トキワ松教授が焼酎グラスを振り回して言う。研究室の中央にあるテーブルには、日本酒、焼酎、ビールが並び、炙った魚、漬物、練り物、乾き物などのつまみがおもちゃ箱をひっくり返したように広げられている。
トキワ松教授は職業柄、当然のごとく話はうまい。魅きつけられる。ひと口焼酎を飲むたびに、話に翼が生える。ふた口飲むと、話は大空を飛び回る。「男は、とがって、三角です。女は、白くて、丸やかです」。教授がそう言うと、下落合准教授が横で口をとんがらして見せるが、「まあ、そうよね」と、しぶしぶ相槌を打つ。トキワ松教授と下落合准教授の心地よいボケ突っ込みの掛け合いも楽しい。みんなは、思わずテーブルの上に身を乗り出す。
いつでもどこでも、男は、大変なのだ。だから、ついついとんがってしまう。三角にもなってしまう。仕方がないのである。その点、女は見た目も美しい。白く、ふっくらとして、豊かである。中身はそうでもないのだろうが、表向きにはおっとりと見える。穏やかにも見える。「それに、その男女比率がすごいです」。教授は、どんぐりのように目を剥く。「なんと、男1に対し女68です。どうです、ね、すごいでしょう」。
背筋に冷たいものが流れる。男として、男滅亡論につながる目の前の事実に、本能的恐怖を覚える。「わたしはこれをね、果肉のついたまま丸ごと食べるんです」。ふんふんと鼻を鳴らして教授が言う。「え、臭くないですか?」わたしが尋ねる。季節になって道端に落ちているこいつを踏んづけたりすると、独特の強烈な匂いを発し、周囲にすこぶる迷惑をかける。「臭いです。でも、この臭さこそが、こいつの生き残るための強力な防御策です。この匂いのために、恐竜時代からこれまで見事に生き延びてきたのです。それにこの色ですね。葉っぱと同じ色、黄色、金色。葉っぱの陰に隠れて恐竜にはこいつが見えない。これも生き残る防御策です」。
テーブルの中央には、銀杏の実がいくつも転がっている。それぞれが手で銀杏を転がしながら、大勢の女の中から男をさがす。「あった!!」藤森氏が嬌声を上げる。手先を見ると、なるほど、とがって三角、68分の1の哀しき男がつままれている。並べて比べると、たしかに男と女ではまるでカタチも大きさもちがう。男は、小さくて情けない。ひがんで見える。無残なほど貧弱である。下落合准教授が、へへんと得意顔でみんなを見回し、ひとつ威嚇してから日本酒を口に運ぶ。
いつものことながら歴史の扉を開け、さまざまなものを興味深くわれらに提示してくれる教授との時間に、わたしは感動する。学生時代に勉強をしなかったわたしに、神が与えし至宝の時である。その上、授業料なし。トキワ松教授と下落合准教授に深く感謝します。
tagayasu@xpoint-plan.com
■見知らぬあなたにありがとう。 ■2012年1月27日 金曜日 13時55分36秒

正月早々、失策です。4日、クロスポイントの新年顔合せの日、小池番長と伊藤さんとわたしの3人は、渋谷の守護神、金王神社に参拝に行きました。清々しい気分です。神殿の中では、恰幅のいい社長と幹部の方々が宮司のお祓いを受けています。わたしはというと、兄弟、家族と愛犬のために祈り、お世話になった方々のために祈り、東北の復興、日本と世界の平和を祈りました。これで100円のお賽銭はないなと思い、もう100円を追加しました。横の社殿で、昨年けがをした妻のために健康祈願のお守りを買い、息子のためにお金が貯まるお札を買いました。穏やかないい日です。さあ、社員食堂の東横線渋谷駅のガード下「やまがた」でお神酒です。日ごろお世話になっているおばちゃんにも新年の挨拶をし、熱燗を差しつ差されつ、3人で新年の抱負を語ります。話題はやはり伊藤さんの結婚問題です。昨年の社員食堂での話題は、伊藤さんの恋愛問題。新年は話題も成長し、結婚問題に発展しました。小池番長の家庭は、かわいい奥さんとさらにかわいい二人のお子さんと、日々ほどよく仲よく暮らしている様子、だから結婚を薦めても、それなりに説得力があります。問題はわが家です。火宅のわが家の火宅のわたしですから、幸せな家庭づくりの話にまったく説得力がなく、伊藤さんはまるで寄席気分、一生懸命になればなるほどただ面白いだけ、そのうち話しているわたし自身も面白がってしまうのですから、どうやら伊藤さんの結婚の邪魔をしているのはわたしではないかと反省。でも、わたしはブレーキの壊れたトロッコ状態、もう止まりません。いつものことです。明るく、楽しく、気分よく。クロスポイントは、そういう小池番長の性格そのままの会社ですから、深刻になろうとしても、どうしてもなれない。伊藤さん、今年も結婚しないなあ。さて、気分よく帰ろうと渋谷西口からバスに乗ります。すると、「いま、どこですか?」というメール。リンクレコードの楠真由美くんと徳永くん。よし、と走りかけるバスを止め、二人と再び社食へ。おばちゃんに「あんまり飲んじゃだめよ」などと言われます。居酒屋でこの台詞はおかしいでしょう。もうひと騒ぎ。音楽は世界を救うとか、人間は歌がなければ生きてはいけないとか、話題はあっちへよろよろ、こっちへひょろひょろ、話に翼がはえて飛び回る。そして、次の店、はい次の店、と、「あれ、財布がない」と突然わたしは顔面蒼白。でも、酒を飲んでるから蒼白にならない。むしろ、真由美くんと徳永くんが「捜しましょう」と真剣。結局、見つかりません。銀行カード、健康保険証、東京診療センターの診察券、イラコクリニックの診察券、あっちこっちの診察券、ツタヤのポイントカード、フレッシュネスバーガーのポイントカード、モスバーガーのサービス券、1000円床屋キッズの会員カード、居酒屋一休の会員カード、いろいろな領収証、渋谷図書館のカード、とにかく火宅のわたしは流離人ですから、モンゴルの移動の民のごとく全部財布に入っています。お金もなくなった。家にも帰れない。まあ、歩けばいいか。と、真由美くんが「タクシーで帰ってください」と、5000円を貸してくれました。渋谷の夜に舞い降りた女神です。「すぐ警察に届けてくださいね」。なぜか、妻と息子へのお守りは失くさなかった。「あんた、カードを停止しなさい。保険証も悪用されるわよ」。妻は、心配しているのか、バカにしているのか。罵声を浴びつつ翌朝、銀行と警察に行って、ぺこぺこ頭を下げました。通帳と印鑑は無事だったけど、唯一の自分証明の保険証も財布の中。お金が下ろせない。窓口ですがるやら、区役所で保険証の再発行を頼むやら、大騒ぎ。と、ありました。財布、ありました。「渋谷警察です」。いつもならすぐ切りたい相手ですが、このときばかりは神の声。警察の2階の会計課で美人警察官から財布を受け取りました。東横線渋谷駅にあったそうです。届けてくれた方に熱く深く御礼申し上げます。「捨てる神あれば、拾う神ありですね」。伊藤さんが言います。見知らぬ神にありがとう。本当に助かりました。
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■真実へ。 ■2011年12月27日 火曜日 14時5分24秒

お猪口を片手に「イカの沖漬け」をつまみながら、元ジャーナリストの友人が、ヨーロッパで有名なテレビコマーシャルの話をする。「いや、報道とはかくあるべきだと思います」。渋谷ガード下、赤提灯が並んで風に揺れるクロスポイントの社員食堂だ。木枯らしがガード下を吹きぬける。それは、イギリスの新聞のコマーシャルだ。ニュースは、一方から見ただけでは決して真実が見えてこない。いろいろな角度、さまざまな視点から見て、大局を把握しなければ真実に迫ることはできない。そんな内容で3つのストーリーから成り立っている。もちろん、友人も直接見たわけでなく、他の友人から聞いた話だ。「うん、理屈はよくわかる。で、どういう映像?」わたしは先を聞く。「まず、最初のシーンはですね」。友人がいうにはこうだ。ごっつい大型バイクにまたがり、いかにも悪人という感じのひげ面男がゆっくりと通りを走っている。通りの反対側を走るクルマの夫人は、そのバイクの男が自分をつけ狙っているようで、びくびくしながら横目でうかがう。「うん、いわゆるアウトローな、無法者な、ならず者。マーロン・ブランド。古いねえ、わたしも」。「その通りです。太い腕にタトゥーって感じ」。これが、第1のシーン。「ナレーションが入っていますが、実はわたしも又聞きですからうる覚えですが、ひとつの視点はひとつのイメージしか与えない、そんなナレーションです」。友人はちょっと悔しそうに、でもにこりと笑い、空の徳利を掲げて追加を注文する。酒好きのわたしに気を遣い大徳利だ。「第2のシーンは、こうです」。突然バイクの男がスピードを上げた。夫人が見ていると、どんどんスピードを上げて行く。その先には、大事そうにバッグを抱えて歩く老人の姿が見える。案の定、男は老人のバッグを狙っているのだ。はらはらして夫人が見つめるうちに、バイクの男は老人に体当たりをした。「それが、2番目のシーンです」。「なるほどね。やはり、そうきましたか」。やはり悪だったか。ところが、第3のシーンで初めて真実が見えてくる。「実は、歩いている老人の脇のビルの屋上からガラガラと音を立ててブロックが落ちてきたんです、ガラガラと。バイクの男は鳥のように飛び、老人の体を包み込んで守り、壁に押し付けて助けたんです。そのままだったら老人は潰されていたんです。助けたんです、その男が」。わたしは黙った。鳥肌が立った。報道だけではない。物事は、いろいろな視点と角度から見聞きして、全体を見て把握しなければ、真実は見えてこない。人間関係はとくにそうだ。だれかがだれかを陥れようと思えば簡単な時代である。友人や同僚が、悪い風聞を流せばそれに騙される者も出てくる。一方から都合よく見れば、そう見えるのだから嘘ではない。ただ、そこに自分を正当化するために、仲間を裏切る悪意がある。折角総理になっても側近の仲間に足を引っ張られては、もうお手上げである。なぜなら、わたしたちはあのテレビコマーシャルのように、「3方、あるいはいろいろな角度から総理を見る」ほどの余裕もなく、それほどまで苦労し、時間をかけて真実に迫ろうとするイギリスの新聞のようなジャーナリストももはやいない。2011年の反省は、原発の報道に見られる、ある一方からの偏った報道によって生まれてしまった「不信感」「疑心暗鬼」である。真実は、あらゆる角度、すべての視点から見た事実の真摯な分析があって初めて見えてくる。一方から見ただけの事実は、「怖いバイクの男を悪人だと結論づけて」終わってしまう。実は「だれよりもやさしい、いい人間だという真実」は伝わらない。「真実は、だれかの都合であってはならない」のだ。「来年は、ていねいに生きたいですね」。友人がいった。2012年、謹んで新年のお喜びを申し上げます。
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■ことばとこころ。 ■2011年12月8日 木曜日 15時20分10秒

外国からいわせると「日本語はとてもむずかしい」のだそうです。世界では、ドイツ語が覚えやすく、英語がわかりやすいとされています。中国語も深く豊かです。もっともです。そのようにできているのですから。
ドイツ語には、きちんときめ細かな文法が決められています。それを覚えればいいのです。楽です、と谷崎潤一郎はいっています。(わたしはできませんが)。英語は、明解で、語彙が多く、卓越した形容法を駆使して細かい表現ができます。へミングウェイの「老人と海」の原文は実に見事です。(わたしは読めませんが)。だから、英語は、いいたいことがかなり正確に伝わります。中国語は、漢字の多さを見てお分かりのように表記文字が多様で、表意文字も多く、意味が深い。深い分だけ曖昧さはありますが、とても豊かです。
さて、わが日本語です。日本語は、一言でいうとあまりにも曖昧です。それが弱点であり、また長所です。曖昧すぎるから理解の仕方によっては、トンチンカンになる。外国人からいわせると「どう理解してよいのかわからない」のです。「なにを言っているのか分からない」「どちらにもとれる」のです。いわゆる腹芸が多い。「言わなくてもわかるだろ」これが日本語。「ツーといえばカーだろ」これです。相手の想像に委ねる。相手の理解に期待する。外国人どころか、現代の日本人は、いちいち想像なんかしてられるか、になっています。想像し、理解する暇も努力もない。テレビが、映像があるためにあまりに安易なコミュニケーションを展開し、「考えなくてもいいよ時代」を作ってしまった。テレビだけが悪いのではありませんが、相当テレビは悪い。作家三島由紀夫は、テレビ全盛時代が日本をだめにする、と危惧していましたが、まあそれに近い状態になりました。相手のいうことを理解する努力をしないで、わかるものだけわかればいい、面白いことだけ見ればいい、というお気楽安易なコミュニケーションが増えました。
さて、日本語が分かり難いとなれば、いちばん困るのは論文です。世界に論文を発表するには、日本語はまずだめ、曖昧すぎてわからない。そもそも、日本語の書きことばは、「源氏物語」「土佐日記」が始まりで、やまとことばという話ことばをそのまま書きました。そのやまとことばに漢語漢文漢字が入って混じった。やがてたくさんの外来語が流入してきて混じりあった。おかげで「ひらがな・カタカナ・漢字」が同じ一行のなかで表記できる。これが、実は日本語独特の繊細な、滑らかな、深みのある、艶かしい、美しい表現となっているのです。志賀直哉、川端康成、見事な日本語です。でも、むずかしい。なぜなら、表記が複雑な上に、文法がいい加減なのです。曖昧なこころを表現する曖昧なことばが多いあまりに、文法が追いつかないのです。やまとことばという文法無視の口語文が母体で、そこにわいわいと他国のことばが混じったものですから、文法を作る暇も能力もなかった。それではいけない、と教育のために文部省ががんばって文法を作るには作ったが、それほど緻密なものはできない。だからこの際、腹をくくりましょう。グローバル時代、日本語をわかりやすくするよりも、本来曖昧なこころの綾さえも見事に表現する日本語の美しさをしっかりと残し、その上で外国語を使うときはきちんと使えばいい。それだけのこと。日本のことばは、こころの表現です。こころの表現では、世界のどんなことばよりもすぐれています。これを大事にしましょう。ことばが乱れると、こころが乱れ、国が乱れるなどと心配しているのは、わたしだけでしょうか。
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■川獺見立て炙りいたちウグイ刺し網漁。 ■2011年12月8日 木曜日 14時56分44秒

(前号のつづき)
渋谷若木が丘、歴史学者トキワ松教授の研究室だ。鯉やフナのDNAにはなく、なぜウグイのDNAだけに川獺への恐怖が刻みこまれているのか、という話のつづきだ。
四国土佐の四万十川の漁師は、それを利用して、川獺に見立てた炙りいたちでウグイ漁をする。
血糖値を気にする教授は焼酎をお湯で割って飲み、わたしは日本酒を飲んでいる。どちらの酒も、教授が書籍の山を猟師が獲物をさぐるがごとくごそごそ掘り起こして引っ張り出してきたものだ。つまみの柿ピーも書籍山脈から発掘した。
「バングラデシュの川獺漁は、飼いならした川獺で魚を網に追い込む追い込み漁です。水中でくるくる泳ぐ川獺、逃げ惑う魚たち、これは想像するだけでも愉快な漁法だ。得意顔の川獺、慌てふためく魚たちが目に浮かんでくる」。教授が笑う。
「バングラディシュの漁師と四万十川の漁師に文化交流があったのでしょうか。四万十の猟師は、バングラディシュの漁師に漁のこつみたいなものを教わったのでしょうか。ジョン万次郎のように四国に流れ着いたバングラディシュの漁師が伝えたとか」。
「いや、それはわかりません。そうだと面白いのですが、そううまくはいかないでしょうね」。
そこでまた教授はにんまりとして、焼酎を一口飲む。
「川獺は日本にもいます。全国にいます。四万十川にももちろんいましたが、いまはいません。その事実からすれば、四万十川の漁師が、川とともに暮らすうちに学び取った独自の漁法だと考えるほうが正しいでしょう」。
「なるほど。で、話はウグイに戻りますが、ウグイたちにはその恐怖の記憶があると。川獺の恐怖を炙ったいたちで思い出させるという」。
「そうでしょうね」。
「でも、なぜ鯉やフナにはその記憶がないのでしょう」。
「そこは不明です。ただ、ウグイは、鵜が食うという意味で名前がつけられたという説もあるくらいで、群れで泳いでいますから、川獺のかっこうの餌ではあったのでしょうね」。
たしかに川獺は日本全土にもアジアにも棲息していた。四国土佐にもいた。でも、最後の川獺が確認されてからすでに相当の月日が経っている。
わたしが興味をもつのは、全国にいた川獺を、なぜ四万十川の漁師だけが漁に活用したか、にある。全国の漁師にそのチャンスがあったというのに、だ。そして、川獺がいないいま、川獺に見立てて炙りいたちを使うなど、だれがどうして考えたか、である。
また、鯉だってフナだってある時期川獺に追いまくられたと考えれば、なぜ、彼らに恐怖のDNAが残っていないのか、ということだ。まさか、ウグイだけが記憶力がよく、鯉やフナは記憶力が悪いわけではないだろう。
「面白いでしょう。地域文化にはそういう面白いものがたくさんある」。
焼酎をグラスに注ぎながら、教授はにこにこと笑う。時の経つのを忘れて教授は話をすすめる。
「地域文化を大切に守ることが大事でね。それが日本を知ることになりますからね。地域文化は、その地域に根ざす植物と同じで、風、土、水、気候、それらすべての決められた条件のなかで、芽生え、育っていくものです。だから、植物の研究をすればその地域文化が見えてきます。ほら、うちの大学の得意分野に万葉集の研究がある。万葉集を理解する上でも、植物を知れば、より深い理解が生まれます。植物を観察し、風を知り、土を眺め、水に尋ねる。これを大事にしたいですね」。
四国の観光課のホームページをのぞいてみると、冬の時期に「ウグイのいたち漁」の記事が乗っている。教授もこの漁についての論文を書いている。読んでみようと思う。だが、今宵はトキワ松教授との楽しい会話だけに酔いしれよう。大学研究室で酒を飲むのも、わたしにはうれしい経験であるのだから。「わたしの話は、与太話です」。先生はそういって、次に、後ろの書籍の山から火縄銃を持ち出すのだった。
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■川獺見立て炙りいたちウグイ刺し網漁。 ■2011年12月8日 木曜日 14時55分58秒

渋谷若木が丘、歴史学者トキワ松教授の研究室だ。すでに西の空に陽は落ち、隣接する氷川神社の杉木立は深い闇のなかにある。研究室に灯りが灯る。部屋の中央に四角いテーブル、三方は書籍の山である。残る一方に窓があるがその窓さえ潰さんばかりの書籍書籍である。それら書籍の山脈が、いかにも大学教授の研究室といった雰囲気で背筋がほんのりこそばゆい。だが、正気にもどってよく眺めると、なにやら渋谷の古本屋の2階に似ていないでもない。
「酒、なんにする?ビール?日本酒?焼酎?」と、教授が聞く。
大学の研究室で酒を飲むなど、昭和時代の頑なな学者を想像させ、学問だけしっかりやっておけば後はまあいいよね、という無頼な香りがしてうれしくなる。デスクの脇の書籍山脈を、猟師が獲物の巣を探るがごとくがさごそと教授は手探りし、薄紙に包まれた広島の酒「酔心」をつかみあげる。次に横の山脈をごそごそやるとつまみが手に握られている。まるで手品師である。放っておくと書籍の山から白い鳩を取り出すかもしれないと期待するが、それはなかった。
「ところで先生、さっきの四万十川のウグイ漁の話、あれ、面白いですね」。
「そう、その話、それでね、いたちをね」。
教授の話はこうだ。四国土佐、四万十川の寒い季節、漁師はまず川原に木材を積み上げ、焚き火を起こす。身が引き締まる清澄な空気と冷たい流れ、ぱちぱちと音を立てて燃えあがる焚き火。やがて漁師は、どこからかいたちを取り出す。もちろん生きてはいない。敷物のように両手両足を広げたいたちの毛皮だ。それをおもむろに火にかざす。炙るのである。焼いてはいけない。焦がしてもいけない。炙るのである。その加減も漁師のカン、秘伝なのである。やがて、うっすらといたちの匂いが川原に漂う。頃合を見計らって、漁師はざぶざぶと川にはいっていく。竿先にロープで結わえた炙りいたちを手にしている。これでウグイが獲れるのか。単純な疑問を抱く。川なかの岩場には、前もって網が張られている。寒さのため、魚たちがじっと息を潜める岩場である。岩場の周囲に棒を立て、網を張る刺し網漁だ。ざぶざぶと岩場に歩み寄った漁師は、ざんぶと炙りいたちを岩場に突っ込む。さあ、魚たちは泡を食う。餌を食わずに泡を食う。右往左往。どうしたどうした、なにごとだと大騒ぎ。だが、ここで不思議なことが起こる。同居する鯉やフナは、騒ぎはするがパニックは起こさない。恐怖の極に達し、パニックに陥るのはウグイだけである。パニックに陥ったウグイはもうがむしゃらに岩場から飛び出す。そして、待ち受ける刺し網に端からかかる。そういう寸法である。鯉やフナは網にかからない。
「先生、なぜウグイだけがパニックに陥るのでしょうね」。
「そこです。炙ったいたちの姿形なのか匂いなのか、それがウグイの恐怖心をあおる」。
焼酎をぐびりと一口飲み、ピーナッツをカリカリかじりながら、教授は吉本の芸人のごときにっこりとしたり顔を見せる。
「もしや、川獺と勘違いしているのでは」と、わたしは尋ねる。
「まさにその通り。わたしの仮説だが、川獺にたいするウグイの恐怖心です。いたちは、ウグイに川獺を思い出させる。それを漁師たちが利用する。それが、この漁法です」。
鯉やフナにはそのDNAのなかに川獺への恐怖がない。だから、炙ったいたちを目の前に突きつけられても、なんだなんだですむ。好奇心がむずむずと背筋を走る。もうお気づきのことと思うが、ウグイだけがなぜ川獺を恐れるDNAを抱きつづけているのか、という好奇心だ。まさか、ウグイの長老が、若いウグイ連中に「川獺にはよくよく気をつけろ」と注意をしているわけでもあるまい。メダカの学校はあるがウグイの学校はないから、先生が生徒に教えていることもない。
「バングラディシュに川獺を使う漁法があります」と、教授。
「バングラディシュと四万十川の漁師およびウグイとは文化交流があったのでしょうか」。まさか、である。
(さて、話はこれからですが、文字数に限りがありますので、このつづきは次回に)。
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■銀座マツヤ、芸術びより。 ■2011年10月14日 金曜日 15時5分23秒

いくつか台風が過ぎゆき、秋が突然訪れたその日、銀座マツヤがはじけるように笑った。南風がやわらかく吹く明るい朝だ。テラスでコーヒーを飲んでいると、テレビの向こうから青空を吸い込むような笑い声が響いてきた。ふりむくと装飾粘土工芸DECOクレイクラフトアカデミーの主宰「宮井和子」先生が局アナに指導している映像が流れている。主婦から世界的芸術家へ。テレビは、先生をそう紹介している。設立30周年記念の作品展を見るために午後に銀座マツヤに行く予定だったわたしは、その偶然に思わず画面の先生の笑顔に引き込まれる。午後の銀座の空は青く高く、雲ひとつない。新橋からぶらぶら歩く。頬に当たる風が、心地よい冷気をふくんで清々しい。8丁目の博品館の前を通り資生堂前の交差点をのんびりと渡る。大きなダンボール箱をもった中国人が観光バスの周りを大騒ぎしながら闊歩している。ダンボール箱のなかは電気製品だ。日本製の電気製品は中国では評判がよいと聞いているが、なるほどその通りだ。キャノンの高級カメラで銀座のあちこちをパチパチと写している。笑っている。大声でしゃべっている。「中国人は、元気です」。顔なじみの喫茶店の店主がいう。「かつての日本もこうでした」。わたしは店主にいう。元気のいいのはいいことだ。とくに銀座は、にぎわってこそ銀座だ。風に揺れる柳が「この街には国籍なんか関係ないからね」、と耳元でささやく。マツヤに行き、旧式のエレベーターで8階まで上る。受付前は驚くほどの混雑ぶりである。マツヤの床が抜けるのではないか、と本気で心配する。一日5000人が訪れるという作品展。それが6日間。なるほど、百貨店も顎がはずれるほど笑うはずだ。人波にもまれながら妻の姿をさがす。妻は宮井先生の弟子で、わが家のアトリエでクレイクラフトを教えている。受付の脇には贈答の花々が天井まで飾られている。黒柳徹子の飾り花が大きく立ち上がり、徹子の部屋の番組からのランの花が脇に並んでいる。花の山の前で宮井先生は、ファンの方々と記念撮影をしている。入れかわり立ちかわりのみなさんと並んでカメラの前に立つ先生は、太陽のように笑っている。木場の材木屋の次女として生まれたと聞くが、まさに下町の太陽だ。その輝きはいま、世界を照らしている。長く生きていれば、人はだれでも艱難辛苦、ときに修羅さえ味わう。先生でさえそうであろう。だが先生は、それらを笑いの湖底深く沈め、太陽の笑顔を見せる。わたしがカメラを向けるとそれに気がついた先生は、顔が壊れるほどに相好を崩し、歩み寄ってくる。「今朝、テレビで美人をみました。先生でした」。そういうと、先生の顔はもっと壊れてしまった。世界的芸術家となっても気取りを知らず、生まれたまんまである。クレイクラフト技術だけでなく、この飾らない無垢の笑いをこそ世界に広めているのだと思った。弟子たちが学んでいるのは、この幸せの笑顔なのである。部屋をめぐり、見事な作品群を見ているうちに「芸術とは」と、その昔作家の開高健先生が語っていたのを思い出す。「セニョール」。開高先生の言葉はそれから始まる。「芸術とは、魚釣りの疑似餌だ。フライフィッシングの疑似餌よ。川虫に似せて、本物の川虫を超える。一直線で純粋な魚の天然の目を見事にあざむく。本物以上である。似せて創り、本物を超える。これが芸術でなくて、なにが芸術であるか」。そういう。クレイクラフトは、まさにそれである。花を超えた花を作り、町を超えた町を創り、物語を超えた物語を創る。この芸術を世界に広める原動力となったお嬢さんの「宮井友紀子」先生が受付前で美しく笑っている。横にハンサムなオハイオ出身の婚約者がいる。「おはよう、オハイオ」としゃれて握手を求めると「おやじギャグです」と突っ込まれた。気分のよい青年である。「いやはや、たいしたものやで」。こちらも世界的アーチストであるアートディレクターの松本隆治氏が関西弁でいう。「力があるで」。わたしはうなずく。外に出る。その日、銀座は、おだやかながらすこぶる活気のある芸術びよりとなった。
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■三人の「チェ・ジウ」。 ■2011年10月3日 月曜日 16時12分38秒

ユン・ソクホ監督作品「冬のソナタ」は、日本における韓国ドラマブームの火付け役となった。その後、多くの韓国ドラマが日本で放映され、続々と女優が登場することとなったが、なんといっても冬ソナの「チェ・ジウ」は別格である。女性たちは「ヨンさま」と叫ぶが、男たちは心の恋人「チェ・ジウ」に想いを寄せる。ずいぶん昔のような気がするが、小泉純一郎元総理も現役時代に「チェ・ジウ」と対談し「あなたの島、チェジュ島に行ってきました」とシャレのつもりでトンチンカンなことを言い「チェ・ジウ」本人がなんのことやらわからないまま愛想笑いでその場をつくろっていた記憶がある。その「チェ・ジウ」が渋谷にいる。それも、三人も束になっている。目移りがして仕方がない。実は、昨日も会って、キョロキョロ目移りしてきたばかりである。渋谷、東急東横線駅下に「クロスポイント」の社員食堂がある。そこは古くからある居酒屋で、以前、伊藤さんが前の会社の後輩である美しき係長とホッケ定食をつつきながら恋を語った店である。「チェ・ジウ」は、そこにいる。国道246号に沿った細長い店で、紅白の提灯がずらりと軒先に並び、風に吹かれながら一斉に手招きをするものだから、客たちは昼夜関係なくふらふらと吸い込まれる。小池の番長も伊藤さんもわたしも、ふらふらと昼も行って夜も行く。「チェ・ジウ」がいるからではなく、社員食堂だからだ。昼に秋刀魚定食を食べた日は、さすがに夜のメニューは別のものに変える。熱燗と白菜キムチ。冷奴もいいし、イカの沖漬けもうまい。われらは、真夏でも真冬でも熱燗である。「チェ・ジウ」は、昼はいない。4時出勤である。まず、中国福建省の「チェ・ジウ」が熱燗を運んでくる。すらりとした長身である。「熱いから気をつけて」。必ずそう言う。毎回毎回やさしくそう言って、頭を少しかしげて微笑む。番長も伊藤さんもわたしも、ついついその微笑を見たさに「熱燗、もう一本」と追加を頼んでしまう。「熱いから気をつけて」。「ほら言った、ほら言った」。なんともおとな気ないおとなたちである。二人目の「チェ・ジウ」は、ミャンマー出身である。いつも黒っぽい装いで長身を包み、毅然としている。愛想が悪いわけではなく、顔のつくりといい、表情といい、注文のとり方といい、どこか凛々しいのである。「熱いから気をつけて」なんて言わない。ミャンマーが暑いせいか「熱いのなんてなによ」といわんばかりである。番長がお新香を頼んでも、大会社の秘書のように直立不動の姿勢で立ち、社長のスケジュールを能率協会の大型手帳に書き込むように、「お新香、一つ」と伝票に書き込むのである。三人目の「チェ・ジウ」とは、最近出会った。最近まで気づかなかった。奥の厨房にいる。福建省からきている。二人の「チェ・ジウ」ほど長身ではなく、小柄で愛くるしい。いつもかいがいしく動き回っている。厨房の前を通ってトイレに行くときに目が合うと、満面の笑みを浮かべてピョコンと頭を下げる。グレイのTシャツにエプロン姿がなんとも可憐である。おかげで行きたくもないトイレに何回も足を運ぶ男たちもいる。わたしだけか。「このイカの姿焼き、あのこが焼いたんだ」。そう思うだけでもおいしさがちがうのである。だが、われらは幸せだけに浸っていられない。とくに伊藤さんは、この三人の「チェ・ジウ」のことは、美しき係長に内緒にしておかなくてはならない。なんといってもこの社員食堂は、伊藤さんと係長の唯一のデイトの場なのである。そういえば、「チェ・ジウ」の登場以来、伊藤さんは係長を渋谷に招待していない。きっとやましい気持ちがあるからだ。さて、番長と二人でゆっくりと伊藤さんの恋の行方を見ていようか。台風が渋谷の街路樹を倒して過ぎ去り、急に涼しくなった。いよいよ本格的な熱燗の季節。今宵も、「熱いから気をつけて」の声を聞きに行こうか、と三人で話している。
■待ってるひとがいる。 ■2011年9月20日 火曜日 15時31分17秒

司馬遼太郎さんを知ったのは、司馬さんの小説「龍馬がゆく」だった。多くの男たち同様、わたしも坂本龍馬の自由闊達な生き方に心うばわれているひとりだが、なかでも司馬さんの龍馬は、目の前に竜馬がいてこちらに語りかけてくるようで、竜馬と行動をともにして国を動かしているような錯覚さえ覚えたものだ。その司馬さんの「街道をゆく」にのめりこんだのは、つい最近のことだ。司馬さんは「司馬史観」と称される独自の歴史観を展開し、単に学問としての歴史学をこえて生きた歴史をわれらに提示してみせるが、「街道をゆく」は、生きた歴史をご自分の足と手と目と耳と心で再確認する旅だと感じさせる。司馬さんは、大阪外語大でモンゴル語を学び、戦争にかりだされ、帰国後産経新聞の文化部の記者となったが、その心には常に「日本とは?」「日本人とは?」という大命題を抱えていた。その答えを頭ではなく、全細胞でつかもうとしたのが「街道をゆく」であったのではないだろうか。司馬さんは、街道を歩いて、道行くおばあさんに聞いた。道行く子どもに尋ねた。「幸せですか?」「楽しいかい?」と。おばあさんの笑顔に1000年の歴史を司馬さんは見る。無邪気に走りまわる子どもたちに1000年の未来をうかがう。それが司馬さんだと、わたしは勝手に思って尊敬の念を深めている。「街道」とは、国語辞典的にいうと「街と街をつなぐ道」ということになる。そこには人のくらしがぶ厚く集積されている。一分一秒の間断もなく、連綿と生命はつながれている。時は、流れるのではなく積み重なるという。風にさらされ、雨に打たれながら、生命たちは脈々とつながれている。「街道」わきの名もない草花に、道端の石ころに、吹く風に、足元の土に、人々は生命を刻んで生きてゆく。そして、今日も明日も刻みつづける。「街道」には、古き懐かしき町並みが、毅然と生きつづけている。見事な甍や白壁が、旅ゆく者に語りかけてくる。ふと目をあげ佇み、心の耳をすますと、おだやかに、ゆっくりとその声は聞こえてくるのだ。「街道」には、神社仏閣がある。城がある。人々の祈りと願いがあり、戦いがあって、勝者と敗者がある。丘の上の城を見上げれば、さむらいたちの雄たけびと悲痛が訴えかけてくる。「街道」には、山河がある。ひとのくらしのために切り刻まれた山は哀しく、せき止められた河は哀れだが、それもひとのくらしかと思うしかない。ひとは、どこにでもいて、文化を築く。それを感じてみたいと思う。司馬さんのように、感じるために「街道」の旅に出てみたいと思う。母の故郷である信州の山河をゆっくりと眺めてみたい。妻の故郷であるつくばのみなさんとゆっくりと酒を酌み交わしてみたい。そういう年齢になったのか、それとも司馬さんが「それが大事な生き方だよ」とおっしゃっているのかわからないが、わたしは自分の心の原稿用紙に自分なりの「街道物語」を書いてみたいと思う。山口百恵の歌のように、「日本のどこかで、わたしを待ってるひとがいる」。そんな気がしてならないのは、ひとつの季節の終わりだからだろうか。
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■惜春。 ■2011年9月20日 火曜日 15時18分58秒

 青春は、一瞬にして蘇える。街も人も一変した。だが、若木が丘に立ち上る雲は、あのころのままに流れ、氷川神社の木々を揺らす風は、あのころのままに吹いている。50年の歳月を超えて、男たちは渋谷にいる。少年のように笑っている。1合25円の合成酒が1杯600円の酒になり、10円の焼き鳥が300円になったが、心にはあの懐かしい校歌が流れ、下駄のひびきが耳に残っている。
 バンカラという言葉もすでに時代の彼方に消え去った。K學院大學空手道部監督、9代OB次呂久英樹、同期9代、長崎在住の山村彰、同期元武道館事務局長の武道家、青木勝彦。3人はいま、70歳の少年だ。000000
「地方にいるとわからないことだが」。数年ぶりに渋谷に出てきた山村が二人の顔を見て言う。「こんなに部員が少ないとはな」。山村はきょう、次呂久とともに道場に行き、現役部員の稽古を見た。部員は8人しかいない。春には3人しかいなかった。かつて、100人を越える部員を擁し、全日本選手権をも制した強豪K学院空手道部はいま、存亡の危機に瀕している。「時代かな。さびしい限りだ」。ぼそりと言う。
 「だが、あの8人ががんばる。おれにはあと1年しか時間がないが、必ず彼らに悔いのない空手人生を伝える。優勝も狙う。監督としてのおれの役目だ。それが次につながることを願うだけだ」。次呂久が言う。000000000「60年の伝統か」。青木が杯を口に運ぶ。
伝統とはなにか。「紫の魂」と書いて「しこん」と読む。
初代小倉基が創設した空手道部の精神をこめた伝統の言葉だ。そこには、大学の4年間、同じ道場で血と汗を流した男たちの熱烈な思いが綴られている。同じ釜の飯をともに食い、未熟な青春の艱難と辛苦を、ひたすら拳にこめた者同志が知る熱い思いがある。未熟がゆえにもがいた。迷った。迷いを吹き飛ばすために、夢中で突いた。蹴った。空手が正しいか、空手道部にいていいものかどうかさえわからずに、ただがむしゃらになにかを求め、拳にすがった。拳を信じた。若く貴重な4年の歳月を注ぎこんだ。
「鬼の次呂久が、仏になったか」。青木が、お新香をつまんで笑う。「あれは、若気の至りよ」、次呂久が手を振る。沖縄石垣出身の天才空手家はいま、穏やかな笑みを浮かべて世の中を見ている。その涼しい目が後輩を見、己が人生を見ている。
「渋谷は楽しかったな」と、山村が言う。「やんちゃだったな」、青木が言う。「おまえこそ」と、次呂久が受けて返す。「おまえもだよ」、青木が山村に笑って言う。「みんな、やんちゃだったよ。それが若さだ」。青木の言葉を、ぶり大根を運んできた三漁洞の女将が微笑ましく聞いている。
三漁洞は、 クレージーキャッツの石橋エータローの店である。割烹着姿の美人の女将は、エータローの奥さんだ。エータローの父が福田蘭童、その父が天才画家青木茂である。店は釣り好きの欄童にちなんだ名であり、奥の壁には青木茂の直筆の絵が飾ってある。
「日本はどうなる?」「どうなる?ではなく、どうするか、だ」。「日本の精神とはなんだ?」「それを伝えるのが、おれたちの役目だ」。「まず、信頼だ。人を信ずる人間を育て、人に信じられる人間を育てることだ」。「いまのままで、日本は世界に太刀打ちできるか?」「龍馬のような男はいないか?」。「あいつは、金儲けのうまい愚連隊だ」。「勝海舟には思想がない。ありゃ、だめだ」。頭上を走る東横線は、来春、東口に駅を移す。話は尽きない。夜は更ける。雑踏は去らない。「おれは、ぶりは食わない」。青木が達磨のような目を剥いて、頑固に言い張る。「じゃあ、もっと刺身を食えよ」。次呂久が笑う。いい夜だ。渋谷は、あのころのままだ。こいつらは、あのころのままだ。二人を見てそう思う山村もまた、あのころのままだ。
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■原田芳雄さん ■2011年8月2日 火曜日 10時10分55秒

俳優原田芳雄さんが亡くなった。若き日、原田さんの野生の風貌と知性あふれる会話に魅せられ、原田さんが吸っていたタバコ「ミスタースリム」を以後ずっと吸い続けていた。髪を伸ばしてパーマをかけ、サングラスをかけて原田さんを真似て六本木の夜を彷徨った。
日活映画では刃物のように鋭い悪役を演じ、その存在感は主演俳優を食ってしまった。原田さんは悪役をやっても知性があった。男っぽさと知性の共存といえば、全学連の闘士を思い起こさせる。原田さんにはその雰囲気があった。正義の匂いがあった。権力に屈しない魂があった。日の当たる場所に出ない謙虚があった。それは男のテレだ。
石原裕次郎は不良を演じながら、田園調布のお坊ちゃん役もこなした。原田さんにはお坊ちゃん役はこなせない。してはいけない。裕次郎にはいつも演じている見事さがあって、それが最大の魅力だった。だが、原田さんはリアルだ。演じていない。演技以上の演技。人間性が演技を超えた。裕次郎のドリームに対し、原田さんはリアルだ。裕次郎の湘南に対し、原田さんは房総だ。明るい太陽の裕次郎に対し、原田さんは、いまにも嵐になりそうな重く厚い雲だ。そのリアル、その存在感にファンは魅了された。
原田さんにインスパイアされた松田優作もまたわたしの好きな俳優だ。松田優作にも原田さんと同じ匂いがあった。存在感だ。原田さんのテレビドラマもよく見せていただいた。若き原田さんがカメラマン役で、若き麗しき浅丘ルリ子さんとまどろっこしい恋をするドラマがとても好きだった。原田さんが子どもといっしょにいるシーンが印象的だった。乱暴に子どもを愛するシーンには、男が男に伝える美学があった。ドラマの主題歌「黄昏トワイライト」をよく口ずさんだ。
「龍馬暗殺」の原田さんは、他のだれよりも龍馬だった。原田の前に龍馬なし、原田の後に龍馬なし。晩年の原田さんの「火の魚」もすばらしかった。都会を離れて島で暮らす偏屈な作家の役だ。病気で倒れた若い女性編集者のために花束をかかえて見舞いに訪れるシーンは胸に迫った。死にゆく人に生き残る人間が命の話をする。そのもどかしさに、23年前に死んだ弟になにもできなかった自分の姿が重なった。死にゆく人になにもできない人間の非力は、無常の悲しみを悟らせる。
原田さんは、きっと頑固な人だ。人は、強い信念を持つと頑固になる。だが、原田さんは、ただの頑固ではない。人を愛し、人を思うやさしさに「仁」があった。仏教でいう「慈悲」だ。「仁」のある頑固は、美しい頑固であって、ただの頑固とはまるで違う。わたしの友人に花木薫というCMディレクターがいる。飛騨高山の出身で、映像製作会社の社長をしている。数年前、原田さん主演で熊本県の映画をプロデュースした。飛行機嫌いの原田さんにつきあって列車で熊本までいっしょに行った。原田さんに負けず劣らずごつくてやさしい男である。
花木さんは「おれ原田芳雄に似てるんだ」とうれしそうに言う。男たちは、裕次郎にも似たいと思うが、また、原田芳雄にも似たいのだ。原田さんには、そういうところがあった。男たちがあこがれる男の美学があった。作家立原正秋のいう男の美学、武士の美学がまさしくあった。おそらく、女にはわからない性質のものだ。ありがとう原田芳雄さん。またひとつ、わたしの心の星が消えた。来年の春、桜の花は咲く。だが、あなたはもう咲くことはない。それが、悲しい。
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■穂高の真実 ■2011年7月14日 木曜日 13時1分1秒

都会は、人を裏切るずら。山は、けっして人を裏切ったりしないかんな。穂高の案内人の嘉さんが、太陽に焼けたしわくちゃな顔に懐かしい笑みを浮かべて言う。上高地は何年ぶりになるだろう。バス停でバスを降り、見上げると青空を切り裂くように穂高が眼前に迫っている。ここでバスを降りりる客は明らかに二分される。上高地を終着点とする観光客と、上高地をスタート地点として穂高を目指す登山家たちだ。観光客たちは軽装で、パンツスタイルに底の浅いパンプスを履き、数人のグループが大声で笑い合ったり、河童橋あたりで写真を撮ったりしてはしゃいでいる。年配者が多く、女性が多い。
登山家たちは、寡黙である。重いザックを背負い、重装備で、黙々と小梨平を抜け明神から徳沢に向かう。嘉さんは、バスターミナル広場近くの旅館の土産物売り場で待っていてくれた。店の前の縁台に座っていたが、わたしの姿を認めるとうれしそうに立ちあがった。「わざわざすみません」。わたしは帽子を取って頭を下げ、迎えに出てくれた礼を言う。「なに、歩荷もあったしさ、ついでよ、ついで」。そう言う嘉さんの横から、旅館の番頭の清水さんが、「嘉さん、朝からずっとここで待っててさ。お茶を何杯もおかわりしてな。今日はバスが遅い、なんで遅いんだなんて、おらに文句ばかり言ってね。おら、バスの運転手じゃないって言うのによ」と笑い、「でもよく来なすったね。うれしいよ。なんと言ってもおらたちは山の仲間だかんな」と、わたしの手を何度も握る。
若い学生が歩荷の手伝いをしている。わたしが学生時代にやっていたアルバイトである。井上靖が「氷壁」という小説を書いた徳沢園で、わたしは何回かの夏を過ごした。夜、嘉さんに酒を飲みながら山の話を聞き、昼は歩荷を手伝った。だが、わたしは登山家ではない。山に登る苦労を楽しみに変えるほどの根気も勇気もなく、ただ涼しい所で何も考えずに体を動かすことで夏を過ごした。嘉さんはそんなわたしをかわいがってくれた。
「氷壁」は、主人公とその親友の人間の信頼を、切れたザイルを通して問う物語だ。二人をつなぐザイルが切れた。切れるはずのないザイルが切れた。本当に切れてしまったのか。人妻に恋をして悩んでいた親友が、自分でザイルを切って自殺したのか。世間では、主人公が自分の命を救うために、親友が滑落してぶら下がるザイルを切ったのではないか、と言う者もいる。主人公は、親友を守り、人妻を守り、親友の自殺説を徹底して否定する。そんな男ではない、と頑固に守る。
実験では、ザイルは絶対に切れないとの結論だ。残るは、主人公がザイルを切った、という可能性だけだ。自分の立場が極めて不利だ。だが、それでも、彼は親友を守る。わたしは、この魚津恭太という男が好きである。自分が不利となっても、友を守る。けっして言いわけをしない。潔い。確かにザイルは切れ、友は死んだ。真実は、穂高だけが知るのだろうか。わたしは、穂高を見上げながら思う。わたしは、自分が不利になろうが、友を守る男だろうか。また、友は、わが身が不利になろうが、わたしを守る男だろうか、と。けっして言い訳をせずとも、真実はわかるのだ、と魚津恭太のように潔く生きていけるのだろうか。「都会は、人を裏切るずら。山は、けっして人を裏切ったりしないかんな」。明神館を過ぎて梓川沿いの深い山道に入った。穂高が真近に見えるところでリヤカーを止めて、山を見上げて嘉さんが誰にともになく言う。嘉さんの言葉は、穂高の言葉だった。「しばらく山におれや」。そう言ってわたしの顔を見る。「都会に帰らなくてもいいずら。正直者に都会はむかんよ」。穂高に抱かれて、わたしは泣きたくなった。
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■係長に恋をした。 ■2011年7月6日 水曜日 14時52分16秒

陽のあたる坂道を上って、係長はやってきた。春には、ピンクのトンネルとなる桜並木の坂である。渋谷駅西口、国道246号線を越えると、地名も渋谷区桜丘となり、桜通りは特に桜の美しいところである。
係長は、浜松町から伊藤さんに会いにきた。梅雨の晴れ間の猛暑の日だ。二人は、東急線ガード下の山形屋で昼飯を食べ、その後坂を上って番長の事務所に向かう。上野の小学生か中学生が10数人、熱中症で病院に運ばれた日である。午後の陽ざしは肌を射すように熱く、桜の木々がレンガの坂道に深い影を刻んでいる。時折風が吹くと影が揺れる。木漏れ日がちらちらと動く。その影を踏みながら、係長は幸せな気持ちでゆっくりと坂を上る。久しぶりに会う先輩は、むかしと変わらずやさしかった。渋く、そのくせ少年のように笑う表情もむかしのままだ。
先輩とは伊藤さんのことだ。交通媒体を売る広告代理店の営業係長である彼女は、素直な黒い瞳をもっている。ふくよかなそのオーラは、かの山口百恵のような菩薩の雰囲気だ。あとで伊藤さんにそういうと、伊藤さんはにんまりと笑った。まったく否定しなかった。それより、わが意を得たり、とばかりに相好を崩した。どうなの、仕事は?わたしは係長に尋ねる。このご時世ですから、やはりね。係長は軽く眉をひそめるが、すぐ笑顔をとりもどし、でも頑張ります、と答える。伊藤さんが、うまいコーヒーを入れる。二人は、広い窓の見える席に並んで座っている。営業ですからお客さまの頼みはなんでもお応えしたいので、いろいろなお話がきます。いま、吉祥寺に物件を探しています。化粧品のお店です。自分の机でパソコンに向かい、翌日の横浜商店会のプレゼン企画を考えていた番長が、いい不動産屋を紹介しようか、と振り向いた。お願いします。番長が電話をし、すぐに話が進んだ。番長は、販促の企画だけでなく、いろいろと面倒見のいい男で、屋形船の企画なぞ朝飯前である。窓の外の向いのビルの円谷プロでは、スタッフが忙しく動き回っている。暑い陽ざしは一向に衰える気配がない。
時代を反映するような新しい媒体は、なにかないの?わたしは聞く。いま、デジタルサイネージが興味深いですね。電子看板ね。そうです。これからもっと効果的に使われるようになるでしょうね。成功と失敗を繰り返しながら、時代は新しい価値を生んでいく。デジタルサイネージは、大きな可能性をもっている。わたしもそう思うが、新しいものが社会に理解されるには、ある程度の時間が必要である。
われらは、被災地の話をし、思いを馳せる。われらにできることは精一杯やりたいね。係長は、まっすぐに視線を向けて大きくうなずく。被災地のために広告ができること。それを話す。係長の、伊藤さんを見る目が熱い。今日の暑い陽ざしに負けないくらい熱い。伊藤さんの、係長を見返す目が熱い。その夜、番長と伊藤さんとわたしは、246号線近くの富士屋本店に立ち寄る。立ち飲み屋である。伊藤さんは、今年47歳。これまで結婚をしていない。バツいちでもない。きれいな体である。係長とは20歳くらい歳は離れている。愛に年の差はない。番長とわたしが、叫ぶ。鹿児島出身のラストサムライ伊藤さんが、節電で熱い地下の店で笑う。280円の寒梅の熱燗を、番長とわたしの御猪口に注ぎながら、いかにもうれしそうである。渋谷がいま、変わりつつある。もしかしたら、係長と伊藤さんの運命も楽しく変わるかもしれない。係長、また、陽のあたる桜の坂道を上っていらっしゃいね。
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■井上くん恋事件。 ■2011年6月16日 木曜日 16時12分43秒

「あなた、キライです」。初対面の若い娘に突然そういわれたのは井上くんだ。渋谷、ガード脇ののんべえ横丁の飲食処「はな」である。6人で超満員の、いたずら小僧のおもちゃ箱のような店である。この横丁は、そういったおもちゃ箱を寄せ集めたような村だ。だれもが安堵する時代遅れがいきいきといまも息づいている。
「はな」には、驚くほど若く美しいママが3人いる。いうなれば「日替わりママ」である。デニーズのランチのごとく日替わりである。野球のピッチャーと同じで、ママのローテーションだ。だから、店に行って「お、今日はこのママか」というあん梅で、それがまた面白い。ただ、「はな」のママは、ピッチャーのように、先発、中継ぎ、抑え、といった途中交替はない。3人とも先発完投型である。
さて、井上くんの、恋の行方だ。その日、わたしと小池番長、伊藤さん、井上くんの4人は、渋谷の販促会社「クロスポイント」で打ち合わせ後、軽くビールを飲み、ネオンの誘惑に誘われて駅前を風になってふらふらと横丁に向かった。「はな」のオープンの日であり、律儀な鹿児島ラストサムライの伊藤さんは、鹿児島焼酎「伊佐美」の一升瓶を手にぶらさげている。店に着くと先客が席を譲ってくれた。なんせ6人で超満員の店だ。おもちゃ箱だ。われらは、押し寿司のようにぎゅうぎゅうと詰まって座る。一番奥に、銀座にアロマセラピーのサロンをもつ社長がいて、その隣に「井上くん恋事件」の主犯の若い娘がいる。若い娘といっても化粧品メーカーの社長である。その隣が伊藤さん、その横に番長がいて、カウンターに沿ってがくんと曲がって、井上くん、わたしが座る。まあまあ乾杯と全員がグラスを掲げ、ぐぐっと飲んで一息ついたところで、例の娘が「わたし、あなたがキライ」と、井上くんに向かって叫んだ。
二人はまったくの初対面である。いままで会ったことがないのである。その初対面の第一声が、これである。まるで辻斬りである。通り魔である。当の井上くんは、目を見張って絶句する。表を山手線ががたごと通過する。後になって「45年生きてきたけど、初めての経験です」と、井上くんはため息をついたが、その時は、ただただ大きな目をどんぐりにするしかなかった。われらは、想定外のこの鋭いツッコミにどう対応すればいいのかわからず、菅総理のごとく、とりあえずオロオロするしかなかった。これは天災ではなくあきらかに人災だ、なぞとわたしはわけのわからないことを考える。「だって、前に勤めていた会社の上司に似てるんですもの」。彼女はにこにこと無邪気に笑う。われらは、事件解決の糸口を見つけ、貴重な証拠を発見したエルキュール・ポアロのように安堵する。「この井上くんがキライな上司に似ているといっても、それは外見だけでしょう。この男は近江商人のように金もうけはうまいけど、心は清く、性格は潔く、実に気持のいい男です」。年長のわたしはその場を繕いにかかる。「そんなこといって、後で二人だけで違う店で飲んでたら怒りますよ」。第一、ペアできていたアロマ社長に悪いではないか。「ははは、どんどんやってください」と、アロマ社長は応用だ。「でも、仕事はシビアよ」と、娘社長はアロマ社長に矛先を向ける。それを機に、小池番長が新日本プロレスにスカウトされた話や、神奈川県の高校サッカー時代に、ゴールキーパーでありながら、一発で相手ゴールに蹴り込んだ武勇伝など話すが、やはり彼女は井上くんキライ話に戻ってしまう。井上くんが、化粧品の素であるコラーゲンを扱っているということで「ライバルだもん」という意識が働いたのかもしれない。大騒ぎをしてやがて店を出、ガード下のそば屋で井上くんがぽつりといった。「45年間で初めてです」。井上くん恋事件は迷宮入りになる。ラストサムライ伊藤さんもそう思ったに違いない。
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■母の空は、晴れ渡る。 ■2011年6月1日 水曜日 11時43分51秒

母よ、あなたの88年は、幸せだったでしょうか。故郷の空のように晴れ渡っていたでしょうか。山や川のように清々しい生涯でしたでしょうか。長野県下伊那郡座光寺村北市場。あなたの故郷です。りんごや桃の畑、桑畑に囲まれ、はるか遠くにそびえるアルプスの山々を望み、健やかにそよぐ風に包まれて育ったあなた。男ばかりの5人の子どもにあり余る愛情を注ぎ、のびのびと育ててくれたあなた自身は、幸せだったのでしょうか。父が戦争に行ったのはわたしがまだ1歳のときでした。母の故郷に疎開しました。父が帰るまでの3年間、わたしは山々を眺め、水車のある小川でカニや小鮒と過ごしました。ごっとんごっとんという水車の心臓の音を、わたしの耳がまだ覚えています。山からの雪解け水の冷たさを、わたしの手足がまだ覚えています。父が戦争から帰ると、新宿区戸山が原の穴倉のような家に越しました。もと日本陸軍の兵舎でした。広い原っぱの中に、土を盛って作った土手の陰に隠れるように作られた長屋に、たくさんの家族が住んでいました。雨が降ると床まで雨水が上がってきました。夜、土手の外側の共同便所に行くとき、あなたはいつもついてきてくれましたね。外の暗い原っぱでずっと待っていてくれましたね。わたしが小学生の頃、あなたは目を悪くし、黒い色めがねをかけ、杖をつき、父に手を引かれて医者に通いました。土埃の舞う荒れた道を諏訪神社に向かってゆっくりゆっくり歩くあなたの小さな後姿を見て、そのまま目が見えなくなるのではないかと、とても心配でした。怒るととても怖かったですね。夜中に三角山に捨てに行かれましたね。覚えていますか。暗く寒いトウモロコシ畑の道、泣き叫ぶわたしはずるずるあなたに引きずられました。友だちとケンカしたり、近所の鶏の卵を盗んだり、いたずらの度がすぎると、あなたは鬼のように怒りました。力が強かったですね。弟の敬二が生まれたのは、下落合に引っ越してからでした。神田川のすぐそばの消防署の二階でした。引越しのとき、少ない家具を積んだ大八車を押したのを覚えています。父が、シミ抜きの仕事をしながら消防署に勤めていた頃です。二階の窓から火の見櫓に乗り移り、てっぺんまで上がると町中が見えました。機動隊の隊長の家から子犬をもらいました。二匹いて、両方ともかわいく、どっちかを選ぶことができずにいると、あなたは二匹とも飼ってくれましたね。とてもうれしかった。敬二が赤痢になって豊玉病院に入院したとき、あなたは一か月以上のつきっきりの看病でした。あの夏は、さびしい夏でした。三男の信治が生まれたのは、近くの自転車屋さんの二階に移ってからでした。やがて、四男の里志、五男の守男が生まれました。信治が熱いやかんの上に座ってお尻に大火傷をしたときは大変でしたね。痛くて泣き続ける信治を抱きながら、あなたは一晩中あやしていました。お尻の火傷だから、寝かせることができなかったのですね。里志はアトピーがひどく、顔をかきむしらないようにと赤ん坊のときずっと両手にタオルを巻かれていましたね。痛いより痒いほうが辛いのです。大人だって、痒さは我慢できません。おかげで里志は、とても我慢強い子になったと、あなたは言っていましたね。小学校に入学した守男が、2ばかりが並んでいる通信簿を持って帰ると、池にアヒルがいっぱいいるねと、笑っていましたね。いいのよ、勉強なんてできなくても、元気ならいいのよ、そう言ってうれしそうにまた笑いました。故郷の青く澄んだ空のように、清々しい山や川のように、あなたは5人の子どもたちをやさしく包み、分けへだてなく育ててくれました。まもなくあなたの3回忌を迎えます。どんなに雨が降っていても、母さんの日は必ず晴れるんだ。そう言うのは信治です。母よ、あなたの88年は、幸せだったでしょうか。
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■吾輩は漱石である。 ■2011年5月10日 火曜日 13時4分57秒

書店のブックフェアがあると、ベストセラーの中に漱石こと夏目金之助の本が並びます。
「吾輩は猫である」「坊ちゃん」「虞美人草」「道草」「こころ」。1867年1月5日生まれ、大正5年12月9日没。漱石は、明治の時代をまるごと生きた作家です。同じ年に生まれた作家に正岡子規、尾崎紅葉、幸田露伴がいます。しかし、漱石の本だけが店頭に並びます。彼こそが、近代日本の国民的作家であると評価されています。なぜ、漱石だけが現代に生きつづけ、国民的作家と称賛されるのか。
それには、理由が二つあります。まず一つ、彼の思想の根底にある「善」と「美」に触れてみたいと思います。「善」とは、倫理です。「善悪」の「善」で、法であり、社会的約束、常識、要するに社会が認める価値観であり、人間たちが寄ってたかって作った理屈です。「美」とは、感性です。感受性。社会的約束とは反対側にある個人の価値観です。大ざっぱにいえば「好き嫌い」です。他のだれかが押し付けるものではなく、自分が作った、あるいは感じた価値観です。この相克する二つの価値観を漱石は、ヤジロベエのごとくうまく扱うことができました。そこが他の作家たちとは圧倒的にちがいます。漱石の生家である夏目家も養子にいった塩原家も名主でした。名主は、名字帯刀を許され、管理においては武士同様であり、消費においては武士のように抑制を強制されることがない町人でした。漱石は、江戸の武家文化と町人文化の両方の価値観をごく自然に、バランスよく身に付けました。ところが新文学をめざす当時の近代的な作家たちは、古きを否定し、新しきを創造するところから始まっています。江戸の武家社会の価値観の否定こそが新時代の価値観だ、ということです。漱石の「善」と「美」の融合は、他の者にはない創造力でした。
第二の理由は、1900年、漱石がイギリスに留学したところにあります。そこで目にしたのは、すさまじい勢いで発達する「近代」でした。地下鉄が走り、車が走り、産業革命が音を立てて進み、人々は大きな時代の激流に翻弄されています。当然、時代は文学に反映されます。これはいかん。漱石は、感じました。急速に発達する「近代」は、与えるものの大きさと同時に、大きななにかを奪っていく。そういう恐怖を感じました。「漱石、狂う」。二年後、そのニュースが日本に流れました。帰国した漱石は、神経をやられていました。これを正しく見る者は、漱石が「近代」に負けたとは見ません。漱石は、「近代」を突き抜けた、と言います。失った自然をイギリスは必死に取り戻しにかかります。漱石は、猛然と突っ走る日本の「近代化」に恐怖を感じています。多くの作家たちが時代を切り取って書くのにたいし、漱石は「坊ちゃん」のように、一見荒唐無稽とも取れる表現をします。勧善懲悪。そんなこざかしい小さな正義なんかない。多くの作家が言います。
しかし、漱石は流れる川の表層だけを書くような、まやかしの事実現実は書きません。現実の奥にある真実を書いたのです。事実現実は、時代とともに変化します。当然です。川の表層は、雨が降れば変わるのです。干ばつになれば変わるのです。しかし、真実は時代を超えて価値をもちつづけます。川の低流は、変わらないのです。漱石は、「近代」という時代を突き抜けて、川の底流、真実を書いたのです。今日も、渋谷のツタヤには漱石の本が並び、若い人たちが東野圭吾の本を横目に見ながら、漱石の本を手に取ります。決して読みやすい文章ではありません。しかし、なにか魅かれるものを感じます。真実があります。表面の消えゆく事実現実ではなく、過去から未来につづく時代を超える人間の真実が、若い魂に呼応するのです。向田邦子が「わが師」と慕った漱石。それを見逃さない若い感性に驚嘆し、感心しています。
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■仏と畑。 ■2011年5月10日 火曜日 12時56分50秒

じゃがいもは植えたか。ある朝、次呂久英樹先輩から電話をいただきました。まだです。まだ畑を見て、土の話を聞いているだけです。そう答えます。
今日も畑に行きます。わたしに、じゃがいもを植え育てたらどうか、と啓示してくれたのは、徳富蘆花です。熊本の高校を卒業し、同志社大学を中退した蘆花は、平和主義を提唱し「国民新聞」を発行する兄蘇峰のもとで分筆活動に入りました。トルストイに心酔し、彼に会うためにロシアまで行きました。そのトルストイが、別れ際に言ったのです。きみは農業で暮らせないのか。帰国後蘆花は、世田谷の農家を借り、野菜を作りました。晴耕雨読。
蘆花は、自らを美的百姓と称しました。蘆花は、クリスチャンです。わたしはいま、リハビリのために歩いています。寺と畑を歩いています。蘆花はキリストですが、わたしは仏に祈ります。蘆花が言います。耕して書け、と。そこで、じゃがいもです。本来なら、わたしたち夫婦の仲人をしてくれた義兄の宮原茂兄さんに聞けば、じゃがいものなにからなにまで教えてくれます。
茂兄さんは、土浦の隣の殿里の農家に生まれ育ったので、農作物については徳富蘆花以上です。でもいま、体調を崩して病院にいます。元気なら、日本一の師匠になってくれるでしょう。日々、仏に祈り、畑をめぐっていると、ある日妻が、安孫子の水島昭憲兄さんが今日じゃがいも植えたそうよ、と言いました。昭憲兄さんは、妻の姉の洋子姉さんのご主人です。大きな海のような人です。教わりたいな、と思いました。とは言え、安孫子まで行くことができません。渋谷に事務所をもつ番長こと小池くんの仲間の伊藤嘉久くんが、八王子の畑に誘ってくれました。伊藤くんの親せきの方が、畑をもっているのです。お言葉に甘え、いつかつれていってもらおうと思っています。とにかく、畑もないのにじゃがいもは無理なのです。プランターでできないか、と妻に聞くと、そんなにでかいプランターは置き場所がないわよ、と冷静な指摘をされました。駅前でミニトマトやナス、シソの苗木を売っているから、まずそれから始めたらと言います。
友人の長江俊介さんも、家族で野菜を作っています。収穫した野菜を家族で食べていると言います。そう聞くとナスもいいかな、と思いますがやはりじゃがいもにこだわっている自分がいます。じゃがいもと豆類は、農作物の原点という思いがわたしにあるのです。じゃがいもは、わたしの原点さがしなのです。ものを作る。ものを書く。生きる。その原点をわたしはさがしているのでしょう。
日本はいま、大きな転換期を迎えています。日本が、自分さがしをしている。そう思います。
わたしはあと何年生きるのか、それは神のみぞ知るのですが、子どもたちや、その子どもたち、そのまた子どもたちには大切な日本です。3年、5年、10年、20年、もっと時間をかけても、この国をいい国にしなければならない、世界と互角にやっていくためにも、などと大げさなことを考えています。大げさではなく、そうしなければ大人として申し訳ないと思います。
尊敬する次呂久先輩からは、すべて流れのままに、との天の忠告を受けます。その忠告を胸に、蘆花の指導もまたわたしの中で息づいています。高度成長の日本で短距離走者のごとくがむしゃらに走り続け、家族を犠牲にし、忘れてしまっていたなにか大事なもの。それを、仏に問い畑に聞く。それが今後の仕事にどう活きるかわかりません。活かそうと肝に銘じます。自然と人生。仏と畑。じゃがいもから学ぶために今日も畑に向かいます。
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■復興。 ■2011年4月18日 月曜日 11時36分58秒

昭和39年。東京オリンピックの年。学生だったわたしは、新宿のスーパーマーケットでアルバイトをしていました。
そのスーパーマーケットは、日本で初めてのスーパーマーケットです。三越デパートの裏にありました。近くには、武蔵野館という洋画専門の映画館があり、カレーの中村屋があり、大通りには、伊勢丹、紀伊国屋書店、食品のデパート二幸がありました。いまのアルタの所です。マルイはまだありません。
そのスーパーマーケットは、日本中に知られる香具師の大親分の経営でした。任侠の人です。伝説の人でした。その頃はいくつもの事業を展開する事業家でした。水戸の武士の家に生まれたその人は、戦後の焼け野原となった新宿を見て、水戸の家屋敷を売り払い、当時のお金で300万円を作り、東口に街灯を設置したと聞いています。300万円という金額も伝説として聞いているので、確かではありません。
そして、東口にずらりとテントを並べ、人々の日々の暮らしのために、食料品と衣料品を供給しました。日本初のスーパーマーケットは、街灯を設置し、新宿の復興、日本の復興に、自費を投じていち早く動いたこの伝説の人が作ったテントマーケットから始まったのです。
ある日、茶色の着物を着流してふらりとその人はスーパーに現われました。いうなればかつての若い衆という感じの社員が2・3人従っていました。わたしにスーパーのアルバイトを紹介してくれた、その人の義理の弟さんもいました。呉服売り場の主任をやっていた弟さんと、染物職人の父が知り合いでした。もう、親分と呼ぶ人は回りにはいません。みんな、社長と呼んでいました。背の高い痩身、彫刻のような骨格のしっかりした風貌、すでに歳を取っていたためか、かつて鋭かったと思われる目にはやさしい光がありました。大河の流れのような、眩しいほどの存在感。理屈をぬきにした大きな人でした。
わたしは食料品売り場の係りで、重い缶詰の段ボールを肩に担いで階段を駆け下りる途中でした。社長が声をかけました。ごくろうさん。そう聞こえました。それが、伝説の人であることは、すぐにわかりました。戦後、日本を占領した進駐軍の司令官、マッカーサー元帥が、あなたは日本のアル・カポネだ、と敬意をこめて言ったという伝説もあります。なにかの罪で警察に連行されるとき、新宿中の女たちが、警察のジープの前に立ちふさがった、それほどもてた、とも聞いています。
ごくろうさん。その人はそう言って、着流しの袖から大きなサイフを取り出し、一万円を差し出しました。当時、一ヶ月間アルバイトをしても二万円に届かない時代です。戸惑いながら、ありがたくいただきました。手の切れるようなピン札です。学生のわたしにはとんでもない高額です。社長がふらりと歩き始めた後、いただいた一万円がつるりと滑りました。ピン札は、一枚ではなく二枚だったのです。わたしは、社長が間違えたのか、知っていてくれたのか、それがわかりません。でも、結局ありがたくいただきました。
いま、なぜ、わたしはその人を思い出したのでしょう。それは、復興という言葉です。未曽有の震災からの復興に向かう日本。そこには強烈なリーダーシップが絶対に必要です。それがいま、ない。この時期にまだリーダーが、いない。リーダーシップを発揮する男が、いない。いつの間にかリーダーがいなくなった日本。そう思います。諸外国もそう見ているのでしょう。任侠や親分を礼賛しているのではありません。でも、眩しい大河のような、大きなあの人をふと懐かしく思い出します。理屈とシステムを超える強いリーダーシップ。器の大きさ。大自然に立ち向かうには、不可欠の条件です。
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■立ち読みでなく立ち話を。 ■2011年3月31日 木曜日 13時53分53秒

駅前商店街には3軒の書店がある。1軒は息子の同級生の家で、もう1軒は昔からある駅に近い大きな書店である。わたしと仲のよい店主が経営する店は、商店街の中ほどの神社の脇にある小さな、比較的に新しい書店である。 
新しいといっても10年か15年は経っているだろう。店主といつどのように親しくなったのか覚えていないほど古いつきあいである。ウマが合うというか、妙な凝り性のある面白い店主である。だが、普通ならそう簡単に仲よくなるタイプではない。見た目は、春のさわやかな清流とはいかない。むしろ、冬の澱んだ神田川みたいなタイプで、通りすがりにふと立ち寄ろうという雰囲気にはとてもならない。だから、店に客が入っているのを見たことがない。だれかたまには立ち読みでもしていれば、他の客も入りやすいというものだが、そうは問屋がおろさないらしい。
見方によればチベットの高僧のように哲学的で、とっつきにくい店主だ。夜も更けた11時過ぎ、脳梗塞の後遺症のために杖をついて神社にお参りし、通りに出るとその書店の看板に灯りが灯っている。正面のガラス戸越しにのぞくと店主がパソコンをのぞいているので、戸をトントンと叩いてみる。わたしを認めて立ち上がり、戸を開けて出てくる。「どうしたの?」杖をつくわたしを見て聞く。「脳梗塞なんだ。しばらく入院していた」。「えっ、それで?」それでとは、どんな具合なのという意味だ。「左半身がマヒしてる。左手と左足がきかない。あと左目の焦点が合わない。あと」。「まだあるの?」「ときどき気が遠くなる」。「大変だね」。「二度目だからね。次やったら危ないね」。ちょっと病気の話をしてから、わたしは言った。「相変わらず客がいないね。どうなのよ書店は?」店主は苦笑いをして首を横に振る。「だめだね。なんでもネットだもの。活字がなくなるとは思わないが、とにかく売れないね」。「どんな本が売れてるの?」「こんなやつね」。店主が指さしたのは「はなこ」だった。これも特集がいいときだけ多少売れる程度なのだそうだ。
ぴあも売れなくなったという。えっ、一世を風靡ぴあが。そう、ネットだね、やっぱりね。本はどうなるの?まるでわからないね。よくさあ、タレントが書いた本なんか100万部売れたとかいうじゃない。肩書ね。肩書があれば売れるよ。でもうちの店には入ってこないよ。うちの店ってアダルトビデオを置いたからさ、取り次ぎもそういう目でうちを見てるしね。以前、新大久保に行ったとき韓流タレントの本やビデオが売れてたよ。それも入ってこないね。店の入り口にはアダルトビデオのポスターが数枚貼ってある。きれいでかわいい子が微笑んでいる。アダルトって感じの子じゃないだろ。きれいだろ。いまはアダルトの子ってみんなきれいよ。でも、彼女たちはいまのうちだけだからね。すぐに賞味期限切れになる。うまく転身する子はいいけど、あとはどうなるのかね。マンガで教育的な本て売れたりするよね。マンガはいいよ。マンガは作り方次第でまだ可能性はあるね。
わたしのポケットには夏目漱石の「彼岸過迄」が入っている。こんな本はどうなるんだろう?わたしは聞く。こういう本を売りたいよね。本は人格を作り育てるからね。母親の力が大きいね。でも、夏目を読む母親もいないんだろうね。情報時代というが、確かな情報や教育は活字に限る、という日がくるのだろうか。活字とネットの共存を一日も早く実現したいものだ。
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■遠くから呼ぶ声。 ■2011年3月15日 火曜日 10時9分18秒

深山、幽谷の森、立ちこめる乳白の霧の奥からだれかが呼ぶ声が聞こえる。たしかにわたしの耳に聞こえる。動物の鳴き声ではない。人の声。あたりの岩や木や谷に響きながら風に溶けてしまいそうな、山か森がしゃべっているような声であるが、人の声だ。大きく、小さく、遠く、近く、男の声か女の声か判別できない。若い声か年寄りの声か、それもわからない。糸を引くように。強く、弱く。それはわたしの名前を呼んでいるのかどうかもわからない。わたしにむかって呼びかけていることはなんとなくわかる。どこかで聞いた声だ。頭の隅であれこれ思うが考える力が湧いてこない。やがて、それがわたしの名前だとわかるまでに時間がかかり、あ、わたしの名前だ、そうだ、聞いたことのある名前、それはわたしの名前だ。はい、はい、返事をしなければならない。はい、でも、声が出ない。はい、はい、声が出ていないらしい。声って、どうやって出すんだっけ。わたしを呼ぶ声は、一人ではない。声が遠くなった。眠くなる。もう返事をしなくてもいいか。別に用事はない。眠い。呼ぶ声が森の奥に遠のいていく。森の木々を静かに揺らす心地よい風を感じる。全身に温もりを感じる。木の葉の隙間から眩しい光が射しこんで、体がふわふわと浮きあがる。両側をエンジェルが支えるハンモックに揺られるような心地よさ。夢かな。あんちゃん、森の奥から声。その声はわかった。弟の敬二だ。あんちゃん、あんちゃん、赤痢になってごめんよ。そうか、敬二が赤痢になったから湘南の海に行けなかったな。うん、母ちゃんが弟のために豊玉病院に付き添ったから、湘南に行けなかったが、絵日記には行ったことにしておいた。敬二は子どもたちのためにパン屋になりたくて近畿日本ツーリストを辞めてパン作りの修行に出た。38歳で死んだ。森の奥から敬二が呼ぶ。あんちゃん、パン焼きたいな。寒い日にバス停でバスを待ちながら寝てしまうと、いつも森の奥から声が聞こえてくる。敬二、よしパンを焼くの手伝ってやる。おれはいま渋谷西口バス停で深夜バスを待っているんだが、もう寒さを感じなくなった。ポケットの300円のウイスキーのポケット瓶のおかげで、ちょこっと寝ていくよ。うとうととするとまた森の奥から声が聞こえてくる。意識が遠のくと、どこからか聞こえてくる心地よい声。遠く、近く、今宵はだれだ。星が見える。セルリアンタワーの灯が滲む、コカコーラの看板、不動産屋さんの看板。星が言う。こういち。こういち。母だ。母がわたしを呼ぶ。母はわたしに詫びようとする。わたしが1歳で父は中国戦線へ持っていかれた。母の実家の長野県飯田市に疎開した。わたしは、1歳から4歳を一人で暮らした。父が帰るとわたしの下に4人の男の子ができ、わたしは高校大学と合宿暮らし。母との記憶はない。バス停で寝たせいか頭が割れるように痛んだ。左手左足がもう動かない。脳梗塞の疑いで救急車に運ばれた病院で、ずっと母の声が聞こえていた。こういち、こういち。ごめんよ。弟の声が聞こえ、それが3番目の弟の信治の声になり、息子の声になり、妻の声になった。みんなの声が近くに聞こえ、命が切実に迫ってきた。脳梗塞は二度目である。血管の微妙な生きざまを持ち主のわたしもコントロールできなのだ。でも、いま、とてもやりたい仕事がある。若い美しいお嬢さんたちと、必ず成功すると約束した仕事がある。弟よ、母よ、しばらく声をかけるな。
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■ご飯と味噌汁。 ■2011年3月15日 火曜日 10時8分33秒

うまい米が増えたせいかご飯がおいしい。若いころは丼いっぱいのご飯をかき込んだものだが、いまは小さい茶碗がいい。駅前の瀬戸物屋で篭に山積みして売られている安い白い100円の笠間焼がいい。薄い茶碗で、よそったご飯のあたたかさが手に伝わってくるのがいい。ラップに包んでチンするご飯には、どうもなじめない。茶碗の中で縮こまったご飯のラップをはがしていると自分が豚になったようで悲しい。餌だと思えてくる。おかずたちもラップを被ってテーブルに並ぶと、いっそのことそのまま食べられるラップを開発してくれと叫びたくなる。炊きたての熱いご飯を、おにぎりにするのもいい。味噌のおにぎりもおいしいが、塩のほうが味噌よりにぎりやすい。とくににぎったあとの問題は大きい。塩も味噌もにぎったあと手を洗う。それは同じだ。でも、塩は見た目に色がない。だから余分な量が見えないため、もったいないとはそれほど思わない。だが、味噌は、残った量が目に見える。もったいないという意識が塩よりも強い。そこで、思わず手についた味噌を舐めたりする。塩は舐めない。この差が大きい。気分である。おにぎりは塩のほうが楽なのだ。おにぎりでは、この楽という価値がきわめて大きい。おにぎりは、楽でなければならない。楽こそおにぎりの味である。味噌汁は、具にこだわらない。味噌の味が好きである。味噌は、素朴であたたかい味がする。おふくろの味、ぬくもりの味とでもいおうか。いろいろ加工を施した味噌ではなく、スーパーで売られているごくごく普通の味噌がいい。出汁のうまい具はうれしい。素朴な味噌に、素朴な具がいい。具についていえば、なんと言っても豆腐がいちばんだ。豆腐の、自己主張を捨て謙虚をきわめた味は絶妙である。口当たりで言えば、綿ごし豆腐のほうが荒々しくて好きだが、赤出しには滑らかな絹ごし豆腐のほうがいい。気分である。味噌も豆腐も同じ大豆から生まれるが、発酵熟成させて追い求めた味噌の味と、削って削いで解脱した豆腐の味は、大豆の両極でともに見事な味である。うまい味噌と豆腐の呼吸が合う味噌汁は、湯気にほのかな畑の陽ざしのぬくもりを感じて、ひときわうれしい。豆腐はまた、あの眩しい白さが実にいい。味噌の赤茶色の中に浮かぶ白さがいい。素朴、純粋の白である。目にうまい。豆腐で白以外の色は考えにくい。豆腐は、なによりも付き合いが長いのでホッとする。母は毎日味噌汁を作ったが、やはり豆腐が中心だった。通りの反対側に豆腐店があったし、夕方にはラッパを吹きながら豆腐屋が自転車でやってきた。母は、ブリキの鍋を片手に割烹着すがたでカタカタと下駄の音を立てて豆腐を買いに走った。母の下駄のカタカタが聞こえると、やがて家中に夕餉の香りが漂い、子どもたちはホッとするのだ。味噌汁の具は、油揚げもいい。細かく切った油揚げは、おいしいというより、その細かい切り方に感心する。考えてみれば、さして難しいことではないが、細かく切るという感性に感動した。きつねうどんは、なぜ油揚げを大きいまま入れているのだろうと考えてみる。あれは、きつねうどんとしてきちんと自分の存在を明らかにし、かけうどんより高い値段をつけるためだ。油揚げを細かく刻みすぎるとネギと同じ価値となり、無料になる。それを恐れてきつねうどんは、油揚げは細かく刻まないのである。味とは無関係だ。ではなぜ、味噌汁の油揚げは、大きいまま味噌汁に入れず、細かく刻んで入れるのか。大きいまま入れると、いかにも手を抜いていると見られるので、それを母たちは気にしたのである。大きさは味にも影響する。大きい油揚げは汁を余分に吸い込み、味が濃くなる。油揚げからにじみ出るかすかな油の香りが鼻先をかすめると、豆腐とはちがう期待感が湧きあがってうれしい。味噌汁をひと口すすり、目を閉じ、花が咲くように広がる味わいを楽しむのは、贅沢である。
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■明日を創る20人の仲間。 ■2011年2月1日 火曜日 13時18分32秒

教授がいないね、ぼくが言い、遅れてくるそうです、最前列のウーパールーパーくんが答える。よし、教授がくる前にパッパッと勉強して、きたらお疲れさまって解散しちゃうか。左の席のフランシスコ・ザビエルさんが、にっこりと笑う。渋谷。道玄坂。20人の仲間が、明日の価値を創るために集まっている。イベントプロデューサー育成講座。それが教室の名前だ。ジェット企画という、空を飛びそうな名前の会社のイベントプロデューサーの美人の友人に頼まれて、ぼくは彼らと出会った。
目の前に20のすてきな頭脳がある。彼らと、イベントのこと、広告のことを勉強する。先生はぼくだけではない。大村先生は、教材を基にプロジェクターを駆使して、理路整然と授業をなさる。羽深先生は、豊富な知識と経験で、きちんと生徒の心に訴える。さて、ぼくはというと、みんなと遊んでいる。ぼくには教材はない。教室だってなくてもいいけれど、いまは寒いから風避けにはあったほうがいい。頭脳はどこでも鍛えられる。それに、他の先生の授業と同じことをしてもつまらないから、ぼくは、「アイディアの創り方」というよくわからないテーマを掲げた。アイディアってなんだ?とか、アイディアを生む頭脳はどうなっているんだ?とか、わけのわからないことをみんなと勉強している。わからないから勉強するんだ、と余計わからないことを言っているから、むしろ生徒のほうが優秀だ。先週は、ハーバード大学のサンデル教授のまねをして、正義(ジャスティス)について、大騒ぎをした。みんな目がぎらぎらして、やる気十分だ。教祖は、サンデル教授の番組を結構見ているらしく、もしかしたらジャスティスについてはぼくよりいい授業をしたのではないかと思う。教祖というのは、ぼくが呼んでいるだけだが、道玄坂ですれちがっても、思わず手を合せたくなる風貌は、あれはただものではない。若き、麗しき女性も数人いて、明るく熱心に勉強している。女性の繊細さって、イベントプロデュースには欠かせないものがある、と雰囲気でわかる。ぼくは、やがてどこかで彼らといっしょに実際にイベントプロデュースをやってみたいと、ふと思った。3月に「渋谷がメディア」という授業があるから、そのときは、真剣にすてきなイベントをみんなで考えようと思っている。若者の街、渋谷を夢の発信地にしてやろうと思う。子どもにも楽しいイベント。いや、高齢者だって好きになる渋谷にしてやる。彼らといっしょならできそうな気がする。夢のある企画はできる。なぜなら、企画をする彼らに夢があるからだ。ビジネスは、ビジネスを超越したところに成功がある。人の才能は、夢によって大きく花開くものだ。こんなことを言うから、わけのわからない授業になるのかなあ。そうだ、このエッセイをご覧の社長さん、宣伝担当の方、20のすばらしき頭脳を寄せ集め、渋谷をメディアにして楽しいイベントプランを創りますよ。もちろん、ギャラは不要です。だって、お勉強ですもの。詳しくは、ジェット企画の篠塚プロデューサーまでご連絡を。でも、彼女、プロだからギャラなしはダメかなあ。
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■山と川のある町@ ■2011年1月19日 水曜日 16時28分17秒

調布インターから中央道に入り、八王子ジャンクションから圏央道に入る。あきる野インターで降り、滝山街道を少し走り、油平を左折して五日市街道を走ると、あっという間に武蔵五日市駅前に出た。朝10時に世田谷を出て11時過ぎには、山と川のある美しい町についた。手を伸ばせば届きそうな辺りの里山たちはすでに紅葉も終わり、葉を落とした木々が澄んだ空気の中でそっと息をひそめている。スギやマツやシイの常緑樹林は、陽ざしを浴びて光る淡い緑色から、陰となる緑色へ、さらに暗い陰の限りなく黒に近い濃緑色へと、見事な階調を見せる。その緑色の階調に、葉を落とした落葉樹たちの肌の赤味がかった色が織りなす山々の繊細な色合いは、屏風に描かれた一幅の墨絵を想わせる。都会のコンクリートに疲れたわたしの目に、山々がそっとやさしく、謙虚な気遣いをしてくれているのだ。昨日までの雨が嘘のように空は高く広く晴れ渡り、雲ひとつない。すっかり丸みを帯びた陽ざしが、とてもやさしい。深い秋に包まれた山々にも、ひたすら美しく流れる秋川の清流にも、重ねた時間の中で穏やかな情緒を積み上げる町並みにも、その豊かな自然や町並みを楽しむハイカーたちにも、そして都会からささやかな逃亡を企てるわたしにも、久しぶりに晴れ上がった秋の日の午前の陽ざしは、母のぬくもりのように、まぶしくあたたかく、ありがたい。町並みを眺めながら、地元在住の草木染めの工芸家金子利代さんご夫妻と待ち合わせている「ギャラリーネオエポック」に向かう。金子さんは、妻の従姉にあたる。いまでも新宿の大学で若い人たちに草木染めを教えながら、地元五日市の文化を守り育てている。文化を育てるということは、人の心を育てるということだ。とてもひとりでできるものではない。頑張る仲間たちがいる。多くの仲間たちと町の責任者のみなさんの協力がなければ、文化は守れない。人の心を育てることはできない。人が町をつくり、町が人をつくる。そして、人が人をつくる。都会に住むわたしたちは、文化も人の心も置き去りにして暮らしている。それではいけないと思っていても、だれもかれもが心を置き去りにして生きている。この山、この川、この空、この風、そこに生きる命、住む人々のあたたかさ。そういったものより経済を優先させる社会に押し流されてしまっている。大いに反省する。ギャラリーネオエポックは、五日市の町を少し走り、黒茶屋の大きな看板のある子生神社の信号を左折し、秋川にかかる沢戸橋を渡り、秋川の支流の盆堀川にかかる新久保川原橋を渡って盆堀林道を入った里山の中にある。林道の向いにある地中海料理「メリダ」と民宿「モモンガ」のオーナーでもある泉先生とお会いするのは1年ぶりだ。古武道の直系者であり、フランス国家に認められた美術鑑定士の泉先生は、世界の味に精通する料理名人でもある。先生手づくりのギャラリーには、多くの民芸家の作品と並んで、先生のコレクションが展示されている。ギリシャの紀元前後の美術品があり、アフリカの古い歴史の品々、絵画、装飾品がところ狭しと並ぶ。壁にかかっている絵を眺め、ふと脇のカードの金額に目をやる。0の数を数える。イチ、ジュウ、ヒャク、セン、マン、ジュウマン、ヒャクマン、センマン、イチオク、先生、大変です、この絵、5億円です。そうですよ。間違いではない。モモンガの飛び交う山の中に、何の造作もなく5億円の絵を飾り、人々にどうぞと気軽に見せるなんて、とても常人にできる芸当ではない。持って逃げる人がいませんか? そう聞くと先生は大きく笑った。間もなく金子さんご夫婦が車で到着し、「メリダ」で昼食をとることにする。窓から山々を望め、眼下の清流の瀬音を聞きながら、泉先生ご自慢のオニオンスープを味わい、ギリシャの山羊の乳からつくった塩味と酸味のきいた絶妙の味のチーズ入りサラダを食べ、これまた大皿のアンダルシア風のパエリァに舌づつみを打つ。十分満腹となる。外の、身の引き締まる澄んだ空気に比べ、暖炉の燃える部屋は、微笑ましいほどあたたかい。穏やかでやさしい時間に包まれ、泉先生の奥さまのコーヒーを飲む。金子さんのご主人がコーヒーカップを持ち、ゆっくりと笑っている。山と川のある町で、金子さんの仲間たちに会い、文化と自然を楽しみたいと思う。わたしの小さな旅は、新年へと続きます。
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■トイレ作家。 ■2010年12月22日 水曜日 15時35分40秒

作家の野坂昭如さんは、銀座に5軒の緊急用の酒場をもち、昼間から開けておいてもらったという。わたしはというと、いま、銀座に5カ所、緊急用のトイレをもっている。そういう年齢である。さて、そのトイレにはいるときである。5分以上長居をさせていただく際、どうも手持無沙汰で間が持てない。ケータイ電話で話したり、メールをチェックしたり、打ったりしたが、これはどうみても相手に申し訳ない。相手にはこちらが見えないし、結構ゆっくりていねいにお話できるのだが、やはり申し訳ない。デスクに向かって真剣に仕事をしている相手にたいし、いくら見えないとはいえ、尻を出しているのはやはり失礼だ。ある友人にそのことを話したら、面白い、今度相手が昼飯のときやってみる、と言っていた。トイレでのケータイは一切やめた。メールもメールチェックもやめたら、なんとも間抜けな時間となった。みんなはなにを考えるのだろうかと、ア行からワ行まで順番に友人の顔を赤くして力む姿を思い出してみたが、それほど面白くないのでやめた。ふと思いつくと、わが家では、トイレで読む本、風呂で読む本、リビングで読む本、夜中に読む本、休日にテラスで読む本、公園で読む本、就寝前に読む本と、場所と時間によって本が仕分けされている。となると、そうだ、トイレで読む本を持って歩けば悩みは一気に解決する。銀座のトイレで読む本を決めれば、ケータイを使わなくてもすむ。それで間が持つ。うまい考えにわれながらニンマリする。さて、そこで銀座のトイレにふさわしい本はどれだ。ストーリー重視ではなく、文体の問題かもしれない。では、作家はだれだ。何人かの作家をテストさせていただいた。決まりました。片岡義男さんとつかこうへいさん。もともとバスの中で読んでいた片岡義男さんの、あの爽やかな文体は実に便通に効果があることが判明した。つかさんのテンポのよさも効果がある。山本周五郎さん、池波正太郎さんは、どうも中途半端だ。夏目漱石、ヘミングウェイ、スタインベック、アーサーミラーは、出かかったものが引っ込みそうで、これはいけない。大失敗だった。ミステリーも好きで、アガサ・クリスティはまだいいが、コナン・ドイルと松本清張はダメだ。東野圭吾はまあいいが、やはり片岡義男には勝てない。ちなみに、そういうトイレ作家を持つということは他の人にもあるのだろうか、と興味がわいたが簡単に聞ける話題ではない。なあ、あなたどう? と一番身近な妻に聞いてみたいが、潔癖を絵に描いて額にいれたような妻のこと、口元に不敵な笑みを浮かべ、黙って離婚届けを差し出すだろう。無敵のトイレ作家片岡義男さんを渋谷のトイレで試してみたが、ここでも驚くべき効果を発揮した。最近では、書店で片岡さんの本を見かけただけで、便意をもよおすようになった。先週、片岡さんの本を2冊失くした。でも、さすがに銀座のトイレに探しにいく気にはならない。風呂での最適本はヘミングウェイだったが、風呂で寝る癖があり、100回以上読んでいる「老人と海」は気がつかないうちに本の下半分が湯につかり、たっぷり湯を吸い込み、上半分の倍の厚さになったため、風呂用の新しい本を探さなければならない。やはり風呂には、「月刊アクアラング」とか「週刊潜水ジャーナル」とかの雑誌がいいのかなとも思っている。適材適所ならぬ、適本適所、適作家適所である。年の締めくくりにトイレの話になってしまった。申し訳ありません。でも、こんな場所にはこの作家がいい、とお気づきのものがおありでしたぜひお教えください。とりあえず、お正月に雑煮を食べながら読む本は、なにがいいでしょうか? どの作家がいいでしょうか?
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■タマゾン川? ■2010年12月22日 水曜日 15時34分9秒

息子が小学生の頃、多摩川はわが家の貴重な遊び場であり、教育の場だった。お金のないぼくら家族は、息子を自然の中に放つことが遊びであると同時になによりもいい学校となった。お金が少しでもあると読売ランドに連れて行った。オオベソオームガイを見て、息子は目を見張った。多摩川ではよく鯉を釣った。近所の子どもたちもいっしょに行った。妻が自動車免許を取ると、オンボロのクラウンに近所の子どもたちを6・7人詰め込んで出かけた。世田谷通りを走り、交番があると小さな子どもたちはもっと小さくなって座席の陰に隠れた。和泉多摩川の堤防上の大きな水溜まりが子どもたちの釣り場だった。近くの路上に一日中駐車して置いても駐車違反にはならなかった。ありがとう警察。日本もルーズで豊かだった。実に幸せな、平和な日々だった。妻が、駅近くでパンを買い、コロッケを買ってはさみ、コロッケパンをつくってみんなに配った。濃いソースがパンに染み込み、パンとソースがからんだ味はみんなを感動させた。こんなにおいしい食べ物は世界中どこをさがしてもない、とみんな思った。多摩川の水は汚かったが、子どもたちの目はきれいで、きらきら輝いていた。いま、多摩川の水はきれいになり、子どもたちはオトナになった。鯉釣りにも行かなくなった。先日、銀座の天狗という居酒屋で仲間とビールを飲んだ。「多摩川はもう多摩川ではありません。タマゾン川です。」とマサヤンが熱を込めていう。マサヤンは、街の生物学者である。結婚もしないで、モモンガと暮らし、ウサギと同棲している。「なんだい、そのタマゾン川ってのは?」わたしは聞いた。「多摩川にはものすごい種類の外来種の魚がいます。200種くらいいるといわれています。そのほとんどが南米原産です。アマゾン川原産です。それでタマゾン川。」「ほう、うまいうまい。」「喜んでいる場合じゃありません。アリゲーターガーという種は、人も襲うといわれています。」ありゃりゃ。南米原産のグッピー、ピラニア、レッドテールキャット、北米原産のガーパイク、アフリカ原産のシクリッド。並べたてたらきりがない。「グローバルだね。」横にいる弟が言った。「真剣に考えてくださいよ。」「ごめん。」マサヤンのいうには、水はきれいになったけど、工場排水などで水温が上がり、外来種にも棲みやすい環境になったのだそうだ。「でも、外来種は勝手に海を泳いできたわけじゃありません。ペットとして輸入されたのです。ペットとして飼って、大きくなって飼いにくくなると川に捨てる。これが繁殖しました。飼い主にも責任があります。でも、もっと責任があるのは売る側です。これは大きくなる、飼いにくくなる、とちゃんといわなくてはいけません。売る側の責任が大きいのです。」マサヤンは熱い怒気をビールで冷やす。時の流れが、多摩川という水の流れを変えている。それは、時の流れが変えたのではない。すべて人間の仕業なのだ。これはなにも多摩川だけの問題ではなく、国も、自然も、人間が変えているのだ。それなのに人間は、なにか違うもののせいにしていないか。自分の責任を回避していないか。なにかのせいにしたり、責任を回避したりして、表面を繕ってもひどいしっぺ返しを食うのは人間だ。人間がきちんとすべての命がともに生きる設計をしなければならない。もう、責任回避は通用しない。子どもたちともう一度多摩川に鯉を釣りに行きたいと思う。子どもたちはオトナになってしまったけれど、あのきらきら輝く目はきっと取り戻せる。そうしなければならない。マサヤン、ありがとう。ちょっと目が覚めたよ。
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■ロマネコンティは、裏切らない。 ■2010年11月15日 月曜日 12時39分29秒

伝説の闘牛士オルテガは、大観衆を裏切り続けた。牛をお決まりの流れに乗せて殺すのは長い経験を積んだ彼には、お手のものだった。それでも牛は生き生きと挑戦的に見えたし、オルテガの一挙手一投足は、実に勇気あるものに見えた。華麗なる偽りの演技に人々は感動し、絶賛した。オルテガはすでにわずかな勇気さえ失い、決められた流れの中で、命をかけている風に見せただけだった。牛も角の先を数センチ切られ、鑢で磨かれ、深爪のように痛んだ。
一方、若い闘牛士チコは誠実で、まっすぐに牛に立ち向かう勇気をもっていた。無駄のない動きは若い豹のように美しく、牛の命に自分の命を真正面からぶつけた。だが、オルテガの巧妙な包装紙に包まれた嘘を人々は見抜けず、チコはその人気を越えることはなかった。
嘘。大きな嘘と小さな嘘。裏切り。大きな裏切りと微細な裏切り。それらをかき集め、大河となって流れる街。社会。世界。小さな嘘の積み重ねこそ実は罪なのだ。流れの中に確実に存在しながらそれらの嘘に隠され、目に映ることのない真実。あるいは、おしゃれなリバーシブルコートのように、嘘と真実は表裏でくっついていて、実は同じものなのか。
あれは何年前になるだろう。その人と目白の元貴族の持ち物である庭園にいた。年老いたその人は、芝生に続くギリシャ風の彫刻を施した石段にゆったりともたれ、秋の日差しのように穏やかに、屈託のない微笑みを浮かべていた。写真家が太く長いレンズのカメラを構え、彼の自然の表情を狙う。彼が無理なく自然に振舞えるように、わたしは彼の話し相手となって談笑し、うなずき、笑う。その人は、わたしを数年来の友を見るように温かく見、話しかける。ワインは好きかね。好きです。しかし、先生のように通ではありません。味がわかりません。人がこれはある年のいいワインだと言えば、確かにうまいと感じます。麹町でロマネコンティを飲ませてもらった時は、思わず泣きそうになりました。先生は声を上げて笑う。でも、頭で味わっていたのです。舌ではなく、頭に刻み込まれたロマネコンティのイメージがワインの味を輝かせたのでしょうね。情けないです。ロマネコンティか。確かにうまいがね。それだけのことだよ。家の建前の時にね、大工たちと酒盛りしてロマネコンティを飲んだけど、彼らは焼酎ばかり飲んでたな。
先生、本ものってなんでしょうか? そうなあ、本ものなあ。それは、本ものを見分ける力のある人物がこれは本ものだと思うもの、そういうものかな。先生が本ものと思うものが本ものですね。さて、どうだろうか。真実もまた、見分ける力ですね。そうだな。一度わたしの青山の事務所にこないか。ワインを飲もう。わたしもワインを1本用意しておくから、きみも1本買ってきなさい。本ものさがし、真実の話をしよう。ただしだ、千円以下のワインにしてくれよ。
人の、嘘も、裏切りも、見ればわかる。まず、欲が見える。自分だけが良ければいいという欲が見える。真実を見抜くのはむずかしいが、まず、嘘と裏切りだけは見抜かなければならない。それをするためには、自分が本ものにならなければならない。そう、あの人は教えてくれた。目の前の嘘を真実と認めてしまう闘牛場の大観衆と、華麗に嘘をつく人間が多い。本もののワインを見つける前に、わたしは本ものの人と出会い、本ものと真実を教わった。それを教えてくれた人の名は、石津健介。むかし、ヴァンという会社を創った人だ。
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■理想の夫婦。 ■2010年10月27日 水曜日 12時2分56秒

國學院大學空手道部ОB会の副会長を務めさせているせいで友人が多い。その中でも同じ副会長のKくんと理事のHはとくにウマの合う二人である。そのKくんが千歳烏山に引っ越してきた。それを機に10数年前に離婚した奥さんと再び同居することとなった。めでたいことである。
そこでHとわたしは引越祝いと称して新居に押しかけることにした。台風の影響で九州地方が豪雨に襲われた翌々日の土曜日のことだ。東京でも降り続いていた雨が上がり、朝から気持ちよく晴れた空には虹がかかった。夕方5時にKくんのうちに行く約束だったので、わたしはHと千歳船橋駅に4時に待ち合わせをし、バスで向かった。千歳烏山の旧甲州街道沿いのマンションの4階と5階、メゾネットタイプのおしゃれな新居だ。駅から5分の便利な場所にある。同じ釜の飯を食う、とよくいうがこういう友人は心が許せて実に貴重で、普通なら失礼になる会話も平気でかわす仲である。
「とも」という文字は二つあって、「朋」は同じ師匠に学ぶ仲間で、「友」は師匠がちがっても同じ志をもつ仲間のことをいう。わたしたちは、同じ師匠をもつ「朋」である。通常は友の文字で両方を表現しているので、わたしも敢えて変えることはしないが、KもHも「朋」なのである。料理は、奥さんのY子さんと、Kの次男が腕をふるい、うまいものを揃えてくれた。Kの次男は和食の料理人である。Y子さんは、穏やかな笑みを浮かべて立ったり座ったりをまめに繰り返し、リビングとキッチンを行ったり来たりしてくれる。大阪宝塚に実家のあるふくよかな顔立ちの、品の良いお嬢さんタイプである。
「なんで離婚したの?なんでまたいっしょに暮らす気になったの?」Hが遠慮なしに聞く。KとY子さんはそれでもにこにこと話してくれる。「自分のわがままです」。Kがいう。「わたしは三男なのでわがままなんです。いまは、あっちの端の部屋がわたしで、彼女はこっちの端です。この間合いがいいですね」。そういえば、山村美紗と西村京太郎は同じマンションで部屋は別々、中間にリビングとなる部屋を持っていたという。「それが理想的だね。心にも間合いが必要だ」。わたしは思う。遅れてきたわたしの妻も参加し、夫婦論になる。Hの妻が乳がんを患ったのは5年前になるという。切らずに治したいという彼女の希望をHはかなえるために大阪は関空近くの病院に治療に行く。「ホテルに泊まったり、金はかかるが、これまで苦労かけたしね」明るいHが、一瞬顔を曇らせる。「また発病しているので、今度は全摘かもしれない」。Hは若き日、ファッションメーカーのVAN(ヴァン)に勤め石津健介氏にセンスを学び、その後奥さんと二人で青山、代官山とおしゃれなアメリカンバーを開いた。子どもはいない。だから、ずっと奥さんといっしょに暮らしてきた。「彼女はいっしょに働くのをほんとはいやがったんだ」。
Hは長男で、弟と妹を持つ。美容院を経営する母に育てられ、やさしい少年のような顔をしているが気持ちも同様にやさしい男だ。「ところで先輩のところはどうです?」Kが尋ねる。「いや、おれもわがままだから」。わたしは答える。男ばかりの5人兄弟の長男で、威張って生きてきた。なんでも一番になりたがった。妻は5人兄弟の末っ子で、大事にされて生きてきた。お互いにないものばかりだから、それを尊重し合えばすばらしいが、否定し合ったら大変な目にあう。人に指図されるのが大嫌いなわたしであり、なんでもわがままを通してもらった妻。同じ目的を持って力を合わせればいいのだが、相手を思い通りにしたいと思ったらこれは最悪となる。結婚して40年、理想とはほど遠い夫婦である。「ゆっくりと、ていねいに生きればいいよね」。わたしのわけのわからない言葉にY子さんがにこりと頷いてくれた。うまい料理、うまい酒の土曜日だった。
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■映画が主役だった時代。 ■2010年10月12日 火曜日 14時46分25秒

銀座のネオンがガラス窓の向こうで瞬き、男6人と女1人が窓際のテーブルでグラスを傾ける。黒澤映画の「7人の侍」のようでもあり、ただの「酔いどれ天使」のようでもある。俳優千波丈太郎さんがまん中に焼酎「海童」のボトルをどんと置き、水で割って飲む。その横でマネージャーでありプロデューサーでもある、元タカラジェンヌの奥さまが美しく笑う。シモさんが千波ママと呼ぶ奥さまは、金色の髪をオールバックにして短くまとめ、黒い上下の衣装で精悍な宝塚男役のイメージ。千波さんの右隣、窓際に「坂の下のシモ」ことシモさん。千波ママの横に、天才画家ジミー大西をちょいと老けさせた風貌の、昭和の映画をこよなく愛する「キド佐藤」。テーブルをぐるりと回って、その隣がわたし。そして、その隣に「ちらし小川」。ちらし小川氏は千波ママと同じ名前で、そうかそうかで話が盛り上がるかと思ったら、「キド佐藤」がすぐ横からぶち壊した。その隣、窓際、シモさんの前に「パラダイス藤田」が、この集まりじゃあおれだけが若いという顔をしている。が、実は回りが若くないだけの話。
威張ってみても迫力はない。話は終始、昭和映画の話。千波さんが赤城圭一郎を殴り飛ばした日活映画「不敵に笑う男」「幌馬車は行く」をわたしは高校時代に見ている。新東宝、大映、東映、と昭和映画の海を自由気ままに酒の舟に乗って漂う。いかの一夜干しをくわえながら勝新太郎をつつき、マグロをつつきながら市川雷蔵を肴にする。池内淳子のデビュー作はさあ、などと昨日のように話す。
千波さんは、拓大出身で、空手、剣道、合気道を合わせると10数段とそこらの階段が思わずうつむくほどの格闘家。戦う俳優である。端整な風貌、鋭い眼光、その存在感で敵役ややくざ役が多い。いま、髪を後にきれいに流した総髪、白いシャツ、明るいグレーのジャケット、背をすっきりと伸ばしゆっくりほほ笑みながらグラスを上下させる。反面、キド佐藤は、思わず「回転くちびる」とか「壊れたラジオ」と呼称したくなるほどよくしゃべる。止まらない。いつ呼吸するのだろう。いかの足をくわえたまましゃべっている。だれかスイッチを切ってくれ。「ちらし小川」がその役。プロデューサーの千波ママの、映画も宝塚もチケットが売れてナンボの世界よ、というのを聞き、その通りと身を乗り出すキド佐藤。わたしキド番やります。それでキド佐藤と命名。映画や芝居にはちらしが効果的、ちらしが命と叫ぶ小川氏。それでちらし小川。
新宿にいる映画監督が、5000万円あれば一流の俳優とスタッフで一流の映画を創ってみせるという。いまの時代、ネットで一人100円を50万人から集めればいい。キド佐藤がいう。もう千波さんがいるから、役者は一人決定。50万人全員助監督にするといえば集まりもいい。それじゃエンドロールだけで2時間かかりますね、とパラダイス藤田。いっそのこと100万人集めれば1億円。5000万円浮くじゃない。その浮いた5000万円をどう使うかという話にしないか。驚いたことにパラダイス藤田の父は、実際に北海道で映写技師をしていたそうだ。カラカラとフィルムが回る音、まだ耳に残っています。火事は出さなかったろうな、坂の下のシモさんが茶化し、千波さんが海童をゆっくりと口に運んだ。映画が主役だった時代っていいですね、パラダイス藤田がしみじみといった。この勢い。人間、酒飲んで仕事したほうがいいのじゃないですかね。この7人に限っていえば、まちがいない。さて、酒の舟が沈没する前にエンドロールを流して桟橋に引き返そう。
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■不惑、喜惑、悦惑。 ■2010年9月28日 火曜日 16時40分24秒

友人のシモさんは、北海道出身。通りすがりの女性が振り返るほどではないが、かなりのイケ面。太い眉と目の覚めるような銀色のふさふさの髪が特徴だ。わたしは、初対面のときこの銀色の髪が目につき、以来「北のオオカミ」と呼んでいる。若い連中の面倒見がいい。真っすぐな性格で、嘘がつけない。嘘をついても下手。すぐばれる。不器用なのです。こういう性格は、サラリーマンには向かないと余計なことを思う。サラリーマンは、どんなご婦人を前にしても「お美しい」の一言を心から言えるようでなくてはならない。それが基本だ。そう思っている。「3つの真実に勝る1つの嘘」。これが理解できなくては、サラリーマン商売はむずかしい。日本人はこれができないから、外交下手なのだ。いっそ腕のいいサラリーマンに外国との折衝をやらせたら面白い。話がそれました。シモさんのような性格は、サラリーマンより駅前の焼鳥屋のおやじのほうがお似合いなのだ。居酒屋兆治のようにまっすぐ不器用に生きるほうが幸せだとひそかに思っている。ところがそうはいかない。国のためにお役に立ちたいという男っぽい彼の野望が、焼鳥屋のおやじには邪魔なのだ。「坂の上の雲」はいいね。飲むたびにお国の話になってしまうご時世。さんまをつつき、焼酎を飲みながらシモさんは言う。さんまが高いさんまが高いとニュースが言うが、どこに行ってもそれほどではない。酒処で500円以下だと喜んで頼んでしまう。龍馬のような男はいないのかね。薩長連合の契約書、あれ、本物が残っているらしい。そうなると確かに凄いことをしたようだよ。国を動かした連中は若かったねえ。最近の若いのも頭のいい連中が増えてきている。だから、世代交代をちゃんとしないといかんなと、自分たちを責めたりもする。話は日本の経済、外交、北海道のこと、芝居のこと、はては哲学まで、飲むほどに酔うほどに両手をひろげても間に合わないくらいに広がる。40歳を不惑と論語は言うけど、シモさんが言う。60歳になっても、いまだ迷ってばかりだ。いかんなあ。そこで息をはき、焼酎をぐびり。なに、お互いさまさ。わたしが答える。孔子の論語を上梓したばかりのわたしも、人にはえらそうに論語の講釈をするものの迷いの日々である。シモさん、こう考えよう。迷いや惑いを楽しむ。人間は一生迷い惑いがつきまとうものだと決めて、これを楽しむ。つまり、60歳を「喜惑」、70歳以上を「悦惑」と命名しようや。やけっぱちの発想である。だが、これといって特定の宗教ももたず、神道の学校を出たとはいえ専攻が経済学部という、日本蕎麦屋でラーメンを食べるようなトンチンカンなわたしだから、少々のやけっぱちもいた仕方ない。そうしよう。シモさんも意を決して開き直った。おれ「喜惑」で行く。迷い惑いを喜ぼうじゃないか。窓の外は銀座の夜景。一時よりはぎんぎらネオンがぐんと減った。さびしい限りだ。その晩、「坂の上の雲」が大好きな友人シモさんに、わたしは「坂の下のシモ」と新しいあだ名をつけた。新橋から渋谷行きの最終バスに間に合うために、「坂の下のシモ」氏と10時過ぎに駅前で別れる。風が吹く。暑い夏が行こうとしている。
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■68歳にして過ちを知る。 ■2010年9月13日 月曜日 15時14分1秒

長野県下伊那郡座光寺村北市場。そこがわたしの源風景の場所である。戦中に生まれたわたしは、父の徴兵とともに母の実家に疎開をした。それが信州である。3歳から4歳までいた計算になる。遠く南アルプスが見える。3000メートルを超える赤石岳を大将にして、南アルプスの頂きたちは南北に長く連なる。このアルプスは、また奥行きも深い。1000メートルに満たない里山が手前に並び、その奥に1000メートル以上の山々が並ぶ。そしてその奥に2000メートル級の山々がずらりと並び、さあそれで終わりかというとそうではない。その奥に3000メートル級の山々が並ぶのである。そこはもう視界の果てである。わたしは農家の裏庭の柿の木の枝に座って山々を眺めた。東京浅草で生まれたと聞くが、その風景はまるで気憶になく、記憶をバス停でバスを並んで待つ客に例えるなら、いちばん前に並んでいるのが南アルプスの山々の記憶なのである。田舎もんだ。でも、田園もんと書いたほうがちょっとうれしい気もする。東京の田舎っぺである。わずか3・4歳だから、山の大きさが頭で理解できず、それが地の果てだとも思った。山の向こうで地球がすとんと切れていると言われれば、そう信じただろう。山々の手前に銀色に輝く太めの糸が見える。蛇行している。天竜川だ。山と川。それが教えてくれたものは大きい。まず、人間の力の及ばない、人知ではどうにもならない世界があることを教わった。朝日が昇るころ、山々の稜線が輝く。頂きたちが目を覚ます。ぎざぎざに連なる頂きは、龍のようである。まさにこれから天に昇る龍のように輝く山々は、みずからが光を放つようにも見え、神のようだった。わたしに神の存在を教え、畏敬の念を植え付けたのも山々だ。祖母と母は、そこには鬼が住む、と言った。幼いわたしが遊びに行かないようにそう言ったのだが、とてもひとりで行ける距離ではなかった。座光寺から眺めると、南アルプスまではなだらかに下る台地で、南北に飯田線と国道が並んで走るのだが、ただただ広い台地に見えるだけだった。桃やリンゴの畑や桑畑があって、小さな森と人家が点々とあるのだが、わたしには緑の広い台地しか思い出せない。最近になって弟から座光寺の地図をもらってなつかしく眺めていると、ふと違和感を感じた。わたしは、山々の向こうは遠く大阪や九州につづいていると思っていたが、地図で方向を確かめると、どうやら逆である。天竜川の位置を見ても、わたしは逆を見ていたことに気づいた。山々の向こうは東京だった。わたしは毎日東京の空を眺めていたのだ。東京から中央本線で北上し、辰野で飯田線に乗り換えて南下する。その折り返しの感覚がなかったのだ。68年間そう思いつづけていたから、大いなる過ちを抱きつづけていたのだ。南アルプスを迂回せず、甲府あたりからずぼっとアルプスを抜けて汽車が走ってくれたら、こんな妙な気分にはならなかったはずだ。なによりも、田園はもっともっと近かったはずだ。あの頃汽車で12時間かかったが、いまは高速バスで4時間である。記憶は遠くなるが、距離はぐんと近くなった。
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■ハーバード大学留学記。 ■2010年8月27日 金曜日 15時0分40秒

ロシアのプーチンによく似た教授の話が面白い。普通ならこむずかしいギリシャ哲学の話を、実にわかりやすく楽しく話してくれる。
階段式の広い教室にあふれんばかりの学生がいる。教授は一段高い教壇の上で、クマのようにあっちへウロウロ、こっちへウロウロしながら手振り身振りよろしく熱弁を振るう。学生たちは黒人も白人もわたしのような東洋人もいて、国籍は種々雑多である。講義は英語だ。笑いがたえない。真剣に聞き入り、ノートを取り、よく笑う。だが、雑談はいっさいない。寝ている者など一人もいない。日本でもこれほど熱心な授業風景はそう見られない。
さて、授業の内容はアリストテレスである。「正義」という言葉が出てくる。アメリカらしい言葉といえばアメリカらしいが、なに日本武士道においても「正義」は重要な徳目であるから、この精神は日本のものでもある。アリストテレスの「正義」とアメリカの「正義」と日本の「正義」はどう違うのか? 同じものか? 興味が募る。
アリストレスは、ソクラテス(BC470生まれ)、プラトン(BC427生まれ)の流れを組むギリシャの哲学者で、それまでのギリシャ哲学とは一線を画した。講義を聴き、翌日夢中で竹田青嗣先生の「プラトン入門」を読み漁ったにわか哲学生だから所詮が未熟者、少々の間違いはご容赦を。これまでのギリシャ哲学が「本質」「原因」の追究であったのに対し、「目標」「意志」に考えが及び、「イディア説」をプラトンは唱えた。イディアとは「アイディア」のことで、目標とか意思とか「自分はどうするか」ということだ。
プーチン教授の話が「クマのプーさん」に及び、学生たちの目が輝き、頬に笑みが浮かんだ。その話はこうだ。プーさんが森を歩いている。するとどこからかブーンブーンという音が聞こえる。さて、この音の原因はなんだ? プーさんはきょろきょろとあたりを見回す。木の上で蜂が飛ぶ。おお、蜂だったのか。音の原因は蜂か。簡単に言えば、ここまでがこれまでの哲学。「本質」と「原因」の追究だ。だが、プーさんは次に木に登り、蜂密を食べた。つまりプーさんは「目標」「意思」を持ち行動を起こしたのだ。事物の「本質=真理」「原因」を問いただす思考方法を示すに留まらず、「思慮深さ」とは?「勇気」とは?「正義」とは?「徳」とはなにか?にまで迫るのがソクラテス、プラトン、アリストテレスだった。ソクラテスは、それまでの哲学者たちをソフィストと呼び詭弁者だとして糾弾した。ソフィストたちは「白いモノを黒にしてしまう」危険な存在だった。(いまもそんな詭弁者が多くて困りますが)。詭弁とはモンテーニュが言うように「ハムは飲みたくさせる→飲めば渇きが癒される→故にハムは渇きを癒す」的インチキ思考である。もしあなたの子どもがそんなことを言いだしたら相手にするなとモンテーニュは言う。しかし、こんなようないい加減なことをいう連中が増え、こんなような理論をいかにも正しそうに語る会議も多くなった。プーチン教授が「正義」を持ち出した気持ちがわかる。えらそうに言うがわたしの「正義」論も未熟だ。だが、「正義」が必要であるというプーチン教授に大賛成である。
さて、大事な報告をしなければならない。わたしのハーバード大学留学はわが家の居間である。寝転んでいる。プーチン教授の英語はすべて字幕で読んだ。深夜テレビである。申し訳ない。もっともっと哲学を学びます。いやはや哲学はむずかしい。そりゃそうだ。思想の学問だから、概念で人生とは?人の心とは?などと永遠に解明できない宇宙のような問題を探るのだ。ならば「山は休まない、川は眠らない、命とはそんなものよ」と開高先生のように笑ってウイスキーグラスを傾けるほうがずっといいとも思う。
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■長嶋が10人いる。 ■2010年8月16日 月曜日 10時11分54秒

渋谷。JR山手線の土手の下に「のんべえ横丁」はある。そこは、屋台を寄せ集めたような木造長屋風の酒処が押しくら饅頭のていをなしている一角で、下品なわが後輩の日下部くんは「ションベン横丁」と呼んでいる。昭和の人間には妙に居心地のいい路地である。店々は寄りかかり支え合っているからかろうじて立っているものの一軒だけでは立ってはいられない。くしゃみひとつで吹き飛んでしまう。ほとんどの店には小さなL字型のカウンターがあって、その中でママがひとりですべてを切り盛りしている。
客は5人が入れば満席である。当然のことながら店にトイレはない。そんなスペースはもったいないのである。路地の真ん中あたりと宮益公園に共同のトイレがあって、身分の差貧富の差に関係なく全員がそこを利用する。女性はママからカギを借りていそいそとお出かけになるのである。そんな横丁の中ほどに「淡路」はある。年季の入った暖簾を手で分けて覗くと、萩出身の昔のお嬢さまが割烹着姿でカウンターの向こうにいる。田舎の勝手口のようなまるで愛想のない横引きの戸を開けて入ると、初めてママは笑う。これじゃ一元の客は入りにくいでしょう、と聞くと、うちは客を選ぶからね、と胸を張る。
小京都萩出身のお嬢さまは誇り高いのだ。主義主張がはっきりしている。まっすぐな性格で無愛想、好き嫌いが明確なのである。美しく言えば正直、早く言えばわがままなのだ。類は友を呼ぶ。客たちもまた正直で心地よいわがまま連中が集まっている。まあ、わかりやすく言えば偏屈なんですね。変り者です。人間は不思議な魅力をもっていて、偏屈者や変り者ほど実は内側に触れてみると豊かな個性がちらほら垣間見えて楽しい。クサヤやホヤって嫌いな人はそっぽを向くけど、好きな人にはたまらないほど魅力があるじゃないですか。まさに、あれです。だから常連たち同士も結構楽しくあれこれ会話をしたりする。初めて会う人も気軽に会話に参加する。偏屈ぶりや変り具合が似ているのだろうか。もちろん、じっとりと自分の世界に沈みこむ人もいて、それはそれで大事にしてくれる。
あるとき、隣の席に戦艦大和の生き残り乗組員の方が二人いて、実体験の戦況をまるで目の前のことのように話してくれ、いつも以上に酒が進んだ。Hさんは早くからの常連客の一人で、その変わり者ぶりも格別だ。ウイスキーをボトルキープし、自分でちびちびと水で割りながら悠々と飲むのは彼だけであろう。この長屋造り屋台風の店でウイスキーなどという発想はだれもしない。つまみがお新香や豆腐ですよ、おかしいでしょ。世間はお盆休みで店の客はわたしとHさんだけである。お盆だけど故郷に帰らないの?という会話から故郷はどこ?という話に及び、わたしは父が戦争に行き母の実家である信州飯田に疎開していました、というと、Hさんは、故郷がないのです、母は葛飾に嫁いだのですが、母の妹が実家を継ぎ青山で銭湯をやっているのです、という。哲学者か学者のように言葉を丁寧に話す。青山で銭湯?いやはやそれは贅たくでいいですね。あまり行かないですけどね。
やがて話は海を越え中国へと広がる。数の論理は理屈を超えた強大な力がある。Hさんとわたしは中国のポテンシャルに驚嘆している。野球だっていくらでも強くなりますよ、だって日本の10倍の人口でしょ、長嶋が10人いますから。Hさんはそう言って笑う。中国には長嶋が10人いる。万里の長城の脇で並んでバットを振る10人の長嶋。なるほど中国はすごい。発想も面白いが、言い方ひとつで説得力がぐんと増すことを勉強させてもらった。頭上をJR山手線が通過した。お盆の渋谷、平和な夜である。
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■長嶋が10人いる。 ■2010年8月16日 月曜日 10時11分41秒

渋谷。JR山手線の土手の下に「のんべえ横丁」はある。そこは、屋台を寄せ集めたような木造長屋風の酒処が押しくら饅頭のていをなしている一角で、下品なわが後輩の日下部くんは「ションベン横丁」と呼んでいる。昭和の人間には妙に居心地のいい路地である。店々は寄りかかり支え合っているからかろうじて立っているものの一軒だけでは立ってはいられない。くしゃみひとつで吹き飛んでしまう。ほとんどの店には小さなL字型のカウンターがあって、その中でママがひとりですべてを切り盛りしている。
客は5人が入れば満席である。当然のことながら店にトイレはない。そんなスペースはもったいないのである。路地の真ん中あたりと宮益公園に共同のトイレがあって、身分の差貧富の差に関係なく全員がそこを利用する。女性はママからカギを借りていそいそとお出かけになるのである。そんな横丁の中ほどに「淡路」はある。年季の入った暖簾を手で分けて覗くと、萩出身の昔のお嬢さまが割烹着姿でカウンターの向こうにいる。田舎の勝手口のようなまるで愛想のない横引きの戸を開けて入ると、初めてママは笑う。これじゃ一元の客は入りにくいでしょう、と聞くと、うちは客を選ぶからね、と胸を張る。
小京都萩出身のお嬢さまは誇り高いのだ。主義主張がはっきりしている。まっすぐな性格で無愛想、好き嫌いが明確なのである。美しく言えば正直、早く言えばわがままなのだ。類は友を呼ぶ。客たちもまた正直で心地よいわがまま連中が集まっている。まあ、わかりやすく言えば偏屈なんですね。変り者です。人間は不思議な魅力をもっていて、偏屈者や変り者ほど実は内側に触れてみると豊かな個性がちらほら垣間見えて楽しい。クサヤやホヤって嫌いな人はそっぽを向くけど、好きな人にはたまらないほど魅力があるじゃないですか。まさに、あれです。だから常連たち同士も結構楽しくあれこれ会話をしたりする。初めて会う人も気軽に会話に参加する。偏屈ぶりや変り具合が似ているのだろうか。もちろん、じっとりと自分の世界に沈みこむ人もいて、それはそれで大事にしてくれる。
あるとき、隣の席に戦艦大和の生き残り乗組員の方が二人いて、実体験の戦況をまるで目の前のことのように話してくれ、いつも以上に酒が進んだ。Hさんは早くからの常連客の一人で、その変わり者ぶりも格別だ。ウイスキーをボトルキープし、自分でちびちびと水で割りながら悠々と飲むのは彼だけであろう。この長屋造り屋台風の店でウイスキーなどという発想はだれもしない。つまみがお新香や豆腐ですよ、おかしいでしょ。世間はお盆休みで店の客はわたしとHさんだけである。お盆だけど故郷に帰らないの?という会話から故郷はどこ?という話に及び、わたしは父が戦争に行き母の実家である信州飯田に疎開していました、というと、Hさんは、故郷がないのです、母は葛飾に嫁いだのですが、母の妹が実家を継ぎ青山で銭湯をやっているのです、という。哲学者か学者のように言葉を丁寧に話す。青山で銭湯?いやはやそれは贅たくでいいですね。あまり行かないですけどね。
やがて話は海を越え中国へと広がる。数の論理は理屈を超えた強大な力がある。Hさんとわたしは中国のポテンシャルに驚嘆している。野球だっていくらでも強くなりますよ、だって日本の10倍の人口でしょ、長嶋が10人いますから。Hさんはそう言って笑う。中国には長嶋が10人いる。万里の長城の脇で並んでバットを振る10人の長嶋。なるほど中国はすごい。発想も面白いが、言い方ひとつで説得力がぐんと増すことを勉強させてもらった。頭上をJR山手線が通過した。お盆の渋谷、平和な夜である。
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■星を求めて。 ■2010年7月29日 木曜日 17時5分55秒

アメリカの偉大な広告マン、レオ・バーネットさんの有名な言葉がある。「星を求めて手をのばせ」というものである。続く言葉がいい。「もし、星がつかめなくても決して泥をつかむことにはならない」というものだ。実にすてきな言葉だ。わたしは広告屋だからよくアイディア会議をやる。そして、ときどき言われるのは「それは理想論で、現実的ではない」と。その場合に二つのことを考える。まず予算である。予算的に合わないという意味で理想論と言われる場合は、すぐアイディアを修正する。論議がムダだからだ。だが、予算以外では「理想論」を簡単に捨てない。それより「理想がなぜ悪い。そんなわびしい現実論は広告のプロとしてみっともないではないか」と開き直る。わたしの理想論は、そもそも「正義」という絶対価値から生まれている。「正義」「義」とは、武士道の重要な価値で、「人が幸せになる道」のことである。それは単なる理論であって現実ではない、という人には「正義」はない。あると信ずる人間には、あるのである。少なくとも、あると信ずる人間のほうが、ないという人間よりはるかに「正義の近く」で生きているのである。それでいいではないか。「正義」はある。そして「理想論」である。わたしのアイディアは、理想論の場合が多い。それは、広告をする商品なりお店なり会社なりが「理想的」というのではない。「あなたの理想的な生き方に役に立ちます」という意味での「理想論」である。「理想的な商品」という広告もときどき見られるが、最近の消費者は賢くなっていて、それが「ただの自慢話じゃないか」とすぐ見破る。表現はシンプルに、わかりやすく、伝わりやすくしなければならないが、アイディアは深く、きちんと考えられたものでなければ、すぐに見透かされる。「広告とは理想論だ」と乱暴に言いたいが、考えの浅い人間は誤解する。さて、「現実論」を振りかざす広告は「人の心を打たない」。つまり「つまらない」のである。人間の脳は「ご都合主義」であり「自分主義」である。だから、アイディアを練る人間も商品も「自分主義」になり、広告が自慢話になる。それをカバーするのは教養である。消費者に対する深い「思いやり」である。消費者のほうも「自分主義」だから、その商品は自分にどう役立つの?どう楽しいの?と考える。ところが、「自分主義」はあくまで個々のもので10人が10人とも同じ価値観ということはあり得ない。そこでアイディアに深みを持たせなければならない。消費者が「あ、わたしのことを考えていてくれる」と感じさせなくてはならない。浅いアイディアは「面倒くさいから自慢話にしておこう」とコミュニケーションを自分から放棄している。アイディアの力の差はそこにある。レオ・バーネットの言葉「星を求めて」というのは「理想論」に近い言い方だ。「上質」とか「高度」と解釈してもいい。そうすれば「泥をつかむことにならない」つまり中途半端な失敗はしませんよ、ということだ。広告のアイディアは、そうでなくてはならない。コンピュータの発達が広告づくりを容易にした。同時にアイディアまで安易にしてしまった。それは商品や会社をみずからダメにしてしまう。人の心は複雑で賢い。消費者は狼のように慎重で賢いのである。まず、消費者に感謝する心をもち、尊敬し、幸せを願う気持ちになって広告アイディアを練らなければならない。最近広告に力がなくなったと聞くが「とんでもないですよ」と答える日々である。
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■きもの、ひもの、けもの。 ■2010年7月20日 火曜日 15時13分8秒

文章にはフィクションとノンフィクションがあります。フィクションは創作です。ノンフィクションは創作なし、事実のみを表現します。そこが大きな違いです。そこでエッセイはどうだ、となるとこれが都合よくその中間あたりをふわふわ漂っているのです。たくさんのエッセイストがいて、たくさんのエッセイがありますから一概には言えませんがほぼそんな感じでしょう。さてわたしはというと、広告コピーライターですからどちらかというとフィクションとノンフィクションを行ったり来たりです。広告は事実もイメージも大事にします。夢を調味料に使います。誇大広告は絶対にいけませんが、多少大げさになることもあります。こっちを見てください。この広告を見てください。注目をしてくださいという思いがありますから、デフォルメします。五木ヒロシのモノマネをするコロッケほどではありませんが、お仲人さんが嫁さんを誉めるくらいでしょうか。さらに、わたし個人がエンターテイメント好きですから、楽しくしようというサービス精神が文章に現れます。でも、嘘はありません。そこで、今回の伊豆の旅の話です。嘘のようです。でも嘘はありません。あるきもの会社のPR誌の仕事で伊豆に行きました。スタッフは4人。アートディレクター兼デザイナーの佐川くん、コピーライターの伯田くん、写真家の中山さん、そしてディレクション担当のわたしです。きものをテーマにし、女性をテーマとする1泊2日の取材旅行です。伊豆には厚木から小田原に出て海岸線を走り、湯河原から熱海を抜け、網代に行きました。網代の港町を走ると、開け放った車窓からアジのひものを焼くうまそうな匂いが飛びこんできます。土産店の店頭でアジを焼いています。通りに面して丁寧に天日干しの網に並べられたアジたちが太陽に向かって体を開いています。「ひもの」と大きく書かれた看板が町中に立ち並んでいます。「きものの取材でひものを食おう」。そんなダジャレを言いながら、海に面した食堂に寄りました。網代は昔、徳川幕府に魚を献上する漁師たちの町です。それは誇りです。ですから、熱海市にありながら温泉の開発が遅れました。修善寺を訪れました。北条政子の生誕地、韮山に行きました。踊り子を訪ねて湯ヶ島から河津七滝を歩きました。伊豆の山山はアルプスのような険しさはありませんが、鬱蒼とした森は深く、森の奥に森があり、山の向こうに山が連なります。大きな渓谷、小さな渓谷、中くらいの渓谷が次々に現れます。風が吹くと霧が揺れ、実に神秘的です。その日は熱川に泊まりました。海の幸を堪能し、温泉に浸り、取材の疲れを忘れました。さて、次の朝です。朝食を取り、コーヒーを飲み、車を走らせて海岸線を北上しました。間もなく、国道沿いに「ひもの」の看板が並び始めました。「ひもの」「ひもの」「ひもの」また「ひもの」です。そのうち助手席の佐川くんが、悲鳴をあげました。「けもの、です。ひもの、ひもの、の看板に混じって、けものっていう看板がありました」。「嘘でしょ。なにかの間違いでしょ。きものの取材できて、ひものの看板、次にけものの看板は出来過ぎでしょ。だいいちけものってなんなの。なに食わせるのよ。ライオンかトラでも食わせるのか?」ハンドルを握る伯田くんが車をバックさせます。みんなで車窓から首を突き出し、看板を丁寧に見て走ります。と、ありました。「けもの」という看板が道端に立っています。「嘘だろ」。嘘ではないのです。動物公園の入口。「けもの」の看板が確かにありました。人騒がせですが、笑いました。4人で笑いました。このユーモア。辺りに「ひもの」の看板がなければ、動物公園だって「けもの」なんていう看板は立てなかったでしょう。嘘はいけません。でも、だれかを愉快にさせたり、夢や希望のかけらでもエッセイで書けたら、それは皆さんお許しくださるものと願っています。事実はエッセイよりも奇なり。
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■南半球の奇蹟。 ■2010年6月28日 月曜日 15時1分11秒

ありがとう、ありがとう、サムライジャパンの勝利はあなたのおかげです。デンマーク戦勝利の朝、知人友人のだれかれかまわずお礼のメールを送る。かつて、モハメッド・アリが奇蹟を起こした南半球で、岡田ジャパンが奇蹟を起こした。アリの場合は確かに奇蹟だったが、わがサッカーチームは奇蹟ではない。4つの練習試合でまるで歯車が合わずぼろぼろになり、進退問題まで噂された岡田監督は、選手について一言も愚痴をこぼさず、選手を信じ、常に前向きの発言に徹した。
選手のだれひとりとして監督を批判する者はいない。監督を信じ、仲間を信じ、自分の仕事に全力を尽くす覚悟が表情や少ない言葉に表れていた。覚悟はあるが、悲壮感はまるでない。落ち着いている。いつもの浮ついた虚勢がない。岡田監督の顔が引き締まった。選手たちの顔が引き締まった。サムライたちが本当にサムライの顔となった。勝利への執念さえ消し去った清々しい顔で、彼らは南アフリカに向かう機乗の人となった。 
カメルーンは強いチームだ。フィジカル面では圧倒的に日本に勝っている。早い。とにかく早い。一歩一歩の歩幅が大きいのに足の回転速度も日本以上である。攻撃力ではるかに日本を超える。だが、直線ではなく曲線なら日本のほうが早い。チームプレイの精密さなら日本が上だ。そして守備力では日本が勝る。攻撃は少々荒くてもいいが、守備の荒さは致命傷につながる。勝敗は1点差になる。負けても1点差。勝っても1点差。1対0。2対1。どちらが勝っても3点は取れないだろう。1点リードの後半、カメルーンの怒涛の攻めを凌いだジャパンには確実に力があった。
2回戦、オランダ戦での戦いは敗れたとはいえ、ジャパンの地力が見えた。総合力で格上のオランダに、あわよくば勝てる試合展開だった。デンマーク戦の勝利は奇蹟ではなかった。だが、わたしの予想では、1対0、2対1での勝利だった。ところが3対1で快勝。試合前、デンマークの監督が語っていた通り、ジャパンの世界トップクラスのチームワークの勝利である。フィジカル面で劣る日本の勝機は、チームワークである。政治においても経済においても同じである。チームワークこそが日本の成功の最大のキーワードであることをサムライジャパンが教えてくれているというのに、選挙戦が始まったこの地では、ちびちびした足の引っ張り合いしか見られない。
大河ドラマの中で勝海舟が叫ぶ。世界を相手にしなければならないのに、なんで小さな日本の中で争わなければならないのだ、と。会社においてもチームワークのできている会社が強い。報告、連絡、相談がしっかりとでき、同じ目標に向かって心をひとつにしている会社が強い。サムライジャパンが証明してみせた日本のチームワークの見事さ。これが日本の明日を創る。さて、心配がある。3対1でなく、1対0か2対1で勝ちたかった。決勝トーナメント、パラグァイ戦、心に隙が出なければいいが。勝者は勝ち過ぎてもまたダメなのである。油断は蟻の穴から忍び込む。こう、えらそうに語ったが、わたしはにわかサッカーファンなのである。ありがとうとメールを送ったみなさんに、実は眠くて試合はライブでは見ていなかったと白状して、いま白眼で見られている。すみません。ただのお祭り男でございます。
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■渋谷梁山泊。 ■2010年6月14日 月曜日 14時34分7秒
中国山東省の西、人里離れた梁山の麓。宋代の盗賊宋江らが天険の砦を結んだ。その名は「梁山泊」。後に「水滸伝」は言う。梁山泊に集いし豪傑・野心家たちが国を動かした、と。
盗賊である。盗賊でありながら、彼らは人々の心をとらえた。なぜか。まず梁山泊は、くる者を拒まず去る者を追わない。自由である。資格はない。資格はないが、ただ一つ条件がある。人に役立つものをなんでもいいから一つ持ってくること。だれよりも早く走る足でもいい。だれよりも遠くを見る目でもいい。知恵でもいい。人に役立つものを一つ。
その昔、四谷のオフィスで初めて梁山泊を開き、やがて100人近い仲間が集まった。アーチストがいた。フリーターがいた。広告代理店の営業マンがいて、役者がいた。商社マンがいて、中国福建省からきたヤクルトおばちゃんがいた。設計士がいた。四谷駅前で雑誌を売るホームレスがいて、音楽家がいた。コピーライターがいた。しばらく息を潜めていた梁山泊は、渋谷の番長こと小池氏の寛容により再開された。
小池氏は180センチを超える長身で、神奈川の高校時代ではゴールキーパーながら相手ゴールに一発で蹴り込んだ実績をもち、新日本プロレスにスカウトされたという貴重な経験をもつ。販促プランナーであり社長である。
とある金曜日、7時。会費1000円。昔と同様だ。ビールとつまみ代になる。人々は集まった。第一部は、自己紹介と10分のスピーチ。テーマは「時代」。このテーマはわたしと番長で決めさせていただいた。二部は8時から。フリートークとなる。わたしは6時半に渋谷西口のモヤイ像で待ち合わせた映像ディレクターの長江氏と会場である小池氏のオフィス「クロスポイント」に向かう。カレンダー展で経済産業大臣賞を獲得したアートディレクターの松本隆治氏がいち早くきてくれる。
松本氏はかつての梁山泊の生みの親の一人だ。神田の広告代理店の社長加藤氏がビールを山ほど抱えてやってきた。初めてのことで遅刻をする者もいた。長江氏と松本氏が話し込み、加藤氏が加わる。全員がそろわないうちに時間がきて、一人ひとりが順番に「時代」をテーマに話す。「時代」についてならなんでもいい。全員が一人の話に耳を傾ける。そういう機会はなかなかないものだ。占い師が人気のあるのは話をじっくりと聞いてくれるところにあるのだという友人がいるが、うなづける。話の内容と話ぶりでその人が理解できる。気の合いそうな者、そうでもなさそうな者、興味深い人。その後のフリートークにつながる。
販促プロデューサーであり会社社長の原田氏がアジアの話をする。デジタルサイネージのプロ井上氏が関西弁について話す。クロスポイントのプロデューサーでわたしがシェフと呼んでいる料理の達人伊藤氏が故郷の話をする。経理の専門家であり会社役員でわたしの弟の高野守男が話し、唯一の女性ユカ嬢が話す。加賀マリ子のデビュー当時の映画「月曜日のユカ」と同名のユカ嬢だが、加賀マリ子に負けない美形でありイベントプロデューサーとしても非常に敏腕だ。話を聞き、驚いたりほろりとさせられたり、だれもが相槌を打ったり、首を振って否定したり、まあ人間は面白いと改めて感動する。
いろいろな「時代」いろいろな「人間」いろいろな「人生」が語られる。じっくり自分のことを話す機会がない。じっくり人の話を聞く機会がない。梁山泊のよさはそこにある。相手を理解しようとする。興味が生まれる。人が自分を理解してくれる。弟が言った。国を動かすかどうかは別として面白い。梁山泊は自由だ。年齢、性別、職業に関係なくだれでも参加できる。豪傑や野心家でなくても大丈夫。唯一のルールは、決して仲間を裏切らないことだ。その後、仕事につなげるのもいいし、飲み仲間になるのもいい。異業種交流というより異人種交流とわたしは思っている。長江氏の、人とのふれあいの不思議がいまの自分につながるという話に大いにうなづき、いつも歯切れのいい加藤氏が機械系の営業をしていた過去を聞き、驚き、原田氏の話に明日の日本を伺う。人づきあいのうまい井上氏は近江商人の末裔だと胸を張る。続くフリートークも燃え、朝の4時まで5人が残った。梁山泊は盗賊の集団ではない。
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■霞が関赤信号すきやき物語。 ■2010年5月29日 土曜日 10時45分9秒

市谷から新橋行き最終バスに乗り、霞が関バス停で降りる。降りたのはわたしひとり。もともとそのバスに乗っていた客は二人だけ。残された客もさびしいだろう。9時半を過ぎている。左を見ても右を見ても人影はない。前のビルから漏れる灯りが歩道に斑模様をつくっている。斑模様が揺れているのは、街路樹の銀杏の緑が夜風にそよぐからだ。銀杏の豊かな緑が頭をなでる。重いバッグをよいしょと肩に担ぎあげ、ワンカップ酒を片手に歩きだす。穏やかな下り坂。足を上げるだけで前に進むからこれは楽だ。逆なら大変。たばこを吸いたい。ダメダメ。銀杏が顔に触れても避ける必要はない。放っておく。渋谷行きのバスに乗るために霞が関3丁目まで歩く。6・7分くらいか。桜田通りの交差点を右に曲がる。経済産業省の灯りがこうこうと灯っている。今日は機嫌がいいから「ご苦労さん。お国のためによろしくね」などと独りごとをいいながら見上げる。機嫌の悪いときは「働け公務員」などと叫んで逃げる。通りに人影はない。と、後から駈けてきた若い娘が追い抜いて行き、赤信号を平気で走り抜ける。そりゃまずいでしょ。だれも見ていないからって、それはまずい。この辺りならその娘が公務員かお役所勤めだとだれでも思う。そうでなくてもそう見られる。デートに遅れないために走る。それはわかるが、やっぱりまずい。見てなきゃいいという発想がまずい。たとえば永田町の立法府が霞が関の行政府に「すきやき法案を通したから食材を買ってきてくれ」と指示する。行政府は、鍋、肉、野菜、醤油、砂糖など買いにスーパーに走る。そこで問題だ。安売りしてたから予算が余る。余ると報告すると、次のすきやき法案実施のときに予算が減る。多分減る。でも、次のときスーパーが安売りしているかどうかわからない。足らなくなる。困った。このお釣り、どうしよう? より多く予算を取ることが「えらい」と褒められる世界にいる。余った金を手に握りながら、困る。だれも見ていない。国民は見ていない。さて? どうする。公務員が国民のやり玉に上がるのは、国民の税金を使うからで、これが自分の金や、自分たちが稼いだ金ならどう使おうが文句をいう筋合いはない。国民も一度納めた税金だからもう自分のものではないけど、なんか腹が立つ。さらに、なにかに乗じて私腹を肥やすなんて、これは言語道断。天下りのはしごをして巨額の退職金を自分のものにするなんて、わたしができないだけに余計に腹が立つ。すきやきのお釣りをごまかすな。まあそんなことはしないだろうが、だれも見ていないからって赤信号を無視しちゃやっぱりダメだ。公務員は、国民のお手本にならなくちゃ。でも、なんで「すきやき」なんか思い出したのだろう。そうだ、腹が減ってるからだ。霞が関のビルは、ここのところ夜遅くまで灯りが消えない。えらいなあ。使命感に燃えて一所懸命にお国のために働く公務員の若者を何人か知っている。頭もいいし、人柄もいい。そういう人たちのためにも、一部のやからに私腹を肥やしたり、赤信号を無視したりしないでほしいと願う。雨が降ってきた。腹減った。さあ、帰ってかみさんのあったかい手料理に舌づつみを打とう。「すきやき」なんて口が裂けてもかみさんにいえない昨今である。もっとも、口が裂けたらなんにも食えない。
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■人が集まる。 ■2010年4月30日 金曜日 4時18分25秒

渋谷駅西口バス停広場わきの歩道橋を渡り246号線を越えると、タコ足広場に出る。見方によると8本の道が交差しているように見える広場。それでタコ足とわたしは呼んでいるが、だれも賛成しないところを見るとこの呼び方少々無理があるのかも知れない。番長という愛称をもつその男の事務所は、タコ足の1本を松濤方向に上って行く。うまそうな焼鳥屋があり、テラス席を出す洋風パブがあり、山口瞳の小説に出てくるような居酒屋がある坂をとことこ上って行く。コンビニの前を通り、テニスショップの前を抜ける。坂は石畳の通りで、一方通行だ。この坂、車道と歩道のバランスが悪く歩きにくい。歩道は狭くはないが、広くもない。中途半端だ。ガードレールに毅然としたところがない。変に歪んだり曲がったりしている。わたしのようにだらしのないガードレールなのである。所々で電柱が出っ張って頭にくるが、電柱に当たるわけにはいかないので黙って睨みつけるだけだ。体力が確実に衰えているわたしは、テニスショップの辺りで疲れて果てて一度立ち止まる。前からきた人とすれ違うとき、相手の体を避けなければならない。つまり歩道の幅が2人前ではなく、1.5人前なのだ。中途半端でしょ。だから車道に出て相手を避けなければならない。どうにか坂を登り切るとセルリアンタワーの裏手に出る。ホッとした所にあるローソンの角を曲がると、番長の事務所はもう近い。桜が咲きました。金曜日、花見にきてください。番長から電話があった。二つ返事で出かける。西口モヤイ像前で友人のアートディレクターのMさん、プロデューサーのHさん、デザイナーのHくんと待ち合わせる。事務所のドアを開けると適度に広いスペースの正面に会議用のテーブルがある。ガラススペースの多い窓が解放的で気分がいい。ほぼ正四角形で使いやすそうな部屋である。テーブルに座る男が挨拶をする。だれだろう。わからないまま軽く頭を下げる。わたしは結構愛想のいい方である。かみさんに言わせれば面倒くさいことが嫌いなだけでしょとなるが、そうかもしれない。丸太を荒く削ったようなごつい顔。長い髭。白髪まじりのグレーの髪。黒ぶちのメガネ。メガネの奥の目が笑っている。知り合いだ。久しぶりです。男が言う。わからないでしょ。そう言う。愛想のいいわたしは曖昧な表情で過去の記憶のスクリーンをフル回転させる。Aです。赤坂時代にはお世話になりました。おお、Aさんか。広告のプロデューサーだ。人と会うのは楽しい。20人の予定が50人になって、番長の事務所はラッシュアワーの渋谷駅状態となる。4階の窓から下を伺う位置に桜が咲くが、覗く者もいない。桜がつまらないのではない。桜の花以上に人と人の話に花が咲いているのである。座る者。立って話す者。壁に寄り掛かって酒を酌み交わす者。酒びんを持って人と人の間で揉みくちゃにされている者。あっちで挨拶、こっちで握手。みんな笑っている。番長は広告代理店の社長で、広告の企画や販売の企画を得意とするプランナーだ。集まっているのはほとんどがその業界の面々である。広告業界は経済と比例するもので、いま、すこぶるよろしくない。だが、みんな笑っている。番長は183センチのでっかい体ながら、蚤の心臓なんですと当人が言うように、まあとんでもなくやさしく気持のいい男である。人を集める徳を持っている。でっかい体の上に、アニメ日本むかし話に出てくる村人のような、単純で無垢な顔が乗っかっている。神奈川県の高校でサッカーをやっていてゴールキーパーだったが、ゴールキックがそのまま相手のゴールに入ってしまったという武勇伝がある。デザイン事務所の社長のОくんがわたしに言った。人が集まるのはいいですね。元気が出ます。わたしは答える。預金の数より人の数だね。かみさんが、預金も大事よと叫ぶ声が聞こえた。活力にあふれた渋谷の夜だった。
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■100か0か。 ■2010年4月14日 水曜日 1時5分7秒

日本人は潔い。世界の人々にそういうイメージを与えていると誤解しているのはわたしだけだろうか。確かに武士道などぱらぱらとめくってみると、潔いように見える。だが、この自分たちでさえわかっていないいい加減なイメージが実は相当禍し、損をしているのではないかと最近つくづく思う。潔いというより、極端なのである。潔いという言葉にはまだ心地よさがあるが、極端という言葉には素直にうなずけない響きがある。潔いと極端は兄弟のように似て見えるが、実は敵同士のようにまるで違うのだ。あ、極端な言い方か。かみさんにしてもそうだ。いつも料理を誉めておいしく食べているが、今日の味噌汁ちょっと味が薄いなあとか、あるいは今日は少し濃いかな、とか一言でも言おうものなら、わかったもう一生料理なんか作らない、などと恐ろしいことを平気で言う。なんですぐ一生になっちゃうわけ。これは、潔いのではない。極端なのだ。だからわたしはかみさんの料理を絶対に批判しないことと固く決心している。仕事にしても、ただ一回のミスを、あいつは年中ミスばっかりしている、などと極端に決めつける上司がいる。そのくせ一度部長を誉めると、あいつは将来性があるとか、わけのわからない極端を平気で言う。潔いのではない。極端なのだ。民主党の支持率にしてもそうだ。ちょっといいことを言ったりやったりするとぐぐーんと上がり、小沢問題ではどどーんと下がった。極端だ。大勢の国民が、わーとあっちに極端に走り、わーとこっちに極端に走る。それまで、余裕があっていいねえ、などと言われて喜んでいた総理も、沖縄問題ではただの優柔不断と言われ、支持率はがた落ちとなった。日本人は極端だ。だいたい、100か0か。白か黒か。いいか悪いか、などという議論は単純すぎて、裁判所では必要だろうが、一般社会とはそうそう単純にはいかない。学校の試験だって、100点か0点かではなく、ほとんどがその間の63点から28点くらいの間を学生たちはうようよしている。だいたいが100点満点の人間なんかいない。どこかに弱みをもっている。神じゃないのだから。そのかわり0点の人間もいない。白か黒かという単純なものではなく、その間のグレイの中でうろうろ暮らしているのが人間だ。いいと悪いの間のよくわからないあたりをちょろちょろ生きているのが人間だ。ところが、最近の会議にしても、打ち合わせにしても、この中途半端な、あるいはとても人間的な部分をすぐに吹っ飛ばしてしまう。急ぎ過ぎるのか、面倒くさいのか。ていねいさがすこぶる欠けている。アイディアを吟味しない。もう一歩突っ込んで考えない。いま、物が売れない時代だが、もう一歩突っ込んでアイディアを吟味し、ていねいに考えを練れば、まだまだ売れるのだ。100か0ではなく、63とか47とか、そういうファジーなことをしっかり見つめることによって、もっともっと共感してもらえるアイディアが生まれるのだ。潔いなどと格好をつけて、ていねいにやることから逃げている人間が多すぎる。人間づきあいにもていねいさが足りない。会話ひとつにしても、ていねいさに欠ける。これは、わたし自身大いに反省するところだ。以心伝心などすでにないと考え、ていねいに話をすることだ。情報社会なのに情報をていねいに伝えないから、仕事がうまく進まない。スローライフという言葉はすでに時代の後のほうにいるが、この言葉の中にはていねいに生きるというすばらしいメッセージがあった。100か0かなどと面倒くさがりの愚かで極端な問題解決より、人間らしい中途半端な最善の解決をさがしたい。ていねいに、もう一歩突っ込んで考えたい。
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■雑音ケータイ ■2010年3月25日 木曜日 1時42分50秒

相手のケータイから雑音が聞こえる。声はきちんと聞こえるから問題はないが、電車の駅からかけているようだ。プラットホームのマイクの声が聞こえる。3番線に電車が入るというアナウンスがBGMのように耳に入る。用件は伝わるから、十分に電話の役割は果たす。あるとき、またその彼の電話に雑音が入る。波の音だ。海猫の声も聞こえる。海ですか?と聞く。そうです、今日は仕事で鎌倉に来ています。あら大変。お疲れ様。いえいえ、貧乏暇なしです。ところでオフィスですね?と相手が聞く。昼飯いっしょに食いませんか?と聞く。え、だって鎌倉でしょ? 大丈夫です。すぐ行きます。そう言って相手は電話を切る。すぐと言っても鎌倉からならどんなに早くても1時間以上かかる。どうするというのだ? するとオフィスのドアがトントンとノックされ、ドアが開いて彼が覗く。あれ、鎌倉じゃないの? いえ、ビルの前から電話したんです。でも波の音が聞こえたけど。海猫の鳴き声まで。そうですよ。ふたりで表通りのラーメン屋でランチを食べる。で、さっきの電話だけど。わたしは聞く。どうして波の音が聞こえたのかなあ。そう、この前はプラットホームにセットしたんだ、と彼が言う。渋谷駅のね。ああそうだ。駅から電話をもらったことを思い出す。セット?セットってなによ? わたしはいぶかって聞く。これ、雑音ケータイなんだ。彼が笑ってポケットからケータイ電話を取り出す。普通の形のシルバーのケータイで、特別な点はなにもない。普通のケータイじゃないか? そう、見た目はね。ここのキーを押して通話するんだ。彼が並んだキーボタンのひとつを指さす。いいかい。彼が言い、電話をかける。わたしのケータイが鳴り、出ると彼の電話から潮騒が聞こえる。ではこっちね。彼がかけ直してくる。プラットホームの音が聞こえる。こっちはどうかな。がちゃがちゃと音がする。雑踏が聞こえる。声が聞こえた。チューハイ2つ。そう聞こえた。居酒屋ですよ。彼が笑う。またかけ直す。鳥のさえずりが聞こえる。風の音も聞こえる。森です。ほう。もう驚くしかない。これは空港です。ジェット音が聞こえる。これ、映画館ね。これ、マージャン屋。これ、事務所の音。事務所の音まであるの? ええ、70種類入っています。かみさんへのアリバイづくりに使うのか? まあね。もっと面白いのもあるんですよ。これ、なんだと思います。女性の声だ。そうです。じゃあこれは? これも女性だ。そう、じゃあこれは? これも女性だ。最初が日本人の女性。次が中国人。その次がロシア人の女性です。すごいね。すごいでしょ。男性の声も5人入っているんです。へえ。クラシックも10曲入っています。面白いですよ。でも、もうこのセット止めようと思っているんです。どうして?面白いじゃないか。変な声が入るんです。変な声? そうメニューにない声。なに、それ? そうなんです。そういう人が増えているんです。そういう人って? このセットの登録者にメニューにない声が入るんです。なに、それ? 霊です。霊の声が入るんです。霊?霊って、霊の霊か? そうです。不思議でしょ? 不思議って言うより気持ち悪いね。そう、それで解約しようかと思っています。でも、なんで霊の声が入るんだろう? そうですよね。理屈も理由もわかりません。でも、止めようと思います。その日、彼は解約した。やれやれと思う。次の日、わたしがケータイで電話をすると相手から、あれ女の人の声がしますねと言われ、ぞっとした。さて、ケータイはどこまで進化するのでしょう。 
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■なぜ、いま、竜馬? ■2010年2月28日 日曜日 2時44分51秒

NHKの大河ドラマは、大いなる啓蒙作業だ、偉大なるマーケティングだ、などと回りの友人に叫んでいたら、「じゃあ、なぜ、いま、竜馬なんだ?」と聞かれた。酒の上のいい加減な話だからそれほど真剣ではないが、飲み話ながらある納得はしたいと思った。
「宮本武蔵」をあるときやった。これは、NHKが「いま、日本のためには個人の才能こそが大事よ」と世間に言ったんだと思う。スキルという言葉が大流行りだった。個々の才能を磨いてそれを国の力にする。なんだか資格資格と騒ぎ出したのはその頃からではないかと思う。
あるとき「利家と松」をやった。これは、「いま、夫婦で力を合わせようね」と世間に言ったんだと思う。大河ドラマのタイトルで二人の名前がついたのは初めてだという。考えてみると、景気が後退する一方で世の中の亭主たちは大変な目にあっている。ここはぜひ「奥がたの力」を借りねばならない。そこで「松」が登場した。世の中の奥さん、ぜひ松になって利家を助けてほしい、そういう願いがこもっていた。
「新撰組!」は集団の話だ。三谷幸喜さんは実におもしろい人で、新撰組のタイトルの後ろに「!」をつけて、「ね、これがいいでしょ」と言った。いいです。実にいい。でも、どういいのかよくわからない。そのわけのわからないところがいいのだ。新撰組という名詞に感動マークをつけてしまったのは快挙だ。仲間を信じ、みんなが幕府を守るという目標に向かって命をかける。近藤勇たちは、最初日本という国を守るために京に上るが、それがいつの間にか徳川幕府を守る側に回され、最後は朝敵、国賊にされてしまった。さらに言うと、新撰組の面々はエリート武士集団ではない。むしろ、武士として生きたいと願う下級武士や農家の連中であり、武士を夢見る最後の面々であった。だから、新撰組ご法度を破るとやたらに切腹させた。規律である。仲間を信じ、守るべきひとつの目標をもち、規律を守って命をかける。武士道という日本の思想原点が浮上した。日本にはっきりとした主張がほしいという啓蒙か。あるいは各自が信念を持とうよ、という啓蒙か。エリートなんかじゃなくてもっと普通のわれらで時代を創ろうよ、という発信だったのか。
さて、大河ドラマはいま「龍馬伝」である。なぜ、いま、龍馬なのか? 新しい日本を創るために大活躍した男である。世界的視野をもつ男である。新しい日本。グローバル。幕府にも長州にも薩摩にも土佐にも縦横に行き来し、敵も味方もなくすべての力を結集して、世界の中で堂々と生きていく明日の日本のために旧体制を変えた。そして、龍馬はエリートではない。土佐の下級武士だ。ここにも大いなるメッセージがある。志だ。明日の日本のために立ち上がる熱い志がある。力強い行動がある。敵味方以上にもっと大きな目標がある。世界の中の日本という発想がなくてはならない。身分に関係なく、男はみんな龍馬になれ。そして、このドラマで龍馬の分身として描かれている岩崎弥太郎の経済力もまた啓蒙したいところだ。実際、龍馬が天敵である薩摩と長州を結んだ手腕は、武器と米を使った商社の手法だ。表向きに武器を持てない長州に薩摩の名前で軍艦を持たせ、米のない薩摩に長州の米を回した。天衣無縫とも思える純粋な発想が、むしろ天才を思わせる。
さてさて、大河ドラマの啓蒙が通じて日本に何万人の龍馬が生まれ、新しい日本が創れるのだろうか。出てこい、龍馬、勝海舟、西郷隆盛。
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■アトランティスはどこだ。 ■2010年2月12日 金曜日 4時56分1秒

歴史か。神話か。寓話か。想像を絶する先進の文明をもちながら、大地震と大洪水のためにたった一夜にして消えた幻の大陸、アトランティス。その名をつけたのは、プラトンだという説もすでに消えたようだ。紀元前1600年、シリアにはカナン人、アナトリアにはヒッタイト人、ギリシャにはミュケナイ人がいた。エジプトは新王国時代。北の地中海を見ると、そこに大きな大陸が浮かんでいた。長い海岸線が見え、奥に高い山々が立ち並んでいる。クレタ島。この島がアトランティスだという説が有力だ。また、大西洋にあったのだという説もある。アトランティックオーシャン、アトランティスの海という名の大西洋。だが、アトランティスは海神ポセイドンの息子アトラスから取られた名で、大西洋とは無関係だという者もいる。以前、あるゲームメーカーの仕事でミニカーの新シリーズの開発をした。その頃、ミニカーブームであらゆる種類のミニカーがすでに店頭に並び、新しい発想が浮かばず苦悩した。ある日、ふと目にしたアトランティスを描く一冊の本。一瞬にして海の底に消えた幻の大陸では、中央にある大型の太陽電池で宮殿はもちろんすべての民の生活を賄っていたという。高い山の中央にある神殿を守るように中腹には軍の設備が配備され、港にはいくつもの堤防が設けられて海軍の艦船が並んでいる。港に近い裾野に点々と街は続き通りには車が行き来し、驚いたことにはそこにはタクシーも走っていた。もちろん全部電気自動車だ。それをモチーフに、アトランティスミニカーシリーズの開発を始めた。アトランティスの人々の生活を想像することは神々の暮らしを想像することだった。30種類ほどの車を開発し、さらに周辺の国々を創造して、軍事用の車まで考えた。このシリーズは見事に売れなかった。メーカーもいろいろヒントをくれたが、ほんの数種類を除いてまるで売れない。やがて、ミニカーブームは去り、このシリーズも消えた。やはり、幻をモチーフにしたのが悪かったのか。シリーズそのものが幻となった。ある人からアトランティスはやはり大西洋のどこかにあるんだ、と説得されたのはその頃だ。バミューダの海底に強力な磁気を発するなにかの存在がヒントだという。これも太陽電池だという。バミューダトライアングルの中心だ。その磁気が航空機や船舶の計器を狂わせる。この海底の深く壮大な海藻の森で育ったウナギが故郷の川に帰るのだが、不思議なことに半分は北アメリカ大陸に向かうが、残りの半分が大西洋の真ん中を目指すという。ウナギは川を目指すのであって海を目指すのではない。だが、ゆく先に川はない。かつてそこに大陸はあったんだとその人はいう。ウナギが教えていると、かなり強引にその人はいい張る。エジプトの選ばれた人々は、アトランティスの大学に留学していたと熱弁をふるう人もいた。壁画に出てくる動物の仮面をかぶった神々のような人たち。あれがアトランティス人だという。だとすると、アトランティスはやはり地中海、クレタ島あたりか。歴史か。神話か。寓話か。神が人間になる時代。巨大人から通常の人間に移る時代。神話が歴史と交差する頃。アトランティスはあった。幻ではない。最近クレタ島付近で、大きな海底宮殿の一部が発見された。それでもあなたは寓話だといい張るのですか。
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■梁山泊へ。 ■2010年1月25日 月曜日 2時7分47秒

中国山東省の西、えん州の南東、人はおろかすべての命さえ寄せつけぬ天外の地。雲を蹴散らし、青空を切り裂いて梁山は聳え立つ。その悪鬼の形相にも似た異様なむき出しの岩山を仰ぎみて人々は噂する。神さえ避けて通るだろうと。その天然の要塞梁山の麓、鉅野沢(きよやたく)と呼ばれる沢に男たちは終結し、砦を築いた。梁山泊である。時代は宋。頭領は宋江。梁山泊に入るには資格はいっさい不要だ。入るのも自由なら、出て行くのも自由。くる者は拒まず、去る者は追わず、である。ただし、条件が1つだけあった。人の役に立つものをなんでもいいから1つだけ持ってくるように。少林寺拳法のような拳の力であれ、脚の早さであれ、知恵であれ、やさしさであれ、札束であれ、人の役に立つものを1つ。笑顔だけでもよい。梁山泊のこの精神の土台は、黄河にあると想像する。黄河に抱かれ黄河に育った黄河文明は、中国漢民族の精神の土台だ。四方八方から流れ込むさまざまな支流を集め、また、四方八方へ流れ出る幾多の支流を持ち、それでなお広く大きく悠々と成長しながら大海に至る黄河。くる者を拒まない。去る者を追わない。そうしがら確実に大きな力となっていく。梁山泊の精神もまたそこにあり、島国の日本の精神とは違う見事さを見せる。もちろん、日本には日本のよさがある。これはこれで楽しい。まあ、比べる意味はない。さて、久しぶりに「梁山泊」なる集いを復活する。だれでもお出でよ。いやだったら次からこなければいい。だれでもいい。ただし、本家と違うのは会費1000円。人数10人限定。ビールが1人につき3本出る。つまみが出る。時間は2時間30分。目の前に30本のビールが並ぶだけで、わたしはわくわくする。軽く各位を紹介。テーマを決めて、最初の1時間か1時間半はみんなでそのテーマについて1人ひとり話す。たとえばテーマを「旅」とする。ある人は、旅は人生だ、と言い、ある人は、旅ほどつまらないものはないと話し、ある人は、海外転勤の話になる。なんでもいい。みんなが同じテーマで話し合うから、その人の生活や価値観や性格が見えてくる。1人7分。1分でもいい。話したいことだけを話す。たとえばテーマを「不思議」とする。ある人は、かみさんの話、ある人は、スプーン曲げの話、ある人は上司の話、ある人はエジプトの話。そして残りの1時間は、その延長でも雑談でも流れのまま。でも、最初はみんな同じ話。知恵が欲しい人は、テーマを提案するのも自由。そこで知り合う人たちが意気投合すれば仕事につながってもいいし、つながらなくてもいい。以前、競合する広告代理店の2人を合わせたら意気投合して、そっちの会社に転職した。それもいい。だれかへの否定はいっさいなし。悪口も悪い感情もなし。だれかを裏切るような者は参加させない。わたし程度のいい加減さはあっても、けして大事なことで人を裏切らない。そんな人々。そこからなにかが生まれる。まったく違う職種。まったく違う年齢。まったく違う人種。まったく違う日々を送っている人と人が出会い同じテーマをしていると、必ずそこから電流がスパークするようになにかが生まれてくる。理想は月に2回。最初にきた10人の半分の5人が次回は休み。半分の5人が、次の会に新しい友を1人づつ連れてくる。これを繰り返していると、あっという間に梁山泊の仲間は増える。水滸伝は言う。そこは、豪傑、野心家の集まる所と。人が集まり、仕事が生まれ、金が生まれ、時代が動き出す。それが社会の原始的な成り立ちだ。なにも起こらなくてもいい。梁山泊。まず渋谷から始まる。くる者を拒まず。
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■こちら、あなたの宣伝部。 ■2010年1月13日 水曜日 6時31分34秒

当社のコピーライターが、ふと言いました。最近、あちこちの会社の宣伝部が激減しました。もともと宣伝部がない会社ももちろんあります。でも宣伝広告は大事なコミュニケーションとして必要です。その出来不出来で商品の売り上げ、会社への人々の好意度が圧倒的に違います。ひとつのポスター、一冊のパンフレット、ちらし一枚、ホームページ、言葉ひとつの選び方で効果がまったく違ってきます。その通り。でも、いまはコストの問題でなかなかプロを使う状況でないことも確かだね。本当はこういうときこそ宣伝広告が重要なんだけどね。マックがあれば広告ができちゃうという会社もあるしね。われわれだって以前ほどテレビコマーシャルだの新聞広告だの、大型メディアの仕事は激減しました。そうなるとこれまで多くの会社さんとのお付き合いで学んできた広告の核心や方法論、コピーやデザインの力をみなさんの宣伝部として使ってもらいたいですね。それはいい考えだね。「あなたの会社の宣伝部」というわけですね。「そう、宣伝広告アイディアのデリバリー」みたいなね。「ピザではなく宣伝広告アイディアの配達」ですね。テレビの「アド街ック天国の街の宣伝部」の会社版ですか。そうだね。実際にあらゆる会社が「いいアイディアが欲しい」と願っているのは事実だろうからね。むずかしい問題はなんだろうか。まず、秘密事項を厳守できるか、でしょうか。それと、いくらわれらがプロだって叫んでも、本当の力はその会社の仕事をしてみないと実力はわからない、ということもあるね。あと、仕事をしていて思うことは、宣伝広告は絶対の信頼関係のもとに成り立つということもありますね。アイショウもあるからね。信頼は構築していけばいいし、アイショウは会ってわかりますからね。厳しいことをいうと、相手の会社を理解し、商品を理解するにもきちんとしたプロの頭脳がなくてはね。力を求めているところに、必要な力を届ける。これは宣伝広告も同じことだと思う。これからの日本は、必要なところに必要な才能を、ということも大きなテーマになると思う。人々の幸せを願うという一点がある以上、宣伝広告にまず失敗はない。コストの問題は話し合えばいい。ただ、価格破壊だけでは会社はつらすぎる。価格破壊で商品は売れるが、けして建設的ではない。成長性がない。それでは社会がもたない。あなたの会社、腕のいい宣伝部が必要でしょう。腕のいい若いコピーライターの話だが、面白い発想をするし、いやはやしっかりしたものだと、改めて感心した。実際にやってみたいものだ。坂本龍馬のごとく、若い力ととんでもない発想が時代を動かす、という時代なのかも知れない。広告という言葉ではなく、違う言葉が必要かも知れませんね。この男、またまた大胆なことをいった。今回のエッセイは、広告業界の実情と当社の宣伝広告になりました。
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■本立ちて道生ず。 ■2010年1月13日 水曜日 1時43分38秒

謹んで新年の御慶びを申し上げます。ある年、長野県下伊那郡座光寺村北市場でお正月を迎えました。今は飯田市になっています。母の実家です。父が戦争に行き、母とわたしが疎開したのです。そこは木曽山脈と赤石山脈にはさまれた伊那谷で、暴れ天竜と呼ばれる天竜川が遠くの木曽山脈の山裾で蛇のようにきらきら輝きながらうねっていました。元旦の青く高い空に凧が泳ぎ、冷たい風に頬をりんごにように赤くした子どもたちが下駄で走り回るのを、空を覆い尽くす雄々しい山山が笑って見ていました。洟を垂らし、つぎはぎの半ズボンでした。わたしは3歳か4歳でした。まだ凧を揚げることもできず、走ってもみんなについて行けずくやしい思いをしました。東京から逃げてきた疎開坊主と呼ばれ、村のみんなとわずか3、4歳ながら戦っていました。わたしが東京浅草生まれで東京育ちと言いながら、すこぶる田舎もんなのはその光景がわたしの原風景だからです。いじめられましたが田舎が大好きです。闘争本能も学びました。人間の根本は、田舎にあると信じています。自然は人間の師匠です。ある年、親戚家族といっしょに茨城県大洗で年越しをしました。大きな鳥居をくぐって那珂港方向に少し行ったところにある、目の下に波が打ち寄せる旅館でした。母の胸に抱かれるようにやさしく、静かな廊下に墨絵が飾られていて、とても趣がある旅館でした。大洗は絵に描いたような漁師町で、わたしにはその無骨なほどに素朴な佇まいのひとつひとつに誠実さが感じられ、強い方言の中に人々のあたたかさがあって、心底ほっとしたものです。店の前でアンコウを吊るして包丁を握る料理人の真剣な眼差しに頭が下がりました。風が吹くと、平然となびく松の一枝一枝が何かを教えてくれました。急がない力強さ、地に着いた豊かさ、根に着いた人間らしさをいまも懐かしく思い出します。海から上がる初日を拝もうと義兄と二人、大鳥居をくぐってまだ明けきらぬ海に釣りに行きました。あいにく雲が厚く初日はまったく見えず、さらに台風のような風で、釣り餌が宙に舞っていた光景と凍えそうな風の冷たさに、思い出しても体が震えます。自然は理屈ぬきに偉大です。田舎が好きです。人間の根本は、田舎にあります。新年にあたり、何を今年の目標にしようかと思いましたが、中国有子の言葉「君子は本を務む。本立ちて道生ず。」をこそしっかり実行しようと思い立ちました。わたしは君子ではないけれど、根本を努力しよう、根本をしっかり決めてこそ道が開ける。これを肝に銘じ、根本を学ぼうと決意しました。人間の根本て何だろう。幸せとは何か。それを一から学ぼうと思いました。長野県下伊那郡座光寺村北市場を走り回った田舎もんの自分に帰ろうと思いました。親戚家族とともに触れた大洗の素朴の誠実を見習おうと思いました。下落合で過ごした無垢な日々を思い出し、懐かしい川を忘れずに生きる一年にしようと心に決めました。人間の根本のヒントはそこにあると思います。「五輪書」を書き、「武士道」を書き、去年「葉隠」を出しました。今年は「論語」を出すために勉強中です。歳を取ってからの勉強は大変です。あの頃、もっと勉強しておけばよかったと、新年早々反省しています。勉強の根本に、素直な心がもてるかどうかが心配です。雲のように生きる。風のように生きる。自然体は嘘をつかない。これは、4年間学んだ空手道から得た心です。はたしてできるか。でも、町内の稲荷森神社にそう誓ってしまいました。頑張ります。本年もどうぞよろしくご指導くださいますよう改めてお願い申し上げます。
takanoblood1794@yahoo.co.jp
■会話は、心の距離。 ■2009年12月14日 月曜日 5時1分49秒

会話には、車のように会話ギアがある。話す者にはそれほど意識はないとしても、敏感な聞き手はこの会話ギアにピンとくる。話し手に意識がなく、聞き手が感じる。これがこわい。人間には45センチのバリアというものがあって、他人が45センチ以内に入ってくると自動的に防衛本能が働き始め、身構える。動物の生き抜くための本能だ。この防衛本能は当然心にもある。空手では間合いという距離感の取り方ひとつが命取りとなり、針一本の距離感の狂いさえ許されない。心の間合いという距離感を調整するのが、会話ギアである。日本人は、この会話ギアの使い方が極めて下手だ。心の間合いの調整機能が会話ギアだから、このギアの使い方が下手ということは、心の距離の取り方が下手で、心の通わせ方が下手ということだ。日本の歴史は、暗黙の了解とか、阿吽の呼吸とか、言わなくてもわかるだろう式会話に頼ってきた。それを美学とした。これは身分に上下がある時代の発想で、上から下への価値観だ。沈黙は金、などという諺は愚かな若殿にしゃべらせると心の浅さがわかるからしゃべらせなかっただけのこと。これが会話を成長させない愚かな美学だった。会話には、まず言葉の選定があり、語る順列がある。声のトーンがあり、速度があり、大きさがある。リズムがある。呼吸がある。この会話を作るのは、心だ。その人の育ち方、教養、品格だ。会話は日常的なものだから、だれも特に練習はしない。第一、会話を難しく考えたくはない。うるさく言うなら話たくない。その思いも成長しない理由だ。練習や勉強をしなければ下手なのは当然だ。企業やグループのトップに立つ者が会話下手だと、これは致命的だ。心が通じない。部下たちが意気消沈する。仕事ができるだけの人間なら、人の上に立たないほうがいい。感情的になる者は上に立たないほうがいい。心が会話に出て、嫌な言葉を選定し、会話のリズムも荒くなる。平常心の保てない者は、上に立ってはいけない。さらに、勉強を怠る者はトップに立ってはいけない。部下にバカにされる。勉強をしないトップは、部下にバカにされないように会話に本心を出さない。えらそうな語調で話す。わざと乱す。会議でも意図的に論点を狂わせたりする。だから、余計に見透かされる。若者は敏感だ。バカも利口も、人間の浅さもすぐわかる。会話の上手なお母さんは、子育てがうまい。さらに子どものことを心底思いやるお母さんは、すてきないい子を育て、日本に役立つ人材を育成する。世界とのつきあいが広く深くなった。会話の下手な日本人のままではいけない。世界は、日本を理解してくれない。心に信念を抱き、会話ギアを楽しみつつ、心を通わせたい。海を目の前にして空手部の後輩が、でっかい海ですねえ、と感歎の言葉を発したとき、親友のマツが言った。よし、この海、きみに上げる、持って帰っていい。後輩が答えた。先輩、今日、大きなバッグ持ってきてません。マツが言った。じゃあ、半分だけ持って帰れ。こういう会話が好きだ。ジョークの中に先輩の愛情と後輩の信頼が見える。会話は心そのものだ。ジョークももっとうまくなって欲しい。昨夜、渋谷で仕事をしていて一段落した7時、目の前の若者が腕時計を見て言った。高野さん、酒場に遅刻します。うれしい言葉の選定だ。酒場に遅刻ときた。若者との心の間合いが一気に縮まり、グラスを交した。言葉を大事にし、会話を磨きたいと思う。相手のことを知るために、心の開く会話ができれば人生がもっと豊かになるだろう。
高野耕一(takano blood1794 @yahoo.co.jp)
■鯉せよ乙女。 ■2009年11月27日 金曜日 6時7分7秒

目を上げて対岸を見て、いやはや驚いた。渋谷公園通りを闊歩するようなモデルギャルが、釣り竿を振っている。20万円のビトンのバッグを選ぶときのような真剣な眼差しで浮きを見つめている。市ヶ谷駅前の釣り堀、午後3時。モデルギャルは2人。2人とも長いまつげで浮きを見つめる。目を横に移すと、いかにも釣り師といういでたちのおじさんたちの間で、ディズニーランドが似合いそうな若いカップルが竿を振り回している。さらに横を見ると、ストリートダンサーのような派手な服装の若者が3人、なにやら大声でしゃべったり笑ったりしている。耳を澄ますと、彼らの言葉は日本語ではない。韓国か中国かミャンマーか。顔だけではまるでわからない。そんなに騒ぐと鯉が怯えて、餌を食わないだろうが。そんな目でわたしは見るが、彼らは一向に動じない。わたしのにらみは世界共通ではなかった。最近では、家庭でもにらみがきかないから、この機会にもうにらむのを止めようと決める。そのように、市ヶ谷の釣り堀が、時代を反映し始めた。国際的になった。わたしは、学校を卒業すると行きがかり上コピーライターになり、コピーに悩んだり、本を書いたりで、頭がいいわけでもないのに「考える」仕事についてしまった。コピーやアイディアに行き詰ると心がざわざわして、机を離れて考える場所をさがす。行きつけのドトールのテラス席でボーと空に質問したり、雲としゃべったり、コンビニで缶ビールを買って公園のベンチで黄色く色づいた銀杏に語りかけたり、街を見たり、人を見たり、もがく、あせる。いちばんアイディアが出るのは、最近では渋谷東急プラザの地下2階にある家族亭である。友と無駄話をする居酒屋もアイディアの宝庫であるが、日本はなかなか考える場所がない。マンガ喫茶は肌に合わない。図書館も好きだが、まわりのみんながおりこうさんに見えてしまうことがある。開高健さんのように、ウイスキーをもって街のいちばん大きい木の下に行き、木と語りながら飲むというのも好きだ。考える場所として市ヶ谷の釣り堀はいい。四谷に事務所があるときからときどきくる。月に1回くらいか。考える釣り堀だから、真剣に鯉を釣ろうとは思わない。だから、鯉のほうでもわたしをバカにして、釣れてくれない。それどころか目の前でバシャッとジャンプをして、ザマアミロという目でわたしをあざ笑う。隣のいかにも釣り師おじさんが、ひょいひょい大鯉を釣り上げる。目の前のモデルギャルに鯉がきた。大きく竿がしなる。きゃあきゃあ言いながら、満月のようにしなる竿をそれでも器用に操って、タモ網を左手で取る。暴れていた鯉も水面に顔を出し、空気をしこたま吸い込んで観念する。まわりの目がモデルギャルと鯉に注がれる。うまくやれよというやさしい目が集中する。カップルの娘の方が、ほんのちょっぴり嫉妬の色を目に見せる。鯉はタモ網に触れ、最後のひと暴れをすると、無事に網に入った。隣のおじさんが小さく拍手をし、わたしも左手の缶ビールを掲げる。思考は停止しているが、なにやら幸せな気分になる。国籍不明のアジアの若者たちも、口ぐちになにか叫びながら、モデルギャルの鯉を見ている。うまそうだな、とでも言っているのだろうか。1時間が過ぎた。終わりの時間だ。あら、また釣れなかったのね。受付の女性に言われ、餌を付けるのを忘れていたんです、と妙な返事をする。なにもかも古い市ヶ谷の釣り堀に世代を越え、国境を越えて新しい波が押し寄せている。鯉にもともと世代も国境もない。さていつの日か、恋も世代と国境を越えるのだろうか。
(たかの耕一:takanoblood1794@hahoo.co.jp)
■偽りの山 ■2009年11月24日 火曜日 7時42分57秒

都会に真実はなく、男たちは都会の偽りに耐え切れず山に逃げる。五日市街道を北上すると山はぐんぐん近づき、武蔵五日市駅前の交差点を左折する頃には里山に囲まれていた。橋を越え緩やかな坂を登り、道は五日市の古い町並みに続く。辺りの山々は頂上から紅葉が徐々に下り始め、街路樹の葉もすでに色を変えている。思った以上に山々の緑が濃く紅葉が目立たないのは、植林による針葉樹が多いからだ。街道沿いの古い二階建ての古民家に貸家の看板が掲げられていて、家賃はいくらだろうと話しているうちに道はなだらかに下り、目印の「黒茶屋」の看板が見えた。雨は上がり、この状態なら予定通り河原でバーベキューができます、とハンドルを握る空手部の後輩が言った。「黒茶屋」の看板の角を川に沿って左折すると道は急に細くなり、細かい起伏も増え、右に左に曲がりくねりながら里山の麓をぬって走る。車がやっと一台通れるほどの道幅で、たまにすれ違う農家の軽トラックとも、どちらかが道の端に避けなければならなかった。民家の柿が赤く熟れ、柿の木の上から二羽のカラスがわれらを見下ろす。なんとものどかな気分になる。川を越え里山をいくつかかわし、森はさらに深くなる。しばらく走るとやがて道は上り坂になってゆっくりと右に迂回する。そこに突然目指す欧風レストラン「メリダ」の白い瀟洒な建物は現れた。里山の中腹を刻んだ道路から左の川にせりだした崖の上のちょうどいいスペースに、いずみ先生が手造りで造ったレストランだ。南仏かスイスアルプスを彷彿とさせるその佇まいは、眠る森の中でふと目覚めたときのような清々しさを与えてくれる。道の反対側に美術館があり、その建物も先生の手造りだ。そして、先生はいま美術館の前に道にせりだすテラスを造っている。われらは美術館で作品を鑑賞し、うまいコーヒーを飲み、先生秘蔵の貴重な品々を拝見する。先生は、美術と古武道について屈指の方だが、いまは料理人で大工です、と笑う。妻に言わせれば、先生はまるで仙人か天狗ね、あんたはきっと憧れるわという方で、なるほどと頭を下げる。いなげやで材料を買い、われらは深い谷の河原で肉を焼き、野菜を焼き、山を見、川を見、酒を飲む。総勢9人。全員男というのはなにかもの足りないが、それはそれで楽しいものだ。山奥で男たちが集まって飲み食いする様は、落武者のようであり、山賊のようであり、中国の梁山泊のようでもあって、清々しい気風がある。清流と語り、山と語るわれらの心は、一枚づつ都会の偽りの衣を脱ぎ、むき出しの真実に近づくかに見える。都会では、むき出しの心は傷つけられる。都会の気づかいがまた、嘘や偽りを生み出す。人は、やさしいから嘘をつく。都会で日常についている嘘や偽りは、やがて人間を侵食し、人間そのものを偽りのかたまりに変える。われらは、その偽りの衣を洗い流すために清流と語る。山と語る。むき出しの心のまま夜、レストランでうまいチリワインを飲み、アンダルシア地方の味覚に酔う。朝の目覚めも格別で、朝食もまた見事な味だ。空気がうまいから料理もうまいのかな、と言うと店の人に、料理がおいしいのです、と訂正された。先生に、山には真実があります、と言うと、この山は死んでいるよ、と答えた。山は死んでいる。木は死んでいる。だが、偽りの原因は山や木にあるのではない。人間にあるのだ。そう聞こえた。都会の偽りも、街にせいではない。人間のせいだ。人は、自分で問題を起こし、自分で騒いでいる。山も木も雲も、こんな愚かな人間を許してくれるのだろうか。子どもたちがむき出しの心で生きられる社会は、夢か。
(たかの耕一:takanoblood1794@adventures.co.jp)
■午後3時の酒の言い訳。 ■2009年10月22日 木曜日 5時58分23秒

父が酒を飲み、ふらふらと駅前通りを帰ってくる。まだ陽は高く、外は明るい。ぼくが生まれてすぐ父は戦争に行った。甲府の練兵所から出征する前に、軍服の父がぼくを抱いている茶色に変色した写真が、ぼくの写真の中で最も古いものだ。ぼくは1歳くらいだろうか。帰る確率などほとんどない中国戦線に、若い母と乳飲み子のぼくを残して否応なく送られた。心の広い聡明な父であったが、学歴がなかったから、おそらく最前線の消耗品の兵士として送られたのだろう。運がよかったのか、逃げ回って生き延びたのか、父は帰ってきた。父が帰り疎開先の長野県飯田市からぼくらは東京の高田馬場に帰った。父はシミ抜き職人だったが、戦後にそんな需要はない。だからぼくらを食わせるために消防士となった。一日置きに消防士をやり、非番の日にも休むことなくシミ抜きの仕事をもらって歩いた。そんな父は酒を飲み、ふらふらと生きた。ぼくには、戦争の後遺症から逃げるための酒に見えた。幼いぼくには正確には理解できないが、戦友が目の前で弾丸に倒れ、あるいは人間に銃を向けて引き金を引き、理性では納得しえない地獄に置かれたのだろう。父は、いっさいぼくに戦争の話をしたことがない。だからぼくには父が中国でなにをどうしたのかまったくわからない。だが、戦場という非人間的な地獄の中で3年以上をすごした男に、その後もし人間的な感情が残っていれば、酒に逃げるか自殺をするかしかないのではないかとぼくは思う。酒に溺れる父に、母は絶対に愚痴をこぼさなかった。ただ、淋しそうに見ていた。母は、明るかった。戦後の時代を笑って生き抜いた。父は戦場で戦い、母は時代と戦った。ぼくは、いま、新橋駅前で空を見上げながら、酒を飲んでいる。午後3時。妻にも子どもにも会社にも世の中にも隠れてコップを右手に持ち、流れる雲を見ている。父が笑い、母があきれている。父さん、父さんは酒に逃げたのですか? ぼくは聞く。そんなことはおれに聞かずに酒に聞け。父はそう言って笑う。酒は逃げ場ではないよ。酒はおれの最高の友だ。父はそう言う。母はこう言う。耕一、いい加減におしよ。お前は人のためになる人間におなり。お前は一番になれる子だからね。気の強い母だった。父は、絶対に他人のせいにするなと教え、母は、結果を恐れず向かっていけと教えた。自由に生きろ。人のために思いきり生きろ。そういう二人だった。父も母も無類に明るかった。戦争に巻き込まれた父も、時代に翻弄された母も、いつも笑っていた。なにがあっても笑っていた。辛いときは陰で泣く母だった。83年間、酒を離さなかった父と、88年間笑って生きた母は、すでにない。新橋駅前、根室食堂という飲み屋で「つめ酒」を飲んでいる。焦がした花咲ガニのつめがコップにどかんと入っている。つまみは白菜。日本は未曾有の不況下にある。政治家も、官僚も、社長も、猫も杓子も、「かって経験のない」時代だと言う。おれもそうだったよ、と父が言う。人生たかだか生きて100年。たいした経験もできやしない。だれもかれも「かって経験のない」世の中を生きていくものだ。人間も動物もそうだ。そう言う。そう、みんな経験のない時代を日々いきているのだ。ぼくも経験のない今日を生きている。なにも恐れることはない。だから勉強すればいい。学べばそれでいい。新橋駅前。空を見上げ、酒を飲み、父母と話す。酒飲みは言い訳をしつつ「つめ酒」を口に運ぶ。母さん、ぼくは一番にはなれなかったよ。母は言う。おまえはおまえの一番でいいのよ。
(たかの耕一:takanoblood1794@adventures.co.jp)
■そう思ってほしい。 ■2009年9月28日 月曜日 6時8分39秒

わたしがそう思うのだから、あなたにもそう思ってほしい。世の中の出来事や価値観について、相手にそう同意を求める気持ちがあって、さらに、その同意を求める度合いが徐々に強くなる。そう思ってくれよ、頼むよという願いになり、ついにはそう思えよこのやろう、と命令になる。だからわたしはいやがられる。そんなに大げさでなくても、晩飯は魚がいいとわたしが思うのに、かみさんは餃子がいいと言う。このやろうと思うわたしが悪いのだろうか。そんな「そう思ってほしい」感覚は、淋しがり屋や自己顕示欲の強い人間に限ることなく、だれにでもあるコミュニケーションの原点ではないかと馬事公苑の入口にあるスターバックスのテラスでアイス抹茶ラテを飲みながら「中国古代史の謎」という本を読みながらふと思った。世界の風の吹きようで、なにやら中国とはもっと正面から付き合う時期がきたような気がして、そのために彼の国をもっと知ってみたいと思い、学びのためにこの書を紐解いた。中国4000年とひと口に言うが、4000年の昔、紀元前2000年頃、中国は殷周時代と呼ばれ初めての帝国が形作られた。考古学上、200万年前の猿人、50万年前の北京原人などものすごい発見はあるが、わたしのあたまはとてもそこまでついて行けない。そこで殷周時代から始めたわけだ。殷帝国の前に夏という伝説の帝国があったと言うが、これが実在か伝説かの結論がない。後日息子が最近の中学の歴史の本を示し、夏帝国が実在したことがわかった。殷帝国が周帝国にとって代わるときに活躍した人物が、夏帝国を形成していたキョウ族であり、その族長がかの太公望呂尚である。釣りをやるわたしには太公望が他人とは思えず、いまも多摩川あたりに行くと、やあと呂尚が笑いながら振り向くのではないかと思うほど身近な人物だが、実は中国史上大変重要な男である。さて、現在の中国の9割を占めるという漢民族だが、この民族が単一民族ではないという学説が有力だ。日本の25倍の国土をもつ中国に、イラン、トルコなどの西方遊牧民族が羊を追いながら大山脈を越えて移住し中国に住み着いたというが、その悠久の時の流れの中で多くの民族が融合し、排他しながら漢民族を形成したというのだ。その説は大いにうなずけるものであり、黄河の流れのように多くを飲み込み、拡大と分散を繰り返しながら巨大化して行く様子が目に見えてくる。あまりに大ざっぱな見方だが、詳細はこれから勉強して行く。話はもとの「そう思ってほしい」にもどる。西方民族が大山脈を越えるにしても、おい、向こうに行ってみようぜ、という者がいて、「そう思ってほしい」「そう思う」という仲間が集まった。そんな民族が帝国を創った。つまり、「そう思ってほしい」「いいよ、そう思うよ」という気持ちがふくらんで帝国を創った。向こうへ行こうぜが、国を創ろうぜになった。立地条件とか環境とか時の流れとか、さまざまな条件で国ができたが、大きな要素として「そう思ってほしい」「いいよ」が、実は絶大な力を発揮したのだと思う。そう思うと、世の中のすべてが「そう思ってほしい」「いいよ、そう思う」で成り立ってくるのではないかと思えてくる。戦争もそう。平和もそう。
人は人を誘いたい。一人じゃなにもできない。おい、飲みに行こうぜ。いつもの仲間が声をかけてくる。「いいよ、そう思う」とうなずくわたしである。
(たかの耕一:takanoblood1794@adventures.co.jp)
■他人に花もたせてこそ男。 ■2009年8月31日 月曜日 6時4分23秒

せっせと種を植え、水をまき、苗木を育て、苦労して花を咲かせたら、笑ってその美しい花を他人に捧げる。それが男というものである。そんな聖人君子のような生き方にあこがれているが、いやはやむずかしい。最大のむずかしさは、実は陰で苦労することではない。花が咲いたら捧げようと思っている相手が、横から、その種の選び方はいかがなものかとか、ちょっと水をまきすぎではないかとか、その肥料よりこっちの肥料のほうがいいとか、ぎゃあぎゃあうるさいのである。そのうるささに笑って従えるかどうか。これがむずかしい。じょうだんじゃない。おまえさんになんか花はやらない。そういう感情が自然に湧きあがる。わたしは、男になれない。主君のために命を捧げる葉隠武士のごとく完全な陰の中で、他人のための花を育てることができない。わが国学院大学空手道部のOB会はいま、現役部員数の激減問題に直面している。OBの参加人数も増えることがない。地方のOBと若いOBの参加が少ないのである。そんな中で空手道部は創部60周年を迎える。現役のために9代次呂久英樹先輩を監督に迎えた。OB会の発展のために12代小柴先輩を会長に据えた。次呂久監督のもと、2年生の大角くんと遠藤くんが急速の進化を遂げている。1年生も日々逞しく成長している。次呂久監督は、国大空手部に次呂久あり、と詠われたほどの剛の者でありながら、いま、自分を陰に置いている。現役に花をもたせるために、水をまき、肥料をまいている。黙々と空手の基本を現役の体に叩き込んでいる。大会での優勝を視野においてはいるが、監督の視線はその先の彼らの人生の勝利に向けられている。空手は、スポーツでありながら武道である。道である。中には愚かな先輩たちもいて、試合に勝たなければ意味がない、という。違う。試合に勝つだけでは意味がないのである。その違いがわからぬまま、横からごちゃごちゃいうOBがいて、それを指摘すると彼らはOB会に参加しなくなる。彼らは自分のために参加しているのであって、他人に花をもたせようと思っているのではないのだ。若いOBは参加しても発言の機会がない。古老長老の発言を聞いているだけだ。これではつまらない。会長も改革の糸口がつかめない。注意すれば古老長老は、OB会にこなくなる。地方のOBの不参加理由は二つ考えられる。空手部なんか忘れたいのだという者もいる。また、東京を中心とするOB会には遠くて参加できない。15000円の年会費を払っても、東京の連中が渋谷で飲んでしまうに違いない。主にこの二つの理由だ。一つ目は、どうしようもない。青春時代の4年間を過ごした空手道部を大事にしてほしいというしかない。そして、助けてほしいと素直に願う。二つ目は、いま、会計は明快である。OBたちはむしろ自費の持ち出しでやっている。道場に顔を出せば、帰りに現役たちにラーメンを食わせる。自費である。みなさんの会費をこそこそ使うなんてケチなOBは、もはやいない。現役に花をもたせる。若いOBに花をもたせる。地方のOBたちに花をもたせる。日下部くん、斉藤一久くん、斉藤あきひこくん、海上くん、上原くん、河野くん、田中くん、その他にもいる。陰に生きる男たち。人に花もたせる本当の男たち。空手道部創部60周年。創部者、初代小倉基先輩に深く感謝し、すべての関係者の絆を強めたい。
(たかの耕一:takanoblood1794@adventures.co.jp)
■犬も歩けば。 ■2009年8月19日 水曜日 6時41分35秒

犬の目を見ていると、鏡で自分の目を見るのはもちろん、人間の目を見たくなくなる。一点の濁りもなく、微塵の疑いもなく、まっすぐに見つめる宝石のような犬の目の純粋な輝きにこころが洗われるのだが、その後、人間の疑いに満ち満ちた目に合うとなんともやり切れなくなる。犬の目の奥には切ないほどの主人に寄せる信頼の光がある。こちらのこころを一生懸命に理解しようと努め、最後は自分が人間ではないので、理解できなくてごめんなさい、という切なさにいきつくのだ。こんなに相手を理解しようと努力する人間はもはやいないから、よけいに犬と話していたいと思うのだ。
わが家の初代愛犬は、三河柴のテツだった。日本犬である。息子のゴウタが小学生のころ、妻と二人で新宿のペットショップで買った。ゴウタが臨海学校に行っている間に買って、驚かしてやろうと思った。ペットショップのガラスケースには、ころころ転げ回るかわいい子犬がたくさんいて、どの子犬も夢中で駈け寄ってくる。秋田犬の子、柴犬の子、どの子犬も丸い顔につぶらな瞳が愛くるしかった。
うわ、かわいい。妻はもうどの犬がいいのかわからなくなっていた。わたしにしても同様だ。そのうちふと妻が一匹の子犬に目をつけた。あれ、かわいい。ほら、あれ。その子犬は、こっちに駈け寄ることもなく、部屋の奥できょとんと座っていた。子犬なのに堂々としているわ。妻は言う。風格さえあるわ。小熊か狸のようにも見える丸顔。丸い黒目。全体が薄いグレー。ぬいぐるみのようだ。堂々という言葉と風格という言葉が、たいそう気に入った。あれだな。私が言い、店主が横で、お目が高いともみ手をする。三河柴です。猟犬です。堂々です。風格です。店主の言葉にうれしくなっていると、あと3万円いただければすぐ血統書を作りますが、と店主が続けて言う。え、わたしと妻は絶句して顔を見合わせる。血統書って、店の奥で簡単に作っちゃうものなの。すぐできますよ。妻がわたしのシャツの裾をちょんちょんと引っ張り、小さく首を振り、店主と目が合って愛想笑いをする。血統書はいりません、わたしにだってないんだから。わたしはわけのわからない返事をする。段ボールに入れて子犬を連れて帰り、その夜臨海学校から帰ったゴウタと対面した。
わ、ぼくの犬。ゴウタは子犬に抱きつく。子犬もゴウタをぺろぺろなめる。子犬はテツと命名された。テツに異変があったのは次の日だ。突然ぐったりした。どうしたんだ。わからない。ぼくのテツ、死んじゃうの? ゴウタはすでに泣き顔だ。やっと見つけた環パチの向こう側の実相寺の近くのペット病院に行く。テツ、大丈夫? 妻もうるうるし始める。この犬は生まれつき腸が弱いようですね。医者が言う。生まれつき? なんだ、それ。あれ、それでペットショップでも走り回っていなかったのか。座りこんでいたのか。堂々じゃないじゃないか。だれだ、風格なんて言ったのは。あの犬屋のおやじ、お目が高いだと。テツはすぐ元気になったが、妻はしばらく機嫌が悪かった。なんで3万円の犬に10万円も医者代払うのよ。わたしに文句を言っても仕方ないだろ。テツは16年生きた。水が大嫌いな猟犬だった。子どもと女性が好きだった。犬を見るとけんかを吹っ掛けた。自分を犬と思っていなかった。ゴウタとは兄弟のように育った。いま、深大寺に眠っている。二代目のトイプードルのチュウを連れて、深大寺のテツに会いに行く。テツがゴウタの兄弟なら、チュウはゴウタの分身のようである。テツと同じく、チュウもまた純粋な瞳で相手をじっと見つめ、相手のこころを理解しようと努力する。その瞳の奥に切なさがきらりと光る。人間でなくてごめんなさい、と犬の瞳が言う。
(たかの耕一:takanoblood1794@adventures.co.jp)
■キムタクと対決。 ■2009年7月31日 金曜日 7時32分25秒

JR線吉祥寺駅、井の頭公園側の商店街、ある金曜日。狭い通りに人がひしめき合い、おまけに通行人を押しのけるようにひっきりなしにバスが通る。通りに面した店も、小さな雑居ビルにも、飲食店が目につく。大型のチェーン店の居酒屋、昔からある小さな居酒屋、回転寿司屋、回転しない寿司屋、ラーメン屋、コーヒーショップ、牛丼屋、蕎麦屋、それらの飲食店の間にパチンコ屋とゲームセンターがある。祭りのように赤い提灯がずらりと並んでいる。並んだ提灯に明かりが灯った。通りはまだ暑く、わたしは汗をかいている。井の頭公園からの風も、ここまでは届かない。わたしは、古い雑居ビルの急な階段を上がった2階の居酒屋にいる。天然素材を使った和風の店で、店内も天然木を多く使ったつくりで広い。友人と待ち合わせをしているが、時間はまだたっぷりあった。広いカウンターの隅に座る。飲み放題888円にこころ引かれたが、結局普通の生ビールを頼んだ。とりあえずビールを飲んで、2杯目に熱燗を飲みたかったからだ。500円の刺身盛り合わせとお新香を頼む。なあ、キムタクよ。わたしは、目の前で爽やかに笑う青年にいう。長い髪。陽に焼けた肌。今日もキムタクは爽やかに笑う。勝負しようぜ。わたしがいい、いいよ、とキムタクが答える。二人でいつもの勝負をする。今日もおれの勝ちだけど。わたしはいう。最初は、柔道だ。最初から、そうくるか。それは、文句なしの負けだ。キムタクがあきれて、ビールを飲む。おれ、格闘技はあんまりねえ。よし、@対9で、わたしの勝ち。じゃあ、サーフィン。なんだよキムタク、お前だって最初から強力にくるじゃないか。うん、おれも勝ちに行く。H対1で、キムタク。わたしはボディボードしかやったことがない。じゃあ、英会話。英会話ねえ。C対6で、わたしだ。いや、E対4でおれだ。よし、じゃあ実戦だ。ハウドゥユウドゥ。アイアムファイン。よし、引きわけだ。D対5。ダンス。ダンスか、やばいね。そりゃ、キムタク、そっちはプロだからな。I対0。ベーゴマ。ベーゴマ? 聞いたことあるけど、やったことないもんな。よし、@対9でわたし。ボーリング。ボーリングか。キムタク、お前のベストスコアは? 255点。まいったねえ、わたしの最高点は、ジャスト200。E対4でキムタク。駈けっこ。駈けっこかよ、この前テレビ番組で坂を駈け上るやつをやっていたなあ。あれ、頑張ったもんな。わたしの負けだ。F対3だ。キムタク有利。よし、どっちが女の子にもてるか、とわたし。高野さん、それは勝負にならないよ。そうじゃないよ。ファンの数じゃない。女の子が本気で惚れるかどうかだ。そういいながら、やっぱり止めよう、これはやっぱりわたしが不利だ。ね、そうでしょ。キムタクはお新香をつまむ。預金。おい、キムタクよ、勝負にならないよ。高野さんだって、バブルで稼いだ口でしょ。芸能人といっしょにするなよ。ましてやキムタクと預金の勝負してどうするのよ。で、キムタクよ、お前さんは、いくら貯めているんだ。20億円か、30億円か。そんなにあるわけないでしょ。3億円か、5億円か。いけねえ、やめよう。話がつまらない。高野さんも意地っぱりだなあ。当たり前さ。30年前のわたしなら、文句なしにわたしが勝つ。キムタクが腹を抱えて笑ったとき、わたしの携帯電話が鳴った。高野さん、遅れてごめん、いま、駅に着いた。あと5分で行く。待ち合わせをしている広告代理店の部長からだ。はい、待ってます。じゃあ、また。キムタクが軽く頭を下げて出て行く。先日、わたしはツマブキくんとも勝負した。妄想は時間潰しに最高である。日々、好日。
(たかの耕一:takanoblood1794@adventures.co.jp)
■ハイエナに思いやりはない。 ■2009年7月21日 火曜日 2時11分14秒

ハイエナは、肉に食らいつく。ハイエナの目の前にいるのは、鹿ではなく、肉だ。ある経営者の方と話していて腰をぬかした。金です。すべては金です。なにがなんでも金です。彼は、堂々とそう言う。本当にそう思うのですか、と聞き返した。逆に、あなたが甘いというようなことを言われた。わからないわけではないが、それを会社のトップとして公言するのは、非常に具合が悪い。人間はハイエナになれと言っているのだ。肉に食らいつくハイエナのように、金に食らいつく人間になれと言う。知恵もなく、文化もなく、品位もなく、社会は消滅しますよ、と言ってもどうも納得していないようだ。
彼の会社には、まだ人間的な社員はいるし、周りには彼をオトナとして見る子どもたちもいる。社会がある。そこに向かってハイエナになれとは、恐ろしいことを言うなあと思わず首を振った。会社が経済的に苦しいのはどこもいっしょである。だが、ここが人間として生きるか、ハイエナに落ちるかの分岐点である。
思えば、世の中はどんどんハイエナ化している。世界情勢のハイエナ化。日本の国のハイエナ化。ハイエナと人間の違いを整理しよう。わたしの私見だから、異論はあると思うが、まあ聞いていただきたい。ハイエナは、空腹を満たすという目的に向かって、そのまま行動に出る。肉に食らいつく。人間は、肉を食べるにも、ハイエナのようにただ食らいつくのではない。焼いたり、皿を用意したり、ナイフを使ったり、フォークを使ったり、タレを開発したり、横にワインを置いたりと、知恵を使う。工夫する。そこに文化が生まれる。人間は、@目的⇒A知恵、工夫、思想⇒B行動、の流れを持つ。Aは、人間が築いてきた文化だ。ハイエナにAはない。@から突然Bとなる。極論すれば、@から突然Bにいくのは、強盗をしても金を手に入れる、という理論だ。現にハイエナは、他の動物の肉を横から奪う。人間のもっとも人間らしいところ、人間としての存在理由は、このA文化にある。貧すれば貪する。これは文化を否定する言葉だ。人間が人間として生き抜いていく結論など、だれにも出せるものではないが、ハイエナのように本能にまかせて生きるだけではだめだ。かといって、文化ばかりを叫んでも生命力の弱い動物になり下がる。人間は動物であることに間違いはないが、ハイエナのように本能をむき出しにすれば、世界は戦争に包まれ、地球さえ滅ぼしてしまう。人間は神を創造し、自ら弱さを認めたところから動物と違った。ハイエナに神はいない。さらに、科学もない。人間は神と科学のバランスで進化する。本能だけのハイエナに進化はなく、むしろ退化と滅亡へと進む。
思えば、視聴率さえあがればなんでもするテレビ番組が、子どもたちや社会をハイエナ化したことも事実だ。文化の中で大切な、思想がなかった。恋ひとつにしても、@から突然Bである。Aなど面倒くさいのである。実際、文化とはある意味面倒くさいものである。テレビ社会が亡国につながると看破したのは、ノーベル賞作家の三島由紀夫だ。文化の究極となる思想とは、相手に対する「思いやり」である。実は、世界を救い、街を救い、家庭を救い、自分を救うのは、もはや「思いやり」しかないとわたしは思っている。国々も、政党も、企業も、なにもかもが自分の都合だけを主張して生き始めている。ハイエナが目の前の鹿を肉としか見ないように、お客さまを金としか見ない企業が増えないことを願うだけだ。オトナたちのハイエナ化が、子どもたちや国の将来をハイエナ化していることに気づくべきだ。
(たかの耕一:takanoblood1794@adventures.co.jp)
■傘をたたんで、母は。 ■2009年6月19日 金曜日 6時30分25秒

「梅雨傘を たたんで母は 旅立ちぬ(耕雲)」。6月11日。朝まで降っていた雨が午前11時にはあがって、神が手を差し伸べるように、雲間からやさしい陽光がこぼれ始めた。新橋駅でバスを降り、汐留の高層ビル群を見上げると、ビルとビルの間にからりと晴れ上がった青空が見える。海からの風が、まだ乾き切っていないアスファルトの大通りを吹き抜ける。母は、晴れを呼ぶ女性だった。母ちゃんが何かしようとすると、いつも雨が止むんだよ、不思議だね。ともに暮らす三男の弟・信治が驚いていう。ぼくらは、男ばかりの五人兄弟。次男の敬二は、26年前、38歳で他界した。ぼくらは全員、母のことを母ちゃんと呼んでいる。第一京浜国道の隣のドトールコーヒーの通りに面したテラス席が空いている。200円のアメリカンコーヒーを注文し、テラス席に座る。行き交う車の列に夏を思わせる陽光が照りつけ、道行く人々は上着を脱いで手にもち、ハンカチで汗を拭く。打ち合わせまで15分ある。空が青すぎる。母と信治のことを思い出す。今年1月、88歳を迎えた母は、数年前から認知症が始まっていて、ベッドに寝た切りとなった。左腕の肘の横に肉腫が見つかったのは、昨年だった。新大久保の社会保険庁中央病院で手当てを受けた。放射線治療である。ザクロのように腫れあがった肉腫がはじけたら、危ないです。細菌に感染したら、その日のうちに命を落とすこともあります。主治医の先生が、全力を尽くします。とりあえず10回ほど放射線で叩きましょう。そういった。下落合の実家から、新大久保まで通院する。その日から、母と信治の新たな戦いが始まった。会いに行くと、車椅子の母は、気丈に笑った。長男のぼくを思い出さないこともあった。信治が、耕一、長男、と母の耳元で叫び、ぼくが母の手を握るとうれしそうに笑った。母の手が細く小さかった。1クールが終わるころ、病状が落ち着いた。四男の里志も五男の守男も小さく安堵した。信治が家で世話をするのが大変だった。介護ホームにもお世話になった。夏、看病する信治が癌に犯された。2度にわたる手術で、肝臓を取り去った。自分が入院しながら、信治は母の心配ばかりしていた。彼は、会社を辞めた。母は、2度目の放射線治療に挑んだ。ザクロは確実に大きくなっていた。今年、母は熱を出した。左肺に影があった。緊急入院となった。白い影は、たちまち左肺を潰した。26年前、敬二を看取り、7年前、父を看取った信治は、近づいた梅雨の雨よりも多くの涙を流した。結婚もせず、母とともに暮らしていた信治の悲しみは、ぼくの数十倍数百倍のものだ。高校・大学と合宿生活が多く、早くから下落合を出てしまったぼくは、長男とはいえ信治に顔向けができない。コーヒーを飲み終わり、打ち合わせをする。雨が降って、止み、晴れたことが気になった。昨日、転院を予定していたが、病状が悪化して無理だった。医師のすすめもあって、信治が個室を手配した。辛そうだったら、モルヒネを打ってください。ぼくらは、医師にそうお願いしていた。モルヒネを打つと、長くても一週間しか命はもちません。医師がそういったが、ぼくら兄弟は、母の一生を辛いもので終わらせたくないと思い、お願いした。もう、本人に決断する意志も力もなかった。打ち合わせが終わると、病院から電話があり、すぐにきてくれという。守男とぼくは新橋からタクシーを飛ばした。妻ののり子が見舞にきていたが、そのまま母のそばにいた。弟たちの家族が集まり、息子の豪太が4時に病院についた。4時25分。母は88年の生涯を閉じた。父を愛し、敬二を愛した母は、静かに彼らの待つ場所に行った。「弟の 涙に負けて 雨あがり(耕雲)」。な、あんちゃん、晴れただろう。信治がいった。
(たかの耕一:takanoblood1794@adventures.co.jp)
■空手道部に入りませんか? ■2009年5月8日 金曜日 2時1分37秒

日本列島をソメイヨシノが咲き抜け、八重桜が花びらを落とし、2009年の春が行こうとしている。だがさびしいかな、創部60周年を迎えるわが國学院大学空手道部は、まだ深い冬の中にいる。やっと雪解けの兆しが見えてきたのは、9代次呂久英樹先輩を監督に迎えた昨年のことだ。新監督の次呂久先輩は、13代のわたしが空手道部に入部した40数年前に監督となり、その後わが空手道部を全国制覇へと導き、名門の道を築いた武道家である。初代小倉基先輩が応援団と同時にわが空手道部を起こして60年、部員数の激減により、選手5人の団体チームさえ組めない厳しい状況が続いている。わたしの現役の頃には100人近い部員がいた。部員激減の詳しい原因はわたしにはわからない。空手そのものが時代の潮流からはずれ、人気のないものとなったのかと思ったが、あながちそうともいい切れない。サポーターばかりだとはいえ格闘技がブームとなり、大学空手道においても明治大学や帝京大学には多くの部員がいると聞く。われら空手道部OB会「紫魂会」は、この状況を憂慮し、新会長に12代小柴先輩を迎え、まず次呂久先輩を口説き落として監督に迎えたというわけだ。小柴会長のマニフェストは二つ、現役部員の増強とOB会員の参加数の増加だ。昨年の春、3年生の女性主将と2年生が3人いた。だが、その部員たちも去った。残念なことだ。とくに3人の2年生は、純粋な心をもち、空手が好きな連中だった。いまいればどんなに強くなっただろうと無念に思うが、もはや死んだ子の歳を数えても仕方があるまい。昨年、大角くんと遠藤くんが入部し、次呂久監督のもとでこの1年間稽古に励んだ。大角くんと遠藤くんは、先日の駒沢大会で一般の部で3位に入賞したコーチの丸茂くんの厳しい稽古にも耐え、日を増すごとに強くなっている。同時に、たった二人で國學院大學空手道部を守っている。広い道場でたった二人の稽古を続ける彼らを見るたびに、強くなれと祈らざるを得ない。そして4月、待望の新入部員が入った。小島くん、松浦くん、古橋くんの3人の若者だ。たった3人、されど3人である。実にいい顔をし、いい瞳をしている。高校を卒業して一度社会人を経験して大学に入り直した小島くんは、空手という一途の道を歩む熱血の男と見た。不敵な眼差しで、社会に挑む気配をみなぎらせる松浦くんの、頼もしい風貌は心強い。付属の國學院高校の水泳部だった古橋くんは、ジャニーズ系のまさにイケメンだが、芯の強さを感じさせる好青年だ。この3人、わたしに新撰組を彷彿とさせる。小島くんは、悠然たる近藤勇。松浦くんは、燃える土方歳三。古橋くんは、剣の天才沖田総司。さらに、阿南高校で空手を経験している長野県飯田市出身の2年生の長沼くんの入部がうれしい限りだ。新入生が入ってきて、大角くんと遠藤くんの成長ぶりが際立って見える。高校から空手をやっていた素地が磨かれ、技に切れが見え始めた大角くんに落ち着きが出た。入学時、姿勢の悪さを矯正された遠藤くんは、背筋がしゃきっと伸び、技に速度が加わり、試合場でも堂々と見え始めた。まだ國學院大學空手道部の春は遠いが、爽快な風が吹き始めた。もっと部員を集めたい。空手で磨いた生涯の宝塔を心身に打ち立てん若者よ、ぜひ、空手道部に入部を。11月の60周年記念パーティには全国のОBの参加を呼び掛けたい。冬は、必ず春となる。
(たかの耕一:takanoblood1794@adventures.co.jp)
■人は、脳で動く。 ■2009年4月9日 木曜日 3時20分34秒

ここ最近、脳に関心をもっている。息子が茂木健一郎さんの講演に行ったりしているので、私も脳に興味を覚えてしまった。書店に行っても脳の書籍が多いので、ちょっとしたブームかなと思い、読みやすそうな本を図書館で借り、バスでも風呂でもトイレでも、片時も離さず読んでいる。脳には1000億個の神経細胞があり、1秒に1個死滅してゆく。でも、ご安心を。1000億個のほとんどが使われていない予備であり、その予備の神経細胞が死んでゆくだけだから、当人の日常生活にはまったく影響がないのである。その死滅し続ける神経細胞の中で、唯一それが増える箇所がある。それが記憶を司る海馬と呼ばれる部位だ。海馬とは、タツノオトシゴのことで、形が似ているのでそう呼ばれている。トドのことも海馬というが、これは脳の海馬とは似ていない。神経細胞が増える、となれば増やしてみたいし、記憶を司る、となればおのずと大事にしたくなるのが人情である。海馬は「記憶装置」だ、という学者もいれば、記憶の「仕分け装置」だ、という学者もいて、両方の働きをすることは間違いがないようだ。では、記憶の「仕分け装置」とは、どんな働きなのか。入力された情報が、必要か不要か。それを仕分けし、必要な情報だけを記憶し、不要の情報は記憶をせずに捨て去るのだ。その分別作業を海馬がするのである。となれば、わたしのように広告に携わるものは、ぜがひでもお得意先の広告は記憶に残したい、と考える。海馬の仕分けのときに、捨てられずに、記憶に残す。こう思うのが当たり前で、広告づくりのときにそれを計算に入れて創りたい。そう願う。では、どうすれば海馬に気に入られて記憶に残るのか。そのヒントは、刺激である。海馬に刺激を与えれば、神経細胞は増える。海馬の神経細胞が多いほうが頭がいいことは、実験結果でわかっている。マウスの実験だが。海馬には可塑性という性質があり、可塑性は弾性とは逆で、刺激によって凹むと、その凹みが戻らない。弾性は、ゴムマリのように凹んでも元に戻る性質であるが、可塑性はその逆だ。神経細胞が増えることも大事だが、記憶にはこの凹みが重要なのだ。よく頭のよさと脳の皺の数を関連づけるが、これはどうやら違うようだ。脳の皺ならイルカが圧倒的に多い。大きさと関連づけるなら、鯨の脳は非常に大きい。男性の脳は1400グラム、女性の脳は1200グラム。頭のよさは、皺の数も大きさも決め手にはならない。さて、海馬のすぐ脇にある扁桃体、これにも注目したい。好き嫌い。恐いやさしい。いい感じ悪い感じ。つまり、こういった情緒を司り、その情報を海馬に伝える。この役目は重要だ。海馬の記憶は、「印象の記憶」だといわれている。「情緒の記憶」だ。しばらくぶりに会った人で、交わした言葉など記憶にはないが「あ、こいつ、いいやつだった」とか覚えている。その反対もある。これが「印象の記憶」。ブランド広告そのものである。扁桃体の働きである。ボケ突っ込みコミュニケーションやクイズ番組は、脳が喜ぶ基本だ。刺激を欲しがっている海馬を刺激するからだ。最近、酒を飲んでいても脳の話ばかりしているので、友人たちの脳が私を敬遠し始めている。
(たかの耕一:takanoblood1794@adventures.co.jp)
■贅沢にも、料亭の話です。 ■2009年3月18日 水曜日 2時12分30秒

この時期贅沢な話だが、懇意にしている料亭が6軒ある。いずれもすばらしい料亭で、それぞれにすてきな味を持っている。小田急線の千歳船橋駅と経堂駅の近辺だ。千歳船橋駅から歩いて5分。環状8号線を越え廻沢に向かう道筋に料亭「タナベ」がある。ここは、うまい赤ワインをじっくりと楽しませてくれるのが特徴。新潟出身のご亭主は、荒削りの木彫りの熊のような風貌であるが、付き合ってみると大変気さくでよく笑い、包容力にあふれている。女将は、小柄で品がよく、鼻が立派とご近所でも有名な色白の美人で、お茶のソムリエの資格を持つ。先日、妻と二人で散歩の途中お茶を御馳走になったが、お茶とはこんなにおいしいものかと感動した。いままで飲んでいたのはお茶じゃない。そうまで思ってしまった。ご主人が漁業関連の仕事に携わっていた関係上、新婚時代をマダカスカルで過ごした。熱い時代をとんでもなく熱いところで過ごしたのである。料理もワインも極上で、人柄のいいご夫婦。話が弾むのも当然である。経堂駅から東急世田谷線に向かって5分ほど歩くと、閑静な住宅街に料亭「やま川」がある。表から見ると普通の民家風だから、前を通っても見落としてしまう。ここの呼び物は、ご亭主の料理と、バイオリン奏者高嶋ちさと似の甲府美人の女将である。ご亭主は、旬の食材を自ら探し歩き、仕入、料理を自分でしなければ気に入らないという徹底ぶり。そんなの当たり前だろと、口を尖がらせる。どちらかといえば偏屈な男だ。気に入らない客は門前払いとなる。先日、食材を求めてロシアと中国の国境まで出かけて行方不明になり、女将が警察に消息願いを出そうとしたが、それは単純に夫婦間のコミュニケーションがなかっただけだとわかった。コミュニケーションがないと言いながら、旅にはご夫婦でペアルックのセーターなどを着て、世間をあっと言わせたりする。世田谷通りの上町近く、自転車屋の前を入ったところに料亭「フジイ」がある。ご亭主は、根っからの遊び人で、若い頃から粋筋のお姐さん方とは必要以上に懇意にしてきた。ここの呼び物は、ご亭主の焼酎に対するこだわりとご亭主女将二人の明るさである。とにかくご主人は、だれか友人がいれば意味もなく明るくなれる性格で、また女将の明るさときたら、なにものにも負けない天然のすごみがある。一年中、リオのカーニバルのようなけた外れの明るさで、ビスが一本足りないのではないかと心配になり「ビス・ユニバース」と呼んだら、うれしそうに笑い返してきた。お見事。世田谷通り、関東中央病院近くの桜並木沿いにあるのが料亭「みやもり」だ。ご亭主は、アジアにも別宅を持ち、日本の家とのかけもちだが、女将の器量で、表面だけは実にうまく繕っている。世界を駆け回るご亭主は、とくにワインに精通しながら、蘊蓄を語らず、ごたくを並べず、飲んだらころりと寝る乳飲み子のような男で、笑顔がとくによく、どんな嘘でもその笑顔を見て女将は許してしまう。酒、料理ともにうまく、ひときわ明るいこの料亭は、ひとえに女将でもっている。ご亭主にそう言ったら、当然ですと胸を張った。このご亭主、弱みがあるなと、世間は睨んでいる。残る料亭「ホリ」と「たか乃」と「竹多」、最近世話になっているピアノバー「おお邑」の紹介は次回となる。いやいや、いずれもなかなかの味ですな。わが友人ミナミ総理がうなる。
(たかの耕一:takanoblood1794@adventures.co.jp)

■脳が喜ぶ広告がいい。 ■2009年3月10日 火曜日 15時37分32秒

茂木健一郎さんの脳の話は、わかりやすくて面白い。書店に行くと、私の思いすごしかもしれないが、どうも脳に関する書物が目につく。脳の中でも、記憶の製造工場と言われる海馬についての研究がここのところ進んで、いろいろなことがわかってきたと言う。だから、面白いのだと言う。海馬について東京大学大学院の池谷祐二さんの話、これがまた面白い。海馬の役割は、記憶をつかさどる係り。集められる情報を整理して、この情報は必要だから記憶として残しておこうとか、この情報はいらないから記憶なんかに残さないで捨てようとか、情報の要・不要を仕分けして、ふるいにかける役割だと言う。現在は情報過多時代で、私たちは山のような情報に囲まれ、下手すれば土砂崩れで埋まりそうだが、そうならないために情報の山を片っ端から整理、統合しているのが海馬だ。残す情報。捨てる情報。そこで、私の興味は、海馬と広告の関係を究明して、お客さまの脳が喜ぶ広告ができないか、ということである。脳が喜ぶ広告。海馬に心地よく残る広告である。私たちが創る広告は、お客さまの海馬が、記憶に残すほうに選ぶか、それとも、ぽいと捨てられるほうか。これは非常に重大な問題だ。では、海馬の情報選択基準はなにか。まず、これを知らなければ、記憶に残る広告を創ることはできない。海馬の選択基準。なにか。それは、刺激だ。刺激。これが大きなヒントになる。海馬は、刺激に反応する。海馬は、脳の中でも唯一神経細胞が増える部位で、刺激によって神経細胞が増えるのだと言う。さて、ここでもう一つ、海馬の隣にいて、海馬と密接に関係する扁桃体にも参加してもらおう。扁桃体の役割は、好き嫌い、心地よい心地悪い、面白い面白くない、怖い怖くない、そういった情操部分を判断する役割だ。地デジ対応液晶カラーテレビ、20万円を5万円に。こんなチラシが効果的なのは、海馬に痛烈な刺激を与えるからだ。20万円が5万円。あり得ない。海馬がびっくりする。トク。ソン。これは刺激です。でも、広告はそれだけではない。あえて、そう言いたい。競合が20万円を3万円としてきたら、一発逆転だ。むずかしい。だが、お客さまは、あなたの店が好きなのだ。あなたの店で買いたい。だから、あなたの店が3万円に下げれば、喜んでみんながやってくる。そうしたい。できれば、4万円でもきてほしい。そのとき扁桃体が力を発揮する。扁桃体が心地よいと感じ、海馬に、あなたの店は心地よい店という記憶を残す。海馬に残る記憶は、印象の記憶だそうで、心地よい店ということが残る。なにが心地よかったかの記憶が消えても、心地よさが残る。どうですか。これは、すばらしいブランド広告ですね。この、海馬と扁桃体の働きを、ぜひ広告に活かしたい。少なくても心地よいという印象を残し、気持ち悪いとか、いやらしいとか、そんな記憶だけは残したくない。まだまだ続く海馬の研究。脳を広告に活かすという発想で、新しい時代に効果を発揮する、新しい広告を追究して行きたい。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
■価値創造。 ■2009年2月19日 木曜日 13時58分8秒

ものを創る。その意味は、価値を創ることだ。それが社会の成長時期に合わせ「物」だったり「心」だったりするのだが「もの=価値」であることに少しのブレはない。
普通に考えると、社会の成長期には「物」が必要となり「物=価値」となり、社会が成熟期に入ると心が必要となり「心=価値」となるように思う。大切なのは「物+心=価値」という図式を基本とし、成長の度合いで「物」と「心」の比重が変わるということだ。軸足をどちらにするか見極めることが大変重要だ。
長い間広告業界にいてありとあらゆる価値創造に参加させていただいてきたが、今回の経済不況ほど製造業を窮地に追い込んだ時期はない。その時期その時期に合わせてすべての製造業の方々は工夫に工夫を重ねて乗り越えてきた。それは、その時代に「必要な価値」を見出して、その時代に「必要な価値」を創ってきたからだ。広告の仕事とは、製造業だけでなくすべての企業が製造する「ものやサービス」の社会的価値を鮮明に描き出し、生活者のみなさんに伝える役割を果たすのだが、そこには常に、ものの「本質的価値」とともに、その時代だからこそ煌く「時代的価値」が存在していた。その価値を理解し、その価値を心地よい範囲で増幅して、多くのみなさんに伝えるお手伝いを、わたしたちはしてきた。
本質的価値は、普遍的であるが、時代的価値は、極めて流動的だ。その特質を研究し、使い分け、広告は努力をしてきた。だが、いま、時代が必要とする価値「時代的価値」が不鮮明となった。時代的価値の頂点に「マネー」が君臨し、そのほかの価値を津波のように押し流してしまったからだ。「マネー」は金融の頂点にあっても、経済の頂点にあってはならない。
なぜなら「マネー」はいかなる企業でも製造が不可能だからだ。いまの不況の兆候はあった。「ものの価値」をマネーに換えなくては価値が読めない生活習慣。つまり、本質的価値に対する不勉強。教育の歪み。「マネーそのものを商品化」した時代(マネーを経済の頂点にした)。すべてが「マネー」に走って「本質的価値」を置き去りにした時代。
これらのことが悔やまれると同時に、これは広告コミュニケーションの場でもぜがひにでも修正をかけなければならない。自動車を造り、電化製品を作る製造業も、旅行を創るサービス業も、あらゆる企業が「本質的価値」を再度追究することから始めなければならない。原点還りである。マネーに負けてしまった「本質的価値」の再構築を図らなければならない。「時代的価値」は、政治や流行や風潮や生活や気分によって変化する。ここはひとつ「本質的価値」の追及と再構築こそが急務だ。
「時代的価値」のひとつに「環境」がある。オバマ政権は、環境対策は経済対策の一部だと位置づけた。だが、「環境」は「時代的価値」というより「本質的価値」であろう。日本の企業も環境に本腰を入れるチャンスだ。企業が「環境」で利益を上げなければ、それはよくならないのだ。人間の本質的価値を見直す。くらしの本質的価値を再構築する。地球の本質的価値を追求する。ものの本質的価値を創る。人々や時代が振り向く「価値」を必ず創る。わたしたち広告業にも、いまはその道しかない。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)

■双子の双語。 ■2009年2月9日 月曜日 15時32分46秒

言葉は世につれであり、時代の風に揺れ動くものだ。いつの時代にも若者は若者特有の言葉を使って楽しむものだが、ケータイが必需品となり、メールが生活に浸透してから言葉は大いに変わったように思う。会話のテンポが早くなり、言葉をはしょるのも目立つ。その中でも、言葉を正確に把握せず、テンポにまかせて使ってしまい、本来の意味からはずれていくケースに時たま出くわす。言葉には使い方、発音、意味などが非常によく似たものがあって、ゆっくり使っても混同してしまうものがあるのにスピード優先の会話をするものだから、ますます混同してしまう。双子のように似ている言葉を、わたしは双語と呼んでいる。たとえば「希望と欲望」である。このふたつは似ている。混同しやすい。意味も似ているから、油断すると同じように解釈してしまうが、実は大変な違いがある。一般的に言って、希望は美しく正しいと見られ、そういうイメージがある一方、欲望はいまいち不純なイメージが漂う。辞書的にいうと、希望とは、未来に望みをかけること、こうなればよい、なってほしいと願うこと。欲望とは、ほしがる心、不足を感じてこれを満たそうと望む心、となる。大変よく似た意味を持つ。受験の子どもを持つ親が、子どもをいい学校に入れていずれは社会の役に立つ人間に育てたいと願うのは、希望の部類に入る。だが、いい学校に行かせていずれ大金を稼ぐ人間にしたいというと、なにやら希望ではなく欲望のように聞こえてくる。同じ現象であっても、意識の持ちよう、言葉の使いようで、まるで違ってくる。希望には上品なイメージがあり、欲望には下品なイメージがともなう。希望に胸を張って旅立つ、というところを、欲望に胸を張って旅立つとしたのでは、なにやら実もふたもない。双子の双語に惑わされず、言葉の意味やイメージさえも把握して、正しく使うことがコミュニケーションを大切にすることになる。また、価値観の混同もよくあることで、最近では「いい悪い」と「好き嫌い」の混同が目立つ。われわれ広告業界でも、宣伝物を新入社員に評価させることがある。
若者がターゲットであるから、若い意見がほしいという理由からで、それはそれで一理あるが「わたし、このデザイン嫌い」とか「こっちの広告が好き」とか、平気でそういう評価をする。「好き嫌い」はあくまでも個人的評価であり、社会的評価とは別物である。「いい悪い」は社会的評価であり、一つの価値観のもと、社会とどう関係するのかを理論的に説明するものだが、「好き嫌い」は理屈も不要だ。好き嫌いの評価が役に立たないというのではなく、そこに大きな落とし穴があることを知っておきたいと思う。双語ではないが「いい悪い」と「好き嫌い」もその価値観において非常に似ている。最近、コミュニケーションが不足しているとか、どうも理解の仕方がぶれているとか、コミュニケーションのやり方が下手だとか、世間ではいろいろ取りざたされているが、まず言葉や文字を大切にし、ゆっくりとていねいに伝えることを心掛けたらどうかと思う。これは、自分にもいい聞かせていることだ。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
■デマにご注意。 ■2009年1月20日 火曜日 14時25分26秒

情報が届いていなければ、どんな事件も事故も、出来事も、それは存在しないのである。「知らない=無」である。認識のないものは、存在しないのである。そんな当たり前のことを改めて知ったのは以前に沖縄の友人が、ぼそりと言った一言だ。うちの島には新聞が2日遅れてくるのです。東京になにかあってもニュースで知るのは2日後で、それまでなにも知らないのです。知らないということは、ないということです。そう言った。いまでも離島には1日遅れの新聞があるらしい。都はるみは、3日遅れの便りを乗せて、船はゆくゆく波浮港、と歌った。たとえば、名優緒方拳さんが先日亡くなった。残念。わたしたちはそう叫ぶが、情報が届かない所では、今も緒方拳さんは、生きている。情報が2日遅れる所では、その遅れる2日間は、緒方さんは生きているのだ。たとえば、アメリカの9.11の大ニュースにしても、その情報が耳に入るまでは、わたしたちには、その不幸はないものと同じだ。わたしたちには、存在しないのである。1日なり2日なりの後、テレビや新聞で知って初めて存在として認識できるのであって、その間の数日は、アメリカ貿易センタービルは、そこに存在していて、崩れてはいないのだ。いまはテレビもラジオもライブでどこへでも情報を流すので、そんなことはないのかもしれないが、理屈はそうである。友人が、映画館で映画を観ている最中に、突然画面が黒くなり、次に赤くなり、警報がなった。ただいま2階で火事が発生しました。係員の誘導に従って・・・。となった。みんな無事に避難し、幸い大事には至らなかった。みんなが戻る。そして、火事はこのビルではなかった、とか、このビルなのだがボヤだった、とか、初めから誤報だったとか、まことしやかな言葉が飛び交い、そこで軽いパニック状態になったという。デマ、風聞はこんなときに起きやすい。それらは、こんなときに思わぬ力を発揮し、パニックをいっそうのパニックに誘う。これが怖い。こうじゃあないのかなあ、という個人の想像が、いつの間にか、こうなのだと断定的になったり、ああらしいぞ、という想像が、ああだと断定的になる。人の言葉に反対意見を述べて、それが正しい、いや違う、と確たる情報源もないままに想像が妄想を生み、ああだこうだという間に話は大きく、さらに歪んでいく。デマ、風聞は大きく歪む傾向にある。人々は、不安になるとデマを言う。不安だからデマを言う。不安がデマによって、さらに不安を増す。戦争中にはさまざまなデマが飛び交ったと聞く。現在、情報の伝達能力は極めて進化し、もはや離島でも瞬時に到達するようになったが、今度は情報の信憑性が疑われている。ネット社会では信憑性こそが重要である。社会不安の深まる現在、デマには十分注意をしたい。情報の信憑性を確認してから行動したいものだ。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
■人の味は、店の味。 ■2009年1月7日 水曜日 13時53分1秒

渋谷、國學院大学空手道部の忘年会の二次会に、13代同期の花松忠義君が、近くに和食のうまい店がある、おまえのカードで飲みに行こうと誘う。よし、日頃世話になっているからこの際気持ちよく奢りましょう、と夜の渋谷西口をふらふら歩く。監督の次呂久英樹先輩、ОB会長の小柴先輩、後輩の塩沢君も一緒だ。その店はどこだ。年寄りの体に夜風は毒だ。次呂久監督が言い、歩道橋を下りたところです、と花松君が答える。東横線のガード脇、国道246号線沿いの地下1階にその店「三漁洞」はあった。なるほど、ぶり大根を口に入れた瞬間に、これはなかなかの店だぞ、と全員が頷く。割烹着姿の女将さんが、ゆったりとにこやかに応対してくれる。うまいのは当たり前だ。この店は、クレイジー・キャッツの石橋エータローさんの店だ。花松君が得意気に言う。というとあの女将「みっちゃん」は、もしかするとエータローさんの奥さんか。クレイジー・キャッツといえば、当時知らない者はいなかった。テレビが津波のように日本中を飲み込んだ時代に、彼らは日本中の茶の間を笑いの渦で飲み込んだ。ミュージシャンとして一流の腕を持ちながら、陽気なサムライたちは笑顔と夢と希望をみんなに振りまいた。暗い時代に歯向かう力を、精いっぱいの明るさで戦って見せた。しゃぼん玉ホリデイ。青島幸男が笑いの才能を爆発させたこのテレビ番組は、彼らがいたから怪物のようなヒット番組になったし、またこの番組が彼らをさらなる天才の域にのし上げた。ジャガイモ顔のハナ肇をリーダーに、日本一のお調子者植木等が暴れまくったクレイジー・キャッツ。映画釣りバカ日誌の課長谷啓が、人を食ったキャラクターで通を唸らせた。その中で石橋エータローは異才を放った。ホワイトアスパラのようなひょろりとした体の上にとぼけたメガネの顔を乗せ、どこか人の良いキャラクターで、ただ何もせず、みんなの中をあっちに行きこっちに行き、うろうろちょろちょろするだけに見えた。強烈な個性ぞろいの中の中和剤のような存在かと思えた。だが、違っていた。このホワイトアスパラ氏は、天然ボケ(失礼だが)という天が与えし才能の持ち主だった。みんなが工夫し、考え、全力で演じる横でひょうひょうと天賦の才でボケてみせた。突っ込み10年ボケ天然、といわれるほどボケ役はむずかしいものだが、石橋エータローさんには、それがあった。それは、シャイだったからではなかろうか。気まじめで、物事を理論的に解釈する。だから、エータローさんがテレビで料理番組をやったが、真面目にやるほどおかしかった。尺八の鬼才であり、西園寺公一先生に言わせれば釣りの鬼才でもあった父福田蘭童氏の血を受け、料理番組までやった人だから、料理がうまいに決まっている。その人の店だから、うまいに決まっている。石橋さんの不思議な人間味を思い出す。そして、この店には文化の香りが漂っている。味にうるさい次呂久監督が帰りに、この店はいい、高野のカードでまたこよう、と言った。「人の味は、店の味」である。
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■バスの尻。 ■2008年12月19日 金曜日 16時46分21秒

愛が深いほど憎しみも深くなる、ということは確かにある。今回はそういう話。渋谷発23系統東急バスにおける女性の尻がいかに凶器であるかについてのお話。先日、23系統の最終バスに乗った。このバスは、渋谷駅西口から三軒茶屋を通り祖師谷大蔵まで行く。全員が座ることはできなかったが、大混雑というほどでもなかった。わたしは最後部の左側の座席に座った。わたしの降りる桜丘住宅まで24駅も乗るので、時間はうんざりするほどある。最近買ったバスの中でも使える超小型パソコンを開き、ちょっと格好をつけてみせる。すぐに文章にのめり込み、夢中になる。三軒茶屋あたりから混んできたが、気づかなかった。後部座席は無理して詰めれば5人座れるが、肩幅の広い男が4人座っているから少々きつい。わたしはパソコン画面に集中していた。すると、突然、崖崩れのようにわたしの右手を押し潰すものがあった。落雷かと思った。思わずパソコンのスイッチを切ってしまった。ああ、原稿が消えてしまった。この崖崩れ女。落雷野郎。わたしはカッとする。わたしの右側の少しの空きに強引に尻が割り込んできたのだ。瞬間、相手の顔を睨みつけようとして我慢して止める。わたしは空手2段だから、カッとして手をあげようものなら警察が直ちに介入する。だから、カッとしても相手の顔を見ないようにする。そのほうが気が楽だ。わたしの原稿を消してしまった凶器は女性の尻だった。女性の尻がパソコンの文章を消し去り、おまけにわたしのコートの端を踏んでいる。なお頭にくる。ますます顔を見ないように我慢する。おそらくツンとしたわたしは美人よ、という顔で、こんなに混んでいるバスの中でパソコンをやってるほうが悪いのよ、と睨みかえすような女性に違いない。まいった。確かにわたしは、混んできたのに気づかなかった自分に少しは反省の気持ちはある。だが、よろしいですか、ともいわず、すいませんが、ともいわず、当然あんたが悪いのだからパソコンの文章が消えようがどうしようがわたしの尻の落雷には関係ないわ、と必殺の凶器はでんと構えたままだろう。和道流2段の廻し蹴りを食らわせてやろうか。だが、我慢する。家に帰り、かみさんに泣きながらバスの凶器の尻の話をするが、かみさんは腹を抱えて笑うだけ。おまけに、わたしだってそのくらいやるわよ、という顔。翌日会社に行き、アートディレクターの佐川くんにバスの尻の凶器の話をする。それに似た話がありましたよ。佐川くんがいう。JRでしたか、失礼な女性がいて、前に座っていた男が電車を降りる際に、女の顔面に蹴りを入れたという話です。そうだよな、そうだろ。わたしだって空手さえやっていなければ、バスの女の崖崩れの尻に蹴りを入れていたぞ。でも、女性の勇気にはつくづく感心する。尻の凶器には脱帽する。わたしがあとほんの1ミリくらい腹を立て、切れてしまったらどうするのだろうか。農大一高前で尻が降りたとき、わたしも続いて降りて行って、その尻に必殺の廻し蹴りを入れたらどうするのだろう。愛すべき尻がこれほどの凶器になるとは。バスが悪いのか、パソコンが悪いのか。それとも世間が悪いのか。どうやらわたしが悪いようだ。年の終りの反省である。
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■ヘミングウェイの嘘。 ■2008年12月19日 金曜日 16時44分53秒

ヘミングウェイは、戦争など実際にはまったく経験しなかった。イギリスの作家でありミュージシャンのハンフリー・カーペンターが「失われた世代、パリの日々」の中でそう言う。そもそも人に話を聞いてもらうためには、嘘をつかざるをえない。ヘミングウェイ自身もそう言っている。嘘であってもかまわないような軽いもので、他人の行動や見聞を自分の経験にすり替え、典拠は怪しいがだれでも知っているような出来事を事実として述べること。それを彼は否定しない。1917年、アメリカが第一次世界大戦に参戦したとき、ヘミングウェイは18歳だった。彼はカナダに行ったというが、カナダにも行かなければ入隊志願もしなかった。視力障害で軍務には不適だと判断されていたからだ。
カーペンターによれば、イタリア軍のために弁当を配った経験はある、という。それが事実かどうか、わたしは問わない。ヘミングウェイにおける、嘘と真実とは。それは興味深いことだし、わたしの生き方においても、嘘と真実との明快な解析はぜひ望むところである。まず、ヘミングウェイは小説家である。小説が嘘か本当か、と問えば、間違いなく嘘である。小説は創作である。誰がために鐘がなる、の主人公はヘミングウェイであってヘミングウェイではない。彼が例え弁当配りであってもイタリア戦線に参加したとしよう。怪我をして病院に入り、年上の美人の看護士と恋をした。これは本当のようだ。だが、主人公のようにドラマチックに活動したかとなると、これはまったく問う意味のないこととなる。事実と真実の違い。これを笑って容認する覚悟がなければ、小説は読者の心のうちで圧倒的に価値を失う。小説に真実を求める、という会話は成立するが、小説に事実を求める、という会話はどこに意味があるのかわからない。(この場合は、事実とリアルとの違いの解析となる)。新郎新婦が神前で、永遠の愛を誓う。だが、事実は永遠かどうか実はわからない。むろん、永遠と思うから永遠を誓うのであるが、離婚に至る夫婦もいるから、誓いつつなにか怪しさが残る。永遠と思いたい気持ちが強いのは理解できるが、怪しさは残る。新郎にしても、新婦にしても、まず誓っておかなくては始まらない、という気持ちは確かだ。これを嘘と決めつけるわけにはいかない。事実ではないが、真実であり、嘘ではないと断言する。営業マンが営業目標を立てる。達成できない場合、それを嘘として叱りとばすことはできない。努力不足を責めるだろうが、嘘とは断定しないだろう。嘘に対する恐怖心のあまり営業マンが目標を下げてしまうことが必ずしも正しいとは思わない。嘘と事実と真実の微妙な関係を認識しない者に、創造、創作、希望、夢、目標はどう位置づけられるのだろう。映画、芝居、小説、絵画はどう解釈されるのだろう。
わたしは真実を曲げようとは思わないが、事実を曲げることはあると思う。迷惑をかけないという条件で、興味を抱いてもらうためにヘミングウェイ程度の嘘をつくだろう。
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■ドイツチームに乾杯。 ■2008年11月20日 木曜日 15時14分0秒

ペーター・ベッツがドイツのナショナルチームを率いてやってきた。11月11日のことだ。空手道世界選手権大会に出場するためだ。大会は13日武道館で行われた。壮行会は渋谷の国学院大学若木タワー18階、有栖川宮記念会館で行われた。試合直前とあって選手は参加できなかったが、会長夫妻、監督、コーチ陣が参加した。こちらはというと、空手道部初代主将であり、わが空手道部と応援団の創設者でもある小倉基名誉会長を筆頭に、空手道部ОB会小柴会長、次呂久英樹監督、ドイツチームの日本での調整に道場を提供し、滞在の細々したことのすべて面倒を見ていた埼玉の小林君と同期の石井君、坪井君、そしてОB会有志の面々。事務局長の斉藤君は、図々しくも文学部教授の橘先生に通訳をお願いした。橘先生はいつものように、空手部のためだ、と快く引き受けてくれた。学校関係からも御来賓をいただいた。応援団の諸君がドイツチームにエールを送るために駈けつけてくれた。わたしはベッツとはまったく面識がなかった。彼は、わたしより10代ほど後輩だった。
小林君が主将時代に特別練習生として空手部にいたという。
小林、石井、坪井3君たちが、愛情のこもった拳でベッツを鍛えたのだ。その後、ベッツはドイツに帰り、空手道の普及に貢献したのだ。いやいや、ベッツは決して誉められた練習生ではなかったですがね、ここだけの話。小林君がにこにこ笑いながら耳元でいう。結構やんちゃなこともしましてね。実は逃げ出してドイツに帰ったようなもんです。
そう言いながら、小林君のものいいには愛情がこもっている。ある年、ヨーロッパを旅した途中に寄ったんですよ、ドイツに。ベッツの道場を覗くといましたよ、えらそうな顔をしたベッツがね。黒帯しめて。わたしの顔を見て、ぎゃっといって逃げ出しましてね。日本からわたしが、ベッツを殺しに来た、と本気で思ったのだそうです。当時の空手道部では話としてありうることだった。わたしと小林君は声をあげて笑った。小倉名誉会長は、急遽ドイツ語の挨拶だけを覚えて親しみをこめて歓迎の意を伝えた。小柴会長も考え抜いた几帳面な挨拶をされ、次呂久監督が乾杯で座を盛り上げた。雅楽部の演奏は、ドイツチームに大いに受けた。このアイディアは、斉藤明彦君の提案であった。ベッツは細身の体だったが、他のコーチ陣には大男がいた。わたしたちはある大男をタワーと呼び、日本語と英語のチャンポンの会話をしたが、ほとんど通じないためにワインをジャブジャブとグラスに注いだ。ベッツにОB会から感謝状を贈った。ベッツはОB会員ではないからそれには反対だ、という者もいたが、ドイツに帰ってわが空手道部の教えを広めていることを考えれば、これは感謝に値するとして実行された。後輩の日下部君が、こういううれしいニュースは大歓迎ですね、と帰りのエレベーターでいった。13日。ドイツ女子チームが優勝した。その夜、渋谷のいつもの居酒屋で次呂久監督と塩沢君とわたしは乾杯した。
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■園歌。 ■2008年11月10日 月曜日 18時20分37秒

雨上がりの濡れた木々の間を澄んだ歌声が流れていく。濃い緑の葉が歌声でかすかに震える。鳥たちは自分が歌うのを忘れ、風見鶏のように細い枝の上でじっと歌声に耳を傾ける。赤や黄色の絵の具を点々と垂らしたように色づき始めた森は、秋の装いだ。土曜日の昼下がり。井の頭公園。まだ厚い雲の残る空の下で時間はゆっくりと流れる。歌声は、江戸幕府のご用水に使われたという公園の湧水よりさらに澄み切っている。池に浮かぶボートの若い二人は、オールを動かすことも忘れ、ただ黙って見つめあうだけだ。観客はおよそ400人。年配の人が多い。前列には青いシートが敷かれ、3列ないしは4列に重なった人たちがじっと歌声に耳を傾ける。その人たちの外側を大勢の人たちが取り囲み、大きな輪を作っている。その外側を歩く人々も足を止めて耳を傾ける。歌姫は人の輪の真ん中にいる。ビールケースを逆さに置いたステージの上に立ち、ギターを抱え、マイクなしで歌っている。マイクを使うとご近所に迷惑がかかる、という配慮でマイクを使わないのだと言う。だが、歌声はどこまでも力を失うことなく、公園の人々の心の中に沁み込んでいく。わたしはその歌声を昭和の大スター美空ひばりと重ねている。幼い日に父と母に連れられて行った映画館。スクリーンの中でひばりが歌う「悲しき口笛」は、いまもわたしの心の中に響いている。一生、わたしの心から消えることはないだろう。ひばりの歌は、暗い時代に光を灯した。井の頭公園の歌姫の名は、あさみちゆきと言う。月に1度公園でギター1本とビールケース1個でライブを重ね、すでに100回を越えている。歌と歌の間に、周りの人たちと楽しい会話をする。今日はNHKの取材班も入り、カメラが衛星のように歌姫の周りをぐるぐる回っている。ちゆきの会の面々が黄色いハッピを着て整理に当たっている。彼女はすでにテレビにもよく出演していると聞く。友人でちゆきの会の会員である佐藤光二郎に言わせれば、ちゆきを知らないわたしがどうやらもぐりらしい。作詞家の故阿久悠が彼女のためにいくつも詞を書いた。宇崎竜童が新曲を創り、CDを出したばかりだ。山口百恵を思い出す。百恵ちゃんは、菩薩と称された。その歌声が人々に勇気を与え、その微笑みが人々を救うからだ。天に舞い、宙から降臨するやさしい歌声と人々と交わす暖かい眼差しには、理屈を超え、心の底から湧き上がる喜びがあった。歌を媒介にして歌手はファンを救い、また歌手はファンの純粋な笑顔によって救われていたのであった。そして彼女は、カリスマとなった。歌は、喜び集うための媒体であった。歌は、日々の生きる勇気を生み出す栄養であった。天は、ひばり、百恵という人間を通して人々に歌を届けたのであった。あさみちゆきは天に代わって歌を歌う歌手なのか。公園に響く歌声。演歌。援歌。怨歌。呼び方はいろいろあるが、天に響く園歌こそが彼女の歌にふさわしい呼び方かも知れない。大スターになっても彼女は、公園を去ることはないだろう。秋の日、ふらりとスケッチブックに絵を描いたような、いい1日だった。
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■すくった金魚が救われない。 ■2008年10月20日 月曜日 12時23分50秒

子どもの頃、お祭りは天国だった。お御輿は天国に行く乗り物だった。担ぐととてもいいことをした気分だった。昼間から仮設舞台の上で酒を飲んでいる大人たちを見ると安心した。大人たちがどんな気持ちで酒を飲んでいたかはわからなかったが、みんなが笑っているのを見ると、子どもたちはそれだけで世の中は大丈夫だと安心した。同級生の女の子の浴衣姿が眩しかった。赤いヨーヨーを持ってクスクス笑う白いうなじと細い足首に胸が熱くなった。屋台の店がずらりと並ぶのが好きだった。べっこ飴屋、お面屋、風車屋、薄いピンクの煎餅にソースをつけてくれる店、プアーと音を出す風船屋、吹き矢や模型飛行機やめんこを置いている駄菓子屋、わけのわからないお菓子を舐めると当たりが出てくる店、糸の先に針をつけてくるくるルーレットみたいに回すと高価そうなブリキの車が当たると言うけれど当たったのを見たこともない変な店、ラムネも置いてある水飴屋。中でも子どもたちの人気の店の一つが金魚すくい屋だった。値段の安い赤い和金が夢中で泳ぎ回っていた。高いリュウ金が大きな尻尾を振っていた。それより高い黒い出目金がえらそうに泳いでいた。どの金魚も一生懸命泳いでいた。和金は数が多くすくい易かった。赤と白の斑模様の金魚もたくさんいた。金魚をすくう丸い針金製の金魚ポイは、薄い紙のものしかなかった。紙は習字の半紙のように薄くすぐ破れた。モナカなんかなかった。だから、モナカの金魚ポイが登場したときは、邪道だ、世も末だ、と思った。一回10円だった。和金がすくい易いのは、尻尾が小さいからだ。リュウ金や出目金は和金より動きは遅かったけど尻尾が大きく、尻尾の動きに力があった。だから和金は、動きは早いけれど狙われた。すくうコツは、金魚の尻尾を紙の上に乗せないことだ。水につけた金魚ポイを真上に真っすぐに上げないことだ。水と紙の面を直角に上げないこと。水の抵抗を受けない角度で滑らかにあげる。その動作の途中で金魚を軽やかにポイの上に乗せる。金魚の下をすっとポイを通過させる要領。これがコツだ。ある日、天ぷらを食べながら妻が言った。最近はすくった金魚を家に持って帰らないんだって。え、なんでよ。家で金魚を飼いたくないみたいよ。そりゃおかしい。なに考えているんだ。自分がすくった金魚は家に持ち帰り、餌を与えて面倒をみる。週末に子どもといっしょに金魚鉢を買いに行くなんて、なんとも素敵な親子ではないか。酸素を出すブクブクも買う。子どもは金魚に名前をつけて毎日話しかける。おはよう。ただいま。元気? 金魚は答えたりしないが、そこに愛情がわいてくる。金魚は答えないが、愛情は伝わっている。死んだら涙を浮かべながら庭の隅に埋めてあげる。命の大切さを知り、命あるものはやがて死ぬことを覚える。金魚すくいは、すくって、家で飼って、餌をあげて、話しかけて、死んだら泣く。そこまでの一連の行動があってこそ、金魚すくいなのだ。それが、金魚の中でもおそらくいちばん安い金魚すくいの金魚の精一杯の人生なのだ。それをただ追いかけ回して、すくって、笑って、オシマイ? それでは金魚は救われない。すくった金魚が救われない。子どもは貴重な教育の手段をまた一つ失った。
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■裕次郎の便器 ■2008年10月9日 木曜日 18時6分34秒

日活撮影所にしばらく行っていない。オリエント時計やミスタードーナツのCM撮影で行って以来だからもう何年になるだろう。行き初めの頃、すでに撮影所の敷地の半分は見上げるほどのマンションになっていて、スタジオは貸しスタジオになっていた。石原裕次郎や小林旭や赤木圭一郎が暴れまくっていた時代はすでに時の彼方に消えていた。多摩川沿いの道路に面して撮影所の入口がある。入口の守衛室の手前の駐車場に車を止め、人通りの少ない撮影所内を歩く。よく使ったスタジオは、入口に近い7番スタジオか8番スタジオだった。いつも直接スタジオには入らず、撮影所のあちこちをふらふら歩きながら日活全盛期を偲ぶ。食堂に行く。工事現場の飯場の食堂のようにまるで愛想がない。しかし、当時の映画作りは飯場と同じ勢いで映画を作っていたのだと思うと妙に親しみを覚え、鉄パイプの簡易な椅子も座り心地がいい。誰もいないがらんとした食堂で自動販売機から買ったコーヒーを飲む。この食堂は、渡哲也さんが青山学院大学空手道部から俳優になったとき初めて裕次郎さんと会った食堂だ。渡さんが、すでに大スターになっていた裕次郎さんが立ち上がって挨拶をしてくれたと感激した食堂だ。誰もいないが裕次郎さんと渡さんが目の前にいて握手をしているようなうれしい光景が浮かんできて、思わずにんまりする。わたし、バカですねえ。昭和の男はこんなもんです。食堂を出て撮影所内の通りを歩く。すでに閉鎖されている空家のような建物も多い。雨ざらしになった古い木の看板が、建物の入り口にぶら下がっている。俳優部、撮影部、照明部、衣装部。この雨ざらしの看板は、裕次郎の時代のものだ。この古さから間違いなくそうだ。人影もないので、帰りに俳優部の看板を失敬して持ち帰ろうとしたが、気が弱いので保留にして、そのままである。いつか必ずいただきに行こうと思う。トイレは入口守衛室のすぐ隣にある。缶コーヒーを飲みながらぶらぶらとトイレに行く。トイレは建物も古いが、便器も古い。それは間違いなく裕次郎が使った便器だ。旭も圭一郎も使った便器だ。便器は3つ並んでいる。前に立つと目の前に小窓があって、外の景色が見える。待てよ、と思う。裕次郎の便器はもっと高くてもいいのに、と思う。いや、高くなければいけない。身長183センチ、股下32.5インチ。わたしよりはるかに脚は長い。それが裕次郎の大いなる魅力であった。世界一の脚線美を裕次郎はイギリスの俳優ローレンス・オリビエと競っていた。だから、この便器は裕次郎にしては低すぎる。だが、裕次郎専用ではないのだから低くてもしかたがないか。かつて裕次郎が使った便器を使う。裕次郎の小便の上に自分の小便を振りかける。小窓から大木が見える。裕次郎もあの木を見ながら用を足したのだろう。風が枝を揺らし、時の流れが無常を告げる。裕次郎も圭一郎ももういない。スタッフが撮影の開始を告げにきてわれに帰る。ああ、時は無常です。
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■夢がない。 ■2008年9月22日 月曜日 7時43分31秒

わが空手道部OB会の会員資格は、4年間しっかり道場で修業した人間に限る。新会長がガンとしていう。原則としてはそうでしょう。ですが、現に会員の中には1年か2年しか稽古に出られなかった者もいます。途中でなんらかの事情で稽古に出られなくなった者です。後輩が異論を唱える。同期のAは、空手道部を止めたくなかったが、家庭の事情でバイトをしなくてはならなかったし、それ以外にも空手を続けていく環境じゃなかったから結局止めるしかなかった。でも、OB会には入ってもらっている。それでおれらはいいと思っています。わたしもこの後輩の意見に賛成だった。規則優先もわからぬではない。だが、人間ひとりひとりの事情を察して決断を下すのも会長の器量である。規則のために人があるのではない。人のために規則はある。そう信じている。渋谷。9月。雨の降る週末。赤いネオンが雨滴に滲む。午後6時。ハチ公前。埼玉からきた後輩、千葉の後輩、新会長、監督、事務局長、わたしの6人が集まった。井の頭線駅近くの居酒屋に行く。横断歩道を渡りながら後輩が叫ぶ。先輩、もうわたしは日本なんか当てにしません。こんな戦争もできない軟弱な国。いえ、戦争する気は毛頭ありません。ですが戦争する力と覚悟がなければ世界から舐められる、それをいっているのです。わかる。おれもいまの日本はあまりにも情けないと思う。まず、政治家に覚悟がない。国民のために身を捨てる勇気もない臆病者5人が、いま自民党総裁の座を争う茶番劇の真っ只中にあった。わたしは、いつもながら熱い男の横顔を見ながら頬がゆるむ。われらが集まった目的は、11月の空手道世界大会にドイツからナショナルチームを率いてやってくるわが空手道部の後輩の歓迎会・懇親会の準備のためだ。埼玉の後輩は自分の道場でドイツ選手団を迎え、稽古場を提供する。現役のときは主将を務め、人格者である。ドイツ人の後輩はOB会会員ではない。だが、ドイツナショナルチームを率いてくるほど空手道に貢献している。うれしい話ではないか。わたしは、特別会員でもいいから彼をOB会で認めたらどうか、という意見を出した。そこで、冒頭の、4年間在籍の原則論が新会長から発せられた。彼は確かに4年間空手道部にいたわけではない。だが祖国に帰り、わが空手道部で学んだ空手道を少年たちに教え、広めている貢献は賞賛に値するものがある。OB会で表彰したらどうだ、という監督の意見にわれらは全員賛成する。問題は、彼をOB会会員として認めるかどうかにあった。新会長は規則を貫くことに徹した。わたしは、人間中心で考えてくれ、といい通した。話は、平行線。だいたいわが空手道部に夢がない。わたしはいつものように新会長に食ってかかる。現役のためにももっと夢に向かう空手道部であり、OB会であってほしい。わたしは頑固にいう。日本にも夢がほしいですね。帰り、事務局長が雨の中でぽつりといって苦笑した。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
■もっとコミュニケーション。 ■2008年9月9日 火曜日 7時42分53秒

アフリカ。草原に風が渡る午後。灼熱の台地は干上がり、ほんのわずかに水が残る湖。カバの群れがひしめき合っている。車ほど大きいカバ。机ほどのカバ。カバの皮膚は弱いので少しでも水に潜ろうと押し合いへし合いの状態。あっちで首を上げ、こっちで水に潜り、向こうで口を開ける。水に潜る瞬間に、ぱっと耳を閉じる。ぴくぴくとよく動く小さな耳が、まるで精密な玩具のように、ぱっと閉じる。あっちで、ザブンぱっ、こっちでザブンぱっ。見事に閉じる。ふと見慣れた光景だと思う。いや、光景という具体的なカタチではない。これは、現代のコミュニケーションの状態を彷彿させるものだ、と気づく。人と人のコミュニケーションの問題。なにか言おうとすると、カバが水に潜るときのように、ぱっと耳を閉じる人が増えた。都合の悪いことは聞きたくない。好きでない人の言葉は拒絶したい。その言葉がいくらすばらしい言葉であろうと、心が拒絶する。心の耳が閉じられる。いつしかそれが習慣になり、好きでない人が口を開こうとすると、カバより早く心の耳を閉じる。気に入った人の言葉だけに耳を開けておく。人をわかろうとするより、自分をわかって欲しいという気持ちが強い。人の言うことに耳を貸さない。カバの耳になる。閉じる。この兆候は、各家庭にもあり、会社にもあり、政治にも、国家間にもある。オルポート&ポストマンの「デマの心理学」によると、噂の流布は「情報への重要性認識×裏づけとなる証拠の曖昧さ」に比例するとあるが、少々強引に広告コミュニケーションの公式を考えてみると「情報への重要性認識×証拠の曖昧さ×発信者の信頼性×対象の好意度」とも言えるのではないだろうか。「商品の対象への重要認識×具体的な証拠×企業の信頼性×対象の企業への好意度」が、広告コミュニケーションの成否を決定し、購買に結びつける。いま、広告には2つの役割が課せられている。レスポンスとブランディングだ。レスポンスとは反応、売り上げである。ブランディングとは「信頼と好意度」である。その商品やその企業が好きになり、この次も、その次もそれを買いたいと思う気持ちの造成である。だが「好意の効果」を忘れている広告が多すぎる。情報の洪水の中でいかに生活者の耳を閉じさせずに広告を見てもらえるか。カバの耳のようにすぐ閉じてしまう生活者の心の耳を、いかにして閉じさせないか。広告に限らずコミュニケーションとは、心が心に語りかけるものだから「信頼と好意」が大きな価値を持つ。もっとコミュニケーション。わかりあう世界へ。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
■失敗を恐がる国。 ■2008年8月6日 水曜日 5時56分47秒

モノゴトの成功と失敗は、なにを基準にして決めるのか。北海道サミットについて野中さんは、22カ国も参加させた上に拉致問題を机上に載せたのだから大成功だといい、亀井さんは、結論が先延ばしになって中身がなんにもないから失敗だという。国民の多くは成功か失敗かと聞かれても確信ある回答ができない。成否の基準が不明だからだ。目標を決めておかなければ成否はわからない。「武士道とは、死ぬことと見つけたり」という過激な逆説で知られる山本常朝の「葉隠」では、武士はなにもしないことがまず失敗だという。コトを起こして途中で失敗しても、それは戦場での討ち死にと同様に失敗ではないのだという。とにかくなにもしないのは武士でありながら戦場に行かないのと同じで、極めて卑怯なことである。今年の全英女子ゴルフでは、日本勢の活躍で夜明けまでテレビに釘付けになった。不動、宮里、上田桃子が優勝戦線に絡んできたのは2日か3日目あたりだ。不動がトップに立ち、韓国の申が追いかける。長いスランプのトンネルを抜けた宮里がぐんぐんとスコアを上げて迫る。強い藍ちゃん帰ってきた。ぱっちりした目はしっかりと前を見つめ、唇は横に真っすぐに結ばれている。上田桃子はこともなげに淡々とグリーンを攻める。他の外国人プレイヤーたちの存在が霞むほどの日本女子プレーヤーの躍進だ。1位から3位までを日本人プレーヤーが独占するかという甘い夢が頭をよぎりにんまりする。岩のごとく磐石の不動に隙はない。アグレッシブに攻める宮里に迷いはない。だが、上田桃子が失速した。10アンダーあたりを行ったり来たりしていたが、徐々にスコアを落とし始める。その時トップは14アンダー。早く12か13アンダーまでスコアを伸ばし、トップと絡みたいところだ。攻める宮里がバーディを重ねて行く。最終日。1番、2番のロングホールがバーディの狙いどころだ。不動のショットがぶれ、パットが微妙に狂い出す。申は20歳とはとても思えぬ堂々たるゴルフで1番2番を何食わぬ顔でバーディ。不動の顔から微笑みが消えた。申のバーディラッシュが始まった。上田桃子が脱落して行く。宮里は前日よりさらに引き締まった顔つきで申を追う。だが、申は驚くほど強かった。解説者たちは申がショットを打つたびに、完璧と叫び、パットを打つたびに、うまいと感心する。気がつくと18アンダーまで申はスコアを伸ばし18番ホールでは、メジャーのプレッシャーどころか笑みさえ浮かべている。逆にこの日、不動の表情は硬かった。だが、世界でここまで活躍した日本女子プレーヤーに爽やかな感動を覚えた。それにしても日本は「失敗を恐がる国」であるとつくづく思う。会社では、社長が社員の失敗を許さない。家庭では、母が子どもの失敗を許さない。学校では、先生の失敗を父兄が許さない。政治においては、国民が政治家の失敗を許さない。許さないのは当然であるが、それにしても度が過ぎるのではないか。失敗を恐れずに挑戦しろ、と口ではいうが実際にはまったく失敗を許さないから、みんなどんどんいじけて行く。島国根性丸出しで、攻めない。失敗したくないから挑戦しない。日本が外国に勝てない最大の原因は、失敗を恐れるあまりになにもしないからだ。日本は、永遠の島国であり、内弁慶なのか。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
■広告維新。 ■2008年7月22日 火曜日 0時33分46秒

広告は時代を映す鏡なのだと改めて実感させられる最近である。あの高度成長時代には広告はすこぶる元気だった。まさに広告はビジネスの一環であって、広告費も豊富だった。経済の歯車と広告の歯車はお互いにお互いの勢いをつけ気持ちよく回転していた。だが、違う理論も成立する。景気の悪いときほど広告の勢いが必要だ。広告で経済の活性化が可能だ、という理論だ。それは相当高度な広告をいうのだ。広告費に頼る広告ではなく、知恵に頼る広告のことだ。そんなことは理想論で、実際には不可能だという広告屋を使っている企業さんは、そんな広告屋をクビにしましょう。広告を考える前に不可能を考える広告屋は、落第。わたしたち広告屋は、これまでもたくさんの不可能を可能にしてきた。広告は使いようで驚く力を発揮する。そして広告は、広告を信ずる企業にだけその驚く力を発揮する。現在、日本の広告費は、年間約6兆円だが、これは東京都の年間予算に匹敵する。さらにかのマイクロソフトのビル・ゲイツさんの資産に匹敵するという。広告屋としてはなんだか気の抜けるほど少ない額だとも思うが、深呼吸をして考え直してみるとやはり天文学的数字である。そこで、広告業界を新たな目で見回してみると、いるいる、なかなかシャープなクリエイターが確かにいる。生まれている。だいたいが(この、だいたいがという言葉を使うと、次に一般論が出てくる)クリエイターはクリエイティブに全力を尽くすものだから、夢みたいなことを言ったりやったりする。もちろん広告はビジネスだから、その夢はいい加減なものであってはならない。だが、夢のない広告は、広告としては一人前ではない。そして、広告を信じ、クリエイティブを信じている企業もまだまだある。広告を信じているから、広告も企業を裏切らない。広告がうまいと評判のサントリーやホンダ。ソニーもうまい。資生堂もいい。最近では、ソフトバンクをはじめとするケータイ各社が楽しい広告を展開して生活者(いまは、消費者といわずに生活者という)に受け入れられている。広告を当てにしない、信用しない企業の広告はうまくない。かつて宣伝部には有能な人材が多かったが、いまや宣伝部さえ削除してしまった企業もある。また、最近ではパソコンが使えるからという理由で、入社したての社員にデザインをさせたりする企業があって、これは開いた口がふさがらない。広告の最も重要な部分は心理学なのだ。市場を凝視し、市場を形成する人間の心理を読む作業だ。パソコンが使えるだけなら、中学生や高校生のほうがよっぽどうまい。金がかからないからパソコン使える女子社員にやらせようという企業もある。広告をその程度にしか考えないから、広告の効果もその程度しかない。広告維新が始まっている。景気の後退と相前後して普及してきたインターネットが、最強の広告媒体として君臨してきたテレビコマーシャルの屋台骨を揺さぶっていることも広告に革新を求めている要因だ。出てこい。時代を変える広告の志士。そして、企業の皆さん、広告をもっと信じてください。広告は、信ずるものを裏切りません。
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■流行と本質。 ■2008年7月9日 水曜日 16時24分54秒

人生とは? 仏頂禅師が芭蕉に問う。蛙飛び込む水の音。芭蕉が答える。お見事。仏頂禅師が膝を打つ。仏頂禅師は、芭蕉の禅の師匠だ。実際にこういう会話が交わされたわけではないが、俳句とは禅の心の言語表現だとその書はいう。経堂農大通りの古書店で「奥の細道」を手に取り、となりにあった禅の本をついでに買ってしまった。通勤のバスの中、トイレ、風呂の中で読む。むずかしい学問としての禅には興味がない。ただ達磨禅師の発想に共感し、禅を学問としてではなく心の在り方としてとらえることができたらいいな、と思う。仏の教えに対し多くの後継者たちがさまざまな説を立ててわれこそがと優劣を競う中、達磨禅師は、アホらしい、仏の心の本質に迫ることこそが肝心で、小理屈なんかは本質に迫るための方法論に過ぎない。なのに、いつの間にか小理屈が本質のごとく語られ、そう錯覚する愚かな連中ばかりとなった。本質の探求。いかがですか? いいでしょう、禅って。理屈っぽいわたしは頭をガンと拳固で殴られた気分です。なんだか理屈っぽいのはいまの時代も同じで、理屈に振り回されている人を見るとなんとも情けなくなる。わたしもその1人か。地球環境問題も、経済問題も、政治も、企業経営も、広告も、会議も、小理屈と小理屈の戦いの様相を呈し、ドスンと本質に踏み込む鋭さが見当たらない。達磨禅師は、美しく心地よい言葉に騙される愚かさを犯さないように瞑想に入り、心眼でじっと本質を探求した。わたしも大いに反省し、本質を求める日々を送ろうと努力している。本質と理屈の関係、さらには本質と流行の対比も興味深い。広告を作るわたしには、本質さえつかめれば表現は流行に乗ってもいい、むしろ流行に乗るくらいでなければコミュニケーションに力がつかないと思っている。理屈が手段であって本質ではないように、流行もコミュニケーション手段であって本質ではない。だから、絶対条件として本質をつかむこと。男と女が恋をし、腹が減ればいらいらし、悲しければ泣く。人類創生の昔から、人間の本質は変わっていない。流行はどんどん変わる。それでいい。いま、新橋の光洋カラー社で、毎週火曜日に光洋塾なるものを開き、老いも若きも関係なくみんなでああだこうだとやいやいがやがややっているが、目標のひとつに「本質を見極める心眼を養う」という項目をわたし的に持っている。プロデューサーの横山ヒロコくんや中井ワカバくん、クリエイターのボタンちゃんこと熊谷エリコ女史の流行に敏なること大いに勉強になる。本質を見極める心眼を養えば、必ずいい彼が見つかるぞ、と思う。揺るがぬ本質を見抜く。だから流行を素直に受け入れる余裕が生まれる。ところで芭蕉だが、後で「古池や」をつけて句として完成させた。古池を「無限の時間」の表現というが、いやはやさっぱりわからない。だから面白い。
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■自分の都合。 ■2008年6月20日 金曜日 2時51分48秒

人は誰でも「自分の都合」で生きている。正しく熱心な宗教家はともかく、通常の人間は自分の都合を何よりも最優先させる。仕方がないがそうである。人間、それでいいのだとも思う。渋谷駅から母校に向かう都バスの中で、ふとそんなことを考えている。ジャケットのポケットには石坂洋二郎の小説「青い山脈」のボロボロの文庫本が入っている。6月のある土曜日の午後のことだ。東京は梅雨入りしたが、今日は雨の心配はない。3時から空手道部のОB総会があり、6時からは渋谷で新入生歓迎会がある。その前に道場に寄り、監督と現役連中に挨拶をしようと早めにバスに乗ったのだ。自分の都合という考えと「青い山脈」の関係は、わたしの中には大いにある。「青い山脈」は、昭和22年に新聞連載された小説で、時代を反映して敗戦後の日本に民主主義を普及定着させようという魂胆が裏にあったに違いないとわたしは睨んでいる。それはともかくこの物語は、古い田舎町の常識に立ち向かう若い力の話である。わたしは60年前のこの物語を現在の空手道部に当てはめて考えている。ОB会を古い常識と考え、若い現役との価値観の違いを楽しみたいという不届きな思いが心のどこかにある。それにОB会には数回出席しているが、会議の席で極めて個人的な、自分の都合での発言としか思えない滑稽な意見を偉そうに言う場面が多々見られるからだ。自分の都合からは人間は離れられないと先に悲しい諦念を暴露したが、せめて自分の都合を他人に押し付ける愚かなことはしてはならないと思う。組織や会社や社会にいれば、組織や会社や社会の都合が生まれてくるものである。みんなの都合である。そこでは自分の都合を封印しなければならない。それがオトナのマナーであり、知恵であろう。道場で監督に会い、現役たちと会う。現役は3人しかいない。われらの時代には100人を越える部員がいた。だが、いま4年生は主将の1人、3年生はゼロ、2年生が3人、そして1年生が道場で稽古している3人だけだ。わが空手道部は廃部の危機に瀕しているのだ。そこで昨年、ОB会はそれまでの首脳部に代わり、緊急の首脳部を編成した。新会長のマニフェストは2つあった。1つが現役部員の増加である。2つめがОB会員の増強である。1年が経つが、結果はむしろ逆だ。ОB会が現役に関与しすぎたためか、現役部員たちが次々に休部している。ОB会員の中でも止めていく者がいる。むずかしい局面にわたしたちは置かれている。ОBの中でも現役の自主性を重んじろという意見がある。そんな中でわたしは、自分の都合で発言する言葉を聞くたびに情けなくなるのだ。いまは、現役の都合を直視するときであり、ОB会全体の都合を徹底的に探るときであり、空手道部60年の都合を語るときであって、自分の都合など邪魔なのだ。そして「青い山脈」のように、古い伝統と若い感覚との摩擦もまた起こっている。わたしはというと、自分の都合を妻にも社員にも押し付けていて、偉そうなことは実はいえない。
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■小説より悲しい。 ■2008年6月10日 火曜日 6時34分12秒

昭和40年、丘と川のある町に幸せな家族がいた。新宿区下落合。丘はいつもあたたかい光の中にあり、川は夕日を映してキラキラと輝いていた。父は染色加工職人で、母はいつも父のそばにいて仕事を手伝っていた。男の子ばかりの5人兄弟で、子どもたちはみな元気だった。貧しいけれど幸せだった。だれもがこころ豊かで、会話には愛情が溢れていたから、不幸だと思ったことは一度もなかった。スポーツ好きの長男は高校生になると家を出、大学では部活の合宿に入ってあまり家に帰ることはなかった。次男は高校を卒業すると大手旅行会社に職を求めた。家を早く出た長男に代わって弟たちの面倒をよくみた次男で、弟たちは全面的に次男を信頼した。こころやさしく、人柄もよく、正直な次男は誰からも愛されていた。次男のそばにいるとふと微笑みたくなるような、春の陽射しのような男だった。3男は次男と仲がよかった。性格も似ているのだろう。穏やかで、つつましい男だ。いつもにこにこと人の話に耳を傾けていた。熱狂的な巨人ファンで、巨人が負けると黙って2階へ消えてしまう。バクチは強かった。次男と2人で競馬をやっていたが、一年を通して勝つことが多かった。将棋も強かった。将棋好きの父と戦って、アマチュア3段といわれる父を唸らせたのは3男だった。4男は明るい男だ。軽妙で、冗談を言うが、こころも言葉もやさしく、あたたかい。まわりに明るさを振りまく男だ。物腰の柔らかい、誰にでも愛される性格だ。5男はのびのびと育った。体格もよく、身長は180センチを超える。学校の成績は驚くほど悪かったが、母が、お前は元気ならいいのよ、というものだからほとんど1と2の成績表を他人のものように笑ってみんなに見せていた。あれから50年近くの時が流れ、下落合の丘に当たる陽射しも変わることなく、川の流れもまた変わらないが、この幸せな家族は変わった。あれから50年近くの時の流れの中でいろいろなことが起こった。次男は会社を辞めて子どもたちのために小さなパン屋を始めようと修行に出ていたが、38歳で突然癌でなくなった。仲のよい次男がずっとそばに寄り添ったが、中野病院のイチョウの葉が落ちると同時にこの世を去った。その後数年を経て父が癌になり、あっという間に他界した。神田川の近くの病院で、兄弟はよく集まって父を勇気づけたが、やはり3男が寄り添った。いつも3男が家族に寄り添い、悲しみの近くにいた。父が死に、母が健康を害し始めた時も3男がずっとともに暮らし、そばにいた。長男も4男も5男も結婚して家を出ていた。次男と3男が両親とともに暮らしていたが、次男を失い、父を失った後も3男がいつも母に寄り添って暮らしていた。母が癌になり放射線治療が始まると、3男は毎日会社を抜け、母を新大久保の病院に連れて行った。大変な暮らしが1ヶ月以上も続き、母が2回目の放射線治療を始めようとしていた矢先、3男が腎臓癌になった。3男は自分のことよりボケの進む母のことばかりを心配している。いま、窓の外は土砂降りの雨だ。下落合の幸せな家族は土砂降りの雨の中にいる。だが、力を合わせ、また幸せな時間を作らなければ、死んだ父と次男にすまない。ただ、それだけを考えている。事実は、小説よりも悲しいものだ。
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■渋谷が動き始めた。 ■2008年5月21日 水曜日 6時21分38秒

渋谷は第2の故郷である。疎開先の長野県から下落合に帰り住み着いた田舎者が高校生になり、初めて電車通学をしたのが広尾高校で、1年浪人をして入学したのが國學院大學だった。大学では空手道部に入り、初代が元都議会議長で元渋谷区長の小倉基先輩だから、もはや渋谷とは切るに切れない間柄だと思い込んでいる。そして、今も毎日渋谷を通って通勤している。われらが学生の頃にも渋谷は大改革を遂げた。上空を高速道路が走り、オリンピックが開催され、恋文横丁がなくなった。その渋谷がいままた大改革を始めている。6月14日、渋谷、新宿、池袋をつなぐ都営地下鉄副都心線が開通するのだ。地下鉄新渋谷駅には数年後東急東横線が乗り入れ、横浜へ一直線で行けるようになる。現在、JR渋谷駅に接続している東急東横線が地下鉄に接続されるのだ。池袋から先が埼玉までつながっているので、横浜から埼玉まで一気に駆け抜けることになる。副都心線新渋谷駅は、西口のハチ公の反対側の東口にできる。建築家安藤忠雄氏設計の新渋谷駅は、まるで宇宙船のようだ。地下であっても広々と大きく気持ちのいい空間にしたいという安藤氏ならではの、度肝を抜くデザインをテレビニュースで見たが実に面白そうだ。東口のメインとなる新渋谷駅の上には数年後地上30階以上の超高層ビルができる。屋上にプラネタリウムがあり、いくつかの映画館があり、レストラン街のあった東急文化会館の跡地だ。新渋谷駅の出入り口は7箇所ある。東口と宮益坂商店街と宮下パーク通り商店街にできる。宮下パーク商店街口から出るとパルコのある公園通りやNHKにはこれまでより近道となる。都心の街はある時期活気を失った。郊外に巨大なショッピングモールが建設され、わざわざ都心に出ることもなくなったからだ。客は離れた。そこで、六本木がまず反撃に出た。六本木ヒルズを造り、ミッドタウンを造った。銀座も反撃に出た。有名ブランドを招聘し、有楽町駅前を再開発した。秋葉原には常磐新線が入り、高層ビルが建てられた。回りの街が大きく様変わりをして客を呼ぶ中、渋谷はじっと耐えた。そして、いよいよ反撃を開始する。この副都心線で低迷から脱出し、新しい渋谷の顔が出現する。これまで渋谷といえば若者の街という印象で、ハチ公のある西口はいつも若い熱気で溢れかえっている。東口はその西口と対抗しようという発想ではなく、隣接する青山や六本木との連携を意識し、大人の街となる予定だ。渋谷宮下パーク商店会小林会長からお聞きした構想は、渋谷2つの顔というものである。若い感覚と大人の上質な感覚の両方が楽しめる2つの顔。今日も渋谷の街を歩いてきた。驚くほど変わる。6月14日、時間が許せば渋谷の街を覗いてみて欲しい。六本木、銀座、秋葉原に負けない街が出現する。時が行き、街が変わり、人もまた川のように流れる。
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■左腕の瘤 ■2008年5月9日 金曜日 1時9分49秒

やっぱり悪性だって。電話の向こうで弟の信治が言う。早ければ1・2ヶ月、これから放射線治療を始めてうまくいけば数年生きるかもしれない。うまくいけばね。そういう例があったと言うだけの話だけど。でも、少しでも延命を考えるのなら左腕を付け根から切り落とすことも考えたほうがいいって。先生がそう言うんだ。そこで、信治の言葉は途切れた。わたしも信治も黙っている。黙っている分だけ弟の悲しみの深さが伝わり、わたしの心が震える。何もしてやれない長男としての自分の不甲斐なさに目を閉じる。母を慕うわたしの悲しさの何十倍も電話の向こうで信治は悲しんでいる。母の左腕に瘤ができ、その瘤はしばらくはじっと息を潜めていたが、1ヶ月くらい前に突然暴れだした。癌です。医師にそう言われて信治が電話をしてきた。新大久保の病院でもう一度検査をするんだけど、あんちゃん、来れる? その検査に信治と末の弟の守男が行った。それまでアルツハイマーが徐々に進み、寝たきりで介護を受けていた母を病院に連れて行くのに信治ひとりでは無理だった。検査の前から母の年齢やさまざまな条件を考えると、悪性の癌の可能性が高いだろうという重い予感がわたしにも弟たちにもあった。淡い期待を込めて通りすがりの神社や寺や教会に祈ったが、やはり悪性だったのだ。腕を切るのはまだしたくないんだ。信治が言う。いまでも生きる気力が乏しいのに、腕を切ったらどうなるか。だから放射線でできる限りやってみようと思う。そうしよう。わたしは一も二もなく賛成する。信治には謝りきれない責任がわたしにはある。高校から大学にかけて合宿生活に入り、社会人になってすぐに結婚し、長男でありながら両親のそばにいなかった責任だ。わたしは男ばかりの5人兄弟で、次男の敬二、3男の信治、4男の里志、5男で末っ子の守男がいるが、そのことがわたしを自由にし、責任を遠ざけてしまった。3男の里志と4男の守男が結婚しても、敬二と信治は結婚をせずに両親と暮らした。心やさしくしっかり者の敬二はわたしよりも長男の資格と風格をもっていたが、37歳の秋、肺癌であっという間に他界した。敬二と一番仲のよかった信治はずっと病院に付き添い、敬二の病状の毎分毎秒をノートに書き、真っ向から悲しみに立ち向かった。あれから33年が経っている。敬二に続き父が83歳で逝った。酒とタバコを愛し、明晰な頭脳を持ちながら家の事情で小学校にしか行けず染物職人になった父は、尊敬すべき江戸っ子だった。その父のそばにずっと付き添ったのも信治だった。ほのぼのと心あたたかい3男里志は、実家のそばに住んでいて信治をよく助けた。4男守男も全力を尽くした。そして、今日も信治は会社から飛んで帰り、母に放射線治療を受けさせるために新大久保の病院に連れて行っている。わたしは、会社からバスで病院に向かう。他に客のいない昼下がりのバスの最後部の座席で、わたしは母と弟のために祈る。効いてくれ放射線。母と弟たちのために。午後ののんびりとあたたかい陽射しが、わたしには冷たく感じる。
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■若い川の流れ ■2008年4月20日 日曜日 2時37分46秒

石坂洋次郎さんの小説が好きだ。「若い人」の間崎先生もいい。江波杏子もいい。「青い山脈」の寺澤新子も金谷六助もいい。「陽のあたる坂道」の田代信次も好きだ。石坂さんの小説は読みやすい。むずかしい言葉はない。主人公はみんな前向きで、無駄に飾らず、素直で、自分に忠実に生きている。誰もが生まれや育ち、環境になんらかの問題を抱えていて、そのことであがきもがいて生きているのだが、真っすぐに問題に立ち向かう勇気を持っている。心が健康である。聡明である。たとえ少々ひねくれていても、どこかユーモラスで憎めない。決してスーパーマンではなく、極めて平凡な等身大の勇気と聡明さを持ち合わせている。読者はその健康な精神に惹かれる。石坂さんは1900年に青森で生まれた。「青い山脈」は1947年に朝日新聞に連載された小説だが、その年は終戦2年目で石坂さんは47歳だった。小説のテーマは、自由と民主主義。敗戦から立ち上がろうとする日本に勇気を与えようとか、日本あるいは日本人がこれから向かう道とはこんな感じだとかを示唆したのだ。時代が時代だけに当然さまざまな方面からの圧力があったと思うが、石坂さんの主人公や登場人物が実に見事に、いきいきと描かれていて気持ちがいい。石坂さんは戦前の人なのによくもまあこんなに健康な精神を描けたものだ。1949年に今井正監督により「青い山脈」は映画化されたが、西条八十作詞、服部良一作曲の主題歌が大ヒットした。わたしはかなり後になって、吉永小百合と浜田光男主演の「青い山脈」を観たが、驚いたことに少しも古くない。われら人間はいつもなにかの壁にぶつかりながらあがいて生きていることを実感する。いつの時代にも壁はあるのだ。その壁が時代によって違うのだ。時代自身が壁かも知れない。その壁にどう立ち向かうかが人間の器なのだ。石原裕次郎がいくつか石坂作品の主役を演じた。「乳母車」「若い川の流れ」「陽のあたる坂道」。裕次郎のちょっとすねた素直、憎めない人柄、漂うユーモア、陰のある育ちのよさが石坂洋次郎の主人公をさらに魅力的にした。石坂洋次郎は決して小説の主人公のように明るく健康的ではなかったと聞く。小林一茶が実生活では不幸に包まれながら、人を見るやさしさやユーモアを忘れなかったように、石坂さんも暗い押入れの中で明るい太陽を見つめていたのか。韓国ドラマは、単調だとか、浅過ぎるとか、古いと言われるが、ストーリーがわかりやすく、時代の価値観や不変の価値観がわかりやすい。昔の日本映画を彷彿とさせるものがある。石坂さんの小説の持つ、立ちはだかる壁に真っ向から向かう素直さや前向きの姿勢がある。日本のテレビドラマが韓国ドラマを真似たわけではなく、ごく自然に前向きのものが増え始めているようでうれしい。わたしの中でいまなおいきいきと跳躍する石坂洋次郎の小説の主人公が、現代でも受け入れられているようで楽しい。川の流れは、澱まず止まらず濁らず、真っすぐに自然に流れてこそいつまでも若い川でいられるのだ。
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■狂犬を運転するドブネズミ。 ■2008年4月9日 水曜日 8時11分26秒

新橋で弟と別れ、バス停に向かう。午後10時50分。舗道は雨に濡れ、道行く人々の足は自然に早くなる。お客さん、渋谷行き最終バスは出ましたよ。バス停前に並んだタクシーの運転手さんが言う。わけあって電車に乗れないわたしは、仕方なくタクシーに乗る。桜も終わりましたね。運転手さんが言い、早かったですね、とわたしは答える。それにしても夜の新橋駅前はタクシーの数が多いですね。運転手さんの背中に向かってわたしは言う。そうですよ、規制緩和ってやつでやたらにタクシーが増えました。いろんな会社が参入してきて、収拾がつきません。だって、競争が激しいから参入しても経営は大変でしょう。わたしは聞く。大変です。でも、どんどん参入してきます。それは日銭が入るからです。日銭が入るってのが魅力なんです。運転手さんが言う。うちの会社の場合、200台の車が走っています。1台1日5万円水揚げれば1000万円の現金が入ります。そりゃ凄い1日1000万円か。単純計算だけど1ヵ月で3億円だ。それも現金で。そうですよ、だれでも参入したくなります。競争ばっかり激しくなってね。わたしは30年もタクシーの運転手をやっていますが、いまの水揚げは昔の半分以下です。1ヵ月20万円がいいとこです。年金をもらっているからまあいいかと思うけど、この労働量でこの給料じゃ普通ならやっていけません。なるほどねえ。質の悪い運転手が多いです。昔から質が悪いけど、まあ驚くほど質が悪いですね。客の取り合いですから平気でこっちの車の前に斜めに切り込んできます。思わず急ブレーキをかけるとすいっと客を乗せていきます。タクシー同士が通りで並ぶと睨み合いです。この前なんか駅前でタクシーの運転手同士で殴りあいの喧嘩をしてましたよ。え、そうなの? 運転手さん同士って仲良しじゃないんだ。とんでもない。カタキ同士です。がんがん割り込んできますからね。頭にきます。危なくてしょうがないですよ。客を取られた運転手が相手のタクシーの前にぴたりと車の尻をつけてキーをしたまま車を置いていなくなったりね。後ろも前もぴたりとつけられて動けなくしちゃうとか、嫌がらせなんか年中のことです。所詮雲助ですからね。わたしに言わせりゃ、狂犬をドブネズミが運転しているようなもんです。なにもそこまでは。いえいえ、それでも言い足りません。タクシーのセンターがあるでしょう。そういう所で運転手さんの人格管理とか意識の向上とかってやらないのですか? まったくやりません。センターなんか所詮天下りですから、客の苦情をはいはいって聞いているだけです。そして運転手を呼び出して文句を言うだけ。運転手のためになにかやろうなんて思っちゃいません。
タクシーは天現寺交差点を抜けて明治通りを渋谷に向かう。小柄で人のよさそうな運転手さんは、にこにことドギツイことを連発する。
よっぽど腹に据えかねているのだろう。わたしは同情しながらも運転のほうが心配になる。タクシーは運転のプロが運転するのだから、事故は少ないだろうと漠然と思っていたのだが、どうやらタクシーの安全神話は根こそぎ覆されたようだ。早く渋谷に着いてくれ。
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■ジャニーズ系よりデニーズ系。 ■2008年3月19日 水曜日 7時2分46秒

もう二度と人に見合い話は頼まない。松ちゃんが、真っ赤な顔で怒る。ビールのせいじゃない。とくに百人町のおばさんには絶対頼まない。本当に怒っている。だが、松ちゃんは怒っているのかとぼけているのかわからない顔だ。自分で自分を笑っているようにも見える。笑っているけど悲しい顔だ。わたし、新宿区百人町に住んでます。小滝橋の近くの。あ、おれの実家は下落合だよ。わたしが言う。近いね。はい、すぐ近くです。わたし、西戸山小学校です。タカノさんは? おれ、落合第4小学校ね。隣ね。で、松ちゃん、見合いはどうしたの? そうそう、それです。だいたい見合いをデニーズでやりますか? 見合いを馬鹿にしてません? うん、見合いを馬鹿にしてるか松ちゃんを馬鹿にしてるかどっちかだな。第一、見合いの途中ドリンクバーにコーヒーを何回もお替りに行くって変でしょ。わたし、ビシッとスーツで決めて行ったんですよ。デニーズで仲人さんと待ち合わせて京王プラザのロビーとかに行くのならわかります。ずっとデニーズ、延々とデニーズ、最後までデニーズ。おかしいでしょ、いつもサンダル履いて行く店ですよ。腹を抱えて笑いながら、わたしは言う。見合いはせめてロイヤルホストじゃなくちゃな。まあ、そう言われるとガストよりはよかったのかなあと思います。松ちゃんは天上を仰ぐ。わたしは松ちゃんほどユニークな人物を他に知らない。ユニークとは実に使い勝手のいい愛嬌のある言葉だ。唯一のとか、独特なとか訳すが、類のないとも訳すから誉め言葉かどうかは疑わしいがまあ世間の概念としては誉め言葉と見ていい。松ちゃんは顔つきもユニーク、体つきもユニーク、性格もだれよりもユニーク。神は時として不思議な造形物をお創りになる。決してジャニーズ系ではなく、今日の話でデニーズ系であることを発見した。松ちゃんは続ける。で、おばさん、ずっと話しっぱなしなんです。松ちゃんの額は汗でてらてら光っている。2時間ずっとです。その間、わたしも喋らない。見合いの相手も喋らない。相手のお母さんも喋らない。やがて、おばさんふと気づいて言いました。あら、若い二人にお話させてあげなくちゃね。やっと気づいてくれました。そして、おばさんと見合い相手のお母さんは立ち上がるのです。立ち上がったら普通その場から消えるでしょ。消えないんです。すぐ横の席に座るんです。おかしいでしょ。すぐ横に座ってお菓子をねだる子どもみたいにじっとこっちを見てるんです。ご主人を待つ犬みたいにじっと見るんです。ううん、睨んでるんです、二人で。なに考えているんでしょうね。わたしは言いましたよ。そこにいるんならこっちの席にいっしょにいても同じでしょ。そしたらね、こっちの席に戻ってきたんです。おかしいでしょ。普通は消えるでしょ。もっとちがう所へ行くでしょ。同じ店でももっと遠くの席へ行くでしょ。ところが、ニコニコ戻ってきました。わたし、またドリンクバーです。コーヒーでお腹がごぼごぼ。そりゃそうです。ドリンクバーとおしゃべりババアの間を行ったり来たりですから。結局見合いはパーです。まもなく春。ああ、恋せよ松ちゃん。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
■素老倶楽部へようこそ。 ■2008年3月10日 月曜日 3時48分8秒

3月吉日。赤坂溜池に陽は落ち、夜の帳の中でネオンがおどおどと息を吹き返す。和食「おとわ」は赤坂ツインタワービルの足元の小さなビルの地下にある。注意しなければ見逃してしまうほどの楚々とした看板がこの店の内なる自信を表している。わが空手道の師であり、國學院大學空手道部の監督に就任された次呂久英樹先輩が、板長の小阪英邦氏の腕と長崎の魚に惚れ込んで通っている。素老倶楽部の定例会はそのご縁で「おとわ」を利用させて頂いている。さて、この素老倶楽部は、自らを「素老人」と名乗る次呂久大師が「素浪人」と「スローライフ」を文字って創ったもので、驚くことに、我田引水、自己中心、他力本願等の4項目からなる素老願(スローガン)まで作ってしまった。まったくおかしい話だ。心をほぐすゆっくりした木の香の「おとわ」の席。二つのテーブルに座る素老倶楽部の8人のメンバーを紹介する。倶楽部の初代会長となった新橋の笹野産業の社長笹野先輩は、会の中で唯一の知性派である。堺谷太一に似た穏やかな風貌にいつも静かな微笑を浮かべ、機関銃のように飛び交う会員たちの言葉にゆったりと耳を傾ける。発起人の次呂久大師は、今日もライト級のボクサーのような体躯からフライ級のボクサーのような軽いフットワークの素老言葉がぽんぽん飛び出す。まるでスローではない。変幻自在の会話が爆笑に輪をかける。日本武道館の現理事の青木先輩が次呂久大師の前にいる。次呂久大師同様頭髪とは遥か昔に別れを告げ、達磨大師のごとき鋭い眼球をぎょろぎょろ回転させて冗談とも本気ともつかない話題を振りまく。青木先輩は、葬儀委員長という肩書きをもつ。横にいるのは冨田先輩だ。千葉県に本拠を構える建設会社の社長である。次呂久大師と青木先輩だけでも十分に奇異なのに冨田先輩が加わるともはや社会の迷惑のような様相である。白くふさふさした髪は、タテガミである。酒を一切口にせず、こよなく女性を愛すといった口ぶり。一度女性側の意見も聞いてみたいと思う。冨田先輩の前には、きりっと和服で身を包んだ越谷の神影流道場主豊島一虎先輩がいる。次呂久大師が「鎧兜の戦闘姿で参加してくれ」と頼んだというが、抑え気味の和服にしたよ、と豊島先輩は笑った。かつて、わたしが空手部の現役のとき、夜遅く道場に現れ日本刀の本身を並ぶ部員たちの額に打ち下ろし、1センチの隙間でピタリピタリと留めて歩いた凄まじさは陰を潜めているが、時代を超越したサムライの風体でゆらりと風のように微笑んでいる。笹野会長の横には、インテリアの設計施工のプロ、商店経営のコンサルティングにも腕を振るう有米氏がいる。次呂久大師の弟子である。有米氏の前には、広島在住の同じく次呂久大師の弟子和田氏がいる。和田氏は実直な人柄である。心の有り様が見事に顔に現れている。高野さん、ぜひ広島に来てください。何回も何回もわたしの耳元で叫んでくれる。さてさて、この素老倶楽部、時代を切り、国家を語り、酒を酌み交わす素老人どもの集まり。入会希望者はいないと思うが、よかったら是非。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
■禅じゃない。 ■2008年2月19日 火曜日 8時30分28秒

どうやらダルマ大師は頭にきたようだ。なにが彼を怒らせたか。仏の教えを弟子やら周りやら頭のいい連中が、ああだこうだと解説し、その数の多いこと多いこと。解説は当然の如く、正しいもの、正しくないもの、間違ったもの、曲がったもの、玉も石もごっちゃごちゃ。どれが玉だかどれが石だかまるでわからず、闇雲に石を崇めている者も多い。もう理屈なんかいらない。邪魔だ。ダルマ大師は叫んだ。仏の教えは理屈じゃないんだ、この野郎。ま、この野郎なんて言わなかった。仏教とは、仏の心で心を知ること。心で悟ることなんだ。直接仏の実体に飛び込まなくちゃダメだ。そこで彼は瞑想に入った。理屈も屁理屈もぬき。瞑想して仏の実体に迫った。体験し、実覚し、実体を掴む。これが禅だ。実覚という言葉は禅の本に書かれていて、国語辞典にも出ていないから、宗教用語かも知れない。実覚と実感は似ているが、実覚は実感よりもっともっと実体に近づき、感じるだけでなく実体を悟るということだと解釈する。なにやら理屈が先行し、理屈と理屈が戦ったり、理屈と屁理屈が絡まったり、今って、そんな世の中なんじゃないのかなと思う。国会もそう。会議もそう。家庭もそう。上げ足取りばかりで、自分の不勉強を隠す。禅は追いかけても追いかけても心の隙間からするりとすり抜けていくので、禅そのものが把握できない私だが、ま、実体に迫るという点だけを見ても、今の世の中まるで禅じゃない。どうして私の心をわかってくれないの。そう叫ぶのは子どもたちだけじゃない。オトナだって叫んでいる。実体。その人の本質。その人の心。それを理解しようとしない。自分勝手な理屈でうまく丸め込んでしまおうとする。世の中の人々は、実体に迫る気もなく、実体に迫るエネルギーもなく、実体に迫る知恵もなく、実体に迫る手法も知らない。小手先の理屈を振り回しているうちに、その理屈が実体だと思い込む愚か者が目につく。理屈に酔う。他人のことは言えない。私も愚か者のひとりだ。だが、不幸にも芭蕉の句集といっしょに禅の本を古本屋で買ってしまった。この二つの本には関連性があったからだ。芭蕉は禅の心を極め、俳句こそが禅の言語化であるという。あら、そうなの、とばかりに禅の本を250円で買ってしまった。実体に近づこう。実体に迫ろう。そういう気持ちになっただけでも禅に近づいているものと楽観している。実体から目を背けるな。うまい言葉でごまかすな。文章を志す者として、そう思うだけでも大いなる進歩かも知れない。古池やかわず飛び込む水の音。これは時空を超えた壮大な宇宙世界を表現する禅の極みというが、まだ、さっぱりわからない。だが、今日からはゆっくりとじっくりと世の中の実体を見つめようと思う。人の心を見つめようと思う。実覚するのだ。あれ、見つめようとしても妻も子どもも出かけていない。まず瞑想から始めることにしよう。
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■歌えスーさん。 ■2008年2月8日 金曜日 6時25分51秒

居酒屋「たつこ」が引越しをする。いままで居酒屋だったけど今度はスナックだからね。ママが言う。居酒屋とスナックはどう違うの。
みんなが聞く。お勘定が違うの。ママが笑う。カウンターには6人の客がいる。右から声に艶のあるアラキさん、退院二日目のよっちゃん、同じく病気上がりのムーディさん、ぼくのかみさんののりちゃん、ぼく、スーさんの6人だ。今度はほら稲荷森神社の前ね。ヒロ・イトー先生の美容室の後よ。2階ね。名前も変わるのよ。「パラダイス」って言うの。階段がちょっと長いのよね。80歳を過ぎたスーさんが、おれ上れないなあ、とさびしげに天井を見る。そうか。みんなスーさんの顔を見る。ロープウェイをつけてもらうか。いや、全員一度階段の下に集合してツアーを組んで助けあって上ろう。回りが勇気づける。この際、ピッケルとザイルを用意するか。上るのも大変だけど、階段って下りも大変でなあ。スーさんが言う。いいさ、下るときは窓から蹴落としてもらえばいい。スーさんがさびしく笑う。歌を歌う。カラオケ。梓みちよの「メランコリー」ね。アラキさんがカウンターの中で野菜をいためているママに言う。あら、それ、わたしも歌いたい。のりちゃんがわがままを言う。こら、末っ子のわがままムスメ。ぼくが注意する。じゃあ、いっしょに歌えば。たつこママがやさしく言う。よし、アラキさんが「メラ」で、のりちゃんが「ンコリー」な。ぼくが言い、のりちゃんが「ンコリー?なんか汚いわねえ」とブツクサ言いながらマイクを持つ。大げさなくらい大きいマイクが二つある。アラキさんは堺谷太一に似た知的な風貌で、その笑顔がほっとさせる。声に艶があって通りがよく、トイレに入っていても歌声は聞こえてくる。ジャージャー流す水にも声は負けていない。うまい。みんなが言う。「メラ」も「ンコリー」もうまい。なんか誉められている感じがしないのよねえ。「ンコリー」担当ののりちゃんは歌いながら腹を抱えている。次にぼくが歌う。裕次郎ね。銀の指輪ね。よっちゃんが歌う。よっちゃんも裕次郎。うまい。石原裕次郎は場末に行くほど人気がある。場末で歌うほど裕次郎の歌は味が出る。これはぼくの説。この店のお客さん、みんな歌がうまいわ。のりちゃんが拍手する。退院二日目のよっちゃんは、短い髪でジャンバーを羽織っている。裕次郎が好きな人たちにはどこか共通点がある。太陽の明るさを持ちながら、夜霧のムードを持っている。あっけらかんとしながら、背中がさびしい。言い過ぎか。テニスクラブの面々と「パラダイス」に行って歌いまくる計画を立てている。できればセットで3000円の料金を2500円にしてもらえないか。そして5時から始めてもらいたい。歌のうまいマサヨシくんが言うが、まだママには交渉していない。
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■ニコルさんと松木さん。 ■2008年2月5日 火曜日 4時49分8秒

1月12日。朝10時にはまだ昨夜からの雨が残っている。コーヒーを一杯飲んで、アファンの森の会の会員の集いに出席するために12時04分発のバスで妻と渋谷に向かう。会場は、目黒駅近くの東京都庭園美術館。電車に乗れないわたしは渋谷からタクシーで目黒に向かう。途中、恵比寿駅近くの裏道で突然飛び出してきた乗用車とわたしと妻の乗るタクシーが衝突するアクシデントに驚きながら、1時過ぎに会場入り口で友人の小澤くんと会う。CWニコルさんが会場入り口にいてひとりひとりににこやかに微笑みながら握手をしている。ニコルさんとお会いするのは3回目か4回目だ。久しぶりに森田さんともお会いする。ニコルさんには赤鬼という愛称がある。大きな体と赤い顔はまさしく子どもの頃絵本で見た赤鬼そっくりだ。だが、ニコルさんは赤鬼じゃない。ニコルさんの瞳は、淡く青く深い。ニコルさんの出身地ウェールズの山奥の湖はこうではないかと思わせるように、その瞳は穏やかに澄んでいる。だからニコルさんは少しも恐くない。ニコルさんは、むしろアファンの森の熊ではないか、とわたしは思う。熊より大きい。となれば、森の熊の化身かな。1時30分、オープニング。理事長の熊さんの挨拶。たどたどしく聞こえる熊さんの言葉は、言葉を選んでいるからだと思った。行動する作家であるニコルさんは、会員の方々にわかりやすく、ゆっくりとあたたかく話をする。小学生の子どもにもわかるように話す。人間にとって森がどんなに大切なものか。地球にとって森がどんなに大切なものか。森はどうしたら元気でいられるのか。少年の頃ウェールズを後にして世界の自然とともに暮らしてきたニコルさんの話は、世界の森そのものが直接わたしたちに話かけているようにココロに沁みてくる。テーブルの前にいる小学生が笑っている。会場のみんながひとつの森になって、静かに穏やかにニコルさんの言葉に微笑みながらそよいでいる。みんながアファンの森になる。ニコルさんの言葉はアファンの森の言葉となる。アファンの森の住人松木さんがまるで家族の話をするように森の話をする。森の木は松木さんの子どもであり、奥さんであり、父であり、母なのだ。一本一本の木の言葉を松木さんが代弁する。松木さんは、森の人。森の人とは、オランウータンのことだ。目を凝らして見ると松木さんの顔、体、動き、全部が全部オランウータンみたいだ。素朴で、ていねいで、親身で、あたたかい。森のようにやさしく、小柄だけれど森のように大きい。質問コーナーで質問をすると、松木さんは必ず、うん、カンタンだ、といってから答える。うん、カンタンだ。うん、カンタンだ。松木さんは、森のことは森が教えてくれる、だからカンタンだ、耳を澄まして森に聞けばいいのさ、という。ニコルさんも松木さんも、森そのものだ。東京のビルに囲まれて暮らすわたしの心にふと心地よい風が吹いた一日だった。
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■がんばれ、現役諸君。 ■2008年1月8日 火曜日 7時16分3秒

空手を武道とするか、スポーツとするか。1962年、わが國學院大學空手道部は岐路に立っていた。もちろん、それはわれらだけで決めるべき問題ではなかった。柔道はすでに講道館を中心に柔術各派は統合されスポーツの道を歩いて久しいが、空手はそれより遥か後方を歩いていた。武道としての立場を崩すなという者たちは、空手道を人の生きるべき道とし、道の厳しさや深い精神性を尊重すべきであると主張する。空手をスポーツにしようという者たちは、空手道のさらなる広い世界への発展を期待していた。もちろん両者には美しき精神の純粋性と同時にいくばくかの利害が絡んでいた。二者は互いにけん制しながら時の川に流されていくのだが、時代の趨勢は空手のスポーツ化という美名に傾いて行くのは当然だった。武道のもつ精神性がスポーツとは一線を画すると思い込んでいたぼくは、空手は武道だという思いが強かったが、実はどちらでもよく、両者の長所を取り込んで空手道が進化すればよいとも思っていたし、実際にそういう道しか歩く道はないのだというある種の諦念を抱いていた。当時、学生空手道には大塚先生率いるわれら和道流、松涛館流、剛柔流、糸東流等の各流が派を競っていた。われらは和道流に誇りをもつと同時に他流の誇りも当然のごとく大切にしていた。大山増達先生が極真空手を広めるためにわれらの道場を訪れたのもこの頃だった。先生は牛殺しの技が掲載された極真空手の極意である書籍をわれらに見せた。だが、われらには極真空手を受け入れる気はなかったし、極真空手は、学生の間に普及することもなかった。その後、町道場を中心にここまで自分の流派を広げた大山先生の熱気には驚嘆するしかない。空手のスポーツ化は、同時にバンカラという言葉を死語に向かわせた。野蛮の蛮と人柄の柄と書いて、蛮柄と言う。バンカラはおしゃれとは対極にある言葉で、無骨で乱暴で無頓着という悪いイメージも含むが、不器用とか愚直とか一徹という愛すべき意味も含む。われらはバンカラという言葉に誇りをもっていた。だが、バンカラという言葉はスポーツにふさわしくなかったためにいつの間にか滅んでしまった。言葉が滅ぶと言葉のもつ精神も同時に滅ぶのであって、もはやバンカラ精神も歴史の彼方に消えてしまった。空手部のスポーツ化については11代青柳主将、12代越三主将の並々ならぬご苦労があった。おかげで阿部貴を主将とするわれら13代には迷いはなかった。だが、空手道部の悪しき伝統のすべてを排除するには至らなかった。さまざまな伝統を、これは良き伝統、これは悪しき伝統と明快に区分けできないものもあるからだ。上級生には良き伝統でも、下級生には悪しき伝統というものもある。あれから45年。100人を越えていた部員が、いまや10人を切ってしまった。空手が時代に合わないという意見もあるが、ぼくはそうは思わない。空手道のもつ魅力をわれらが後輩に伝えていないからだ。ただ、それだけだ。國學院大學空手道部OB会「紫魂会」小柴会長の手腕に期待する。がんばれ、現役諸君。
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■キーウエスト ■2007年12月20日 木曜日 10時40分53秒

彼はなぜかパリを捨て、太陽の島、キーウエストに行ったのだろうか。1920年代。彼はパリにいて、貧しかったが明快な目的をもって暮らしていた。結婚をして子どもも生まれ、活力のある眼差しは鋭く前を見つめていた。
カフェでは多くの芸術家たちが文学を語り、絵画を語り、情熱をぶつけ、酒の海を泳いでいた。
ヘミングウェイは、いくつもの短編を書き、やがて「陽はまた昇る」を書いた。
彼の創作哲学は、知っていることを書け、正直に書け、というものであった。第一次大戦で傷ついた彼らの年代を「ロストゼネレーション」失われた世代と呼んだのは、ヘミングウェイの文学上の師でもあったガートルート・スタインだった。
「陽はまた昇る」は、そんな失われた世代の仲間たちをモデルに書かれたものだ。ヘミングウェイは、自分の説である、人物を書くな人間を書け、の言葉どおりいきいきとした人間を書いた。大ヒットしたこの小説は、彼に手痛い反撃をした。登場した人々のモデルがあまりにも正直に書いたためか、誰にでもわかってしまったようだ。
そのため彼はパリに居づらくなった。そして、彼を経済的にも支え続けた妻との離婚もあった。
ヘミングウェイを、マッチョにあこがれるスケベなおやじだよ、という人もいるが、あながちハズレではない。彼は4回結婚し、結婚のたびに環境を大きく変えていった。パリは一年中ジメジメしていて、人の心もしめってしまう。
ヘミングウェイは、妻と別れ、友と離れ、ジメジメしたパリを捨てて、太陽の島に行った。キーウエスト。US国道一号線を南下した南の果て、メキシコ湾流に洗われる島は、彼に新しい人生を与えた。幼い頃からなれ親しんだフィッシングがヘミングウェイの新しい人生の中心にすえられた。
海に生まれ、海で育った仲間たちが、川釣りしか知らなかった彼に、スケールの大きな海釣りの豪快さを教えた。モーターボートを購入し、仲間たちとメキシコ湾でマグロを追った。
時を見て、アフリカにサファリ旅行にも行った。キーウエスト時代、彼はいくつもの短編とすばらしい長編をものにした。
「キリマンジャロ雪」「老人と海」等である。「老人と海」は、ノーベル文学賞までも獲得する世界の名作となった。やがて彼は、キーウエストを捨てキューバに渡る。新しい妻と暮らすためなのか、新しい環境で新しい創作に取り組むためなのか。その両方のためなのか。いま、どこにも行くことのできない私は、新しい年を迎えるタイムトラベルにわくわくしている。パリからキーウエストへ、そしてキューバに彼が渡ったように、時間の旅が新しい創作意欲を沸かしてくれることを祈って。
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■小さい秋、見つけた(1) ■2007年11月19日 月曜日 17時25分52秒

トンネルを越えると山麓の町には、かすかな秋の便りが届いていた。空は青く高く晴れわたり、丘の上の駐車場からは明るい日差しを浴びた町並みが遠く甲府の中心街のほうまで見わたせた。太陽がはしゃぎ、空と大地が歓声をあげて笑っている中に人々の暮らしが広がっているのだ。それは都会とはまったく違ういきいきとした風景であり、僕らは一瞬息を飲み、言葉を失うほどだった。青みがかった山々は途切れることなく視界の奥の白く雪を被ったアルプスまで連なり続いていた。僕らの小さな旅の始まりは申し分がなかった。ぶどうの丘の3階のレストランの広いガラス窓に面した席に僕らは座った。甲州ぶどう入りのカレーを食べ、100%甲州ぶどうを使った地元産の白ワインを僕は飲んだ。白ワインはさらりとしていて甘さが抑えられ、腰もそこそこしっかりしている。商社時代にワインを取り扱っていたワイン通のダーダもこれには及第点を与えた。うん、雨に濡れた子犬の味だ。ダーダと僕はわけのわからぬことをいい、笑った。それなら赤ワインはさぞや渋みがあってうまいのではないかと、僕はテーブルの反対側にいるイサオちゃんの席まで歩いていって彼のグラスを手に取った。「あげないよ」とイサオちゃん。「ちょうだいよ」と僕。「あんた、あんたの白ワインもあげなきゃダメよ」とのり子さん。のり子さんは僕のかみさんだ。赤ワインも重量感があって、なかなかの味だ。最近の国産ワインもよくなっているなあ、とダーダがまとめる。うまいが何か優等生のようで物足りなさを感じるのは、輸入ワインとの差を僕が発見できなかったせいだろう。僕らのこの旅はソミヤくんがお膳立てをしてくれた。2台の車に分乗して僕らは笛吹川沿いを登っていく。途中、恵林寺に寄る。山懐に抱かれた武田信玄縁の寺は、静かな参道の奥に蒼然と佇んでいた。山門も本殿も人間の建造物なのに自然に溶け込み、自然の邪魔をせず、むしろ自然を越える存在感があって圧倒される。それは単に深い時間を刻んだだけではなく、そこに紛れもなく人が生まれ、生き、死んでいったという生命の熱さを感じるからだろう。これはね、ケイリンジじゃなくてエリンジっていうのね。イサオちゃんが教えてくれる。ケイコちゃんもフミちゃんもあっちを見て息を飲み、こっちを見上げて絶句するばかりだ。ダーダの奥さんのマコちゃんは写真家のようにシャッターを切っている。イサオちゃんはカリンの木の下を抜け、ずんずん寺の奥に入っていく。もともと神社仏閣が好きなイサオちゃんだが、後姿を見ていると信玄の霊に導かれているような、歴史のページに溶け込んでいくような、背中に後光を背負っているようにも見える。まあ年齢も年齢だから、それだけ歴史が近づいているのだろう。なあ、せっかく山梨にきたんだからホウトウを食おうぜ。イサオちゃんがいい、鳥居の前に地元の雰囲気のあるホウトウ屋があったぞ、と僕が提案するが、キレイ好きののり子さんにはその雰囲気がただの汚さに見え、まるで見向きもせず、せっかちなソミヤくんの頭には旅館のことしかなく、僕らの提案はむなしく恵林寺の澄明な風に吹き飛んで消えた。なにやら前途多難な気配を漂わせつつ僕らの小さな秋を見つける旅は続く。
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■渋谷駅前発23系統バス。 ■2007年11月10日 土曜日 18時2分40秒

渋谷発東急バス23系統は、渋谷駅西口から三軒茶屋、農大、千歳船橋を経由して祖師ヶ谷大蔵まで行く。通常のバス代は210円だが、夜の10時半の最終に間に合わず、その後の深夜バスになると料金は2倍の420円になる。深夜バスは上町止まりなので、そこから千歳船橋まで20分ほど歩く。バス停にすると7つか8つだ。深夜になっても農大と通りを挟んだ馬事公苑の入り口のツタヤは開いている。すぐ脇のロイヤルホストも開いている。上町から歩くとその辺りはちょうど徒歩に飽きる頃で、明るいネオンと店内のあったかい照明の誘惑につい負ける。とくに金曜日の夜は、ロイヤルホストでビールを飲むかツタヤの入り口にあるスターバックスでカフェオレを飲むのが楽しみになっている。その間に妻は寝てしまうので、帰宅して深夜テレビを見ながら気兼ねなくもう一杯ビールを飲める。スターバックスにはテラス席があって馬事公苑の木々に包まれる感じも心地よい。気障なようだが、目を閉じて風の囁きを聞くのも悪くない。休日に犬を連れてこのテラスでカフェオレを飲み、読書をしているとなにやら軽井沢気分で贅沢である。バス通勤を始めた当初、妻はパスモをくれ、この次は自分で買いなさい、といったがどこで買っていいものかわからない。バスの中で売ってるわよ、といわれても並んだ乗客を待たして買うほど太い神経を持ち合わせていないので、いつも100円硬貨二つと10円硬貨一つを手に握ってバス停でバスを待っている。駅前の屋台の花屋と公衆便所の近くにあるバス停でバスを待つのだ。気が向いたように花屋の斜め前に屋台のラーメン屋が出ることもある。バスを待つ間、一杯600円のラーメンを食べる。600円ならまあこんなものか、という味だ。日本酒が置いてあるのでいつか飲んでやろうと思うがその機会がない。なにもここで飲まなくても、という気持ちもあってなかなか実現しない。反面、どこか侘しさ感が好きなわたしは、ダンボールに座りながら屋台で安い酒を熱燗で、両手で包むようにしながら飲む自分のシーンも嫌いではないので、いつか実現してやろうと思っている。ダンボールに座っている仲間と話をすれば、日本の実情の一部が見えてくるようでそれもわたしには魅力だが、妻が嫌がるのは目に見えている。なに、黙っていればわからない。バス停の横の歩道橋の下でストリートバンドが演奏を始める。アジア系の民族楽器の音が夜空に響き、郷愁をそそられる。蒙古の大草原を彷彿とさせて気持ちがなごむ。われら日本人の故郷はアジアの草原だとする説に一も二もなくうなづいてしまう瞬間だ。この23系統のバスは千歳船橋のわが家の目の前に止まる。なにやら、わが家のバスにみんなを乗せてやっているようで、実に気分がいい。次回は、バスの中で起きた喜劇悲劇のドラマをお聞きいただこうと思う。これがまた面白いこと面白いこと。妻も腹を抱えて笑う。
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■夏の死。 ■2007年10月10日 水曜日 12時35分58秒

熱い夏、一人の男が死んだ。男の名を宇佐美和夫という。渋谷K学院大学空手道部13代部員である。卒業してすでに45年が経つ。われら同期の仲間は彼をドラと呼んだ。彼の本名を知るのは試合の前に登録票を書くときくらいのもので、普段はドラで通っていた。ドラと命名したのは当時の空手道部監督沖縄出身の次呂久英樹先輩だ。ドラ声だったからか、風貌がドラネコに似ていたからか、どちらにしろわれらはその愛称が大いに気に入り、友情を込めて彼をドラと呼んだ。大学の近くに下宿をしていた次呂久監督の身の回りの世話をドラが一生懸命にやっていたのを思い出す。ドラは小まめで人柄がよく、彼が他人の悪口をいうのを聞いたことがない。穏やかな性格でわれら13代だけでなくわれらが4年生になり空手道部の幹部になると部全体の和を保っていたのも彼だった。ドラは空手をやるには優しすぎる男だと当時のわれらは思っていたが、空手の真の強さとは優しさにあることを学んだいま、改めてドラの人間の大きさを知ることになった。和の男、和夫というのは実に彼にふさわしい名であるとしみじみ思う。同期の花松忠義から電話があって、わたしはドラの死を知った。OB会の事務局長斉藤一久くんも連絡をくれた。わたしは次呂久監督に連絡し、埼玉にいる同期の主将阿部貴に連絡をとった。OB会長の小柴先輩にも連絡をした。だが、同期の林清司には連絡をしなかった。副将の林はドラとはひときわ仲がよかった。心の奥に一徹なものを持ち、純な心と明晰な頭をもつ林は、われら同様、自分にはないドラの優しい性格、おおらかな性格に引かれていたのだろう。その林はいま、大病と戦っている。わたしはドラの死を林に伝えなかった。彼岸のある日、われらはドラと会うために戸越公園駅に集まった。次呂久先輩、小柴OB会長、阿部貴、花松忠義、わたし、後輩でありOB会副会長である日下部涼くんの6人である。見上げる太陽は眩しく、残暑が厳しい午後だ。ドラの家は駅前のレストランだ。われらは2階に上がり、カウンターの奥のドラの息子に挨拶し、3階の霊前に座る。懐かしい笑顔のドラがいる。天然パーマの癖毛、細い目、照れたようにかすかに横を向き、穏やかに笑う。不意にドラの道着姿を思い出し、正直な空手を思い出す。空手に正直という言葉が合うかどうかわからないが、ドラの空手は正直だった。真っすぐな空手だった。それは彼の生き方そのものであった。次呂久先輩は長く長く瞑想し、ドラと別れを告げた。帰り、われらは戸越公園のラーメン屋でビールを飲み、焼酎を飲み、ドラの思い出話にひたった。居酒屋に移り、空手部の現状とOB会のあり方について大いに論じた。阿部貴の参加はドラが引き寄せたものだ。熱い夏、ドラが死んだ。われらに和を残して去った。さらば、友よ。(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
■ひとはズルズル、戦争へ。 ■2007年9月25日 火曜日 15時33分53秒

アメリカの著名な作家が1941年6月に中国から自国に送った戦線報告は、日本がアメリカと戦争に突入する直前のものだ。図書館で偶然発見したその報告書からは、日米がなぜ戦争に突入しなければならなかったかを明確に読み取ることはできない。だが、なにかとんでもないことが向かう黒い予感がひしひしと伝わってくる。いまにも破裂しそうな風船をびくびく伺うように、戦争に突入する暗い空気が目前に迫ってくる。アメリカ人がアメリカの目で書いたものだから、むろんアメリカびいきだ。だが、なによりも恐ろしいのは戦争を回避しようという気配がいっさい見られず、ズルズルと崖が崩れるように戦争になだれ込んでいく感覚だ。国民全員が反対しようが悪魔が誘うように戦争に突入していってしまう恐怖だ。1941年6月、日本陸軍52個師団のうち37個師団は中国にいて、蒋介石総統率いる中国中央政府軍と戦っていた。精鋭部隊の9個師団が満州で中国共産党軍と対峙していた。残りの6個師団が日本本土の防衛、台湾、海南島に当てられていた。当時、中国は内戦状態にあり、中央政府軍と中共軍がぶつかっていたが、日本は共通の外敵であった。中国内戦に資金と兵器を注ぎ込んでいたのは、中央政府軍へはアメリカであり、中共軍へはソ連であった。やがて米英と真っ向からぶつかることを承知しながら、日本は南へ進軍するしかなかった。行く先には世界のゴムの5分の4を占める一大生産地があった。日本がそれを手に入れれば世界の列強の仲間入りができる。日本にないものは鉄と石油だ。日本がさらに南進すれば石油が手に入る。中国と戦う日本に石油を供給していたのは、米英だった。背後から中央政府軍を支援して兵器と資金を注ぎ込んでいる米英が、敵対する日本に石油を供給しているという不思議な行為は、その理由を知れば不思議ではない。日本を自分の敵と想定したアメリカは、太平洋地域での戦力準備を進めていたが、まだ時間がかかる。そこで、中国中央政府軍に日本軍の足止めをさせ、時間かせぎをした。日本はというと、同盟国のドイツに力をつけてもらいイギリスと戦ってほしかった。イギリスの主力部隊をドイツに引き受けてほしかったが、ドイツにその力がなく、時期を待つしかなかった。日本はソ連とは講和を結んでいたが、それももっと実行力のある不戦条約にしておきたかった。日本の石油の備蓄は1年分だ。このまま米英と戦争状態に突入しても戦いに十分な石油はない。八方ふさがりのまま日本軍は進軍した。すでに平地の部分は日本軍が制圧していたが、中国軍の得意とする山岳部分には手こずっていた。中国軍の空軍は弱かった。ソ連から供給された戦闘機も日本空軍にはまったく歯がたたなかった。アメリカの作家はこのように日本の窮地を自国に報告した。アメリカが勝つための条件はいくつも読み取れる。情報面で一日の長がある日本海軍は、このまま日米戦争に突入しても勝てる見込みがまったくないことを知っていた。戦争に反対した山本五十六は、中心勢力の東京から遠ざけられ、広島に飛ばされた。ズルズルと悪魔に誘われて戦争に突入する愚か。中東情勢は他人事ではない。戦争の恐さは実はズルズルにあるのだ。(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
■夏の夜、おでん屋で。 ■2007年9月10日 月曜日 12時11分25秒

激しい雨が、新しい季節の訪れを告げている。麹町のおでん屋。グラフィックデザイナーの松本隆治さんとビールを飲んでいる。2人の間でおでんの皿が湯気を上げる。はんぺん、竹輪、卵、牛すじ2本、大根2個、豆腐4切れ。色は薄いがしっかりした味の汁。蒸し暑い夜だが、湯気を立てるおでんに冷えたビールはなかなかの取り合わせだ。目の前で主人が煮え立つおでんに小まめに汁を足していく。松本さんは40年にわたるわたしの親友であり、性格も真っすぐで、人徳の厚い人である。やわらかい関西弁は、耳ざわりもよく、心に沁みる。僕らは戦後少年だ。松本さんがいう。会社に21世紀少年たちが研修にきてね。戦後少年の僕としてはなにかを伝えたいと気ばかりあせってあれこれ言い過ぎてしまった。僕らは仕事上若い連中といっしょのことが多いけれど、40歳違う21世紀少年たちと話が合いますか? よく味の沁み込んだ大根を食べながら、わたしは松本さんに尋ねた。まず、少年という共通点があるからね。少年。それは鋭いアンテナを持つ多感期と解釈できる。乾いた砂に水が沁み込んでいくように、あらゆるものがその感受性の中に吸い込まれていく。少年の僕の最大の関心事は食い物だった。僕もそうです。わたしは答える。決して飢えていたわけではない。戦後の食糧難という事情のために食い物に関心が募ったわけではなく、単に成長期のための欲求だったと思う。だとすると成長期の21世紀少年たちも食い物が最大の関心事となり、話が合うのではないか。そこが共通点か。違うね。松本さんがいう。彼らは第一に金じゃないかな。食い物ではなく、まず金。食い物は回りにふんだんにあるし、成長期だから食い物に関心をもつというほど彼らは健全じゃない。でも、最大の関心事が金だとしたら気の毒だなあ。松本少年としては、食い物の次になにに関心がありましたか。やっぱり海かなあ。瀬戸内海の島で生まれ育ったから、いつも横に海があったからね。僕は信州に疎開していたから、アルプスの山並みときらきら光る天竜川が関心事でしたね。なんだか2人とも健全すぎるなあ。21世紀少年たちの金の次の関心事ってなんだろう。テレビアニメか。ゲームか。塾か。サッカーとか野球とかスポーツならいいけどね。モーニング娘になりたいとか、お笑い芸人になりたいとか、そんなことを思うのだろうね。そうだ松本さん、友だちじゃないですか。そうか、ぼくも悪ガキ仲間の顔はよく覚えている。友だちは21世紀少年にとっても大事じゃないですか。そこで僕らはほっとする。友だちという共通の価値観を持てることにほっとする。戦後少年と21世紀少年は、友だちというキーワードでつながる。話ができる。21世紀少年たちにわが友、魚屋のゲン坊や氷屋のトオルの話をしてみたい。時代の溝は深く広いけれど、もっと彼らと話す機会を作らなければならない。いかんなあ。雨の夜のおでん屋の遅い反省である。(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)

■なりたかった。 ■2007年8月14日 火曜日 15時18分10秒

山本五十六大将になりたかった。お富さんの春日八郎になりたかった。哀愁列車の三橋美智也になりたかった。笛吹き童子の中村錦之助になりたかった。紅孔雀の東千代介になりたかった。撃墜王の坂井三郎になりたかった。鞍馬天狗の嵐寛十郎になりたかった。三太物語の三太になりたかった。ジロリンタン物語のジロリンタンになりたかった。日本一の剣士赤胴鈴の介になりたかった。丹下左膳の大河内伝次郎になりたかった。清水次郎長の片岡千恵蔵になりたかった。紫頭巾の大友柳太郎になりたかった。柔道のイガグリくんになりたかった。空手チョップの力道山になりたかった。岩石落としのルー・テーズになりたかった。踊り子の三浦光一になりたかった。君の名はの春樹になりたかった。巨人軍の川上哲治になりたかった。
松竹スターの菅原謙二になりたかった。青春スターの川口浩になりたかった。青い山脈の久保明になりたかった。体育の水野先生になりたかった。青春スターの宝田明になりたかった。嵐を呼ぶ男の石原裕次郎にどうしてもなりたかった。渡り鳥の小林旭になりたかった。抜き打ちの竜の赤木圭一郎になりたかった。エースのジョーの宍戸錠になりたかった。早撃ち小僧の和田浩二になりたかった。花と少女と白い道の浜田光男になりたかった。伊豆の踊子の高橋英樹になりたかった。東京流れ者の渡哲也になりたかった。惜春鳥の津川雅彦になりたかった。映画月見草の山本豊三になりたかった。巨人軍の長嶋茂雄になりたかった。監獄ロックのプレスリーになりたかった。理由なき反抗のジェームス・ディーンになりたかった。ダイアナの平尾昌昭になりたかった。スィックスティーントンズの小坂一也になりたかった。ロカビリーのミッキー・カーチスになりたかった。黒い花びらの水原弘になりたかった。有楽町で会いましょうのフランク永井になりたかった。僕は泣いちっちの守屋ひろしになりたかった。上を向いて歩こうの坂本九になりたかった。遠くへ行こうのジェリー藤尾になりたかった。涙船の北島三郎になりたかった。24000のキッスの藤木孝になりたかった。ボクシングのファイティング原田になりたかった。社長シリーズの森繁久弥になりたかった。座頭市の勝新太郎になりたかった。拳銃無宿のスティーブ・マックウィーンになりたかった。ライフルマンのチャック・コナーズになりたかった。マクリントックのジョン・ウェインになりたかった。釣り師のヘミングウェイになりたかった。フーテンの寅の渥美清になりたかった。シェ−ンのランドルフ・スコットになりたかった。コブラツイストのアントニオ猪木になりたかった。貴公子のビヨン・ボルグになりたかった。リターナーのアンドレ・アガシになりたかった。釣りバカの西田敏行になりたかった。酒好きの開口健になりたかった。作家の三谷幸喜になりたかった。天国の階段のグォン・サンウになりたかった。ヒーローのキムタクになりたかった。オール・インのイ・ビョンホンになりたかった。結局、わたしはわたしに過ぎず、だれにもなれないことがやっとわかった。でも、イチローになってみたい。(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
■湘南江の島ゲイツアー ■2007年8月8日 水曜日 13時6分11秒

夏といえば海だ。海といえば江の島だ。それが日本の常識だ。息子が海にいく。江の島にいく。そうだ、その正統性こそがいまの日本には必要だ。そこまではいい。そこまでは許す。午後4時、新宿発小田急ロマンスカーでいくという。待て、そこは問題だ。新宿発は正しい。問題はない。小田急ロマンスカーもいい。「いっそ小田急で逃げましょうか」と歌う妻の父を思い出す。小田急は電車もデパートも垢抜けないところがいい。デパートで垢抜けないなんて致命的だが、なぜか小田急はその泥臭さに好感が持てる。問題は、午後4時の出発だ。海といったら出発は午前中に限る。午後4時の出発なんか花火大会だけだ。まだ、太陽が全力を出し切る前、夜の冷たさが残る海水の中をひと泳ぎする。これがたまらない。準備体操をし、軽い平泳ぎから始め、やがてクロール、バタフライ、水府流ヨコ泳ぎ、その間たまにカラダを仰向けに寝かせ波間に揺られて休む。わたしは泳げないから実行したことはないが、これは決まりだ。ビーチに上がり、体にサンオイルを塗り、午前10時の柔らかい日差しで肌を焼く。昼になる。海の家でラーメンを食べる。缶ビールを飲む。午前中の海にはこういった一連の楽しみがある。だから、午後4時出発はない。だが、まあ、いいか。愛する息子の決めたことだ。許そう。息子には息子の世界があることを認めなければならない。午後4時、海にいく。まあ、いいだろう。午前の海の一連の流れはこの際なしだ。だが、ゲイ連中といっしょにいくとはどういうことだ。それはないだろ。ゲイが嫌いでいってるわけじゃない。特別好きじゃないけど、差別などない。イメージだ。ゲイといったら不健康が決まりだ。明るい太陽の下で青春を謳歌する健康的なゲイなんかイメージの裏切りだ。ゲイは隠花植物だ。ネオンの陰で不幸を食べ、下だけを向いて生きる。花柄の小さなサイフの中に小さく畳んだ野口英世が3人ほど入っている。なぜか小銭入れには5円玉が多い。5円玉のすがるような後ろめたさがゲイに共通するのだろうか。新大久保のアパートに住み、ネコを飼っている。マンションはダメ。アパートだ。新聞はサンケイ新聞。夕方近くに起きてネコに餌を与え、素肌にサンダル履きでコンビニにいく。ゲイとはそういう風に地味に、不健康に生きるものだ。ゲイが海で泳ぐのに反対しているわけではない。クラゲだって泳いでいるんだから、ゲイが海で泳いだって文句はいえない。でも、なんで息子は海にいくのにゲイといっしょなんだ。おれの就職が決まったとき、新宿のゲイの連中が初出勤のスーツをプレゼントしてくれた。母親が泣きながら、お前とは縁を切る、と騒いだ。地紋に蛇がくねっているような柄で会社の上司に、なに考えてるんだ、とどやされた。ロマンスカーに乗って、はいビール、とかいわれて悦んでいる息子を思い出すと泣けてくる。息子よ、海で溺れるな。そして、ゲイに溺れるな。あんたがきちんと教育しないからよ。お前の愛情が足りないからだ。妻とぶつくさやりあいながら、ああ夏の暑い夜が更けていく。(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)

■と切れ、いき切れ、じかん切れ。 ■2007年7月19日 木曜日 13時16分43秒

還暦を過ぎてから、なにやら人の喋っている言葉が、と切れと切れにしか聞こえない。まともに全部を聞くことがむずかしい。耳か頭が壊れ始めているのかなあ。仕事で打ち合わせをしていても、あ、いまんとこもう一回話して、お願い、などと確認してメモを取る。メモを取らなきゃすぐ忘れる。ひどいときはメモを失くす。もっとひどいときはメモを取ったことさえ忘れる。キッチンから妻が話しかけてくるけれど、これもと切れと切れで、意味不明。3回聞きなおすと、妻は、バカじゃないの、ともうそれ以上は喋らない。ムッとして尻を向けている。聞こえないんだからしょうがないじゃないか、とブツブツいいながら寝転んでテレビを観ている。ときどき、妻の言葉とテレビの中の役者さんの会話がごちゃ混ぜになる。これは不思議な気分だ。この前なんか、ブルース・ウィルスと妻が話しているので腰を抜かした。テレビでダイハードをやっていた。ブルース・ウィルスと黒人の警察官と妻が話している。いや、驚いたのなんのって。3人でテロリストと戦っている。24を観ていたら、ジャックと妻が話してる。妻よ、おまえは政府筋のものか。アイスコーヒーなんか飲んでないで、早く逃げろ。なにがなんだかよくわからない。デビッド・ジャンセンが妻に逃亡の手助けを頼んでいる。やめろ、リチャード・キンブル、妻はあれでもデコ・クレイ・クラフトという粘土工芸をやらしたらいい作品を創る。教室を開いているが評判はいい。でも、逃亡の手伝いは無理だ。第一、彼女は茨城県の出身で、逃げるといっても筑波山か霞ヶ浦あたりしかない。うなぎのうまい店はあるが、逃亡には向いていない。茨城県の人は正直だから、あなたを隠しておくのはむずかしい。先週も、みのさんのクイズ番組ミリオネアを観ていたら、妻が「ファイナル・アンサー」とキッチンで大声で答えていた。わたしの耳がおかしいのか、妻の参加意欲がすごいのか、よくわからない。犬が吠える。うちの犬か、テレビの中の犬か、よその家の犬か、わからない。できれば「高野の家のチュウ」吠えます、と自分の名前を名乗ってから吠えてもらいたいものだ。と切れと切れがいやで全部聞こえているフリをしたら若者が言葉を省略して、と切れと切れで話していた。いや、わたしみたいにろれつが回らない爺はしょうがないけれど、そんなに言葉をはしょらないでもらいたい。ロイホで会おう。そのくらいはわかる。ロイヤルホストだろ。チトフナ? わかるさ。千歳船橋だろ。だけど、小泉純一郎をコイジュンていうなよ。高田馬場をタババっていうなよ。わたしには「ただのババア」って聞こえるんだ。わたしはイギリスびいきでもアメリカびいきでもないが「欧米か」の代わりに「イギリカ」なんていわれても海で取れるイカの新種としか思わないだろ。と切れと切れを聞いて、切れている部分を想像して日々暮らしている。くたびれる。いき切れがしてきた。ゆっくり全部を喋ってくれ。放っておいたら、わたしは時間切れになる。(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
■下落合ハトリ精肉店 ■2007年7月10日 火曜日 13時49分26秒

突然のハムカツの登場に、ぼくらは度肝を抜かれた。小学生のぼくらは、コロッケのどこか洋風でハイカラな雰囲気が好きだった。男5人兄弟のわが家の夕食のメニューは、父はトンカツ、子どものぼくらはコロッケだった。父のトンカツもぼくらのコロッケも1週間に1回くらいだった。染物職人の父は毎日晩酌をし、週1回のトンカツの日は特にうれしそうだった。なぜか、得意そうに見えた。気が向くとぼくや弟たちにトンカツの衣をくれた。黄金色のトンカツの衣には豚肉の味がしみ込んでいて、コロッケ人生のぼくらには別世界の極上の味がした。これがオトナの味か、と感動して奪い合って食べた記憶がまだ残っている。なぜ肉屋さんはトンカツの衣だけを売らないのだろうと兄弟全員で真剣に考え込んだ。そのとき、衣を作るための豚肉はその後どうするのかとは考えなかった。たぶん、それが思いつかないのでハトリ精肉店では、衣だけを売るというすばらしきアイディアをあきらめたのだ。家の前の大通りの反対側にハトリ精肉店はあった。林薬局が隣にあり、恵比寿屋酒店はその先だ。恵比寿屋酒店でぼくらはエビガ二取りの餌となるスルメを5円で買ったものだ。氷川神社はそのまだ先だ。氷川神社の向こうの乙女山の上に小学校はあった。ある年の暮れ、ハトリ精肉店が火事になった。夜だった。真っ赤な火柱が家から大通りに吹き出し、空を染めた。火の勢いに怯えながら、ぼくらは大量のトンカツとコロッケが黒こげになる様子を想像し、もったいないと思った。父は消防署に勤めていたことがあるので、火を見ると脱兎のごとく駆け出した。江戸っ子だからもともと火事が好きだったのかも知れない。帰りに父はトンカツを持って帰る。そんな期待があったが手ぶらで帰ってきた。全員がっかりした。母が笑って父を迎えた。そういえば、わが家のトンカツ・コロッケの日、母が何を食べていたのか思い出せない。母は、いつもぼくらが食べ終わってからささっとご飯を食べていたのか。だったら、コロッケをもう少し残しておけばよかったと思う。貧乏な下落合の坂下で水野くんの家だけは金持ちだった。街頭テレビ以外でテレビを初めて見たのは水野くんの家だった。ハムを見たのも水野くんの家だった。薄いピンクのハムは、どこかの国の王様の食べ物のように輝いて見えた。水野くんの家で初めてハムを食べた日は興奮して眠れなかった。そのハムが、建て直したハトリ精肉店にカツとして登場したときは弟たちを連れて見にいった。ぼくは得意げに、ハムとは南の国の王様の食べ物だと弟たちに教えた。ぼくら兄弟の中でハムカツは夢の食べ物となった。トンカツに勝つ食べ物だと思った。ハムカツはトンカツの代用品では決してない。硬くそう信じているが、まだハムカツがトンカツの代用品だと思っているひとが多いのは残念だ。それにしても、いまのハムカツは、薄すぎる。少なくともハムカツのハムは3ミリ以上の厚さであって欲しい。できれば形は丸がよい。トロリとソースをかけてパンに挟んでもうまい。(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
■ていねいに創る。 ■2007年6月20日 水曜日 12時47分29秒

テレビ番組スマステーションで韓流スターベスト10をやっていた。いまなおヨン様ことペン・ヨンジュンが第一位である。「冬のソナタ」は韓流ブームの火付け役であったが、まあなんと根強い人気であることか。2位が「オール・イン」のイ・ビョンホン。3位が「天国の階段」のグォン・サンウ。いずれもテレビドラマを見ていたので顔馴染みの連中だ。ヨン様人気はおばさんたちが中心だったと聞くが、スマステーションはスマップの香取くんが司会をしているのだから、若者の番組ではないかと思う。そこでヨン様だから、結構ヨン様って若者にも受けがいいのかなあ、などと考える。わたしは若者ではないので、韓流ドラマの、あの石原裕次郎や赤木圭一郎時代の日活映画と同質の雰囲気が好きなのだ。まず、ストーリーが単純でわかりやすい。いい人役と悪い人役が明快でわかりやすい。主役はかっこよく、相手役の女優は美人だ。金持ちはいい車に乗り、別荘をもっている。貧乏人はごちゃごちゃした長屋みたいな家に住んでいる。子は親を敬い、親のいうことには子は逆らわない。親は基本的に親ばかくらいに子どもを愛している。だから韓流ドラマはつまらないんだ、という人も多い。まあ、面白いつまらないは個人の感覚だからそれはどちらでもいい。「冬のソナタ」の監督は、ユン・ソクホという。彼は、春夏秋冬を一連のドラマにしようとしているそうだ。「冬のソナタ」に続いて「夏のかおり」をDVDで見る。そういえばいま「春のワルツ」というユン監督のドラマもオンエア中だ。この監督は実にていねいに演出をする。人の感情の流れをていねいに、ゆっくりと表現する。見るものの心の動きと同調させるように穏やかにつないでいく。音楽を見事に使う。例えば「夏のかおり」では、シューベルトのセレナーデが効果的に使われた。これまで聞いたことがあったシューベルトが鮮やかに蘇えり、心に響く。登場人物の心の動きを台詞でいわせたり、それまでにあったシーンをカットバックで再度見せる手法を使う。恋人と別れのシーンに、初めて出会ったシーンを入れたりする。あのときはそうだったなあ、とこちらも思わずうなづく。日本の監督では「雨あがる」や「阿弥陀堂だより」の小泉尭史監督が好きだ。その理由はていねいに映画を創るからだ。小泉監督の映画のテンポは、観る者の心臓の鼓動を穏やかに導く。それが好きだ。ゆっくりゆっくり、こちらの様子を伺うようにカットをつないでいく。これが「人の生きるリズムでしょ」と語りかけてくるようだ。ユン監督もそうだ。ゆっくりとていねいに創る。ていねいに創られたものは人の心を打つ。そんな当たり前のことをきちんとやっている。韓国の若者たちはこのドラマに見るように、ていねいに生きているのではないか、と思う。だとしたらいい加減な国よりはるかに強い国になるのではないか。そう思う。
(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
■マナーからルールへ。 ■2007年6月6日 水曜日 16時20分53秒

こころを大事にしたい、人を信じたいですね

事務所のある市谷は千代田区にある。市谷駅前に大きな三叉路があって、目の前に交番や銀行なんかもあるのだけれど、その三叉路に「マナーからルールへ。そしてマナーへ」と書かれた看板がある。
これは千代田区がいち早く路上禁煙に踏み切ったときに掲げられた看板だ。もっともそのときは「そしてマナーへ」という一文はなかったと思う。これを見てみんなはどう解釈しているのか。ふと気になった。マナーとルールは、どう違うの? みんなちゃんと知っているのかなあ。それほどバカじゃありません。お叱りを受けそうでもあるけれど、再確認をしたい。単純に、マナーには罰則はない。ルールには罰則がある。そういうものだ。まだ、注意されたことも逮捕されたこともないので、実際にどういう罰則があるのかわからないが、どうやら罰金を取られるようだ。なんともいい加減だが、それには理由がある。わたしはルールが嫌いである。そしてルールよりもマナーを上位に置いている。マナーは精神の問題、ルールはどこかからの押し付けの圧力を感じるのだ。新渡戸稲造の武士道を紐解くまでもなく、日本は、自然崇拝の神道を基本に、死生観の仏教を取り入れ、道徳として儒教を取り入れた。道徳こそマナーだと思う。孔子孟子の教えを武士が学び、武士主導の時代に日本の隅々まで広めた儒教の道徳的観念は、日本が世界に誇るものとなった。かの国々の「罪の文化」に対して、日本の「恥の文化」には精神の豊かさがあると思う。人を規則で縛ろうという発想より、あなたの精神を信ずる、というほうがわたしは好きだ。だが、いまの日本に道徳が極めて薄いものとなったのも事実。アメリカの半端な民主主義あるいは未消化な個人主義に毒されたいま、道徳が生きていたかつての美しい日本はない。道徳という言葉さえ、ダサいとか胡散臭いとかで人々の口からは発せられなくなった。家庭からも学校からも街からも道徳は影を消した。情けない。話がそれてしまった。それで、とにかく千代田区では路上禁煙が明らかに減った。それはいいことである。で、さっきの標語だ。付け足した一文の「そしてマナーへ」である。それは、罰則で縛ってみたものの、みんなが路上禁煙を守るようになったら罰則を止めるよ、という意味だろうか。前にもいったようにマナーには罰則がないとしたら、千代田区としてもルールにして罰則を決めたことは、みんながあまりにもいうことを聞かないのでやむなくやったこと、本当はマナーとして各自の品格にゆだねたいのです、という意図なのか。人の品性とか精神の豊かさを大事にしたいという崇高な意味なのか。それはわからない。ルールよりマナー派のわたしとしては賛成だが、そうなるとマナーからルールへというあのキャンペーンでさえ、千代田区は千代田区民を信じているけどやむなくやったのだ、と暖かく見てあげたい。見かたは色々だが、こころを大事にしたい、人を信じたいですね。(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
■タクシー ■2007年5月21日 月曜日 13時11分29秒

いやはや、タクシーは面白いですよ。

市谷駅でタクシーに乗り、世田谷馬事公苑まで帰る。その道筋は大きく2通りに分かれる。渋谷を通るか、新宿を抜けるかである。例えば日本テレビ方向からきたタクシーに手を上げる。この道はタクシーの空車の数も多く、それほど待たずに乗ることができる。駅前の交差点を越え、JRの頭上をひと跨ぎして外堀通りに出る。外堀通りを左折するとすぐ目の前にYの字の二股分岐点が見える。ここが運命の分かれ道である。左の道を辿れば緩やかな上り坂がゆっくりと左方向に湾曲している。この上り坂はマラソンの高橋尚子が失速して有名になった坂で、確かに自分の足で走ればだらだらと長く辛いものだが、クルマならあっという間である。右手に雪印乳業の本社を見ながら坂を上る。坂を上りきると四谷駅前で、新宿通りとの交差点に出る。左手に交番があり、その先隣りに地下鉄の駅がある。目の前に人影のないきれいな公園があり、公園を通して迎賓館の正面が見える。これが渋谷に向かう道である。元に戻って、外堀通りのYの字分岐点の所で左の四谷方向を辿らず、右の道を辿ってみよう。市谷自衛隊の前を通り曙橋を潜り抜け、新宿に出る。さて、この分岐点のどちらの道が馬事公苑に行くのには料金が安いか。走行効率がいいかという問題である。手を上げてタクシーを停め、走り出せばほんの数分で例のYの字分岐点に出るから、どちらを行くかを早く決めなければならない。黙って運転手さんまかせにしてもよい。運転手さんの中にはどちらから行きますか?と聞いてくる人もいる。馬事公苑まで深夜なら30分。タクシーの運転手さんは話し上手の人がいて、車中の会話も楽しみのひとつだ。いやね、全車禁煙にしようという動きがあるんです。寄り合いでセンターから打診がありましてね。この寄り合いっていいかたがいいでしょう。なんかあったかいいいかたです。それもきどっていない。なぜか、金持ちはこういういいかたってしないんじゃないですか。田園調布の高級住宅街では、寄り合いなんていわない。軽井沢で寄り合いがあってね、とはあまりいわない。サミットを先進国の寄り合いとはいわない。で、冗談じゃないっていったんです。煙草が吸いたいお客さんもいます。禁煙車でも喫煙車でも、お客さんが選べばいいんですよ。この前なんか、駅前で禁煙車なのに、煙草吸っていいですよってお客を乗せてるタクシーがいて頭にきましたよ。信念がないんですよ、信念が。運転手さんは煙草を吸うんでしょう。いえ、わたしは吸いません。え、吸わないのにそんなに力んでるの。いえ、わたしはね、タクシーのサービスについていってるんです。人間の信念についていってるんです。だいたい最近の運転手は、乗せてやってるんだという態度の者が多いですよ。タクシーはサービス業だと思うんですよ。なるほど。目的地に着けばいいって発想はいけません。いかに気分よく乗っていただくか。これが問題です。あ、そこ曲がってほしかったのに。早くいってくださいよ。困るなあ。ごめんなさい。いやはや、タクシーは面白いですよ。(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
■笑顔あり ■2007年5月10日 木曜日 10時13分9秒
幼いときに母の愛情を独占した私

ゴールデンウイークに下落合の実家の母に会いにいく。長男でありながら弟に母の面倒を見てもらっている。なんとも情けない長男である。妻が気にかけ、やれ墓参りにいこう、やれ実家にいこうといってくれるので重い腰を上げた。母は90歳になる。いまは寝たきりで、マダラにボケるという。車椅子で母を表に連れ出そうと妻はいう。すぐ裏の薬王院のボタンが見ごろだからちょうどいいんじゃない、という。クルマを下落合の駅前の山楽ホテルの跡地の広場に置かせてもらう。小学校の先輩のタツちゃんが駐車場の管理をしていて、挨拶にいくと伊豆で採れたおいしい夏みかんをビニール袋に入れてくれる。母はベッドに横になっていた。次男の敬二が早く死に、染物職人の父が亡くなって以来、タナベ製薬に勤める三男の信治が母と暮らしている。父が死んでから、母は元気をなくした。いま、昼飯食べちゃったよ。信治がいう。いつもは介護の人がきてくれるが、ゴールデンウイーク中は休みだという。母ちゃん、おれがわかるか。わたしは母の顔を覗き込んで大声でいう。耕一だよ、耕一。おや、耕一かい。母はにこりと笑う。テレビがついているが、耳の遠い母には音声は聞こえない。ご飯は食べたの? 母がいう。妻が買ってきた牛丼と寿司を出す。いいの、わたしは食べたから。留守番がきたので信治と息子は高田馬場へラーメンを食べにいくという。高田馬場は近年、ラーメンの町として知られている。ふたりが出かけるとすぐ母がいう。信治はどこへいったの? 高田馬場へラーメンを食べにいった。わたしは答える。妻が犬を連れて散歩に出かける。わたしは母のベッドの横でごろりと寝転んで、テレビを見ている。信治はどこへいったの? 母がまたいった。高田馬場へラーメンを食べにいったよ。わたしは答える。信治が置いていった介護の日記を見る。体温の変化。トイレのこと。食事のこと。なにを喋ったのか。眠ったかどうか。母の細かい生活の記録を介護の人がメモしてくれている。ぺらぺらとページをめくる。笑顔あり。ある日のメモにそう書いてある。笑顔あり。ふと、胸が熱くなった。むかし、母はよく笑っていた。いちばん下の弟の守男が2ばかりの通信簿をもってくると、守男はいいのよ、アヒルの行列でもいいの、元気ならいいからね。そういって笑った。4男の里志をサトちゃんと呼んで可愛がった。湿疹がひどく顔や首をかかないように、いつも両手を手ぬぐいでしばられていた赤ん坊の里志を暖かく見つめる母だった。里志という名前は、父のサブロウのサと母のトシ子のトを取って4番目だから4のシをつけてサトシとした。信治がやけどをしたときは自分のことのように辛い顔をした母だった。敬二と信治が一番手のかからない子だった。わたしは母の背中に背負われて信州に疎開し、幼いときに愛情を独占した。笑顔あり。細く哀しい文字で書いてある。信治は? 老いた母が聞き、高田馬場だよ、とわたしは答えた。(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
■会話、快話、怪話。 ■2007年4月17日 火曜日 16時10分52秒

脳も会話ももう少しポジティブにしたい。ポジティブな会話をしましょう。

先日、息子がある脳学者の講演に行った。宇宙学者との対談だった。深大寺の茶店で蕎麦を食べながら、息子からその話を聞く。愛犬を連れて行くので茶店の店内の席ではなく、いつものように表のテーブルに座る。この方がいかにも茶店風で心地よい。桜の季節は行き、見上げる大木に茂る若葉は午後の日差しを浴びて明るく輝いている。宇宙の話も面白かったが、脳学者が研究課題にしている人間の脳の話に非常に興味を覚えた。おおまかにいうと、ポジティブな思考に向かう脳の研究なのだそうだ。過去の嫌な思い出を自動的に消し去る脳であり、末来に向かってポジティブに働く脳である。思い出の嫌な部分を消しても、学習したものは残せばいいのだ。つまり、過去も未来もポジティブに思考できたら人間はもっとハッピーに生きられるんじゃないか、という話だと解釈した。息子からのまた聞きだから、わたしの解釈が多少ぶれているかも知れない。脳学者の真意とは微妙に違うかも知れない。だが、大きく違わないと思う。わたしはいろいろな原稿を書くことを生業にしているので、ひとの言葉が必要以上に気になる。会話を原稿用紙に書いていると、そのひとの発する言葉がなにを目的に発しているのかがわかってしまうからだ。まず、単純にいうと、その言葉がポジティブか、ネガティブか。まあそれは誰でもわかると思うが、よく気をつけて聞いてみてください。ポジティブな発言の多いひとと、ネガティブな発言の多いひとがいる。これは気になる。ポジティブなひととは話していても心地いい。ネガティブなひととの会話は、面白くもないし、後味さえ悪い。ポジティブな母親とネガティブな母親では、子どもの性格も当然違ってくる。会議をしていても、ネガティブな発言はどうもつまらない。そういうひとに限って、慎重だからというが、誰だって慎重だし、必要以上に慎重だと物事は進まない。大胆と慎重は使い分けなければならない。これは性格の問題かも知れない。会議中の発言がつまらないひとは性格がつまらないひとだともいえる。会議が前に進まない上に、ポジティブな会議なら生まれてくるであろうさまざまなアイディアを生まれる手前で潰してしまうからだ。これは楽観的とか悲観的とかではなく、その場の空気が読めるか読めないか、ということだろう。さあ前向きに行こうという空気を後ろ向きにしてしまう発言は、甲子園の球児たちが円陣を組んで気合をかけた直後に、今日は絶対に負けるよ、というようなものだ。愕然とする。また、会議中に発する言葉が自慢話になっていたり、例え話がテーマとまるでそぐわなかったりするひともいる。言葉は脳だ、と大胆に割り切っていえば、ポジティブな脳もネガティブな脳も目の前にあって、周りのひとたちを喜ばせるたり白けさせたりしているのだ。会話が、快話であるか怪話であるか。それによって会議が変わる。会社が変わる。家庭も変わる。日本が変わる。脳も会話ももう少しポジティブにしたい。ポジティブな会話をしましょう。(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
■回るマグロ(2) ■2007年4月9日 月曜日 15時42分53秒
なぜ回転寿司でマグロだけが目を回さないのか?

マグロが日本から消える。いまのうちに食べておこうと渋谷の回転寿司に行き、回転寿司が修行の場であること発見した。それが前回の話。そこで今回は、くるくる回る回転寿司の回転台の上で、なぜマグロだけが目を回さないで威風堂々と移動してくるのか、の疑問を追及したい。イカが目を回し、鯛がふらつき、ホッキ貝が寄り目になって回転する。その中で王者のごとく悠然と闊歩してくるマグロ。イワシが悲鳴をあげ、赤貝は虫の息、海老がのけぞり、コハダがよちよち、ツブ貝がブツブツ。マグロだけがきちんと正座してやってくる。なぜだ。この大いなる海洋工学的疑問をいともカンタンに解明してしまったのがテニスクラブの先輩タナベさんだ。みんなのいい兄貴分でもあるタナベさんは、漁業関係の仕事をしていた。若き日、マダカスカルに住み、アフリカ沿岸の漁船団を指揮していた。世界の荒くれ漁師を指揮していた。マグロはね。タナベさんはビールを飲みながら教えてくれる。産卵のために地中海に入ってくるんです。鯉や鮒ののっこみですね。そうです。そこを狙って獲る。卵を養殖に使う。養殖というのは卵を孵化させて育てることをいいます。卵からではなく、稲の苗のように、稚魚から育てて大きくするのは畜養といいます。日本では養殖でなく、蓄養がメインです。15センチ位に育った稚魚を生簀で2・3年かけて大きくします。地中海で捕獲したマグロは、卵を養殖に回し、産卵後のマグロを生簀で餌を与えて太らせます。脂を乗せて市場に出すのですね。日本の蓄養は、ほとんど沖縄で行われています。昔のことですが、15センチの稚魚の値段が一匹2000円程度。それを2・3年間育てて20万円にします。へえ、100倍位になるんですか。凄いですね。で、タナベさんに聞きたいのです。回転寿司の回転台の上でも、マグロだけは目を回さない秘密をご存知だとか。はい、あるとき、沖縄に大きな台風が接近した。ほう、台風が。そう、その影響で生簀の網が破れてマグロが海に逃げた。だが、そのほとんどがすぐに捕獲できた。どうしてだと思います? どうしてだろう。あ、そうか、餌の時間になると集まってきた。放牧の牛みたいに。でも、そんなわけないか。違います。まいりました。早いですね。じゃあ、教えましょう。マグロの生簀は丸いのです。マグロは回遊魚です。凄いスピードで泳ぎます。ですから四角い生簀だと網にぶつかって傷つきます。15センチの稚魚の時代からくるくる回って大きくなる。回る人生です。台風で壊れた生簀から海に飛び出したマグロたちは、逃げた海の中でもくるくる回って泳いでいた。そこを一網打尽です。おお、マグロの人生は回転人生だったのか。それで回転寿司の回転台の上でも目を回さないで、堂々としていられるのか。それならむしろ、回らないマグロのほうがおどおどしているはずだ。子どももくるくる回して育てると回転人生になる。のびのび人生にしてあげたい。ひとつ利口になった。ああ、最近、回らないマグロを見ていないなあ。(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
■回るマグロ。 ■2007年3月19日 月曜日 12時29分16秒

3周目から半額にしろ

マグロが日本から消える。いまのうちに食べておこう。渋谷の回転寿司屋にいく。若者や外国人が多い。ひとり7皿以上食べる決まり。入り口でアジア人の女性から「ヒトリナナサライジョウ、ヒトリナナサライジョウ」と叫ばれ、思わず「オッケイ」などと英語で答える。寿司屋で英語を使ってはいかんな。反省する。文化として寿司屋では日本語を貫きたい。アメリカでは「マグロプリーズ」とか「イクラプリーズ」とか言っているのだろうか。「トロアゲイン」とか「アガリアゲイン」などとぬかしているのか。このやろう日本文化をどう考えてやんだ。30分待って席に着く。お茶を飲むのももどかしく、遥か遠い回転台の前方をにらみつける。マグロこい、マグロこい。呪文を唱える。きた、あ、取られた。きた、あ、また取られた。回転寿司の無常観はここだ。5メートル先からわたしに食べて欲しいとマグロが「こんばんは、よろしゅう」と三つ指ついて艶っぽく迫ってくる。「こちらこそ」思わず頭を下げる。待ち合わせをした彼女が手を振りながら駆けてくるあの気分。向かってくるマグロに手を振りたくなる。ああ、あと3メートル、あと2メートル。早くこい。迎えにいきたくなる。だが、回転寿司には厳しい掟がある。立ち上がって4・5人飛び越して取りにいってはいけない。自分の前にくるまで待たなくてはいけない。彼女だったら走って向かえにいくのは美しいが、回転寿司では迎えにいくのは醜い。マグロがあと1メートルに近づく。わたしの小皿には醤油がたっぷり。ガリも食い飽きた。腹はお茶でがぶがぶ。あと50センチ。よし、きた、手を伸ばせ。という瞬間、隣の女性の手が伸び、ぱっとわたしのマグロを取る。わたしのマグロだ。正確にいうと、わたしの口に入る予定だったマグロだ。マグロだってその積もりだった。待ち合わせの彼女をすっと横からナンパされたような気分。惨めな一瞬。目の前が真っ白になる。わたしのマグロ。どうつまみ、どう醤油をつけ、どう口に運び、どう噛み、どう呑み込むか。シュミレーションが出来上がっていたわたしのマグロ。そのわたしのマグロをかの女性がまあ旨そうに食う。人をあざ笑うかのごとく、頬に笑みを浮かべ、顎をあげ、目を閉じ、幸せそうだ。その不敵な笑み。殴ったろうか。まあ、いい、次を待とう。怒っているうちに次のマグロを見逃すのは愚かだ。気分を変える。このように回転寿司は厳しい修行の場である。なんでも自分の自由になるなんて甘い考えはいかん。干からびてのけぞったナスが回ってくる。「わたしもう3周めです。お願い食べて」なんて母性愛にすがる。だめ。マグロ。オンリーマグロ。第一お前、そんなにのけぞって海老のまねしてもだれもだまされないよ。去っていくナスの後姿にいう。3周めから半額にしろ。どうせ棄てられるのなら、半額にしろ。「店長に行ってください」ナスはそういいさらにのけぞって消える。この話には続きがある。なぜ、マグロは回転寿司の台の上でも目が回らないか、という貴重な話。請うご期待。(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
■恋は男の子守唄。 ■2007年3月6日 火曜日 10時29分7秒


西部警察のゴリさんが、若く、高校の先生をやっていた頃、わたしも若かった。ゴリさん、俳優の竜雷太さんのことで、刑事も先生も役の上でのことだ。教え子の高校生が恋をした。ゴリさん先生はギター片手にほのぼのと歌を歌った。その歌はわたしの心に沁みて、恋はこうではなくてはいかん、とそれ以来思い込んでしまった。恋する女の子は、田舎の子でなくてはいかん。日当たりのいい原っぱの草の匂いがする子でなくてはいかん。それまでは、石原裕次郎説の石鹸の匂いのする女の子が理想だったが、この歌でころりと恋のイメージを変えた。石鹸の匂いのする子から草の匂いのする子に転向した。恋のステージは田舎の道でなくてはいかん。白く、どこまでも続く長い一本道だ。両側は畑だ。田んぼより畑だ。芋だとか胡瓜だとかトマトだとかの野菜畑だ。麦や桑もいい。視界の果てまで続く道のところどころには背の低い野生の栗の木や、背の高い胡桃の木がある。道は、目の前からなだらかに下っているが坂というほどではない。真ん中あたりに小川が横切る。ドジョウがいる。赤い甲羅の沢蟹がいる。夏の夜には蛍が舞う。澄んだ冷たい水が流れ、川底の小石がくっきりと見える。小川の脇には小さな水車があって、小さな農家がある。農家には柿の木がある。そんな風景の中をバスがやってくる。鼻のあるボンネットバスだ。そのバスがくるのをわたしは待っている。もう何時間待っているだろうか。風が吹く。空が赤くなってきた。夕焼け雲が点々と浮いている。わたしの好きな草の匂いのする子は、バスに揺られてくる。世の中から忘れられたようなバス停の脇の土手にわたしは座っている。ジーンズを履き、遠くに視線を送りながら、本を読んでいる。こんな場合の本は、赤川次郎ではない。マンガなどもっての外だ。ヘミングウェイでは硬派すぎる。トルストイでは歪みすぎる。サリンジャーでは寂しすぎる。スタンダールかサガンがいい。もう日が暮れそうだ。彼女もバスに揺られながらきがきではない。鳥が数羽、鳴きながら家路を急ぐ。遠くを見る。まだバスは見えない。どうしたのだろう。彼女になにかあったのだろうか。バスが故障でもしたのだろうか。その頃、もちろんケータイはない。わたしは立ち上がり、遠くに目を凝らし、また草の上に座る。ゴリさんの歌が聞こえてくる。ポプラの陰を踏みながら、バスに揺られてくるかわいい子。目を閉じる。恋は男の子守唄。夕焼け雲が赤みを増した。空を見上げ、足元の草をちぎってみる。ぼくはあの子と暮らしたい。ゴリさんがやさしく歌う。そう、恋は男の子守唄だ。バスの運転手のすぐ後ろの席で、揺られながら一生懸命に前を見つめるけなげな彼女を想像しているこの瞬間がいいのかも知れない。あの歌のCDを探してみてもどこにも見つからないように、そんな恋ももはや現実ではないのだろう。(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
■カッコいい空手部? ■2007年2月19日 月曜日 16時35分5秒
18階建ての若木ホールの最上階、有栖川記念館で國學院大學空手道部第54代の卒部式が行われた。小雨降る土曜日の夕刻だった。渋谷でバスに乗ると13代同期の花松くんと一緒になった。有栖川記念館は広く清々しく、すっきりと居心地がいい。広いガラス窓から見える渋谷の美しい夜景は、手を伸ばせば届きそうだ。わが空手道部の創設者であり初代主将である小倉先輩の乾杯の音頭で卒部式は始まった。丸いテーブルが6脚置かれている。われらの席にはOB会会長の斎藤くん、同期の花松くん、後輩の川口くん、特別OB会員右近くんがいる。新しい主将がビールを注いでくれる。空手道部60年近い歴史の中での初の女性主将は、しっかりとした口調で話し、好感がもてる。現在、部員はたったの6名。トキやジュゴンのように絶滅寸前となった部を懸命に担っていこうというけなげさが胸を打つ。OB会はいったい何をしてるんだ。あ、わたしもOB会会員のひとりなのだ。自分の力のなさに腹が立つ。副監督として現役の近くにいるOB 会副会長の日下部くんが隣にくる。彼の口車に乗ってこの会にわたしと花松くんは出席した。日下部くんは、わたしより2年後輩で、実直な男である。これは斎藤OB会長も同様である。実直がゆえに色々な意見に応えようとしすぎて、苦労が多い。現役に対しても真っ向からぶつかろうとするから色々摩擦も起きる。でも、それでいいではないか。わたしは思う。実直がゆえに起きる摩擦は、後輩のためになる。いい加減に逃げるよりははるかにいい。きっと後輩たちも感じてくれる。時が移り、時代が変わろうと真剣な熱意は、色褪せることはない。小倉先輩がわざわざ席を回ってビールを注いでくれる。凄い男の柔らかい物腰は、むしろ爽やかさである。先刻より隣のテーブルから合図を送ってくる1年先輩の小柴さんとグラスを合わせる。現役時代もそうであったが、相変わらずカッコいい男であった。熱血の男であった。部員の少なさを話す。なぜ、部員が増えないのだろう。細かいことは山ほどあるが、誤解を恐れずにひと言で言えば、人気がないのだ。空手や空手部をカッコいいなんて思ったのは、われらのあの時代だからだろうか。そういう話になった。OB会の話に及んだ。現役時代は、みんなカッコよく生きていた。今のOB会はカッコいいだろうか。単純にカッコいいのか悪いのか。そんなにカンタンなものではないと思う。小柴先輩が頷いた。カッコよく生きたいよな。そう、カンタンとか難しいとかの話ではなく、カッコ悪いのはカッコ悪い。難しいのは当たり前。でも、それはカッコ悪くていいという理由にはならない。難しいからこそ、カッコよくやりたいではないか。そんな話になった。OB会事務局長の奈良先輩も隣にいる。奈良先輩もカッコいい。登内先輩に挨拶する。大手術をした先輩の体調を心配していたが、顔色はよく、握った手にも力があった。小松先輩は、いまもなおカッコいい。全員カッコいいのである。OB会も現役もカッコよくなくてはダメだ。帰りのバスでそう思った。(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
■結婚シュミレーション ■2007年2月8日 木曜日 17時53分18秒
春、彼女は明治記念館で結婚式を挙げます。型破りな結婚式を望む彼女のこと、どんな結婚式になるのかとシュミレーションをしました。仲人の挨拶が終わり、主賓挨拶です。事件がおこったのは、彼女の会社の社長が挨拶を始めようとしたときです。携帯電話が鳴りました。こんなときに失礼な。でも、その携帯は花嫁のものでした。ごめん。手を上げて彼女は電話に出ます。もしもし。得意先の現場担当からの電話です。店頭でのセールスグッズに支障をきたし、お客様が大騒ぎ。担当はおろおろ。えっ!?。なんとかしてください。悲痛な叫び。彼女は飛び出します。ひとにまかせてはおけない。彼女の責任感がうずきました。ウェディングドレスを両手でツマミあげ、走ります。明治記念館の玄関前の砂利道で白いシューズの片方が脱げて跳びます。彼女は見向きもせず、もう片方のシューズも脱ぎ捨てます。早く、早く行かなければ。大通りに出ます。あやうくタクシーにぶつかりそうになります。神宮外苑の道を、歩道ではなく車道を走ります。車が急ブレーキをかけます。バッキャロー。彼女は叫びます。驚いたのは花婿です。大手商社のエースの花婿は、会社のえらい人も大勢呼んでいます。なんでこんなときに電話なの? え、え、どこ行くの?という前に飛び出した花嫁。おろおろします。もっと驚いたのは彼女の会社の社長です。挨拶をしようとしたら花嫁が飛び出したのですから。挨拶を聞いてくれ。社長はマイクをもって花嫁を追いかけます。彼女はわが社に入社して、お得意様の信頼も厚く、の挨拶の厚くのところで飛び出した花嫁を追いかけ、厚く、厚く、おーい、厚く、と叫びながらマイクを握り締めて走ります。ふとわれに返った花婿も駆け出します。走る花嫁。追いかける社長。その後を走る花婿。あっちこっちでクラクションを鳴らして急停車する車。これよ、これなのよ、わたしが望んでいた結婚式って。彼女はぜいぜい言いながら胸が躍ります。青山通りに出ます。誰が呼んだのでしょう。赤坂警察のパトカーが2台、彼女の後を追い始めます。ふん、捕まるもんか。彼女は牛若丸のように車の屋根から屋根へ飛び移ります。ウエディングドレスが花が咲くように開きます。厚く、厚くと叫び、涙と鼻水を垂らしながら走る社長を見て、パトカーが急停車しました。おい、アレは、何だ? 運転している警察官が助手席の相棒に言います。何かのたたりかな? 福島県出身の助手席の警察官が言います。下手に追いかけると、後が恐いぞ。そうか、じゃ、追いかけるフリをしよう。あくまでフリな。運転する警察官が答える横を、ボロボロになった花婿が走りぬけます。もう、追いかけるフリも止めようか。福島の警察官が口をあんぐりと開けました。花婿は自分の勤める会社の前を走ります。なぜか会社のビルの窓から鈴なりになった同僚の社員たちがエールを送っています。何が何でも完走だけはしなければ。花婿は応援に答えて手を振りながら、心に誓うのです。厚く、厚く、完走、完走。喜々として走る花嫁。式場に残された彼女の会社の部長がぼそりと言います。よかったなあ、彼女、ウエディングドレスで走るのが夢だったんだ。(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
■わけあり ■2007年1月17日 水曜日 6時25分54秒
彼の名前は言えません。店の名前も言えません。マスターです。酒場です。新宿は伊勢丹の近く、としか言えません。フォークシンガー杉田二郎さんが小雨に煙る夜に「黒い花びら」を歌った酒場です。地下です。狭い階段を下ります。このくらいは言っても大丈夫。あなたは入り口さえ見つけることはできないでしょうから。小さな店で、古い年代物の黒光りするカウンターに5人、奥のボックス席に数人しか座れません。他の客がいるのを見たことがありません。年代物といえば、店のすべてが年代物です。マスターの彼もまた、年代物です。若いときに悪行も善行も限りを尽くした男だと聞いています。その「わけあり」感が心地よいのです。ひっそりと暮らす酒場のひっそりと暮らすマスター。「わけあり」には、この「ひっそり」こそが大事です。言うなれば、居酒屋とは正反対にいる酒場です。むかし、石原裕次郎が「俺は待ってるぜ」の映画で演じた、あの「ひっそり」感です。わけありです。裕次郎の場合は、南米に行った兄貴の便りをひとりで待つ男でした。くる日もくる日もポストを覗き込むのです。港に近く、霧笛がむせび泣くのです。列車が通るたびに揺れる酒場でした。裕次郎は元ボクサーで、そのときに何かがあり、もう日本にはいたくはない、というわけありの男でした。テレビドラマで言えば、絶対に大原麗子です。駅から離れた路地の奥にある小さな飲み屋。風に揺れる赤提灯。和服を着て、カウンターの中で、ムダ口はきかず穏やかな笑みを浮かべ、お銚子を持つのです。その和服の奥、笑みの奥に過ぎ去った修羅がいまなおマグマのように真っ赤に燃えているのです。和服と笑みが、いますぐにでも爆発しそうなマグマを押さえ込んでいます。辛いのです。必死です。別れた男との間に生まれた子どもが幼稚園に行く歳になりました。男は二度と大原麗子の前には現れません。そうとわかっていても、暖簾が揺れるたびに男が帰ってきたのか、と目を上げてしまうのです。マスターの彼もそうです。石原裕次郎であり大原麗子です。彼はあまり笑いません。かといって不愉快ではありません。グラスを洗うために下を向いた瞬間にふと苦渋が頬をよぎったりします。マグマが活きています。だれだってひっそりと飲みたいときがあります。だれにも言いたくはないが、だれかに聞いてほしい。そんなことがあるものです。ふだん居酒屋で大騒ぎをしていても、人間ふとこの酒場で一杯やりたいと思うときがきっとある。心の隙間をそっと埋めてくれるのは、心に癒しきれない隙間を持っている人です。その酒場でマスターがそっと差し出す小さな皿に乗ったかわいいチョコを見ると、なぜか涙ぐむのです。自分が背負っている重荷のために自分が押しつぶされそうになったとき、この「わけあり」酒場、そしてこの「わけあり」マスターがいいのです。修羅をロマンに変えてくれる店です。場所も名前も教えません。(たかの耕一:takano@adventures.co.jp)
■富士山 ■2007年1月9日 火曜日 20時18分54秒
新しい年は、感動多き年にする。初詣の稲荷神社にお賽銭を投げ込みながらそう決意する。お賽銭は財布に入っている有り金をすべて投げ入れる。神も驚いているだろう。わかりました、きっとご利益をお届けできるよう努力します、なんて思うはずだ。だが、堅実な妻のお賽銭感覚は違う。札しかないと、お釣りをください、などといいかねない。神主さんに、すいません1000円札崩れますか、などといいかねない。ま、いいか。その金銭感覚がわが家を支えているのだ。年齢のせいか感動が少なくなっているような気がする。いけないことだ。最近の感動といえば、愛犬がペットボトルに入った餌を器用に手?で取り出すのに感動したくらいだ。どうもスケール感に欠ける。感動といえばスケール感と決まっている。そこで家族そろって富士山にお参りしようと、わたしは決めた。午前10時に家を出る。息子がハンドルを握る。妻も免許をもっているが、高速道路は苦手だ。高速道路での車線変更は、彼女にとっては人生の進路を変更するようにむずかしい。だから遠距離の運転はしない。東名高速を南下する。空いている。沼津漁港で昼飯を食おう。むかし東海道を走り回って仕事をしていた息子がいう。沼津近辺は庭だよ。爆弾低気圧の後だから台風一過のごとく、空は青く澄み渡り、やがて前方に雪を被った富士山が顔を見せる。沼津漁港の魚市場には店々が並び、観光客が右往左往している。駐車場の係りに人にうまい店を聞く。地元の意見は貴重だ。どんぶりの名店に入る。さほど大きくはないが、地元の漁師も寄るということだ。混んでいる。メニューを見る前に他の客のどんぶりを見て驚く。海の幸が山のように積み重なっている。どんぶりからこぼれ落ちそうである。感動はスケールだ。感心していると妻がすかさず、わたし海鮮どん、と山となる海の幸に飛びつく。息子は、生しらすいっぱいのダブルどんを頼む。カンパチと鯛の刺身をつまみ、茶色のブロックの桜海老のかき揚げを崩しながらビールを飲んでいると、妻の海鮮どんが彼方からしずしずとやってくる。まるで宝船の進水式のように荘厳でさえある。どんぶりの中で海老が跳ね、鯛が踊り、カンパチが叫び、いわしが弾け、赤貝が駆け回る。イクラが手招きし、ウニが笑う。飯はまるで見えない。妻はにんまりと笑い、食べるというよりどんぶりと格闘を始める。息子が笑う。これぞスケールの大きな感動だ。帰りは環八の木曽路でしゃぶしゃぶ食べようね。妻がいう。刺身を食べながら、よく肉を想像できるものだ。女は恐い。それって自民党を応援しながら共産党に票を入れるようなものじゃないか。忍野村から富士を仰ぐ。でっかいわね。妻が実にシンプルな感想を述べる。コノハナサクヤ姫を神とする富士山は美しくも雄雄しくわれらを包むのだ。火の見櫓があり、水車が回り、わらぶき屋根が佇む忍野村には日本があった。いい正月だ。蕎麦屋は閉まっていたけれど。(たかの耕一)takano@adventures.co.jp

■黒い花びら ■2006年12月20日 水曜日 7時19分54秒
冷たい小雨が夜の舗道を濡らしている。新宿。伊勢丹と通りをひとつ隔てた路地裏。肩をすぼめて細い階段を下りると小さな酒場がある。大病を乗り越えたマスターがひとり、カウンターの向こうで静かに微笑む。黒い花びら、静かに散った。心を振るわせる低い歌声が酒場を抱いた。あの人は帰らぬ、遠い夢。彼だ。あの男だ。あの男が歌っている。水原弘。カウンターに寄り添いながら、僕らは黙り込む。全身に鳥肌が立つ。背骨を戦慄が貫く。目を閉じる。俺は知ってる、恋のせつなさ。だが、水原弘ではない。カウンターの横で長身の男が肩を丸めてマイクを握っている。だから、だから、もう恋なんかしたくない。ちがう。水原弘ではない。客だ。僕らはこの歌を水原弘よりうまく歌うものに出会ったことがない。この歌は水原弘と一緒に死んだ。そう思っていた。だが、歌は生き返った。その歌「黒い花びら」は間違いなく生き返った。初めてこの歌をきいたのは、中学のときだ。目白にある映画館で映画の主題歌として聞いた。日劇ウエスタンカーニバルが大ヒットし、平尾昌昭、ミッキー・カーチス、山下敬二郎が一夜にしてビッグスターにのし上がった頃で、そういったビッグスターが登場する映画だった。水原弘はその中にいたが、彼は日劇でウエスタンを歌ったのではない。僕は日劇に行かなかったから、ほんとかどうかわからないが、水原弘はウエスタンを歌わずに、石原裕次郎の「錆びたナイフ」を歌ったと聞いた。心を揺さぶる低音。水原弘と裕次郎の共通点は低音にあった。低音と不良性にあった。当時、男は低音で不良でなければならなかったが、ぼくは低音にならず、不良のほうも中途半端で終わった。黒い花びら、涙に浮かべ。長身の男が背中を丸めて歌っている。水原弘を超えた。低音。深い低音。汚れ。悲しみ。孤独。滑らかさと荒々しさ。艶と無骨。引き寄せては突き放す。冷たい抱擁。純粋。片頬に浮かべる笑み。いまはないあの人、ああ初恋。マイクを握っている男は、フォークシンガー杉田二郎。「戦争を知らない子どもたち」を歌ったあの杉田二郎だ。彫刻のような彫の深い顔は、決して愛想のいい顔ではない。美男ではなく、土の匂いのする顔だ。だが、目だけがやさしい。やさしさは目だけでいい。岩のようにごつい顔は、笑うと子どもになる。戦争を知らない子どもの顔ではなく、戦場でひもじさに泣き、爆弾に脅え、悲しみに沈み、絶望の果てに浮かべたたった1ミリの希望を見上げる顔。それが杉田二郎の顔だ。俺は知ってる、恋の悲しさ。杉田二郎は、背中を丸めて歌う。杉田二郎から発せられた歌は一人歩きをして、僕らを包み込む。そうだ、そこがプロの見事さだ。杉田二郎の見事さといっていい。歌は杉田二郎を離れ、歌として存在し、歌そのものが人々を包んでいく。僕はプロを知った。素人は自分を主張する。杉田二郎は、自分を殺して歌に命を与える。師走。小雨が降る、新宿路地裏。杉田二郎の「黒い花びら」が、濡れた歩道を駆け抜けた。ネオンが潤んだ。(たかの耕一)takano@adventures.co.jp

■真実? ■2006年12月10日 日曜日 9時46分0秒
「True of First Light」夜明けの真実、という原題をもつヘミングェイの遺作は、日本では「ケニア」と題され彼の生誕100年に出版された。アフリカでは曙光の一条に映し出される真実が、昼には偽りに変わる。やがて太陽に焼き焦がされた岩塩の彼方には、美しく縁取られた湖が広がり、この湖ほど尊厳なものはほかにはない。夜明けとともに平原を歩いて行くと、そんなものはどこにもないことを知るのだ。この一文が心に残る。大英帝国の植民地主義政策に対するアフリカの微力な抵抗の中にヘミングウェイが見つけた真実とは、絶望なのだろうか。真実は、蜃気楼に過ぎないのだろうか。ヘミングウェイは、禁猟区に追いやられ生活基盤たる狩猟さえ禁じられたアフリカの先住民を、ヨーロッパの白人により居留区に追いやられ与えられた偽りの自由に封じ込まれたアメリカの先住民に重ね合せて見る。そこには絶望しかないのか。絶望の奥に新たな真実はあるのか。否、絶望はどこまで行っても絶望に過ぎず、金太郎飴のごとく絶望こそが永遠の真実であり、探っても探ってもその奥に希望を秘めた真実の欠片もなく、探るほどにわれらは絶望の暗黒の淵に沈み込んで行くのかも知れない。それが真実とするなら、われら人間は実に愚かな生物といわねばならない。一方から語る自由の倫理の基に、他方の自由が絶滅されるなど、まるでそこには人間が持ちうる壮大で尊厳的な知恵はなく、動物がただただ生き抜く最小の知恵しか見えないのである。真実とは人間の及ばぬ神の領域のものなのか。真実とは神の専用物であり、神の気まぐれでしかわれらはめぐり合うことができないものか。人間が、人間の壮大な知恵により真実に近づくことができるなら、希望に満ちる真実はわれらの手の中の存在といえる。たとえ真実が神の領域のものであり、仏の境涯のものであっても、人間は手を伸ばして探り当て、掴み取らねばならない。神の力を借りようと、仏と相談しようと、いや、悪魔の手を借りようともわれらは真実を掴むべきだ。見方を変えれば、真実を掴むのは煙を掴むよりカンタンなことかも知れない。アフリカの夜明けの真実も、アメリカの夜明けの真実も、そして日本の夜明けの真実も、地球上に存在する夜明けの真実のすべては、じつは決して蜃気楼ではなく、一瞬見失っただけのことなのだ。そう考えると、夜明けにあった真実を消し去ったのも人間のなせる業であり、真実を消し去った人間の愚かさこそが蜃気楼だとも考えられる。そうである。夜明けの真実も真昼の偽りも、実は人間が心にもつ真実であり、偽りもまた真実といえる。夜明けのものをわれらは真実と呼び、真昼のものを偽りと呼んでいるだけなのだ。そうなのだ。真実も偽りも、われらの心にあり、なのである。戦争も平和も、実は同じものであり、愛も憎しみもまた双子なのだ。どちらを選択するか、だけなのである。希望に溢れる真実を。われらに。世界に。(たかの耕一)takano@adventures.co.jp
■はらさんに1000点。 ■2006年11月20日 月曜日 13時4分10秒
新宿二丁目のネオンが泣いている。新宿御苑の銀杏が色づく11月10日。漫画家はらたいらさんが逝った。それを電話で教えてくれたのは、弟の里志だった。見上げると、赤いネオン青いネオン黄色いネオンがチカチカと泣いている。はらさんと出会い、ほとんど毎夜のごとくこの辺りのネオンを友として飲み歩いたのは何年前になるだろう。そう思いながら果物屋の横を歩く。おかまが尻を振って道を横切る。その光景は、はらさんとふたりで眺めた光景そのもので、長い時間を超えてもまるでとなりにはらさんがいるようだ。はらさんがTBSの「クイズダービー」という番組で司会の大橋巨泉をして「宇宙人」といわしめた才能、博識、頓知で瞬く間に茶の間の人気者になった頃だった。本業の漫画が忙しい上に講演にテレビにと、はらさんはへろへろになりながら、明け方の3時4時まで手からグラスを放さなかった。ときには酒場から直接赤坂のスタジオにタクシーで行くこともあった。いつ漫画を描くのだろう。そんな疑問にはらさんは「いま、描いてる」とグラスを口に運びながら笑うのだった。はらさんはみんなと酒を飲んでいても漫画を描いていたのだ。カウンターに寄りかかって笑っている時でもはらさんの頭脳は凄い勢いで回転していたのだろう。その頃わたしがつけたはらさんのキャッチフレーズは「酒を筆に漫画を描く男」だった。会話のひとつひとつが見事な一こま漫画になっていた。はらさんは物凄くシャイなのにサービス精神が旺盛だった。シャイから生み出されたダンディズムがはらさんを包んでいた。だから、はらたいらの漫画は決して下品にはならなかった。サービス精神とダンディズムのつじつまを合わせるためにはらさんには酒が必需品だった。わたしはそう思った。漫画は直接ファンと顔を合わせることがないので「その点ラクだよ」とはらさんはおっしゃった。漫画では筆がクッションになり、シャイな部分をスマートなダンディズムに変え、サービス精神を存分に発揮できたのだろう。はらさんにはダンディズムという言葉が似合った。土佐の無頼を語りながら涼しい笑顔を見せるはらさんは見た目もやることも言葉もダンディズムに溢れ、痛烈に風刺の利いたアイディアにもいつも品があった。シンプルな線で表すモンローちゃんのあの色気、あの可憐は、極めつくした筆であり、そこにはらさん独特の視点から鋭く睨みの利いた世間批評が絡んで「はらたいらワールド」は完成された。新宿の裏町の通りすがりのおばちゃんに「あ、はらさんに1000点さんだ」と声をかけられ、思わず吹き出したのは、あれは昨日のことだったのか。はらたいらさん、ありがとう。ファンとして友として。(たかの耕一)takano@adventures.co.jp
■右脳左脳で右往左往 ■2006年10月30日 月曜日 13時11分27秒
六本木の俳優座の裏にあるカフェバーで3人でビールを飲んでいる。日差しは明るく、心地よい風が店内にも吹き込み、背の高い椰子の葉を揺らしている。丸い白いテーブルを囲んで目の前には、俳優であり作家であり大阪芸大舞台芸術学部の学部長である浜畑賢吉くんがいる。その隣には土門拳氏の弟子で仏像写真の第一人者藤森武くんがいる。わたしたちは高校の同級生で、付き合いはもう40年以上になる。俳優は、右脳で表現しなければ豊かな表現はできないよ。浜畑くんがいう。左脳表現ではお客さんは感動しない。文章だって写真だってそうだろ。左脳で吸収したものを右脳から表現として出す。これが大事。そりゃそうだ。計算で撮った写真なんか面白くもなんともない。だって、いまじゃカメラが全部計算しちゃうからね。正確に撮れるが感動はない。藤森くんがいう。だいたいが人間の脳の根本は恐竜の脳だって話だが、人間はそこに一粒の脳を加えただけだ。食欲と性欲で占められた恐竜の脳に一粒の人間の脳が足されただけ。それが左脳。つまり一皮剥けば恐竜ですよ、人間も。わたしがいう。恐竜の脳が右脳ってわけだ。面白い、つまらない、興味が湧く、昂揚する、興奮する、感動する、これはみんな右脳だ。感情機能だ。これは恐竜時代からあるものだ。それに比べ左脳は、左脳算数といって、早くいえばデジタルだ。数字だね。記号だ。金勘定とか人間として社会生活を送る規則とか、共通言語、共通記号となる手段を担当する。記号は所詮記号に過ぎない。浜ちゃんがいうように精神面、文化面を司どるのは右脳だろう。写真もデジタルカメラが主流になりつつあるが、フィルムには根強いファンがいる。藤森くんがいう。アナログの緩やかさな、デジタルの隙間というか、数字と数字の間にあるもの、これがむしろ人間の感情に似ているからじゃないか。でも、いまの若い連中でも右脳を見事に使うものがいて、面白いよ。浜畑くんがいう。学校で教えることができるのは、知識とか技術とかだけど、むしろ心を教えたいと思って授業をしている。人間のやさしさとか愛情とか、礼儀作法とか、右脳の使い方だ。だが、この肝心な部分だけは才能であって、正直いって身につかないものもいるよね。残念だけど。美学というのは学がつくから理論にすべきだが、感情を理詰めで表現することの限度がある。才能は開くというが、ないものはいくら教えても開かない。広告も同じことがいえるよ。わたしはいう。基本は「人の心を動かすのは、人の心」という舞台や写真、芸術と同じなのだが、経済活動直結だからいまの時代は辛いよ。売れればいいんだ、なんていう広告クリエイターがいて、自分の首を絞めているんだ。心がないということが、才能がないということだと気づかない愚かだな。おれたち恐竜の脳を大事にしような。右脳に乾杯。
(高野耕一:takano@adventures.co.jp)
■三崎のマグロ(上) ■2006年10月30日 月曜日 13時6分25秒
台風13号が東の海上を北上している。三崎でマグロを食おう。愛犬にも海を見せよう。息子が言った。NHKテレビで将棋が始まる時間だったから、日曜日の朝の10時だ。家を11時に出る。第3京浜を通り、横浜新道を抜け、横浜横須賀道路を走る。空いている。ちょこちょこと料金所があり、カミサンがぶつぶつ言う。やれ200円だ、やれ250円だと、小銭ながらちょこちょこ取られることが彼女は気に入らない。まるでボクシングのジャブだな、と息子が言い、そのうち利いてくるな、とわたしが言う。横浜横須賀道路で、はい1100円と言われ、ジャブの後に顔面にノックアウトパンチがきたな、と息子が笑う。高速を出ると有料道路だ。なによ、ノックアウトされて倒れるわたしをまだ殴る気なの。カミサンが怒った。有料道路を出ると街道に沿って野菜畑が広がる。作物がない畑は薄茶色の海原だ。やがて、道はうねりながら下り坂となり、そのままクルマが海に飛び込むように、突然海が開けた。空は青く、広く、海は凪いでいる。バス停がある交差点を右折する。突堤をひとつ越えて、駐車場にクルマを止める。料金は、1日600円。愛犬に海を見せる。突堤では、家族が釣りをしている。小学生くらいの女の子が叫びながら竿を上げた。黒いガスホースのようなうなぎが竿先でくねっている。弟が悲鳴をあげる。目の前で魚が跳ねる。
(つづく)
■三崎のマグロ(下) ■2006年10月30日 月曜日 13時4分29秒


トイプードルは本来水辺の猟犬だ。愛犬は海を怖がるどころか興味津々に鼻先で波をさぐる。大きな波がくると、あわてて飛びのく。今日はいつもの店は止めて、新しい店をさがそう。店さがしは潔癖症のカミサンに限る。交差点を越えて歩く。小さな湾に沿って背の低い古い家々が城ヶ島方面に向かって軒を並べている。路地を1本入る。魚屋があり、民家を挟んで魚屋が経営する食事処がある。飯場のような無愛想な食堂で、客が10人も入れば満席だ。日曜日しか開いていないよ。うちは、予約客ばかりだからね。ジュンちゃんと呼ばれる店長が胸を張る。でも、待ってれば入れるよ。店長は、威勢もいいがひともいい。魚屋から刺身の盛り合わせの皿を運んでいるのは、魚屋のおカミサンだ。旨そうだ。ここに決める。じゃあ、待ってる間、ビールをくれないか。いいよ、泡、少ないほうがいいよね、とジュンちゃん。オープンカフェのように表にテーブルと4脚の椅子があり、そこに座る。愛犬をパラソルの足元に結び、刺身の盛り合わせを食べる。息子はマグロ丼を食べる。通りすがりの地元のおばさんが、ここはおいしいよ、といって愛犬を撫でる。ほらほら、そんなに山葵をつけちゃダメよ、と息子にいう。なんだか、母さんみたいのがもうひとり増えたな、と息子が苦笑する。あら、かわいい。家族連れの女の子が愛犬に歩み寄る。ここ、おいしいですよ。カミサンが女の子のお母さんに声をかけ、営業している。92歳のおばあさんがクルマ椅子でくる。うちの犬と90歳違うんですね。そういうと、おばあさんはにっこり笑って、マグロを口に運んだ。小さな幸せ。これが人生よ。わたしがビールを飲みながらえらそうに息子にいい、カミサンが鼻先で笑った。
(高野耕一:takano@adventures.co.jp)
■笑ってしまう。(上) ■2006年9月19日 火曜日 14時15分8秒
いっとき、つかこうへいさんにのめり込んでいた。つかさんは天才である。かといって舞台を見るわけではない。わたしは本を読む。映画を観る。つかさんは、なんといっても「蒲田行進曲」だ。大スター銀ちゃんと大部屋の脇役やすの物語だ。スターさんのためには大部屋の脇役は、命のひとつやふたつは捨てても当たり前という時代錯誤が美しい。つかさんの話はいつも時代錯誤どころか人間錯誤のようなつか流の絶対的な価値観があり、錯誤とは知りつつなぜかその馬鹿馬鹿しいまでの純粋に心を奪われてしまうのだ。そう、通常の人間世界でふと見逃してしまう落とし穴や、極めてありそうであるが絶対にあり得ないがゆえに美しいブラックホールを、つかさんはひょいと摘み上げてみんなの鼻先に突きつけるのだ。そう、それは恐ろしく純粋なのである。馬鹿馬鹿しいまでの表現をしなければ、今のこの時代、人間には純粋などありはしないのだ。あるいは、本当に純粋に生きる人間がもしいたら、そいつは実は馬鹿馬鹿しく見えてだれも相手をしないのではないか。壮大な皮肉屋であるつかさんは、人間はどう生きるべきかなどという、この世の真摯な発想を一度ぶち壊してしまい、笑い飛ばしてしまう。主役の銀ちゃんはこう思っているのだ。大部屋の脇役を何人殺そうが、おれの魅力的なアップが写っていればいいんだ。(つづく)
■笑ってしまう。(下) ■2006年9月19日 火曜日 14時14分11秒
それが映画ってもんなんだ。ファンが観たいのはそれだけだ。だが、そんな関係の中にしっかりと愛情がある。その関係だからこそ見える愛情があるのだ。三谷幸喜さんも好きだ。大河ドラマ「新撰組!」を書いたとき、タイトルの「新撰組!」の「!」がいいでしょ、といって笑った。どういいのかわからないが、とにかくこっちも笑ってしまった。新撰組にエクスクラメーションマーク「!」をつけてどうすんの。新撰組って名前でしょ。名前にビックリマークをつけて誰を脅かそうというの。それを「いいでしょ」といばってどうすんのよ、と思ったものだが、あとでテレビの番組欄をそっと確かめてしまった。三谷さんとつかさんにおんなじ匂いを感じるのはわたしだけではないと思う。三谷さんの映画「家を建てよう」(だったかな?)では、田中邦衛さんが「日本人といったら和室だろう。な、そうだろう」と、設計士の唐沢さんの設計を勝手に変えて、和室を大きくして家を建ててしまう大工の棟梁を演じたが、とにかく登場人物が純粋なのだ。一途なのだ。日本建築はこうでなければならない、と頑なに信じたらそれがもう神の言葉。でも、つかさんと三谷さんの本や映画に出てくる人は、いい加減な人ではない。それが共通点だ。真面目だ。純粋だ。一途だ。だから、腹を抱えて笑いながら泣けるのだ。感動するのだ。喜劇は実は悲しい。喜劇は純粋だ。ここんとこ、いい加減な人間のいい加減な笑いが多い。それがこの国をダメにしている。そんなことで笑っていると、日本は世界に負けるぞ。おわり。(たかの耕一takano@adventures.co.jp )
■キング・フィリップスの不幸。(上) ■2006年9月19日 火曜日 14時12分50秒
キング・フィリップスの不幸が、そのままアメリカの不幸になるとは思わないが、だからといって誰もがいまのアメリカを幸運とは断定できないだろう。いずれにしろアメリカの根源の部分にキング・フィリップスの存在があることは確かだ。149人の清教徒たちがメイフラワー号に乗ってはるばると大西洋を越え、プリマスにたどり着いたのは1620年のことだ。厳しい冬、壊血病、全身衰弱、飢えと寒さのために移住者の半数が死んだ。手を差し伸べたのは原住民であるインディアンの酋長サマソイトだった。キング・フィリップスの父だ。彼は、白人たちに食糧を与え、とうもろこしの栽培法を教え、土地までも与え、救った。それなのに、である。それなのにサマソイトが死ぬと白人たちは、インディアンの土地を奪い、歯向かう者の虐殺を開始した。これに対し、サマソイトの息子キング・フィリップスはインディアンの部族たちを集め、その力を結集しようとした。だが、インディアンたちは一枚岩とはならなかった。つまらない部族間の縄張り根性がキング・フィリップスを見殺しにした。いつの時代にも、どこにでも、大局観を持てず自分だけの利益を求める愚か者がいて、そやつの愚かさが不幸を招いてしまうことはある。アメリカの未来を変えてしまったのは、インディアンたちが力を結集しなかったからであり、それは移住者たちの思う壺であった。けちな根性を捨て、大局に向かってインディアンたちが力を結集していれば、白人たちを大西洋の彼方へ追い払うことができたかも知れない。(つづく)
■キング・フィリップスの不幸。(下) ■2006年9月19日 火曜日 14時12分3秒
勝機はその一瞬にしかなく、見殺しにされ敗れたキング・フィリップスは、白人によって首を刎ねられ、25年間その首はプリマスの広場にさらされた。もし原住民のインディアンが勝利し、現在のアメリカを築いていたら世界はまったく違う力学の上に成り立っていたのだろう。こうしてアメリカの歴史は移住者たちの歴史となった。われらはアメリカの時代劇、西部劇をよく見たが、それは移住者である白人の創った映画がほとんどであった。インディアンは悪人であった。キング・フィリップスの不幸とタイトルをつけたが、それは彼個人にとっては紛れもなく不幸であろうが、アメリカの不幸かどうかは誰も知る由はない。いや、移住者たちは不幸とは思っていないのだろう。アメリカを「理想の国」として移住してくる者たちには2つのタイプがあると聞く。アメリカがすでに理想の国であり、そのパラダイスの恩恵のもとで暮らそうと考えて訪れる移住者と、いまはパラダイスではないが、そこに理想の国を建設しようと積極的に考える者がいるという。ケネディ家は後者の代表である。積極派にはアイルランド系の人々が多いと聞く。時折ふと思う。日本は勝利でしか生きられぬ移住者よりもキング・フィリップスのような人間のほうが気が合いそうだな、と。おわり。(たかの耕一takano@adventures.co.jp)
■ワインの栓(上) ■2006年8月18日 金曜日 14時25分9秒
わが家の玄関の前に直径60センチほどの鉢植えが置いてある。何の木かわからないが妻が選んだ木で、朝の朦朧とした目か、深夜の帰宅の際の酔眼でしか見た記憶もなく、南方系の木であることはその姿かたちから想像できるが、木の名前は知らない。南方系の木と想像するもうひとつの理由は、寒い冬には元気がなく、夏はいきいきとしているからだ。いや、その木の話ではなく、本論は鉢の中の土が見えないほど木の根元に高くびっしりと積まれたワインのコルクの栓のことだ。わたしはこのワインの栓をお守りにしている。お守りというより縁起かつぎというほうが正しい。ワインの栓のひとつひとつに日付が入っている。友人の名が入っている。そう、友人とワインを飲むと、そのワインの栓に日付と友人の名を入れておくというわけだ。全部が全部そうするわけではなく、無名の栓ももちろんある。木の根元に置く前のある期間は、わたしのキーホルダーにつけられぶら下がっている。持ち歩いているのだ。これは、なんでも縁起かつぎにしたヘミングウェイのやり方のひとつだ。ネコ好きの彼は、ネコの尻尾さえお守りにしたと聞くが本当だろうか。さすがにわたしはネコの尻尾をポケットに入れて持ち歩くことはしない。長野県の大町の山中に住む炭焼きの男は、季節になると鉄砲を持って猟師に変身するが、そういえば彼はウサギの尻尾をお守りに持っていた。(つづく)
■ワインの栓(下) ■2006年8月18日 金曜日 14時24分39秒
友人のクシビキさんちの山荘の軒先に1メートルもの氷柱が下がる季節に、その男と大町の国道沿いのイタリアンレストランで会った。浅いブルーの縞々の厚手のシャツの上に熊だか鹿だかの毛皮の半纏をまとっていた。黒いビロードのようなだぶだぶのズボンを履いていた。無精ひげが目立ち、目つきは鋭かった。上等なイタリアワインのボトルを左手に鷲づかみにし、うろうろ歩きながらごくごくと喉を鳴らして飲む様子は、熊を想わせた。どこか可愛げのある男だった。これ、ウサギの尻尾な、お守りな。これ、鹿の角、お守りな。これ、熊の爪よ、お守りな。男はテーブルの上にお守りの数々を広げた。山は怖いからな。街はもっと怖いけどな。神様にお願いしてるだよ。
山の神様になあ。わたしは靴を履くときは左足から履く。ズボンを履くとき、左が先。ジャイアンツのあるピッチャーは、グランドに入るとき、絶対にラインは踏まずに左足から入る。ある映画監督は、ロケに行く場所の方角が悪いと、逆の方向の遠いインターチェンジまで行って、そこから高速に入る。あるテニスプレーヤーは、スポーツウェアの左のポケットにコインをひとつ入れておく。ある相撲取りは、場所中は白い大福餅を一日一個必ず食べる。縁起かつぎなど精神が弱いからだ、と言う人の強さがうらやましいが、まあ、誰でもひとつふたつの縁起かつぎはむしろご愛嬌かも知れない。ワインの栓集めなど可愛いもんだ、と自分では思っている。(おわり)
(高野耕一 takano@adventures.co.jp)
■ワインの栓(上) ■2006年8月18日 金曜日 14時24分0秒
わが家の玄関の前に直径60センチほどの鉢植えが置いてある。何の木かわからないが妻が選んだ木で、朝の朦朧とした目か、深夜の帰宅の際の酔眼でしか見た記憶もなく、南方系の木であることはその姿かたちから想像できるが、木の名前は知らない。南方系の木と想像するもうひとつの理由は、寒い冬には元気がなく、夏はいきいきとしているからだ。いや、その木の話ではなく、本論は鉢の中の土が見えないほど木の根元に高くびっしりと積まれたワインのコルクの栓のことだ。わたしはこのワインの栓をお守りにしている。お守りというより縁起かつぎというほうが正しい。ワインの栓のひとつひとつに日付が入っている。友人の名が入っている。そう、友人とワインを飲むと、そのワインの栓に日付と友人の名を入れておくというわけだ。全部が全部そうするわけではなく、無名の栓ももちろんある。木の根元に置く前のある期間は、わたしのキーホルダーにつけられぶら下がっている。持ち歩いているのだ。これは、なんでも縁起かつぎにしたヘミングウェイのやり方のひとつだ。ネコ好きの彼は、ネコの尻尾さえお守りにしたと聞くが本当だろうか。さすがにわたしはネコの尻尾をポケットに入れて持ち歩くことはしない。長野県の大町の山中に住む炭焼きの男は、季節になると鉄砲を持って猟師に変身するが、そういえば彼はウサギの尻尾をお守りに持っていた。(つづく)
■軽井沢物語2006(上) ■2006年8月8日 火曜日 16時43分18秒
3回刺されたら死ぬと言われているスズメバチに2回刺されているホリちゃんが、残念ながら今年はまだ刺されていない。みんなが期待しているのはあくまでも3回刺されたら死ぬという話が真実かどうかだけなのであって、もちろんホリちゃんには無事でいてほしい。
だが、確かめてみたい。浅間山にかかっていた雲が広がり、陽が西に傾いた。西垣さんのテニスコートはオーナーの几帳面な人柄どうり整備も行き届き、今年もベストコンディションだ。客も多い。クラブハウスの前の庭を借りてわれらがバーベキューとしゃれこんだのは、他の客が帰った5時過ぎだ。主催のマサヨシくんはいつものとうりどっかとプラスチックの椅子に座り、ああでもないこうでもないと口だけは働き者。この年齢になると、いつものとおり、ということが実に貴重になる。
犬さん提供のブーブーノリコという名の高級シャンパンで乾杯だ。いや、ブーブーノリコではない。ブーブークリコだ。ブーブーなんて頭につくからカミサンの名のノリコを思わずくっつけてしまった。犬さんはまた剛毅なもんでそのブーブーを10本まとめてどうぞ、ときたからみんなは贅沢にもシャンパンで酔ってしまった。
男には強いが酒には弱い、元空中姉御のミドリさんが夕日を浴びた上に、おいしいシャンパンで顔を赤くしている。ミヤモリくんは仕事で世界を回っているので、奥さんだけの参加だ。今頃はうちの主人、インドにいるのかなあ。奥さんが雲に包まれた浅間山に視線を送りながら言う。インドが浅間山の向こうにあるのかどうかわからないが、とにかく一緒になってその方向を見、ミヤモリくんの天真爛漫な笑顔を思い浮かべる。(つづく)
■軽井沢物語2006(下) ■2006年8月8日 火曜日 16時42分39秒
われらの火元責任者はホリちゃんと決まっている。だが、まずいことに西垣さんも火にはうるさかった。
火はこうして広げるんです。西垣さんが言い、炭を分散する。まだよ、この真ん中あたりに集中ね。ホリちゃんが言い、炭を中央に寄せる。広くって言ってるでしょ、と西垣さん。強くって言ってるでしょ、とホリちゃん。広くしろ、西垣さん。強くしろ、ホリちゃん。もう炭が真っ赤になって怒っているが、ふたりは火の気持ちなんかお構いなし。
犬さんとわたしは火のそばで真っ赤になって怒っている炭を広げたり縮めたり、あっちへやったりこっちへやったり、それはそれで忙しく、さらにやたらに熱く、もうどうでもいいじゃんと思うのだが、西垣さんとホリちゃんにとってはこれは男の面子、人生50年60年の誇りをかけた究極の戦い。
肉や野菜や魚が、横で息を飲んで見守っているが、ふたりはもう意地の張り合い。ねえねえ、旦那方、そろそろ焼いてくれませんかとピーマンが言い、そうだそうだと虹鱒が手を合わせて頼むから、やっと先に進む。肉がホット胸をなで下ろす。うまい。みんなで食べるから、なおうまい。美しき軽井沢の夜が更ける。
なあ帰ったらトランプやろう。なあトランプやろ。マサヨシくんが言い、七並べにするか、ババ抜きにするか、と聞くので、ババ並べはどうだ、と言って奥さん連中ににらまれたのは他でもないわたしだった。
(追)今年、とうとうホリちゃんは蜂に刺されなかった。かわりにカミサンが足の指を骨折した。どうなってんのかね、この夫婦は。そして、浅間山のミネよりも悠々としたマサヨシくんの奥さんのミネンコさんに感謝だ。(おわり)
(高野耕一 takano@adventures.co.jp)
■歴史の隙間で。(上) ■2006年7月10日 月曜日 14時1分36秒
ニューヨークが「ニューオレンジ」と命名された事実はあまり知られていない。それもその筈である。たった半年間だけなのだ。ニューヨークは、以前ニューアムステルダムと呼ばれていた。先住民族であるインディアンから二束三文でマンハッタンを買い取ったのはイギリスでもフランスでもなく、オランダだった。だから、ニューアムステルダムなのだ。
1626年のことだ。マンハッタンの売買価格は、当時の金額で60ギルダーであり、現在の物価でもせいぜい100ドル程度だという。この話を猿谷要さんの本(文芸春秋・世界の都市の物語)で読んだときは、わたしは猿谷さんに心底より感謝したものだった。アメリカという国の呼吸みたいなものを感じたからだ。
興味をもった。歴史の面白さを改めて知らされたのである。歴史は生きているんですね。小中学校のときにこういう本と出会っていれば、わたしはきっと歴史学にのめりこんだと思う。オランダがマンハッタンを買い取ったとき、わが日本ではすでに徳川の治世なのだ。
いまでこそ世界のアメリカであり、超大国だが、それなりに必死に生きていることを想像させ、親しみをもった。なにやら大金持ちの家庭事情をのぞいたような気分である。歴史が浅いね、アメリカは。まだまだ腕白坊主ですよ。
さて、話を戻しましょう。オランダは、ニューアムステルダムの町を開設する当初から、農場で働かせるための黒人たちを奴隷としてアンゴラやブラジルから輸入していたという。1664年8月のこと、イギリスの快速戦艦4隻がニューアムステルダムに攻撃をしかけた。イギリスの艦隊の指揮官は、リチャード・ニコラス。国王の弟ヨーク公に、このオランダの植民地である島を奪い取って与えようとしたのだ。オランダの総督スタイブサントは、勇猛果敢な男で、軍を率いて迎撃態勢に入った。だが、多くの町民に説得され、ついには島を明け渡したのだ。
イギリスの指揮官ニコラスは宣言した。「われわれをここへ派遣されたヨーク公の名を讃え、今後、この地をニューヨークと改名する」と。
(高野耕一 fujita@adventures.co.jp)つづく。
■歴史の隙間で。(下) ■2006年7月10日 月曜日 13時49分43秒
オランダの統治は38年で終止符を打ったのである。同時に「ニューヨーク」の誕生でもある。話はこれで終わらない。1673年、オランダは、イギリスとフランスを相手に戦争を再開した。8月7日、23隻のオランダの船団が1600人の兵士を乗せて、ニューヨーク港に進撃した。船団を率いるのは、コーネリアス・エバーツェン提督だ。「われらは、われらのものを取り返しにきたぞ」と叫んだ。島での戦闘は2日で終わった。イギリス軍は敗退した。ここに、ニューヨークは、ニューオレンジと名を変えて改めてオランダ統治により再スタートした。このニューオレンジという名は、オランダの新国王オレンジ公ウイリアムの名から取ったものだ。このまま治まっていれば、いま、われらがニューヨークと呼んでいる世界有数のビッグシティを、われらは「ニューオレンジ」と呼んでいるのだ。ところが、そうはいかなかった。半年後、オランダとイギリスの協定により、島はイギリスに返還され、再びニューヨークと命名されたのだ。なんだかニューヨークをオランダとイギリスが勝手にやりとりしているようで、腹も立つけど、なんか奇妙な親近感がわくのだ。
戦争とは、こういう奪い合いなのだということをしみじみ感じ、愚かと稚拙を知るのだ。そして、この半年間の「ニューオレンジ」について多くの歴史家が黙殺していることにも興味を覚えるのである。(高野耕一 fujita@adventures.co.jp)おわり。
■ニューオレンジ(一)・上 ■2006年7月5日 水曜日 13時25分31秒
8月7日、午後2時、船団は目指す島に近づいた。暑い日だ。わしらは疲れきっていた。わしは旗艦の後部甲板にいた。銃を掲げながら、わしは島の周辺を見渡した。今でもその時に見た美しい景色は、昨日のことのように目に浮かぶ。海洋に近い河口のその島は、数万年前の氷河期の氷河によって磨かれた頑強な岩盤を持っていた。やがてできる聳える摩天楼群はその頃はまだなかった。河辺に沿って広く長く、緑の台地と緩やかな家々が続いていた。のどかな田園風景だ。長い航海で海しか見ていなかったわしらの目には、その島の森も丘も、ポツンポツンと点在する木立に囲まれた農家も、天国の庭のように見えたものだ。まるで宗教画のようだった。その島の政治上の重要性や経済上の必要性を、わしら若い兵士はまったく知らなかった。わが提督殿がどれほど知っていたか、それさえわしには見当もつかなかった。提督殿はその島の諸々の重要性よりも、むしろ島を奪還することそのものに意地になっているだけのようにわしには思えた。貿易の拠点としての重要性は確かにあった。頭ではそれは理解できるが、それはわが国の暴力的で一方的な意見に過ぎない。そのために敢えて戦争に持ち込み島を奪いとる大義など宇宙のどこを見たってありはしない。38年間わが国の所有であったその島が9年前に突然無法に他国に略奪されたとしても、本来は先住民族のものであり、わしらの国が先住民族を騙すように二束三文で買い取ったに過ぎない。その島は当然のごとく先住の人々のものであり、わが国だろうがどこの国だろうが領土権を主張する大義などは微塵もありはしない。歴史の語る真実こそが価値を持つ。それを信ずるしかない。(高野耕一 fujita@adventures.co.jp)つづく。
■ニューオレンジ(一)・下 ■2006年7月5日 水曜日 13時23分52秒
わしはそう思う。歴史の語る真実こそが正義だ。ただ都合がいいというだけで自分の領土にしようとする国々の理不尽な論理を認めれば、世界は修羅場となる。他国を暴力的に自分のものにしようとする植民地意識は、若いわしにはただの強盗としか思えなかった。わが国は国土が狭いのは仕方のないことだ。喉から手が出るほど他に領土が欲しいという気持ちはわしだってわからないわけじゃない。わが国の全国民がそう思っているのもわかる。それを頭で思うのは仕方がない。考えまで規制することはできないからな。だが、妄想は妄想に終わらせておくことだ。それを実行していけない。いかなる理由があろうと侵略だけは絶対に許されない。侵略などという代物を神が許すはずがない。神に背いて何を信じろというのだ。なあ、若いの。その時、わしはまだ20歳で、いまのきみたちと同じくらい若かった。わしにとって後にも先にもたった一回の戦争経験だった。戦争とは生きながらの地獄だ。戦争の恐ろしさの一つは、貧乏とか夢のない暮らしをさせてこんなことなら死んだほうがマシだと国民に思わせることだ。その諦念がやけを起こして戦争を許す気分になるのだ。戦争は何が何でも絶対に起こしてはならない。そのことだけを伝えたくて、わしは思い出したくはないその島の戦争体験をきみたちに話そうと思う。話は、船団が島に到着したところから始めよう。まあ待て、若いの、もう一杯ビールのお替りを頼む。冷たいやつをな。そう、わしもそのときそう呼ばれていたんだ、なあ、若いのってな。あの勇敢な男たちに。(高野耕一 fujita@adventures.co.jp)おわり。
■友よ。(上) ■2006年6月26日 月曜日 14時36分10秒
駒沢通りを環八に向かい、駒沢公園を過ぎた右側に寺がある。ちょうど駒沢公園と日体大の中間に当たる。交差点の角に深沢不動尊があって、そのすぐ隣だ。通りに面して門があり、門を入ると本堂に続く石畳があり、左右は駐車場である。石畳に立つと正面にどんと威風堂々の姿を見せる本堂があって、晴れた空に鷲が羽を広げたような立派な大屋根が聳える。寺としては驚くほど大きくはなく、壮大な森の中にあるわけではないが、都会の寺としてはその壮観に思わず誰もが息を呑むのだ。身が引き締まる。しかし、なぜかこの空間にほっとする。友人が住職を勤めている。正確には息子さんにメインイベントの座を譲り、悠々自適な立場にある。だが、この和尚、悠々自適ではない。これまでポルシェで中央高速をぶっ飛ばし、ハーレーダビッドソンのローライダーで東名高速を駆け回り、ジェットスキーのレーシングチームを持ち、大きなトレーラーにマシンを積み込んで、やれ北海道だ、やれ青森だと飛び歩いた男、なかなか悠々なんかしていない。テニスコートでは小柄な体がいたちのようにスピーディに動く。スポーツ好きのためか、とにかく体の切れがいい。打球は、ひとの2倍も3倍も回転するぐりぐりのトップスピンボールで誰もが目を回し、返球に苦労する。それを見て口をあけて笑う和尚の顔は、チャーリーブラウンのように愛嬌に溢れる。和尚だから性格は真っすぐなはずだが、ボールは真っすぐとは縁遠く、これまで見た打球の中では最もアクの強いものだ。いや、もしかしたら和尚だから性格も真っすぐと思うのは思い過ごしかな。日本中の和尚が性格がいいとは限らないだろう。
(高野耕一fujita@adventures.co.jp)
■友よ。(下) ■2006年6月26日 月曜日 14時35分22秒
これは、和尚のために雨の中を飲み屋まで車で迎えにくる奥さんに聞くしかない。とはいいつつ、バーべキュウに行った川辺で川中のゴミを集めている姿を見ると、われらは感動するのだ。さて、この和尚、こともあろうに寺の入り口にイタリアンレストランを開いた。数年前になる。すわ宗教戦争になるぞ。これはバチカンに対する壮大な皮肉、いや挑戦である。バチカンのあの塀の中に道場六三郎が和食の店を出すようなもの。よく世田谷区長が許可したな。われらの適度に無責任な発言に対し、だって檀家の皆さんが集まるときだって、和食だけでは飽きるでしょ、とチャーリーブラウンは笑うだけだ。このイタリアンレストランでわれらテニスクラブの仲間たちは、やれ忘年会だ、やれクリスマスパーティだと大騒ぎをするのだから、先の発言の無責任さが計り知れるというものだ。忘年会はとにかく、クリスマスパーティはワイン片手にピッツァを頬張り、ふと本堂の大屋根を見上げ、なんだかキリストと仏がいっしょに宴会をやっている気分だな、などと不思議な気がするのだ。このレストランがテレビで何回か放送された。ご近所の芸能人も訪れるという。店の奥の小さなテラス席はなかなかいい。星空を見上げながらシェフご自慢の料理に舌鼓を打ちながらワインを飲む。静かなひととき。帰りは駒沢公園でもふらついてみるか。そんな気になる。でも、バチカンがいつまで黙っているだろうか。たとえ、ダビンチ・コードのごとくバチカンと全面闘争となろうが、われらは和尚の味方となって戦う覚悟はできている。(高野耕一fujita@adventures.co.jp)
■日本武士道(上) ■2006年5月16日 火曜日 14時45分17秒
『GORIN宮本武蔵』を昨年ピエブックスより出版していただいた。読みやすい、読みにくい、写真がいい、本の体裁がいい、とそれはいろいろなご意見をいただいた。ありがたいことである。読みにくい、というご意見の方にこうお答えした。実はだいぶ読みやすく工夫しています。しかし、武蔵の五輪書の原文は驚くほどの名文であり、噛み砕き、読み砕かなければ彼のいわんとするところが理解できないほど深いのです。難解です。わたしどもは武道家次呂久英樹師とともに武道家の眼を縦横に使うことにより独自の解釈を加え可能な限りわかりやすく書きました。そうお答えしている。逆に、読みやすくしすぎてはいないか、というご意見もいただく。物を造る、書く、においては、個にして普遍という壮大な矛盾を帯びた理想を抱いているが、これがなかなかうまくいかない。中に、わたしたちが武蔵を臆病と書いたことに対し、武蔵を臆病というのはどうか、というご意見もいくつかいただいた。臆病なわけがない。勇気がなければ勝負には勝てない。命のやり取りなどできるはずがない。その通りだ。このご意見は予想していた。臆病だからこそ最大の勇気を奮うことができる。最大の勇気を搾り出すために敢えて臆病になる。臆病だから敵をとことん極めてから戦いに臨む。大仰ではあるが、逆説的に書くことにより武蔵の精神に触れようと努めたのである。いずれにしても多くのご意見にこの場をお借りして御礼を申し上げたい。そしていま、GORINに続き日本武士道を書こうと準備を整えているところだ。
■日本武士道(下) ■2006年5月16日 火曜日 14時44分36秒
日本武士道、と敢えていうのは「この時代だからこその視点」で著してみたいからだ。世界の中で日本はいまどうしたらいいのか。われらが世界に対し、日本人はこういう人間である、と説明する場合なにをもって語るのか。まさに、新渡戸稲造が武士道を著した動機と同様であるが、内容はかなり変わってくるはずだ。新渡戸稲造が武士道を書いたあの時代、世界が日本を知らなかったのである。表向きであっても300年近くの長い鎖国の後の開国であった。知らないはずである。だが、いまはいまで日本が見えないのではないだろうか。知らないのではない。見えないのである。アメリカという分厚い壁が立ち塞がっていることにもよる。経済大国という幻影は、国の真の姿ではなく、単なる現象に過ぎなかった。世界はアメリカに目を向け、日本の財布を探る。日本はアメリカの顔を見て、財布の紐を開け閉めする。日本の意思。これが、世界の国々には見えないのである。見えないはずだ。無いのだ。ここが、新渡戸稲造の時代、明治時代とは大きく違う。明治時代は、日本に武士道という思想があったのだ。だから彼はそれを世界に知らしめればよかった。現代は、日本に思想が無いのだ。おそらく新しい武士道は、日本人のために書かれるのだろう。思想が無い、というとお叱りを受けるかも知れない。お叱りの言葉は日本の気骨だと思えばうれしい話だ。ただ、武士道というと、経済に疎い、だとか、戦争になるんじゃないか、とか、身分制度がどうとか、中には切腹やテロまでうんぬんする実に浅薄なイメージしか持たない人もいて、それもまた現代的に新たな解釈が必要となりそうだ。黒船、明治維新、そしていま、革命や改革には自分の強烈な意思、確固たる信念がなければならないのだと思う。(高野耕一fujita@adventures.co.jp)
■春の海(上) ■2006年4月18日 火曜日 15時7分19秒
海は正直である。季節に敏感に反応する。春は海からやってきた。アスファルトの通りから岸壁を越え石段を数段降りると突然砂浜に出る。小さな湾には波はなく、すぐ横のハーバーに出入りするボートの起こすさざ波が押し寄せるだけだ。昨日まで身を切るほどに冷たかった浜辺の水はぬるみ、ゴム草履の足に確かな春は訪れた。遠く江ノ島が霞んで見える。沖の釣り船が蜃気楼のように霞んでいる。なるほど、これが春霞か。景色も時間もなにやら薄皮を一枚被せた感じだ。ひねもす「のたり」である。しかしまあ「のたり」とは実に見事に表現したものである。午前10時。寝ぼけ眼の太陽はまだ佐島の上空にある。持ってきた折りたたみの椅子を広げ、缶ビールのプルトップを引き抜き、一気に飲み、大きく息を吐く。なにをそんなに急ぐんだ、と海が軽く笑っていう。まあ、ひと口目はそういうものさ、これがうまいのよ、と弁解がましく答える。徳栄丸の船長の声が岸壁の上から聞こえ、黒い顔を皺だらけにして石段を降りてくる。缶ビールを1本渡す。船長の皺がさらに深くなる。船長は横の岩に座り、缶ビールを開ける。頭にタオルを巻いている。近くの漁港の半纏を着ている。船長と2人で缶ビールを掲げる。ナニに乾杯ということもないが、かすかに心の通い合いがあってうれしい。「潮がよお・・・」船長が息をついてからいう。「潮が春になってなあ」そしてうなずく。船長の黒い顔を見、沖に目を向ける。水平線の辺りが眩しく輝いている。「ほらよお、あそこな」船長が指をさす。東側の沖のほうだ。
(高野耕一fujita@adventures.co.jp)
■春の海(下) ■2006年4月18日 火曜日 15時6分32秒
「色がちがうだろ。あれは春の海の色だな。うん。冬にはねえ色だなあ」。明るい色だ。「明るいですねえ。のんびりした色だなあ」。わたしがいう。「一度、沖に行ってみたいなあ。海で暮らすのが夢だったんですけどねえ」。船長がわたしを見る。「ここから見てると平和だがよう。海はわかんねえぞ。陸で暮らすモンはよ、海がいいっていうけどな、海は突然裏切るのよ」船長は遠く沖に目を向ける。「おれたちは親の代からさ、海がなくちゃあ生きていけねえようになってるけどなあ。いま、ほれ、あそこに白い船がいるだろ、こっちに向かってる船な、あそこよ、あそこら辺には大きな岩礁があってな、大波があるとオッカネエのよ。何隻も沈んだもんな。あんな近くだぞ。いまは平和だなあ。そうよ、今朝もよ、ほとんどの船が大漁だ。だがよ、海は平気で裏切る。明日はわかんねえ。うん、明日はわかんねえなあ」。大いなる恵みを与える反面、多くの命を飲み込んだ海。後で知ったのだが徳栄丸の船長の父も嵐の海に沈んだという。「おれも海で死ねば最高だなあ」足元を見る。岸辺にぴちゃぴちゃ寄せる波は春の「のたり」である。「まあ、人間よりもいいかなあ」船長がいう。「人間だって平気で裏切るもんなあ」わたしは苦笑する。痛いことをいう。「海のほうが正直ですよ」わたしはいう。「きっと、海のほうが正直です」「そうかもしんねえなあ」「絶対にそうですよ」海は残酷でもあるけれど、こんなにもやさしい顔をし、惜しみなく恵みを与え続ける。海は裏切るけれど、そこに欲深な計算はない。人間はちがう。欲により裏切るのだ。やがて、船長とわたしは佐島の近くに昼飯を食べに行き、海はまだ穏やかな微笑をたたえていた。(高野耕一fujita@adventures.co.jp)
■リ・ジャパン。 ■2006年4月7日 金曜日 13時36分54秒
リハビリとは、リ(取り戻そう)・ハビリティ(人格)ということなのだ、という話を聞いた。例えば交通事故により手を失った者が、手を取り戻そうと願うのは当然のことだが、例え手を取り戻すことが不可能であっても「まず、人格を取り戻す」ことが最重要なのである、という。その通り。リハビリとはそのことなのである。手を取り戻すことができたら、それに勝るものはない。だが、手を取り戻すことが不可能である以上「人格を取り戻して以前にも増して強くなれば」それは凄いことである。人格を「自信」に置き換えてみよう。
人はいつも「自信をもって生きる」ことが望ましい。だが、これが難しい。それは「自信というものは、自分で失うのではなく、他人や社会によって失わされることが非常に多い」からだ。「人格というものは、自分で失うものではなく、他人や社会によって失わされることが多い」ということだ。子どものころより築き上げた「自信・人格は、他人・社会によって失わされることが非常に多い」のだ。「失わされる」という言葉は不自然であるから「奪われる」「破壊される」と強く言う。「自信や人格は、他人や社会によって、奪われ、破壊されるもの」である。こうなる。さて、こう考えた場合、わたしたちは大いなる矛盾を感じる。そして、単純に次の二つのことを想起する。他人や社会に破壊されることのない
「強い自信を身につけ、強い人格を形成する」ことが一つ。そして、自信や人格を破壊することのない「人にやさしい人間を増やし、人にやさしい社会」を構築するということが二つめ。そういうことだろう。では、まず、一つ目を検討しよう。人は「どこでどうやって自信をつけ、どこでどうやって人格を形成する」のだろう。「基本は家庭」だ。「学校」だ。「父であり、母であり、先生」である。そして「友だち」や「町内」である。さて、どうだろうか。子どもに「自信をつけ、人格形成の手助けをする」父であり、母であるか。子どもに「自信をつけ、人格形成の手助けをする」先生であるか。しまった。こんな難しいほうに話をもっていくつもりではなかった。これでは、リハビリの話が、リ・ファミリーとか、リ・スクールとか、極論すればリ・ジャパンになってしまう。家庭を、学校を、国をリハビリしようという壮大な話、空論となる理論となりそうだ。ま、たまにはいいですか。構造改革って国のリハビリだし、金融改革だって銀行のリハビリだ。そう考えると、家庭や学校のリハビリはどうなっているのだろう。リハビリは「自信や人格を取り戻すこと」とした場合、以前と同じ形にするのではない。家庭は、家庭の自信や人格「家庭格」をもち、学校は、学校の自信や人格「学校格」をもつことが必要なのだ。そういった「家庭格」や「学校格」をもてますか。その「格」を創る基本の思考・思想はナンですか。でも、家庭格や学校格が確立されれば「自信・人格を奪うことのない社会」人格のある「社会格」が確立されることになるのです。なんだ、先に言った二つのことって一つのことだった。これは一石二鳥の話だった。教育は言葉から。正しい会話から、まず始めましょう。
(高野耕一fujita@adventures.co.jp)
■チュウの尋ね人。 ■2006年3月31日 金曜日 16時3分27秒
ぼくは、犬。種類はトイプードル。名前は「チュウ」。本名は「チュウバッカ」といいスターウォーズに登場するキャラクターから頂戴したものだというが、ぼくはそんな長い名前はいらない。ぼくの耳は気が短いのだ。チュウのチの字で反応する耳なのだ。夏目漱石先生のとこの猫みたいには名前がないのも味気ないし、犬を「犬、犬」なんてそのまんま呼ばれるのはもっと味気ない。今は「チュウ」で一応満足している。一才になった。生まれて3ヶ月目にいまの家に飼われることになった。家族は3人。息子のGさんが、僕の実質上のご主人だ。散歩はもちろん、ドッグランに行くのも砧公園に行くのもGさんといっしょ。カットに行くのもいっしょ。ぼくが腹をこわしたとき、医者に連れて行ってくれたのもGさんだ。ぼくのすべてを面倒見てくれる人だ。だから、人生相談をするならGさんだとぼくは決めている。N子さんはこの家の奥さん。ぼくの食事はN子さんがくれる。眠くなるまで抱いてくれる。買い物にも連れていってくれる。町を歩いていて「まあ、かわいい」なんていわれて喜んでくれるのはN子さん。うちのチュウは、足が長いでしょ、顔がちいさいでしょ、とテレビタレントを褒めるように自慢するのもN子さん。だいぶ前になるが、公園でよその奥さんから「あら、トイプードルってもっと毛が巻いてるんじゃない」とかいわれて「なによ、あんな人とは一生口をきかないから」と激怒してくれたのもN子さんだ。それほどぼくを可愛がってくれているのだ、と感謝している。あの頃ぼくはまだ小さかったから毛の色も今と違っていたし、今ほど毛も巻いていなかった。だが、もう色も金色に落ち着き、他の犬たちが嫉妬するほどきれいな巻き毛になっている。さて、ついでに紹介するのがこの家のご主人のKさんだ。朝から晩まで、ぼくはKさんを噛んでいる。噛みやすい人格なのだ。ぼくの玩具的存在で、玩具という点から見れば実に貴重品だ。ぼくはいつも3階のリビングにいるが、GさんやN子さんが階段を下りていってしまうと淋しいから大騒ぎをする。大騒ぎの果てに「淋しいオシッコ」や「淋しいウンコ」をしてしまう。淋しいんだから仕方がない。階段を上ってくる音を聞くとうれしくて立ち上がり、ぴょんぴょん跳ねる。だが、Kさんが階段をおりていっても、あ、そう、とばかりに寝たまんまだ。淋しいオシッコもしない。Kさんが階段を上ってきても、首を回してちょろっと見るだけ。Kさんが会社から帰っても、ちょろっと見るだけ。ぼくが退屈して、おい、手を噛ませてくれ、と頼むときだけはとても重要な人だ。よく観察していると、Kさんは、N子さんからも軽い存在として扱われている。だから、これからもぼくは安心してKさんを玩具扱いにしようと思う。ぼくは今の暮らしに満足している。親分のGさん、母を知らないぼくの母親のN子さん、玩具で子分のKさん、みんなとの暮らしに何ひとつ不満はない。だが、ひとつだけ心配がある。それは、ぼくのいた等々力のペットショップの吉田さんが、そこを辞めてどこかへ行ってしまったことだ。いいお姉さんだった。会いたいと思う。吉田さん、今どこにいるの?知っている方がいらしたら教えてください。
(高野耕一fujita@adventures.co.jp)
■日本一歌のうまい焼き芋屋さん ■2006年3月31日 金曜日 15時59分19秒
深大寺は、週末の昼下がりの穏やかな空気の中にある。昨日まで降っていた雨はすっかりあがり、空は青く、高い。その澄み切った青いキャンバスにすっくと伸びる森の木々の輪郭がはっきりと描かれている。降り続いた雨が埃を掃ったためか、ハイビジョン映像のように鮮明だ。神代植物公園の脇を入った駐車場に車を滑り込ませる。通りを挟んだ空き地にドッグランがある。金網で囲っただけの犬の運動場である。横幅20メートルくらい、縦は50メートルくらいだろうか。かなり広い。それが2面並んでいる。左側は大型犬、右側は小型犬のものだ。愛犬チュウはすでに息を弾ませて駆け回る体勢にある。先にテツのお参りをしよう。息子がいう。テツとは先代の愛犬の名である。息子が小学生の頃から16年間ともに育ってきた三河犬である。純血種ではない。もともと紀州犬と柴犬のミックス犬で、徳川家により狩猟犬として改良されたというが、それも定かではない。その上、
テツが純血の三河犬であるかどうか、それも疑わしい。だが、勝てば官軍、飼えば家族である。テツは、日本犬の誇りを持ち、強く、賢く、忠実であった。猟犬でありながら水を極端に嫌ったことだけが、やつの弱点だった。水が嫌いな猟犬なんかいるの。そう妻がいうたびにテツはすごすごと犬小屋に隠れた。だが、スヌーピーだって草むら恐怖症の猟犬だ。テツよ、恥じることはない。テツの墓は深大寺にある。ドッグランに背を向けて深大寺に向かう。神代植物公園に沿った細い道を歩く。すれ違う人の数も多い。犬を連れている家族も多く、お互いの犬を一応誉め合っておく。マイクを通して歌が流れてくる。歩きながら誰もが耳を奪われる美声である。力強く、透明な歌声。伸びがある。張りがある。思わずカラダが動く。犬たちも歩みを止め、歌声に聞き入る。聞いたことがある声だ。歌声は、道の傍に止めた軽4輪車からのものだった。はあるばある来たぜええ、函館えええ、焼き芋おおお、と聞こえる。茨城県旭日村の焼き芋売りである。石焼き芋のトラックであ
る。これがなんと、サブちゃん、北島三郎の声である。もちろん本人ではない。本人ではないと思う。いや、サブちゃん本人か。そんなわけない。それほど似ているのだ。歌がうまいのだ。声がいいのだ。その伸びのある美声が神代植物公園の深い森に響き渡り、高い青い空に広がっていくのである。目を閉じるとNHKの紅白歌合戦のステージが浮かんでくる。なにやら焼き芋がただの焼き芋とは思えないのだ。皮をむいて歩きながらかじりつくなんて、とてもそんなことはできない空気である。そのためかどうかわからないが、みんな歌は聞くが芋は買わないのだ。まさか拍手をしたりテープを投げたり、サインをもらう人はいないが、芋が買いにくいのだ。サブちゃん独特の節回しに同調して吠える犬もいるんじゃないだろうか。きっと芋もうまいはずである。この次は芋を買わなければサブちゃんに悪いな、と思った。(高野耕一fujita@adventures.co.jp)
■トリノよ、がんばれ。(上) ■2006年2月15日 水曜日 15時31分42秒
フライングの反則で失格となった選手は、目を赤くしてナニカを堪えている。氷上を呆然と滑走しながら唇を噛む。トリノからのライブ映像。女子500メートル・スピードスケート。日本はいま、深夜だ。日本から4人の選手が出場している。冬季オリンピック3回出場の日本のエース岡崎朋美は、開会直前風邪で体調を崩した。34歳という年齢にも疑問を抱くものもいるが岡崎はその限界説を厳しい練習で跳ね飛ばし、明るい笑顔を見せる。大菅と吉井のダブル小百合は、弾ける若さで勝負に賭ける。ここまで日本はメダルなしである。女子モーグルの上村愛子は4位。コークスクリュウを決めたが、ナニカが足りない。ナンだろう。コークスクリュウという女子では彼女しか成しえない最終兵器だが、まだ自分のものにしていない危うさを感じたのはわたしだけか。それとも滑り全体のまとまりというか、なめらかさをベースにし、豪快にコークを決めるメリハリがあればと思った。ごめんなさい、素人が。さて、男子500メートル・スピードスケートは惨敗。ハーフパイプも惨敗。もはや、何でもいいからメダルを。金なんていわない。銀などと欲張らない。銅でいい。銅、大歓迎。メダルならもうアルミでも何でもいい、と少々焼け気味である。女子フィギアの美女軍団も、どうも日本のテレビを見ていると金銀銅のメダル総なめのごとく見えるが、わたしはもうだまされない。テレビスタッフの気持ちはわかる。わたしもスタッフならそうするが、エコひいきが過ぎるんじゃないか。期待感ムンムンの映像を流しすぎはしないか。ミキティが4回転を決めて3位に入れば上出来、くらいに思っていたほうが落胆しなくてすむ。(つづく)
■トリノよ、がんばれ。(下) ■2006年2月15日 水曜日 15時31分3秒
話は氷上にもどる。女子スピードスケートの面々は、軽い笑みを見せるほどリラックスしている。いい。いいと思いつつ、まてよ、とも思う。リラックスのしすぎではないか。そう思う。始まった。500メートルを2回滑走して、その合計タイムで勝敗を決める。フライングが多い。審判が厳しいのか。観客から審判に対してブーイングが起こる。優勝タイムは38秒近辺だという。2人で滑走する。100メートルのタイムが10秒の前半ならいい。日本選手のタイムがいまいちだ。38秒の後半である。それにしても、外国選手の体格のよさには息を飲まされる。滑りが豪快である。テレビ画面から風を切る音が聞こえてきそうだ。コースに覆いかぶさるように駆け抜ける。だが、雑である。力で押し切ろうとさえ見える。それに対し、日本選手の走りは繊細である。美しいのである。豪快と繊細、力と美しさの勝負である。岡崎が出た。あの岡崎さえ華奢に見える。スタートラインに立つと、すばしっこい少年にも見える。号砲一発、いいスタートだ。早い。100メートルの入り10秒前半。悪くない。氷をしっかり捕まえ、氷に乗る。氷上の水すましだ。コーナーでも速度は上がる。1回目、38秒の前半。3位のタイムである。よし。興奮してウイスキーのお替りだ。2回目はさらにいいタイムになるだろう。だが、負けた。4位である。決して悪くはない。しかし、岡崎にはメダルを取って欲しかった。それにしても、と思う。日本選手は精神的に弱いのではないか。フライングで失格となった選手のように、涙ぐむくらいの気迫が欲しい。オリンピックはオリンピクニックじゃないんだからね。おわり。(高野耕一fujita@adventures.co.jp)
■優しい時間(上) ■2006年2月9日 木曜日 10時56分15秒
元旦に、今年は優しく生きようと決め、氷川神社で500円の賽銭を投げ、神に誓った。寺尾聡さん主演のテレビドラマ「優しい時間」が実にしみじみとココロに浸みたことが原因だ。かみさんも食い入るように見ていたから、きっとココロを打たれたのだと思う。脚本は「北の国から」の倉本さん。吹雪ばかりが印象に残るドラマなのに、とてもあったかい。登場人物はいずれも個性的なのにまるで毒がないのは倉本さんの、人を見る目のあたたかさなのだろうと感銘した。寒いのも暑いのも嫌いだが、人のあたたかさは大歓迎だ。外の吹雪は、きっと社会の象徴としての吹雪なのだろう。それでも人はあたたかく、力強く生きていこうという設定だ。同時に、昨年出版した拙著「GORIN・サムライたちへ」で書き残している点で気になっている活人剣に思いを馳せていたことも原因のひとつだ。活人剣。人を活かす剣。わたしの場合、空手だから活人拳となる。どんな拳か。明快に答え
が出せないでいる。優しさは、活人拳の答えに深く関係しているような気がする。ドラマの中でもいろいろな事件が起きる。寺尾さんだって優しいだけではなくて、時には強い。でも、優しい。強いけれど、優しい。ドラマの中では成立していた「優しさが強さ」は、実社会で成立するのだろうか。「優しさが武器」になるだろうか。これは、答えを理論的に追求するよりも、実行してみる方がいいのではないか、答えはそこから見出せるのではないか、そう思った。
■優しい時間(下) ■2006年2月9日 木曜日 10時55分34秒
今年は優しく生きる。そう決めて1ヵ月。早や決心は揺らいでいる。息子も優しさを実行して傷ついたから、わたしは頑なに「優しさは強さ」を身をもって示さねばならないのだ。でも、ここの所、それは相手によりけりだ、と思うようになりつつある。嫌なことではあるが、そう思う。なぜか。優しくしたらズに乗ってくる人間が多いことを知ったからだ。人間て、そういうもんですかねえ。優しくするとズに乗るもんです
か。それとも、そやつが悪いやつで、いいやつは優しさを理解するのでしょうか。腕力と暴力について、むかしひとつの結論を出した。悪に対して振るうのは、腕力。善に対して振るうのは、暴力。そう結論づけて生きているのだが、いまの時代、なにがあっても手を出した方が悪いという風潮である。武蔵にとっても、空手家にとっても解せない世の中である。平気で弱いものをいじめる風潮は、どのような状況においても拳を振るうことがない、という甘い環境が創ってきた悪癖だ。活人拳は、拳を振るわないのではなく、人を活かすために拳を振るうのである。いや、ちがう。拳を振るうより、拳を隠したうえでの優しさこそが活人拳である。ここで諦めてはいけない。ズに乗って「言葉の暴力」や「無口の牙」を向ける者に負けない「強い優しさ」を学ばなければならない。同時に「優しさが強さになる社会」を築くために自分になにができるのだろう、と考えなければならない。(高野耕一)
■エルビスで喧嘩。(上) ■2006年1月19日 木曜日 16時21分33秒
先日、数日にわたってNHKで「エルビス・プレスリー」の特集がオン・エアされた。エルビス、ああエルビス。いまの若い人たちには、もはや何の思いも感傷も知識もないのだろうけれど、わたしたち50歳代から60歳代には、映画俳優ジミーことジェームス・B・ディーンとともに「もう神様だもの」なのだ。エルビスは、歌手だ。ロカビリー歌手だ。ロカビリーとは、ロックとヒルビリーのいいとこ取りをした音楽だと聞いているが、どんなジャンルなの?と問われると困ってしまい「エルビスのあれよ」と答えるしかない。高校生の頃熱狂的なファンが多く、いまでも鮮明に覚えているのは、授業中に座る椅子に小さな座布団を作るのが流行っていて、その座布団にエルビスの名前とか歌っているカッコウとかギターなんかを刺繍した連中がいた。わたしはしません。わたしは、裕次郎、ジミー、エルビスの順番だった。それに、自分で刺繍するのではなく、ガールフレンドに刺繍させ
るのが当時の男子高校生の正しい粋がりだったから、もう死んだって自分でなんか刺繍はできない。もてない男は座布団さえなく、尻から風邪ひいて笑われたもんです。というわけで、わたしは刺繍をしなかった、ではなく正しくは刺繍をしてもらえなかった、もっと正しくは刺繍をしてくれるガールフレンドがいなかった、になる。
■エルビスで喧嘩。(下) ■2006年1月19日 木曜日 16時20分58秒
日本でもそんな状態だったから、アメリカではさぞかしと思ったら、片岡義男さんの本にこんなのがあった。まだ無名のエルビスの歌をラジオのDJが流した。すると問い合わせの電話で放送局の電話がたちまちパンクした。.DJは繰り返し流した。ある少女は、電話が通じないので父親のトラックを走らせ放送局に向かった。カーラジオでエルビスの歌を聞く。涙があふれて仕方がない。やがて涙でトラックの運転ができなくなり、路肩にトラックを止めて泣いていた。いいでしょ。いい話だし、エルビスの凄さが伝わるでしょ。エルビスは元々トラックの運転手で、19歳でデビューした。街から街へとライブを続け、やれ100人、やれ200人、はい終わった次の街、という具合でアメリカ中を走り回っていた。NHKテレビにある街の女の子が登場した。当時の高校生だから、いまは正確には女の子とはいえない年齢になっている。3人だ。ペギーとバーバラともうひとり。すでに皺の目立つ顔だが、もう高校生のようにはにかんで、目をきらきらさせていう。「エルビスのコンサートに行くために赤いドレスを買ったわ」「エルビスのコンサートに行くために綿つみのバイトをしたわ」そういう。感動した。泣きたくなった。いまの日本でもこんな娘は絶対にいると思う。幸せな娘だ。尊敬する。その心を大切にしてほしい。エルビスは人気が高まると映画に出始め、10年以上もライブ活動がおろそかになる。ダメねえ。妻がいう。いいじゃないか。わたしがいう。ライブは続けるべきだったわ。もっといい歌が歌えたわよ、と妻。わかってるよ、映画も面白かったし、ダメはないだろ、いまさらしょうがないだろ、とわたし。エルビスで喧嘩すんなよ、と息子が笑う。(高野耕一)
■ペットボトルペット ■2006年1月10日 火曜日 15時11分3秒
あけましておめでとうございます。正月休みはゆっくりできましたか。私は愛犬とグダグダと過ごしていました。恒例の茨城県土浦のかみさんの実家にも行きませんでした。休みのグダグダ、これもいいですね。なにやら人生はグダグダがいいのかな、なんて正月早々思ってしまいました。朝起きて、軽くビールを飲み、愛犬に世の中のあれやこれやを話す。フィギアスケートの美姫ちゃんのデキがイマイチなんだよな、から始まって小泉総理は頭がいいんだろうが独りよがりがいけないな、
に至るまで話してみる。チュウ(愛犬の名)は、なるほどねえ、という顔で私を見、まあ犬も大変だけど人間も大変ですなあ、などと同情の眼差しでこちらを見る。今年は雪がひどいねえ、と私。夏が暑いと冬が厳しいとは昔からいわれてますねえ、とチュウ。昔からっておまえまだ1歳じゃないか、と私。いえいえ経験は浅いけど勉強はしてますから、とチュウ。トイプードルって頭がいいっていうからなあ。頭がいいですよ、好奇心も強い。ほう、自分でいうか。トイプードルに限らず
犬は頭がいいんだ。人間がうまくつきあってくれたらまあ最高のパートナーになるね。でもおまえ、小便決まったところでしないじゃないか。え、そうきたか。でもね、それは躾が悪いからだ。なに、おまえ、自分の罪を他人の責任にするのか。それが正しい犬のあり方か。人間じゃあるまいし、他人のせいにするのは人間だけでいい。空行く雲も、公園のイチョウの木も、台所のゴキブリも、他人のせいには決してしないだろ。わかってます。あたし、そこまで落ちません。正しい犬のあり方で生きていきます。えらい、それでこそ犬だ。犬は犬らしく、人間は人間らしく、これだよ。なんでも自由というと、犬らしい人間とか、人間らしい犬とか、わけのわからんことになる。この「らしさ」は重要だ。いいこといいますねえ。賛成です。私、犬らしく生きます。とまあ、こんな会話でビールをもう1本飲みグダグダ過ごしました。そんなチュウとのつき合いで改めて発見したのですが、こいつ実にペットボトルが好きなのです。もともと飲み終えたペットボトルに異常な興味を示し、がちがちに締め付けたキャップを手と口で開けるのが得意です。何時間かかろうとキャップが開くまで絶対に諦めません。親の仇を討つ勢いです。ペットボトルを渡すともうこっちを見向きもしません。で、どんなにきつく締めたキャップでも、必ず開けてしまいます。感動します。犬によるキャップ開き世界大会でもあればきっと上位入賞です。キャップを開くとそのキャップを放り投げて遊びます。夢中になるとガオガオ唸りながらすべての作業をやってのけるのです。そしてこの正月休みに気がついたことは、どうやらペットボトルに好き嫌いがあるのではないか、ということです。サントリーの「伊右衛門」と伊藤園の「おーいお茶」を比べると、なぜか「おーいお茶」のほうが好きのようです。夢中になります。それよりも「一」ですね。いま、一番のお気に入りは。ウーロン茶よりも日本茶です。でも、午後の紅茶は好きです。あるときふざけて飲み終えたコーヒー缶を渡したら凄い勢いで怒られました。なにすんだ、このやろう。そう吠えられました。今年は犬年、犬に教わることも多いのかな、と考えさせられた正月でした。(高野耕一)
■土曜の宵酔い(上) ■2005年12月20日 火曜日 6時21分45秒
土曜日、宵の口、世田谷は大蔵ランドにほど近い「船千」にいる。仄かに灯る提灯が冬の冷たい風にゆらゆら揺れている。この提灯が赤でないところがいい。池波正太郎の鬼平犯科帳に出てくるようなローソクの灯を想わせる暖かい色の提灯だ。凝り性の店主が提灯にもこだわったのかと思うのだが、確かめたことがないから実際のところはわからない。釣り好きの店主が自分の舌にかなううまい魚しか出さないという店で、刺身の醤油の小皿ほどの小さな店だ。そんな小さな店だから店主の目も心も行き届くというものだろう。年の瀬も押し詰まった日、テニス仲間7人で暖簾をくぐる。店の奥の調理場に面した小さなカウンターには5人分のイスが並んで置かれ、入り口に近いスペースには4人掛けのテーブルが3脚置かれている。4人掛けのテーブルの壁側がベンチシートになっているので、並んだ2脚を寄せ合って座る。その日は7人である。タナベさんご夫妻、イサカさん、クシビキさん、フジイさん、ホウシヤマさん、わたしである。まずは恒例の乾杯。「きょうはいいマグロが入ってるよ」。カウンターの奥で店主がいい「マグロか、いいねえ」とイサカさんがいう。おでんの前にマグロを頼む。大トロである。ほんのりとピンクのしましまがあり、たっぷりと脂が乗っている。だが、口に入れると少しも脂を感じさせず柔らかな風味がゆっくりと広がる。滑らかで逆らうところがこれっぽっちもない。味に深みがある。うむと唸る。「なかなかのマグロです」魚の専門家であるタナベさんの言葉に店主は満足げだ。
(つづく)
■土曜の宵酔い(下) ■2005年12月20日 火曜日 6時21分6秒
マグロの次はおでんである。「こんな日はおでんだねえ」フジイさんがいい「ほら、よそうわよ。好きなものをいって」とタナベさんの奥さんのフミちゃんがいう。「いやあ、アフリカが変わりますねえ」フジイさんがいい「どう変わるの?」と熱燗を飲みながらわたしが尋ねる。熱燗はわたしとイサカさんが飲んでいる。「この前ね、ダイヤの仕事でね、アフリカに行ったのよ。ダイヤの視点から見ると、アフリカは変わるねえ」「資源力に自分たちが気がついたってこと?それで変わるの?」わたしが聞き「そうかもしれませんが、アフリカはそう簡単には変わらんでしょう」タナベさんが答える。タナベさんは昔アフリカで暮らしていた。アフリカ沖で漁をする船団を管理していた。「何年いたんでしたっけ?」「7年くらいです」タナベさんはマダガスカルにいた。「ほら、割り勘負けしないようにたくさん食べて」酒はつきあい程度のクシビキさんにフミちゃんがいう。「もうじき旦那がくるのよ」クシビキさんがおでんの小鉢をフミちゃんに渡しながらいう。「旦那だって飲まないからねえ」イサカさんが徳利を持ち上げわたしに手で進めながらいう。「タナベさんも熱燗いきますか?すみません、熱燗もう一本」わたしはカウンターの奥に声をかける。今日はホウシヤマさんがおとなしい。喋りだしたら壊れたラジオのように言葉が止まらない彼をクシビキさんがコントロールしているようだ。表をヒュウと風が走り、提灯が揺れた。まもなく、今年が去年になり、来年が今年になる。わたしたちは相変わらず飲んでいる。「相変わらず」に感謝して今宵も飲んでいる。(高野耕一)fujita@adventures.co.jp
■寝相の研究?(上) ■2005年12月9日 金曜日 11時58分34秒
寝相によって体力回復が図れ、寝相によって幸運さえも掴むことができる、といううまい話がないものかと思い、寝相の研究を始める。文献を漁っているが、これがなかなか見つからない。近くの世田谷区立桜ヶ丘図書館は蔵書も多く大変便利で、テーマがあるといち早くそこに探しにいくのだが、どうも寝相だけはいい文献が見つからない。そこで、自分で「寝相道」を創作することをごろ寝しながら思い立った。なにはともあれまず、権威付けをしておこうと思う。こういういかがわしいものは権威が大事である。「寝相道」の発祥時期を推古天皇の御代と仮にする。あくまでも仮の話だ。中国は北方の眠民族により伝えられたとこれも仮にしておこう。平安時代に貴族の間で流行し、鎌倉、室町と隆盛を極めたがその後一時中断し、江戸時代になってから復活されたとしよう。流派を「寝相道鼾寝陰流」と名付ける。断っておくが眠狂四郎の円月殺法とはまったく関係がない。そう、だからわたし、寝相道鼾寝陰流50代宗家である。カミさんにいうと「ばか!」と目でいい、ごろ寝する私をまたいでどこかに消えてしまった。さて、わが流派には寝相の基本型が4パターンある。まず最もオーソドックスなところからいくと1つ目が仰向きである。「自然体寝の型」と呼ぶ基本中の基本の型である。2つ目が体の右側を下にする「右半身寝の型」である。3つ目が左側を下にする「左半身寝の型」。そして4つ目が俯せに寝る「逆寝の型」あるいは「顔無しの型」と呼ぶ型である。(つづく)fujita@adventures.co.jp

■寝相の研究?(下) ■2005年12月9日 金曜日 11時57分51秒
自然体寝の型は真上ないし少し斜め下を仰ぎ見て天井の節目やシミを数えながら寝る極めて正統な型だが、これにもいくつものアレンジ型がある。体だけを天井に向け顔を微妙に右に向けると「右自然体寝の型」となり、左に向けると「左自然体寝の型」となるのだ。くだらない。なに、くだらなくてもそう決まっているのだから仕方がない。自然体寝の型においても手の位置により3つの構えがある。両手を胸に置いて寝る型を「自然体寝の型・胸構え」といい、両手を尻に置くと「自然体寝の型・尻構え」となるのである。両手を自由に置きたいところに置くのを「自然体寝の型・勝手構え」という。胸構えは昔から「悪い夢を見る」といわれ嫌われるが、それは単に息苦しく感じるからであると思われる。そこで実際に調査をした結果、かなり高い確立で悪い夢を見たという報告を受けてびっくりした。尻構えは逆に「いい夢を見る」といわれている。もちろんこれも調査したがいい夢を見たという報告はなく、なんかやたらと寝にくいと聞いている。調査といっても相手はカミさんだけだから、信憑性には欠ける。右自然体寝の型にも左自然体寝の型にも、それぞれ「胸構え」「尻構え」「勝手構え」がある。「右自然体寝の型・胸構え」とか「左自然体寝の型・尻構え」と呼んでいる。年も押し迫ってバカなことを、とお思いでしょうが、この話はしばらく続くことを覚悟してください。次は各型の効用である。fujita@adventures.co.jp(高野耕一)
■プランどすえ。(上) ■2005年11月19日 土曜日 8時17分24秒
プラン(PLAN=計画)ドゥ(DO=行動)スィー(SEE=検査・チェック)を舞子風にいってみた。懐かしい言葉だ。塩ジイこと塩川正十郎さんの本を読み改めて話題にしたくなった。塩ジイのいうには、このプラン・ドゥ・スィーの一連の流れが日本とアメリカでは大違いだという。ほほう、である。で、なぜ日本とアメリカとを比較するかというと、どちらも自由主義・民主主義国家だから「プランどすえ」がいかに機能するかは極めて重要な問題だからだ。日本はアメリカに比べスィー(検査・チェック)の機能が極めて弱い。ちなみにチェック機関である公正取引委員会略して公取の人数だけを比べてみても、700人しかいない日本に比べアメリカは10倍の7000人の職員がいるという。単純比較して日本のチェック力はアメリカの10分の1に過ぎない。アメリカは日本の10倍のチェック力なのである。このチェックの厳しさは社会にどういう影響を与えるか。それが大問題だ。チェックの厳しいアメリカは、プランとドゥには極めて自由だ。個人の責任や能力に応じて自由にプランでき、自由に行動できる。だが、後のチェックは厳しい。大学にしても入学するのはラクだが、卒業するのが大変という具合だ。日本はというと、チェック機関が弱いからプランやドゥを自由にさせると後のチェックができない。あるいはチェックが甘くなる。好き勝手な国となる。じゃあ、どうするか。プランとドゥを先に押さえてしまえときた。先手先手と規制をかけてしまえ。プランやドゥをする前に規制してしまえばチェックはラクだ。(つづく)
■プランどすえ。(下) ■2005年11月19日 土曜日 8時16分34秒
なるほど、日本の大学は入学するのが大変だが入ってしまえば遊べ遊べである。アメリカではとんでもない天才が現れたりするが、日本はとんでもない才能はただとんでもないだけとばかりに開花する前に削られ消滅してしまう。子どもに絵を描かせると、小学校低学年くらいまで豊かな才能を発揮するがその後みんな普通の子になってしまう、と絵画の先生は嘆く。知り合いの大学病院の医師も研究を続けるためにアメリカに渡った。子どもたちは自由にプランする力を失う。自分の人生のプランさえ規制され、親や先生のプランに従うしかない。親や先生も都合が悪くなると「自分の人生だから自分でプランしなさい」と平気でいう。「やりたいことはないのか」とくる。あれはダメこれはダメの挙げ句に、はい自由にといわれてもねえ。子どもはどうすればいいの。なにかする前に、危ないからダメの一言。小学校の運動会でも、並んで手を繋いでゴールインさせる学校があると聞く。松井やイチローは、そんな国にいたくはないとさっさとアメリカに行った。高邁で愚かな教育論をぶつ前に、子どもの才能を大空に放ち、もっと自由に飛翔させてはどうだろう。子どもの純粋な夢を大海に放ち、もっと自由に泳がせてはどうだろう。子どもの未来の夢のプランを先回りして潰してしまう国に未来はあるのだろうか、と首をかしげてしまう。プラン・ドゥ・スィー。自由か不自由かニッポン。(高野耕一)fujita@adventures.co.jp
■鯉は深みへ(上) ■2005年11月8日 火曜日 15時20分55秒
何度も雨が降り、秋はその度に深まった。そして、われらの大物たちは流れの中央の深みへと潜り込んだ。大物たち、70センチを越える巨鯉たちにとって春のノッコミといわれる産卵期のみ岸辺に近づくが、本来流れの中央の最深部こそ彼らの棲み慣れた深みである。猛暑の夏の炎天から逃れる場所であり、厳寒の冬を越すにもまた格好の場所であるのだ。その頃のわれらは、東京都と神奈川県の県境に横たわる第一級河川である多摩川にいくつもの釣り場をもっていた。その釣り場については目に見えない川底の地形までもがありありと想像でき、鯉の回遊するコースまでもが読みとれた。どの辺りにどんな形の深みがあるのかとか、深さはどれくらいかとか、その深みの周辺には根がかりする朽ちて横倒しになった大木があるとか、石やコンクリートの邪魔物があるとか、あそこの駆け上がりは急傾斜であるとか、それらを想像し語り合うことはむしろ楽しくもあった。鯉の気持ちになり、川底に自分を置き、その位置から流れの状況、川底のあれこれを見、探ることも釣り人として愉悦の瞬間であった。われらとは、息子とわたしと妻である。息子はわたしより想像力を働かせ、いつも狙いを定めて餌を打ち込むのだった。われらの釣り場を川の上流から思い起こし並べてみると、是政、京王多摩川、調布の堰上、和泉多摩川の小田急線陸橋の上流側と下流側で、下流側は堰上の大きな溜まり、東名高速下、第三京浜下が容易に浮かんできて、いずれも川の流れと釣り場の環境を思い描くことができる。(つづく)
■鯉は深みへ(下) ■2005年11月8日 火曜日 15時20分12秒
だが、ある時期、川砂利の採集により川の様相は激変した。第三京浜下の流れの変化は致命的でさえあった。川岸はずたずたに傷つけられ、巨鯉が居着く川底は大きくえぐられた。流れそのものも歪められ、見る影もないのである。ヘミングウェイによると、彼が「青い河」と呼び愛したメキシコ湾に流れる海流は、人類が登場する以前から青く流れ、やがて人類が消滅しても変わらず流れているのだろう、という。そこに大自然に対する畏敬の念があり、同時に人間の不遜を感じさせるのだが、われらの「青い河ならぬ茶色の河」は、人間のなんらかの意志により大きく歪められた。息子と釣りに行く機会はいまはなく、妻は寂しがるが、われらの家族も愛する多摩川のように変化しているのだ。社会という流れは、砂利採集業者のごとくわれらの家族の流れを変えて行くのである。あの大物たちはどこに行ったのだろう。鯉は抵抗することもなく、新しい深みを求めて去ったのだろうか。秋も深まった。鯉たちはどこの深みにいるのだろう。さて、わたしはというと妻同様、家族の流れを変えられることには実は反対なのだ。ましてや他の力により歪められることは許せないのである。風の流れにしたがい自然のままに変化することはいい。鯉にもわが家にも居心地のいい深みが必要なのだ。少なくとも心の中に不変の「青い河」が必要なのだ。(おわり・高野耕一)fujita@adventures.co.jp
■いままでにない宮本武藏。(上) ■2005年10月14日 金曜日 12時29分5秒
宮本武藏の「五輪書」の現代意訳版を10月に出版させていただいた。自分で誉めるが、実に読みやすい本ができた。きれいですね。皆さん、まず写真を誉めてくださる。これはうれしい。高校の同級の藤森武くんに撮ってもらった写真だが、彼は土門拳氏の弟子でいまや仏像を撮らせたら日本一という写真家だ。ぱらぱらと本を開いてまず写真に目がいくのも当然の話だ。また、武藏の生まれ故郷を訪ね、京都、熊本まで足をのばして撮った写真が実にいい。一枚一枚の写真に武藏の息づかいが感じられる。美しい風景写真のように爽やかに撮りながら、武藏の執念のような内面までも写し取って、数々の戦闘を彷彿させるところがいい。ふと時間の流れが写真の中に見え、それがまたいい。うん、まず、写真を誉めたな。と大きく頷き、さあくるぞ、私の書いた文章を誉めるぞ、とばかりに全身を耳にして相手の言葉を待つ。このサイズがなんともユニークでいいですね。あれ、本を誉めるのにサイズでくるか。うん、まあ、これも福士くんと諸隈くんという編集者のセンスで、私も気に入っている。なんでも誉められるのは私は好きだ。だから、サイズを誉められてもうれしい。次だ。次に必ず文章にくる。構えて待つ。相手の顔と本を交互に見ながら待つ。(つづく)(高野耕一)
■いままでにない宮本武藏。(下) ■2005年10月14日 金曜日 12時28分26秒
出版社はどこ?相手はゆっくりと奥付なんか見始める。待て、待ってくれ。本を誉めるのに出版社の名前が必要か?講談社なら誉めて、集英社なら誉めないとでもいうのか?幻冬社なら許せて、青春出版なら許せないとでもいうのか?ピエブックスだこのやろう。このやろうとはいわない。ははあ。ははあってなんだ、ははあって?ピエブックスじゃ悪いか。もういいから好きにしてくれ。でも、本当に読みやすいですね。なに?きたか。ホントにきたか。もうこっちはかなり疑心暗鬼になっている。もはや卑屈でさえあるから、そっぽを向きたい。でも、誉められたい。ああ、誉められる。うん、どう答えようか。結構苦労したのよ。いやいやたいしたことはないが、まあまあね。答えはこれかなあ。本当に字が大きいところが読みやすくてがいいですね。殴る。いや、殴らない。顔が引きつる。言葉が出ない。あのねえ、字の大きさを誉められたってうれしくないでしょ。いや、うれしい。もうなんでもいい。誉められるんなら、なんでもこい。この次呂久英樹ってどんな人?なんでもどうぞ。五輪書を共著してくださった次呂久先輩は、國學院大学の空手部時代の監督であり尊敬する武道家である。この文章も読みやすいですね。え、突然きたの?ううん、もう突然でも突撃でもいい。きてくれればいい。文章を誉めてちょうだい。私、もう涙ぐんでます。よろしければ全国の書店で買ってください。よろしければ文章も読んでください。(高野耕一)

■二人の天才。 ■2005年10月13日 木曜日 12時28分12秒
かれこれ20年くらい前の話だ。青木雨彦さんの本に長嶋と王の話が載っていて、これが記憶の隅にいつもひっかかっている。こうして書いてしまえば、このひっかかりももっと心地よいものになると思うのでここに書かせてもらう。長嶋とは巨人の長嶋茂雄さんのことであり、王とは同じく王貞治さんのことだ。当時の巨人の監督である川上哲治さんが、二人の天才のあり方を実にうまく比較表現されている。例えば、ハシゴをかけたとする。その上り方を比較しているのだが、王さんはハシゴを一段一段しっかり確認しながら上る。それに対して長嶋さんはというと、上れという前にもう上にいる。このようなことだったと記憶している。私たち長嶋と王が活躍したON時代のジャイアンツファンなら、なるほどねえと頷かされる話である。もちろん、どっちがどっちという話ではない。二人とも天才であるのだから。これは、どっちが好きかという話であり、天才にもいろいろあるなあと感心する話なのだ。王さんは、荒川さんという師匠について昼夜を問わずバットを振り、フラミンゴ打法という一本足打法を完成させ、世界の王となった。凄まじい努力が見える。努力に勝る天才なし、である。そういうと長嶋さんが努力していないように聞こえるが、なに、長嶋さんだってキャンプ中、真夜中に突然起きあがってパンツ一枚でバットをブンブン振り、寝ている同室の選手の頭を叩き割りそうになったという努力ぶり。だが、長嶋さんの天才たる所以は、まるで努力なんかしてないもん、と見えるところにある。天才に勝る努力なし、とは演出家・つかこうへいさんの言葉だが、まさしく長嶋さんはそう見える。天賦の才。生まれついての天才に思える。ビューンときた玉をね、こうバーンと打ち返す。これね、これがいわゆるバッティングの極意ね。長嶋さんはこう教える。こんな話も聞いた。元阪神の4番バッター掛布さんが、現役時代に電話で長嶋さんにバッティングについて尋ねた。よし、掛布ちゃん、ちょっとバット振ってみて。うんうん、いいねえ、その振りよ、それよ。そう答えた。もう一度念のためにいいます。電話です。テレビ電話じゃない。ね、天才でしょう。この長嶋さんと王さんの比較が川上監督のハシゴ上りの話だ。当時の名解説者小西得郎さんが、ハシゴなんかなくたって長嶋なら上っちゃうでしょう、といったとも書いてあったと思うが、これも長嶋さんを実にうまく言い当てていると感心させられる。その二人の天才が切実に懐かしく思える今年のジャイアンツの成績である。頼むぞ、原監督。(高野耕一)fujita@adventures.co.jp
 
■ダイヤモンドのような日々 ■2005年10月7日 金曜日 14時43分11秒
最近、昭和の本が数多く出版され、いずれも好評なのだそうです。時代が平成に変わって17年が過ぎ、過ぎ去った日々を懐かしむこともありますが、昭和という時代の中でキラキラと輝いていた何かを見出そうという気持ちも強くみんなの中にあるようです。例えば食にしても、昭和30年代の日本の食はアメリカをして栄養バランスが理想的であるといわしめました。例えば教育にしても、先生や親を敬うという原始的かつ実にシンプルな価値が礎としてありました。ともに暮らす町の人たちはみな家族のように助けあっていました。貧しくても夢や希望が光を放っていました。自然も豊かで、子どもたちも元気でした。振り返ってみると、それは宝石のような日々です。ダイヤモンドのように輝く日々のようにも思えてなりません。しかし、ただ懐かしがっていたのでは絵に描いたダイヤモンドです。活力があり、だれもが右手に夢を、左手に希望を握って暮らせる日本にするために、昭和のキラキラをなんとかして活かしたい。それは、私たちおとなの義務ではないかと思うのです。007の映画のタイトルではありませんが「ダイヤモンドよ、永遠に」であります。(高野耕一)
■キラキラと輝いたダイヤモンドの時代。@(高野耕一) ■2005年10月7日 金曜日 14時41分10秒
私を磨いてくれたのは東京・新宿区の下落合という町でした。

《*べーごま》
べーごまは、学校で禁止されていた。勝ったら取り、負けたら取られるのが 子どもにはよくないという理由だ。だから、べーごまは路地裏遊びになった。ホンキとウソンキの取り決めもあった。子どもにもウソンキは人気がなかった。勝つと半ズボンのポケットがべーごまで重くなるからそれがほこらしくうれしいのだった。
■キラキラと輝いたダイヤモンドの時代。A(高野耕一) ■2005年10月7日 金曜日 14時36分40秒
《*エビガニ釣り》
エビガニは池や貯まり水や小川にいる。どこにでもいる。スルメを糸でしばって釣る。エビガニのいそうな穴の前にスルメをたらす。そっと赤いハサミが穴から差し出され、スルメをつかむ。ゆっくりじっくり、スルメを引っ張る。エビガニが穴からじわじわ出てくる。あわてるとエビガニはスルメを離して穴に逃げる。エビガニの大きく赤いのをみんなは真っ赤チンと呼んだ。
《*ローラースケート》
ローラースケートは長ぐつの上から履く。そのまますっぽり脱いだり履いたりできるからだ。ただ滑るだけに飽きるとローラースケート缶蹴りやローラースケート鬼ごっこをする。みんなヘルメットや膝あてなんかしていない。だからいつもだれかが膝小僧に赤チンを塗っていた。
■キラキラと輝いたダイヤモンドの時代。B(高野耕一) ■2005年10月7日 金曜日 14時34分54秒
《*絵日記》
夏休みは絵日記を描く。毎日描かなければいけないのにうんと早く描くか、夏休みが終わりそうになってあわてて描くかどっちかだった。8月の適当な日に家族で海に行ったと7月に描いておく。弟が病気になって結局行かなかったけれど、そのまま提出する。絵日記には小さな夢が描かれることがある。
《*鉄棒》
逆上がりができない子が、クラスには必ずいる。みんなが笑う。その子は体育が嫌いになる。放課後、お母さんが教えている。校庭には暑い日差しが照りつけている。お母さんはいつまでも教えている。
■キラキラと輝いたダイヤモンドの時代。C(高野耕一) ■2005年10月7日 金曜日 14時33分39秒
《*ガム》
麦畑の麦の穂を引き抜いて麦の実を取りだして噛む。いくつもいくつも口に入れて噛む。麦の実はやがてガムになった。学校の行き帰りにはいつも口の中でガムを作った。
《*井戸》
町のあっちこっちに井戸があった。大通りではなく路地裏とか裏庭にあった。だれが使ってもよかった。子どもたちがかってに使った。夏には井戸の中にスイカが冷やしてあった。
暑い日に井戸を見つけるとうれしかった。鉄製の短い筒と取手がたのもしかった。
■キラキラと輝いたダイヤモンドの時代。D(高野耕一) ■2005年10月7日 金曜日 14時32分24秒
《*夕涼み》
夕方になると父さんが表に水を撒く。縁台に座って団扇でぱたぱたとあおぐ。首に手ぬぐいをかけている。家の中は暑い上に狭かった。銭湯帰りの同級生が通る。浴衣を着た同級生の女の子が眩しかった。スイカが出るとみんな集まった。
《*クワガタ》
お寺の境内の森に一本の木があって、それはみんなには秘密の木だった。クワガタが採れる木だからだ。採れるのは雌のクワガタが多かった。カナブンも多かった。ときどきは雄のクワガタも採れた。雄のくわがたをサイカチと呼んでいた。夜中に砂糖水を木にぬっておいて朝早く採りにいった。なぜか秘密の木はすぐみんなにバレた。
■ウサギという名のカメ。(上) ■2005年10月7日 金曜日 13時45分54秒
東急世田谷線若林駅近くのペットショップでカメを買った。夏が腕まくりをする季節で、見上げる空には積乱雲が立ち上がっていた。なぜカメを買おうと思ったのだろう。その辺りがとんと思い出せない。一緒に金魚とメダカを買ったのをみると、無性に生命が愛おしく思えたのかもしれない。そんなことが度々ある。買い物の途中、大きな木に出会うと立ち止まってじっと見上げ、一本一本の枝の流れを目で追うこともある。散歩の途中、しゃがみ込んで道ばたの草花の風に揺れる姿を見つめることもある。気がつくと話しかけていたりするから、そんな時は自分で気味悪くなったりする。きっと疲れているのだ。疲れた心が純な生命にふと寄り添うのではないか、と思う。カメはわが家の3階のベランダにいる。ベランダじゃないでしょ、テラスといいなさいテラスと、と妻に叱られるがどうもわたしの年齢になるとベランダとテラスの明快な区別がつかない。屋根がなくて板敷きならもうベランダである。あんたがベランダなんていうから、わたしは洗濯物を干しちゃうのよ。妻は彼女なりの理屈でこちらを攻めるが、どうも話のつじつまがあっていないような気がする。(高野耕一)
■ウサギという名のカメ。(下) ■2005年10月7日 金曜日 13時45分13秒
カメをピンクのプラスチックの洗面器に入れ、ベランダに置いた。洗面器の中央に半分に欠けた植木鉢を逆さに置いて、カメの部屋を作った。暑い夏の日射しから身を守るために、カメは喜んで部屋を活用した。そのうちカメは逃亡する快感を覚えた。気がつくと洗面器にいない。部屋をめくってもいない。ある日、ベランダの観葉植物の陰でのんびりくつろいでいるカメを見つけた。手足と首をだらしなく伸ばしているので死んでいるのかと思ったが、指でつつくと、こりゃとんでもないあられもない姿をお見せして、とばかりに照れくさそうに首を引っ込めた。部屋に戻してもすぐ逃げる。観葉植物の鉢がいくつも並んでいるのに、いつも同じ鉢の陰にいる。カメにも花の好き嫌いがあることをわたしは知った。あまり逃げるので、カメに名前をつけることにした。ハリソンがいい、と妻がいう。なんだそりゃ。わたしが聞く。ハリソン・フォードじゃないの、バカねえ。バカはどっちだ。リチャードはどう?リチャード・ギアか。懲りない女だ。太郎はどう、浦島太郎。息子がいう。それなら許せる。ああでもないこうでもないと、家族会議は大騒ぎのていだ。こうしよう。わたしが結論を出す。ウサギという名前にしよう。わかりやすいしな。妻と息子がそっぽを向いて部屋から出て行った。わたしは今日も逃亡したカメを「おーい、ウサギよう」と追いかけている。最近は、カメが逃げると愛犬チュウが吠えて教えてくれる。(高野耕一)
■アゲ言葉、サゲ言葉(上) ■2005年9月17日 土曜日 8時31分54秒
最近、言葉を職業に選んだことを悔いる瞬間がある。職業病である。言葉に内包される悲喜こもごもが妙に気になるのだ。突然横っ面を張られたような暴力的な言葉を使う人の顔を、はっと見直しても、あれ、どうかしたの、と怪訝な顔をしている。悪気はないのだ。悪いことを言った意識などまるでなく、平気でへらへら笑っている。悪気がないからいいというものではないし、意識をしなかったからいいというものでは絶対にない。例えば、会社の上司のものの言い方。これは実はむずかしい。部下のやる気を平気でぶち壊す言葉を使っている上司がいる。ある部下が意気揚々と帰社して部長に報告する。仕事が思いの外うまく片づいて早く帰ることができました。そういうと、おい、手を抜いたんじゃないだろうな、と部長の返事。アホでしょ。バカでしょ。誉めてもらおうと期待していた部下は、もうカチンときた。この次は映画でも観て時間を潰してから帰ろ。こうなる。で、いい上司となると、そうか、こんなに早く仕上げたか、きみも仕事ができるようになったな。部下は気分がいい。よし、この次もがんばるぞ。映画なんか行かないぞ。おわかりですね、この違い。前者はお先真っ暗の会社。社員は違う会社に鞍替えしたほうがいい。後者は可能性がいっぱいの会社。どんどん働いてえらくなりなさい。さあ、回りをよく見てください。普段の言葉ひとつで部下のやる気や才能を片っ端から潰している上司がいるでしょ。
(高野耕一)fujita@adventures.co.jp
■アゲ言葉、サゲ言葉(下) ■2005年9月17日 土曜日 8時31分13秒
さらに、話の論点をすり替えてもカエルの面になんとやらで、まるでへっちゃらな上司がいる。頭のいい部下は、論点のすり替えなどすぐ見抜き、この部長アホじゃないか、逃げていやがる、と見透かされてもとんと気がつかない。いや気がついていてもわざと論点をすり替えて、自分の都合のいいことだけを喋る上司がいる。これはもう手に負えない。やがて、部下も回りの人間も真剣に聞く耳を持たなくなる。会議でも、その意見はなんのために、どの方向に向いた意見かがまるでわからないとんちんかんをいう上司がいる。意見が目標に向かっていない。自分で目標を失っている。そんな上司ほど、失敗すると部下の責任にする。困ったものだ。家庭でもよくある話だ。子どもが朝起きてお母さんにいう。明るくいう。おはよう。礼儀正しいいい子である。いい子だ。早くないわよ、もうお昼でしょ。答える母。いやな母だ。お母さん、ほら、100点取ったよ。そう、この次はどうかしら。いやな母だ。お母さん、今日はいい天気だね。暑すぎるわよ。この母で子どもが不良にならなかったら奇跡である。なんでも反対する。悪い所を探す。そんな家庭でいい子が育つわけがない。旦那だって絶対に出世はしない。旦那だって、ぐれてやる、とばかりに盛り場をふらふら歩くのがオチである。伊丹監督がその昔アゲマンを登場させて映画を作った。言葉にもアゲマンがあればサゲマンもある。アゲマンつまり「アゲ言葉」は人を幸せにするし、成功に導く。だが、サゲマンつまり「サゲ言葉」は人を不幸にし、ダメにする。いつかこの「アゲ言葉、サゲ言葉」を整理して本にしてみたいとも思う。少しは日本も気分のいい国になるだろう。(高野耕一)fujita@adventures.co.jp
 
■軽井沢物語(2)上 ■2005年9月6日 火曜日 15時40分26秒
西垣さんのテニスコートは、フジイ邸から林道を歩いて5分ほどの所にある。雑木林と果樹園に囲まれたテニスコートは5面あって、通り沿いの3面はオーナーの西垣さんの丹念な手入れのためにコンディションはいつも上々だ。奥の畑から隔離された2面は、体育会のバリバリのテニス部の連中がハードな練習をするのにもってこいだし、都会からはるばるやってきたカップルが人目を忍んで打ち合うにもいい。女の子の光る汗を男の子が拭いてやっても誰も文句はいわない。青く霞む遠い浅間の嶺を望みながらそんな光景に出会うと、おじさんたちは嫉妬心も忘れ、吉永小百合と浜田光男主演の日活の青春映画を思い出すのだ。吉永小百合はいい家のお嬢さんで、浜田光男は学生服の似合う貧しい苦学生だ。身分が違うからと親に交際を反対された二人が束の間の小旅行を楽しんでいるという設定だ。その想い出のシーンの中のラケットはウッドのフレームだ。奥の5番コートの先の野菜畑の中にロッジ風の犬小屋がある。5番コートからかなり離れている。いつかフジイ家のマヤ嬢がその犬小屋にボールをボカボカぶつけた。よくまあそこまで飛ばせたなあと思う距離だが、それ以来西垣さんの愛犬のレドリバーは恐怖のあまりテニスコートから姿を消した。お菓子の家のようなかわいいクラブハウスは通り沿いにあって、クラブハウスと通りの間に赤と青のパラソルで陽光から守られたガーデンチェアが置いてある。クラブハウスからコートは1番2番3番と並んでいる。われらは雑木林の隣りの3番コートでゲームを楽しんでいる。(高野耕一)
■軽井沢物語(2)下 ■2005年9月6日 火曜日 15時39分42秒
タナベさんとホリちゃんが組み、ミヤモリくんとわたしがペアである。ホリちゃんは、軽井沢で2年連続でスズメバチに襲われている。3年連続で刺されたら確実に死ぬと奥さんのマコちゃんにいわれ、今年は命がけで軽井沢にきている。ホリちゃんの打ったボールが大きくアウトする。気圧が低いからボールが飛びすぎるんだ。ホリちゃんがいう。東京なら確実に入ってるもんなあ。わたしがいう。ということは、今のは「軽井沢ボール」ですな。ミヤモリくんがいう。なるほど「軽井沢ボール」か。タナベさんが青空を吸い込むように笑う。ホリちゃんが打つ。また「軽井沢ボール」だ。打つ。またまたアウトする。これは「軽井沢ボール」ではなくて、ただのアウトじゃないか。ミヤモリくんが途方に暮れた顔でわたしを見ていい、東京でも思いっきりアウトだな、とわたしが答える。ボール1個2個のアウトならまだしも、3メートルも5メートルもアウトして、それって気圧が低いからよ、軽井沢ボールよ、と清々しくいうホリちゃんにわれらは口をあんぐり開ける。そのうちホリちゃんはフェンスを越して小川を越えて雑木林にボールを打ち込んだ。雑木林で微睡んでいた番の鳥がぱっと飛び立った。ホリちゃん、さすがに今度は低気圧のせいにはできなかった。でも、ホリさん、ハチに刺されなくてよかったですねえ。フジイ邸への帰り道、タナベさんがぽそりといった。まだわかりません。わたしは答えた。9月現在、ホリちゃんは元気だ。(ちなみにテニスコート西垣は、0267−42−7963です。気分のいいオーナーの西垣さんが電話に出ます)(高野耕一)
■軽井沢物語(1) ■2005年8月17日 水曜日 13時21分5秒
日射しは強いが、木陰に入ると風が冷たく心地よかった。青空を目指して気持ちよく伸びる杉木立が、鬱蒼とした木陰を作っている。杉の木の足元には緑色の生き生きとした苔の絨毯が敷かれている。風が動くたびに木漏れ日が揺れ、苔の絨毯の上にのたうつ蛇のような縞模様を作っている。国道18号線とプリンス通りの交差点近く、成沢の杉林の中にフジイ邸はある。昨年まであった成沢の交差点脇の軽井沢乗馬倶楽部が今年はなくなり、空き地になっている。この辺りの住所を南平台と名付けたのはフジイ氏の父だと聞いた。当時、三木総理と親交があっての命名だという。東京より蝉の声が少ないのは標高が高いためだろう。杉林の所々にブナやナラの雑木の集団があり、辺りにはまだ空き地が多く残っている。空き地には石垣が組まれている。どの石垣も苔むしていて、組まれた石と石の間からシダ科の雑草たちがうつむきながら顔をのぞかせている。空き地は、緑の芝生が敷き詰められているものがあれば、自然のままに放置されたものもある。いずれも別荘予定地だった。だが、そこに建物が建てられる気配はなく、黄色や淡いピンク色の小さな花が涼風に揺れているだけだ。芝生は陽光を浴びてきらきらと輝いている。細い小川にせり出す堤の雑木にからみついた赤いカラスウリの実を鳥がつついている。さほど広くない林道が邸の前を走っていて、夕立の後には所々に水たまりができた。昼間でも仄暗い林道は、人も車もほとんど通ることがなかった。ときどき地元の燃料屋の軽四輪が上下に揺れながら走るのを見るくらいだった。近所の別荘に出入りする車や人と出会うこともなかった。林道の入り口には手打ち蕎麦の店があった。杉木立をすかして目を凝らすと遠くに里山を従えた浅間山が、威風堂々と構えている。その毅然とした姿に、都会の手垢で汚れた心が洗われ思いだった。軽井沢の駅からフジイ邸までは歩いて30分くらいだろうか。その間にはプリンスホテルがあり、プリンスホテルのゴルフ場があった。駅とプリンスホテルの間に広大なショッピングモールがあって、週末には渋谷の駅前のように客でごった返した。カミさんと風の吹くままにプリンス通りを駅に向かってぷらぷら歩くと、雑木林の切れ目切れ目に童話に出てくるようなかわいいペンションがあり、立派な門構えの農家が目に映った。田舎風の蕎麦屋があった。蕎麦屋の前にはのぼりが立てられていた。のぼりが風に揺れていた。陽を浴びるパターゴルフ場には、老夫婦の姿があった。ログハウスの別荘販売の不動産屋があり、緑に囲まれたカフェテラスがあった。瀟洒なホテルのレストランでもあるビートルズ・カフェは明るい日射しの差し込む大きなガラス窓がプリンス通りに面している。今年、フジイ邸には楽しい仲間が集まった。タナベさんご夫婦、近くに別荘を持つホリさんご夫婦、ミヤモリさんご夫婦、ムネカタさんご夫婦、クシビキさん、フジイ家の愛娘マヤ嬢。ビートルズ・カフェの朝食セットを食べながらカミさんと軽井沢の空を見上げた。いい夏がそこにあった。(高野耕一) 
■清原は二千を夢みたか。 ■2005年8月9日 火曜日 14時31分56秒
私の周りには異人が多い。愛すべき異人である。偉人はそれほど多くはない。類は友を呼ぶというから、これは仕方のないことである。異人と偉人。声に出せば同じ響きをもっているが、意味はまるで違う。辞書的にいえば、異人は異国の人、外国人のことであるが、ここでは異人を他とはちょっと違う人、常識から少しはずれた人という使い方をさせて頂く。偉人とは、偉大な人のことであり、偉大なことを成し遂げた人ということで、これは辞書の通りである。偉大といえば、時計美術宝飾新聞が2000号発刊という偉大なる快挙を遂げた。創業者の偉大さを改めて目の当たりにする思いだ。偉人である。と同時に、継続は力だ。継続に心血を注ぐ現社長にも拍手である。2000号が3000号を目指す道程で、現社長もまた偉人になってゆくのである。いや、おれはすでに偉人だと現社長は叫ぶだろうが、まだ異人でいいのではないですか。ということで、今回はこの2000という数字にスポットをあててみる。カラスの行水、早風呂の私は、湯船に浸かって200まで数えるのがやっとだから2000という数字なんか生まれてから数えたことがない。2000円札だってほとんど見たことがない。わが妻がときどきワーイワーイなどといい、ひらひらと2000円札を見せびらかすぐらいしか縁がないのだ。とにかく2000はもの凄い数字であり、天文学的数字とさえ思える私である。もっとも風呂で2000まで数えていたらのぼせてひっくり返
るのがオチだ。スープを作るんじゃないんだから。私は鰹節じゃないんだから。そして、ふと思う。この2000という数字は、読売ジャイアンツ清原選手には夢の数字であったことを。史上31人目の2000本安打という偉業を達成した清原選手に改めて拍手を送りたい。続いてヤクルト古田選手にも広島野村選手にも拍手を送る。清原選手は2000本を打つために年平均110安打を打ったのだが、われらのミスター長嶋茂雄は145本を打っていたのだからやはり天才である。これは日本プロ野球選手の中でもダントツだと聞く。大リーグのイチローはいまのペースでいくと日米合わせて3000本安打達成も夢ではないという。これは凄いですよ。日本では張本しかいない。プロ野球選手にとっても夢のまた夢である。先日、友人のIご夫妻とカラオケ三昧の時を過ごしたが、私は奥さんに、旦那を異人から偉人にしなさい、それができるのはカミさんだ、などと生意気なことをいった。まあ、心からの友だし、酒の席だし、本心からそう思うのだからいいだろうと勝手に決めた。若くして社長になったIは、愛すべき異人でありなかなかの人物だ。そして古今東西、異人が偉人になるにはカミさんの強力な援護が必要であるのだ。今回は時計美術宝飾新聞の2000号を祝しながら、二人の異人を紹介した。(高野耕一)
■下落合に帰ろう。(上) ■2005年7月27日 水曜日 12時23分29秒
線路際にだだっ広い麦畑があった。神田川を赤く染めて夕陽が沈む頃になると赤紫色の麦畑の上空を鬼ヤンマが飛び交った。柵を飛び越す山羊のように、ぼくらはヤンマを追って肩の高さほどに育った麦の穂を飛び越えながら麦畑を駆け回るのだ。小さな鉛の錘を30センチくらいの長さの糸の両端に結んで、ヤンマの進入路に投げ上げる。錘がくるくる回転して黄昏の空にふわりと浮かぶ。ヤンマには小さな錘が虫に見えるのだ。羽を翻してヤンマはそれを追う。ヤンマが錘を捕らえようとするその瞬間、くるりと糸に絡まって落ちてくるという寸法だ。このヤンマ捕獲方法をぼくはいつ誰から教わったのだろう。弟にはぼくが教えた。氷屋のマモルは兄貴のノボルから教わった。魚屋のゲン坊は、ヤンマを追いかけるのに夢中になって肥溜めに落ちた。肩までスッポリと漬かった。みんなで臭いゲン坊を引き上げたが、ズックを片方無くした。ゲン坊は泣きながら棒で肥溜めの底を探ったが、ズックは見つからなかった。お姉ちゃんに怒られた。お姉ちゃんはズックを無くしたことを怒ったのではなく、肥溜めに落ちたことを心配し、心配しすぎて怒ったのだった。ゲン坊は一週間くらい臭かった。エビガニ釣りのうまかったのは、アライくんだ。線路脇の小さな湿地帯がぼくらの猟場だった。フジイナリの池のほうには真っ赤チンと呼ばれる大きいエビガニがいた。ドジョウもいた。酒屋でスルメを買って糸に結んでエビガニを釣った。エビガニ釣りは針をつかわないから、そろそろと手元に引き上げる技術が必要だった。エビガニの食い意地だけが頼りの釣法だった。(高野耕一)
■下落合に帰ろう。(下) ■2005年7月27日 水曜日 12時22分45秒
ある時、魚屋のゲン坊が刺身の切れっ端を持ってきたので、それをスルメの替わりに餌にしたらエビガニがぞろぞろ釣れた。エビガニはスルメよりも刺身のほうが好きなことがわかった。それからはエビガニ釣りには必ずゲン坊を誘うことにした。フジイナリは小学生の足には遠かった。時々しか行かなかったが、行く時は網を持って行った。フジイナリでドジョウを採るとみんなが目の色を変えて覗きにきた。ヒーローになれた。ドジョウは網で採るのだ。エビガニよりドジョウのほうがぼくらの価値観では上だった。印刷屋のサトルはドジョウばかりを狙った。だけどなかなか採れないので、帰りはいつも手ぶらだった。サトルはそれでも諦めなかった。枇杷の木は高橋先生の家の庭にあった。みんなで枇杷を採りに行った。枇杷は柿よりも高級だった。イチジクは柿よりも高級、でも枇杷よりも下だった。枇杷はスイカと同じくらいに高級だった。ぼくが枇杷の木の枝に乗り、下で待つ仲間にもぎった実を投げた。みんなは帽子で受け取った。ガラガラと玄関の開く音がして高橋先生が庭に出てきた。みんなは蜘蛛の子を散らすように逃げ、ぼくは枝に残された。枝にしがみついて、葉に隠れるようにして息を殺した。ふと下を見ると、脱いだズックが枇杷の木の根本にぱらんぱらんと脱ぎ捨ててあった。ぼくはズックを脱いで裸足で木に登ったのだった。先生がズックを拾い上げ、揃えてこちらに向けて丁寧に置き直した。先生は上も見ずに玄関に引き返した。ぼくらは次の日、先生の家に謝りに行った。先生は枇杷をやまほどくれた。西武新宿から電車でふたつ目なのに、下落合はその頃いなかだった。今の子どもたちにはいなかが足りない。子どもたちよ、下落合に帰ろう。(高野耕一)

■生類憐れみの具体例(3)上 ■2005年7月27日 水曜日 12時12分39秒
ミナミくんに詫びなければならない。2人で盛り上がった事業計画を無に帰してしまったからだ。この事業計画は、題して「101匹ワンちゃん・モモチュウプロジェクト」といい、ミナミくんの家のトイプードルのモモちゃんとわが家のトイプードルのチュウの間で子犬を量産し、莫大な利益を上げるというものだった。トイプードルの子犬はペットショップでほぼ10万円で売られている。ということは一匹半額の5万円で引き取ってもらっても、101匹で505万円になる。ミナミ、タカノ両家で分け合っても252万5000円づつだ。悪くない。配当金については、当然雌犬のほうが取り分が多い。配当比率はわからないがミナミくんちのモモちゃんが雌犬だから、仮にミナミくんちが一匹3万円、うちが2万円としても、取り分はミナミくんちが303万円、うちが202万円になる。うん、悪くない。ここでわれらのプロジェクトの弱点に2人は気がつく。101匹の子犬を一気に産むなどとうてい期待できないことに2人は言及せずに計画を進めてきた。うちのモモにはかなりの負担になりますな。そりゃそうです。10匹20匹ならともかく、101匹は大変だ。いや、10匹20匹でも大変ですぞ。とりあえず子犬を3匹として計算してみる。納入価格15万円。取り分はモモちゃんが10万円、チュウが5万円。事業計画は少し縮小されたが、ま、いいか、それが現実に近い。まてよ、1匹はヤマカワくんちに7万円で売るっていう手もあるな。
(高野耕一)
■生類憐れみの具体例(3)下 ■2005年7月27日 水曜日 12時11分39秒
ほほう、2万円の売り上げ余剰金が出ますな。よし、一杯おごるといって説得しよう。でもヤマカワの旦那、酒では釣れんかも知れんですな。よし、狙いはカミさんだ。カミさんに絞る。カラオケつきの一杯ということで説得しよう。そうですな、それですな。ミナミくん、本当にすまん。実は、わが家のチュウがこのプロジェクトに応えることができなくなった。昨日、去勢した。なんと詫びていいのか。壮大なプロジェクトをわたしは霧散させてしまった。われらの老後の安泰を確約する計画が露と消えた。ヤマカワさんちの売り込みに成功したら、イサカさんちにも売り込む予定だった。フジイさんちも候補だった。それだけを見てもこの事業は順風満帆、必ず成功したはずだった。なぜ、去勢したのです。うん、ごめん。おれも反対したんだが息子とカミさんが決めた。うちではカミさんの声は神さまの一声でね、逆らえない規則になってる。ほう、うちと同じですな。神さまはどこも絶対ですな。去勢したい人間は何人かいるんだが。ほう、誰です。うん、例えばFさんな、まだカミさんを泣かしてると見たが。なるほどなるほど、わかりますな。いけない、今日は人間の去勢の話ではなく、われらの事業を去勢してしまった話であった。(高野耕一)
■不登校Aくんへ。(上) ■2005年6月23日 木曜日 13時13分36秒
わたしは、わたしの河に棲んでいる。わたしの河は、わたしの速度で流れ、わたしの呼吸で波打ち、わたしの心の色に輝き、わたしの気持ちの通りに澄み、わたしの気分の深さをもち、わたしに都合のいい大きさで流れる。わたしの河はわたしに棲みやすい。安堵する。心底安堵する。それは当然だ。わたしの河なのだから。わたしの心の中にある、わたしのイメージの河、わたしが創った河なのだから。わたしはその河を頑なに守り、河はわたしを強固に守る。わたしは日々、社会の海に出て泳ぐ。仕事の海を泳ぐ。色々な人と出会い、その人の河で泳いだりする。疲れたりイヤになったりすると自分の河に逃げ込む。わたしの河はいつでもわたしの心の中にあり、好きなときに逃げ込める。人はわたしの河を覗く。気に入ればわたしの河で泳ぐ。気に入らなければそっと自分の河に戻って行く。気に入る人の河は、わたしの河に似ている。流れが合う。色も合う。香りも合う。泳ぎやすい。心地よい。だから、その人とは素直に自然につき合える。少々の努力は、わたしも惜しまない。たくさんの人々の河が集まって社会の海を構成しているのだから、少々の無理や妥協や努力はしなくてはならない。社会の海が泳ぎやすいときは、わたしの体調のいいときだ。
つづく。(高野耕一)
■不登校Aくんへ。(下) ■2005年6月23日 木曜日 13時12分54秒
だれかの河を泳ぐときは、そのだれかとウマが合うときだ。みんなそれぞれ自分の河をもっている。自分だけの河を心にもっている。自分のリズム、自分の色、波、香り、澄み具合、濁り具合、深さ、澱み、早さ、大きさ。みんな自分の河を泳いでいる。河はその人の人生だ。社会の海も泳ぐ。社会の海の水に合う人は、喜々として泳ぐ。悠々と泳ぐ。いつでも自分の河に逃げ込める器用さを身につけている人もまた、余裕をもって泳ぐ。Aくん、
きみは魚だ。Hさん、きみも魚だ。わたしも魚だ。わたしは、社会の海を悠々と泳ぐこともあるが、アップアップ流されることもある。気に入らない人の気に入らない河で溺れかけることもある。仕事だから仕方ないけれど、そんなときは素早く自分の河に逃げ込むことにしている。その人をそれ以上嫌いになる前に、そっと自分の河に帰る。家庭の湖が泳ぎにくいのは困る。学校の沼が肌に合わないのは困る。親の河では泳ぐ気がしない。先生の河では息がつまる。それでは本当に困る。だが、逃げ込む自分の河の存在に気がつかない魚は哀しい。哀しみの波間をひとり漂うのはつらい。Aくん、Hさん、心に河を創ろう。悠々と泳げる自分だけの河をもとう。魂が安らぐ河に棲もう。どうしようもないときに逃げ込める自分だけの河だ。河は天国だ。命の源泉だ。いつでも逃げ込もう。元気になったら社会の海に出るもよし、気に入った人を招くの楽しい。いま、きみたちに必要なのは、キラキラと輝く自分だけの一本の流れだ。なぜなら、きみたちは魚だ。傷つきやすい銀の鱗をもつ魚だ。おわり。(高野耕一)
■『ジュンヴァンボーイ』 ■2005年6月9日 木曜日 13時44分20秒
VAN「ヴァン」の創設者であり、僕らの青春期のカリスマ的ファッションリーダーである石津謙介先生が天寿を全うされた。93才だという。数年前、石津先生と仕事をご一緒させて頂いたのは、きものの「三松」の撮影だった。先生がデザインされた男物のきものを先生自らお召しになり、モデルになられた。「間違いだらけの車選び」の徳大寺先生もご一緒にきものを召しモデルになられた。「モデルの柄じゃないし撮影するほうなら慣れているが、撮られるほうはなあ」と照れくさそうに笑いながら石津先生は、そうおっしゃった。目白の元貴族の屋敷跡と聞く広い庭だった。初夏の陽を浴びる若々しい緑に先生は目を細めた。何か話をしないか。その間に撮ってもらおう。先生の言葉に、私はカメラのフレームに入らないよう先生から1メートルほど離れて立った。先生、酒の話でもしますか。ワインはお好きですか。男の話は単純で酒か女か夢がいい。うん、ワインは好きだよ。いま、ちょっと凝ってるな。先生は世界の高級ワインを飲み尽くしてるだろうから、ロマネコンティとか銘酒に凝っているのでしょうね。いや、それがねえ、そうじゃないんだ。1,000円のワイン。これがキーワドでね。1,000円でいかにいいワインに巡りあうか。これに凝ってる。先生、達人の域ですね。それは究極を極めた人の発言です。若い人じゃあ当たり前すぎてつまらない。味を知り、舌の肥えた先生がおっしゃるから、1,000円のワインにも興味が湧きます。宮本武蔵の五輪書の空之巻を思い出します。極めて極めて行き着いた先にある空。ある所を知りてなき所を知る。行き着いたからこそわかる超現実的現実論ですね.おいおい、そんな凄いもんじゃないんだ。1,000 円も出せば十分にうまいワインがある。ただそれだけのことだ。先生、1,000 円のワインなら2・3本もって事務所に伺いますよ。5・6本にしたまえ。事務所の地図な、あとで渡すからな。その約束は果たせなかった。あの頃,青山通りが輝いていた。ヴァンといえば泣く子も黙った。飛ぶ鳥はバタバタと落ちた。ヴァンの仕事をしているコピーラーターやアートディレクターに強い嫉妬心を覚えた。わが空手部の同期生・花松忠義くんにいたっては、ヴァンに就職してしまった。双璧にジュンというファッションメーカーがあり、それらを愛する男たちは、ジュンヴァンボーイと呼ばれていた。きょうも青山通りを車で走りながら、先生を思い出す。見上げる雲のように無垢の自由を感じさせてくれた笑顔だった。石津先生、安らかに。1,000円ワイン、お送りします。(高野耕一)
■逆回転腕時計の頃 上(高野耕一) ■2005年5月20日 金曜日 14時9分42秒
むかし、逆回転腕時計を開発した。評論家の竹村健一さんと何度か仕事をごいっしょさせて頂いた頃だ。先生を「泥沼から評論する男」と勝手にキャッチフレーズをつけ、本の出版のお手伝いもした。先生はいつも「トンチンカンなほうが人間楽しくていい」といっていたが、その影響もあったのだろうか。ある日、文芸春秋のページをペラペラめくっていて、ふとひとつの記事が目に留まった。確か朝日新聞の特派員で白石さんという方の記事だ。ケープタウンの公園で散歩の途中に日時計を見たという話が掲載されていて、南半球の日時計だから北半球の日時計とは逆の目盛りが刻んであって当たり前だが、なんだか不思議な気がした、という。時計の針が逆に回転する。面白い。日時計だから、影が逆に回るのだ。笑っちゃう。これを腕時計にして腕にしたらなにやら不思議な気分になりそうだ。欲しい。とっさにそう思ったことを覚えている。当時、オリエント時計のコピーを書かせて頂いていたので宣伝部長と課長に相談すると「面白い」といってくれた。だが、売れるかどうか、商品として魅力があるかどうか、まるで読めない。どうかねえ、と聞かれても「とにかく、わたしが欲しいだけ」と正直に答えるしかなかった。とりあえずプロトタイプを創ろう。宣伝課長が工場に掛け合ってくれた。ゼンマイをひとつ加えればいいとか、いやひとつ抜くんだとか大騒ぎをしていると、工場の技術の方が笑って、電池のプラスとマイナスを逆にして入れれば針は逆に回ります。いとも簡単に答えをだした。(つづく)
■逆回転腕時計の頃 下(高野耕一) ■2005年5月20日 金曜日 14時8分58秒
仕上がったプロトタイプを腕にした。六本木の酒場でチラチラ見せる。隣の女性客が、1時を11時と間違えて終電に遅れた。青春が帰ってくると叫んだのは酒場のマスターだ。10万円で売れと現金を突きだしたのはカメラマンだ。竹村さんが「俺の話がヒントだろう。よこせ」と迫る。売れる。そう思った。実現までに1年かかった。新発売のコピーを書いた。南半球の象徴である南十字星にちなみサザンクロスと命名した。調べるといくつか面白いことが見つかった。当たり前だが南半球では、庭は北側斜面がよい。逆だから。朝顔のツルが逆に巻く。なるほど。水道の吸水口から流れる水が、北半球とは逆に渦を巻く。本当か。だったら赤道上を航行中の船の排水口から流れる水は、どっちに渦を巻く。この解答は得られなかった。新聞社にも聞いた。船会社にも電話した。コピーに書く確証は得られなかった。広告を出す前に日経新聞のパブリシティに掲載されると、なんとあっちこっちから問い合わせが殺到した。予約も殺到した。オーストラリアからも買い付けに訪れた。うれしかった。当時、時代も、そこに生きる男も女も、面白かった。余裕があった。勇気があった。すぐ香港から類似品が発売された。ジャパン・アズ・ナンバーワン。夢も健在だった。頑張ろうニッポン。(おわり)
■■三つの真実に勝る一つの嘘。(上) ■2005年5月16日 月曜日 18時27分17秒
真実は嘘の衣服をまとっている。真実は見栄の仮面を被っている。嘘の衣服をまとい見栄の仮面を被り、真実は事実という人間が理解しやすい姿となってわれらの前に現れる。真実が素っ裸で街を闊歩することはまずない。真実が嘘の衣服をまとうのには理由がある。真実は傷つきやすいからだ。恥ずかしがり屋で弱く臆病だからだ。真実は裸の赤ん坊のように弱く、傷つきやすく、汚れやすい。そのことを知っているから、自らその身を守るために嘘の衣服をまとう。その上、人間は寂しく悲しい生き物だから、損得が絡むと平然と真実に嘘の衣服を着せる。見栄の仮面を被せる。われらは嘘と見栄の汚泥にまみれた上辺の事実だけを眺めているのだ。だから事実だけを見て無責任な判断をしてはならない。それは単なる事実であって、真実ではないからだ。事実がまとう嘘の衣服を脱がせ、裸にし、そこにある真実の姿をすがめ眺めつしながら初めて口を開かなければならない。事実から嘘という衣服を脱がせろ。事実から見栄という衣服を剥ぎ取れ。だが世の中、真実剥き出しでは成立しないこともまた真実。そう思う。汚い嘘、美しい嘘、悲しい嘘、虚しい嘘、建設的な嘘、嘘どもが渦となって真実を覆い隠し、世界中を駆け回っている。その嘘どもを凝視していると、ひとつひとつの嘘の顔が見えてくる。それぞれの嘘の顔、色、香り、味などが見えてくる。(高野耕一)
■■三つの真実に勝る一つの嘘。(下) ■2005年5月16日 月曜日 18時26分32秒
嘘にはブランドがあり、それぞれの特長があることがわかる。ビトンのような嘘、アルマーニのような嘘、フィラの嘘、ナイキの嘘、タッキーニの嘘、ユニクロの嘘、無印良品の嘘がある。さらに、人に人格があるように嘘にも人格がある。嘘格である。下品な嘘と上質の嘘、それが嘘格である。回りのウマの合う友人を思い浮かべてほしい。同じ嘘格の衣服を着ている友人ではあるまいか。許せる嘘、許される嘘。嘘の色、香りが同じ相手こそが、ウマが合う友人なのである。お互いの嘘が読めるから安心できる。同じブランドの嘘の衣服を着ているからセンスもわかる。嘘がわかるから真実も見えてくる。本音が見える。本音でつき合える。だから、ウマが合う。三つの真実に勝る一つの嘘というものがあると西欧の古い諺はいう。真実以上に美しい嘘があるという。その美しい嘘にすがって生きることもある。人間たかだか生きて100年。錆びず、枯れず、美しいままで100年保つ嘘なら、それは真実に勝る嘘かも知れない。あるいは1000年続く嘘なら、われらは「それこそ真実だ」と勇断せねばなるまい。本物とはダイヤモンドのごとく、その価値が変わらずに長く続くものをいうが、真実においてもまた永続は強い背骨だ。どのみち素っ裸の真実で暮らせないのなら、いつまでも錆びることのない美しい平和な嘘の衣服をまとって暮らしたい。ちなみに、男の嘘は優しい嘘が多い。(高野耕一)
■生類憐れみの具体例A(高野耕一) ■2005年4月19日 火曜日 14時12分44秒
16年間いっしょに暮らした三河犬のテツは、いま、深大寺で眠っています。テツを失った悲しみに、もう犬は絶対に飼わない、と貝殻に閉じこもっていたカミさんが、先日ふいにトイプードルを買ってきました。赤茶色のくるくるした巻き毛の小さな小さな犬です。テツは日本犬で体重20キロに達しました。大違いです。体重3キロ、身長30センチにも満たないトイプードルは名前の通り、まさにトイ、玩具、ぬいぐるみです。動いているのが不思議なくらいです。まさか電池で動いているんじゃあるまいなと、子ども立ち会いのもと腹をさぐったり背中を見たりして確認します。バカなことを、とカミさんがキッチンから白い目で見ています。案の定、電池もなくスイッチらしいものもありません。あったらカミさん、泡吹いてひっくり返るでしょう。
スターウォーズという映画に出てくるチュウバッハに似ているというので、子どもがそのままチュウバッハと命名しました。長い名前なので呼ぶたびに舌を噛み、このままでは命も危ぶまれるので、いまはみんな省略して「チュウ」と呼んでいます。当人?は、オレ、何でもいいもんね、とばかりにベランダを駆け回っています。大事にしないとカミさんに怒られるので、あっちこっち噛まれても私は笑っています。あのう、と文句をいおうとすると「なによ、血統書がないあんたが血統書つきのチュウにブツブツいうのはおかしいでしょ」と実に説得力のあることをいうのです。
先日、テニス仲間のミナミくんのうちでも犬を飼いました。ミナミくんは、まさにばりばりの日本人、性格は武士、魂はサムライ、黒澤明の映画に出てくる北町奉行所の与力のような男ですから、犬を飼うなら日本犬と誰もが思うところです。でも、トイプードルにしました。どうやら水泳の達人である奥様のご意向ではあるらしいのですが、着物姿の懐に小さなトイプードルを抱いて、ヒュウと風に吹かれる北町奉行所のミナミくんの姿もこりゃなかなかの見ものであろうと思うのです。うちの犬は雄、ミナミくんちは雌。ということは「子犬を作ってひと儲けできるな」と、ミナミくんとビール飲みのみにんまりする今日この頃ですが、その目論見が見事にはずれた、と大笑いしたのは友人のイノウエさんです。血統書の付いた犬を飼い、数十万円をかけて名犬との間に子犬を作りました。高いですねえ。いや、結構高いもんですよ。で、儲かりました?子犬一匹十万円以上ということでしたが、話だけでね、これが売れない。え、売れない?そう、で、うちは犬で溢れてる。全部飼ってるから。あらま、ミナミくん、改めて打ち合わせをせなあかんな。そうだ、クラブのヤマカワさんちに売りつける手もある。うちの犬、まだ5ヶ月、ミナミくんちの犬、まだ2ヶ月。時間はたっぷりあるから、まずヤマカワさんの説得から始めるか。 
■生類憐れみの具体例。(高野耕一) ■2005年3月18日 金曜日 10時9分20秒
土曜日の宵の口。経堂で仲間とグラスを交わしている。テニスの帰りである。馬事公苑の馬が通りすがりにお辞儀をしたというエピソードをもつ長い顔、太い眉、鋭い眼光を穏やかな笑みに包むラストサムライ、M氏が隣りでジョッキを握る。この男、話のわかる男だが、筋の通らぬことは大嫌いである。肝が据わっている。頭がいい。常識を曲げずに捕らえる判断力が光る。下ネタも言語道断たちまち無礼打ちとくる。同じ下ネタでもM氏の場合、性格的なものか下品にならない。剥き出しにならず、ストレートに溺れず、工夫とユーモアがあるから会話に奥行きがある。笑いに化粧された哲学がある。
先日もある宴の最中に下ネタ大好きで会話の九割が下ネタというF氏を捕まえて絡んだ。やい、寝るんじゃねえ、気に入らねえ、なに、指を怪我しただと、そんなの怪我のうち入らん、痛いだと、人並みなこというんじゃねえ、10年早いんだ、いいか、痛いってのはこういうことだ。突然F氏の痛がる指をつまんで振り回した。本気である。痛がるF氏、泣きながら先に帰ってしまった。
テーブルの前にはうちの細君とYさんの奥さんがいる。M氏とは犬の話をしている。ペットショップに行ってきてね。コッカスパニエル、あれがかわいかったなあ、うちの奥さんが気にいったようでね、あれになるだろうなあ。とM氏。いいじゃないの、品があるもの。とわたし。そういえばさ、小川さんちな、知子ちゃん、女優の、あのうちにコッカスパニ
エルいたんじゃないか。女優小川知子さんのお宅はわが家の数件先で、わが家とは犬友だちだ。確か、直美ちゃんちからもらったっていう犬がそうだったと思うぞ。直美ちゃん? うん、相良直美ちゃん。犬はいいよ。うちなんか犬がきてからカミさんと喧嘩しなくなっちゃった。うん、絶対いい。ところでどうなの? Yさんちは?旦那と仲良くしてる?仲がいいも悪いも口をきかないんだから。じゃ、犬だ。なあ、Mさん、犬だよなあ。そりゃあ犬だ。夫婦喧嘩は犬も食わないっていうけど。ちがう。最近の犬は食う。ちゃんと食う。よく食う。結婚して30年も経てば夫婦間も冷たくなる。当然だ。その潤滑油が犬だ。犬に限る。猫は駄目だ。気まぐれだから必要なときにいてくれない。自己中心だから、喧嘩の仲裁なんかしない。むしろ、喜んで見てる。欲しいなあ。とYさんの奥さんがいう。旦那な、Yさんな、あれで気のやさしい男よ、犬なんかきっとかわがっちゃうぞ。犬を肴に酒が進んだ。その日は生類憐れみの日となった。はたしてYさん宅では犬を飼うか。また、報告します。
■『泳ぐ宝石たち』上(高野 耕一) ■2005年3月10日 木曜日 16時46分41秒
ゆらゆらゆらとワイングラスの中で宝石が揺れている。背、腹、尾で優雅なベールが風に舞うように静かに揺れる。透けて向こう側が見えそうな薄いベールは、体に似合わぬ大きさだ。色は、ビンテージもののワインの赤。深く気品漂う色だ。息子に言わせると「こいつは金魚に見えるが金魚ではないんだ」となる。「闘魚だ。ファイティング・フィッシュだ」と言う。「おれには金魚としか見えないが」とわたしは答える。
「こいつが餌を食う瞬間を見ていないからだ。他の金魚に襲いかかる瞬間を目撃していないからだ。こいつは小さいが、水中のライオン。河の虎だ。獰猛なハンターだ」と息子。「いわれてみると、小さいけどとんでもない顔をしてるな」とわたし。「で、おまえ、こいつが他の金魚を襲う瞬間を見たのか」「見てない。聞いたことを話してるだけ」と涼しい顔。なんのこっちゃ。しかしこやつ、不思議な魚である。やっと反転できるほどの狭いワイングラスの中。水も半分。金魚草もいらぬ。お世辞も愛想もなし。なんにもなし。その留置場のように冷たい部屋で、じっと黙って暮らしている。よく見ると、ゆらゆらゆら、ひらひらひらであるが、とにかくじっと息を潜めていらっしゃる。なにかを狙っている気配。紛れもない殺気だ。(つづく)
■『泳ぐ宝石たち』下(高野 耕一) ■2005年3月10日 木曜日 16時45分57秒
この美しき宝石、華麗なる殺し屋、正式名を「ペダ」と言う。ペット屋の親父の発音が正しく、わたしの耳が正常に作用していれば「ペダ」に間違いはない。10センチに満たないほどの小さな体である。熱帯産、つまり熱帯魚だ。あまりに獰猛で、同じ水槽の中ではいっしょに暮らす魚はいない。調べると色はいろいろいるらしい。環境で色が変わると聞く。顔はアロアナに似て口をキッと結んでいる。唇の両端がグッと下がっている。威張った顔だが、見方によればかわいいとも言える。さらに調べると、同じ水槽に他の金魚を入れても平気だ、との情報を得た。ペグ同士が闘ってしまうのだ、と言う。事実、世田谷のそのペットショップでは金魚と同居している。だが、よく見るとペダの回りには他の金魚はよりつかない。結構こみ合っている水槽ながら、ペダの回りだけに妙な空間がある。ペダがベールを揺らせて移動すると他の金魚たちも移動してペダから遠ざかる。一定の距離を保っている。ペダの移動は、ペダの回りの空間を含んだスペースごとの移動となる。なるほど、ケニアのライオンとシマウマやインパラの関係、距離である。泳ぎは早くはない。察するところこいつは、待ち伏せハンティングの名手、物陰に隠れていてパッと獲物に食らいつく狩猟の達人かも知れぬ。数日前、冬の寒さに耐えきれず、水中のライオン、泳ぐ宝石「ペダ」は死んだ。(おわり)
■街が街だった頃(高野耕一) ■2005年2月22日 火曜日 16時56分43秒
渋谷に恋文横町があった頃。鯨屋は風情のある下田家風の造りで、公園通りはまだなかった。西武百貨店ももちろんなく、街の中心部から少しはずれた辺りにはピンク映画の上映館がぽつんとあった。わたしは渋谷の丘の上にある大学の学生で空手部員だった。蛮カラという言葉がまだかろうじて生きていた。道玄坂を上ると50円で天丼を食べさせる店があってよく通った。クランク状に曲がった突き当たりにはストリップ劇場があって、学割で入場できた。酒が1合25円、合成酒が15円だった。合成酒とは天然の原料を使わず科学的に作られた酒で、飲むと翌朝必ず頭痛がした。梅割焼酎が25円で、焼鳥は10円だった。井の頭線のガード脇の油じみた焼鳥屋で、焼酎2杯と焼鳥を5本食べるとちょうど100円だった。物足りない顔をしていると、居合わせた青学の女子学生が奢ってくれた。彼女たちは深窓のご令嬢に見えた。蛮カラな空手部は深窓のご令嬢に人気があった。優越感あるいは母性本能をくすぐるのだろうか。
渡哲也さんは、まだ学生で青学の空手部だった。ピー子姉さんはゲイだ。ハリウッドスターのトニー・カーチスに似た彫りの深い顔をしていた。瀬戸内の高校のとき、機関車通学で、小一時間かかるのだが近隣の女子校生たちが彼目当てに同じ列車に乗り込んできたという。片っ端から頂いたわよ、トイレで毎朝、もう食べ放題よ、100人?そんなもんじゃないわ。そういってピー子姉さんは口元を手で隠し、目を艶っぽく流して笑った。
やがてそれが問題となり石で追われるように故郷を捨てた。東京オリンピックで外人相手に荒稼ぎをし、花を飾って引退した。ある大学の相撲部OBだけで経営されているゲイバーに連れていってくれたのもピー子姉さんだった。その店で三島由紀夫さんを紹介してくれた。三島さんが肩を叩いて何かいった。酔っていてよく聞き取れなかった。赤いベストを着たお姉さん?が、ちゃんと国を守れといったのよ、と教えてくれた。オスッと答えた。
安藤組に履歴書を持参して入社した空手部の先輩がいた。渋谷のやくざだ。愚連隊ともいわれていた。わたしの現役のときに銃弾に倒れた。最後の大物だといわれた。学校には内緒で葬儀に参列した。応援団も参列した。雨が降っていた。蒲田の質素な川辺の家だったと思う。先輩のお母さんが泣いていたのが忘れられない。ピー子姉さんはゲイだけが住むマンションを造って、そこの賄いをやっていると聞いた。ゲイ仲間が資金を出し合ったのだ。ゲイはゲイらしく、やくざはやくざらしく、学生は学生らしく見えたあの頃。青春は青春らしく、おとなはおとならしく、渋谷は渋谷らしかった。「らしさ」とは本質があって、それがシンプルに見えることだろう。韓国ドラマを見るとこの頃を思い出すのはなぜだろう。
■あの頃の男には顔があった。【上】(高野 耕一) ■2005年2月17日 木曜日 15時8分34秒
昔。アメリカ第35代大統領ジョン・F・ケネディが暗殺され、翌年には東海道新幹線が開通し、東京オリンピックが開催された頃。新宿に一軒のスーパーマーケットがあった。それは日本で初めてのスーパーマーケットだった。たいそう流行っていて、わたしはまだ学生で、そこでアルバイトをしていた。
経営者は、尾津喜之助さんとおっしゃる香具師の大親分だ。ときどきふらりと店に顔を見せていた。長身で鋭い眼光。いつも黒い着流しを着て飄々と歩いていた。顔が合い、挨拶をすると袖から大きな財布を出し、おう、と一万円札を差し出した。しわのまったくないピン札だ。その頃、一ヶ月働いて2万円のバイト代だった。うれしかった。強くなれよ。親分はそう言った。
初めてアルバイトに行ったとき、喜之助さんは刑務所に投獄されていた。理由は、人づてだが、ある新聞社が理不尽な記事を載せたということで喜之助さんが怒り、輪転機に砂をぶっかけて2・3日使えなくしたからだと聞いた。刑期を終え出獄した喜之助さんを社員全員で祝った。草加の別邸だった。来てくれないか。空手の演武を見せてやって欲しい。父の友人の喜之助さんの義弟にあたる安二郎さんに頼まれた。安二郎さんがアルバイトの紹介者だったからだけではなく、とても男気のあるひとだったことと、なにより大親分と会えることに興味があって引き受けた。学校や部にばれたらそれこそ大変なことになるだろうが、もう時効だ。(つづく)
■あの頃の男には顔があった。【下】(高野 耕一) ■2005年2月17日 木曜日 15時7分41秒
草加の別邸には広い庭があり、熊がいて、孔雀は放し飼いにされていた。池には屋形船が浮いていた。たくさんの草加の街のひとたちが招待されていて、立ち並んだ屋台でラーメンやおでんを食べていた。屋台はすべて親分の傘下のもので無料だった。子どもも大勢いて、喜之助さんは子どもたちのうれしそうな姿をニコニコと眺めていた。祝いに駆けつけた全国の親分衆や喜之助さん、安二郎さん、そして一家のひとたちや街のひとたちの前で板を割り、瓦を割り、空手の型を演じた。日本一になれよ。そう言われた。そのとき初めて喜之助さんから1万円をもらった。むき出しのピン札だった。店のガム売場の浅川さんは、片腕がなかった。サンドイッチマンの両目の潰れた男は、ウエルター級のボクサーで、
チャンピオン笹崎を倒した唯一の男、タイガー小池こと小池実勝さんだ。わたしの上腕筋に触れながら、小池さんはいい筋肉だと言った。ぼろぼろの新聞の切り抜きを尻のポケットから出して、6ラウンドよ、6ラウンド、おれのな、右フックが当たってよ。見ると笹崎が倒れていた。小池さんはボクシングのことしか覚えていなかった。その試合のことしか覚えていなかった。よれよれの垢じみたワイシャツの小池さんがくると、浅川さんは内緒でガムやパンを渡した。もちろん喜之助さんが知ってもなにも言わないだろう。親分は亡くなり、もう尾津組の名前を聞かない。安二郎さん、浅川さん、小池さんの消息も知らない。だが、顔は忘れない。男の顔だ。全力で時代を生きた男たちの顔は忘れることはない。そしていま、わたしは自分に顔がないことを反省するのだ。(おわり)
■結果論の裏側。(高野耕一) ■2005年2月17日 木曜日 11時23分34秒
強い者が勝つのではなく、勝った者が強いのである。春夏の甲子園の高校野球で耳にする言葉だ。
その通り。と叫びつつ、企業もそうだし世の中みんなそうよ、という説に、いや待てよ、となにかが躊躇させ自信がない。その結果論的発想の裏に葬られる、汗と血にまみれた球児たちの努力はどうする。結果はまだ見えなくても毎日会議会議で努力するお父さんたちの命がけの時間はどうする。プロセスだ。プロセスこそ大事だ、とおっしゃる方々も当然いて、もうああでもないこうでもないと百人百葉。百花繚乱。てんでんバラバラ。収集がつかない。でも、甲子園じゃ昔っから「勝った者が強い」といわれているからなあ、とK大学野球部出身の友人が頑張る。だが、極寒のグランドで、猛暑の球場で、黙々と涙の猛練習を重ねる球児たちにむかって、それはムダよ、なんてとうていわたしにはいえない。いやいやプロセスこそが一番、などとあっという間に寝返ってしまう。それだけ甲子園では運にも左右されるってことさ。と、友人は結論づける。
営業だってそうだ。努力してます。おおそうかそうか、だけではダメ。数字が欲しいのよ、数字が、と雄叫びを上げる上司は間違っていない。遊んでいたってきっちり売り上げを上げる社員は正しい。結果よ、結果。そこで、ふと思う。
遊んでいたって、という言葉にひっかかる。遊んでいて成功する。遊んでいて優勝する。どうもゲせない。遊んでいて成功する御仁に対する嫉妬か。それもある。それが大きい。
でも、高校球児は遊んで勝つことはない。汗も血も絞れるだけ絞っている。そうなんだ。結果往来とは、寝食を忘れ、夢中でプロセスを築き上げた果ての言葉なのだ。結果往来なんてぶん殴られても口にしない努力の裏付けのある結果往来だけが結果往来なんだ。結果しか信用しない血も涙もないヤツは、結果往来と口が裂けてもいってはいけない。努力をバカにしてはいけない。
松井さんやイチローさんのことを誰も結果往来とはいわない。あの天下無敵の新庄さんだって結果往来じゃない。
やっぱり結果往来とは、一切の努力をしないものにこそふさわしい。努力してるヤツの横を遊びながら追い抜いていく。努力なんか大嫌い。才能に勝る努力なし。天才。
そうなんです。若い社員がいう。努力なんて才能のない凡人のすること。もっというと、努力しなきゃ成功しないんなら、成功しなくたっていいんです。勝たなくたっていいんです。
恋愛だってそうです。待ち合わせの場所に汗水鼻水たらして辿り着いても、遅刻よ、とプンとそっぽをむかれておしまいですからね。生まれついてのイケメンにはかなわないですから。
おい、それって寂しくないか。わたしの教育が悪かった。
甲子園だって、結果の裏側を教えなくてはダメだ。
■【優秀賞】《もし1時間半待っていなければ…》(京都府・松岡茂長・52歳) ■2005年2月17日 木曜日 11時19分15秒
30年前の初冬、大学4年生だった私は荻窪駅北口に立っていた。彼女が来ない―。デートを約束した時間から1時問半が過ぎていた。あいにく指定した喫茶店が休みで、外で立って待つしかなかった。
「もう帰ろう、もう5分だけ待って帰ろう」と、何度も時計を見ながら冷えた路上で寒さに耐えていた。背中を丸めながら彼女が現れる方向をじっと見つめていると、「来た、ついに来た!」ビルの角からようやく姿を現した彼女は、何と衆目を一身に集める鮮やかな着物姿だった。スラリとした長身を、白地に大柄の赤い花をあしらった付け下げで包んだ姿は、荻窪駅の北口周辺を行き交う人たちの目を引いた。誰もが振り返った。息を呑むほど美しかった。今からこの人とデートできるのかと思うと、体中の血がたぎった。1時間半待たされた腹立ちは完全に消えていた。理屈抜きに「結婚したい」と思った。若者の単純な直感だった。しかし彼女には、大きな欠点があった。時間の観念に乏しいことだ。「何時に待ち合わせだから、何時から支度をしなければ」と言う時間の逆算ができないのだ。出身は東北。広大な平野で育ったせいか、時間には大らかだった。それを除けば欠点はない。逆算不能症”に目をつぶって、結婚した。爾来27年が過ぎた。
いまだに妻は時間の逆算ができない。夫としては日常生活に苦労が絶えない。勤めから帰ってきても、何時に夕食にありつけるか、それすら分からない。手先は器用だし一生懸命料理を作るが、完成時間の見当がつかないのだ。世問からは「美しい奥さんをもって幸せね」などとお世辞を言われる。理想的な夫婦だと思われている。逆算不能症”だということは極秘にしてあるから。だが、いい。生涯妻には待たされっぱなしでも、私はご満悦だ。こせこせ生きるより、ゆったりと大らかに彼女のペースに合わせて暮らしてきた。それで出世が遅れようがチャンスを逃そうが、かまいやしない。そんなことは、ちっぽけなことだ。人生は大車輸が回るごとく歩めばよい。回る速度は遅くても、一回転で進む距離は大きい。
30年前のあのとき、1時間半待たずに帰っていたら、友だちがうらやむ気長で「ゆとり屋」の今の私はなかった。妻に感謝だ。それにしても、当時の1時間半は辛く長かった。大車輸の良さが分からない青年が、よくぞ辛抱して待ったものだ。待たされた辛さを彼女に分かってもらいたくて、婚約指輸に添えた贈り物は、大きな文字盤のペンダント時計だった。それを身につけてくれたのは、プレゼントしてせいぜい2,3ヶ月だけだった。別にいまさら恨みごとを言うわけではないが、鳴呼……。http://www.hotta-group.co.jp/lexia/
■《「一年後新聞」発刊》(高野耕一)(上) ■2005年2月1日 火曜日 13時36分47秒
それは突然始まった。広告は夢を売っていたよな。友がいい、そりゃそうだ、いまだってそうだ、と私が答えた。グビッと一番絞りの生を2人は飲んだ。大きく息をはいた。ホントかいな。そんな美しきクライアントがいまどきいるか。と返され、ムッと押し黙った。確かに。夢を売るどころか、この国には夢がない。夢じゃ食えないからな。友がいい、私は頷きつつ、寂寞としてくる心を酒で復興させようと試みるのだ。四谷駅前の酒場だ。酒場には夢がある。2人はそう思っている。とくにこの立ち飲み酒場は気が利いている。うまい。安い。大きな酒問屋がやっているのだから、当たり前っちゃあ当たり前なのだが、近頃この当たり前がなくなってきているからむしろ新鮮に思える。過剰なサービスはなし。むしろぎこちない。それがいい。酒問屋の社員がたまたま酒場に配属されたのであろうが、それが初々しい。酒の種類も多い。それも当たり前。つまみも旨い。店長である開発部長が酒好きで酒通ときている。それならつまみが旨いのも当たり前。で、この酒場はよく利用させてもらっている。よし。私は腹を決めていった。おれ、一年後の新聞をつくる。なんだそれは。友が日本海産の貝柱をつまみながら、またばかなことを、という目つきで見る。視線を跳ね返す。それはな、夢と希望に溢れた新聞だ。(つづく)
■《「一年後新聞」発刊》(高野耕一)(下) ■2005年2月1日 火曜日 13時36分3秒
名付けて「一年後新聞」だ。みんなでつくる。インタ−ネット新聞だ。ほう、ネットなあ。すぐ電話して「itinengo.net」を、おれはとる。ほんとにやるのか。この世界、おれが救わなくてだれが救う。みんなで夢みてやる。ということで、11月1日に「一年後新聞」は創刊された。ネットについては、本紙藤井社長にアドバイスを頂いた。「一年後新聞」へのアクセスは、いま友人と知り合いがほとんどだが、なぜか小学生や中学生が覗いてくれる。読者が記者で、記者が読者、つまり一年後の自分でもなんでもいいぞ、といっているのでアクセスが増え、記者も増えはじめた。一年後のサッカー、一年後のプロ野球、一年後の経済等々。普通の新聞と違い、いいたいことをいってくる。普遍と個の比重からみれば、圧倒的に個が多い。それがネットのいいところではあるが、勝手が過ぎてもいけないので、掲載しないものも当然ある。これで夢が育まれるかどうか、それはわからないが、やらないよりいいか。と、友と酒場でグラスを傾ける。よろしければ「itinengo.net」にアクセスしてみてください。(おわり)
■人を殺す言葉(高野耕一) ■2005年2月1日 火曜日 13時21分40秒
人はその一生においてすべてを出し切ることなんか、とてもできやしない。ぼくらの年代が精神形成の上で圧倒的な影響を受けたヒーローでさえそうであった。ただ明るいだけのラスベガスのネオンのように生きたエルビスも、心のガレージに貯めこんだ溢れるばかりの闇をぼくらに見せず、闇は増々深くなった。ド近眼のジェームス・ディーンは、自己の憂うつをナチュラルに表現しようとし、人々がその憂うつに賞賛を送ると同時に、最も大切にしていたナチュラルを失うこととなった。われらが兄貴、石原裕次郎も、礼儀作法をしっかり叩き込まれた坊っちゃんが、理不尽な社会に噛みつく不良であり続けることができなかった。後年のテレビドラマでは体制に属する警察を舞台にし、裕次郎は裕次郎を捨てた。人は、自分の心を殺して生きるか、相手の心を殺すかするものである。心は言葉に乗って相手の心に入る。その両方を生かすオトナは少ない。両方を生かすには2つの条件が必要だ。知性とやさしさである。コピーライターという因果な渡世を送ると、言葉を通して相手の心がわかる。コピーライターは耳で書け、というくらい相手の言葉に潜む心を読むようになる。企業の心や商品の心を代弁するのであるから、心が読めなければ職業にはできない。会議での発言でも、自己の地位を守るだけの発言はすぐわかる。愚かも知性も読める。自己中心も相手へのやさしさも読める。会議の目的に真っすぐに向う若い意見に感動もする。ただ頑固に自分を正当化しようと圧力をかける重役氏の浅はかさにガク然とする。いつか「人を殺す言葉・人を活かす言葉」を本にまとめてみたいと思うが、会社の同僚、上司、部下、友人、そして大事な家族、それらの言葉は、時に勇気を与え、時に致命的とも思える重傷を心に与える。人は、自分に向って放たれた言葉により、勇気あるいは重傷を受ける。言葉はエネルギーにもなり、弾丸にもなる。世の中、キレイ事だけでは通用しないことは重々承知である。だが、ただ反対していれば、ただ批判していれば人気を得るようなテレビ司会者や政党の薄っぺらさから何がうまれるだろう。日本人は会議ベタであるが、それは言葉ベタであり、心の表現が下手なのだ。とくに会社のトップ・上司のみなさん、部下には知性とやさしさのある、人を生かす言葉を。そして世の奥方諸君、旦那は今苦しい社会で戦っておられるのだから、旦那を生かす言葉を。人生たかだか長生きして100年じゃないですか。すべてを出し切るなんてできやしない。だから、日々勇気と夢のあるお言葉を。それでいいじゃないですか。
■『こちら愛知県警ですが。』(高野耕一) ■2005年2月1日 火曜日 13時17分13秒
ルルルルルル。電話がなる。暑い日の午後。広告代理店の部長T氏は、休日の午睡を電話によって破られ、ボーッとした頭で受話器を取る。(こちら愛知県警ですが。)受話器が言う。愛知県警か。県警ねぇ。ナニッ警察か。頭のボーッが一瞬にして吹っ飛んだ。警察が何の用だ。オレが何をした。いや、してないしてない、オレはしてない。
(Tさんですね。愛知県警交通安全課です。)あ、名前を知ってる。は、はいっ。(実は息子さんが交通事故を起しました。)え、あ、息子か。息子、息子、そうだ名古屋支社勤務だ。
息子が事故、やつは営業だ、車に乗っている。死んだのか。怪我か。重傷か。(息子さんは無事です。)警察が言う。あ、無事か。よかった。(ただ衝突した車に乗っていた相手の方が怪我をして病院に運ばれまして。)え、そうか、事故の相手か。受話器の向こうからファンファンファンとパトカーか救急車の音。(その方は女性の方で、ま、命には別状なさそうですが。)よかった。(いま、こちらに息子さんもいらっしゃいますし、相手の女性のご主人もいらっしゃいます。息子さん、取り乱していらっしゃるので、お宅の電話番号を聞くのがやっとでしてね。携帯電話も事故の際に壊れちゃったと言うし。)
息子を、息子を出してください。T氏は叫ぶ。(話が出来るかどうか、ちょっとお待ちください。ほら、出られるか。どうだ。)泣き声。泣いている。嗚咽で喋れない。おい、M男、M男。警察が代る。(M男さん、先刻からずっと泣きどおしでね。事故相手の女性のご主人に代ります。)え、事故相手の。(モシモシ。)ご主人の声。この度は息子がとんでもないことを、申し訳ありません。もう詫びるしかないT氏。(家内は意識不明です。とにかく息子さんが信号無視で家内の車のドテッ腹に突っ込んだんですからね。)いや、申し訳ありまん。T氏の汗は、とっくに冷や汗に変っている。女房も出かけてる、こんな時に。(あ、警察ですが、これは刑事事件にしませんから。民事でいいでしょう。警察は介入しませんから、保険会社の方と話してください。)
(モシモシ。A保険のアジャスターをやっているBと申します。息子さんが乗ってらした車はレンタカーで、対人500万円加入しています。)また、ファンファンファンとパトカーか救急車の音。(いま、示談の話をしていますので、そこにメモ用紙ありますか。)メモ用紙、メモ用紙、はいありました。(口座番号を言いますから書き取ってください。いいですか。保険金が出ますが、それは入院費にするとして、とりあえずの示談金としてえ〜と今回は50万円をお振り込み下さい。)50万円か。よかった。その程度で済むのか。まてよ。そこでふとT部長は思った。すみません、こちらからもう一度電話しますから、そちらの電話番号を。(え、こっちの、では私の携帯番号を言います。)携帯番号?おかしい。電話が切れた。T部長は一度切った電話を取り上げる。愛知県警の電話番号を調べ、電話をする。(交通安全課?うちにはありませんけど)いやはや最近のサギは実に巧妙です。効果音は使うし、泣き男なんか最高の演技だ。皆様、くれぐれもご注意を、とT部長。そうだ、愛知県警にしては名古屋ナマリがなかったなあ。これ、ほぼ実話です。
■『命より健康』と妻が言い。(高野耕一) ■2005年1月31日 月曜日 17時10分43秒
大変なことが起こりました。いえ、笑い事じゃありません。覚えてますかね、すでに芸能界を引退してしまった一世を風靡した美人タレントと、お笑い芸人の恋とその破局。私、自慢じゃありませんが、ミーハーであります。ま、当時の彼女の人気は凄かった。美人で極めて才媛ときた。チャンネルをヒネると(このヒネるの言い方がそもそも古いなあ)どの局にも東洋系の切れ長の瞳が、男たちに熱い視線を放ってくる。その彼女、こともあろうにお笑い芸人と恋をした。お笑い芸人を決してコケにしているわけではない。嫉妬しているのです。早い話が。
だから破局を知った時は雀のように小躍りしました。問題は、その破局の原因です。彼女の怖るべき潔ぺき症。これです。なにしろ白手袋をして冷蔵庫を開けるらしい。その白手袋は当然冷蔵庫専用のもの。となると気になるのは、白手袋が彼女の家に何種類あるのか。トイレ専用、テレビ専用、キッチン専用、ガーデニング専用、クルマ専用、自転車専用・・・。いやいや、それより恋をしたお笑い芸人と手を握る時もデート専用手袋か。キスをする時は、こりゃ手袋じゃない。防毒マスクか。ベッドインはどうなる?いやはや破局も仕方なしだろう。この怖るべき、そして必要以上の潔ぺき症。なにやら小泉内閣に似てはいまいか。
改革ね、改革。潔ぺきね、潔ぺき第一ね。これである。改革あるいは潔ぺきさえ実行すれば、中小企業の2万や3万潰れたってスリ傷カスリ傷である。つまり、潔ぺき、健康こそが命より大事、健康なら命なんかどうでもいい。そんな馬鹿な発想はあり得ないとコリクツコイズミ大将はおっしゃるだろうが、やってることは白手袋で冷蔵庫を開けたり防毒マスクでキスしようと同じ事。年間3万人を超えた自殺者なんて眼中になく、大企業を救えば中小企業は救われるという何とも江戸時代的発想、明治大正時代にはアクビの出そうな発想で、竹中白手袋なんかに、ま、実験実験とやっている。政治のことはアホらしいので放っておきたいのだが、選挙が頭にあるものだからついつい筆がすべってしまう。ところで冒頭の大変な事が起ったの、大変である。何を隠そう私の妻は、かの芸能人や小泉大将と同様、「白手袋人間」なのであり、命より潔ぺき、命より健康、なのである。それが先日「カンピロリバクター」とかいう(これ正確かどうかわかりませんが)南方の動物が持つ菌にやられ、死ぬか生きるかの目に会いました。いやいや、無菌に近い潔ぺきは怖いですね。人間も、国も。潔ぺきも大事だけど、大事なのは命だもんね、やっぱり。
■《結果論の裏側》(高野耕一) ■2005年1月25日 火曜日 17時33分26秒
強い者が勝つのではなく、勝った者が強いのである。春夏の甲子園の高校野球で耳にする言葉だ。その通り。と叫びつつ、企業もそうだし世の中みんなそうよ、という説に、いや待てよ、となにかが躊躇させ自信がない。その結果論的発想の裏に葬られる、汗と血にまみれた球児たちの努力はどうする。結果はまだ見えなくても毎日会議会議で努力するお父さんたちの命がけの時間はどうする。プロセスだ。プロセスこそ大事だ、とおっしゃる方々も当然いて、もうああでもないこうでもないと百人百葉。百花繚乱。てんでんバラバラ。収集がつかない。でも、甲子園じゃ昔っから「勝った者が強い」といわれているからなあ、とK大学野球部出身の友人が頑張る。だが、極寒のグランドで、猛暑の球場で、黙々と涙の猛練習を重ねる球児たちにむかって、それはムダよ、なんてとうていわたしにはいえない。いやいやプロセスこそが一番、などとあっという間に寝返ってしまう。それだけ甲子園では運にも左右されるってことさ。と、友人は結論づける。営業だってそうだ。努力してます。おおそうかそうか、だけではダメ。数字が欲しいのよ、数字が、と雄叫びを上げる上司は間違っていない。遊んでいたってきっちり売り上げを上げる社員は正しい。結果よ、結果。そこで、ふと思う。遊んでいたって、という言葉にひっかかる。遊んでいて成功する。遊んでいて優勝する。どうもゲせない。遊んでいて成功する御仁に対する嫉妬か。それもある。それが大きい。でも、高校球児は遊んで勝つことはない。汗も血も絞れるだけ絞っている。そうなんだ。結果往来とは、寝食を忘れ、夢中でプロセスを築き上げた果ての言葉なのだ。結果往来なんてぶん殴られても口にしない努力の裏付けのある結果往来だけが結果往来なんだ。結果しか信用しない血も涙もないヤツは、結果往来と口が裂けてもいってはいけない。努力をバカにしてはいけない。松井さんやイチローさんのことを誰も結果往来とはいわない。あの天下無敵の新庄さんだって結果往来じゃない。やっぱり結果往来とは、一切の努力をしないものにこそふさわしい。努力してるヤツの横を遊びながら追い抜いていく。努力なんか大嫌い。才能に勝る努力なし。天才。そうなんです。若い社員がいう。努力なんて才能のない凡人のすること。もっというと、努力しなきゃ成功しないんなら、成功しなくたっていいんです。勝たなくたっていいんです。恋愛だってそうです。待ち合わせの場所に汗水鼻水たらして辿り着いても、遅刻よ、とプンとそっぽをむかれておしまいですからね。生まれついてのイケメンにはかなわないですから。おい、それって寂しくないか。わたしの教育が悪かった。甲子園だって、結果の裏側を教えなくてはダメだ。
■『広告がヘタねえ』(高野耕一) ■2005年1月24日 月曜日 14時17分21秒
広告がうまい企業が減った。うまい広告は商品を売る。いまは不景気で商品が売れない。だから、広告費を減らす。理屈である。
だが、とコピーライターであるわたしはいう。広告は商品を売るためのものではなかったか。予算を縮小するのは致し方ないとしても、広告がヘタになることはないではないか。それには理由があるのです。ものが売れなくなって宣伝部にしわ寄せがきた。宣伝部がないところは宣伝担当者ですね。売れない責任は営業部にくるのだから、ほら宣伝部はどいておれ、となった。いうことがいちいちごもっともである。
その、ごもっともが落とし穴だった。営業部が営業のプロであるように、宣伝部は宣伝のプロなのである。不思議なことに、宣伝はだれにでもできる、とお思いのかたがいらっしゃる。そこで、例えば新入社員の意見なんかを聞いてみる。悪いことではない。ターゲットが若い人だから、若い人に意見を聞く。
いいです。ところが、意見を鵜のみにすることがある。誰でも、清原のあの打ち方じゃだめだとか、松坂のあの時のあの内角攻めはいかんとか、そりゃいいます。いいますが、実際に、じゃ、あんたやって、といわれたらギブアップです。当然だ。でも、広告はやってしまう。若い社員に落ち度はない。もし、運がよく、その社員のセンスが上等なら成功することもある。社長が自ら広告を見る場合も同じで、誰も社長に逆らえない。社長にセンスがあればうまくいくこともある。
プロというのは100打席のうち70本から80本はヒットを打つ。広告に失敗がない。なぜなら、広告づくりのプロとしての基本を知っているからだ。コンセプトという言葉もだいぶ一般用語になってきたが、その正確な意味も重要な役割もわからないまま使ったり、だからコンセプトなんかつくることもできない。
広告に限らず、映画でも小説でも絵画でも「WHAT」と「HOW」があって、「何をいうか」と「どういうか」が基本中の基本だが、そんなことは知ったこっちゃない。広告は、コピーひとつ、デザインひとつで大きく売り上げに反映される。そして、うまい広告をつくる企業、つまり広告の重要性を知る企業はいい企業です。社長、もう多数決の広告は止めましょう。プロに頼みましょう。例えば、わたしであるとか。プロの力を一番知っているのは、おそらく社長自身だと思います。
■《大賞》□結婚祝い□(園部貴之様、四十歳、埼玉県) ■2005年1月17日 月曜日 16時39分36秒
「お前も所帯を持つのだから、もう少し身なりに気をつけろ」結婚式の当日、先に式場へ向かう事になっていた私の身支度を見て、父はそう言うと、箪笥の一番上の引出しから小箱を取り出した。「これをやる、持って行け」有無を言わさぬいつもの態度で、父は私に小箱から取り出したロレックスの腕時計を押しつけると、背を向けて新聞を広げた。
頑固者の父は公務員であった。子供の頃は、周囲が農家か商店の子供ばかりで、公務員という父親の職業は、少し誇らしかった。しかし、物心がついた頃には公務員という存在が「小役人的」な安定感や事なかれ主義の代名詞として使われている事に、理由も無く恥ずかしく感じたりするようになっていた。
中学生になった時、父から初めて腕時計を贈られた。初めての電車通学には必需品で、ひどく嬉しかったのを覚えている。だが、その時計を身につけていた頃は、始終父と衝突していた。自我に目覚めたばかりの中学生にとって、父の存在はうるさいだけでハンカチは二枚持て、時計はいつも三分進めておけ、などという小言も小役人の処世術そのものでうんざりしていたものだった。
次の時計を手にしたのは、大学に入学した時で、やはり父からの入学祝いであった。シンプルな文字盤と無骨な作りが妙に気に入っていて、学生向けの安っぽい時計だったが、結婚式の当日まで愛用していたものだ。式場へ向かう車中で、私は父のくれたロレックスを左手首にはめた。この時計は、父が勤続三十年の記念に、自ら買ったものだが、それまで本人が身につけている所を見た覚えが無かった。案外、入手した時から私に譲る気だったのかもしれない。私は緒婚する時にまで、父から時計を贈られたのが少し照れくさく、苦笑いを浮かべた。
やがて式も披露宴も無事終わり、私と妻は、学生時代の友人たちが催してくれた新宿での二次会に出席し、楽しいひと時を過ごした。私たちは愛読していた庄司薫の「さよなら怪傑黒頭巾」にちなみ、新婚旅行先を箱根・熱海三泊四日と決め、友人たちの万歳三唱の中をロマンスカーで出発することにしていた。ところが、荷物の受け渡しに手間取った為、駅についたのは出発間際になってしまった。いくら何でも、列車に乗り遅れては酒落にならない。私たちは慌てて連絡通路を走った。―まずい、発車時間だ。ホームヘの階段を駆け上がる寸前に見たロレックスは、無情にも発車時聞を指していた。ところが、ホームヘ駆け上がった私たちを迎えたのは発車のベルではなく、三十人以上の友人たちの歓声であった。ホームの時計は、発車三分前を指していた。父が贈ってくれた結婚祝いの三分間に、私たちは友人たちの万歳三唱と、クラッカーの炸裂音と、車内の人々の暖かい爆笑に包まれていたのだった。http://www.hotta-group.co.jp/lexia/
■【優秀賞】《「チクタク」が伝えること》上(千葉県・大橋友和様・30歳)  ■2005年1月12日 水曜日 16時58分46秒
僕の持っているいくつかの腕時計を見ていると数年前実家を立て直した時に他の荷物に紛れて無くしてしまった手巻きの腕時計を思い出す。それは父の物で以前一度だけ探したのだが、結局見つけることは出来なかつた。それ以来、心の中でいつでもその腕時計が「忘れないで」とチクタクと鳴っている様な気がしていた。
そして僕は結婚式を一ヶ月後に控えた頃、もう一度、父の腕時計を探そうと思い立った。その週末、披露宴の打ち合わせは彼女にまかせて僕は実家に向かった。「時計と披露宴どっちが大切なの!」と彼女の機嫌は悪くなったが結婚式までに父の腕時計を見つけて自分の物にしたくなったのだ。
久しぶりに帰った実家で、僕は朝から押入れや物置を探したけれどいくら探しても見つからない。夕方になって諦めかけた時、「あった!」もう使わなくなったカラオケ用のテープが入っているケースの中にマイクなんかと一緒にしまわれていた。「どうしてこんな所に…」僕は首に下げていたタオルで汚れた手を拭いてからゆっくり、腕時計の竜頭を巻いてみた。長い眠りから覚めたように針が動きだし、少し黄ばんだシルバーの文字盤と傷ついた風防が懐かしく、僕を喜ばせた。
父はいつでもこれだった。毎朝、会社に行く前は同じ時間にゼンマイを巻き上げ、帰宅したらまず腕時計を外して、ポケットのハンカチで軽く拭くのが習慣だった。それを見ていたその時の僕は、いつも同じ腕時計をするのはカッコ悪く思えたし、第一手巻きの腕時計はえらく時代遅れのモノにしか見えなかった。一ヶ月が過ぎ、僕はやっと見っけた父の腕時計を磨いて、ベルトを新しいモノに替えた。段々と自分のモノになってきた気がする。「明日の結婚式にはこいつをしよう…」。(つづく)http://www.hotta-group.co.jp/lexia/
■【優秀賞】《「チクタク」が伝えること》下 (千葉県・大橋友和様・30歳) ■2005年1月12日 水曜日 6時19分45秒
教会の控室でタキシードに着がえた僕がバッグから大切そうに腕時計を取り出したのを見て介添人さんは「腕時計はみなさんお付けになりませんが…」と言った。僕は「腕時計ではなく、懐中時計が正しいんですかね」と聞き返しながら腕時計をはめた。
その時、毎日どんな服でも同じ腕時計をしていた父を思い出した。確かに服装に合った腕時計選びは大切なことだ。しかし父は一本の腕時計を精一杯、大切に使ったのではないだろうか。そのことを考えた時、時計を何本も買っておしゃれを気どっていた自分が急にカッコ悪く感じた。
今になって思えば父は「一つのモノを大切に思い、それが自分にとって価値のあるモノだったら一般的な考えや他人がそれをどう見ようと気にしなければいいんだ」とでも言いたかったのではないだろうか。僕はこれから家庭を持つ、子供も産まれるだろう。その家族に言葉を使わず、何か大切なことを伝えることが出来るだろうか。父の腕時計を通じてそんな事を考えながら僕は結婚式に向けてゼンマイを巻き上げた。(おわり)http://www.hotta-group.co.jp/lexia/

■◆☆《揺れる町から》☆◆ ■2005年1月7日 金曜日 20時52分34秒
この間はお見舞いの電話ありがとうございました。
日曜日の夜。NHKの大河ドラマ「新撰組」の最終回が終わろうとする時刻。
宮田明さんから二回目の電話があった。一回目はこっちから必死になって電話をしたのだった。
お気をつかっていただいて。宮田さんは、手さぐりするようなゆっくりした口調で丁寧に話す。
あの時はまだ動転していて、なにをお話したのかもわからなくて、申し訳ありませんでした。まだ余震が続いている時期でしたから。
いえ、もう大丈夫です。ええ、だいぶ落ち着きました。
ありがとうございます。そう、宮田さんは、新潟中越地震の中心地、長岡市学校町に在住している。マンションの三階。地面がぐにゃぐにゃうねっているんです。
初めは部屋の中にいたんですがね。マンションがこう丸ごと誰かの手でね、揺さぶられているような。もう部屋がゴムみたいにうねるもんですから、すぐ外に飛び出してですね、ええ、そうしたら地面が海みたいにですね、波打ってるんです。そりゃ恐かったですねえ。宮田さんは、前回の電話と同じことを繰り返し話す。ご本人がそれに気がついて話をされているのかどうか、それはわからない。あれはこの世のものではありませんよ。わたしは、改めて想像さえ及ばない自然の力に脅威を感じるのだ。宮田明さんは、テレビコマーシャルの演出家だ。数年前に引退した。そして、奥様の実家のある長岡に移住された。現役の宮田さんは、天才だった。数多くの広告賞を取り、クリネックスのコマーシャルで、世界の頂点に立った。若いわたしは宮田さんにテレビコマーシャルのいろはを教わった。天才の長所はそのまま短所にもなる。宮田さんを理解できない人たちもいる。宮田さんは豪放な性格だ。豪放な性格で繊細緻密なアイディアを練り上げる。高野さん、資生堂のコピー、書いてくれない。ある日、宮田さんから電話があり、宮田さんを訪ねた。宮田さんは等々力の秀和のマンションに住んでいた。目黒通りの陸橋のすぐ横にあった。

朝、コーヒーを飲みながら、宮田さんはマイクを握った。陸奥ひとり旅を歌った。さあ、高野さんも歌って。え、わたしは朝からマイクは握りません。酒が入ってから、酒がないと歌なんてとてもとても。わたしはスタジオのような音響設備の整った部屋に照れた。それに、やっぱり酒がなくてはカラオケはねえ。宮田さん、マイクを握ってください。歌を歌いましょう。早くあの頃の笑顔を取り戻してください。わたし、いまなら喜んで宮田さんのために歌いますから。(高野耕一)


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