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▼エッセイ
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広告は時代を映す鏡なのだと改めて実感させられる最近である。あの高度成長時代には広告はすこぶる元気だった。まさに広告はビジネスの一環であって、広告費も豊富だった。経済の歯車と広告の歯車はお互いにお互いの勢いをつけ気持ちよく回転していた。だが、違う理論も成立する。景気の悪いときほど広告の勢いが必要だ。広告で経済の活性化が可能だ、という理論だ。それは相当高度な広告をいうのだ。広告費に頼る広告ではなく、知恵に頼る広告のことだ。そんなことは理想論で、実際には不可能だという広告屋を使っている企業さんは、そんな広告屋をクビにしましょう。広告を考える前に不可能を考える広告屋は、落第。わたしたち広告屋は、これまでもたくさんの不可能を可能にしてきた。広告は使いようで驚く力を発揮する。そして広告は、広告を信ずる企業にだけその驚く力を発揮する。現在、日本の広告費は、年間約6兆円だが、これは東京都の年間予算に匹敵する。さらにかのマイクロソフトのビル・ゲイツさんの資産に匹敵するという。広告屋としてはなんだか気の抜けるほど少ない額だとも思うが、深呼吸をして考え直してみるとやはり天文学的数字である。そこで、広告業界を新たな目で見回してみると、いるいる、なかなかシャープなクリエイターが確かにいる。生まれている。だいたいが(この、だいたいがという言葉を使うと、次に一般論が出てくる)クリエイターはクリエイティブに全力を尽くすものだから、夢みたいなことを言ったりやったりする。もちろん広告はビジネスだから、その夢はいい加減なものであってはならない。だが、夢のない広告は、広告としては一人前ではない。そして、広告を信じ、クリエイティブを信じている企業もまだまだある。広告を信じているから、広告も企業を裏切らない。広告がうまいと評判のサントリーやホンダ。ソニーもうまい。資生堂もいい。最近では、ソフトバンクをはじめとするケータイ各社が楽しい広告を展開して生活者(いまは、消費者といわずに生活者という)に受け入れられている。広告を当てにしない、信用しない企業の広告はうまくない。かつて宣伝部には有能な人材が多かったが、いまや宣伝部さえ削除してしまった企業もある。また、最近ではパソコンが使えるからという理由で、入社したての社員にデザインをさせたりする企業があって、これは開いた口がふさがらない。広告の最も重要な部分は心理学なのだ。市場を凝視し、市場を形成する人間の心理を読む作業だ。パソコンが使えるだけなら、中学生や高校生のほうがよっぽどうまい。金がかからないからパソコン使える女子社員にやらせようという企業もある。広告をその程度にしか考えないから、広告の効果もその程度しかない。広告維新が始まっている。景気の後退と相前後して普及してきたインターネットが、最強の広告媒体として君臨してきたテレビコマーシャルの屋台骨を揺さぶっていることも広告に革新を求めている要因だ。出てこい。時代を変える広告の志士。そして、企業の皆さん、広告をもっと信じてください。広告は、信ずるものを裏切りません。 (たかの耕一:takano@adventures.co.jp) |
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人生とは? 仏頂禅師が芭蕉に問う。蛙飛び込む水の音。芭蕉が答える。お見事。仏頂禅師が膝を打つ。仏頂禅師は、芭蕉の禅の師匠だ。実際にこういう会話が交わされたわけではないが、俳句とは禅の心の言語表現だとその書はいう。経堂農大通りの古書店で「奥の細道」を手に取り、となりにあった禅の本をついでに買ってしまった。通勤のバスの中、トイレ、風呂の中で読む。むずかしい学問としての禅には興味がない。ただ達磨禅師の発想に共感し、禅を学問としてではなく心の在り方としてとらえることができたらいいな、と思う。仏の教えに対し多くの後継者たちがさまざまな説を立ててわれこそがと優劣を競う中、達磨禅師は、アホらしい、仏の心の本質に迫ることこそが肝心で、小理屈なんかは本質に迫るための方法論に過ぎない。なのに、いつの間にか小理屈が本質のごとく語られ、そう錯覚する愚かな連中ばかりとなった。本質の探求。いかがですか? いいでしょう、禅って。理屈っぽいわたしは頭をガンと拳固で殴られた気分です。なんだか理屈っぽいのはいまの時代も同じで、理屈に振り回されている人を見るとなんとも情けなくなる。わたしもその1人か。地球環境問題も、経済問題も、政治も、企業経営も、広告も、会議も、小理屈と小理屈の戦いの様相を呈し、ドスンと本質に踏み込む鋭さが見当たらない。達磨禅師は、美しく心地よい言葉に騙される愚かさを犯さないように瞑想に入り、心眼でじっと本質を探求した。わたしも大いに反省し、本質を求める日々を送ろうと努力している。本質と理屈の関係、さらには本質と流行の対比も興味深い。広告を作るわたしには、本質さえつかめれば表現は流行に乗ってもいい、むしろ流行に乗るくらいでなければコミュニケーションに力がつかないと思っている。理屈が手段であって本質ではないように、流行もコミュニケーション手段であって本質ではない。だから、絶対条件として本質をつかむこと。男と女が恋をし、腹が減ればいらいらし、悲しければ泣く。人類創生の昔から、人間の本質は変わっていない。流行はどんどん変わる。それでいい。いま、新橋の光洋カラー社で、毎週火曜日に光洋塾なるものを開き、老いも若きも関係なくみんなでああだこうだとやいやいがやがややっているが、目標のひとつに「本質を見極める心眼を養う」という項目をわたし的に持っている。プロデューサーの横山ヒロコくんや中井ワカバくん、クリエイターのボタンちゃんこと熊谷エリコ女史の流行に敏なること大いに勉強になる。本質を見極める心眼を養えば、必ずいい彼が見つかるぞ、と思う。揺るがぬ本質を見抜く。だから流行を素直に受け入れる余裕が生まれる。ところで芭蕉だが、後で「古池や」をつけて句として完成させた。古池を「無限の時間」の表現というが、いやはやさっぱりわからない。だから面白い。 (たかの耕一:takano@adventures.co.jp) |
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人は誰でも「自分の都合」で生きている。正しく熱心な宗教家はともかく、通常の人間は自分の都合を何よりも最優先させる。仕方がないがそうである。人間、それでいいのだとも思う。渋谷駅から母校に向かう都バスの中で、ふとそんなことを考えている。ジャケットのポケットには石坂洋二郎の小説「青い山脈」のボロボロの文庫本が入っている。6月のある土曜日の午後のことだ。東京は梅雨入りしたが、今日は雨の心配はない。3時から空手道部のОB総会があり、6時からは渋谷で新入生歓迎会がある。その前に道場に寄り、監督と現役連中に挨拶をしようと早めにバスに乗ったのだ。自分の都合という考えと「青い山脈」の関係は、わたしの中には大いにある。「青い山脈」は、昭和22年に新聞連載された小説で、時代を反映して敗戦後の日本に民主主義を普及定着させようという魂胆が裏にあったに違いないとわたしは睨んでいる。それはともかくこの物語は、古い田舎町の常識に立ち向かう若い力の話である。わたしは60年前のこの物語を現在の空手道部に当てはめて考えている。ОB会を古い常識と考え、若い現役との価値観の違いを楽しみたいという不届きな思いが心のどこかにある。それにОB会には数回出席しているが、会議の席で極めて個人的な、自分の都合での発言としか思えない滑稽な意見を偉そうに言う場面が多々見られるからだ。自分の都合からは人間は離れられないと先に悲しい諦念を暴露したが、せめて自分の都合を他人に押し付ける愚かなことはしてはならないと思う。組織や会社や社会にいれば、組織や会社や社会の都合が生まれてくるものである。みんなの都合である。そこでは自分の都合を封印しなければならない。それがオトナのマナーであり、知恵であろう。道場で監督に会い、現役たちと会う。現役は3人しかいない。われらの時代には100人を越える部員がいた。だが、いま4年生は主将の1人、3年生はゼロ、2年生が3人、そして1年生が道場で稽古している3人だけだ。わが空手道部は廃部の危機に瀕しているのだ。そこで昨年、ОB会はそれまでの首脳部に代わり、緊急の首脳部を編成した。新会長のマニフェストは2つあった。1つが現役部員の増加である。2つめがОB会員の増強である。1年が経つが、結果はむしろ逆だ。ОB会が現役に関与しすぎたためか、現役部員たちが次々に休部している。ОB会員の中でも止めていく者がいる。むずかしい局面にわたしたちは置かれている。ОBの中でも現役の自主性を重んじろという意見がある。そんな中でわたしは、自分の都合で発言する言葉を聞くたびに情けなくなるのだ。いまは、現役の都合を直視するときであり、ОB会全体の都合を徹底的に探るときであり、空手道部60年の都合を語るときであって、自分の都合など邪魔なのだ。そして「青い山脈」のように、古い伝統と若い感覚との摩擦もまた起こっている。わたしはというと、自分の都合を妻にも社員にも押し付けていて、偉そうなことは実はいえない。 (たかの耕一:takano@adventures.co.jp) |
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昭和40年、丘と川のある町に幸せな家族がいた。新宿区下落合。丘はいつもあたたかい光の中にあり、川は夕日を映してキラキラと輝いていた。父は染色加工職人で、母はいつも父のそばにいて仕事を手伝っていた。男の子ばかりの5人兄弟で、子どもたちはみな元気だった。貧しいけれど幸せだった。だれもがこころ豊かで、会話には愛情が溢れていたから、不幸だと思ったことは一度もなかった。スポーツ好きの長男は高校生になると家を出、大学では部活の合宿に入ってあまり家に帰ることはなかった。次男は高校を卒業すると大手旅行会社に職を求めた。家を早く出た長男に代わって弟たちの面倒をよくみた次男で、弟たちは全面的に次男を信頼した。こころやさしく、人柄もよく、正直な次男は誰からも愛されていた。次男のそばにいるとふと微笑みたくなるような、春の陽射しのような男だった。3男は次男と仲がよかった。性格も似ているのだろう。穏やかで、つつましい男だ。いつもにこにこと人の話に耳を傾けていた。熱狂的な巨人ファンで、巨人が負けると黙って2階へ消えてしまう。バクチは強かった。次男と2人で競馬をやっていたが、一年を通して勝つことが多かった。将棋も強かった。将棋好きの父と戦って、アマチュア3段といわれる父を唸らせたのは3男だった。4男は明るい男だ。軽妙で、冗談を言うが、こころも言葉もやさしく、あたたかい。まわりに明るさを振りまく男だ。物腰の柔らかい、誰にでも愛される性格だ。5男はのびのびと育った。体格もよく、身長は180センチを超える。学校の成績は驚くほど悪かったが、母が、お前は元気ならいいのよ、というものだからほとんど1と2の成績表を他人のものように笑ってみんなに見せていた。あれから50年近くの時が流れ、下落合の丘に当たる陽射しも変わることなく、川の流れもまた変わらないが、この幸せな家族は変わった。あれから50年近くの時の流れの中でいろいろなことが起こった。次男は会社を辞めて子どもたちのために小さなパン屋を始めようと修行に出ていたが、38歳で突然癌でなくなった。仲のよい次男がずっとそばに寄り添ったが、中野病院のイチョウの葉が落ちると同時にこの世を去った。その後数年を経て父が癌になり、あっという間に他界した。神田川の近くの病院で、兄弟はよく集まって父を勇気づけたが、やはり3男が寄り添った。いつも3男が家族に寄り添い、悲しみの近くにいた。父が死に、母が健康を害し始めた時も3男がずっとともに暮らし、そばにいた。長男も4男も5男も結婚して家を出ていた。次男と3男が両親とともに暮らしていたが、次男を失い、父を失った後も3男がいつも母に寄り添って暮らしていた。母が癌になり放射線治療が始まると、3男は毎日会社を抜け、母を新大久保の病院に連れて行った。大変な暮らしが1ヶ月以上も続き、母が2回目の放射線治療を始めようとしていた矢先、3男が腎臓癌になった。3男は自分のことよりボケの進む母のことばかりを心配している。いま、窓の外は土砂降りの雨だ。下落合の幸せな家族は土砂降りの雨の中にいる。だが、力を合わせ、また幸せな時間を作らなければ、死んだ父と次男にすまない。ただ、それだけを考えている。事実は、小説よりも悲しいものだ。 (たかの耕一:takano@adventures.co.jp) |
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渋谷は第2の故郷である。疎開先の長野県から下落合に帰り住み着いた田舎者が高校生になり、初めて電車通学をしたのが広尾高校で、1年浪人をして入学したのが國學院大學だった。大学では空手道部に入り、初代が元都議会議長で元渋谷区長の小倉基先輩だから、もはや渋谷とは切るに切れない間柄だと思い込んでいる。そして、今も毎日渋谷を通って通勤している。われらが学生の頃にも渋谷は大改革を遂げた。上空を高速道路が走り、オリンピックが開催され、恋文横丁がなくなった。その渋谷がいままた大改革を始めている。6月14日、渋谷、新宿、池袋をつなぐ都営地下鉄副都心線が開通するのだ。地下鉄新渋谷駅には数年後東急東横線が乗り入れ、横浜へ一直線で行けるようになる。現在、JR渋谷駅に接続している東急東横線が地下鉄に接続されるのだ。池袋から先が埼玉までつながっているので、横浜から埼玉まで一気に駆け抜けることになる。副都心線新渋谷駅は、西口のハチ公の反対側の東口にできる。建築家安藤忠雄氏設計の新渋谷駅は、まるで宇宙船のようだ。地下であっても広々と大きく気持ちのいい空間にしたいという安藤氏ならではの、度肝を抜くデザインをテレビニュースで見たが実に面白そうだ。東口のメインとなる新渋谷駅の上には数年後地上30階以上の超高層ビルができる。屋上にプラネタリウムがあり、いくつかの映画館があり、レストラン街のあった東急文化会館の跡地だ。新渋谷駅の出入り口は7箇所ある。東口と宮益坂商店街と宮下パーク通り商店街にできる。宮下パーク商店街口から出るとパルコのある公園通りやNHKにはこれまでより近道となる。都心の街はある時期活気を失った。郊外に巨大なショッピングモールが建設され、わざわざ都心に出ることもなくなったからだ。客は離れた。そこで、六本木がまず反撃に出た。六本木ヒルズを造り、ミッドタウンを造った。銀座も反撃に出た。有名ブランドを招聘し、有楽町駅前を再開発した。秋葉原には常磐新線が入り、高層ビルが建てられた。回りの街が大きく様変わりをして客を呼ぶ中、渋谷はじっと耐えた。そして、いよいよ反撃を開始する。この副都心線で低迷から脱出し、新しい渋谷の顔が出現する。これまで渋谷といえば若者の街という印象で、ハチ公のある西口はいつも若い熱気で溢れかえっている。東口はその西口と対抗しようという発想ではなく、隣接する青山や六本木との連携を意識し、大人の街となる予定だ。渋谷宮下パーク商店会小林会長からお聞きした構想は、渋谷2つの顔というものである。若い感覚と大人の上質な感覚の両方が楽しめる2つの顔。今日も渋谷の街を歩いてきた。驚くほど変わる。6月14日、時間が許せば渋谷の街を覗いてみて欲しい。六本木、銀座、秋葉原に負けない街が出現する。時が行き、街が変わり、人もまた川のように流れる。 (たかの耕一:takano@adventures.co.jp) |
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やっぱり悪性だって。電話の向こうで弟の信治が言う。早ければ1・2ヶ月、これから放射線治療を始めてうまくいけば数年生きるかもしれない。うまくいけばね。そういう例があったと言うだけの話だけど。でも、少しでも延命を考えるのなら左腕を付け根から切り落とすことも考えたほうがいいって。先生がそう言うんだ。そこで、信治の言葉は途切れた。わたしも信治も黙っている。黙っている分だけ弟の悲しみの深さが伝わり、わたしの心が震える。何もしてやれない長男としての自分の不甲斐なさに目を閉じる。母を慕うわたしの悲しさの何十倍も電話の向こうで信治は悲しんでいる。母の左腕に瘤ができ、その瘤はしばらくはじっと息を潜めていたが、1ヶ月くらい前に突然暴れだした。癌です。医師にそう言われて信治が電話をしてきた。新大久保の病院でもう一度検査をするんだけど、あんちゃん、来れる? その検査に信治と末の弟の守男が行った。それまでアルツハイマーが徐々に進み、寝たきりで介護を受けていた母を病院に連れて行くのに信治ひとりでは無理だった。検査の前から母の年齢やさまざまな条件を考えると、悪性の癌の可能性が高いだろうという重い予感がわたしにも弟たちにもあった。淡い期待を込めて通りすがりの神社や寺や教会に祈ったが、やはり悪性だったのだ。腕を切るのはまだしたくないんだ。信治が言う。いまでも生きる気力が乏しいのに、腕を切ったらどうなるか。だから放射線でできる限りやってみようと思う。そうしよう。わたしは一も二もなく賛成する。信治には謝りきれない責任がわたしにはある。高校から大学にかけて合宿生活に入り、社会人になってすぐに結婚し、長男でありながら両親のそばにいなかった責任だ。わたしは男ばかりの5人兄弟で、次男の敬二、3男の信治、4男の里志、5男で末っ子の守男がいるが、そのことがわたしを自由にし、責任を遠ざけてしまった。3男の里志と4男の守男が結婚しても、敬二と信治は結婚をせずに両親と暮らした。心やさしくしっかり者の敬二はわたしよりも長男の資格と風格をもっていたが、37歳の秋、肺癌であっという間に他界した。敬二と一番仲のよかった信治はずっと病院に付き添い、敬二の病状の毎分毎秒をノートに書き、真っ向から悲しみに立ち向かった。あれから33年が経っている。敬二に続き父が83歳で逝った。酒とタバコを愛し、明晰な頭脳を持ちながら家の事情で小学校にしか行けず染物職人になった父は、尊敬すべき江戸っ子だった。その父のそばにずっと付き添ったのも信治だった。ほのぼのと心あたたかい3男里志は、実家のそばに住んでいて信治をよく助けた。4男守男も全力を尽くした。そして、今日も信治は会社から飛んで帰り、母に放射線治療を受けさせるために新大久保の病院に連れて行っている。わたしは、会社からバスで病院に向かう。他に客のいない昼下がりのバスの最後部の座席で、わたしは母と弟のために祈る。効いてくれ放射線。母と弟たちのために。午後ののんびりとあたたかい陽射しが、わたしには冷たく感じる。 (たかの耕一:takano@adventures.co.jp) |
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石坂洋次郎さんの小説が好きだ。「若い人」の間崎先生もいい。江波杏子もいい。「青い山脈」の寺澤新子も金谷六助もいい。「陽のあたる坂道」の田代信次も好きだ。石坂さんの小説は読みやすい。むずかしい言葉はない。主人公はみんな前向きで、無駄に飾らず、素直で、自分に忠実に生きている。誰もが生まれや育ち、環境になんらかの問題を抱えていて、そのことであがきもがいて生きているのだが、真っすぐに問題に立ち向かう勇気を持っている。心が健康である。聡明である。たとえ少々ひねくれていても、どこかユーモラスで憎めない。決してスーパーマンではなく、極めて平凡な等身大の勇気と聡明さを持ち合わせている。読者はその健康な精神に惹かれる。石坂さんは1900年に青森で生まれた。「青い山脈」は1947年に朝日新聞に連載された小説だが、その年は終戦2年目で石坂さんは47歳だった。小説のテーマは、自由と民主主義。敗戦から立ち上がろうとする日本に勇気を与えようとか、日本あるいは日本人がこれから向かう道とはこんな感じだとかを示唆したのだ。時代が時代だけに当然さまざまな方面からの圧力があったと思うが、石坂さんの主人公や登場人物が実に見事に、いきいきと描かれていて気持ちがいい。石坂さんは戦前の人なのによくもまあこんなに健康な精神を描けたものだ。1949年に今井正監督により「青い山脈」は映画化されたが、西条八十作詞、服部良一作曲の主題歌が大ヒットした。わたしはかなり後になって、吉永小百合と浜田光男主演の「青い山脈」を観たが、驚いたことに少しも古くない。われら人間はいつもなにかの壁にぶつかりながらあがいて生きていることを実感する。いつの時代にも壁はあるのだ。その壁が時代によって違うのだ。時代自身が壁かも知れない。その壁にどう立ち向かうかが人間の器なのだ。石原裕次郎がいくつか石坂作品の主役を演じた。「乳母車」「若い川の流れ」「陽のあたる坂道」。裕次郎のちょっとすねた素直、憎めない人柄、漂うユーモア、陰のある育ちのよさが石坂洋次郎の主人公をさらに魅力的にした。石坂洋次郎は決して小説の主人公のように明るく健康的ではなかったと聞く。小林一茶が実生活では不幸に包まれながら、人を見るやさしさやユーモアを忘れなかったように、石坂さんも暗い押入れの中で明るい太陽を見つめていたのか。韓国ドラマは、単調だとか、浅過ぎるとか、古いと言われるが、ストーリーがわかりやすく、時代の価値観や不変の価値観がわかりやすい。昔の日本映画を彷彿とさせるものがある。石坂さんの小説の持つ、立ちはだかる壁に真っ向から向かう素直さや前向きの姿勢がある。日本のテレビドラマが韓国ドラマを真似たわけではなく、ごく自然に前向きのものが増え始めているようでうれしい。わたしの中でいまなおいきいきと跳躍する石坂洋次郎の小説の主人公が、現代でも受け入れられているようで楽しい。川の流れは、澱まず止まらず濁らず、真っすぐに自然に流れてこそいつまでも若い川でいられるのだ。 (たかの耕一:takano@adventures.co.jp) |
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新橋で弟と別れ、バス停に向かう。午後10時50分。舗道は雨に濡れ、道行く人々の足は自然に早くなる。お客さん、渋谷行き最終バスは出ましたよ。バス停前に並んだタクシーの運転手さんが言う。わけあって電車に乗れないわたしは、仕方なくタクシーに乗る。桜も終わりましたね。運転手さんが言い、早かったですね、とわたしは答える。それにしても夜の新橋駅前はタクシーの数が多いですね。運転手さんの背中に向かってわたしは言う。そうですよ、規制緩和ってやつでやたらにタクシーが増えました。いろんな会社が参入してきて、収拾がつきません。だって、競争が激しいから参入しても経営は大変でしょう。わたしは聞く。大変です。でも、どんどん参入してきます。それは日銭が入るからです。日銭が入るってのが魅力なんです。運転手さんが言う。うちの会社の場合、200台の車が走っています。1台1日5万円水揚げれば1000万円の現金が入ります。そりゃ凄い1日1000万円か。単純計算だけど1ヵ月で3億円だ。それも現金で。そうですよ、だれでも参入したくなります。競争ばっかり激しくなってね。わたしは30年もタクシーの運転手をやっていますが、いまの水揚げは昔の半分以下です。1ヵ月20万円がいいとこです。年金をもらっているからまあいいかと思うけど、この労働量でこの給料じゃ普通ならやっていけません。なるほどねえ。質の悪い運転手が多いです。昔から質が悪いけど、まあ驚くほど質が悪いですね。客の取り合いですから平気でこっちの車の前に斜めに切り込んできます。思わず急ブレーキをかけるとすいっと客を乗せていきます。タクシー同士が通りで並ぶと睨み合いです。この前なんか駅前でタクシーの運転手同士で殴りあいの喧嘩をしてましたよ。え、そうなの? 運転手さん同士って仲良しじゃないんだ。とんでもない。カタキ同士です。がんがん割り込んできますからね。頭にきます。危なくてしょうがないですよ。客を取られた運転手が相手のタクシーの前にぴたりと車の尻をつけてキーをしたまま車を置いていなくなったりね。後ろも前もぴたりとつけられて動けなくしちゃうとか、嫌がらせなんか年中のことです。所詮雲助ですからね。わたしに言わせりゃ、狂犬をドブネズミが運転しているようなもんです。なにもそこまでは。いえいえ、それでも言い足りません。タクシーのセンターがあるでしょう。そういう所で運転手さんの人格管理とか意識の向上とかってやらないのですか? まったくやりません。センターなんか所詮天下りですから、客の苦情をはいはいって聞いているだけです。そして運転手を呼び出して文句を言うだけ。運転手のためになにかやろうなんて思っちゃいません。 タクシーは天現寺交差点を抜けて明治通りを渋谷に向かう。小柄で人のよさそうな運転手さんは、にこにことドギツイことを連発する。 よっぽど腹に据えかねているのだろう。わたしは同情しながらも運転のほうが心配になる。タクシーは運転のプロが運転するのだから、事故は少ないだろうと漠然と思っていたのだが、どうやらタクシーの安全神話は根こそぎ覆されたようだ。早く渋谷に着いてくれ。 (たかの耕一:takano@adventures.co.jp) |
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もう二度と人に見合い話は頼まない。松ちゃんが、真っ赤な顔で怒る。ビールのせいじゃない。とくに百人町のおばさんには絶対頼まない。本当に怒っている。だが、松ちゃんは怒っているのかとぼけているのかわからない顔だ。自分で自分を笑っているようにも見える。笑っているけど悲しい顔だ。わたし、新宿区百人町に住んでます。小滝橋の近くの。あ、おれの実家は下落合だよ。わたしが言う。近いね。はい、すぐ近くです。わたし、西戸山小学校です。タカノさんは? おれ、落合第4小学校ね。隣ね。で、松ちゃん、見合いはどうしたの? そうそう、それです。だいたい見合いをデニーズでやりますか? 見合いを馬鹿にしてません? うん、見合いを馬鹿にしてるか松ちゃんを馬鹿にしてるかどっちかだな。第一、見合いの途中ドリンクバーにコーヒーを何回もお替りに行くって変でしょ。わたし、ビシッとスーツで決めて行ったんですよ。デニーズで仲人さんと待ち合わせて京王プラザのロビーとかに行くのならわかります。ずっとデニーズ、延々とデニーズ、最後までデニーズ。おかしいでしょ、いつもサンダル履いて行く店ですよ。腹を抱えて笑いながら、わたしは言う。見合いはせめてロイヤルホストじゃなくちゃな。まあ、そう言われるとガストよりはよかったのかなあと思います。松ちゃんは天上を仰ぐ。わたしは松ちゃんほどユニークな人物を他に知らない。ユニークとは実に使い勝手のいい愛嬌のある言葉だ。唯一のとか、独特なとか訳すが、類のないとも訳すから誉め言葉かどうかは疑わしいがまあ世間の概念としては誉め言葉と見ていい。松ちゃんは顔つきもユニーク、体つきもユニーク、性格もだれよりもユニーク。神は時として不思議な造形物をお創りになる。決してジャニーズ系ではなく、今日の話でデニーズ系であることを発見した。松ちゃんは続ける。で、おばさん、ずっと話しっぱなしなんです。松ちゃんの額は汗でてらてら光っている。2時間ずっとです。その間、わたしも喋らない。見合いの相手も喋らない。相手のお母さんも喋らない。やがて、おばさんふと気づいて言いました。あら、若い二人にお話させてあげなくちゃね。やっと気づいてくれました。そして、おばさんと見合い相手のお母さんは立ち上がるのです。立ち上がったら普通その場から消えるでしょ。消えないんです。すぐ横の席に座るんです。おかしいでしょ。すぐ横に座ってお菓子をねだる子どもみたいにじっとこっちを見てるんです。ご主人を待つ犬みたいにじっと見るんです。ううん、睨んでるんです、二人で。なに考えているんでしょうね。わたしは言いましたよ。そこにいるんならこっちの席にいっしょにいても同じでしょ。そしたらね、こっちの席に戻ってきたんです。おかしいでしょ。普通は消えるでしょ。もっとちがう所へ行くでしょ。同じ店でももっと遠くの席へ行くでしょ。ところが、ニコニコ戻ってきました。わたし、またドリンクバーです。コーヒーでお腹がごぼごぼ。そりゃそうです。ドリンクバーとおしゃべりババアの間を行ったり来たりですから。結局見合いはパーです。まもなく春。ああ、恋せよ松ちゃん。 (たかの耕一:takano@adventures.co.jp) |
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3月吉日。赤坂溜池に陽は落ち、夜の帳の中でネオンがおどおどと息を吹き返す。和食「おとわ」は赤坂ツインタワービルの足元の小さなビルの地下にある。注意しなければ見逃してしまうほどの楚々とした看板がこの店の内なる自信を表している。わが空手道の師であり、國學院大學空手道部の監督に就任された次呂久英樹先輩が、板長の小阪英邦氏の腕と長崎の魚に惚れ込んで通っている。素老倶楽部の定例会はそのご縁で「おとわ」を利用させて頂いている。さて、この素老倶楽部は、自らを「素老人」と名乗る次呂久大師が「素浪人」と「スローライフ」を文字って創ったもので、驚くことに、我田引水、自己中心、他力本願等の4項目からなる素老願(スローガン)まで作ってしまった。まったくおかしい話だ。心をほぐすゆっくりした木の香の「おとわ」の席。二つのテーブルに座る素老倶楽部の8人のメンバーを紹介する。倶楽部の初代会長となった新橋の笹野産業の社長笹野先輩は、会の中で唯一の知性派である。堺谷太一に似た穏やかな風貌にいつも静かな微笑を浮かべ、機関銃のように飛び交う会員たちの言葉にゆったりと耳を傾ける。発起人の次呂久大師は、今日もライト級のボクサーのような体躯からフライ級のボクサーのような軽いフットワークの素老言葉がぽんぽん飛び出す。まるでスローではない。変幻自在の会話が爆笑に輪をかける。日本武道館の現理事の青木先輩が次呂久大師の前にいる。次呂久大師同様頭髪とは遥か昔に別れを告げ、達磨大師のごとき鋭い眼球をぎょろぎょろ回転させて冗談とも本気ともつかない話題を振りまく。青木先輩は、葬儀委員長という肩書きをもつ。横にいるのは冨田先輩だ。千葉県に本拠を構える建設会社の社長である。次呂久大師と青木先輩だけでも十分に奇異なのに冨田先輩が加わるともはや社会の迷惑のような様相である。白くふさふさした髪は、タテガミである。酒を一切口にせず、こよなく女性を愛すといった口ぶり。一度女性側の意見も聞いてみたいと思う。冨田先輩の前には、きりっと和服で身を包んだ越谷の神影流道場主豊島一虎先輩がいる。次呂久大師が「鎧兜の戦闘姿で参加してくれ」と頼んだというが、抑え気味の和服にしたよ、と豊島先輩は笑った。かつて、わたしが空手部の現役のとき、夜遅く道場に現れ日本刀の本身を並ぶ部員たちの額に打ち下ろし、1センチの隙間でピタリピタリと留めて歩いた凄まじさは陰を潜めているが、時代を超越したサムライの風体でゆらりと風のように微笑んでいる。笹野会長の横には、インテリアの設計施工のプロ、商店経営のコンサルティングにも腕を振るう有米氏がいる。次呂久大師の弟子である。有米氏の前には、広島在住の同じく次呂久大師の弟子和田氏がいる。和田氏は実直な人柄である。心の有り様が見事に顔に現れている。高野さん、ぜひ広島に来てください。何回も何回もわたしの耳元で叫んでくれる。さてさて、この素老倶楽部、時代を切り、国家を語り、酒を酌み交わす素老人どもの集まり。入会希望者はいないと思うが、よかったら是非。 (たかの耕一:takano@adventures.co.jp) |
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どうやらダルマ大師は頭にきたようだ。なにが彼を怒らせたか。仏の教えを弟子やら周りやら頭のいい連中が、ああだこうだと解説し、その数の多いこと多いこと。解説は当然の如く、正しいもの、正しくないもの、間違ったもの、曲がったもの、玉も石もごっちゃごちゃ。どれが玉だかどれが石だかまるでわからず、闇雲に石を崇めている者も多い。もう理屈なんかいらない。邪魔だ。ダルマ大師は叫んだ。仏の教えは理屈じゃないんだ、この野郎。ま、この野郎なんて言わなかった。仏教とは、仏の心で心を知ること。心で悟ることなんだ。直接仏の実体に飛び込まなくちゃダメだ。そこで彼は瞑想に入った。理屈も屁理屈もぬき。瞑想して仏の実体に迫った。体験し、実覚し、実体を掴む。これが禅だ。実覚という言葉は禅の本に書かれていて、国語辞典にも出ていないから、宗教用語かも知れない。実覚と実感は似ているが、実覚は実感よりもっともっと実体に近づき、感じるだけでなく実体を悟るということだと解釈する。なにやら理屈が先行し、理屈と理屈が戦ったり、理屈と屁理屈が絡まったり、今って、そんな世の中なんじゃないのかなと思う。国会もそう。会議もそう。家庭もそう。上げ足取りばかりで、自分の不勉強を隠す。禅は追いかけても追いかけても心の隙間からするりとすり抜けていくので、禅そのものが把握できない私だが、ま、実体に迫るという点だけを見ても、今の世の中まるで禅じゃない。どうして私の心をわかってくれないの。そう叫ぶのは子どもたちだけじゃない。オトナだって叫んでいる。実体。その人の本質。その人の心。それを理解しようとしない。自分勝手な理屈でうまく丸め込んでしまおうとする。世の中の人々は、実体に迫る気もなく、実体に迫るエネルギーもなく、実体に迫る知恵もなく、実体に迫る手法も知らない。小手先の理屈を振り回しているうちに、その理屈が実体だと思い込む愚か者が目につく。理屈に酔う。他人のことは言えない。私も愚か者のひとりだ。だが、不幸にも芭蕉の句集といっしょに禅の本を古本屋で買ってしまった。この二つの本には関連性があったからだ。芭蕉は禅の心を極め、俳句こそが禅の言語化であるという。あら、そうなの、とばかりに禅の本を250円で買ってしまった。実体に近づこう。実体に迫ろう。そういう気持ちになっただけでも禅に近づいているものと楽観している。実体から目を背けるな。うまい言葉でごまかすな。文章を志す者として、そう思うだけでも大いなる進歩かも知れない。古池やかわず飛び込む水の音。これは時空を超えた壮大な宇宙世界を表現する禅の極みというが、まだ、さっぱりわからない。だが、今日からはゆっくりとじっくりと世の中の実体を見つめようと思う。人の心を見つめようと思う。実覚するのだ。あれ、見つめようとしても妻も子どもも出かけていない。まず瞑想から始めることにしよう。 (たかの耕一:takano@adventures.co.jp) |
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居酒屋「たつこ」が引越しをする。いままで居酒屋だったけど今度はスナックだからね。ママが言う。居酒屋とスナックはどう違うの。 みんなが聞く。お勘定が違うの。ママが笑う。カウンターには6人の客がいる。右から声に艶のあるアラキさん、退院二日目のよっちゃん、同じく病気上がりのムーディさん、ぼくのかみさんののりちゃん、ぼく、スーさんの6人だ。今度はほら稲荷森神社の前ね。ヒロ・イトー先生の美容室の後よ。2階ね。名前も変わるのよ。「パラダイス」って言うの。階段がちょっと長いのよね。80歳を過ぎたスーさんが、おれ上れないなあ、とさびしげに天井を見る。そうか。みんなスーさんの顔を見る。ロープウェイをつけてもらうか。いや、全員一度階段の下に集合してツアーを組んで助けあって上ろう。回りが勇気づける。この際、ピッケルとザイルを用意するか。上るのも大変だけど、階段って下りも大変でなあ。スーさんが言う。いいさ、下るときは窓から蹴落としてもらえばいい。スーさんがさびしく笑う。歌を歌う。カラオケ。梓みちよの「メランコリー」ね。アラキさんがカウンターの中で野菜をいためているママに言う。あら、それ、わたしも歌いたい。のりちゃんがわがままを言う。こら、末っ子のわがままムスメ。ぼくが注意する。じゃあ、いっしょに歌えば。たつこママがやさしく言う。よし、アラキさんが「メラ」で、のりちゃんが「ンコリー」な。ぼくが言い、のりちゃんが「ンコリー?なんか汚いわねえ」とブツクサ言いながらマイクを持つ。大げさなくらい大きいマイクが二つある。アラキさんは堺谷太一に似た知的な風貌で、その笑顔がほっとさせる。声に艶があって通りがよく、トイレに入っていても歌声は聞こえてくる。ジャージャー流す水にも声は負けていない。うまい。みんなが言う。「メラ」も「ンコリー」もうまい。なんか誉められている感じがしないのよねえ。「ンコリー」担当ののりちゃんは歌いながら腹を抱えている。次にぼくが歌う。裕次郎ね。銀の指輪ね。よっちゃんが歌う。よっちゃんも裕次郎。うまい。石原裕次郎は場末に行くほど人気がある。場末で歌うほど裕次郎の歌は味が出る。これはぼくの説。この店のお客さん、みんな歌がうまいわ。のりちゃんが拍手する。退院二日目のよっちゃんは、短い髪でジャンバーを羽織っている。裕次郎が好きな人たちにはどこか共通点がある。太陽の明るさを持ちながら、夜霧のムードを持っている。あっけらかんとしながら、背中がさびしい。言い過ぎか。テニスクラブの面々と「パラダイス」に行って歌いまくる計画を立てている。できればセットで3000円の料金を2500円にしてもらえないか。そして5時から始めてもらいたい。歌のうまいマサヨシくんが言うが、まだママには交渉していない。 (たかの耕一:takano@adventures.co.jp) |
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1月12日。朝10時にはまだ昨夜からの雨が残っている。コーヒーを一杯飲んで、アファンの森の会の会員の集いに出席するために12時04分発のバスで妻と渋谷に向かう。会場は、目黒駅近くの東京都庭園美術館。電車に乗れないわたしは渋谷からタクシーで目黒に向かう。途中、恵比寿駅近くの裏道で突然飛び出してきた乗用車とわたしと妻の乗るタクシーが衝突するアクシデントに驚きながら、1時過ぎに会場入り口で友人の小澤くんと会う。CWニコルさんが会場入り口にいてひとりひとりににこやかに微笑みながら握手をしている。ニコルさんとお会いするのは3回目か4回目だ。久しぶりに森田さんともお会いする。ニコルさんには赤鬼という愛称がある。大きな体と赤い顔はまさしく子どもの頃絵本で見た赤鬼そっくりだ。だが、ニコルさんは赤鬼じゃない。ニコルさんの瞳は、淡く青く深い。ニコルさんの出身地ウェールズの山奥の湖はこうではないかと思わせるように、その瞳は穏やかに澄んでいる。だからニコルさんは少しも恐くない。ニコルさんは、むしろアファンの森の熊ではないか、とわたしは思う。熊より大きい。となれば、森の熊の化身かな。1時30分、オープニング。理事長の熊さんの挨拶。たどたどしく聞こえる熊さんの言葉は、言葉を選んでいるからだと思った。行動する作家であるニコルさんは、会員の方々にわかりやすく、ゆっくりとあたたかく話をする。小学生の子どもにもわかるように話す。人間にとって森がどんなに大切なものか。地球にとって森がどんなに大切なものか。森はどうしたら元気でいられるのか。少年の頃ウェールズを後にして世界の自然とともに暮らしてきたニコルさんの話は、世界の森そのものが直接わたしたちに話かけているようにココロに沁みてくる。テーブルの前にいる小学生が笑っている。会場のみんながひとつの森になって、静かに穏やかにニコルさんの言葉に微笑みながらそよいでいる。みんながアファンの森になる。ニコルさんの言葉はアファンの森の言葉となる。アファンの森の住人松木さんがまるで家族の話をするように森の話をする。森の木は松木さんの子どもであり、奥さんであり、父であり、母なのだ。一本一本の木の言葉を松木さんが代弁する。松木さんは、森の人。森の人とは、オランウータンのことだ。目を凝らして見ると松木さんの顔、体、動き、全部が全部オランウータンみたいだ。素朴で、ていねいで、親身で、あたたかい。森のようにやさしく、小柄だけれど森のように大きい。質問コーナーで質問をすると、松木さんは必ず、うん、カンタンだ、といってから答える。うん、カンタンだ。うん、カンタンだ。松木さんは、森のことは森が教えてくれる、だからカンタンだ、耳を澄まして森に聞けばいいのさ、という。ニコルさんも松木さんも、森そのものだ。東京のビルに囲まれて暮らすわたしの心にふと心地よい風が吹いた一日だった。 (たかの耕一:takano@adventures.co.jp) |
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空手を武道とするか、スポーツとするか。1962年、わが國學院大學空手道部は岐路に立っていた。もちろん、それはわれらだけで決めるべき問題ではなかった。柔道はすでに講道館を中心に柔術各派は統合されスポーツの道を歩いて久しいが、空手はそれより遥か後方を歩いていた。武道としての立場を崩すなという者たちは、空手道を人の生きるべき道とし、道の厳しさや深い精神性を尊重すべきであると主張する。空手をスポーツにしようという者たちは、空手道のさらなる広い世界への発展を期待していた。もちろん両者には美しき精神の純粋性と同時にいくばくかの利害が絡んでいた。二者は互いにけん制しながら時の川に流されていくのだが、時代の趨勢は空手のスポーツ化という美名に傾いて行くのは当然だった。武道のもつ精神性がスポーツとは一線を画すると思い込んでいたぼくは、空手は武道だという思いが強かったが、実はどちらでもよく、両者の長所を取り込んで空手道が進化すればよいとも思っていたし、実際にそういう道しか歩く道はないのだというある種の諦念を抱いていた。当時、学生空手道には大塚先生率いるわれら和道流、松涛館流、剛柔流、糸東流等の各流が派を競っていた。われらは和道流に誇りをもつと同時に他流の誇りも当然のごとく大切にしていた。大山増達先生が極真空手を広めるためにわれらの道場を訪れたのもこの頃だった。先生は牛殺しの技が掲載された極真空手の極意である書籍をわれらに見せた。だが、われらには極真空手を受け入れる気はなかったし、極真空手は、学生の間に普及することもなかった。その後、町道場を中心にここまで自分の流派を広げた大山先生の熱気には驚嘆するしかない。空手のスポーツ化は、同時にバンカラという言葉を死語に向かわせた。野蛮の蛮と人柄の柄と書いて、蛮柄と言う。バンカラはおしゃれとは対極にある言葉で、無骨で乱暴で無頓着という悪いイメージも含むが、不器用とか愚直とか一徹という愛すべき意味も含む。われらはバンカラという言葉に誇りをもっていた。だが、バンカラという言葉はスポーツにふさわしくなかったためにいつの間にか滅んでしまった。言葉が滅ぶと言葉のもつ精神も同時に滅ぶのであって、もはやバンカラ精神も歴史の彼方に消えてしまった。空手部のスポーツ化については11代青柳主将、12代越三主将の並々ならぬご苦労があった。おかげで阿部貴を主将とするわれら13代には迷いはなかった。だが、空手道部の悪しき伝統のすべてを排除するには至らなかった。さまざまな伝統を、これは良き伝統、これは悪しき伝統と明快に区分けできないものもあるからだ。上級生には良き伝統でも、下級生には悪しき伝統というものもある。あれから45年。100人を越えていた部員が、いまや10人を切ってしまった。空手が時代に合わないという意見もあるが、ぼくはそうは思わない。空手道のもつ魅力をわれらが後輩に伝えていないからだ。ただ、それだけだ。國學院大學空手道部OB会「紫魂会」小柴会長の手腕に期待する。がんばれ、現役諸君。 (たかの耕一:takano@adventures.co.jp) |
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彼はなぜかパリを捨て、太陽の島、キーウエストに行ったのだろうか。1920年代。彼はパリにいて、貧しかったが明快な目的をもって暮らしていた。結婚をして子どもも生まれ、活力のある眼差しは鋭く前を見つめていた。 カフェでは多くの芸術家たちが文学を語り、絵画を語り、情熱をぶつけ、酒の海を泳いでいた。 ヘミングウェイは、いくつもの短編を書き、やがて「陽はまた昇る」を書いた。 彼の創作哲学は、知っていることを書け、正直に書け、というものであった。第一次大戦で傷ついた彼らの年代を「ロストゼネレーション」失われた世代と呼んだのは、ヘミングウェイの文学上の師でもあったガートルート・スタインだった。 「陽はまた昇る」は、そんな失われた世代の仲間たちをモデルに書かれたものだ。ヘミングウェイは、自分の説である、人物を書くな人間を書け、の言葉どおりいきいきとした人間を書いた。大ヒットしたこの小説は、彼に手痛い反撃をした。登場した人々のモデルがあまりにも正直に書いたためか、誰にでもわかってしまったようだ。 そのため彼はパリに居づらくなった。そして、彼を経済的にも支え続けた妻との離婚もあった。 ヘミングウェイを、マッチョにあこがれるスケベなおやじだよ、という人もいるが、あながちハズレではない。彼は4回結婚し、結婚のたびに環境を大きく変えていった。パリは一年中ジメジメしていて、人の心もしめってしまう。 ヘミングウェイは、妻と別れ、友と離れ、ジメジメしたパリを捨てて、太陽の島に行った。キーウエスト。US国道一号線を南下した南の果て、メキシコ湾流に洗われる島は、彼に新しい人生を与えた。幼い頃からなれ親しんだフィッシングがヘミングウェイの新しい人生の中心にすえられた。 海に生まれ、海で育った仲間たちが、川釣りしか知らなかった彼に、スケールの大きな海釣りの豪快さを教えた。モーターボートを購入し、仲間たちとメキシコ湾でマグロを追った。 時を見て、アフリカにサファリ旅行にも行った。キーウエスト時代、彼はいくつもの短編とすばらしい長編をものにした。 「キリマンジャロ雪」「老人と海」等である。「老人と海」は、ノーベル文学賞までも獲得する世界の名作となった。やがて彼は、キーウエストを捨てキューバに渡る。新しい妻と暮らすためなのか、新しい環境で新しい創作に取り組むためなのか。その両方のためなのか。いま、どこにも行くことのできない私は、新しい年を迎えるタイムトラベルにわくわくしている。パリからキーウエストへ、そしてキューバに彼が渡ったように、時間の旅が新しい創作意欲を沸かしてくれることを祈って。 (たかの耕一:takano@adventures.co.jp) |
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トンネルを越えると山麓の町には、かすかな秋の便りが届いていた。空は青く高く晴れわたり、丘の上の駐車場からは明るい日差しを浴びた町並みが遠く甲府の中心街のほうまで見わたせた。太陽がはしゃぎ、空と大地が歓声をあげて笑っている中に人々の暮らしが広がっているのだ。それは都会とはまったく違ういきいきとした風景であり、僕らは一瞬息を飲み、言葉を失うほどだった。青みがかった山々は途切れることなく視界の奥の白く雪を被ったアルプスまで連なり続いていた。僕らの小さな旅の始まりは申し分がなかった。ぶどうの丘の3階のレストランの広いガラス窓に面した席に僕らは座った。甲州ぶどう入りのカレーを食べ、100%甲州ぶどうを使った地元産の白ワインを僕は飲んだ。白ワインはさらりとしていて甘さが抑えられ、腰もそこそこしっかりしている。商社時代にワインを取り扱っていたワイン通のダーダもこれには及第点を与えた。うん、雨に濡れた子犬の味だ。ダーダと僕はわけのわからぬことをいい、笑った。それなら赤ワインはさぞや渋みがあってうまいのではないかと、僕はテーブルの反対側にいるイサオちゃんの席まで歩いていって彼のグラスを手に取った。「あげないよ」とイサオちゃん。「ちょうだいよ」と僕。「あんた、あんたの白ワインもあげなきゃダメよ」とのり子さん。のり子さんは僕のかみさんだ。赤ワインも重量感があって、なかなかの味だ。最近の国産ワインもよくなっているなあ、とダーダがまとめる。うまいが何か優等生のようで物足りなさを感じるのは、輸入ワインとの差を僕が発見できなかったせいだろう。僕らのこの旅はソミヤくんがお膳立てをしてくれた。2台の車に分乗して僕らは笛吹川沿いを登っていく。途中、恵林寺に寄る。山懐に抱かれた武田信玄縁の寺は、静かな参道の奥に蒼然と佇んでいた。山門も本殿も人間の建造物なのに自然に溶け込み、自然の邪魔をせず、むしろ自然を越える存在感があって圧倒される。それは単に深い時間を刻んだだけではなく、そこに紛れもなく人が生まれ、生き、死んでいったという生命の熱さを感じるからだろう。これはね、ケイリンジじゃなくてエリンジっていうのね。イサオちゃんが教えてくれる。ケイコちゃんもフミちゃんもあっちを見て息を飲み、こっちを見上げて絶句するばかりだ。ダーダの奥さんのマコちゃんは写真家のようにシャッターを切っている。イサオちゃんはカリンの木の下を抜け、ずんずん寺の奥に入っていく。もともと神社仏閣が好きなイサオちゃんだが、後姿を見ていると信玄の霊に導かれているような、歴史のページに溶け込んでいくような、背中に後光を背負っているようにも見える。まあ年齢も年齢だから、それだけ歴史が近づいているのだろう。なあ、せっかく山梨にきたんだからホウトウを食おうぜ。イサオちゃんがいい、鳥居の前に地元の雰囲気のあるホウトウ屋があったぞ、と僕が提案するが、キレイ好きののり子さんにはその雰囲気がただの汚さに見え、まるで見向きもせず、せっかちなソミヤくんの頭には旅館のことしかなく、僕らの提案はむなしく恵林寺の澄明な風に吹き飛んで消えた。なにやら前途多難な気配を漂わせつつ僕らの小さな秋を見つける旅は続く。 (たかの耕一:takano@adventures.co.jp) |
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渋谷発東急バス23系統は、渋谷駅西口から三軒茶屋、農大、千歳船橋を経由して祖師ヶ谷大蔵まで行く。通常のバス代は210円だが、夜の10時半の最終に間に合わず、その後の深夜バスになると料金は2倍の420円になる。深夜バスは上町止まりなので、そこから千歳船橋まで20分ほど歩く。バス停にすると7つか8つだ。深夜になっても農大と通りを挟んだ馬事公苑の入り口のツタヤは開いている。すぐ脇のロイヤルホストも開いている。上町から歩くとその辺りはちょうど徒歩に飽きる頃で、明るいネオンと店内のあったかい照明の誘惑につい負ける。とくに金曜日の夜は、ロイヤルホストでビールを飲むかツタヤの入り口にあるスターバックスでカフェオレを飲むのが楽しみになっている。その間に妻は寝てしまうので、帰宅して深夜テレビを見ながら気兼ねなくもう一杯ビールを飲める。スターバックスにはテラス席があって馬事公苑の木々に包まれる感じも心地よい。気障なようだが、目を閉じて風の囁きを聞くのも悪くない。休日に犬を連れてこのテラスでカフェオレを飲み、読書をしているとなにやら軽井沢気分で贅沢である。バス通勤を始めた当初、妻はパスモをくれ、この次は自分で買いなさい、といったがどこで買っていいものかわからない。バスの中で売ってるわよ、といわれても並んだ乗客を待たして買うほど太い神経を持ち合わせていないので、いつも100円硬貨二つと10円硬貨一つを手に握ってバス停でバスを待っている。駅前の屋台の花屋と公衆便所の近くにあるバス停でバスを待つのだ。気が向いたように花屋の斜め前に屋台のラーメン屋が出ることもある。バスを待つ間、一杯600円のラーメンを食べる。600円ならまあこんなものか、という味だ。日本酒が置いてあるのでいつか飲んでやろうと思うがその機会がない。なにもここで飲まなくても、という気持ちもあってなかなか実現しない。反面、どこか侘しさ感が好きなわたしは、ダンボールに座りながら屋台で安い酒を熱燗で、両手で包むようにしながら飲む自分のシーンも嫌いではないので、いつか実現してやろうと思っている。ダンボールに座っている仲間と話をすれば、日本の実情の一部が見えてくるようでそれもわたしには魅力だが、妻が嫌がるのは目に見えている。なに、黙っていればわからない。バス停の横の歩道橋の下でストリートバンドが演奏を始める。アジア系の民族楽器の音が夜空に響き、郷愁をそそられる。蒙古の大草原を彷彿とさせて気持ちがなごむ。われら日本人の故郷はアジアの草原だとする説に一も二もなくうなづいてしまう瞬間だ。この23系統のバスは千歳船橋のわが家の目の前に止まる。なにやら、わが家のバスにみんなを乗せてやっているようで、実に気分がいい。次回は、バスの中で起きた喜劇悲劇のドラマをお聞きいただこうと思う。これがまた面白いこと面白いこと。妻も腹を抱えて笑う。 (たかの耕一:takano@adventures.co.jp) |
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熱い夏、一人の男が死んだ。男の名を宇佐美和夫という。渋谷K学院大学空手道部13代部員である。卒業してすでに45年が経つ。われら同期の仲間は彼をドラと呼んだ。彼の本名を知るのは試合の前に登録票を書くときくらいのもので、普段はドラで通っていた。ドラと命名したのは当時の空手道部監督沖縄出身の次呂久英樹先輩だ。ドラ声だったからか、風貌がドラネコに似ていたからか、どちらにしろわれらはその愛称が大いに気に入り、友情を込めて彼をドラと呼んだ。大学の近くに下宿をしていた次呂久監督の身の回りの世話をドラが一生懸命にやっていたのを思い出す。ドラは小まめで人柄がよく、彼が他人の悪口をいうのを聞いたことがない。穏やかな性格でわれら13代だけでなくわれらが4年生になり空手道部の幹部になると部全体の和を保っていたのも彼だった。ドラは空手をやるには優しすぎる男だと当時のわれらは思っていたが、空手の真の強さとは優しさにあることを学んだいま、改めてドラの人間の大きさを知ることになった。和の男、和夫というのは実に彼にふさわしい名であるとしみじみ思う。同期の花松忠義から電話があって、わたしはドラの死を知った。OB会の事務局長斉藤一久くんも連絡をくれた。わたしは次呂久監督に連絡し、埼玉にいる同期の主将阿部貴に連絡をとった。OB会長の小柴先輩にも連絡をした。だが、同期の林清司には連絡をしなかった。副将の林はドラとはひときわ仲がよかった。心の奥に一徹なものを持ち、純な心と明晰な頭をもつ林は、われら同様、自分にはないドラの優しい性格、おおらかな性格に引かれていたのだろう。その林はいま、大病と戦っている。わたしはドラの死を林に伝えなかった。彼岸のある日、われらはドラと会うために戸越公園駅に集まった。次呂久先輩、小柴OB会長、阿部貴、花松忠義、わたし、後輩でありOB会副会長である日下部涼くんの6人である。見上げる太陽は眩しく、残暑が厳しい午後だ。ドラの家は駅前のレストランだ。われらは2階に上がり、カウンターの奥のドラの息子に挨拶し、3階の霊前に座る。懐かしい笑顔のドラがいる。天然パーマの癖毛、細い目、照れたようにかすかに横を向き、穏やかに笑う。不意にドラの道着姿を思い出し、正直な空手を思い出す。空手に正直という言葉が合うかどうかわからないが、ドラの空手は正直だった。真っすぐな空手だった。それは彼の生き方そのものであった。次呂久先輩は長く長く瞑想し、ドラと別れを告げた。帰り、われらは戸越公園のラーメン屋でビールを飲み、焼酎を飲み、ドラの思い出話にひたった。居酒屋に移り、空手部の現状とOB会のあり方について大いに論じた。阿部貴の参加はドラが引き寄せたものだ。熱い夏、ドラが死んだ。われらに和を残して去った。さらば、友よ。(たかの耕一:takano@adventures.co.jp) |
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アメリカの著名な作家が1941年6月に中国から自国に送った戦線報告は、日本がアメリカと戦争に突入する直前のものだ。図書館で偶然発見したその報告書からは、日米がなぜ戦争に突入しなければならなかったかを明確に読み取ることはできない。だが、なにかとんでもないことが向かう黒い予感がひしひしと伝わってくる。いまにも破裂しそうな風船をびくびく伺うように、戦争に突入する暗い空気が目前に迫ってくる。アメリカ人がアメリカの目で書いたものだから、むろんアメリカびいきだ。だが、なによりも恐ろしいのは戦争を回避しようという気配がいっさい見られず、ズルズルと崖が崩れるように戦争になだれ込んでいく感覚だ。国民全員が反対しようが悪魔が誘うように戦争に突入していってしまう恐怖だ。1941年6月、日本陸軍52個師団のうち37個師団は中国にいて、蒋介石総統率いる中国中央政府軍と戦っていた。精鋭部隊の9個師団が満州で中国共産党軍と対峙していた。残りの6個師団が日本本土の防衛、台湾、海南島に当てられていた。当時、中国は内戦状態にあり、中央政府軍と中共軍がぶつかっていたが、日本は共通の外敵であった。中国内戦に資金と兵器を注ぎ込んでいたのは、中央政府軍へはアメリカであり、中共軍へはソ連であった。やがて米英と真っ向からぶつかることを承知しながら、日本は南へ進軍するしかなかった。行く先には世界のゴムの5分の4を占める一大生産地があった。日本がそれを手に入れれば世界の列強の仲間入りができる。日本にないものは鉄と石油だ。日本がさらに南進すれば石油が手に入る。中国と戦う日本に石油を供給していたのは、米英だった。背後から中央政府軍を支援して兵器と資金を注ぎ込んでいる米英が、敵対する日本に石油を供給しているという不思議な行為は、その理由を知れば不思議ではない。日本を自分の敵と想定したアメリカは、太平洋地域での戦力準備を進めていたが、まだ時間がかかる。そこで、中国中央政府軍に日本軍の足止めをさせ、時間かせぎをした。日本はというと、同盟国のドイツに力をつけてもらいイギリスと戦ってほしかった。イギリスの主力部隊をドイツに引き受けてほしかったが、ドイツにその力がなく、時期を待つしかなかった。日本はソ連とは講和を結んでいたが、それももっと実行力のある不戦条約にしておきたかった。日本の石油の備蓄は1年分だ。このまま米英と戦争状態に突入しても戦いに十分な石油はない。八方ふさがりのまま日本軍は進軍した。すでに平地の部分は日本軍が制圧していたが、中国軍の得意とする山岳部分には手こずっていた。中国軍の空軍は弱かった。ソ連から供給された戦闘機も日本空軍にはまったく歯がたたなかった。アメリカの作家はこのように日本の窮地を自国に報告した。アメリカが勝つための条件はいくつも読み取れる。情報面で一日の長がある日本海軍は、このまま日米戦争に突入しても勝てる見込みがまったくないことを知っていた。戦争に反対した山本五十六は、中心勢力の東京から遠ざけられ、広島に飛ばされた。ズルズルと悪魔に誘われて戦争に突入する愚か。中東情勢は他人事ではない。戦争の恐さは実はズルズルにあるのだ。(たかの耕一:takano@adventures.co.jp) |
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激しい雨が、新しい季節の訪れを告げている。麹町のおでん屋。グラフィックデザイナーの松本隆治さんとビールを飲んでいる。2人の間でおでんの皿が湯気を上げる。はんぺん、竹輪、卵、牛すじ2本、大根2個、豆腐4切れ。色は薄いがしっかりした味の汁。蒸し暑い夜だが、湯気を立てるおでんに冷えたビールはなかなかの取り合わせだ。目の前で主人が煮え立つおでんに小まめに汁を足していく。松本さんは40年にわたるわたしの親友であり、性格も真っすぐで、人徳の厚い人である。やわらかい関西弁は、耳ざわりもよく、心に沁みる。僕らは戦後少年だ。松本さんがいう。会社に21世紀少年たちが研修にきてね。戦後少年の僕としてはなにかを伝えたいと気ばかりあせってあれこれ言い過ぎてしまった。僕らは仕事上若い連中といっしょのことが多いけれど、40歳違う21世紀少年たちと話が合いますか? よく味の沁み込んだ大根を食べながら、わたしは松本さんに尋ねた。まず、少年という共通点があるからね。少年。それは鋭いアンテナを持つ多感期と解釈できる。乾いた砂に水が沁み込んでいくように、あらゆるものがその感受性の中に吸い込まれていく。少年の僕の最大の関心事は食い物だった。僕もそうです。わたしは答える。決して飢えていたわけではない。戦後の食糧難という事情のために食い物に関心が募ったわけではなく、単に成長期のための欲求だったと思う。だとすると成長期の21世紀少年たちも食い物が最大の関心事となり、話が合うのではないか。そこが共通点か。違うね。松本さんがいう。彼らは第一に金じゃないかな。食い物ではなく、まず金。食い物は回りにふんだんにあるし、成長期だから食い物に関心をもつというほど彼らは健全じゃない。でも、最大の関心事が金だとしたら気の毒だなあ。松本少年としては、食い物の次になにに関心がありましたか。やっぱり海かなあ。瀬戸内海の島で生まれ育ったから、いつも横に海があったからね。僕は信州に疎開していたから、アルプスの山並みときらきら光る天竜川が関心事でしたね。なんだか2人とも健全すぎるなあ。21世紀少年たちの金の次の関心事ってなんだろう。テレビアニメか。ゲームか。塾か。サッカーとか野球とかスポーツならいいけどね。モーニング娘になりたいとか、お笑い芸人になりたいとか、そんなことを思うのだろうね。そうだ松本さん、友だちじゃないですか。そうか、ぼくも悪ガキ仲間の顔はよく覚えている。友だちは21世紀少年にとっても大事じゃないですか。そこで僕らはほっとする。友だちという共通の価値観を持てることにほっとする。戦後少年と21世紀少年は、友だちというキーワードでつながる。話ができる。21世紀少年たちにわが友、魚屋のゲン坊や氷屋のトオルの話をしてみたい。時代の溝は深く広いけれど、もっと彼らと話す機会を作らなければならない。いかんなあ。雨の夜のおでん屋の遅い反省である。(たかの耕一:takano@adventures.co.jp) |
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山本五十六大将になりたかった。お富さんの春日八郎になりたかった。哀愁列車の三橋美智也になりたかった。笛吹き童子の中村錦之助になりたかった。紅孔雀の東千代介になりたかった。撃墜王の坂井三郎になりたかった。鞍馬天狗の嵐寛十郎になりたかった。三太物語の三太になりたかった。ジロリンタン物語のジロリンタンになりたかった。日本一の剣士赤胴鈴の介になりたかった。丹下左膳の大河内伝次郎になりたかった。清水次郎長の片岡千恵蔵になりたかった。紫頭巾の大友柳太郎になりたかった。柔道のイガグリくんになりたかった。空手チョップの力道山になりたかった。岩石落としのルー・テーズになりたかった。踊り子の三浦光一になりたかった。君の名はの春樹になりたかった。巨人軍の川上哲治になりたかった。 松竹スターの菅原謙二になりたかった。青春スターの川口浩になりたかった。青い山脈の久保明になりたかった。体育の水野先生になりたかった。青春スターの宝田明になりたかった。嵐を呼ぶ男の石原裕次郎にどうしてもなりたかった。渡り鳥の小林旭になりたかった。抜き打ちの竜の赤木圭一郎になりたかった。エースのジョーの宍戸錠になりたかった。早撃ち小僧の和田浩二になりたかった。花と少女と白い道の浜田光男になりたかった。伊豆の踊子の高橋英樹になりたかった。東京流れ者の渡哲也になりたかった。惜春鳥の津川雅彦になりたかった。映画月見草の山本豊三になりたかった。巨人軍の長嶋茂雄になりたかった。監獄ロックのプレスリーになりたかった。理由なき反抗のジェームス・ディーンになりたかった。ダイアナの平尾昌昭になりたかった。スィックスティーントンズの小坂一也になりたかった。ロカビリーのミッキー・カーチスになりたかった。黒い花びらの水原弘になりたかった。有楽町で会いましょうのフランク永井になりたかった。僕は泣いちっちの守屋ひろしになりたかった。上を向いて歩こうの坂本九になりたかった。遠くへ行こうのジェリー藤尾になりたかった。涙船の北島三郎になりたかった。24000のキッスの藤木孝になりたかった。ボクシングのファイティング原田になりたかった。社長シリーズの森繁久弥になりたかった。座頭市の勝新太郎になりたかった。拳銃無宿のスティーブ・マックウィーンになりたかった。ライフルマンのチャック・コナーズになりたかった。マクリントックのジョン・ウェインになりたかった。釣り師のヘミングウェイになりたかった。フーテンの寅の渥美清になりたかった。シェ−ンのランドルフ・スコットになりたかった。コブラツイストのアントニオ猪木になりたかった。貴公子のビヨン・ボルグになりたかった。リターナーのアンドレ・アガシになりたかった。釣りバカの西田敏行になりたかった。酒好きの開口健になりたかった。作家の三谷幸喜になりたかった。天国の階段のグォン・サンウになりたかった。ヒーローのキムタクになりたかった。オール・インのイ・ビョンホンになりたかった。結局、わたしはわたしに過ぎず、だれにもなれないことがやっとわかった。でも、イチローになってみたい。(たかの耕一:takano@adventures.co.jp) |
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夏といえば海だ。海といえば江の島だ。それが日本の常識だ。息子が海にいく。江の島にいく。そうだ、その正統性こそがいまの日本には必要だ。そこまではいい。そこまでは許す。午後4時、新宿発小田急ロマンスカーでいくという。待て、そこは問題だ。新宿発は正しい。問題はない。小田急ロマンスカーもいい。「いっそ小田急で逃げましょうか」と歌う妻の父を思い出す。小田急は電車もデパートも垢抜けないところがいい。デパートで垢抜けないなんて致命的だが、なぜか小田急はその泥臭さに好感が持てる。問題は、午後4時の出発だ。海といったら出発は午前中に限る。午後4時の出発なんか花火大会だけだ。まだ、太陽が全力を出し切る前、夜の冷たさが残る海水の中をひと泳ぎする。これがたまらない。準備体操をし、軽い平泳ぎから始め、やがてクロール、バタフライ、水府流ヨコ泳ぎ、その間たまにカラダを仰向けに寝かせ波間に揺られて休む。わたしは泳げないから実行したことはないが、これは決まりだ。ビーチに上がり、体にサンオイルを塗り、午前10時の柔らかい日差しで肌を焼く。昼になる。海の家でラーメンを食べる。缶ビールを飲む。午前中の海にはこういった一連の楽しみがある。だから、午後4時出発はない。だが、まあ、いいか。愛する息子の決めたことだ。許そう。息子には息子の世界があることを認めなければならない。午後4時、海にいく。まあ、いいだろう。午前の海の一連の流れはこの際なしだ。だが、ゲイ連中といっしょにいくとはどういうことだ。それはないだろ。ゲイが嫌いでいってるわけじゃない。特別好きじゃないけど、差別などない。イメージだ。ゲイといったら不健康が決まりだ。明るい太陽の下で青春を謳歌する健康的なゲイなんかイメージの裏切りだ。ゲイは隠花植物だ。ネオンの陰で不幸を食べ、下だけを向いて生きる。花柄の小さなサイフの中に小さく畳んだ野口英世が3人ほど入っている。なぜか小銭入れには5円玉が多い。5円玉のすがるような後ろめたさがゲイに共通するのだろうか。新大久保のアパートに住み、ネコを飼っている。マンションはダメ。アパートだ。新聞はサンケイ新聞。夕方近くに起きてネコに餌を与え、素肌にサンダル履きでコンビニにいく。ゲイとはそういう風に地味に、不健康に生きるものだ。ゲイが海で泳ぐのに反対しているわけではない。クラゲだって泳いでいるんだから、ゲイが海で泳いだって文句はいえない。でも、なんで息子は海にいくのにゲイといっしょなんだ。おれの就職が決まったとき、新宿のゲイの連中が初出勤のスーツをプレゼントしてくれた。母親が泣きながら、お前とは縁を切る、と騒いだ。地紋に蛇がくねっているような柄で会社の上司に、なに考えてるんだ、とどやされた。ロマンスカーに乗って、はいビール、とかいわれて悦んでいる息子を思い出すと泣けてくる。息子よ、海で溺れるな。そして、ゲイに溺れるな。あんたがきちんと教育しないからよ。お前の愛情が足りないからだ。妻とぶつくさやりあいながら、ああ夏の暑い夜が更けていく。(たかの耕一:takano@adventures.co.jp) |
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還暦を過ぎてから、なにやら人の喋っている言葉が、と切れと切れにしか聞こえない。まともに全部を聞くことがむずかしい。耳か頭が壊れ始めているのかなあ。仕事で打ち合わせをしていても、あ、いまんとこもう一回話して、お願い、などと確認してメモを取る。メモを取らなきゃすぐ忘れる。ひどいときはメモを失くす。もっとひどいときはメモを取ったことさえ忘れる。キッチンから妻が話しかけてくるけれど、これもと切れと切れで、意味不明。3回聞きなおすと、妻は、バカじゃないの、ともうそれ以上は喋らない。ムッとして尻を向けている。聞こえないんだからしょうがないじゃないか、とブツブツいいながら寝転んでテレビを観ている。ときどき、妻の言葉とテレビの中の役者さんの会話がごちゃ混ぜになる。これは不思議な気分だ。この前なんか、ブルース・ウィルスと妻が話しているので腰を抜かした。テレビでダイハードをやっていた。ブルース・ウィルスと黒人の警察官と妻が話している。いや、驚いたのなんのって。3人でテロリストと戦っている。24を観ていたら、ジャックと妻が話してる。妻よ、おまえは政府筋のものか。アイスコーヒーなんか飲んでないで、早く逃げろ。なにがなんだかよくわからない。デビッド・ジャンセンが妻に逃亡の手助けを頼んでいる。やめろ、リチャード・キンブル、妻はあれでもデコ・クレイ・クラフトという粘土工芸をやらしたらいい作品を創る。教室を開いているが評判はいい。でも、逃亡の手伝いは無理だ。第一、彼女は茨城県の出身で、逃げるといっても筑波山か霞ヶ浦あたりしかない。うなぎのうまい店はあるが、逃亡には向いていない。茨城県の人は正直だから、あなたを隠しておくのはむずかしい。先週も、みのさんのクイズ番組ミリオネアを観ていたら、妻が「ファイナル・アンサー」とキッチンで大声で答えていた。わたしの耳がおかしいのか、妻の参加意欲がすごいのか、よくわからない。犬が吠える。うちの犬か、テレビの中の犬か、よその家の犬か、わからない。できれば「高野の家のチュウ」吠えます、と自分の名前を名乗ってから吠えてもらいたいものだ。と切れと切れがいやで全部聞こえているフリをしたら若者が言葉を省略して、と切れと切れで話していた。いや、わたしみたいにろれつが回らない爺はしょうがないけれど、そんなに言葉をはしょらないでもらいたい。ロイホで会おう。そのくらいはわかる。ロイヤルホストだろ。チトフナ? わかるさ。千歳船橋だろ。だけど、小泉純一郎をコイジュンていうなよ。高田馬場をタババっていうなよ。わたしには「ただのババア」って聞こえるんだ。わたしはイギリスびいきでもアメリカびいきでもないが「欧米か」の代わりに「イギリカ」なんていわれても海で取れるイカの新種としか思わないだろ。と切れと切れを聞いて、切れている部分を想像して日々暮らしている。くたびれる。いき切れがしてきた。ゆっくり全部を喋ってくれ。放っておいたら、わたしは時間切れになる。(たかの耕一:takano@adventures.co.jp) |
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突然のハムカツの登場に、ぼくらは度肝を抜かれた。小学生のぼくらは、コロッケのどこか洋風でハイカラな雰囲気が好きだった。男5人兄弟のわが家の夕食のメニューは、父はトンカツ、子どものぼくらはコロッケだった。父のトンカツもぼくらのコロッケも1週間に1回くらいだった。染物職人の父は毎日晩酌をし、週1回のトンカツの日は特にうれしそうだった。なぜか、得意そうに見えた。気が向くとぼくや弟たちにトンカツの衣をくれた。黄金色のトンカツの衣には豚肉の味がしみ込んでいて、コロッケ人生のぼくらには別世界の極上の味がした。これがオトナの味か、と感動して奪い合って食べた記憶がまだ残っている。なぜ肉屋さんはトンカツの衣だけを売らないのだろうと兄弟全員で真剣に考え込んだ。そのとき、衣を作るための豚肉はその後どうするのかとは考えなかった。たぶん、それが思いつかないのでハトリ精肉店では、衣だけを売るというすばらしきアイディアをあきらめたのだ。家の前の大通りの反対側にハトリ精肉店はあった。林薬局が隣にあり、恵比寿屋酒店はその先だ。恵比寿屋酒店でぼくらはエビガ二取りの餌となるスルメを5円で買ったものだ。氷川神社はそのまだ先だ。氷川神社の向こうの乙女山の上に小学校はあった。ある年の暮れ、ハトリ精肉店が火事になった。夜だった。真っ赤な火柱が家から大通りに吹き出し、空を染めた。火の勢いに怯えながら、ぼくらは大量のトンカツとコロッケが黒こげになる様子を想像し、もったいないと思った。父は消防署に勤めていたことがあるので、火を見ると脱兎のごとく駆け出した。江戸っ子だからもともと火事が好きだったのかも知れない。帰りに父はトンカツを持って帰る。そんな期待があったが手ぶらで帰ってきた。全員がっかりした。母が笑って父を迎えた。そういえば、わが家のトンカツ・コロッケの日、母が何を食べていたのか思い出せない。母は、いつもぼくらが食べ終わってからささっとご飯を食べていたのか。だったら、コロッケをもう少し残しておけばよかったと思う。貧乏な下落合の坂下で水野くんの家だけは金持ちだった。街頭テレビ以外でテレビを初めて見たのは水野くんの家だった。ハムを見たのも水野くんの家だった。薄いピンクのハムは、どこかの国の王様の食べ物のように輝いて見えた。水野くんの家で初めてハムを食べた日は興奮して眠れなかった。そのハムが、建て直したハトリ精肉店にカツとして登場したときは弟たちを連れて見にいった。ぼくは得意げに、ハムとは南の国の王様の食べ物だと弟たちに教えた。ぼくら兄弟の中でハムカツは夢の食べ物となった。トンカツに勝つ食べ物だと思った。ハムカツはトンカツの代用品では決してない。硬くそう信じているが、まだハムカツがトンカツの代用品だと思っているひとが多いのは残念だ。それにしても、いまのハムカツは、薄すぎる。少なくともハムカツのハムは3ミリ以上の厚さであって欲しい。できれば形は丸がよい。トロリとソースをかけてパンに挟んでもうまい。(たかの耕一:takano@adventures.co.jp) |
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テレビ番組スマステーションで韓流スターベスト10をやっていた。いまなおヨン様ことペン・ヨンジュンが第一位である。「冬のソナタ」は韓流ブームの火付け役であったが、まあなんと根強い人気であることか。2位が「オール・イン」のイ・ビョンホン。3位が「天国の階段」のグォン・サンウ。いずれもテレビドラマを見ていたので顔馴染みの連中だ。ヨン様人気はおばさんたちが中心だったと聞くが、スマステーションはスマップの香取くんが司会をしているのだから、若者の番組ではないかと思う。そこでヨン様だから、結構ヨン様って若者にも受けがいいのかなあ、などと考える。わたしは若者ではないので、韓流ドラマの、あの石原裕次郎や赤木圭一郎時代の日活映画と同質の雰囲気が好きなのだ。まず、ストーリーが単純でわかりやすい。いい人役と悪い人役が明快でわかりやすい。主役はかっこよく、相手役の女優は美人だ。金持ちはいい車に乗り、別荘をもっている。貧乏人はごちゃごちゃした長屋みたいな家に住んでいる。子は親を敬い、親のいうことには子は逆らわない。親は基本的に親ばかくらいに子どもを愛している。だから韓流ドラマはつまらないんだ、という人も多い。まあ、面白いつまらないは個人の感覚だからそれはどちらでもいい。「冬のソナタ」の監督は、ユン・ソクホという。彼は、春夏秋冬を一連のドラマにしようとしているそうだ。「冬のソナタ」に続いて「夏のかおり」をDVDで見る。そういえばいま「春のワルツ」というユン監督のドラマもオンエア中だ。この監督は実にていねいに演出をする。人の感情の流れをていねいに、ゆっくりと表現する。見るものの心の動きと同調させるように穏やかにつないでいく。音楽を見事に使う。例えば「夏のかおり」では、シューベルトのセレナーデが効果的に使われた。これまで聞いたことがあったシューベルトが鮮やかに蘇えり、心に響く。登場人物の心の動きを台詞でいわせたり、それまでにあったシーンをカットバックで再度見せる手法を使う。恋人と別れのシーンに、初めて出会ったシーンを入れたりする。あのときはそうだったなあ、とこちらも思わずうなづく。日本の監督では「雨あがる」や「阿弥陀堂だより」の小泉尭史監督が好きだ。その理由はていねいに映画を創るからだ。小泉監督の映画のテンポは、観る者の心臓の鼓動を穏やかに導く。それが好きだ。ゆっくりゆっくり、こちらの様子を伺うようにカットをつないでいく。これが「人の生きるリズムでしょ」と語りかけてくるようだ。ユン監督もそうだ。ゆっくりとていねいに創る。ていねいに創られたものは人の心を打つ。そんな当たり前のことをきちんとやっている。韓国の若者たちはこのドラマに見るように、ていねいに生きているのではないか、と思う。だとしたらいい加減な国よりはるかに強い国になるのではないか。そう思う。 (たかの耕一:takano@adventures.co.jp) |
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こころを大事にしたい、人を信じたいですね 事務所のある市谷は千代田区にある。市谷駅前に大きな三叉路があって、目の前に交番や銀行なんかもあるのだけれど、その三叉路に「マナーからルールへ。そしてマナーへ」と書かれた看板がある。 これは千代田区がいち早く路上禁煙に踏み切ったときに掲げられた看板だ。もっともそのときは「そしてマナーへ」という一文はなかったと思う。これを見てみんなはどう解釈しているのか。ふと気になった。マナーとルールは、どう違うの? みんなちゃんと知っているのかなあ。それほどバカじゃありません。お叱りを受けそうでもあるけれど、再確認をしたい。単純に、マナーには罰則はない。ルールには罰則がある。そういうものだ。まだ、注意されたことも逮捕されたこともないので、実際にどういう罰則があるのかわからないが、どうやら罰金を取られるようだ。なんともいい加減だが、それには理由がある。わたしはルールが嫌いである。そしてルールよりもマナーを上位に置いている。マナーは精神の問題、ルールはどこかからの押し付けの圧力を感じるのだ。新渡戸稲造の武士道を紐解くまでもなく、日本は、自然崇拝の神道を基本に、死生観の仏教を取り入れ、道徳として儒教を取り入れた。道徳こそマナーだと思う。孔子孟子の教えを武士が学び、武士主導の時代に日本の隅々まで広めた儒教の道徳的観念は、日本が世界に誇るものとなった。かの国々の「罪の文化」に対して、日本の「恥の文化」には精神の豊かさがあると思う。人を規則で縛ろうという発想より、あなたの精神を信ずる、というほうがわたしは好きだ。だが、いまの日本に道徳が極めて薄いものとなったのも事実。アメリカの半端な民主主義あるいは未消化な個人主義に毒されたいま、道徳が生きていたかつての美しい日本はない。道徳という言葉さえ、ダサいとか胡散臭いとかで人々の口からは発せられなくなった。家庭からも学校からも街からも道徳は影を消した。情けない。話がそれてしまった。それで、とにかく千代田区では路上禁煙が明らかに減った。それはいいことである。で、さっきの標語だ。付け足した一文の「そしてマナーへ」である。それは、罰則で縛ってみたものの、みんなが路上禁煙を守るようになったら罰則を止めるよ、という意味だろうか。前にもいったようにマナーには罰則がないとしたら、千代田区としてもルールにして罰則を決めたことは、みんながあまりにもいうことを聞かないのでやむなくやったこと、本当はマナーとして各自の品格にゆだねたいのです、という意図なのか。人の品性とか精神の豊かさを大事にしたいという崇高な意味なのか。それはわからない。ルールよりマナー派のわたしとしては賛成だが、そうなるとマナーからルールへというあのキャンペーンでさえ、千代田区は千代田区民を信じているけどやむなくやったのだ、と暖かく見てあげたい。見かたは色々だが、こころを大事にしたい、人を信じたいですね。(たかの耕一:takano@adventures.co.jp) |
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いやはや、タクシーは面白いですよ。 市谷駅でタクシーに乗り、世田谷馬事公苑まで帰る。その道筋は大きく2通りに分かれる。渋谷を通るか、新宿を抜けるかである。例えば日本テレビ方向からきたタクシーに手を上げる。この道はタクシーの空車の数も多く、それほど待たずに乗ることができる。駅前の交差点を越え、JRの頭上をひと跨ぎして外堀通りに出る。外堀通りを左折するとすぐ目の前にYの字の二股分岐点が見える。ここが運命の分かれ道である。左の道を辿れば緩やかな上り坂がゆっくりと左方向に湾曲している。この上り坂はマラソンの高橋尚子が失速して有名になった坂で、確かに自分の足で走ればだらだらと長く辛いものだが、クルマならあっという間である。右手に雪印乳業の本社を見ながら坂を上る。坂を上りきると四谷駅前で、新宿通りとの交差点に出る。左手に交番があり、その先隣りに地下鉄の駅がある。目の前に人影のないきれいな公園があり、公園を通して迎賓館の正面が見える。これが渋谷に向かう道である。元に戻って、外堀通りのYの字分岐点の所で左の四谷方向を辿らず、右の道を辿ってみよう。市谷自衛隊の前を通り曙橋を潜り抜け、新宿に出る。さて、この分岐点のどちらの道が馬事公苑に行くのには料金が安いか。走行効率がいいかという問題である。手を上げてタクシーを停め、走り出せばほんの数分で例のYの字分岐点に出るから、どちらを行くかを早く決めなければならない。黙って運転手さんまかせにしてもよい。運転手さんの中にはどちらから行きますか?と聞いてくる人もいる。馬事公苑まで深夜なら30分。タクシーの運転手さんは話し上手の人がいて、車中の会話も楽しみのひとつだ。いやね、全車禁煙にしようという動きがあるんです。寄り合いでセンターから打診がありましてね。この寄り合いっていいかたがいいでしょう。なんかあったかいいいかたです。それもきどっていない。なぜか、金持ちはこういういいかたってしないんじゃないですか。田園調布の高級住宅街では、寄り合いなんていわない。軽井沢で寄り合いがあってね、とはあまりいわない。サミットを先進国の寄り合いとはいわない。で、冗談じゃないっていったんです。煙草が吸いたいお客さんもいます。禁煙車でも喫煙車でも、お客さんが選べばいいんですよ。この前なんか、駅前で禁煙車なのに、煙草吸っていいですよってお客を乗せてるタクシーがいて頭にきましたよ。信念がないんですよ、信念が。運転手さんは煙草を吸うんでしょう。いえ、わたしは吸いません。え、吸わないのにそんなに力んでるの。いえ、わたしはね、タクシーのサービスについていってるんです。人間の信念についていってるんです。だいたい最近の運転手は、乗せてやってるんだという態度の者が多いですよ。タクシーはサービス業だと思うんですよ。なるほど。目的地に着けばいいって発想はいけません。いかに気分よく乗っていただくか。これが問題です。あ、そこ曲がってほしかったのに。早くいってくださいよ。困るなあ。ごめんなさい。いやはや、タクシーは面白いですよ。(たかの耕一:takano@adventures.co.jp) |
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| 幼いときに母の愛情を独占した私 ゴールデンウイークに下落合の実家の母に会いにいく。長男でありながら弟に母の面倒を見てもらっている。なんとも情けない長男である。妻が気にかけ、やれ墓参りにいこう、やれ実家にいこうといってくれるので重い腰を上げた。母は90歳になる。いまは寝たきりで、マダラにボケるという。車椅子で母を表に連れ出そうと妻はいう。すぐ裏の薬王院のボタンが見ごろだからちょうどいいんじゃない、という。クルマを下落合の駅前の山楽ホテルの跡地の広場に置かせてもらう。小学校の先輩のタツちゃんが駐車場の管理をしていて、挨拶にいくと伊豆で採れたおいしい夏みかんをビニール袋に入れてくれる。母はベッドに横になっていた。次男の敬二が早く死に、染物職人の父が亡くなって以来、タナベ製薬に勤める三男の信治が母と暮らしている。父が死んでから、母は元気をなくした。いま、昼飯食べちゃったよ。信治がいう。いつもは介護の人がきてくれるが、ゴールデンウイーク中は休みだという。母ちゃん、おれがわかるか。わたしは母の顔を覗き込んで大声でいう。耕一だよ、耕一。おや、耕一かい。母はにこりと笑う。テレビがついているが、耳の遠い母には音声は聞こえない。ご飯は食べたの? 母がいう。妻が買ってきた牛丼と寿司を出す。いいの、わたしは食べたから。留守番がきたので信治と息子は高田馬場へラーメンを食べにいくという。高田馬場は近年、ラーメンの町として知られている。ふたりが出かけるとすぐ母がいう。信治はどこへいったの? 高田馬場へラーメンを食べにいった。わたしは答える。妻が犬を連れて散歩に出かける。わたしは母のベッドの横でごろりと寝転んで、テレビを見ている。信治はどこへいったの? 母がまたいった。高田馬場へラーメンを食べにいったよ。わたしは答える。信治が置いていった介護の日記を見る。体温の変化。トイレのこと。食事のこと。なにを喋ったのか。眠ったかどうか。母の細かい生活の記録を介護の人がメモしてくれている。ぺらぺらとページをめくる。笑顔あり。ある日のメモにそう書いてある。笑顔あり。ふと、胸が熱くなった。むかし、母はよく笑っていた。いちばん下の弟の守男が2ばかりの通信簿をもってくると、守男はいいのよ、アヒルの行列でもいいの、元気ならいいからね。そういって笑った。4男の里志をサトちゃんと呼んで可愛がった。湿疹がひどく顔や首をかかないように、いつも両手を手ぬぐいでしばられていた赤ん坊の里志を暖かく見つめる母だった。里志という名前は、父のサブロウのサと母のトシ子のトを取って4番目だから4のシをつけてサトシとした。信治がやけどをしたときは自分のことのように辛い顔をした母だった。敬二と信治が一番手のかからない子だった。わたしは母の背中に背負われて信州に疎開し、幼いときに愛情を独占した。笑顔あり。細く哀しい文字で書いてある。信治は? 老いた母が聞き、高田馬場だよ、とわたしは答えた。(たかの耕一:takano@adventures.co.jp) |
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脳も会話ももう少しポジティブにしたい。ポジティブな会話をしましょう。 先日、息子がある脳学者の講演に行った。宇宙学者との対談だった。深大寺の茶店で蕎麦を食べながら、息子からその話を聞く。愛犬を連れて行くので茶店の店内の席ではなく、いつものように表のテーブルに座る。この方がいかにも茶店風で心地よい。桜の季節は行き、見上げる大木に茂る若葉は午後の日差しを浴びて明るく輝いている。宇宙の話も面白かったが、脳学者が研究課題にしている人間の脳の話に非常に興味を覚えた。おおまかにいうと、ポジティブな思考に向かう脳の研究なのだそうだ。過去の嫌な思い出を自動的に消し去る脳であり、末来に向かってポジティブに働く脳である。思い出の嫌な部分を消しても、学習したものは残せばいいのだ。つまり、過去も未来もポジティブに思考できたら人間はもっとハッピーに生きられるんじゃないか、という話だと解釈した。息子からのまた聞きだから、わたしの解釈が多少ぶれているかも知れない。脳学者の真意とは微妙に違うかも知れない。だが、大きく違わないと思う。わたしはいろいろな原稿を書くことを生業にしているので、ひとの言葉が必要以上に気になる。会話を原稿用紙に書いていると、そのひとの発する言葉がなにを目的に発しているのかがわかってしまうからだ。まず、単純にいうと、その言葉がポジティブか、ネガティブか。まあそれは誰でもわかると思うが、よく気をつけて聞いてみてください。ポジティブな発言の多いひとと、ネガティブな発言の多いひとがいる。これは気になる。ポジティブなひととは話していても心地いい。ネガティブなひととの会話は、面白くもないし、後味さえ悪い。ポジティブな母親とネガティブな母親では、子どもの性格も当然違ってくる。会議をしていても、ネガティブな発言はどうもつまらない。そういうひとに限って、慎重だからというが、誰だって慎重だし、必要以上に慎重だと物事は進まない。大胆と慎重は使い分けなければならない。これは性格の問題かも知れない。会議中の発言がつまらないひとは性格がつまらないひとだともいえる。会議が前に進まない上に、ポジティブな会議なら生まれてくるであろうさまざまなアイディアを生まれる手前で潰してしまうからだ。これは楽観的とか悲観的とかではなく、その場の空気が読めるか読めないか、ということだろう。さあ前向きに行こうという空気を後ろ向きにしてしまう発言は、甲子園の球児たちが円陣を組んで気合をかけた直後に、今日は絶対に負けるよ、というようなものだ。愕然とする。また、会議中に発する言葉が自慢話になっていたり、例え話がテーマとまるでそぐわなかったりするひともいる。言葉は脳だ、と大胆に割り切っていえば、ポジティブな脳もネガティブな脳も目の前にあって、周りのひとたちを喜ばせるたり白けさせたりしているのだ。会話が、快話であるか怪話であるか。それによって会議が変わる。会社が変わる。家庭も変わる。日本が変わる。脳も会話ももう少しポジティブにしたい。ポジティブな会話をしましょう。(たかの耕一:takano@adventures.co.jp) |
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| なぜ回転寿司でマグロだけが目を回さないのか? マグロが日本から消える。いまのうちに食べておこうと渋谷の回転寿司に行き、回転寿司が修行の場であること発見した。それが前回の話。そこで今回は、くるくる回る回転寿司の回転台の上で、なぜマグロだけが目を回さないで威風堂々と移動してくるのか、の疑問を追及したい。イカが目を回し、鯛がふらつき、ホッキ貝が寄り目になって回転する。その中で王者のごとく悠然と闊歩してくるマグロ。イワシが悲鳴をあげ、赤貝は虫の息、海老がのけぞり、コハダがよちよち、ツブ貝がブツブツ。マグロだけがきちんと正座してやってくる。なぜだ。この大いなる海洋工学的疑問をいともカンタンに解明してしまったのがテニスクラブの先輩タナベさんだ。みんなのいい兄貴分でもあるタナベさんは、漁業関係の仕事をしていた。若き日、マダカスカルに住み、アフリカ沿岸の漁船団を指揮していた。世界の荒くれ漁師を指揮していた。マグロはね。タナベさんはビールを飲みながら教えてくれる。産卵のために地中海に入ってくるんです。鯉や鮒ののっこみですね。そうです。そこを狙って獲る。卵を養殖に使う。養殖というのは卵を孵化させて育てることをいいます。卵からではなく、稲の苗のように、稚魚から育てて大きくするのは畜養といいます。日本では養殖でなく、蓄養がメインです。15センチ位に育った稚魚を生簀で2・3年かけて大きくします。地中海で捕獲したマグロは、卵を養殖に回し、産卵後のマグロを生簀で餌を与えて太らせます。脂を乗せて市場に出すのですね。日本の蓄養は、ほとんど沖縄で行われています。昔のことですが、15センチの稚魚の値段が一匹2000円程度。それを2・3年間育てて20万円にします。へえ、100倍位になるんですか。凄いですね。で、タナベさんに聞きたいのです。回転寿司の回転台の上でも、マグロだけは目を回さない秘密をご存知だとか。はい、あるとき、沖縄に大きな台風が接近した。ほう、台風が。そう、その影響で生簀の網が破れてマグロが海に逃げた。だが、そのほとんどがすぐに捕獲できた。どうしてだと思います? どうしてだろう。あ、そうか、餌の時間になると集まってきた。放牧の牛みたいに。でも、そんなわけないか。違います。まいりました。早いですね。じゃあ、教えましょう。マグロの生簀は丸いのです。マグロは回遊魚です。凄いスピードで泳ぎます。ですから四角い生簀だと網にぶつかって傷つきます。15センチの稚魚の時代からくるくる回って大きくなる。回る人生です。台風で壊れた生簀から海に飛び出したマグロたちは、逃げた海の中でもくるくる回って泳いでいた。そこを一網打尽です。おお、マグロの人生は回転人生だったのか。それで回転寿司の回転台の上でも目を回さないで、堂々としていられるのか。それならむしろ、回らないマグロのほうがおどおどしているはずだ。子どももくるくる回して育てると回転人生になる。のびのび人生にしてあげたい。ひとつ利口になった。ああ、最近、回らないマグロを見ていないなあ。(たかの耕一:takano@adventures.co.jp) |
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3周目から半額にしろ マグロが日本から消える。いまのうちに食べておこう。渋谷の回転寿司屋にいく。若者や外国人が多い。ひとり7皿以上食べる決まり。入り口でアジア人の女性から「ヒトリナナサライジョウ、ヒトリナナサライジョウ」と叫ばれ、思わず「オッケイ」などと英語で答える。寿司屋で英語を使ってはいかんな。反省する。文化として寿司屋では日本語を貫きたい。アメリカでは「マグロプリーズ」とか「イクラプリーズ」とか言っているのだろうか。「トロアゲイン」とか「アガリアゲイン」などとぬかしているのか。このやろう日本文化をどう考えてやんだ。30分待って席に着く。お茶を飲むのももどかしく、遥か遠い回転台の前方をにらみつける。マグロこい、マグロこい。呪文を唱える。きた、あ、取られた。きた、あ、また取られた。回転寿司の無常観はここだ。5メートル先からわたしに食べて欲しいとマグロが「こんばんは、よろしゅう」と三つ指ついて艶っぽく迫ってくる。「こちらこそ」思わず頭を下げる。待ち合わせをした彼女が手を振りながら駆けてくるあの気分。向かってくるマグロに手を振りたくなる。ああ、あと3メートル、あと2メートル。早くこい。迎えにいきたくなる。だが、回転寿司には厳しい掟がある。立ち上がって4・5人飛び越して取りにいってはいけない。自分の前にくるまで待たなくてはいけない。彼女だったら走って向かえにいくのは美しいが、回転寿司では迎えにいくのは醜い。マグロがあと1メートルに近づく。わたしの小皿には醤油がたっぷり。ガリも食い飽きた。腹はお茶でがぶがぶ。あと50センチ。よし、きた、手を伸ばせ。という瞬間、隣の女性の手が伸び、ぱっとわたしのマグロを取る。わたしのマグロだ。正確にいうと、わたしの口に入る予定だったマグロだ。マグロだってその積もりだった。待ち合わせの彼女をすっと横からナンパされたような気分。惨めな一瞬。目の前が真っ白になる。わたしのマグロ。どうつまみ、どう醤油をつけ、どう口に運び、どう噛み、どう呑み込むか。シュミレーションが出来上がっていたわたしのマグロ。そのわたしのマグロをかの女性がまあ旨そうに食う。人をあざ笑うかのごとく、頬に笑みを浮かべ、顎をあげ、目を閉じ、幸せそうだ。その不敵な笑み。殴ったろうか。まあ、いい、次を待とう。怒っているうちに次のマグロを見逃すのは愚かだ。気分を変える。このように回転寿司は厳しい修行の場である。なんでも自分の自由になるなんて甘い考えはいかん。干からびてのけぞったナスが回ってくる。「わたしもう3周めです。お願い食べて」なんて母性愛にすがる。だめ。マグロ。オンリーマグロ。第一お前、そんなにのけぞって海老のまねしてもだれもだまされないよ。去っていくナスの後姿にいう。3周めから半額にしろ。どうせ棄てられるのなら、半額にしろ。「店長に行ってください」ナスはそういいさらにのけぞって消える。この話には続きがある。なぜ、マグロは回転寿司の台の上でも目が回らないか、という貴重な話。請うご期待。(たかの耕一:takano@adventures.co.jp) |
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西部警察のゴリさんが、若く、高校の先生をやっていた頃、わたしも若かった。ゴリさん、俳優の竜雷太さんのことで、刑事も先生も役の上でのことだ。教え子の高校生が恋をした。ゴリさん先生はギター片手にほのぼのと歌を歌った。その歌はわたしの心に沁みて、恋はこうではなくてはいかん、とそれ以来思い込んでしまった。恋する女の子は、田舎の子でなくてはいかん。日当たりのいい原っぱの草の匂いがする子でなくてはいかん。それまでは、石原裕次郎説の石鹸の匂いのする女の子が理想だったが、この歌でころりと恋のイメージを変えた。石鹸の匂いのする子から草の匂いのする子に転向した。恋のステージは田舎の道でなくてはいかん。白く、どこまでも続く長い一本道だ。両側は畑だ。田んぼより畑だ。芋だとか胡瓜だとかトマトだとかの野菜畑だ。麦や桑もいい。視界の果てまで続く道のところどころには背の低い野生の栗の木や、背の高い胡桃の木がある。道は、目の前からなだらかに下っているが坂というほどではない。真ん中あたりに小川が横切る。ドジョウがいる。赤い甲羅の沢蟹がいる。夏の夜には蛍が舞う。澄んだ冷たい水が流れ、川底の小石がくっきりと見える。小川の脇には小さな水車があって、小さな農家がある。農家には柿の木がある。そんな風景の中をバスがやってくる。鼻のあるボンネットバスだ。そのバスがくるのをわたしは待っている。もう何時間待っているだろうか。風が吹く。空が赤くなってきた。夕焼け雲が点々と浮いている。わたしの好きな草の匂いのする子は、バスに揺られてくる。世の中から忘れられたようなバス停の脇の土手にわたしは座っている。ジーンズを履き、遠くに視線を送りながら、本を読んでいる。こんな場合の本は、赤川次郎ではない。マンガなどもっての外だ。ヘミングウェイでは硬派すぎる。トルストイでは歪みすぎる。サリンジャーでは寂しすぎる。スタンダールかサガンがいい。もう日が暮れそうだ。彼女もバスに揺られながらきがきではない。鳥が数羽、鳴きながら家路を急ぐ。遠くを見る。まだバスは見えない。どうしたのだろう。彼女になにかあったのだろうか。バスが故障でもしたのだろうか。その頃、もちろんケータイはない。わたしは立ち上がり、遠くに目を凝らし、また草の上に座る。ゴリさんの歌が聞こえてくる。ポプラの陰を踏みながら、バスに揺られてくるかわいい子。目を閉じる。恋は男の子守唄。夕焼け雲が赤みを増した。空を見上げ、足元の草をちぎってみる。ぼくはあの子と暮らしたい。ゴリさんがやさしく歌う。そう、恋は男の子守唄だ。バスの運転手のすぐ後ろの席で、揺られながら一生懸命に前を見つめるけなげな彼女を想像しているこの瞬間がいいのかも知れない。あの歌のCDを探してみてもどこにも見つからないように、そんな恋ももはや現実ではないのだろう。(たかの耕一:takano@adventures.co.jp) |
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| 18階建ての若木ホールの最上階、有栖川記念館で國學院大學空手道部第54代の卒部式が行われた。小雨降る土曜日の夕刻だった。渋谷でバスに乗ると13代同期の花松くんと一緒になった。有栖川記念館は広く清々しく、すっきりと居心地がいい。広いガラス窓から見える渋谷の美しい夜景は、手を伸ばせば届きそうだ。わが空手道部の創設者であり初代主将である小倉先輩の乾杯の音頭で卒部式は始まった。丸いテーブルが6脚置かれている。われらの席にはOB会会長の斎藤くん、同期の花松くん、後輩の川口くん、特別OB会員右近くんがいる。新しい主将がビールを注いでくれる。空手道部60年近い歴史の中での初の女性主将は、しっかりとした口調で話し、好感がもてる。現在、部員はたったの6名。トキやジュゴンのように絶滅寸前となった部を懸命に担っていこうというけなげさが胸を打つ。OB会はいったい何をしてるんだ。あ、わたしもOB会会員のひとりなのだ。自分の力のなさに腹が立つ。副監督として現役の近くにいるOB 会副会長の日下部くんが隣にくる。彼の口車に乗ってこの会にわたしと花松くんは出席した。日下部くんは、わたしより2年後輩で、実直な男である。これは斎藤OB会長も同様である。実直がゆえに色々な意見に応えようとしすぎて、苦労が多い。現役に対しても真っ向からぶつかろうとするから色々摩擦も起きる。でも、それでいいではないか。わたしは思う。実直がゆえに起きる摩擦は、後輩のためになる。いい加減に逃げるよりははるかにいい。きっと後輩たちも感じてくれる。時が移り、時代が変わろうと真剣な熱意は、色褪せることはない。小倉先輩がわざわざ席を回ってビールを注いでくれる。凄い男の柔らかい物腰は、むしろ爽やかさである。先刻より隣のテーブルから合図を送ってくる1年先輩の小柴さんとグラスを合わせる。現役時代もそうであったが、相変わらずカッコいい男であった。熱血の男であった。部員の少なさを話す。なぜ、部員が増えないのだろう。細かいことは山ほどあるが、誤解を恐れずにひと言で言えば、人気がないのだ。空手や空手部をカッコいいなんて思ったのは、われらのあの時代だからだろうか。そういう話になった。OB会の話に及んだ。現役時代は、みんなカッコよく生きていた。今のOB会はカッコいいだろうか。単純にカッコいいのか悪いのか。そんなにカンタンなものではないと思う。小柴先輩が頷いた。カッコよく生きたいよな。そう、カンタンとか難しいとかの話ではなく、カッコ悪いのはカッコ悪い。難しいのは当たり前。でも、それはカッコ悪くていいという理由にはならない。難しいからこそ、カッコよくやりたいではないか。そんな話になった。OB会事務局長の奈良先輩も隣にいる。奈良先輩もカッコいい。登内先輩に挨拶する。大手術をした先輩の体調を心配していたが、顔色はよく、握った手にも力があった。小松先輩は、いまもなおカッコいい。全員カッコいいのである。OB会も現役もカッコよくなくてはダメだ。帰りのバスでそう思った。(たかの耕一:takano@adventures.co.jp) |
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| 春、彼女は明治記念館で結婚式を挙げます。型破りな結婚式を望む彼女のこと、どんな結婚式になるのかとシュミレーションをしました。仲人の挨拶が終わり、主賓挨拶です。事件がおこったのは、彼女の会社の社長が挨拶を始めようとしたときです。携帯電話が鳴りました。こんなときに失礼な。でも、その携帯は花嫁のものでした。ごめん。手を上げて彼女は電話に出ます。もしもし。得意先の現場担当からの電話です。店頭でのセールスグッズに支障をきたし、お客様が大騒ぎ。担当はおろおろ。えっ!?。なんとかしてください。悲痛な叫び。彼女は飛び出します。ひとにまかせてはおけない。彼女の責任感がうずきました。ウェディングドレスを両手でツマミあげ、走ります。明治記念館の玄関前の砂利道で白いシューズの片方が脱げて跳びます。彼女は見向きもせず、もう片方のシューズも脱ぎ捨てます。早く、早く行かなければ。大通りに出ます。あやうくタクシーにぶつかりそうになります。神宮外苑の道を、歩道ではなく車道を走ります。車が急ブレーキをかけます。バッキャロー。彼女は叫びます。驚いたのは花婿です。大手商社のエースの花婿は、会社のえらい人も大勢呼んでいます。なんでこんなときに電話なの? え、え、どこ行くの?という前に飛び出した花嫁。おろおろします。もっと驚いたのは彼女の会社の社長です。挨拶をしようとしたら花嫁が飛び出したのですから。挨拶を聞いてくれ。社長はマイクをもって花嫁を追いかけます。彼女はわが社に入社して、お得意様の信頼も厚く、の挨拶の厚くのところで飛び出した花嫁を追いかけ、厚く、厚く、おーい、厚く、と叫びながらマイクを握り締めて走ります。ふとわれに返った花婿も駆け出します。走る花嫁。追いかける社長。その後を走る花婿。あっちこっちでクラクションを鳴らして急停車する車。これよ、これなのよ、わたしが望んでいた結婚式って。彼女はぜいぜい言いながら胸が躍ります。青山通りに出ます。誰が呼んだのでしょう。赤坂警察のパトカーが2台、彼女の後を追い始めます。ふん、捕まるもんか。彼女は牛若丸のように車の屋根から屋根へ飛び移ります。ウエディングドレスが花が咲くように開きます。厚く、厚くと叫び、涙と鼻水を垂らしながら走る社長を見て、パトカーが急停車しました。おい、アレは、何だ? 運転している警察官が助手席の相棒に言います。何かのたたりかな? 福島県出身の助手席の警察官が言います。下手に追いかけると、後が恐いぞ。そうか、じゃ、追いかけるフリをしよう。あくまでフリな。運転する警察官が答える横を、ボロボロになった花婿が走りぬけます。もう、追いかけるフリも止めようか。福島の警察官が口をあんぐりと開けました。花婿は自分の勤める会社の前を走ります。なぜか会社のビルの窓から鈴なりになった同僚の社員たちがエールを送っています。何が何でも完走だけはしなければ。花婿は応援に答えて手を振りながら、心に誓うのです。厚く、厚く、完走、完走。喜々として走る花嫁。式場に残された彼女の会社の部長がぼそりと言います。よかったなあ、彼女、ウエディングドレスで走るのが夢だったんだ。(たかの耕一:takano@adventures.co.jp) |
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| 彼の名前は言えません。店の名前も言えません。マスターです。酒場です。新宿は伊勢丹の近く、としか言えません。フォークシンガー杉田二郎さんが小雨に煙る夜に「黒い花びら」を歌った酒場です。地下です。狭い階段を下ります。このくらいは言っても大丈夫。あなたは入り口さえ見つけることはできないでしょうから。小さな店で、古い年代物の黒光りするカウンターに5人、奥のボックス席に数人しか座れません。他の客がいるのを見たことがありません。年代物といえば、店のすべてが年代物です。マスターの彼もまた、年代物です。若いときに悪行も善行も限りを尽くした男だと聞いています。その「わけあり」感が心地よいのです。ひっそりと暮らす酒場のひっそりと暮らすマスター。「わけあり」には、この「ひっそり」こそが大事です。言うなれば、居酒屋とは正反対にいる酒場です。むかし、石原裕次郎が「俺は待ってるぜ」の映画で演じた、あの「ひっそり」感です。わけありです。裕次郎の場合は、南米に行った兄貴の便りをひとりで待つ男でした。くる日もくる日もポストを覗き込むのです。港に近く、霧笛がむせび泣くのです。列車が通るたびに揺れる酒場でした。裕次郎は元ボクサーで、そのときに何かがあり、もう日本にはいたくはない、というわけありの男でした。テレビドラマで言えば、絶対に大原麗子です。駅から離れた路地の奥にある小さな飲み屋。風に揺れる赤提灯。和服を着て、カウンターの中で、ムダ口はきかず穏やかな笑みを浮かべ、お銚子を持つのです。その和服の奥、笑みの奥に過ぎ去った修羅がいまなおマグマのように真っ赤に燃えているのです。和服と笑みが、いますぐにでも爆発しそうなマグマを押さえ込んでいます。辛いのです。必死です。別れた男との間に生まれた子どもが幼稚園に行く歳になりました。男は二度と大原麗子の前には現れません。そうとわかっていても、暖簾が揺れるたびに男が帰ってきたのか、と目を上げてしまうのです。マスターの彼もそうです。石原裕次郎であり大原麗子です。彼はあまり笑いません。かといって不愉快ではありません。グラスを洗うために下を向いた瞬間にふと苦渋が頬をよぎったりします。マグマが活きています。だれだってひっそりと飲みたいときがあります。だれにも言いたくはないが、だれかに聞いてほしい。そんなことがあるものです。ふだん居酒屋で大騒ぎをしていても、人間ふとこの酒場で一杯やりたいと思うときがきっとある。心の隙間をそっと埋めてくれるのは、心に癒しきれない隙間を持っている人です。その酒場でマスターがそっと差し出す小さな皿に乗ったかわいいチョコを見ると、なぜか涙ぐむのです。自分が背負っている重荷のために自分が押しつぶされそうになったとき、この「わけあり」酒場、そしてこの「わけあり」マスターがいいのです。修羅をロマンに変えてくれる店です。場所も名前も教えません。(たかの耕一:takano@adventures.co.jp) |
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| 新しい年は、感動多き年にする。初詣の稲荷神社にお賽銭を投げ込みながらそう決意する。お賽銭は財布に入っている有り金をすべて投げ入れる。神も驚いているだろう。わかりました、きっとご利益をお届けできるよう努力します、なんて思うはずだ。だが、堅実な妻のお賽銭感覚は違う。札しかないと、お釣りをください、などといいかねない。神主さんに、すいません1000円札崩れますか、などといいかねない。ま、いいか。その金銭感覚がわが家を支えているのだ。年齢のせいか感動が少なくなっているような気がする。いけないことだ。最近の感動といえば、愛犬がペットボトルに入った餌を器用に手?で取り出すのに感動したくらいだ。どうもスケール感に欠ける。感動といえばスケール感と決まっている。そこで家族そろって富士山にお参りしようと、わたしは決めた。午前10時に家を出る。息子がハンドルを握る。妻も免許をもっているが、高速道路は苦手だ。高速道路での車線変更は、彼女にとっては人生の進路を変更するようにむずかしい。だから遠距離の運転はしない。東名高速を南下する。空いている。沼津漁港で昼飯を食おう。むかし東海道を走り回って仕事をしていた息子がいう。沼津近辺は庭だよ。爆弾低気圧の後だから台風一過のごとく、空は青く澄み渡り、やがて前方に雪を被った富士山が顔を見せる。沼津漁港の魚市場には店々が並び、観光客が右往左往している。駐車場の係りに人にうまい店を聞く。地元の意見は貴重だ。どんぶりの名店に入る。さほど大きくはないが、地元の漁師も寄るということだ。混んでいる。メニューを見る前に他の客のどんぶりを見て驚く。海の幸が山のように積み重なっている。どんぶりからこぼれ落ちそうである。感動はスケールだ。感心していると妻がすかさず、わたし海鮮どん、と山となる海の幸に飛びつく。息子は、生しらすいっぱいのダブルどんを頼む。カンパチと鯛の刺身をつまみ、茶色のブロックの桜海老のかき揚げを崩しながらビールを飲んでいると、妻の海鮮どんが彼方からしずしずとやってくる。まるで宝船の進水式のように荘厳でさえある。どんぶりの中で海老が跳ね、鯛が踊り、カンパチが叫び、いわしが弾け、赤貝が駆け回る。イクラが手招きし、ウニが笑う。飯はまるで見えない。妻はにんまりと笑い、食べるというよりどんぶりと格闘を始める。息子が笑う。これぞスケールの大きな感動だ。帰りは環八の木曽路でしゃぶしゃぶ食べようね。妻がいう。刺身を食べながら、よく肉を想像できるものだ。女は恐い。それって自民党を応援しながら共産党に票を入れるようなものじゃないか。忍野村から富士を仰ぐ。でっかいわね。妻が実にシンプルな感想を述べる。コノハナサクヤ姫を神とする富士山は美しくも雄雄しくわれらを包むのだ。火の見櫓があり、水車が回り、わらぶき屋根が佇む忍野村には日本があった。いい正月だ。蕎麦屋は閉まっていたけれど。(たかの耕一)takano@adventures.co.jp |
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| 冷たい小雨が夜の舗道を濡らしている。新宿。伊勢丹と通りをひとつ隔てた路地裏。肩をすぼめて細い階段を下りると小さな酒場がある。大病を乗り越えたマスターがひとり、カウンターの向こうで静かに微笑む。黒い花びら、静かに散った。心を振るわせる低い歌声が酒場を抱いた。あの人は帰らぬ、遠い夢。彼だ。あの男だ。あの男が歌っている。水原弘。カウンターに寄り添いながら、僕らは黙り込む。全身に鳥肌が立つ。背骨を戦慄が貫く。目を閉じる。俺は知ってる、恋のせつなさ。だが、水原弘ではない。カウンターの横で長身の男が肩を丸めてマイクを握っている。だから、だから、もう恋なんかしたくない。ちがう。水原弘ではない。客だ。僕らはこの歌を水原弘よりうまく歌うものに出会ったことがない。この歌は水原弘と一緒に死んだ。そう思っていた。だが、歌は生き返った。その歌「黒い花びら」は間違いなく生き返った。初めてこの歌をきいたのは、中学のときだ。目白にある映画館で映画の主題歌として聞いた。日劇ウエスタンカーニバルが大ヒットし、平尾昌昭、ミッキー・カーチス、山下敬二郎が一夜にしてビッグスターにのし上がった頃で、そういったビッグスターが登場する映画だった。水原弘はその中にいたが、彼は日劇でウエスタンを歌ったのではない。僕は日劇に行かなかったから、ほんとかどうかわからないが、水原弘はウエスタンを歌わずに、石原裕次郎の「錆びたナイフ」を歌ったと聞いた。心を揺さぶる低音。水原弘と裕次郎の共通点は低音にあった。低音と不良性にあった。当時、男は低音で不良でなければならなかったが、ぼくは低音にならず、不良のほうも中途半端で終わった。黒い花びら、涙に浮かべ。長身の男が背中を丸めて歌っている。水原弘を超えた。低音。深い低音。汚れ。悲しみ。孤独。滑らかさと荒々しさ。艶と無骨。引き寄せては突き放す。冷たい抱擁。純粋。片頬に浮かべる笑み。いまはないあの人、ああ初恋。マイクを握っている男は、フォークシンガー杉田二郎。「戦争を知らない子どもたち」を歌ったあの杉田二郎だ。彫刻のような彫の深い顔は、決して愛想のいい顔ではない。美男ではなく、土の匂いのする顔だ。だが、目だけがやさしい。やさしさは目だけでいい。岩のようにごつい顔は、笑うと子どもになる。戦争を知らない子どもの顔ではなく、戦場でひもじさに泣き、爆弾に脅え、悲しみに沈み、絶望の果てに浮かべたたった1ミリの希望を見上げる顔。それが杉田二郎の顔だ。俺は知ってる、恋の悲しさ。杉田二郎は、背中を丸めて歌う。杉田二郎から発せられた歌は一人歩きをして、僕らを包み込む。そうだ、そこがプロの見事さだ。杉田二郎の見事さといっていい。歌は杉田二郎を離れ、歌として存在し、歌そのものが人々を包んでいく。僕はプロを知った。素人は自分を主張する。杉田二郎は、自分を殺して歌に命を与える。師走。小雨が降る、新宿路地裏。杉田二郎の「黒い花びら」が、濡れた歩道を駆け抜けた。ネオンが潤んだ。(たかの耕一)takano@adventures.co.jp |
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| 「True of First Light」夜明けの真実、という原題をもつヘミングェイの遺作は、日本では「ケニア」と題され彼の生誕100年に出版された。アフリカでは曙光の一条に映し出される真実が、昼には偽りに変わる。やがて太陽に焼き焦がされた岩塩の彼方には、美しく縁取られた湖が広がり、この湖ほど尊厳なものはほかにはない。夜明けとともに平原を歩いて行くと、そんなものはどこにもないことを知るのだ。この一文が心に残る。大英帝国の植民地主義政策に対するアフリカの微力な抵抗の中にヘミングウェイが見つけた真実とは、絶望なのだろうか。真実は、蜃気楼に過ぎないのだろうか。ヘミングウェイは、禁猟区に追いやられ生活基盤たる狩猟さえ禁じられたアフリカの先住民を、ヨーロッパの白人により居留区に追いやられ与えられた偽りの自由に封じ込まれたアメリカの先住民に重ね合せて見る。そこには絶望しかないのか。絶望の奥に新たな真実はあるのか。否、絶望はどこまで行っても絶望に過ぎず、金太郎飴のごとく絶望こそが永遠の真実であり、探っても探ってもその奥に希望を秘めた真実の欠片もなく、探るほどにわれらは絶望の暗黒の淵に沈み込んで行くのかも知れない。それが真実とするなら、われら人間は実に愚かな生物といわねばならない。一方から語る自由の倫理の基に、他方の自由が絶滅されるなど、まるでそこには人間が持ちうる壮大で尊厳的な知恵はなく、動物がただただ生き抜く最小の知恵しか見えないのである。真実とは人間の及ばぬ神の領域のものなのか。真実とは神の専用物であり、神の気まぐれでしかわれらはめぐり合うことができないものか。人間が、人間の壮大な知恵により真実に近づくことができるなら、希望に満ちる真実はわれらの手の中の存在といえる。たとえ真実が神の領域のものであり、仏の境涯のものであっても、人間は手を伸ばして探り当て、掴み取らねばならない。神の力を借りようと、仏と相談しようと、いや、悪魔の手を借りようともわれらは真実を掴むべきだ。見方を変えれば、真実を掴むのは煙を掴むよりカンタンなことかも知れない。アフリカの夜明けの真実も、アメリカの夜明けの真実も、そして日本の夜明けの真実も、地球上に存在する夜明けの真実のすべては、じつは決して蜃気楼ではなく、一瞬見失っただけのことなのだ。そう考えると、夜明けにあった真実を消し去ったのも人間のなせる業であり、真実を消し去った人間の愚かさこそが蜃気楼だとも考えられる。そうである。夜明けの真実も真昼の偽りも、実は人間が心にもつ真実であり、偽りもまた真実といえる。夜明けのものをわれらは真実と呼び、真昼のものを偽りと呼んでいるだけなのだ。そうなのだ。真実も偽りも、われらの心にあり、なのである。戦争も平和も、実は同じものであり、愛も憎しみもまた双子なのだ。どちらを選択するか、だけなのである。希望に溢れる真実を。われらに。世界に。(たかの耕一)takano@adventures.co.jp |
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| 新宿二丁目のネオンが泣いている。新宿御苑の銀杏が色づく11月10日。漫画家はらたいらさんが逝った。それを電話で教えてくれたのは、弟の里志だった。見上げると、赤いネオン青いネオン黄色いネオンがチカチカと泣いている。はらさんと出会い、ほとんど毎夜のごとくこの辺りのネオンを友として飲み歩いたのは何年前になるだろう。そう思いながら果物屋の横を歩く。おかまが尻を振って道を横切る。その光景は、はらさんとふたりで眺めた光景そのもので、長い時間を超えてもまるでとなりにはらさんがいるようだ。はらさんがTBSの「クイズダービー」という番組で司会の大橋巨泉をして「宇宙人」といわしめた才能、博識、頓知で瞬く間に茶の間の人気者になった頃だった。本業の漫画が忙しい上に講演にテレビにと、はらさんはへろへろになりながら、明け方の3時4時まで手からグラスを放さなかった。ときには酒場から直接赤坂のスタジオにタクシーで行くこともあった。いつ漫画を描くのだろう。そんな疑問にはらさんは「いま、描いてる」とグラスを口に運びながら笑うのだった。はらさんはみんなと酒を飲んでいても漫画を描いていたのだ。カウンターに寄りかかって笑っている時でもはらさんの頭脳は凄い勢いで回転していたのだろう。その頃わたしがつけたはらさんのキャッチフレーズは「酒を筆に漫画を描く男」だった。会話のひとつひとつが見事な一こま漫画になっていた。はらさんは物凄くシャイなのにサービス精神が旺盛だった。シャイから生み出されたダンディズムがはらさんを包んでいた。だから、はらたいらの漫画は決して下品にはならなかった。サービス精神とダンディズムのつじつまを合わせるためにはらさんには酒が必需品だった。わたしはそう思った。漫画は直接ファンと顔を合わせることがないので「その点ラクだよ」とはらさんはおっしゃった。漫画では筆がクッションになり、シャイな部分をスマートなダンディズムに変え、サービス精神を存分に発揮できたのだろう。はらさんにはダンディズムという言葉が似合った。土佐の無頼を語りながら涼しい笑顔を見せるはらさんは見た目もやることも言葉もダンディズムに溢れ、痛烈に風刺の利いたアイディアにもいつも品があった。シンプルな線で表すモンローちゃんのあの色気、あの可憐は、極めつくした筆であり、そこにはらさん独特の視点から鋭く睨みの利いた世間批評が絡んで「はらたいらワールド」は完成された。新宿の裏町の通りすがりのおばちゃんに「あ、はらさんに1000点さんだ」と声をかけられ、思わず吹き出したのは、あれは昨日のことだったのか。はらたいらさん、ありがとう。ファンとして友として。(たかの耕一)takano@adventures.co.jp |
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| 六本木の俳優座の裏にあるカフェバーで3人でビールを飲んでいる。日差しは明るく、心地よい風が店内にも吹き込み、背の高い椰子の葉を揺らしている。丸い白いテーブルを囲んで目の前には、俳優であり作家であり大阪芸大舞台芸術学部の学部長である浜畑賢吉くんがいる。その隣には土門拳氏の弟子で仏像写真の第一人者藤森武くんがいる。わたしたちは高校の同級生で、付き合いはもう40年以上になる。俳優は、右脳で表現しなければ豊かな表現はできないよ。浜畑くんがいう。左脳表現ではお客さんは感動しない。文章だって写真だってそうだろ。左脳で吸収したものを右脳から表現として出す。これが大事。そりゃそうだ。計算で撮った写真なんか面白くもなんともない。だって、いまじゃカメラが全部計算しちゃうからね。正確に撮れるが感動はない。藤森くんがいう。だいたいが人間の脳の根本は恐竜の脳だって話だが、人間はそこに一粒の脳を加えただけだ。食欲と性欲で占められた恐竜の脳に一粒の人間の脳が足されただけ。それが左脳。つまり一皮剥けば恐竜ですよ、人間も。わたしがいう。恐竜の脳が右脳ってわけだ。面白い、つまらない、興味が湧く、昂揚する、興奮する、感動する、これはみんな右脳だ。感情機能だ。これは恐竜時代からあるものだ。それに比べ左脳は、左脳算数といって、早くいえばデジタルだ。数字だね。記号だ。金勘定とか人間として社会生活を送る規則とか、共通言語、共通記号となる手段を担当する。記号は所詮記号に過ぎない。浜ちゃんがいうように精神面、文化面を司どるのは右脳だろう。写真もデジタルカメラが主流になりつつあるが、フィルムには根強いファンがいる。藤森くんがいう。アナログの緩やかさな、デジタルの隙間というか、数字と数字の間にあるもの、これがむしろ人間の感情に似ているからじゃないか。でも、いまの若い連中でも右脳を見事に使うものがいて、面白いよ。浜畑くんがいう。学校で教えることができるのは、知識とか技術とかだけど、むしろ心を教えたいと思って授業をしている。人間のやさしさとか愛情とか、礼儀作法とか、右脳の使い方だ。だが、この肝心な部分だけは才能であって、正直いって身につかないものもいるよね。残念だけど。美学というのは学がつくから理論にすべきだが、感情を理詰めで表現することの限度がある。才能は開くというが、ないものはいくら教えても開かない。広告も同じことがいえるよ。わたしはいう。基本は「人の心を動かすのは、人の心」という舞台や写真、芸術と同じなのだが、経済活動直結だからいまの時代は辛いよ。売れればいいんだ、なんていう広告クリエイターがいて、自分の首を絞めているんだ。心がないということが、才能がないということだと気づかない愚かだな。おれたち恐竜の脳を大事にしような。右脳に乾杯。 (高野耕一:takano@adventures.co.jp) |
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| 台風13号が東の海上を北上している。三崎でマグロを食おう。愛犬にも海を見せよう。息子が言った。NHKテレビで将棋が始まる時間だったから、日曜日の朝の10時だ。家を11時に出る。第3京浜を通り、横浜新道を抜け、横浜横須賀道路を走る。空いている。ちょこちょこと料金所があり、カミサンがぶつぶつ言う。やれ200円だ、やれ250円だと、小銭ながらちょこちょこ取られることが彼女は気に入らない。まるでボクシングのジャブだな、と息子が言い、そのうち利いてくるな、とわたしが言う。横浜横須賀道路で、はい1100円と言われ、ジャブの後に顔面にノックアウトパンチがきたな、と息子が笑う。高速を出ると有料道路だ。なによ、ノックアウトされて倒れるわたしをまだ殴る気なの。カミサンが怒った。有料道路を出ると街道に沿って野菜畑が広がる。作物がない畑は薄茶色の海原だ。やがて、道はうねりながら下り坂となり、そのままクルマが海に飛び込むように、突然海が開けた。空は青く、広く、海は凪いでいる。バス停がある交差点を右折する。突堤をひとつ越えて、駐車場にクルマを止める。料金は、1日600円。愛犬に海を見せる。突堤では、家族が釣りをしている。小学生くらいの女の子が叫びながら竿を上げた。黒いガスホースのようなうなぎが竿先でくねっている。弟が悲鳴をあげる。目の前で魚が跳ねる。 (つづく) |
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トイプードルは本来水辺の猟犬だ。愛犬は海を怖がるどころか興味津々に鼻先で波をさぐる。大きな波がくると、あわてて飛びのく。今日はいつもの店は止めて、新しい店をさがそう。店さがしは潔癖症のカミサンに限る。交差点を越えて歩く。小さな湾に沿って背の低い古い家々が城ヶ島方面に向かって軒を並べている。路地を1本入る。魚屋があり、民家を挟んで魚屋が経営する食事処がある。飯場のような無愛想な食堂で、客が10人も入れば満席だ。日曜日しか開いていないよ。うちは、予約客ばかりだからね。ジュンちゃんと呼ばれる店長が胸を張る。でも、待ってれば入れるよ。店長は、威勢もいいがひともいい。魚屋から刺身の盛り合わせの皿を運んでいるのは、魚屋のおカミサンだ。旨そうだ。ここに決める。じゃあ、待ってる間、ビールをくれないか。いいよ、泡、少ないほうがいいよね、とジュンちゃん。オープンカフェのように表にテーブルと4脚の椅子があり、そこに座る。愛犬をパラソルの足元に結び、刺身の盛り合わせを食べる。息子はマグロ丼を食べる。通りすがりの地元のおばさんが、ここはおいしいよ、といって愛犬を撫でる。ほらほら、そんなに山葵をつけちゃダメよ、と息子にいう。なんだか、母さんみたいのがもうひとり増えたな、と息子が苦笑する。あら、かわいい。家族連れの女の子が愛犬に歩み寄る。ここ、おいしいですよ。カミサンが女の子のお母さんに声をかけ、営業している。92歳のおばあさんがクルマ椅子でくる。うちの犬と90歳違うんですね。そういうと、おばあさんはにっこり笑って、マグロを口に運んだ。小さな幸せ。これが人生よ。わたしがビールを飲みながらえらそうに息子にいい、カミサンが鼻先で笑った。 (高野耕一:takano@adventures.co.jp) |
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| いっとき、つかこうへいさんにのめり込んでいた。つかさんは天才である。かといって舞台を見るわけではない。わたしは本を読む。映画を観る。つかさんは、なんといっても「蒲田行進曲」だ。大スター銀ちゃんと大部屋の脇役やすの物語だ。スターさんのためには大部屋の脇役は、命のひとつやふたつは捨てても当たり前という時代錯誤が美しい。つかさんの話はいつも時代錯誤どころか人間錯誤のようなつか流の絶対的な価値観があり、錯誤とは知りつつなぜかその馬鹿馬鹿しいまでの純粋に心を奪われてしまうのだ。そう、通常の人間世界でふと見逃してしまう落とし穴や、極めてありそうであるが絶対にあり得ないがゆえに美しいブラックホールを、つかさんはひょいと摘み上げてみんなの鼻先に突きつけるのだ。そう、それは恐ろしく純粋なのである。馬鹿馬鹿しいまでの表現をしなければ、今のこの時代、人間には純粋などありはしないのだ。あるいは、本当に純粋に生きる人間がもしいたら、そいつは実は馬鹿馬鹿しく見えてだれも相手をしないのではないか。壮大な皮肉屋であるつかさんは、人間はどう生きるべきかなどという、この世の真摯な発想を一度ぶち壊してしまい、笑い飛ばしてしまう。主役の銀ちゃんはこう思っているのだ。大部屋の脇役を何人殺そうが、おれの魅力的なアップが写っていればいいんだ。(つづく) |
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| それが映画ってもんなんだ。ファンが観たいのはそれだけだ。だが、そんな関係の中にしっかりと愛情がある。その関係だからこそ見える愛情があるのだ。三谷幸喜さんも好きだ。大河ドラマ「新撰組!」を書いたとき、タイトルの「新撰組!」の「!」がいいでしょ、といって笑った。どういいのかわからないが、とにかくこっちも笑ってしまった。新撰組にエクスクラメーションマーク「!」をつけてどうすんの。新撰組って名前でしょ。名前にビックリマークをつけて誰を脅かそうというの。それを「いいでしょ」といばってどうすんのよ、と思ったものだが、あとでテレビの番組欄をそっと確かめてしまった。三谷さんとつかさんにおんなじ匂いを感じるのはわたしだけではないと思う。三谷さんの映画「家を建てよう」(だったかな?)では、田中邦衛さんが「日本人といったら和室だろう。な、そうだろう」と、設計士の唐沢さんの設計を勝手に変えて、和室を大きくして家を建ててしまう大工の棟梁を演じたが、とにかく登場人物が純粋なのだ。一途なのだ。日本建築はこうでなければならない、と頑なに信じたらそれがもう神の言葉。でも、つかさんと三谷さんの本や映画に出てくる人は、いい加減な人ではない。それが共通点だ。真面目だ。純粋だ。一途だ。だから、腹を抱えて笑いながら泣けるのだ。感動するのだ。喜劇は実は悲しい。喜劇は純粋だ。ここんとこ、いい加減な人間のいい加減な笑いが多い。それがこの国をダメにしている。そんなことで笑っていると、日本は世界に負けるぞ。おわり。(たかの耕一takano@adventures.co.jp ) |
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| キング・フィリップスの不幸が、そのままアメリカの不幸になるとは思わないが、だからといって誰もがいまのアメリカを幸運とは断定できないだろう。いずれにしろアメリカの根源の部分にキング・フィリップスの存在があることは確かだ。149人の清教徒たちがメイフラワー号に乗ってはるばると大西洋を越え、プリマスにたどり着いたのは1620年のことだ。厳しい冬、壊血病、全身衰弱、飢えと寒さのために移住者の半数が死んだ。手を差し伸べたのは原住民であるインディアンの酋長サマソイトだった。キング・フィリップスの父だ。彼は、白人たちに食糧を与え、とうもろこしの栽培法を教え、土地までも与え、救った。それなのに、である。それなのにサマソイトが死ぬと白人たちは、インディアンの土地を奪い、歯向かう者の虐殺を開始した。これに対し、サマソイトの息子キング・フィリップスはインディアンの部族たちを集め、その力を結集しようとした。だが、インディアンたちは一枚岩とはならなかった。つまらない部族間の縄張り根性がキング・フィリップスを見殺しにした。いつの時代にも、どこにでも、大局観を持てず自分だけの利益を求める愚か者がいて、そやつの愚かさが不幸を招いてしまうことはある。アメリカの未来を変えてしまったのは、インディアンたちが力を結集しなかったからであり、それは移住者たちの思う壺であった。けちな根性を捨て、大局に向かってインディアンたちが力を結集していれば、白人たちを大西洋の彼方へ追い払うことができたかも知れない。(つづく) |
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| 勝機はその一瞬にしかなく、見殺しにされ敗れたキング・フィリップスは、白人によって首を刎ねられ、25年間その首はプリマスの広場にさらされた。もし原住民のインディアンが勝利し、現在のアメリカを築いていたら世界はまったく違う力学の上に成り立っていたのだろう。こうしてアメリカの歴史は移住者たちの歴史となった。われらはアメリカの時代劇、西部劇をよく見たが、それは移住者である白人の創った映画がほとんどであった。インディアンは悪人であった。キング・フィリップスの不幸とタイトルをつけたが、それは彼個人にとっては紛れもなく不幸であろうが、アメリカの不幸かどうかは誰も知る由はない。いや、移住者たちは不幸とは思っていないのだろう。アメリカを「理想の国」として移住してくる者たちには2つのタイプがあると聞く。アメリカがすでに理想の国であり、そのパラダイスの恩恵のもとで暮らそうと考えて訪れる移住者と、いまはパラダイスではないが、そこに理想の国を建設しようと積極的に考える者がいるという。ケネディ家は後者の代表である。積極派にはアイルランド系の人々が多いと聞く。時折ふと思う。日本は勝利でしか生きられぬ移住者よりもキング・フィリップスのような人間のほうが気が合いそうだな、と。おわり。(たかの耕一takano@adventures.co.jp) |
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| わが家の玄関の前に直径60センチほどの鉢植えが置いてある。何の木かわからないが妻が選んだ木で、朝の朦朧とした目か、深夜の帰宅の際の酔眼でしか見た記憶もなく、南方系の木であることはその姿かたちから想像できるが、木の名前は知らない。南方系の木と想像するもうひとつの理由は、寒い冬には元気がなく、夏はいきいきとしているからだ。いや、その木の話ではなく、本論は鉢の中の土が見えないほど木の根元に高くびっしりと積まれたワインのコルクの栓のことだ。わたしはこのワインの栓をお守りにしている。お守りというより縁起かつぎというほうが正しい。ワインの栓のひとつひとつに日付が入っている。友人の名が入っている。そう、友人とワインを飲むと、そのワインの栓に日付と友人の名を入れておくというわけだ。全部が全部そうするわけではなく、無名の栓ももちろんある。木の根元に置く前のある期間は、わたしのキーホルダーにつけられぶら下がっている。持ち歩いているのだ。これは、なんでも縁起かつぎにしたヘミングウェイのやり方のひとつだ。ネコ好きの彼は、ネコの尻尾さえお守りにしたと聞くが本当だろうか。さすがにわたしはネコの尻尾をポケットに入れて持ち歩くことはしない。長野県の大町の山中に住む炭焼きの男は、季節になると鉄砲を持って猟師に変身するが、そういえば彼はウサギの尻尾をお守りに持っていた。(つづく) |
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| 友人のクシビキさんちの山荘の軒先に1メートルもの氷柱が下がる季節に、その男と大町の国道沿いのイタリアンレストランで会った。浅いブルーの縞々の厚手のシャツの上に熊だか鹿だかの毛皮の半纏をまとっていた。黒いビロードのようなだぶだぶのズボンを履いていた。無精ひげが目立ち、目つきは鋭かった。上等なイタリアワインのボトルを左手に鷲づかみにし、うろうろ歩きながらごくごくと喉を鳴らして飲む様子は、熊を想わせた。どこか可愛げのある男だった。これ、ウサギの尻尾な、お守りな。これ、鹿の角、お守りな。これ、熊の爪よ、お守りな。男はテーブルの上にお守りの数々を広げた。山は怖いからな。街はもっと怖いけどな。神様にお願いしてるだよ。 山の神様になあ。わたしは靴を履くときは左足から履く。ズボンを履くとき、左が先。ジャイアンツのあるピッチャーは、グランドに入るとき、絶対にラインは踏まずに左足から入る。ある映画監督は、ロケに行く場所の方角が悪いと、逆の方向の遠いインターチェンジまで行って、そこから高速に入る。あるテニスプレーヤーは、スポーツウェアの左のポケットにコインをひとつ入れておく。ある相撲取りは、場所中は白い大福餅を一日一個必ず食べる。縁起かつぎなど精神が弱いからだ、と言う人の強さがうらやましいが、まあ、誰でもひとつふたつの縁起かつぎはむしろご愛嬌かも知れない。ワインの栓集めなど可愛いもんだ、と自分では思っている。(おわり) (高野耕一 takano@adventures.co.jp) |
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| わが家の玄関の前に直径60センチほどの鉢植えが置いてある。何の木かわからないが妻が選んだ木で、朝の朦朧とした目か、深夜の帰宅の際の酔眼でしか見た記憶もなく、南方系の木であることはその姿かたちから想像できるが、木の名前は知らない。南方系の木と想像するもうひとつの理由は、寒い冬には元気がなく、夏はいきいきとしているからだ。いや、その木の話 |