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F.H誌を読む(栄光時計株式会社会長 小谷年司)

■FH誌を読む 56(本年度第5号、3月23日刊) ■2012年4月17日 火曜日 13時6分18秒

ニセモノ談義

 FH誌は、は、スイス時計産業連盟の公の広報なので、連盟本部がしている仕事の記事が巻頭に来る。政府とか組合の公式発表はたいてい面白くない。FH誌でも同じだが、無視はできない。フラン高にも拘わらず,スイス時計全体に好調のせいで、あまり問題がないせいか、このところニセモノ退治に熱心である。もっとも、ニセモノが出ること自体がホンモノの地位が高いことでもある。ある作家が自慢げにこう言ったという、オレも偉くなったもんだ。最近オレの名をかたって、飲み屋を踏み倒している奴が出てきたみたいだ。
最近のニセモノは精巧になっていて、高級ブランドのカルチエのニセモノ新品時計を持ち込んだ上品な女性に、買い取り屋さんが、よくだまされているらしい。大阪府警が大阪の時計小売組合に触れ書きを回している。これは明らかに仕入れた人間に被害を与えるから犯罪行為である。しかし、転売するのを目的としない最終消費者が、これはニセモノですと明言する売り手から承知でニセモノとして購入した場合、果たしてそれは犯罪を形成するか。答はイエスである。旅行者は現在外国から一切のニセモノは持ち帰れない。ニセモノと判明したら即座没収である。罪には一応問はれないが。
 書画骨董の世界ではニセモノは当たり前である。それをつかまされる方が馬鹿ということになっている。テレビの『何でも鑑定団』という番組をみればよく解る。和歌の世界でも本歌どりといって、ニセモノ作りすれすれの技法が珍重される。漢詩においても似たような事情がある。大体、東洋人においては知的所有権という観念はすくなかった。他人のアイデアを盗むことにかけては、東洋の社会は大らかであった。ニセモノ作りに対して倫理性は問題になるがお札とか証券でない限り、大目に見る社会といってよい。特許権とか知的所有権は元々西欧個人主義からの発想である。今世紀になってから世界中の人々が地球上を自由に移動するにつれ、その権利は強まって来ている。もし今のような事情だったとしたら、明治の日本の近代工業化は成り立たなかっただろう。黒岩涙香の「あ!無情」はヴィクトル・ユゴーの「レ・ミゼラブル」の原案だが、版権が原作者に払われてはいないだろう。極端な例だがここに、高級ブランドのТシャッがあるとする。片方がホンモノで片方がニセモノ。但しニセモノの方も品質、肌ざわり、縫製、発色までホンモノに引けを取らない上に安い。ではブランドの価値はどこにあるか、コストをかけて確立したブランドの名という知的所有権でしかない。皮肉に考えるとこういう事態が起りうる以前にニセモノを退治せねばならないのかも知れない。世の中のすべてがバーチュアルになって来て、それでもホンモノがいいという人々が多くなるかもしれない。                 
 さて、FH誌の巻頭報告によるとニセモノの集散地はもはや香港やバンコクではなく、ブラジル、アラブ首長国連合、カリブ海の島々、イタリアやギリシャに分散しているのである。ブラジルはニセモノ天国で、オリンピックやサッカーのワールドカップ主催のもたらしている好況の余波だろう。昨年、時計だけで十万ヶ以上を摘発したので製造の数も減り、店頭に出ている数も少なくなったという。カリブ海のサンマルタン島でも昨年2月に3,200万個のニセモノを摘発している。アラブ首長国連合には広大な非関税特区があるので、これまでニセモノの巣であった。昨年は地元警察の協力を得て、中国人のマンション倉庫二ヶ所を急襲、官憲に軽傷者一人がでたが、7,000個を回収している。
 イタリアのプラトといえば、フィレンツェ郊外の小さな古都であるが、今や就労中国人が何万人もいる。主として、服の産地である。プラダを始めとして、メイド・イン・イタリー、しかし、バイ・チャイニーズ(中国人の作るイタリア製)といはれる製品が多い。FHはイタリア国内の経済警察(七万人が従事)の協力を得て,監視を厳しくしている。例えば一昨年の7月にこの町のヤミ組立工場を探索して80万ヶ以上の時計を押収した。80万ヶもニセモノを作る能力があるなら、自分の製品を組立てた方がマシみたいだが、その後この工場はどうなったかな。
アテネでもニセモノ倉庫をみつけて押収している。ギリシャの警察は頼り無いらしく、警官達がポケットに入れたりしないかと内心案じて、我々は早く当局が押収品を破棄するよう監視をおさおさ怠らないと、報告者はしめくくっている。

シチズンがスイスの時計会社を買収

 日本の新聞にも出ていたが、シチズン時計鰍ェ、ラ・ショードフォンにあるプロサーという持株会社を買収した。日本側のシチズンの発表をみると、すぐれた機械時計を製造するラ・ジュー・ペレ社等を子会社に持つ持株会社プロサー・ホールディング社全体をこの四月にシチズンの傘下に収めるとあった。プロサーの昨年の売上は年間で28億4,200万円、買収価格は約50億円という。この号のFH誌にはもう少しくわしい新聞記事がのっている。プロサーは三つの会社から成っている.機械時計の生産をするラ・ジュー・ペレ社、部品製造のプロテクト社、それにアーノルド・アンド・サン社。三社の全従業員数は百六十名。ルイ・ヴィトンのトゥールビョン・タンブールやアラーム付時計はラ・ジュー・ペレ社が納入しているし、ボーム・メルシーのムーヴメントの下請けもしている。年間に5万個の機械時計の生産能力を持っている。スォッチ・グループが他社に機械時計のムーヴメントを売らないと表明している御時世だから、絶好の投資と新聞は伝えている。アーノルド・アンド・サン社とはブレゲの友人だった英国の偉大な時計師ジョン・アーノルドとその息子でブレゲの元で修業した息子のジョン・ロジャー・アーノルドの名を使って10年程前から歴史的な名にふさわしい高級時計をスイスで作っている会社である。新聞記事によると、シチズン時計の海野幹夫社長は買収の目的は、独立したムーヴメント製造会社をより強化することにある。そして、そのムーヴメントを自社のブランドやら、ライセンスブランドにも利用したい、と表明している。本音はどうも後半にあるようだ。すでに買収したブローバや機械時計に弱いシチズンに使いたいのだろう。いずれにしても、これまでの経営方針を、これまでの経営者に継続される。10年前からのオーナーはいはゆるファンドであった。
 セイコーは世界で一番薄いムーヴメントを作ったスイスのジャン・ラサールやフランスの大きなメーカーであったマトラを買収したが、ものの見事に失敗してしまった。仲介に当ったマイヤー某なるユダヤ人に甘い汁を吸われ、100億円に近い損失をした噂をきく。大阪の安宅産業が,ニューファンドランドの石油精製業買収の際ユダヤ系の仲介人に手玉にとられ、破産に追い込まれたのとよく似た話である。シチズンが前車の轍を踏まないことのを希んでやまない。日本人がスイスの工場を経営するには、至難の業である。平和堂のスイス・ウオルサム社もいろいろ苦労が多いようである。シチズンの子会社が、ルイ・ヴィトンの時計を作っているのは、日本人の私にとっては心地のよい話だが。(栄光時計株式会社会長 小谷年司)
■FH誌 55(本年第四号、三月一日刊) ■2012年3月30日 金曜日 14時56分45秒

昨年度のスイス時計の輸出は絶好調

 日本占領米軍の総司令官のマッカーサー元帥は、日本はしかるべく永世中立国家のスイスのようになるべきだと言ったという。日本の理想国はスイスだと人々も言い、小学校の教科書にも、ル・ロックルの時計師ダニエル・ジャンリシャールが取り上げられた時代であつた。スイスと日本では国土の大きさも違うし、第一人口が、日本の方が十倍以上あり比較にならない。スイスは
他国との関係が全部陸でつながっていて、海でへだたれている日本とは全く異なる。
 ある日、突然敵兵がなだれ込むことが実際に起る。祖国防衛に対する心構へが違う。小さな独立州の集合体ということでも違うし、同じ国で四つの言語が公用語であることも違う。
規則や法律に厳格に従い、自然や都市の景観を大切にするという点でも、日本よりははるかにすぐれている。直接民主制ということで、重要なことは全て国民投票にかけられる。国民の平均収入は、世界有数の高さを保つている。税もさして高くない。日本と似ているところも数々ある。元々の自然は美しい。国民は勤勉かつ質素である。観光資源に富んでいる。天然資源は少ない。精密工業を得意とする。この数年来一番共通しているのは、自国の通貨、スイス・フランと 日本円の高どまりである。
 日本円の高騰は、輸出を主力とする企業を直撃している。一方輸入には有利の筈が、原油の高値及び国内のデフレ不況で値下げに走るから利益につながらない。
 スイスでもフランの高騰にどう対処するか、観光産業中心に不安がいつもあるが、時計産業に関するかぎり昨年から今年にかけて絶好調である。快晴の空の下を驀進する感がある。
 FH誌の別冊に昨年の成果を見つめ将来を展望する「業界の傾向」という小冊子があるようである。いつか手元に届くはずだが、まだ見ていない。今号のFH誌にその概要が短く出ている。昨年の輸出価格の総数は新記録で伸び率も二十年来かってなかったという。スイスフランの高値も何のそのである。しかも日本人と異なってスイス人にはその分値下げして拡販するという哲学は無い。
 この号に出ている昨年一年の各社の成果を見ても、スウオッチグループの総売上が71億4300万フラン(新記録、7千億円に近い)粗利益が23・9%、経常利益が13・4%というから恐れ入る。
 フランス資本だが、タグ・ホイヤーなどの時計部門を持つルイ・ヴィトン・モエ・へネシー社は、全体で16%の伸びで売上230億7千万ユーロ(2兆5千億円)、純益で30億ユーロ(3千3百億円)となっている。時計の主力はタグ・ホイヤー、ウブロ、ゼニス、ブルガリなどが売上げ全体で20億ユーロ弱(2千20億円)という。ブルガリを買収したので数字上は倍増に近い。
 同じくフランス系のエルメスを見ると売上げ全体が約30億ユーロ弱(3千億円)で16%の伸び、売上の数字は発表されてないが時計が23%伸び、宝飾品は27%の伸び、残念ながら日本市場は1%の凹みであった。日本を除くアジア諸国は29%伸びている。
 この快進撃は今年の一月も続いており、スイス時計全部で一月だけで10億3千万フラン(約千億円)。前年比115・5%中国、香港向けが約三割づつ増加。不思議なことに日本向けが28・5%昨年比増えている。それが売上げにつながっているとは、どうも感じないが指標としては、うれしい話ではある。
 日本の時計産業は、大半は人権費の安い海外生産に移転しているはずなのに、業績不振を円高に責任転嫁するならば筋違いではなかろうか。

スイスネス(SWISSNESS)マークの採用

 今のところ全て順調なスイス時計でも悩みはある。一つはニセモノ退治。最近のニセモノは、実に巧妙な仕上げで、素人には差別できない時計も多いとFHが認めている。インターネット上に出るコピー商品を探知するソフトウェアをFHが開発して近じか動き出すという記事が今号の巻頭、パッシェ会長の報告として掲載されている。
 もう一つは長い間懸案となっている「スイスメイド」の刻印の代わりに「スイスネス」を採用する話である。スイスネスとは、“本当のスイスらしさ”ぐらいの意味である。この法案は三月に議会に上程され、そのうち通過するだろう。どっちにしても似たようなものなのにと思うが、現行のスイスメイドでは、時計の総価値の二十%しかスイス製なるものもこの刻印で通用しているらしい。それを六十%に下限を決めて、スイス製の権威と雇用を確保するのが大義名分である。下司の勘ぐりをすれば、中国などの外国資本がスイスが持っている工場やブランドにプレッシャーをかけたいのだろう。

美しい小都市 ルッツェルン

 FH誌では、時々ホテルの宿泊日数に関する統計を出している、観光立国だから当然だろうが。2011は、稀に見る好況の年だが、フラン高がまともに反映して欧州大陸からの客の宿泊数は7・3%も減少している。中国人(香港人を除く)は全体で19万1千泊増え、五割伸びている。一体全体、一年間でどれだけ人が泊まるというと約3千6百万泊弱で、前年比2%減。日本人は年間約54万泊(5・4%減)、韓国人は13万泊で24%増。日本人もスイス好きだが、昨年は中国人の方がより多く宿泊している。
 ルッツェルンという街は、日本人観光客が必ず訪ねるといって良い魅力溢れる小都市である。今から50年前に始めてチューリッヒから小一時間かけてバスで行ったが、湖にかかる古い木の橋(カペル橋)の屋根には雪が積もり、靴の裏の木の優しさを感じつつ、対岸に渡ったときの心持は今でも鮮明に残っている。その次の年の夏休みは、一ヶ月郊外の丘の上にあるメッゲンという村で過ごした。修士論文の資料を沢山持っていったのに、あたりの風景があまりに美しく散歩や山歩き、湖での水泳でさっぱり勉強はしなかった。暮れなずむ、バラ色の夏の夕暮れ、りんごの木が沢山ある丘の上から湖の向こうに、ルッツェルンの町の灯りが、チラチラと光り出す風景を見ていると心がとろけるような気がした。このとき知ったのは、休暇は日本人にとって何かする時期だけど、あたりにいるヴァカンス客は一切何もしないことだった。まるで熊の冬眠みたいだった。今年のスイス人に与えられる年間の休みは6週間となる。
 中国人も又、ここが好きなようで、五年間で六六%観光客が増え、昨年はなんと163%も増えたという新聞記事が出ていた。平均して中国人はスイスに二泊しかしないが、必ず時計を一つ買っていくそうだ。ホテルには気にせず買い物中心。一日350フラン「アラブ人は一日5百フラン」団体バスでやってきて、ビュッへラーのような時計屋の前に止まり、ドヤドヤと買っていくとのこと。タグ・ホイヤーもビュッへラーと協力して、スイス最初の専門店をオープンする。オメガもバセロン、ジャガールクルトもこんな小さな十分も歩けば町外れに出るところに専門店を開いている。
 中国人にとってパリとルッツェルンが欧州旅行の目玉だからとタグ・ホイヤーの支配人は言明している。昔の日本人の行動パターンを思い出す。(栄光時計株式会社会長 小谷年司)
■FH誌を読む 54(本年第三号、二月十六日刊) ■2012年3月19日 月曜日 11時15分46秒

スイスの有名な時計師三人が、時計塾を作った

 スターバックスのようなコーヒー店に入ると、店の方で端末を提供しているところでは、大抵若者がパソコンの画面を見入っている。デートをしているカップルもお互いに携帯のメールを覗いている。あれで恋の語らいは成り立つのかと心配するが、余計なお世話だろう。電車に乗ると老いも若きもみんな携帯を見ている。こっちは電話はかけるためにあると思っているし,用は二言三言で済むから車内でもかける。オイオイそんな事はメールなんだよ。ジイさん、と隣の若者の無言の抗議が聞こえてくる。
 年寄りの癖にスマホなんかをあやつる友がいて、これでどんな本も読めるし、こうしてラジオの音楽を聞かせるだろう、曲を当てて再配してくれるぜ。それにこれさえあれば道に迷うことはないというが、なるほど便利だがそれがどうしたという気になる。本屋もCD屋も消えていくかと思うとさびしくなる。人間は快適と便利を求めて、かえってそれに絡み取られている気がする。携帯を家に忘れて、二日や三日遠出して、一寸不便かなと感じる程度である。我が娘なんぞは携帯を忘れると裸で外を歩いているような気がするらしい。その気持ちの方が不便かな。
 二月はヴァレンタイン・デーがある。今年は丁度香港にいて同行の妻と娘がベルギー製のチョコレートを買ってくれた。帰阪したら数包みのチョコレートが付いてきた。チョコレートの基本はモリナガの板チョコで、もしもチョコレートが食べたいという切実な要求が身体の中で起こったら、この板チョコで済ますだろう。ところが頂き物のチョコレートボックスは、高名なパティシェの作ったものばかりであった。
 チョコレートの美味しさは、作り立てにある。確かに二センチ四方で一個三百円のものは、手の平大、一杯百円の板チョコよりは美味しい。美味しくなければ詐欺である。
 贈答チョコレートの王者・ゴディヴァは、元々ブリュセルの有名だが小さなチョコレート屋さんで、これに眼をつけたスープのキャンベル社が、出来立ての美味しさを保持する冷凍技術を駆使する事によって、世界中に販売するに至ったと聞いている。キャンベル社のスープは、アンディ・ウォーホールの画題となって、誰でも知っているが味のほうは、アメリカ風である。ゴディヴァもマーケッティングの勝利かなという気がする。贈り物は、貰った人がああこれは高級なものと説明ナシに、直ぐ理解する品でなければならない。それがブランドの最大の効果である。だからヴァレンタインのチョコレートを配って回る時代は過ぎている。味がいいか悪いかより、チョコレートがシンボルになっている。そのうちにチョコレートの形をした本物の近海を送る人も出てくるだろう。近海の形をしたチョコレートは沢山存在するがユーモラスだが俗っぽい。
 チョコレートは、カカオが欧州にもたらされた十七、十八世紀においては、高級な金持ちしかすすれなかった飲み物であった。それがいつの間にか日常品となった。時計も同じことであって、アメリカにおけるワンダラー・ウオッチの普及、スイス製のピンレバー、日本製のクオーツと一気に日用品化が進んだ。セイコーやシチズンの自動化製造が発達して、年に一億個もムーブメントが出来るようになると単価が百円とか二百円になり、ビニール傘みたいな存在になってしまった。
 日本の産業構造を見ると、安くて良いものを作るのは得意である。安くするには必然的に量を作らなければならない。量が売れる間はいいが、売れなければどうするか、新しい市場を開拓するために値下げが必要とみなし、外国に生産設備を移す。当然その相手国も学んで競争相手が出現する。その結果に手を焼いているのが、今の電器産業だろう。日本の産業には良いものを少し作って、高く長く売り続けるという思想は少なくとも大手にはなかった。
 日本の大手産業で特徴的なことは、手でする仕事を軽視するように思える。手作業は熟練を必要とするから身分が固定されてしまうせいかもしれない。工場長は高騰する人件費も抑えたい。セイコーの工場へ行って、昔ながらの方法で時計のケースを手で磨いているところは、余り見せたがらない。実はケースを磨いて美しくする工程は、プラチナや金のケースにおいては特に重要である。それにあまり清潔な仕事ではない。バフから飛ぶほこりで、あたりは真っ黒になるし、薄暗くしておかないと表面キズを見逃しやすいらしい。磨き工というと一段下の技術者に見られが勝ちである。ジャガー・ルクルト社には二十人ばかりの磨き工がいて、その部門長であるブノア・リームという人とのインタビュー記事がこの号のFH誌に出ている。いかにも自分の仕事に誇りを持っている受け答えが良い。
 スイスでも工業工程規格化及び機械化によって、伝統的な手作業が消えて行きつつあるらしい。設計図からはじめて一個の時計を手作りする伝統を残しておこうと、有名な時計師三人(フィリップ・デュフール、ステファン・フォルセイ、ロベール・グルーベル)が、一種の塾を作りつつあることがこの号に報告されている。塾長に選ばれたのが、パリの時計学校の先生をしている中年のミッシェル・ブーランジェという人らしい。塾長への課題は、自動巻き中三針、トールビヨンの時計をいくつか制作することで、まずその様子が立体画像でDVD化される。こうして伝統技術を記録し、一般にも公開する。進行の状況を人々はブログ(www.legarde-temps-nm.org)で知ることができる。それが完成した暁には、世界中に持ち回って同好の志を募るという。この計画にはヴィアー・ハルターなどの独立時計師達も協力する様子である。こういった動きが起こるところにスイスの時計の強みがある。

スイス時計の総輸出額

 2011年は、やや不信だった前年に比べ十九・二%伸びて総額で199億3千万フランという目覚しい復活を遂げている。20年来の最高伸延長率であった。総個数2千9百80万個(13・8%アップ)。1999年以来の新記録で、この10年は2千5百万個が平均だった。価格帯では、輸出価格3千フラン(25万)以上の時計が金額で21・8%もの、全体の伸びの三分の二を稼いでいる。いかに高級品及び貴金属側がが寄与しているか良く解る。相手先国別表は別表を見て頂きたい。(栄光時計株式会社会長 小谷年司)
■FH誌を読む 53(本年第二号、二月ニ日刊) ■2012年3月19日 月曜日 11時22分32秒

日本の時計・宝飾小売業ももう少し「ソーシャル・ネットワーク」に関心を

 最近「ソーシャル・ネットワーク」なる言葉をよく耳にする。この場合のネットは、インターネットのネットで、ブログとかトゥィッターで、少しづつ社会の中で張り巡らされてきた情報の網が、フェースブックの登場で一気に完成されたネット上の情報網を指す。
 評判になったアメリカ映画「ソーシャル・ネットワーク」では、ハーバート大学の学生だったマーク・ザッカーバーグがスマートフォンで使用される「フェースブック」を起業するまでのいきさつを実話風に描いた作品である。学生なのに、二百億円以上の資産家になるドラマは、映画としても面白い。数年経った今や何兆円かのお金持ちになっているらしい。
 隠された悪事を告発するのに後難を恐れて無記名の弾劾文が流布されることがある。話題にはなるけど、大抵怪文書と名づけられてウヤムヤになることが多い。実名だと、根拠が求められるから、黒白がつけやすい。フェースブックの発信者、受信者はみんな実名であるところが、信頼できる情報網を築き上げる原動力となった。現在、フェースブックの利用者は、世界で七十言語、五億人以上で、一日2億5千回以上の交信が行なわれている。気の遠くなる数字だが、イスラムの革命でも大きな役割を果たしていると伝えられている。
 私のようなアナログ人間から見ると、世の中のデジタル化は激しい。私の職場ですら大抵の内勤社員は、一日中画面を見つめている。以前はゲームなんかするなよ、出会い系サイトなんか呼び出すな、などと冗談で言っていたが、最近は禁止プログラムも発効しているが、現実は仕事一本になっている。そうならざる世の中になっている。「ソーシャル・ネットワーク」という映画の中でも、学生の一人が「我々の人生の殆どは、インターネットの上にある」と言う場面があった。学生が自分の部屋に戻ると、最初にするのは、ネット画面の起動である。
 ここで一寸、個人的な経験を記したい。もう十年以上昔のことなので、個別の名を出しても時効だから許してもらえると信じるが、トヨタのカローラを動かそうとしたら急発進して、危うく通行人をはねるところだったことがある。少し前に、エディンバラの街角の交差点で青信号で待っていたところ、私のレンタカーと並んでいた車が、突然急発進して前の車に激突し、あっけに取られた記憶があった。その後トヨタには、そんな現象は再発しなかったが、どうもフに落ちなかったので、大阪府の消費者相談室の車の係りに行ってみた。どうしてもと言うなら、府には検査の設備がないからメーカーの検査所に送りましょうかという返事。どのメーカーですかと聞くと、トヨタの車はトヨタですとのことだった。それではきっと操作未熟という結論になると判断して、この件はあきらめた。ひとりで行政と大企業の壁を打ち破る事は難しい。このたびの原発津波事故後の政府と東京電力の対応も、この事故がもっともっと小さければ、今とは異なった様相になったであろう事は予想される。もしも私の事故にしても今起こったとしたらフェースブックなどで、一般に訴えかけたら、行政もメーカーも異なった対応をとらざるを得ないだろう。「ソーシャル・ネットワーク」の力は無視できないものになっている。
 メーカーの対消費者政策は、食品とか化粧品、薬品といった直接身体に取り入れられるもの、塗るものに対しては、メディアがすぐ取上げるので神経質だが、時計のような日常生活品に対してはそれほどでもない。メーカーにとって重要な関心は、いかに自社の製品が消費者に好意を持って使用されているかどうかにある。特に新製品においてはそうである。宣伝は購買を誘惑するためにあり、PRは好意を持たせ購買に結びつける助けとなる。
 昔からスイスの時計工場に行くと必ずといっていい程、PRマネージャーが出来て、案内や説明をしてくれた。大抵は魅力的な容姿のベテラン女性で、工場や製品のことなら社長よりも熟知している印象があった。これが日本だと総務部長か新入女子社員の役どころであった。日本の工場には、優れた製品で勝負しているのであって、PRで製品の質は左右される筈がないと思っているところがあった。ましてや一見学客の意見など上部に報告されている気配は感じられなかった。明らかに重大な欠陥が製品にあった時にだけ、必要以上に卑屈な態度になる。テレビで何度も何度もお辞儀を繰り返す姿を見ると、少し情けなくなる。直接の被害者に頭を下げるのは、当然だけど関係のないTV関係者に向かって何故謝罪するのか、私には良く解らない。世間は騒がしてもらって大いに楽しんでいるのに。
 さて、FH誌のこの号では、これまでに書いた現状や今後更に網の目が細くなっていくソーシャル・ネットワークにいかにメーカーは対処すべきかという重要な論評が載っている。書き手はキャロル・オーベールという女性で、三頁を占める長い文章である。要約すると次のようになる。
 スイスの企業の三分の二は、何らかの形でソーシャル・ネットワークに係っている。しかし、二十二%の企業しかその担当のマネージャーを置いてない。少し認識が甘すぎるのではないか。フェースブックのようなサイトの出現で、世界中に仲間のグループが直ぐ出現する。
 またこれまでは、インターネットで情報を受け取る側に回っていた人たちが逆にメーカーに向かっても情報を発信するようになった。対話となるとメーカーやブランドが威信を相手に一方的に押し付けることが出来なくなる。《ブランドとは何か。それは君がそうだと思っているものではない。人々がそうだというものだ》という名言がある。一人の人間ではなく、その仲間全体にブランドのイメージを高める必要もある。企業が相手にするのは、これから製品を買ってくれるだろう顧客だけではない。中傷目的の人もあれば、競合先も、仕入先も勝手な意見を述べたり、あらゆる人々がいる。また消費者に呼びかけて、新製品の命名コンクールや写真コンクールを組織することも出来る。スイスのミグロスというスーパーでは、フェースブックの会員だけに特別割引券を出す事にして以来、消費者とのコミュニケーションが宣伝の中心になっている。そのコミュニケーションは、信頼性のあるものでないと忠実な顧客をつなぎとめることが出来ない。また基本として消費者が全ての中心とする認識がなければならない。
 こういった論調が続くのだが、退屈になるのでこれ以上続けない。フェースブックを初めとするソーシャル・ネットワークがいかに消費の世界に変化をもたらしたかを知っていただければいいかと思う。この論評の結論は、ソーシャル・ネットワークというメディアを避けて通す事は出来ない。長所もあればリスクも大きい。要は企業の理念を再度確認して、製品についての有効性にも信念を持って、従業員などがソーシャル・ネットワークに参加して、無知のため害を加えることのないよう、細心の注意を払うことなどとごく常識的になっている。いくら避けがたいといっても、ソーシャル・ネットワークを作っているのは、営利企業だから金儲けが目的である事は忘れてはならない。しかもアメリカの企業だから手強い上にカルフォルニアの太陽の元の法律に則っていることも気をつけて、と欧州人らしく老婆心を発揮している。日本の時計・宝飾小売業ももう少し「ソーシャル・ネットワーク」に関心を持ったほうが良いという私の老爺心から、今回はFH誌からこの編だけを取上げてみた。(栄光時計株式会社会長 小谷年司)
■FH誌を読む 52(2012年第1号・1月12日刊) ■2012年3月12日 月曜日 16時23分12秒

ジャケ・ドロ親子が十八世紀に作った自動人形をスイスの博物館で公開する

 今回のFH誌は今年新年の第一号である。新年号だからといって理事長の新年への抱負や業界各位お偉方の決意みたいな、ご本人が書いたのではなさそうな当たり障りのない美辞麗句が巻頭を飾っている訳ではない。欧州では本来、年末の降誕節や春先の謝肉祭が、日本の正月にあたるお祭りで、オフィスは元旦が休みだけで、何事もなかったように仕事が始まる。
 今号の巻頭記事は、ジャケ・ドロ親子が十八世紀に作った自動人形(オートマット)三体が、この春から秋にかけてスイス三つの博物館で各一体づつ公開されるというのんびりしたニュースである。
 日本でも江戸時代にお茶を客席に運ぶ小さな茶坊主や、矢をつがえて的に当てる自動人形が存在した。今でもソニーの創る犬のロボットは大人気である。 
 十八世紀のヨーロッパの宮廷でも、珍しい自動人形に貴族たちが喜んだ事は当然であった。ルロックルの田舎に生まれたピエール・ジャケ・ドロは、時計職人として出発したが、発明の才に恵まれていて精巧な自動人形の作者として有名になった。勿論お得意先は、ヨーロッパの王様たちである。当時のスペインの王様は賢王と呼ばれたフェルナンド六世である。マッドリッドの宮廷に呼ばれて色んな自作の時計や自動人形六体を抱えて出かけて行き大評判となった。馬で運んだためバラした部品を助手を使って組み立てるのに四ヶ月かかったと言う。
 ヨーロッパの王侯は大抵親戚である。このスペインの王様もフランスの太陽王ルイ十四世の曾孫である。ジャケ・ドロの名声はすぐに拡がり引っ張りだことなった。ラ・ショード・フォンの田舎から交通便の良いジュネーヴに移ってきて、名声の中に1790年69歳の生涯を終えた。息子も一年後に死んでいるので、事業はまもなく絶えてしまった。主としてフランス王様や王妃を相手に商売をしたアブラム・ルイ・ブレゲと同時代人であった。
 ジャケ・ドロの名を惜しんで、自動人形の類を現代に復活させて作ろうとしたのが、以前のブレゲで働いていた二人の男で、名前の使用権を1995年に買ったものの、うまく行かなかったのか、2000年に会社をスウォッチ・グループが買い取っている。ブレゲとジャケ・ドロという歴史の中に埋もれそうになっていた名前をスウォッチが再興したといえる。名跡を見事に活用したとも言えるだろうが。
 今でもニューシャテルの歴史博物館へ行くと、ジャケ・ドロ自身の作った自動人形の実演をみることができる。「音楽家」「画家」「文学者」と三体あるうち、実際に見たのは「文学者」だが、実に精巧に出来ている。見事に色々な字を羽のペンで、机の上に書く。四千個以上の部品から出来ている。まるで生きているみたいは大げさだが、それに近い。近年の展示プロモーションのために、スウォッチ・グループが昨秋北京に運んで行って「JAQUE DROZ EN CHINE」(中国にてジャケ・ドロ)と書かせたらしい。中国人がこの種のものを好むのは紫禁城内の故宮博物館に展示されている沢山の清朝時計を見れば歴然としている。大いに人気を博したに違いない。
 付言すると、自動人形は日本では単なる見世物であったが、十七、八世紀のヨーロッパでは、宗教的に大きな意味を持っていた。自動人形は、アンドロイドとも呼ばれるが、言葉としてアンドロ(人間)オイド(そっくりのもの)の造語である。人間みたいなものに、魂があるかどうか、神学上の問題にもなってたのである。馬鹿らしい話だが、ジャケ・ドロは、悪魔と契約して人形を作ったから異端者とみなされそうになったぐらいであった。
 チェリー・スターン社長が地元の新聞と昨年末に長いインタビューに応じた記事が今号のFH誌に転載されている。以下はそのまとめで私見ははさんでいない。
 現在の全世界の従業員は二千名、うち千八百名がスイス、その中でまた千五百名がジュネーブで働いている。年間総生産量が四万五千個で大体品質を保持していける限界と感じている。これ以上発展しようと思ったら、付加価値の高い時計を作り、単価を上げるしかない。
 2012年度は一月末が決算期に当たるが、非常に好調で生産が販売に追いつかなかった。現行二百モデルのうち半数が複雑時計なので、生産工具、イノヴェーション、アフターサーヴィスへの投資は拡大している。近年の不況に逆に高級品への需要は高まったので、量はやや減少した。市場としては、四十五%が欧州、三十%がアジア、二十%がアメリカと言うこれまでの長いパターンを守りたいが、中国に傾くのも止むを得ないかもしれない。世界で四〜五割りを中国人が買ってくているだろう。現在全世界の代理店は自社なので、バランスの崩れないよう努力を惜しまない。2006年に六百箇所あった販売拠点を今は四百六十箇所だがまだ減らしたい。理想は一箇所に二十〜二十五個の在庫を常時持って欲しいが、そうなると生産量を増やせねばならなく、現状維持の原則に矛盾するが店の数を減らすしかない。
 ジュネーヴとパリとロンドンの直営店は昔からのものだが、そのほかに増やす気はあまりない。チューリッヒでベイヤー時計店と共同で作ったような専門店は自然に増えるだろう。価格的には、小売りで八百万円〜千三百万円内に力を入れたい。普通の製品では、エナメル文字盤の五百万円ぐらい。希少価値がある高価な複雑時計は、買った人が直ぐに利益目当てに転売できるからこういった投機品目に走りたくない。大切なのは買う人の質だ。現在会社の株は全部父と私が所有していて、一族の間にも分散していない。今後も変な思いつきの新製品は作りたくない。材料・設計・デザインには慎重に対応する。

パテック・フィリップ社の現状

 パテックという姓は西ヨーロッパにないが、1831年の革命騒動でポーランドからスイスへ亡命したパテックとチャペックの姓を持つ二人の男が創業した時計作りが、今や高級時計の代名詞と言ってよいパテック・フィリップ社である。後に時計師として天才的だったフランス人のアドリアン・フィリップが参加して今の名称になった。その後、アメリカに発した大恐慌の時代に、文字盤を納入していたスターン家に会社は売却されている。以来今日まで、シャルル・アンリ・フィリップ・チェリーと四代の親子によって経営は維持されている。いくら代替とはいえ、他の資本参加なく、親子四代と続いている事は、会社や製品の個性に家族の個性が出て大したものだと思う。
 先代のフィリップ・スターンさんとは、四十年程前に来日された時に日本総発売元をしていた一新時計の創業者の西村隆之さんの紹介で一度会ってお話をしたことがある。穏やかな好感を持ってる人柄で、ジュネーブに行ったついでにお話を聞きたくて会おうとしたら西村さんから用件は私がうかがうから用も無しの世間話は困ると釘を刺されてしまった。以来、ご無沙汰のうちに息子さんのチェリーに代も譲って引退されてしまったのは少し心残りである。後で聞いた生臭い噂話だと、香港に、東洋におけるパテックの利益を一手に収めているユダヤ人がいて、日本の業者がパテック社と直接接触する事に極端に神経質だと聞いた。時計の輸入がやっと自由になりかけた時代だから、ありそうな話だがことの真偽は定かではない。西村さんの商売の邪魔をする気はなかったし、パテックの日本での足場作りに西村さんが大きな功績を残したのは今となっても事実である。日本の時計産業が一様に苦闘している時代に、こういった進路に確信を抱き、自身に溢れた談話に羨ましさを感じざるを得ない。(栄光時計株式会社会長 小谷年司)
■FH誌を読む 51(第二十号・十二月八日刊) ■2012年2月7日 火曜日 16時43分48秒

ウオッチメーカーの先行きに感じるロマン

 FHはスイス時計産業連盟の略語で、製造業者の組合である。約五百社の組合員の利益のために活動することが目標である。当然、共通の目標が掲げられる訳だが、日本の組合同様、組合の外に対しては、強固な申し立ては多いが、組合の構成員を縛るような取り決めは、中々出来ない。国に頼るしかない。スイスでも日本でも事情は同じである。
 FHの年次総会は六月末だが、今号のFH誌は、昨年の最終号で、最終総会の報告をジャン・ダニエル・パッシュ会長が報告している。スイスの時計産業が全体として直面している問題を知る事は重要ではあるが、おおよそ組合の決議などは抽象的で退屈である。問題点だけを箇条書きにしておくに止めたい。
@ 環境に注意してCO2排出を最小に抑える。
A 法人税の減少を働きかける。
B 人の自由な移動を難しくする入国管理規定を作る動きに反対する。
C メーカーが売り先を決定するのに介入する法制に反対する。
D ニセモノ撲滅の強化。最近では、フィリッピンとイタリアの政府機関の協力を得た。
E 二〇一一年の時計輸出は目覚しく、二〇一二年の見通しも悪くない。
F 基準の設定、ガラスの非反射処理、対衝撃基準の見直し、化学物質や大気中に含まれる要素による侵害の基準の設定など。
G 重要な輸出先である国の経済構造を輸出する方向へ変革する努力をすること。例えばロシアとスイスの貴金属に刻印するホールマークの相互認識を強めるとか、スイスと中国やインドとの自由貿易協定交渉の行方を良く見守るとか、協定における原産地証明とか、知的所有権は、時計業界と大きな関連を持つ。
 大体こんなところであるが、背景がよく解らないから、列挙するだけでお許し願いたい。

ウオッチメーカーたちが作る時計

 スイスでは、時計工場で働く組み立て工や、修理技術者のことを英語で「ウオッチメーカー」という。語感から言う時計製作者だから、現実とは少し異なる。職工というよりは、メイドをお手伝いさんと呼ぶように敬意を表明することが出来るので使われているのかと思っていたが、よく考えてみると時計作りの根幹は、組み立ての工程にある。例えば、ロレックスのアフターサービスでは、時計を全部分解して一個一個の部分にばらして、再度組み立てている。これは新しい時計を一個製作することと変わりない。なるほど、ウオッチメーカーと称されて当然と言う気になる。
 日本の時計産業は、スイスからパーツを輸入して、組み立てて売るシャブロン形式と、全ての部分から完成品まで作るアメリカ様式を真似て工場を作るかで始まっている。懐中時計の時代では、ウオルサムに代表される大量一貫生産がスイスに対し優位に立っていたから、初期のセイコーもその後を追って行ったと思われる。一貫生産では、組み立てと言う仕事も全体の一部に過ぎない。ウオッチメーカーが独立して時計の製作を始めると言うような事は、なかなか起こらない。
 日本では、時計の修理や組み立てを専門としている人が、その経験から新しいムーヴメントを設計したり開発したりすることも、少なくともこれまではあまりなかった。それは大学の機械工業学科を出て、セイコーやシチズンに入って設計の勉強をした人の仕事とされてきた。スイスでは、時計を作る環境や文化が異なるので、言葉は悪いけど職人上がりの時計製作者が、現在でも輩出している。難しい時計の修理や組み立てに従事しているように、自分にしか出来ないムーヴメントの構想が沸いてくるのだろう。名称だけのウオッチメーカーが本当のメーカーに変貌する。ミッシェル・パルミジャーニの場合もそれに当てはまる。
 ニューシャテルの近くのフルウリエィと言う町で、イタリア人の家庭に一九五〇年に生まれたミッシェルは、地元の時計専門学校を出て時計業界で修業した。彼が時計の設計に目覚めたのは、師匠格のマルセル・ジャン・リシャールについて設計図だけ残っていた有名な中世イタリアのドンディの天文時計を復元制作にあたって以来と言われている。この十四世紀の時計は、太陽系の惑星の動きまで知らせる複雑時計で、しっかりした文献が残っていたが、文献の設計図だけでは、制作の細部まで詰めることが、これまで誰も出来なかった。その復元実物は、ラ・ショードフォンの時計博物館に展示されている。その後、下手な修理の手が入ったために、誰も元に戻すことができないと言うブレゲの特殊な置時計を見事修理して、ミッシェルの名は高まった。この置時計は二億円近くで売れたと言う。
 製薬業で財を成したサンドス一家は、ル・ロックルの町外れの丘の上に美しい城館を持っていた。サンドス一家は、財団を作り、この城館を時計博物館にして、一家の保有する時計のコレクションも寄付した。その修理・保全に当たったのがミッシェルで、そこから新しい時計機構の発想が生まれたのだろう。色々なメーカーから新しいムーヴメントの設計などの注文が入るようになった。初めは個人企業でやっていたが、一九九六年にサンドス財閥が五一%の投資に参画して現在に至っている。十年前の社員数は、六十人、現在は五百人。生産は年五千個。百万円以下の時計もあるが平均価格は五百万円前後で、二億円を越すのもある。十五種類あるムーヴメントは全部自社生産。
 この号のFH誌では、ペンのメーカーとして有名なカランダッシュ社(時計も作っている)から、パルミジャーノ・フルリェ社のナンバー3として迎えられたフィリップ・ド・コロディとの新聞インタビュー記事が掲載されている。
 営業面での強化が記されている様子だが、流通は血液循環みたいに重要だから、何よりも強化するといっている。ドイツ・香港・マイアミ(米)・イタリア・ロシア・フランス・英国・ブラジルに販社を作り流通整備したいというのがなぜか日本がない。アジアも勿論重要だが、今のところヨーロッパ市場が基盤である。製造面では、独立独歩できるしっかりした会社だが、マーケッティングでは、十年遅れをとってきた。この五、六年がブランドを確立する勝負の時期だと鼻息が荒い。
 一人のウオッチメーカーが生存中に世界的な名声を得る企業になるのをみるのは、
中々楽しい。そこにはロマンが感じられる。フランクミューラーやロジェ・デュブイの例もある。ミッシェル・パルミジャーニの更なる発展を期待して止まない。(栄光時計株式会社会長 小谷年司)
■FH誌を読む 50(第19号、11月24日刊)50 ■2012年1月27日 金曜日 13時51分5秒

 FHの機関誌の発行は、夏と冬の休みがあって年に二十回である。掲載している時計美術宝飾新聞の発行は年に二十四回だから一号づつ対応することが出来ない。そこで今回は前号について少し足踏みをする。
 昨年の11月11日に「モントレ・パッション(時計への情熱)」という時計雑誌の主催で、雑誌に関係のない有識者の間で、昨年に発売された時計の優秀製品と優秀メーカーの選定発表会が、ジュネーブのホテル・インターコンチネンタルで行なわれた。五百人の人々が集まる盛会だったようだ。一種の時計のアカデミー賞だろう。2012年のウォッチ・オブ・ジ・イヤーは、エルメスのアルソー(半円)シリーズの一つ、ル・タン・シュスパンデュ(中断された時)という時計に与えられている。2位がヴァシュロン・コンスタンタンの世界時計、3位はオーディマ・ピゲの「ミリナリィ410」、メーカーとしてブレゲ社に賞が与えられた。時計の選考基準は、2011年中に発売されたもので、二百個以上製造され、小売値が五万フラン(約45万円)以下という。時計の一つ一つの特長については、よく分からないが、メーカーの知名度から見て無難で順当な選抜といえよう。
 年末になると、演劇・音楽・読書・映画などの世界で今年のベストテンとか、最優秀賞が選ばれたりするがその性格が現在では商品の場合とかなり異なっている気がする。
 かって商品はコストパフォーマンス全能の世界であった。カー・オブ・ジ・イヤーを皆が注目したのは、画期的な性能、美しいスタイル、手に入りやすい値段をいかに兼ね備えているかにあった。ロールスロイスがもしも選ばれたにしても、人々は受賞にそっぽを向いたであろう。受賞したからとてロールス・ロイスの売上げも上がる事はなかったであろう。
 今でも存在するが、「暮らしの手帳」という雑誌は、我々の世代には大人気であった。特に電化製品のテストは厳格で、日本の全電器メーカーが取り上げられ、合格の点を貰うと大喜びであった。広告を取らない雑誌が、これ程までに製造業者におおきな 影響力を持った事はないだろう。
 話は飛ぶが、ミシュランのレストラン採点が客観性をもつとみなされているのは、採点者が自分を秘し、自費で食べての結末だからである。飲み食いさせてもらった人の批評は信じ難い。メーカーの広告を載せている車雑誌の試乗記にもどことなく言わない部分もあるだろう。言わない嘘という言葉もある。時計の雑誌だって同じことである。
 それに人々は必ずしもコスト・パフォーマンスだけに執着しなくなったし、製品の全体の水準も上がって、煮ても焼いても食えない不良品はなくなり、社会の目も厳しくなった。ニセモノは掴まされることがあっても、少なくとも劣悪な製品を掴まされる機会は少なくなった。それぞれの製品は、それぞれなりに役立つ世界になっている。ある一定の細分化された価格ゾーンの中での優秀商品の選定なら、購買の動機づけになるだろうが、時計は何でもとなると人気投票みたいなものだろう。ウォッチ・オブ・ジ・イヤーに多少懐疑的になる由縁である。
 経済学者のケインズが美人投票について、こんな事を言っている。投票する人は、必ずしも自分が美人とみなす人に投票しない。皆が美人と思うだろう人に投票する。時計の人気投票にも同じことが起こってはいないだろうか。

ジュネーブ・スタンプについて

 リヒァルト・ワーグナーの有名な楽劇に「ニュールンベルグの名歌手」というのがある。名歌手である事を競う一種のコンテストが主題であるが、後半ではマイスター・ジンガーの制度に対する賛美が延々と続く。マイスターとは、親方のことである。「親方制度」つまり職人組合であるギルド制度が社会の基盤にあるために、ドイツ文化が世界に冠たる事をワーグナーは強調したかったのであろう。ギルドは特にドイツ特有のものではなく、ヨーロッパ諸国に見られる職人の制度である。その規律が比較的厳格に守られていて、職人の社会地位が高いのはドイツであったとは言える。今の日本語でもマイスターと言うとなんだか技術的に非常に優れているという語感が、同じ言葉でも英語のマスターだとバァかコーヒー屋の親父になってしまう。
 中世から工業社会に入る19世紀中頃にかけて、時計を作る職人は必然的にギルド制度に組み入れられていた。親方は、弟子を二、三人抱えていて、弟子が親方になろうと思えば、制作の技術を数年でマスターし、一但親方の下を放れ、あちこちで修行し、その上で完成品を一、二個親方に提出する。作品が親方のメガネにかなうと親方は仲間の親方たちの審査に回し、合格すると新しい親方が誕生する。独立に至るまでかなり歳月がかかった。あんまり簡単に親方を作ると、競争相手が増える事になるし、これが品質維持に大いに役立った。
 こういった同業組合は、時代と場所を問わず、長所と欠点を必ず兼ね備えている。自分たちの権限と利益を最大限に確保しようとするのが常である。昔の全国時計小売組合もそうだし、医師会にも同じような面があった。
 品質を守るという長所も、ギルドも色んな点で発揮している。ロンドンに宝飾時計職人組合の本拠地であるギルドホールと言う古く由緒ある建物がある。立派と言うか華麗な重々しい様式の建築で、日本人の感覚で見るとまるで銀行協会である。ここの職人たちがお互いに協議してそれぞれの合格点を発揮し、刻印を打ったものがホールマークの典型である。ギルドホールは沢山あるから、製作者又はアトリエの刻印は無数にある。日本人は自主独立の気運を欠いておるのか、仲間で決めたルールはお互いに信用ならんと考えるせいか、こういった決め事はおうえの手を借りないと収まらない。私の知る限り、信用ある貴金属に関するホールマークは、大阪造幣局の打刻する日の丸官製マークである。JISマークも何となく官製の匂いがする。
 次いでながらギルドはフランス語でコルポラション(英語のコーポレーション)で、ホールマークはポアンソン(英語でスタンプ)という。職人が多かった新教徒は、ドイツでは安定した生活を送れたが、フランスからは旧教徒に迫害され、ジュネーヴに逃げ込んだ。そこからスイスの時計業が始まったのだが、当然コルポラションの力は強かった。日本人の一般から見ればスイス製で十分と思うが、スイス人にとってはジュネーヴ製というのに特別な思い入れがあるようである。京都の呉服と同趣である。昔はジュネーヴで作ってないのに、ジュネーヴ製と称して売っていた業者もいたらしい。そこで一八八六年にジュネーヴの業者が集まって自分たちの時計ムーヴメントに特別のポアンソンを刻印することにして、時代の変革による条件の緩和もあったようだが現在に至っている。
 これまでの権威が少し薄れ気味(50年ぐらい前まではブランドよりジュネーヴ・スタンプの方が重要視されていた)なのと、フランス・ワインのAOC(地域認証制度)が脚光を浴びているせいか、125年目を期して、更にこれを推進しようという会が昨年九月にジュネーブで開催された報告がこの十九号に載っていた。パティックが全製品に打刻すると宣言したのも、この動きの一環だろう。ムーブメントだけでなく時計全体がジュネーヴで完成されねばならなくなっている。検定を指導し、責任を持つのは、恐らく公益法人とみなされる2008年設立のクロノメーター認証機関でもあるタイムラグという団体である。(栄光時計株式会社会長 小谷年司)
■FH誌を読む(本年第十九号・十一月二十四日刊)49 ■2011年12月27日 火曜日 13時52分29秒

中国市場について

 まず思い出話から始めたい。二十五年ぐらい前の話で、日本でもやっとロレックスの人気が定着し、売れ始めた頃であった。毎年秋になるとロレックス本社からCEOのアンドレ・ハイニガーさんが日本にやってきて、我々卸代理店八社を招き会食するのが通例となっていた。
 その頃、ロレックス社の会社の性格上、売上げということにあまり拘らなかったから、ビジネス上のことは会食の席では討議されることはなかった。そのときは確か、新宿に新しくできたヒルトンホテルが会場だった。食後の歓談の場になって、一新時計の創業者社長・西村隆之さんが、要望したいことがハイガーさんにあるから、私に通訳を依頼された。要は、ロレックスの並行輸入に正規の我々の問屋は悩んでいるから、アフターサービスの施設に対する過剰な投資は制御して、また並行品の出所であるシンガポールや香港に対する出荷額を上げて、その分日本の定価を下げるようにされたらという、普通の日本の商人なら考える当たり前の提案であった。しかしそれを聞いたハイニガーさんは、真っ赤になって激湖した。あなた方は、ロレックスを扱っていても何も解っていない。アフターサービスの完備はロレックスの生命線である。買った人が世界中の主要都市で同じサービスを受けられるというのが基本戦略で、現在はたまたま外国で買ったロレックスのサービスが日本で多いかもしれないが、その逆になることもある。私の今しているロレックスは、これこれの値だけど、これは高いかね。決して高くないと腕の時計を外して机の上に放り出した。それに私は世界中のロレックス取扱店に並行輸出の商売はしないように要請し、手段も講じている。それは主として為替の変動で起きるもので、アメリカの大統領だって制することが出来ない現象を、どうして私が管理出来ようか。それに私がやっていることが、皆さんお気に召さないのなら、ロレックスを一切売ってもらわなくても結構です。日本のシェアなんかたかが五、六%なのだから、三年や五年一個も売れなくなっても困らない。当社には、それを持ちこたえる金が十分にある。ボルテージの上がる一方で、会食は白け切ってしまった。これくらい通訳していて困った経験もない。
 実は二○一一年のFH誌を読んでいて、日本市場に関する記事はほとんど出てこない。ハイニガーさんの言ったたかが五、六%のシェアで、しかもかっての如き将来性の少ない成熟した市場に対する取り扱いは、こんな物かも知れない。その代わりに登場するのが、シェア五十%を越す勢いの中国である。
 今号のFH誌でもスウオッチが一九○八年に建てられたパラス・ホテルが和平賓館の南館となって古くなっていたのを改造し、六階建てのうち一階をブレゲ、オメガ、ブランパン、スウオッチのブテック(全二千平米)にして、上層階を美術展示場及び芸術家が制作しながら六ヶ月まで滞在を許される十八室のアトリエ付きホテルを開業した記事が出ている。アート・ウオッチとしてのスウオッチのプロモーションのためのメセナ感覚の施設で、「スウオッチ・アート・ピースホテル」と名づけられている。
 上海を知っている人なら良くわかるだろうが、賑やかな南京路が外灘(川に面した通り)に突き当たる角。地元の人も観光客も皆が散歩に行く一等地である。またここには、洋風の歴史的建造物が並んでいて、その代表的な建物である。一人の人間に複数の時計を売り込むには、芸術品がもたらす収集意識をかき立てるのが最善という戦略がはっきり出ている。

中国におけるネットビジネス

 私たちの若い頃は、航空会社というと大都市の目抜き通りに、立派なオフィスを構えていたものであった。今はすっかり見かけなくなってしまった。全てがネットの影響である。街の航空会社に出かけていって、チケットを買う人がいなくなった。第一買うにも航空券そのものが電子表示となってほとんどなくなったといってよい。外国旅行をしていて、日本航空の大きな看板を眼にすると、何か困ったことがあれば相談に乗ってもらえるかなとか、日本の新聞が見れるかなとか考えたものだった。今はスマートフォンだけ手元にあれば、大抵のことは解決が付くようだ。私のような保守的な老人でも、航空券やホテルの予約はたいていネットで予約する。大抵はしてもらう。従って商品の購入だって、必要とするものは大抵ネットで人は済ますようになる。いや、なっている。
 ネット商売というのは、購入するのは騙される、されないの問題は別にして、簡単である。しかも売るシステムを作るのは、特にスイスが中国市場を相手にするときには、やっぱり専門家の助けがいる。デジタルビジネスを専門とするデジタル・ラクシャリー・グループという会社が、上海にこの九月からアジア市場を相手にする拠点を作ったという新聞記事が今号に掲載されている。この会社を利用すれば、時計もネットで売れるようになるということらしいが、この会社の社長が面白いコメントを言っている。中国にはまだまだ外国製品のことを知る人が、特に内陸部には沢山いる。我々が推奨する時計のブランドのために仕事をする目的は、そういった周辺部の人々が欲しがる時計はスイス製で、日本製品ではないようにすることだそうだ。

中国資本のスイス進出

 この数年ボルドーの有名なワインの値が上がる一方だと思っていたら、やはり中国人のせいのようだ。ラフィト・ロートシルドのような特級格付は大量に買い付けるようである。つい先日の朝日新聞のボルドー・ワイン特集記事を読むと、中国人所有のワイナリーも十ヶ所近くあるらしい。ただし日本人のように経営には直接手を出さないで、オーナーになるだけらしい。自動車のボルボも中国資本だが、これまで通りの経営方針を守っているように見える。
 時計に関しても、中国は良い市場であるばかりでなく、中国資本もスイスへ積極的に進出している。成功例には、ミルス、ジャン・ディーヴ、ベルトリッチ、ベダがある。余りうまく言ってないのが、ヴァルカンとかピース・マーク・ソプロッド、失敗例はユニバーサル、レオナールらしい。
 この七月に、とにかく高級時計の一画を占めるエテルナが中国の企業ハイディアン(HAIDIAN)中国名でどう書くのか解らないが、二千三百万フラン(二十億円)で買収されている。この中国の会社は中級のブランド二つと中国の会社としては整備された販売網を持っているらしい。いずれにしろ、中国人や日本人が資本参加することは、スイス人にとってやや薄気味悪いらしい。中国資本参入についてのセミナーがラ・ショード・フォンで催された記事が出ていた。カルティエやタグ・ホイヤーはフランス資本だが、外国という観点では、討議された事はないだろう。
 ワイナリーの場合、中国人オーナーはあまり経営に口を出さない。つまり中国人をトップに据えたりしないようだが、エテルナのケースも同様のようである。今号の別項の記事には、二○一一年の十一月から元々エテルナ出身の四十歳スイス人のパトリック・キュウリティがエテルナと系列のポルシェ・デザインのCEOになったと発表された。つまり、これまでのエテルナの歴史と伝統を維持するというメッセージに思える。(栄光時計株式会社会長 小谷年司)
■FH誌を読む 48 ■2011年12月27日 火曜日 13時50分49秒

複合(ハイブリッド)製品のはなし

 もう二十年以上も前の話になるが、当時の諏訪セイコー(現在のエプソン)が、セイコーの名で腕時計型のテレビを開発して、実用化発売をしたことがある。値段も相当に高くて二十万円を超えていた。ただ腕時計部分だけで完成してあれば立派だったが、テレビを見るためには、アンテナが必要で、ヘアバンドないしは帽子に取り付けなければならなかったし、電池や補助機械部分の入ったやや重い煙草の箱みたいなものもポケットに納めねばならなかった。しかもこれをコードでつないで持ち歩く必要があった。
 発表会の席上、ここにはセイコーの技術のエッセンスが込められていると、諏訪セイコーの当時の中村代表(現実的には社長だが、創業家の服部家に遠慮して、社長の呼称はつかわれていなかった)が力説された。若気の至りで全社員の敬愛を一身に集められていた中村さんに私は、いくら最新技術でも、こんなややこしいものを買う人はいませんよとつい言ってしまい、この温厚で優れた経営者を鼻白ませてしまった。世の中には話題にはなるが、二兎を追う複合型製品には、現実に売れないものが多い。使いやすさに、大抵難点が多い。
 大阪の町に、水陸両用バスという観光バスが走っている。道路から水路に入って、川からも観光が出来るようになっているが、概観はスマートとは程遠い。そのせいかアイディアはいいが、人気はもう一つのようである。普通の乗用車にも、元々軍用であるこの技術を転用できるだろうが、洪水の時には便利だろう。ただし売れる保証はない。
 宝飾品の世界でも、ペンダントが指輪として使用できるものとか、帯止めがブローチになるとか、一つ石の婚約指輪に併用すると日常のリングになるものとか、色々なアイディアがあるが、それで大成功といった話は聞かない。どっちつかずの宿命は厳しい。
 複合製品で例外的な成功は、提携電話だろう。単に持ち運びのできる電話に過ぎなかったものが、アレヨアレヨという間に今のスマートフォンにまで発展してしまったし、これからも意外な展開が期待される。
 私なんか古い年代で、携帯を置き忘れて外出しても、連絡するのが不便だと感じるだけに過ぎない。若い世代は携帯なしだと、まるで裸で街頭に出たかのように大慌てをする。江戸の頃、塙保己一という失明の大学者は、日が暮れあたりの人々が明かり明かりと騒いでいるのを聞いて「目明きはなんと不便なものか」とつぶやいたという。携帯を忘れたと騒ぐ人に、ついこの負け惜しみを言いたくなる。
 さて今号のFH誌には、世界初の電話機能付き腕時計をスイスのエレクトロニック及びマイクロテクニック研究所とリメックスという会社が共同して開発、完成して発売に踏み切ったという記事が出ていた。写真で見ると外観は、LIMMEXと文字盤の上にロゴのある普通のスポーツタイプの腕時計である。電話に時計の付いているのはありふれているが、時計に電話が付くのは世界初らしい。つかい方は、竜頭を押すと、スピーカー付きの電話になり、ある一定の人又は場所に連絡する仕組らしい。当然、目的は、一人歩きの子供や老人、一人暮らしの老人、単独で山中で暮らす人のための安全確保のためである。別に腕時計でなくてもという質問に、腕の位置が一番早くボタンを押せると会社側は言っている。現在クリストという時計小売りチェーンの一部で販売されていて、価格は四九五フラン(約五万円弱)。正、回線使用料が月に二十五フラン(二千円)かかるという。リメックス社の社長アンディ・リスは、新聞記者の質問に答えて「開発に七〜八億円相当の投資をして、発売以来スイス国内で二、三千個売れた」といっている。
 五年後は、五千万フラン(約四十億円)の売上げにしたいと強気である。今のところ、時計はデザインであり、イメージであり、プレステージである。機能によるサービスではない。然しこれらが、一体となる日を私たちはめざしていると言っている。さて、この颯爽とした返事を売り上げがカバーしてくれる日が来るだろうか。

ヴィクトリノックス・スイスアーミーナイフ

 肥後守ナイフも中々味があるが、時々砥いでやらないと切れ味が悪くなる。切れ味の継続性では、日常用のナイフとしては、なんと言ってもヴィクトリノックスで、時計と並んでスイス土産の双璧であった。ナイフというものは、どことなく攻撃性を持っているもので、真にナイフ好きには物足りなかろうが、文房具としては平和を愛好する永世中立国家の作るヴィクトリノックス・スイスアーミーナイフが一番である。
 元々スイス軍の銃の取り外し、再組み立てを兵士が一人で行なうためのドライバー付きナイフとして一八八四年ぐらいから作り始め現在に至っている。
 時計を作り始めたのは、比較的新しく、一九九〇年代で、本格的な取り組みは一九九四年からである。というのはアメリカのナイフ輸入代理店がそれより以前にスイスアーミーという名を時計で登録して、スイスで時計を製造しアメリカで売れに売れていた事に刺激されたためだろう。名前も紛らわしいし、本家争いをしても双方の利益にならないと判断されたためか、二〇〇二年に両社は統合している。以来、現在の快進撃が始まっている。
 この号の新聞記事によると時計会社の社員は約百名。四十五名はビェンヌで、マーケッティングとアフターサービス。残りの五五名が二〇〇六年に建設されたジュラ山中のポラントリュイという村のアトリエで働いている。たった五十人あまりでは、あの数は創れるはずはなくて、機械はETA製品だし、組み立ても殆ど下請けに任されているに違いない。問題は、スウォッチグループから供給を受けている生産の七%を占める機械時計の部分で、今後供給をしないと声明しているのにどうするかという質問に製造担当の役員であるグサヴィエ・ジュールダンは、こう答えている。「我々は、ほかに供給先を探したりはしない。ヴィクトリノックスには、二兎を追う哲学はない。巨人スウォッチグループと話し合っているから、しかるべき結論に達するだろう。供給停止は機械時計だけであって、我々の基本はクオーツだし」とやや楽観的である。年間に新しいモデルを五、六十発表する会社だから、クオーツに専念した方が楽だと内心考えているのかもしれない。
 成立の事情からヴィクトリノックス・スイスアーミーの市場の四十%がアメリカである。だからアメリカではロレックスの次に有名なブランドと自画自賛している。
 ロレックスには、個人として色々な社会貢献を試みる「新しい企てに挑戦」賞があるが、ヴィクトリノックスも「思いやりの時間」賞を創設している。エコロジーの観点から資源持続の哲学を表明した発明に与えられるものだが、初回は空中から水を抽出する機械、水を使わないとトイレ、獲っても売れない魚を殺さずに生かして放す安全網の発明に与えられている。面白い発明で詳しく説明したいが紙面が尽きてしまった。栄光時計株式会社会長 小谷年司)
■FH誌を読む(第十七号・十月二十七日刊)47 ■2011年12月8日 木曜日 15時15分40秒

香港を訪れて実感、中国にも金持ちは多い

 今年の春の大地震による放射能流失で、中国観光客が来日しなくなり、東京や大阪の百貨店、電器店、小売店の売り上げが激減した事は記憶に新しい。中国人は、外貨の持ち出しを制限されているはずだから、買い物も日用品で、国内にはないものに限られていると私たちは想像していて、その先入観はなかなか消えないだろう。
 ところが、今年二度目であったが、十一月中旬に香港を訪れてみて、その先入観が全く間違っているのを痛感した。泊まったのはリッツ・カールトンという新しく出来た最高級ホテルであったが、一泊の部屋代が七万円以上もするのに、宿泊者の殆どが中国人であった。内装もいたるところに現代中国の趣味が満溢していて、国際的な様式でなく明らかに、中国人の高所得者層の顧客を目指している。このビルの百一階から百十八階までを占める空中ホテルの下は、エレメンツという呼び名の広大な欧米有名ブティックが軒を並べているショッピングモールがあり、スケールの大きさは世界に類を見たことがない。現在訪れるのは殆どが中国人という。中国にも金持ちは多いという実感がここに来るとする。現在この下には空港と結ぶシティ・エア・ターミナル(箱崎のような侘しさはない)だが、広州を経て北京に至る新幹線の新駅が隣接して建設中である。香港の開発計画の羨ましいのはこのあたりも同様大抵埋め立て地の上に作られるから地権者だの日照権だの騒音だのの問題は少ないことで、地震のないことと相まって、着工されるや、瞬く間に完成し、往来が実にスムースに仕上がる。
 中国経済の発展が続く限り、中国内の都市の住民にとっての消費都市として香港の繁栄は、確保されているし、現在はその通りになっている。
 この号のFH誌には、スイス時計の輸出は、九月までの九ヶ月間で、四ヶ月が昨年対比二十%以上増加を記録したとある。しかも、輸出原価で三千フラン以上(日本の小売値に直すと七、八十万円)という、価格帯の延びが九月で二十三・九%という。勿論、全体としても最大の売り先は香港と中国である。両方で全輸出の五割を越している。日本も低かった昨年から多少持ち直しているらしい。
 香港のショッピングセンターやら時計店を見ていると、昔は力のある小売り店が、高級ブランドを沢山扱っていたが、今は段々と一つのブランドしか扱わない店が多くなった。いわゆる直営ブティック(大抵華僑との合弁)である。エレメンツでもカルチェは、当然ながらP・F・ジュルヌとかフランク・ミューラーという店舗を見た。ロレックスもオメガもあちこちにある。ゼニスも、コーズウェイベイという夜の繁華街に路面店をこの七月にオープンしたという記事が、この号に出ていた。写真から見ると、地味なスイス、ドイツ風の重厚な外観で、あたりのきらびやかな色彩が躍っている店舗の間でかえって目立つだろう。
 ヴァシュロン・コンスタンタンは、ニ五六年の歴史を持つ老舗だがニューヨークに最初の支店を出したのは、一八三一年、百八十年前のことらしい。それを記念して新しくニューヨークの高級店が並ぶマディソン街にブティックをオープンした記事が出ていた。ヴァシュロンは、中東にも強かったが、石油価格が下落したとき、中東では売れなくなって経営不振に陥ったことがある。今から四十年近く前で、オペックの代表として活躍したサウディ・アラビアのヤマニ石油大臣が資金を出して買い取っている。ヤマニさんは、政治家としては、辣腕だったが経営者としてはそれほどではなく、結局一九九六年に株もリッシュモン・グループに売却して、以降会社は業績を回復している。
 これも今号の記事からだが、ヴァシュロン本社のあるジュネーヴが手狭になったので、ライバルのオーディマ・ピゲのある山地のルブラッシュスに新工場を建設中のようである。投資金額は、今後四年間で一億フラン(八百億円)。これまでで既に三千万フラン。雇用は倍増の千三百人。ニ〇一六年までに機械時計の総生産量の七割しか打刻できなかったジュネーヴスタンプを全数刻印する。この二年の総生産数は、一万七千〜八千本、三万本にそのうち引き上げると景気のいい発表をしている。
 現在ヴァシェロンは、世界中で二十八のブティック、それにパリ、ロンドン、ソウル、台湾、東京、ロスアンジェルス、マイアミの七箇所に計画中で、その他に四百箇所の取扱店があるようである。一つの店で、平均して一年に四十本ヴァシュロンを売るのは大変だなあと、部外者である私は心配してしまう。六年前から社長だというファン・カルロス・トレスという人の発言が面白い。「今なら、香港と中国で作ったものを百%売りさばくのは簡単だが、他の市場をカバーしておくのがメーカーの務めでね」。確かに香港を見てきたばかりの私も全く同感である。

人間衛星に積まれる時計

 この次は、全く観点を変えた精密時計の話。これは転載されている新聞の記事からだが、時計の先進技術研究の中心の地ニューシャテルに「スペクトラタイム」という従業員七十二人の会社がある。この会社が、アメリカ製のGPSより精度の高い計測機能を持つ時計を作って、ヨーロッパ宇宙局の衛星にのせられ、それもロシアのソユーズ・ロケットで打ち上げる。
 物理学は全く不得意とするところで、普通の時計に使われる水晶振動ぐらいなら理解できるが、ルビジュウムやセシウムとか放射性物質を使う時計となると、さっぱり分からない。
 GPSは、車のナビに使われて、我々の日常にはすっかりおなじみだが、衛星から地上の位置を計測するのに、時計が重要だとは気が付かなかった。この記事によると百万分の一秒の誤差は、地上で三百米の誤差をうむらしい。このスイス製時計を使うとアメリカ製のGPSが、三米の許容範囲となるのに、四五センチになるとのこと。
 今回の衛星には、四台の時計が搭載されている。中国の衛星は、現在九基が軌道を回っているが、二十三個の「スペクトラタイム」の時計が使われているという。二十年間、ルビジウム時計の開発にかかわってきたこの会社の社長のパスカル・ロシャは、今度のヨーロッパ宇宙局の契約で二千万ユーロ(二十億円)を得たといっている。その内容は明かさなかったらしい。
 いずれにせよ、こういった先端技術の話は,分からないながら、夢があって楽しい。それにしても時間が十億分の一秒という事は、どうして解るのだろう。(栄光時計株式会社会長 小谷年司)
■FH誌を読む(第十五号・九月二十九日刊) ■2011年12月8日 木曜日 15時3分39秒

ビュッへラーのこと

 先々号に還暦を待たずして亡くなった大阪の尚美堂の江藤光哉さんの追悼記事を本紙に書いたのと同時に、お父様の基雄さん、祖父の順蔵さんをも含めて江藤家三代への追悼文としたところが、ついうっかりと順蔵を誤って順造と表記してしまった。本紙に掲載されてしまってから、尚美堂と数軒はなれた御堂筋の角にある石原時計店の社長・石原実さんから誤りを指摘された。石原さんと江藤家は遠い親戚にあたる。全くの汗顔の至りで、天国におられる謹厳なクリスチャンだった順蔵さんに、まずお詫び申し上げたい。順蔵さんは、小柄でやや太り気味の体型でメガネの奥でいつも眼が笑っている人当たりの良い人だった。百歳近くまで生きられたが、その優しさは、孫の光哉さんが受け継いでおられたと気がする。石原さんの福の神みたいな外見の人と言うユーモアある表現は当たっている。しかし、その内面には、戦後尚美堂を一時大阪で最も売上げの大きな、かつ権威のある時計店に上昇させた手腕が隠されている。社員にとって絶対のカリスマであることが、会社を訪問すると感じられた。
 昭和三十年頃、セイコー、当時の服部時計店は心斎橋筋の超一等地に二百坪ばかりの土地を購入し、小売り部を作る計画を立てていた。後に「和光」大阪店として開業して一般の耳目を集め、取り扱い品や内装の趣味のよさ、従業員のマナーの訓練振りなど当時の大阪にはないものであった。
 ところが開店前にセイコーの時計も扱うだろうと予測した業者は、メーカーが製品を直接販売したら、我々小売り店はどうなるのだろうと言う論理で、小売り組合を通じて起き上がった。尚美堂さんは近くではないが仲庭総本店、薮内時計舗、岩橋時計店その他錚々たるセイコー取扱店が心斎橋筋に軒を並べていた。分が悪いと見て取った服部時計店の椿七十支店長は、本社の諒解を取って、時計小売り組合の要求に屈し、「和光」ではセイコーの時計は売らないという約束をする。その策動の裏に、前組合長だった順蔵さんの意向が強く働いていた。五十年以上経った現在、和光の場所も大丸に転売されたし、時計店も心斎橋の一階で時計を主力に販売している店は、スウォッチとタグ・ホイヤーの直営店二軒しかない。何たる時代の変遷かと思われる。「和光」では仕方なく、和光の名を配した時計を、勿論セイコー製品だろうが、以来発売するようになった。都会的で洒落たセンスのデザインが多く、競合しない地区にある他の小売店も価格競争を避けるために、取り扱ったらどうだろうかと思ったが、なかなか双方の都合もあってか実現に至らなかった。基本的には小売店は、他の小売店のブランドが付いてる商品は取り扱いを忌避する。他人の土地に土盛りはしない。
 さてここから主題に入る。スイスの観光地ルッツェルに本店を持つビュッへラーという小売店がある。一八八八年(明治三十一年)の創業というから、大阪の石原、生駒、薮内といった老舗より新しいが、今やジュネーブその他に支店があり、観光客には馴染みの深い名前である。ロレックス社は、現在FHの重要なメンバーであるが、FHの結成されたばかりの一九二四年ごろは、何故かFHに加盟してなかった。ビュッへラーも同様だった。ロレックスは、FHの加盟小売り店に買ってもらえない。ビッへラーは、加盟のメーカーからは仕入れられないといった事柄から両社の現在に至るまでの緊密な関係が結ばれたのだろう。小売店は他のメーカーから仕入れておれば比較的安泰だが、発展するとそのうちに必ずオリジナルブランドを自分でも作りたくなる。メーカーが自前の小売店を創りたくなるのと同じである。ビュッへラーも例外ではない。一九一八年ぐらいから、既にジュラ山中で小さなアトリエで部品を買い集めて、組み立て方式(エタブリサイル)で自社ブランドの時計を作り始めていた。小売店を訪れる客は、必ずしもロレックスのような高額品を買うだけの余裕があるわけではないから、店としては普通の値段の時計で、かつ特色のあるものを必要としたためだろう。小売店が製造業をはじめても、他の小売店は買ってくれない。ビュッへラーも主として自分の店で売るしかなかった。それでも観光客がスイスへ来ると必ず時計を買う時代が続いたので大阪万博の頃には年間八万個ぐらい売れるようになって、工場もビエンヌに新設していた。いわば工場直売だから利益率も高い。しかも八万個という数はスイスの工場としては立派な成績である。
 今世紀二〇〇一年になって、小売店の副業的な時計製造から脱却して、製造業として独立する決断をしたビュッへラー社は、時計のブランドを創業者の名からとって「カール・F・ブへラ」(日本語の正式表記)として、バーゼルに出展した。ステンレスで数十万する価格帯の高級時計である。小売店の作った時計が売れるかどうか、危惧する人も多かったが、この十年間で確実に世界で地歩を築きつつあるようである。日本でもかってデスコのAP部門で活躍した増田さんが努力してこの十月のつい先日に銀座ブティックオープンする事に漕ぎ着けている。
 銀座に出店するという記事が、ビエンヌの八月十六日のドイツ語新聞に取り上げられ、今回のFH誌に転載されている。社長として敏腕のサッシャ・モエリという写真が載っていて、私には懐かしかった。一時はエーデルワイスの時計で、スイス中に売られ、空港にも売店を持ち、大人気だったミッシェル・ジョルディの片腕だった男ではないか。私の会社はジョルディの代理店であったばかりでなく、彼とは親友と言っても良かった。新聞記者にモエリさんは、今はつまずいて引退を余儀なくされているジョルディのことを「情熱的アイディアマンで、大きな夢を見る人で、学ぶところが多かった」と言っている。一寸冷静なモエリさんだから、ジョルディのように夢とアイディアを追いかけて足元崩れることをしないだろうと思う。記事によると時計製造会社は勿論、小売店のビュッへラー社の参加にあり、現在の社長は三代目のヨルク・G・ビュッへラー氏である。
 二つのブランドがあり、高級時計のカール・F・ブへラ(年産一万七千個程度)と普通品のBスイス(年間二万五千個)という。いずれにしろ日本での成功を祈りたい。(栄光時計株式会社会長 小谷年司)
■FH誌を読む(本年第十六号、十月十三日刊)45 ■2011年11月16日 水曜日 15時38分37秒

別誂えの時計のこと

 日本では近年見なくなったものに洋服の仕立て屋さんがある。昔は、既製服は吊るしといって、軽く見られたものであった。銀座や心斎橋の一流ティラーで背広を仕立ててもらうのが、月給取りの夢であった。それがフランスからプレタポルテと言う洒落た名前で、高名なデザイナーの普及品が女性の既製服として輸入され、流行して以来、吊り下がりが当たり前になった。プレタポルテとは、フランス語で単に直ぐ着れるという意味に過ぎない。私の父も背広は一生オーダーしたものしか着なかったし、出入りの仕立て屋を大切にしていた。といって別に大して贅沢な生活を送っていた訳でなく、父は仕事が飯より好きな大阪人に過ぎなかった。
 昨年夏、ロンドンのホテルに泊まっていて、朝刊を読んでいたら、サヴィル・ローの有名な仕立て屋さんが特価提供.と出ていたので、同宿の息子を誘って出かけてみた。サヴィル・ローとは、高級仕立て屋さんの集まっている通りの名で、ここから背広の名が由来したとする人もいる。安売りとはいえ、そこはロンドンのことである。オンリー・バイ・アポイント(予約のみ)とある。こんな機会は一生またとないとベルを押し、インターフォンでやり取りすると入れてくれた。結局、仮縫いにもう一度行かないといけないというので、生地だけ買って帰った。縫製代はまけてくれなかった。然し店内のしつらえ、応対の仕方、生地の見せ方など、実に様になっていて、この高級店の客あしらいの洗練度には、妻と息子もすっかり感服してしまった。売り手も買手もせかせかしていない。
 国内では既製服の店は、今や郊外に乱立し、市中にも入ってきているが、その反動というか小型ながら注文服の店も見かけるようになった。私のようにどうしても既製服では合わない不幸な体型の人も多いためか。中にはスマートな若者を相手にする高級店もある。いくら体に合っても注文服でなけりゃという人たちも出てきたと言える。こういうのをロンドン風にビスポークと称するらしい。ビスピーク(BESPEAK)は注文するという動詞。スピーク(話す)という語幹が入っているかぎり、注文の行為には色んな話のやり取りが前提とされているのだろう。
服の話を長々としたが、さて注文腕時計というものが存在するのだろうか。自分用の時計を注文する客がいて、それに応じる製作者が存在するなど考えもしなかったが、今号のFH誌の紙面を読んで、そんな企業がジュネーヴ市内にあることを知った。クリストファー・ゴレイとエミール・シュピーラーと言う二人の時計気狂いの若者が十一年前に発足させたゴレイ・シュピーラーという会社である。この記事の中でクリストファーはこう語っている。
 自分は元々化学専門だったが、父が残してくれた時計に、父の名が刻んであった。特殊なものと思ったが、中味は普通の時計で幻滅してしまった。以来そのことが頭を離れず、真にオリジナルな時計、つまりこの世でたった一つしかない時計を作るにはどうすれば良いのかを求めて時計業の人々の間を訪ね回った。大抵は一個作りに否定的だったが、中には面白いという人もいて、ちゃんと住所を控えておいた。そんなときに、エミールに会って、もう一人の協力者(恐らく資金の)を得て、注文で時計を別誂えする会社を作った。注文主は顧客でなく、仲間となる。まず自分の希望についてじっくり考えてもらい、機械のありようとか、外観と言ったことでの要求を討議する。夢の時計を得るために必要な段階である。始めから完成まで十八ヶ月はかかるから、急いでる人や、自分の考えがしっかりしてない人には向いてない。ややこしすぎるという顧客もいるが、私たちのやり方は変えない。リーマンショックの危機に対応するために他の少量生産の下請けで凌いだ。もう一つは、新しいブランドを作る人たちの設計や製造のお手伝いをした。これで簡単に売上げを作れたが倒産するところもあって、結局ひどい目にあった。そこで今回会社ごと売却したが、注文時計の生産及びその関連の事業には係っていく。個性化ということで、顧客の要求にこたえて、ケースの形とか、色とか、バンドの形態とかを変えるメーカーもあるが、私たちの考えは全く異なる。商業に許される限りの情熱と狂気を一個の時計製作につぎ込む。客には別作の全行程に付き合ってもらうために、金を払ってもらう。利益は二の次だ。
 真の贅沢というのは、三つの要素がある。希少性、創造性、品質。別誂えというのは、この三つを完備している。伝統技術の保存、巨大グループの自社イメージ向上の強力なブランド広告への対抗として、別誂え制は将来有効だろう。
以上がクリストファー・ゴレイの熱弁の要約である。共感される人が、まだ多いことを願っている。

わが友、ピェール・イヴ・ドンゼさん

 二年ほど以前に、ふらりとたずねてきたスイス人がいた。セイコー資料館の元館長だった久保田さんに大阪に行くなら私に会えといわれて来たという。当時は阪大経済学部の海外研修員とかで、日本の時計産業史を専攻している三十歳台の好青年であった。以来一緒に食事したり、電話で色んなことを教えてもらったりしている。勉強熱心の上に、自宅が日本人の奥さんの実家のある奈良県と京都府の県境にあって遠い。大阪大学は豊中市にあって、これも遠い。中々会えなくて、偶に電話すると「今アテネの学会とかスイスにいる」と携帯電話で言っている。
 今号のFH誌の記事に写真が載っていた。この九月十五日にラ・ショードフォンの時計博物館の毎年出しているガイヤ(大地の女神)賞の受賞時に撮られたもので、パテック・フイリップの前社長フィリップ・スターンともう一人、オートマット(自動人形)の名人製作者フランソワ・ジュノという二人の共同受賞者と並んである。ガイヤ賞とは、一九九三年から始められた賞で、スイス時計産業の各部門での芥川賞とみなしてよいだろう。かなり長い記事なので全部紹介は出来ないが、ドンゼさんのニューシャテル大学の専攻は外科医とその病院のシステムと書いてある。大学卒業後、時計産業史に転向したことを始めて知った。自分のことをあまり語らない、明るいけど口重な人柄である。今回の三人は、学術、企業経営、技能の重ならない分野での受賞だそうだ。
 記事をみてドンゼさんにお祝いの電話をしたら、来年から京都大学の準教授に採用されたとのこと。お目出度い限りだし、私にとっても大助かりだ。スイス時計史の生き字引が直ぐ近くにいる。(栄光時計株式会社会長 小谷年司)
■FH誌を読む(十四号・九月十五日刊)44 ■2011年10月14日 金曜日 14時55分0秒

リシャール・ミル

 東邦時計の河合暢雄社長は、年来の業界仲間である。リシャール・ミルという時計の代理店をやっていたが、今はその現地日本法人をスイスの本社と合併して設立して、日本市場に向け販売をしておられる。今年、リシャール・ミル
が世界で五十個だけ限定製作した一個五千万円近くするラファエル・ナダール・モデルが日本で既に七個も売れたと河合さんから聞いた。ナダールは勿論、今のところ世界一のテニス選手のことで、ショックに弱く、きゃしゃな機械とされるトゥールビョンを備え、なおかつ軽い特殊合金ケースに入っているために、ラケットを振るうのに邪魔にならないと言う画期的な代物らしい。テニスをするのに、果たして腕時計は必要かどうかという議論は別にして、貴金属もダイヤモンドも使わず、機械時計にしては前衛的なテクノロジーだけで、五千万円の時計を製作する度胸は大したものに思われる。フランク・ミュラーといい、リシャール・ミルといい、長年続いたパテック・フィリップを頂点とする古い世代の高級時計のピラミッド構造が,二十一世紀になって、完成に変化する契機になっている。
 リシャール・ミルは、フランク・ミュラーと違って技術系の人ではない。一九五一年、フランスに生まれ、ブザンソン大学で経営学を学び、セイコーの欧州法人に勤務したり、モーブッサンの時計にかかわったりしている。私はしばらくモーブッサンの時計の代理店をそれ以前にしていたことがあるが、時計は勿論、下請けの機械であったが、ケーシングなど、それはひどいものであった。手造りのブローチや指輪を作る感覚で時計のケースをパリの工房で作っていた。リシャール・ミルは、その後オーディマ・ピゲ社などのコンサルタントを経た後、二十一世紀に入って自分自身の会社を持つようになる。今の樽型のケースが出現したのは2001年であった。
 スイスは時計王国と言われるが、スイスの国内の全ての地区で時計を作っているのではない。ジュネーブからバーゼルの手前に至る線上の主として山地の町や村で作られている。十六世紀のフランスは、旧教と新教の間の激しい宗教戦争の場であった。血で血を洗うような闘争がパリだけでなく、各地で繰り広げられていた。その頃、ジュネーブを支配していたのが、新教徒の盟主カルヴァンで、多くの新教徒がフランスから亡命してきた。時計や宝飾の職人は、大抵新教徒なので、まずジュネーブ時計製作が根付き、そのうちに、ジュネーブから東北の山地へ少しつづ広がっていった。何しろ、一年の半分は冬で、戸外作業は不可能、屋内の手作業に向いた地域であった。スイスの時計産業は、長年の間住民たちの生活に根を下ろしてきている。歴史や風土で構造が形成されている面がある。人件費の安い(元々は貧乏国であったスイスに利点は、そこにあったが)ところへ、工場を持っていくという、アメリカ人や日本人の発想は、スイス人には乏しい。しかも時計の下請け業の数も多い。
 さてスイス時計産業の中心地のひとつであるジュラ地方のトラムランと言う町で、この九月始めに時計部品の下請け業者百人ばかりの会合にリシャール・ミルがパリから招かれ、講演をしたと言う地方新聞の記事が、今回のFH誌に載っている(十四号・九月十五日刊)。発言を以下に要約する。
部品製造業の皆さんは、欠くことのできない存在である。あなた方の存在無しには、何も出来ないだろう。下請けの力を強く信じるものである。自分で全てを作るよりは、色々な分野の専門家の力を借りた方が、ずっと有効である。下請けの存在はスイス時計産業の富みであり、なんとしても残さねばならない。
 独立を考えたのは、一九九九年の頃だが、市場で売れるとか、コストがどうかとか考えず、技術面のみをおもんばかって、自分の作りたい時計を作った。まず時計は、最善の技術と最新のイノヴェーションを兼ね備えていなければならない。二十一世紀のテクノロジーと原材料が手元にあるのに、十九世紀にいるような気持ちでいるのは馬鹿げてる。
 第二に技術は、芸術性のある表現を必要とする。時計は人間工学的に美しくあるべきである。人間にとって一生の伴侶である。リシャール・ミルの時計は、スイス時計産業の中に見出される最善のモノで、いくら高くついても創らなければならない。私は理想の製品を作りたいと思った。結果だけがものをいうだろう。市場調査もしない、無名の上、どこの馬の骨かもわからない。昔からあったという歴史もない。誰も高級時計の一角を崩せるとは信じなかった。然し、人々が弱点とみなすものを私は力に変える事の出来たのは、人々に衝撃を与えたこの時計なのだ。この時計は、存在するだけで「技術」の匂いがする。
 新聞記事で読む限り、リシャール・ミルはこのように、なかなかの雄弁家である。口が滑って時には扇動的になる。高級時計の在来メーカーは、動脈硬化に陥って、新製品一つ出すのに三年から六年をかける。私のところでは、一年で四つも五つも発表する。彼らは、ぐるぐる回りばかりして、巣籠り状態だ、などと手厳しい。記事によると、例のナダールモデル五十個は完売で、時計の総生産量は、年間二千五百個という。記者が、普及品を何万個も作ってみたらと水を向けたら、「それは優しいが、僕の哲学とは会わない」とそっけない。

クロノメーターの数

 数の話になると、スイスのメーカーは、年間の総生産数を公表したがらない。大体推定で判るし、判ったところであまり益はない。然し知っていた方が、色んな判断の基準にはなる。この号には、スイス・クロノメーター協会の昨年検査して保証した数量統計が出ている。2010年一年間で1,276,714個、昨年比十%増の保証書を発行している。そのランキングは、
 ロレックス(611,424)、オメガ(342、297)、ショパール(34,254)、パネライ(26,291)、ミドー(25,384)、タグ・ホイヤー(24,541)、チトーニ(13,335)、エニカ(11,180)、ポール・ウオッチ(7396)、エルネスト・ボレル(6,341)、ゼニス(5,194)、コルム(5,092)、ユリス・ナルダン(5,035)、シャネル(4,245)、エベル(2,236)。以下省略。

ある下請け企業の経営者の話

 下請けの存在を褒め称えたリシャール・ミルの工場は、ジュラの山中のレ・ブルールと言う村にある。ミシュランのガイドで調べてみると、旅館が一軒、人口約千五百人とあるからよほどの田舎だろう。同じくここに、1868年創業と言うから明治元年から続いているドンゼ・ボームと言うケース工場がある。現在のところ従業員330人で盛業中である。主としてカルティエやモンブランといったリシュモン・グループの時計のケースを作っているらしい。
 元々ドンゼ一家の家族経営だったが、2007年にリシュモンが買収して、当時経営者だった四代目のジェラール・ドンゼとローラン・ドンゼの從兄弟同士の二人が代表として残っていた。ところが昨年、販売と管理を見ていたジェラールが突然首になり、ローランが社長になった。そのローランが一年足らずで辞意を表明した。今号の新聞記事では、地元の新聞だから、長い間地元に色々な貢献をしたドンゼ・ボーム社に同情が集まって、きっとリシュモン・グループが追い出したような思い込みがある。ローランは企業にはちゃんとしたレールが引いておいたし、私も六十だからもう引退させてもらった。この町にいるんだし、趣味も多い。特に狩猟だね。一体どこがいけないのかねと答えている。この記事には一寸したドラマみたいなところが合って紹介した。リシュモンの支持で、この会社は新しい土地を13500平米購入し、約二十億円をかけて新工場を作り、2015年には、500名に従業員を増やす計画と新聞は報じている。本業ならば住民は喜ぶべきだが、拡張計画も全てが終わってからの公表だし、リシュモン・グループは資金回収を目的とするだろうから、昔みたいに自治体に色々と寄付をしてくれなくなるのではなかろうかと恐れているようである。(栄光時計株式会社会長 小谷年司)
■FH誌を読む 43 ■2011年10月3日 月曜日 16時1分16秒

今年半年のスイスからの輸出金額は二兆円弱に

 欧米の学校の新学期は九月からである。だから九月は休み明けというよりは、新しい年度が始まるという感覚で、日本人には桜の想いと結びついているが、欧米人には落葉と秋雨に結びついている。フランス語では、この夏休み休暇明けの季節を“ラントレ”と称する。英語の“リ・エントリー”で「お帰りなさい」という語感である。
 FH誌ラントレ号(第十三号・九月一日刊)の巻頭には十一月十五日、FH主催の時計に使用される科学物質に関する有害物質の活性セミナーがニューシャテルのホテル・ボーリヴァジュで開催されるという案内記事が出ている。ヨーロッパには、電気及び電子製品に使用される可能性のある人体に有害な物質を規制するREACHと言う法律があって、製造だけでなく、輸入・流通までも支配している。この基準がいかなるものか、業界人に徹底する地味なセミナーである。
 午前中には法律的な講義が、例えば主要輸出国のアメリカの法制に適合するかと言った内容が、米国の弁護士によってなされる。今後は、製造上の実務的なセミナーである。誰でも参加できるが、FH会員優先の定員制のようである。
 日本人は食品に関しては、極端に神経質である。原発破損以来、放射能に対しても厳格に行動する。一般消費品については、外面の完成度と価格については、厳しいが、使用されている有害物質については、消費者の人体実験でひどい結果が出ぬ限り問題にならない。作る側にあるいは、輸入販売する側に責任があるから、良心的に行動してもらわねばならない。良心的といっても、曖昧だから法律にもとるしかない。時計について体制的に整った法律があるのだろうか。日本製品は、機能的な不良品が出ないことでは世界一だが、有害物質を使用していないことでも、スイス製に劣ってはならない。かく言う私は、家業が時計屋であるのに、若い頃時計及びバンドで手首が腫れて、そのアレルギーで、革バンドが出来なくなった。ステンレスのバンドなら大丈夫なので、人生に大事はないが、こういった経験を持つ人も多いだろう。
 もう一つ固い話題で、スイスにおける時計及び付随の精密工業の就業人口について。時計製造業者連盟(CP)の調査によると、昨年十月の実態は、就業人口は四八、五四八人で、前年比五四九人減(一・一%減)、事業所の数は、十三ヶ所減ってニ・一%減の五九六ヶ所。
 スイスは労働争議の殆どきかない国だが、労働組合は強そうだ。時計産業の場合は、経営者側と労働組合とは、集団的な協定を結んでいる。五九六の事業所のうち、四三一ヶ所と四一、六ニ五人(全体の八五・六%)の労働者の間にである。スイスは国土も狭いし、今でも国民皆兵制である。情報も巡りやすい。それに国民所得は高い。金持ちケンカせずと言うように、隣国のフランスの時計産業が労働争議で殆ど壊滅してしまったのとは大違いである。それにしてもスイス時計産業の全従業員の数が五万人足らずとは、少ないような気がする。早稲田大学の在学生の数の半分にも満たない。これで世界の時計のリーダーなのだから、時計産業の規模が小さいとも考えられる。

スイス時計産業の全従業員の数が五万人足らず

 では現実にどのぐらいの金額が生産されているのか最近の数字を見てみる事にする。今年前半、六ヶ月間のスイスからの輸出実績は、八十七億フランで昨年比十九・三%増。このまま一年が順調に行くと、単純に倍して、スイス国内での売り上げの五%を加えると約二百億フランで、二兆円に少し届かない。六ヶ月だけの輸出国ランキングを観てもあんまり意味がないが、傾向はわかる。かってと言ってもつい十年程前は、アメリカと日本が一位、二位の輸入国であったが、それぞれ二位と八位に後退。トップは香港でアメリカの倍、それに中国(三位)とシンガポール(五位)を一つの市場としてみると、約三十億フランとなって全体の三分の一以上を占めることになる。日本への輸出も五・ニ%だけ伸びていて、三億八千万フランとなっているが、二割伸張している中であるから、成長に付いて行っていないのは確かである。スイスから見ると、この半年では四%のお得意先で、輸入額が減っていないのがまだしもと言うところだろう。アジア市場は全体で五五%を占めるようになっている。これは時計だけでなく、自動車や電気製品といった国民固有の趣向があまり関係しない耐久消費財の売れ行き動向も同じようになりつつあると推測される。日本国内市場だけ相手にしていても五%にすぎない。アジアだけ相手にしても五十%を越す。メーカーは、世界を市場にしないとこじんまりと纏るしかない。

新社長の登場でラドー全体にピッリとした気風をもたらす

 さて今年の一月から長い間、故ニコラス・ハイェックの信頼の厚かったラドー社のロラン・ストルーレ社長が引退して、新社長にマチアス・ブレッシャン氏が就任した。ハミルトンを見事にグループ内の牽引車に仕立て上げた人物で、やや成長の遅いラドーのスピードアップが彼に課せられた仕事のようである。この六月に新聞でインタビューを受けた記事がこの号に載っている。ブレッシャン氏は、写真で見ると四十代の精悍な表情の持ち主で、一問一答もやる気に溢れている。要約すれば次のようなことを言明している。
 ラドーというブランドは、今ちょうど転換期に差し掛かっている。確かにロンジンとかチソといった同じグループのブランドに比べれば、成長は遅かったが、それでもちゃんと伸びてきた。採点は中の上と言ったところ。然し現在の売り上げを(金額は発表されてない)五年で倍増する。価格ポジションは、現行の小売り千〜三千フランにとどめる。この価格内でハイテク素材の採用をどれだけ推進できるかが問題だ。先進的な素材を使って、純度の高いデザインの時計を作るのがラドーの使命である。現在の顧客年齢は、四十五歳前後で、男女比率は半々だ。年齢の高さは、問題ではなくて、顧客のデザイン感覚や精神年齢の方が重要とみなされる。昔のモデルで食べているのではないか言われるが、いわゆる旧型のいかにもラドーと言うモデルは、中近東とインドが主流市場で、例えば中国では、モダンなシントラが売れている。需要のあるところに、生産を止めるわけではないが、ラドー全体をイノヴェーションの代名詞にするよう一年間で成し遂げたい。ラドーのデザインは好きな人は好き、嫌いな人は嫌いとなるが、それは仕方がない。全ての人に気に入る時計でなくて良い。
 温厚で口数の少なかったストルーレさんの引退は残念だったが、新社長の登場でラドー全体にピッリとした気風をもたらすに違いないように思われる。しかも五年で売り上げ倍増はお手並み拝見と楽しみである。(栄光時計株式会社会長 小谷年司)
■FH誌を読む ■2011年9月20日 火曜日 15時26分59秒

松本市の町離れを辛うじて救っているのはサイトウキネンだといえる

 九月に入っても夏休みが明けた後のFH誌がまだ手に入っていないので、閑談をさせていただきたい。
 八月の終わりに、このところ毎年になったがセイコーエプソン社のご厚意で、松本市でひと夏に渡って開催されるサイトウキネン音楽祭のメインイベントに行くことが出来た。小沢征爾が指揮するバルトークのオペラ「青ひげ」だった。その夜は、小沢さんの体調が悪くて代演であったけど、音楽そのものは、指揮者が練習で造り上げているので、一日ぐらい出れなくて、変わらない。親方がいなくても頑張ろうという気迫が、かえって感じられたぐらいであった。
 十年ほど前になるだろうか、私は二十名ばかりのお得意先の団体を引率してベルギーの首都・ブリュッセルの街を歩いていた。過度に端正な細面だが、伏目勝ちに外套姿で散歩するベラ・バルトークの銅像が路上に建てられていた。隣にいた大阪のおばさんが「何や時化(しけ)たオッサンやなぁ」と歓声を上げた。この印象は、まさしく深味はあるが、暗い音楽を作曲し続けたバルトークの本質をついている。バルトークは、ハンガリー人で、ヒットラーと対立してアメリカへ亡命し、1945年にニューヨークでなくなっている。作曲家としては有名だったが、人付き合いの悪い男だったらしい。今回は、その人のオペラとこれも奇怪なストーリーのバレェ「中国の不思議な役」の二本立ての公演で、よほどの音楽好きでも、少しためらう演目である。しかし、二日間とも完売で、インターネットでも取れないと、ある友人が言っていた。小沢人気というのは、すごいものだ。当夜観て聴いた公演は演出、舞台装置と共に、素晴らしい出来であった。難しい曲でも、優れた演奏にあたると、耳に素直に入ってくる。
 サイトウキネン・フェスティバルというのは、指揮法を斉藤秀雄という先生に学んだ生徒たちが、小沢征爾を中心にして集まり、先生の徳を偲んで年に一度どこかで音楽祭をしようかと始めたお祭りである。世界中から演奏家がやってくるから、旅費だけでもお金がかかる。あまり小さな街では、セイコーエプソンのようなスポンサーが地元では見つからない。オペラハウスやコンサート・ホールのような施設もいる。なければ町に建ててもらわねばならない。今年は、二十年目になるそうだが、夏になると松本は、サイトウキネン一色である。町のあらゆる商店にポスターが飾られ、通りにはのぼりが下がっている。町全体が夏休み期間中あちこちで催される音楽会で、ウキウキしている様子が感じられる。
 事実、松本の町は人口十二、三万人だろうか、この十年ですっかり美しく魅力的な町になってきた。新しく立派なオペラハウスも出来たし、美術館も新しくなった。どうして松本が、サイトウキネンの開催地と決定したのか、そのいきさつは知らないが、一時奈良にも打診があったと聴く。奈良市が小沢さんの要請をうけいれられなかったという話であった。奈良には、昔の文化遺産が沢山あるからいいが、当時決断した松本市長は偉かったと思われる。それに松本には、旧制松本高等学校があって、文化的素地も、明治政府になっても保たれてきた。東京・大阪のような昭和になって近代化の津波に襲われた大都会は別として、旧制高校のかって存在した町、しかもお城のあるところには、文化のにおいが残っている。弘前とか松江、熊本、岡山などを頭に浮かべてもらうと、解るだろう。仙台や鹿児島にも多少ある。松本を周辺地区産業の発展による、人口ドーナツ化、車の発達による人々の町離れを辛うじて救っているのはサイトウキネンだといえる。
 よく町おこし運動を言う人がいるが、大抵は、人工的魅力のあるものを作って、例えば我が大阪にあるユニバーサル・スタジオ(ディズニーランド如きもの)だが、他所から人に来てお金を落としてもらう発想である。札幌にあるラーメン・スタジアムみたいなものは、観光客が主で、地元の人は通わないだろう。本当の町おこしは、地元の人が楽しみにそこにやってきて、それが人々とつながって創る事にある。地産地消といわれるが、商品は世界中をいったり来たりしないと、繁栄はない。おしつめると、全世界が自給自足に成ったら、それでいいのかという事になる。大切なのは、地元でお金を使うことだが、今やあちこちに大きなショッピングモールが出来、TV、IT通販が盛んになって、町にまで足を伸ばし買い物に行くことが面倒になってきている。私の世代には、恐ろしい時代になりつつあると思われるが、若い世代は、これを当たり前として育っているから、それなりに楽しいのだろう。かって町の中心に立つと、店店は、生き生きと商品を並べ、人々が集まっていた。地方の小都市に行くと、今や昔の繁華街に人はなく、半分がシャッターを下ろしている。この間も、美しい町の肥前唐津に行き、どうしてこんなに大きく立派な病院が立ち並んでいるのに、町は死ぬんだと言ったら、同行の娘にたしなめられた。それでも十一月の「おくんち」の祭りのあるときは、すごい人出になるという。音楽祭でなくとも、お祭りは、町を救うことが出来る。お祭りを文化的行事と言い換えてもいいだろう。
 松本には時計博物館がある。元々は、個人の寄贈品を展示したもので、松本城の中にあったが、十年程前に市中の独立した。そのために建設されたこじんまりはしているが、立派な建物の中にある。なかなか面白い収集なのだが、松本市の経営になったせいか、展示・解説共に、おざなりという感が時計好きには残る。大体、古時計を集めると言う行為が狂気の沙汰に近いのだが、系統立てて展示する事によって、狂気がすっかり消されてしまっている。学校の課外授業みたいになっているので一度観ると卒業した気になって、今回は行かなかった。博物館に予算があって時計好きの館長が収集品を年々増やすことが出来れば、話は別であろう。日本中の奇徳な人々が少しでも自身の集めた時計をここに寄贈するシステムが出来れば、いいのだがと思う。そのためには、時計の知識の豊富な学芸員、それも複数の人が必要とされている。美術館や博物館は、立派な建物と収集品だけでは成り立たない。経営者である館長は、人格・学歴共に優れていて、どうすれば館員の意欲を高め、人を集める企画能力に力を発揮する人物でなければならない。サイトウキネンは、偶小沢という人材を得たために成功したといえる。博物館の経営も同じ事で、無事これ名馬と考えるお役人では、そうは行かない。時計博物館に人材を得れば、観に来る人が時計に興味を持つようになるし、ひいては時計の売上げに寄与すると考えるが、効果が直接的につながらないので、日本の商業人は一般に冷淡である。大阪のサントリーという会社は、商業美術と日本古来の美術を中心に、かってオーナー社長・佐治敬三さんが、主として買い集めた収集を展示する為にサントリー美術館を作っている。さすが大阪の人は、採算があまり取れなさ過ぎて、大阪市に譲ってしまったが、六本木では、開館している。
美術を見たからといってサントリーの製品を買うわけではないが、心意気がうれしい。
佐治敬三さんとは、色んな会合でお会いしたが、開けっぴろげで誰にも隔たりを感じさせなく、ユーモアあふれた人物であった。その甥にあたる次の社長の故鳥井信一郎さんは、私の親友であったその佐治さんが面白い事を言っている。経営者としては、落第かもしれないが、何が儲かるかばかりでなく、何が面白いかと考える人があってもいいだろう。
 セイコーの中輿の祖といわれる服部正次さんは、私の父親の上司の上司であったが、私も辛うじて面識があった。神経の研ぎ澄まされたピリピリとする感じが残っている。勿論、セイコーエプソンの前身、諏訪セイコーの社長で、茶人としても有名であった。茶道具の蒐集が有名で、ご長男で経営者としても才能を惜しまれつつ、早逝した服部一郎さんの近代フランス絵画の蒐集と共に、諏訪湖半のサンリツ美術館に展示されている。サンリツとは、服部家の資産管理会社の名と聞かされたが、これなんかセイコー・エプソン美術館とどうしてしないのか?部外者にはよく解らない。複雑な理由があるらしいが、ネーミング・ライツ(命名権)が売り買いされる世の中であるのに、事情はともあれ、惜しい気がする。文化の香りがある程度消費者の選択に影響する世の中になっている。ある人が、アメリカでは本業ですごくもうけているだけでは、尊敬されなくて、野球チームを持っているとか、オペラに巨額な援助をしているとか、本業とは係りのない形で、社会に参加していないと、本当に重んじてくれないのですと言っていた。その人は、カプコンというゲームソフトの創始者だが、今はカリフォルニアに巨大なワイナリーを買って、すごいワインを創っている。そういえば、芸は身を助けるという諺が日本にあったのを思い出した。(栄光時計株式会社会長 小谷年司)
■FH誌を読む(第十二号・七月七日刊) ■2011年9月20日 火曜日 15時11分2秒

新しいクロノメーター・コンクール

 セイコーとスイスの電子時計中央研究所(CEH)が、クオーツ時計のプロトタイプを完成したのは、1967年であった二年後の1969年、セイコーとロンジン、オメガなどが殆ど同時に商業化に成功している。その時以来、エレクトロニック分野の、得意な日本がスイスに対して優勢を示すようになったと人々は思いがちだが、事情はそう簡単ではない。
 機械時計の分野でも、日本は優勢になりつつあった。クオーツ発売後でも1975年の日本における機械時計の年間総生産量は、約三千万個、その時スイスはその三倍の九千万個近くあった。しかし、十年後の1985年(昭和60年)には、その数字が逆転して、日本が四千万個弱、スイスは三千万個強になっている。最大の原因は、スイスでの生産個数の大部分であったピンレバーの安物が、日本や米国製の機械式時計に対抗できなくなった為である。
 まあ人口八百万のスイスと人口一億以上の日本では、人々の量に対する観念にかなりの差がある。高度成長期にあったその当時の日本では、団体旅行といえば少なくとも百人以上を意味していたが、当時のスイスで十五人も時計工場に見学に行くと、立派な団体扱いをしてくれた。日本の日の丸と、スイスの赤地に白い十字の国旗を工場の玄関に掲げて歓迎してくれた。こっちはこんな少人数で申し訳ないと思っていたものだったが、その頃の熱海や別府や紀伊白浜の温泉地でも、千人以上も一度に泊まれる旅館が全盛を極めていた。沢山の人間を泊めることの出来る施設は上等という概念が一般に存在した。この心理は、日本が大量生産と品質の保持を工業製品にも同時に適応させることが出来たのと関係なくはない。質と量を両立させて当然という考え方が製造者だけでなく、日本の戦後社会では主流であった。大学のマンモス化もそのその流れの延長上にある。ところが、スイスだけでなくヨーロッパ人の考え方では、良いものは沢山出来ないし、高くつくのは当たり前というのが主流である。安くて高品質の日本製品が欧米を席捲したのは当然であった。
スイスでは、以前に時計のクロノメーターのコンクールを時計技術向上のために、ニューシャテルの天文台で催していた。ところが、応募作品の中に、セイコーが入ってきて、毎年優秀賞を受けることが多くなり、ついには諏訪セイコー(現エプソン)がある年、最高位を独占するようになり、1967年に中止してしまった。セイコーの技術を称えるために、スイスの時計産業がお金を出すのは馬鹿馬鹿しくなったというのが本当の理由だったらしい。天文台のお墨付きは、時計の精度に対する最大の保証みたいなもので、当時、オメガの最高級時計コンステレーション(星座の意)の裏蓋には、星と天文台の図柄が浮き彫りされていた。
 近年スイス時計業界も自信を取り戻したのか、三年まえから、クロノメーター時計の国際コンクールをル・ロックルで再開された新聞記事がFH誌の今号に載っている。実は、ニューシャテルの天文台でのコンクールを中止した後、時計は精度ではない、デザインであるとスイスの各メーカーが誇る貴金属・宝石を使用した時計を毎年展示する「モントレ・ビジュ」(時計及び宝飾品の意)展が、翌年からジュネーヴのテート美術館で始まっている。このショーもいつの間にか消えてしまったようだが。
 今度のコンクールの目的は、「デザインとか、複雑性(コンプリカション)よりも精度を購入動機の一位にするため」とある。だから腕時計だけで競われるが順位その他は公表しなかった。最初の年の2009年には、十六個が参加して、優勝者だけが公表された。今回は、スイス国内ばかりでなく、フランス・アメリカから出品もあって、計十八個。企業で十社、時計学校から四校。企業からは、トゥールビョン機構を使ったものと便はないもの半数づつ、時計学校の作品は、昨年から特にエタ社がこのために提供したキャリバーETA六四九八というムーブメントを使った時計。時計の精度を生み出す精隋は、調整にあるというコンクール組織委員会が表明している。その参加全品が揃って、ロックルにある時計博物館「シャトー・デ・モン」で公開された。街外れの丘上にある広い庭を持った美しい城館である。このコンクールも元々製造で財をなしたサンドス家の別荘を時計だけの博物館に使用するようになって五十周年の記念行事として二年毎に開催されるようになった。今回からは、結果は公表されるらしく「金・銀・銅のメダルが得られなくとも、審査されるだけで、優秀だから落胆する人のないように」という審査委員長の政治的とも取れるクーベルタン男爵のような発言が載っていた。参加した時計は、ビエンヌにあるスイス公式クロノメーター検査協会や、フランスのブザンソン天文台などで、これからも数ヶ月に渡って、テストを受け、結果が出るようである。日本も次回から時計学校ぐらいから参加して欲しい気がする。

スウォッチ・グループによるムーブメント供給

 かってニコラ・ハイエックが、生存中に、我々が折角苦労して開発したムーブメントを、競合相手が買って、我々のブランド(例えばオメガ・ロンジン)と市場の取り合いになる、こんな馬鹿な事があるかといっていたこともある。多くのブランドがETA社からムーブメントを買っていたから、もう売らないとハイエックが言明して以来、各ブランドは恐慌を来たし、いつそれが実行に移されるか、その対応に長い間明け暮れていたといってよい。スウォッチ・グループは、完成ムーブメント製造のETA社だけだなく、ニヴァロックス社のようなテンプ周りといった重要部品を作る会社も傘下にあるので、ここから供給を受けている独立したムーブメント製造業者のラ・ショードフォンにあるセリタ社にとっても、頭痛のたねであった。
 数あるエボーシュ製造会社(ETAはその一社だったが製造が徐々にここに集約されてきた)にしても、ニーヴァロックス社にしても、元々は沢山のブランドの部品下請け業だったが、スウォッチ・グループに入って、垂直産業の一部門になっている。困ったブランドは、おそらくスイスの公正取引委員会に泣き付いて仲介を願い出た。2009年末に一方的な供給中止声明が出て、公正取引委員会はやっと腰を上げ、今年の六月になって、スウォッチ・グループが独占、カルテル禁止法を犯してないか、法的審問にのりだし、斡旋に手をつけ始めた。日本在住のあるスイス人にくくと、スイスの公取は、アメリカと違って、産業の保持に回るからね、消費者に直接かかわらない限り、弱者保護ともいえないねといっていた。
 ハイエックの息子で今はスウォッチ・グループのトップであるニックは、審問に答えて、一昨年のように突然不況が来ると、注文は全部キャンセルして、売れ出すと注文が殺到する。まるでスパーマーケットに出してるみたいだ。我々は、ぜんぜん売りたくないのではなくて、売りたい先に売りたいのだと息まいている。
 公取との話し合いの結果、2012年より十五%づつ供給を減らす、ムーブメント製造会社に対しては、三十%づつ減らすという取り決めになったらしい。また新規の注文先の要請には、応じる必要なし、と新聞は報道している。日本製のムーブメントにも、もしも性能と価格が合えばの話だが、お呼びがかかるかもしれない。この記事も今号に出ていた。(栄光時計株式会社会長 小谷年司)
■FH誌を読む(六月十六日刊・第十一号) ■2011年8月2日 火曜日 10時1分2秒

スイス製の基準について

 この頃あまりJIS規格という言葉を聴かないなと思っていたら、殆どが国際規格の方のISOに収束されてしまったらしい。JIS規格のある製品は、優れたものと感じるのは、老いぼれ世代らしい。今回の震災で東北の部品工場が被害を受けたため、アメリカで自動車の生産が出来ないなどのニュースを聞くと、I・S・Oもむべなるかなと思う。
 時計の部品も大抵はI・S・Oにのっとっているらしく、今年も二年毎の時計技術部門の大会が五月九日から五日間、ベルリンで開催された。参加国は、ドイツ、中国、フランス、香港、日本、スイス。時計はこれらの国々とロシアでぐらいしか作られていないと見てよい。まず、こんな震災後の時期にあえて参加した日本代表団に被災への同情が表されたという。電池関係、アレルギーをもたらす金属やら危険な物質の関係、硬質ケース関係、金メッキの方法と厚みに対する関係、耐震度の見直しなどの分科会に分かれて、専門的討議が行なわれ、色々な議決が成されたようである。部外者にとっては、よく分からないがこういった規格の制定は、世界中で優れた品質の時計や、優れた全ての部品を生み出す源泉になるだろう。この報告はFH誌今号の巻頭に載っている。
 I・S・Oは、全世界の製品の質の向上を集合的に目指しているが、各国は自国の製品の市場における優位性と主張したい。特に小国であるスイスにはそれが強い。
 五月十九日にFHは、スイスメイドと表記するための基準を、価格にして、クオーツや・機械のムーブメント部分については、六十%以上スイス産を使用しているものに統一した。これまで機械ムーブメントは、八十%以上であった。但し完成した機械時計の八十%以上はそのまま。スイスメイドに対する全世界の消費者の信頼度の高さを楯にして、なんとしても産業を自国にとどめておきたいスイスの気持ちがよく出ている。スイスは、小さな人口約八百万人の国だから、五十人、百人の雇用の創造は重要となっている。
 この記事もFH今号に載っているが、部外者にはアイマイで、よく読んでも何を本来意図しているのか、なかなか読み取れない。ある意味では、競争相手同志の組合であるFHの中では、色んな各社の思惑と妥協があるだろう。日本人のように黒か白か、勝ちか負けかをハッキリさせたい心情には理解しにくい。外交とか国際関係は、こういった駆け引きの延長線上にある。

ショパール社とカンヌ映画祭

 時計製造上の規格や法制をいった、私にもよく分かってない話題は、これぐらいにして次に移る。
 夏はなんと言っても休暇の季節である。スイスでも人々は一ヶ月近く休むから、時計工場も殆ど閉めてしまい、日本からでもなかなか連絡が付かず、商品も来ない。日本でもきっとそうなるだろうと十年ぐらい前は予想していたが、この失われた二十年うちに、人々はまた働かざるを得なくなって、休暇は旧盆前後の十日ほどになってしまった。働く事はよいことだったと、怠け者の私は内心思っている。日本人は、休日でも、やれどこへ行くだの、忙しい時に出来なかった事を試みるだの、予定を立てたがる。休みを働くのと一緒の規律で行動する。休暇(ヴァカンス)のヴァカンスとは、空っぽという意味である。全てを空っぽにして、何も目的を持ってしないというのが、休日である。イタリア語にファールニエンテという言葉がある。何もしないという意味だが、これに美しいという形容詞を頭につけてベル・ファールニエンテという。「無為たる事は、美しきかな」とイタリアでは、無為の人は、うらやましがられるが、日本ではプー太郎と呼ばれる。
 昔、夏にパリへ行くと、鳩とアメリカ人観光客しかいないといわれた時代があった。八月のパリは、パン屋も八百屋も肉屋もみな閉店して、ヴァカンスに出かけていた。日常生活に不便を感じていたが、不満はあまり聞かなかった。そういや、交通ストでも、働く人の権利だからと、フランス人はストに寛容である。今は時期をずらして休みを取るようになって、八月のパリでも店は開いているようになっている。これを進歩と見るべきか、退化と見るべきか。日本人にとって避暑とは、暑さを逃れて涼しいところに行くことだが、パリ人はみんな暑いところに行く。第二次大戦前の避暑地は、ドーヴィルとかビアリッツとか、大西洋岸にあって涼しかったが、戦後は南フランスに中心は移ってしまった。昔の避暑地は、年中ホテルなんかも開いてなくてシーズンになると開店した。開店初日に隅々泊まって記念品など貰った事がある。フランスでは、必ずといっていいがカジノがあり、エルメスやカルチェといった高級ブテックも開店する。私なんか、避暑地に滞在して、誰がこんな高いダイヤモンドを買うのだろうと思うけど、富の偏在は昔から存在した。日本人はお金持ちといっても、こういった行動に出る人は少ない。あるいは少なかったと言うべきか。
 南仏カンヌは人口七、八万の小さな町だが、夏休みになると,沢山の人が北から下ってくる。おそらく人口は、三倍以上にはなるだろう。ヴァカンス時期には、町の経済は、活気を帯びるが閑散期には下落する。そこで考えられたのが、映画祭だったと思われる。五月中旬に開催されるが、今年が六十四年目になる。お祭り好きで、演出のうまいフランス人がやるのだから、年々人気となって、映画関係者にとっては、時計人にとってのバーゼル見本市といえるものになっている。
 ショパール社のオーナー社長である(兄と二人社長制)カロリーヌ・ショィフェレは、映画好きで、十年以上前からカンヌ映画祭の時計宝飾品部門の会社の公式スポンサーになっている。今回は、あと三年の契約を交わしたという記事が今号のFH誌に載っている。また以前からショパール賞を作って、有望な新人に与えている。私は新しい映画について無知だから、今回の受賞者の名は上げないけど、選考委員の中に、懐かしいクロード・ルルーシェ監督(男と女)の名を見つけて嬉しかった。映画祭全体の選考委員長は、「タクシードライバー」のロバート・デニーロで、彼はショパール賞の贈呈式にも、カロリーヌと並んで出ている。
 映画祭は実は、大きな社交場であって、そこでショパールの名が芸能人、俳優、派手好みのいわゆるセレブたちの中で、認識されれば、宣伝価値があるものとみなされるのだろう。カンヌのマルチネス・ホテルといえば、最高の格を誇っているが、その最上階を「ショパール・ラウンジ」として借り切り、彼女が有名人を招き、豪勢なパーティを主催した様子も報告されている。
 日本でもあちこちで映画祭が開催されるが、真の映画好きか、プロがあちこちのホールを巡るだけで、作品を見ることも大切だが、より以上に大切な情報交換源であるパーティは成立しない。グランプリの表彰といったところで,よほどのスポンサーがつかない限り、小学校の卒業証書授与式の延長みたいなものである。映画祭の広告活動に巨額な投資をするメーカーの気持ちは、普通の日本人には理解できないだろう。すぐに役立たない事に、我々はなかなか金を払わない。最近テレビを見ていて感じるのは、画面で販売するCM広告の多さである。これなら広告効果がすぐに判定できる。テレビの露天商化は世界中同じだろうか。
 FH誌の別の紙面でカロリーヌ・ショイフェレが売上げ向上にカンヌ映画祭にどれだけ貢献するかという新聞記事の質問にこう答えている。「その効果は、正確には解らないけど、大賞の表彰式ですべてが終わるわけではないわ。具体的な成果もない事はないの。女優のウマ・チェルマンさんに開会式の時してもらっていたイヤリングが翌日売れたわよ。六十四個の宝飾品で構成する赤いじゅうたんコレクションを展示したけど、そのうちいくつかはロシアや中国で展示されるだろうし、いろんなことが続いていくのよ」。まあ非常に女性的な返事で彼女の口調を想像して訳してみた。この一問一答は、カンヌに使う予算はあるかと聞かれて、勿論予算は作っているが、いるものはいる。カンヌ映画祭はお金だけじゃない。日本の大震災の見舞金のためのファッションショーもおかげで開催できたしと破天荒な返事である。中国やインド、南米が将来、有望な市場で、オリジナルな考え方でやりたい。色んなことをしたくて、例えば映画を作るとかを考えても、時間がない。成長するには、これまでの伝統、つまり品質を守るしかないとやや支離滅裂。そのほか、実に愉快なインタビューであった。(栄光時計株式会社会長 小谷年司)
■流通経路を全部知る事は、メーカーにとって両刃の剣となる (第十号五月二十六日刊) ■2011年7月14日 木曜日 13時8分37秒

 フィリップ・モリスという煙草会社がある。年に八千億本以上の煙草を製造する。その主たる消費国二十カ国に出荷する全ての箱の販売経路を即座に割り出すシステムを二〇〇七年から導入している。ニセモノ、密輸、並行輸入を防止するのに絶大な威力があるようである。このシステムの責任者を招いて、この五月にスイス・クロノメーター協会が昼食勉強会をニューシャテルで催した。時計業界人の反応は、微妙である。FHのニセモノ対策委員長のミッシェル・アルノー氏も、全部のメーカーをテーブルに付かせて、同じルールで追跡調査をするのは不可能とサジを投げている。莫大な量の煙草でも出来るのだから、スイス時計をひとまとめにして、システムに乗せるのは簡単なようである。ルールを作って適用するだけで良い。全部の時計に見えるコードとかくしコードを同時につければ、問題は全く解決すると、フィリップ・モリス社の意見。しかし、現状では、多くの時計ブランドは、密輸、並行輸出、ネット販売といったグレーゾーン商売から、何らかの利益を得ている。社会全体が、もっと流通の透明性を求める気運になってから取り組んだ方が賢明ではないかと、時期尚早を語る人もいる。然し、世界の全ての地域の流通経路を捕捉するシステムは、すぐに出来るという事は頭に入れておいていい。
 この新聞記事を読んで思い出したことがある。もう四十年近く昔のことである。当時、私の会社は、セイコーの卸代理店だったので、主としてセイコーのことしか解らないが、一九七〇年代に入ってから、時計は売り手市場から買い手市場に変わりつつあった。工場は、拡張に拡張を重ねて、生産過剰になりかけてきた。セイコー側から、卸売りに対して販売ノルマを課してくる。量に対するインセンティブもつけてくる。それまでは、供給してもらうだけで有難かった卸商は、量の魅力には弱い。売ったものが勝ちという風土が、時計だけでなくあらゆる工業製品の世界で優先していた。どうしてもグレーゾーンの商売に、ノルマを消化するには、踏み込まざるを得なかった。セイコーの時計が、定価販売で泰平の眠りにあった正規の小売店以外の店で、安く売られるようになる。あるいは、小売店の中でも安売りに転ずるところも出てくる。供給する卸店がいるからそうなると、時計小売組合は、セイコーに全商品に製品番号を打刻して、流通経路を明確にせよとセイコーに迫り、渋るセイコーに一部目立つ製品の打刻を実施させた経緯がある。無論これで乱売は防げなかった。
 現在中国を中心とするアジアの消費意欲は高く、売り手市場になっている。しかし、そのうちに供給過剰になるはずである。その時、商品はアジアから逆流してくる事は、当然予想される。
 FH誌には、社会の構造が商品の流通透明性を要求する時代が来る。そちらの方が経営上のブランド力強化のために実施すべきという要請より強くなるだろうと予言している。自宅近くの八百屋さんでも産地名と生産者名が表記される時代になっている。これは買手の信頼を増す一つの補助手段に過ぎないだろうが、農産物とは異なって、量産工業品の場合、流通経路の調査が販売戦略に大きな意味を持っている。生産者の希望するチャネルで売られているかどうかが、一目瞭然で判明する。生産と販売の両輪が幸せに回っているときは、利益確保のため役立つが、崩れ始めるとかえって足枷になる。荷もたれ品の処理がおおっぴらに出来なくなるためである。経路の捕捉に全面的な賛同が得られない理由がここにある。

三大競売会社のオークションで四十億円を売上げた

 この辺で暑苦しい話題を避けて、アンティーク時計の動向に目を向けたい。FH誌の今号に、五月初旬の土・日曜日に、在ジュネーヴの三大競売会社のクリスティ、サザビイ、アンティクオルムが行なったオークションで約四十億円が売れたというニュースが出ている。ロレックスのオイスターではない、スプリット秒針のクロノグラフが一億円という過去最高値で落札されている。一九二八年製のパティックのクロノグラフが約三億円といった調子で、クリスティが昨年比二十五%増の約二十四億円。サザビイの総額が約八億円。一九六〇年製のイエローゴールドのパティックの永久カレンダーが(品番二四九九)が七千万円。何と新入りのグルーベル・フォルセイが三千万円。入札に来る人の国籍も増えていて、若い世代の収集家も姿を現しているとは、サザビイ社の弁。クリスティやサザビイは、ロンドンに本社を置いて、絵画・家具・不動産に至るまで、色んなものを扱っているが、アンティクオルム社は時計専門である。ここの売り上げ(落札額)が約八億円。競売にかけられた、三十三個のジャガー・ルクルトのレヴェルソ(時計が裏返しになる構造)の一九三一年、一九三三年、一九三六年、の三個が比較的高値で一個三百万円強。ここでは、一九三三年のヴァシュロンの三十日巻きコンスタント・フォース(巻き戻りの力が一定の仕組)のクロックが約二千五百万円、ブレゲの銀製旅行用複雑時計のクロックが約二千万円で落札されている。
 競売会社の仕組は、テレビの「何でも鑑定団」と同じことである。番組では、モノを持ち込んだ人が自分で値をつけて、鑑定する専門家が正当な評価を下す。本人の期待と専門家の落差が番組の面白さを作っているが、サザビイやクリスティでは、専門家が始めから大体の評価をつけておき、入札参考価格としてある。落札の前に、プレヴューと表して入札希望者に公開する。競売業者は、買い取ったりしない。優れた鑑定家を擁して、落札された品に対し、売り手と書い手から手数料を貰って成り立っている。商品の値段は、需要と供給で決まるとされるが、オークションでは全くストレートにそれが行なわれている。
 最近日本でも質屋さんが繁華街に店を張って一時使用されたもの、特に中古ブランド品を売るようになってきた。買取専門店のお店が、あちこちにあるのも、その現象の反対面である。今は生活に困っていなくても、普通人が中古品を平気で売ったり、買ったりする時代である。この場合、買手は売り手からなるべく安く買って、手持ち在庫にすることに、利益の源泉がある。日本では、業界の中でも、この方式であって、入札方式であろうがなかろうが、誰かが再販のために在庫する。入札会・競売は、主として業者間であった。オークションハウスは、再販するが在庫はしない。返品も取らない。但し、誤った鑑定は信用にかかわるし、顧客への賠償につながるから真剣になる。富豪や貴族が死の床にあるときは、サザビイやクリスティの番頭さんが日参するという笑い話がある。ヨーロッパでは、たいした資産家でなくても、競売屋を利用するらしく、大きな町なら大抵一つや二つは存在する。
 実はこの五月にメルボルンの通りすがりの高級住宅街にオークションハウスがあって入ってみた。名前はどうでもいいが、「レナード・ジョエル」といって昔の大きなお屋敷をそのまま使っていた。家具、美術品などが所狭しと広い展示室に並べられている。人気はやはり宝飾時計で、いろんな人が見に来ていた。但し並んでいる品々はそんな高級品は少ない。週日は下見、日曜に落札会をやるらしい。同行の娘と妻が、安い宝飾品を面白半分に最低価格で入札していたが、後日落ちなかったと判明した。会場には生臭い空気は淀んでなく、みんな遊びながら検分を楽しんでいる感じで,なかなかよかった。フリーマーケットの気分だった。
 帰りに香港へ寄ったら、クリスティの大々的なプレヴューが海に突き出したあの巨大な大展示会場で開催されていた。絵画では、ピカソやマティス級、宝飾でも大きなダイヤモンドや翡翠が下見に出されていて、沢山のいかにも金持ちらしい人々が詰め掛けていた。百万円以下のものは殆どない。目の正月を楽しんだだけで退出した。カタログだけは購入したが,美麗なもので、ホテルの部屋で眺めているだけで楽しかった。(栄光時計株式会社会長 小谷年司)
■SWISS MEDEの表記基準について ■2011年7月6日 水曜日 14時50分3秒

 ごく最近のことだが、偶々TVの通販番組を見ていて、GRUBEL SWISSという名称の時計が売られていた。スポーツタイプの男女セットで一万円というから、SWISS MEDEではありえない。しかも、アナウンサーが日本製の機械(クオーツ)を使っているから安心ですと助け舟を出している。確かスイスの法律では、時計の価値の半分又は六割以上がスイス製ならスイス製と銘打ってよいとされていたと、うろ覚えだが記憶している。SWISSと文字盤に書かれていることは、単なる商標なのだろうかという疑問が残った。昔、日本にも「スイス堂」とか「スイス時計店」といったお店が各地にあったことを思い出した。
 FH誌の今号(第九号・五月十一日刊)の巻頭でFH会長のパッシェさんがスイス製表記の問題で警告を発している。現状では、スイス製の部分が以外に少ないのに、表記が許されているし、それをうまく利用する会社が増えている。FH会員よりも非会員に多い。スイス製表記の内容強化には、会員の八十%以上が賛成だし、低・中価格時計製造の人々にも賛同を得ている。その中には、これ以上規定を厳しくするとやっていけなくなり、表記に頼って売る戦略をつくり直さねば成らなくなったという会社もある。各社が各々のブランドを拡大するために努力しているが、そもそものスイス製というのが、その基礎となるべき一大ブランド、集約的な品質ブランドである。スイス時計産業の各分野が、いわばこのブランドの保有者だから、永続性の保持に責任がある。規制の強化は、スイス国内での研究開発を必然とするから、よりイノベーションの場になる。スイスで生産する事によって、雇用の機会が増える。低価格・大量生産の時計でも事情は同じことである。今日まで多くの時計会社が外国の会社も含めてスイス内で設備投資をしているが、明らかにスイス製という表記の効用を確信しているからである。この確信がスイス産業全体のあり方を強め、中小企業に活力をもたらしてくれる。外国から部品を購入するのは、常に可能だが、時計全体に占める割合は、ある程度にとどめるべきである。その割合の正当さにスイス時計産業の存在がかかっている。
 パッシェさんの論旨は、協同組合的組織の長として、当然とはいえ、具体性に欠けるが言わんとしている事はハッキリしている。極端に言うと中国から部品を全部調達して、国内で組み立てるだけでスイス製といって良いのかという疑問が出てくる。こういった声明を出すこと事態が、スイス時計産業の問題点を浮き彫りにしている。
 日本の場合は、中国における部品の品質に信頼が今ほど置けなかったし、人件費のかかる組み立て工場をまるごと人手の安い外国へ持っていったといってよい。勿論そのときには、技術が流失する。時計だけでなく、家電品でも、メイドイン・ジャパンの行方がどうなったか、我々がよく知っているところである。製造の現場は人手のかからぬ外国で、技術開発のみは国内で、とは簡単にはいかないだろう。
 現在スイス時計で好調なのは、ごく高価な機械式時計である。エレクトロニクスを一切用いてなく、しかも高度な手工業的技術では舌を巻くような構造のものが多いが、正確な時間を日常の生活の中で読み取るという点では、安い電波時計には及ばない。高級スイス時計は、普通の生活を人が送るには全くの不用品である。安くて正確な時計は、有り余ってしまって、世の中に溢れ、これまた不用品になっている。時計の製造もさることながら、年々マーケッティングの方が重要になっている。衣食住の中で、どうしても必要とされるものと、そうでないものがある。そうでないものへの欲求が宗教・遊びや文化につながっていくのだが、近年は、いよいよヴァーチャアル化というか、非現実的なものが、現実となる社会になり、不要なものが重要になっている。ゲームソフトを売った方が実用製品を作っているより、現実に儲かるという世の中になっている。

手作業を軽蔑して、工業生産の道に走りすぎたツケが回ってきた

 時計に関して、長年の経験から言うと、不良品率は、メイドイン・ジャパンの方がスイスメイドよりもはるかに少ない。日本の消費者は一番うるさい、日本で製品が通用すれば、世界中どこでも通じるとされている。製品管理の方法では、日本は世界に冠たるものがある。しかも日本人が作る工業製品は優良だが、安くするために大量生産を基本にしている。人件費の安い国に工場を移転したところで、日本の生産管理手法をとる限り、品質は保証されるはずだというのが考えの基本にある。大量生産の手法では、スイスの高級時計のように出荷の段階で不良品のないよう念入りにチェックするわけではない。抜き取り検査をして、その段階で不良発生率が、基準以上なら、生産工程を始めからやり直すのである。あるいは、不良発生の前の工程まで全品を差し戻すのである。日本製が品質は素晴らしいが個性がないと評価される遠因もここにあるかなと思わせる。日本人の留学生がテストの成績は優秀だが、個性が強く、真の創造性を発揮しそうな逸材は少ないとみなされるのとやや共通している。それに、江戸時代には、実に優れた職人が存在したのに、明治の工業化以来、職人技という手作業も軽蔑して、やみくもに工業生産の道に走りすぎたツケが回ってきているともいえる。対費用効果ばかりを狙って製品の開発をしていると、その製品自体の存在そのものの必要性が問われてくると、自滅せざるを得なくなる。(栄光時計株式会社会長 小谷年司)
■メルボルンでの想い出 ■2011年6月16日 木曜日 16時2分37秒

 五月の終わりに、所用でオーストラリアのメルボルンに行き、帰りに週末の休日を過ごすために香港に寄った。
 メルボルンは、英国人が最初に入植した町で、キャンベラの前の首都であった。人口300万、落ち着いた美しい都会である。世界で一番住み心地の良い都会とされている。オーストラリアの北の人跡未踏、熱帯の砂漠に、ダイアモンド鉱脈が見つかり、原石を売っているというので初めてオーストラリアに行ったのは1988年で、現地では経済不況のまつ只中であった。そのアーガイル鉱山を見学して、見学といっても日中気温42〜43度という場所だから、長い時間戸外にいられない。行くのも大変だった。近くの飛行場で乗り換えて、工場所有の小型機で半時間ほど、不時着したら絶対に見つかりっこなさそうな大地の上を飛ぶ。滑走路はならした平地の上に、心細く一本走っていて、隅に吹き流しが一本立っていた。あとは何にもない。幸い本社はこれまた美しい町パースにあった。採掘現場からパースまで、小さな飛行機を途中で大きなジェット機に乗り換え、三時間飛ばねばならない。北海道に鉱山があって、鹿児島に本社があるのと同然。従業員は二週間ごとに入れ替えるといっていた。現地採用するにしても鉱山近くにはワニぐらいしかいない。
 帰りは、メルボルンではなくシドニーに行った。シドニーはメルボルンより大きな町だが、町中湾だらけなので、移動に迂回するので手間がかかる。オーストラリア全体の総人口は千八百万人ぐらいで全体にしてみると消費する力は弱い。しかし、都市の外観は堂々とした西欧風である。バブル時代の日本企業は、消費の底が深いと見て続々進出していた。しかし、旅人の目でよく見ると、町のビルの窓窓には、貸家札が張ってあるし、なんとなく元気が無かった。辛うじて過去の植民地の栄光と原料の輸出で食べていた時代であった。
 1991年にメルボルンの都心に大丸がオープンした。大丸に頼みに行って、私どもの会社も時計宝石部を出店させてもらう事になった。当時のメルボルンの時計・宝石店を調査してみると、実は我々の眼から見てロクな店は無かったのである。アングロサクソン系の時計・宝石店は大きい、価格訴求中心のチェーン店である。それに時計店と宝石店は分離している。日本のセンスの良さを売り物にすれば、きっと成功するだろうと思ったが、10年苦労して、大丸の撤退と共に閉店した。現在メルボルンで高級時計店として成功しているのは中国人女性が経営している「モナード」と、シンガポールの「アワーグラス」の出店ぐらいなものである。顧客は、現地の人々よりも海外よりの移民組が多いとみなされる。お金持ちのオーストラリア人は住まいにはお金をかけるけど身を飾るものは地味であった。しかし新しい時代は徐々にグローバル化している。もしも大丸の出店が現在に近ければきっと違う良い結果になっただろう。時も又経営を左右する。
今となっては、天然資源の豊富で、政治的に安定しているオーストラリアには好景気が戻ってきて、二十年前に感じた没落の印象は全くない。メルボルン繁華街の中心にあって、閉鎖されていた劇場は再開され、新しいホテルがどんどん建っている。メルボルンの空港は鳴り物入りで開港された関西国際空港よりは、20年前より拡充されて、はるかに立派になっている。それは帰りに寄った香港の新空港と同じ事で、規模は成田や羽田よりも大きい。1997年に中国返還された香港は、一時経済的将来を危ぶまれたが、中国の発展と共に、反映は続いている。香港の目抜き通りの商店の家賃は、銀座の一等地よりはるかに高価である。不動産価格の上昇は、メルボルンでも同様だが確実に続いている。

中国の時計戦略

 香港を加えて、中国は世界最大のスイス時計輸入国になっているが、時計の生産国としても世界最大に成っている。日本のメーカーも中国で生産したものを自社のブランドをつけて売っている。国内製造の比率は少ない。スイス製といっても、最高級品は除いて、部品を中国から調達している。中国自身でも色んな時計が、トゥールビョンまで作られている。これらを製造している工場群は、多くは香港から移動してきた。現在香港時計製造業組合は、600社を擁し、一社の従業員数平均は2,000人、合計120万人だそうである。その中国的規模の大きさに驚かざるを得ない。
 今号のFH誌(本年第8号、4月28日刊)には、この組合の理事長であるポール・ソー(蘇永強)とのインタヴュー記事が載っている。
 ソー(蘇)は、30年前に時計店の売り子をしていたが、自宅で部品を買って組み立て始め、今やSWEDグループの長として、中国本土に二つの工場を持ち、従業員数2,000人。ルイスというブランドを始め、いくつかの名でファッション時計を作っている。スイスの新聞記者に語っている要旨を纏めてみる。
どうしてスイス時計の下請けを20年もやっているのに、香港では自身の高級時計が作れないのか、という質問にまず答えている。勿論その意志は当初からあって、資金を用意し、最新の機械を買い、優れた技術者も雇用してみたがうまく行かなかった。基本は高級時計の作り方を知らない事に起因する。日本人もスイスに対抗しようと試みたが、うまく行かなかった。(日本のメーカー諸氏、怒り給うな、これは私の発言ではない)この分野は難しい。高級時計には、138もの部品があって、時計工なら誰でも組み立てられるものではない。スイスのように、熟練した時計工は、香港にはいない。スイスで教育して貰ったらという質問だが、実はやってみたけど、スイス人は口では教えるというが、大切な事は教えてくれない、当然とはいえるが。スイスのブランドを買収して作り方を知ろうとする香港人もいたが、大抵失敗している。国そのものがスイス時計産業を保護し、大きなグループが、高級なムーブメントの製造を独占している。といっても、自身で作ることをあきらめた訳ではない。中国本土の技術者とも協力して一歩一歩進めている。現状では、スイスとの協力の理想は、スイス側が研究と開発に専念し、我々が全部品生産に携わるという組み合わせである。スウォッチと中国の「海鴎(SEAGULL)」が提携契約を交わしたように。
 組み立ては、スイス側でしてもらう。スイス製というお墨付きが付く事は高級時計には絶対必要だからね。こうしてうまく利益を分かち合えるのではないか。
 いかにも香港のビジネスマンらしい現実的で犀利な考え方が出ている。もう一つオメガの社長スティーブン・ウルカートさんのインタヴュー記事が今号に出ているので、簡単に紹介したい。ウルカートさんは、以前APの社長だったが、1999年以来、オメガの社長をしている。

オメガの現況

 20年前に中国戦略を立て、今は実にうまくが運んでいる。本土・香港・マカオを一つにまとめて、オメガにとって一番の市場である。次がアメリカ、次に日本となる。総生産量は、年間70万個に達している。現在工場には600名が働いており、グループ間で約千人が別にオメガの仕事をしているだろう。今やオメガの主流は、コアキシャル・ムーブメント(摩擦の少ない特殊な脱進器機構)で、当然単価は上がってくるが、買おうと思えば、大抵の人は買える価格がオメガの身上である。
 昨年のコアキシャルの生産は、30万個であった。今年は35万個にする。生産量の65%は、機械時計だが、レマニア(今はブレゲと協同体)のムーヴを使っている歴史的なスピードマスターを除いて機械時計を全部コアキシャルにするのが目標だ。今年やっとクロノグラフが出たが、こういった手作り的な時計を大量に作るのは、綿密な計画がいる。どうして開発にそんな時間がかかるのかというが画期的なムーブメントを数個作って、出来た出来たと騒いでいるPR好きの会社とは違うのだ。この捨て科白、いかにもウルカートさんらしい。(栄光時計株式会社会長 小谷年司)
■バーゼルワールドの今昔(いまむかし) ■2011年6月1日 水曜日 11時55分13秒

 バーゼルで時計宝飾品の見本市が開催されたのは、もっと以前からの筈だが、現在のような組織になってからは、今年で39年目らしい。FH誌の本年第七号(4月14日刊)によると、今年は特に賑やかだったらしい。出展者数45カ国からの参加で1892社、入場者数は百カ国から十万三千二百人で昨年より25%増となっている。その他七十カ国からジャーナリストが三千五十五人集まったという。
 バーゼルワールドというのは、バーゼルフェアの固有名詞化である。昔はきっと、見本市協会のような非営利団体の主催だったのが、今は商売になっている。日本でもそうで、何故かお役所がやるような見本市は、長続きしない。バーゼルワールドには、主催とは別に出展業者の会があって、数年前から以前ロレックスの広報を担当していたジャック・デューシェーヌさんが転出して会長を務めている。今回の出展者は、みんな売上げに満足している。今年に入ってからの景気が良かったせいもあるが、世界の政治事情から、まだまだ油断は禁物だ。しかし、会員のバーゼルワールドに対する期待は大きいというのが彼の弁である。
 デューシェーヌさんは、私同様74,5歳だろうか、旧知の仲である。もう引退して悠々自適の生活に入る年だが、こんな役職を果たしているのは、主催者側が、ロレックスを出展社として何としても引き止めたいという政治的理由があるように見える。四十年ぐらい前だったか、私の会社もその仲間であったが、セイコーの代理店の次代の経営者たちと共に、ジュネーヴのロレックス工場の見学に行ったことがある。ロレックス社も実に大らかなものだった。セイコー関係者に見学を許すとは。こっちもそんなことは当たり前に思っていた二代目ばかりであった。そのときPRの担当者であったデューシェーヌさんが、我々十名をジュネーブ湖畔の「湖の真珠亭」(ぺルル・オ・ラック)という今でも盛業中の料亭へ招んでくれた。そのとき、ご馳走になった全長30センチぐらいの湖で取れた鱒の酒蒸しの美味しさは未だに忘れられない。ロレックスのジュネーブ本社の最上階に役員及び賓客専用の食堂がある。そこに長年務めていたハンサムな支配人がいた。食堂といっても超高級ホテルのダイニングより立派なインテリアで、そこに相応しい物腰の黒服の板に付いた男だった。この時は、セイコーの人々と一緒ではなかったが、この人が釣り好きで、「今朝自分が釣ってきたスズキです」といって唐揚げにしたのを出してくれたことがある。湖で採れるパーチという魚で、全長七〜八センチの大きさ、この味も忘れられない。町なかの上等なレストランで、その後何度も同じものを注文してみたが、比較にはならなかった。我が生涯のまぼろしの鱒とスズキである。
 いつからバーゼルワールドへ行くと、今のように出展業者と訪問の約束を前もって決めて、時間に追われるようになったのだろうか。昔は、出展業者は、よほど人気者のブランドでない限り、暇そうな様子だった。一日の半分は、手持ち無沙汰で過ごしていたのではなかろうか。何か面白いものやブランドがないかと浮気っぽく見物して廻るこっちのほうが忙しかった。小さなブランドだと、社長らしいのが戸口に立っていて、見ていかないのかと首をかしげて誘ったりしていた。写真なんか写すなというのも、しばらく後になってからである。古き良き時代であった。
 昭和二十五年、終戦直後五年ぐらいまでは、日本の時計業界は国産一色であった。時計は、輸入できなかったから、スイス製は密輸しかなかった。小型の婦人用の南京虫と仇名された時計が人気で市場に出廻っていた。占領軍のPXから横流しで市場に出ていたものである。あるいはPXに納入する業者が輸入権を流用したものであった。なにしろ銀座の「服部時計店」、今の「和光」がPXになっていた時代である。私たち、国産時計の卸屋は、セイコーやシチズンといった生産を手がけ始めた工場の製品を充分な量でないにしても供給してもらったから、何とかバンドとか、付属品なども売って食べていけたが、メーカーから売ってもらえない卸屋さんは、密輸品を扱うしかなかった。南京虫は良く売れたから、小売店頭からすぐ姿を消した。もし店頭にあると、すぐに税関に見つかるので、父はよく夕食の話題にあの店にガサが入ったそうだと笑っていた。あれをやれば儲かるが捕まると、服部出身者としての面子もなくなるし、セイコーも売ってくれなくなるから、やらなかったという。社員にも決して密輸品は扱うなと厳しかった。給料が安かったから、アルバイトに手を出しかねなかったからだった。密輸品を扱う卸屋さんのことを多少軽蔑的にビー屋さんと呼んでいた。こんな言葉も今は死語となった。上野のアメ横は、こういった密輸高級舶来品のメッカだったから、ビー屋さんたちは、何とか食べていけたのだろう。
 時計の輸入が、ボツボツ外貨割り当ての許可制で解禁されたのは、昭和三十年代である。当時人気の時計は、オメガ、ロンジン、ロレックス、モバードぐらいだったが、みんなこれまでの代理店があって、外貨割り当ての自社枠を提供して仕入れるしかない。当然スイスから未知のブランドを輸入して売ったほうが、売るのは難しいが儲かるし、直輸入ということで、社名も揚る。これで一番成功していたのが堀田両平さん(現ホッタインターナショナル)のエレクションだった。父もいろんなブランド、例えばニューシャテルとか、オンサとか、今は誰も知らないのを手がけたが、どれもうまくいかなかった。面白いのはピアジェで、まだこの高級時計専門のメーカーが普通のやや薄型の時計を作っていた頃、千個ぐらい買って、資金繰りにふうふう言ってたことを思い出す。ピアゲット、ピアゲットと発音していたが、社員の中に給料の足しにこの時計をやるから売って来いといわれた人もあった。そのピアゲットが一つでも会社に残ってないかとピアジェが有名になった後で探したが残念ながら出てこなかった。

それまで薄型時計の製造に強かったが

 ピアジェ社は、ある時突然宝飾時計に転換し、世界的に成功を収めたのは、周知の事実である。日本では、平和堂貿易の高木克二さんが代理店となって、ピアジェの発展に大きく貢献した。ダイヤモンドが金のブレスレットに輝くピアジェの時計は、銀座や新地のホステスの憧れの的であった。大阪では、「ピアジェ」という名の高級クラブまで誕生して金持ちの客が通っていた。日本が高度成長の途上にあった頃である。しかし、ピアジェ社も急激に拡大しすぎて資金がつき、カルテェを擁するリシュモン・グループの軍門に降った。しかし、一族の中でイヴ・ピアジェさんが会長という形でリシュモンに残り、広告塔のような形で活躍している。平和堂さんのパーティやら、いろんなとこで何度もお会いしていたが、水が合わないというか、あまり立ち入って話をしたことがなかった。この号では、イヴ・ピアジェさんが対談形式の回顧録を出版したという新聞記事が転載されている。外交官的な性格のようで、アフリカのコート・ジヴォアール(象方海岸)の大統領がピアジェの店頭に来て知り合いになって以来、親交を結ぶようになったようである。大統領の依頼でネルソン・マンデラの釈放を早めるため、南ア共和国のクラーク首相との会談を取り持ったこともあったという。フェリックス・ウプエ・ボアニイという大統領はかなり偉大な人であったらしく、1993年に亡くなって以来、コート・ジヴォアールは、いまだ混乱状態にある。イヴ・ピアジェさんはまた、モナコ・レニエ大公とも親しかったといっている。ロジャー/ムアー、クラウディア・カルディナーレ、ウルスラ・アンドレスといった有名な俳優とも一緒に旅をしたこともある。ピアジェ家の四代目は、やっぱり立派なピアジェのスポークスマンだったようだ。対談式回顧録の題は「時の金細工師」である。
 大体三十年ぐらい昔のスイス時計産業の製造のあり方は、一生懸命生産するが、仕上がりは出たとこ勝負という感じであった。コンピューターがまだそれほど活躍してなかった。注文して、受けてから納品するまでの時間をリードタイムというが、大体一年ぐらいかかった。夏休みが学校並みに一ヶ月あるから、11ヶ月だろうか。今のように三から六ヵ月ということはない。バーゼルで注文を受けても、一年後の売上げではあまり面白くない。ブランドといってもほとんどが家族経営だったから、やってゆければ良いというところが多く、バーゼルに出展していてものんびりしていたのだろう。それが新しい計画的マーケッティングの出現で、私の考えではカルティエ社の時計参入が契機となって、厳しく激しい現状に変わったのである。コンピューターの発達により正確な市場及び在庫調査がこれに拍車を掛けてきた。
 それでも、時計業界は、どうも過ごしやすい世界であるらしい。一つは、狭くて、誰がどうしたかを世界中の業界人が噂で知っている。私がお世話になった守屋英明さんはセイコーの米国市場を開拓して、世界最大のメーカーに一時は押し上げた功労者の一人であったが、セイコーを辞めて日本のマックスファクターレブロンの社長を務められたが、またモバードの日本代表にも戻られた。タグホイヤーの高倉豊さんも、ヴィロス本社社長としょっちゅう喧嘩されていて、意見が合わずフランスの高級化粧品会社に行かれたが、やっぱり時計業界に戻られてウブロの日本代表になっておられる。
 今号のFH誌の中では、懐かしい日本デスコのステファン・ラックさんの写真を見つけた。永らくデスコと共に時計業界にいたが、包装箱業界に移って、今度は真空時計で有名なグリシン社の社長兼オーナーになられたとのこと。地元ビエンヌの新聞の一頁記事になっている。是非健闘を祈りたい。日本におられる時は優しい昔のスイス人らしい紳士だった。昔ははじめからケンカ腰という人は業界に殆どいなかった。(栄光時計株式会社会長 小谷年司)
■百貨店の発祥は、十九世紀のパリから ■2011年5月17日 火曜日 16時54分53秒

 私たちの子供の頃は、町にあるお店は売っているものに専門があって、八百屋さん、肉屋さん、お菓子屋さん、カバン屋さん、本屋さん、勿論時計屋さん、それに荒物屋さん。荒物屋さんとは、何を売っている店か若い人は知っているだろうか。ザルや籠やほうきや鍋、家庭用品を売っている店で、店内に色々な商品がゴタゴタと置かれていた。こういったお店で、一つの町の商店街が成り立っていた。日本語では、衣・食・住というから衣が商品としては、一番重要だったから、町の大店は反物屋だった。こういった商品を一堂に集めて売る百貨店の多くが反物屋さん、つまり呉服商の主導で始まったのも当然であった。町の通りにあるお店屋さんは、日常生活に必要な物を売り、呉服屋の洗練された眼で選んだ商品を売る百貨店は、高級品を売るという自然の仕分けがあったのだろう。しかも百貨店に行くには普段着では具合が悪いと人々は考えていた。普段着とよそ行き着という観念も日本特有のものといえる。
 百貨店の発祥は、十九世紀のパリである。「ボン・マルシェ」という今でもあるデパートとされている。このあたりの事情は鹿島茂さんの「デパートを発明した夫婦」(講談社新書)に詳しく書かれているから読んでみるとなかなか面白い。ただフランスでは、一応ブルジョワ社会は、既に確立されていた。「ボン・マルシェ」という名前そのものが、このデパートの位置を示している。ボン・マルシェとは、「安くて良いお買い物」という意味である。パリには、元祖「ボン・マルシェ」の他に、セーヌ河の畔に建つ「サマリテーヌ」やオペラ座に近い、男性館と女性館に始めて分けた「ギャラリー・ラファイエット」などがある。隣接して「プランタン」もある。これは一般論だが、パリに住む高額所得者はあまり百貨店で買い物はしないようだ。中層階級が主たる客層で主として時間も土地勘もない観光客目当てに高級品を置き始めたようだ。地元のお金持ちは顔なじみの専門店へ行く。
 丁度、東京オリンピックの前年、1963年に、初めてヨーロッパを訪れた父のカバン持ちとして、色んな国を巡ったことがある。商売熱心な父は、ロンドンやパリのような大きな町へ行くと必ず百貨店へ連れて行けといった。小さな町だと一人でも時計商を探して歩く。パリの百貨店の時計売り場を見学して、父は学ぶことは何もないと嘆いていたことを思い出す。ヨーロッパにおいて百貨店のステータスは、専門店よりもはるかに低かった。フランスやイタリアの有名な専門店が日本の百貨店に出店することを最初はさして嬉しがらなかった理由はここにある。
 1962年の秋だったが、私はフィレンツェの大学でイタリア美術の講座で勉強していた。フィレンツェは、人口六十万人の一時はイタリアの首都とはいえ、パリやローマに比べると、小さな小さな町である。トォルナボーニ街という、ミニ銀座があって、そこのグッチというカバン屋さんが新装オープンするからパーティに行こうよという話題が、下宿屋の女子学生達の間で出ていたことを思い出す。フィレンツェの街には、良さそうなカバンや靴を売るお店が沢山あるのに、グッチは新進気鋭なのだと初めて知った。店を見たかったというよりも、美人ぞろいの女子学生と一緒に行動したかったために、オープニングを見に行ったが、何となくしゃれた店だなぁ、という程度の認識であった。それが実はグッチの進軍の始まりで、あれよあれよという間に愛用者が増え、支店を増やし、世界のグッチとなった。今思い出しても手品を見ているような気がする。グッチは大きくなって家族間の紛争が起こり、一族は追われ今はフランソワ・アンリ・ピノー率いるピノー・グループの主力を形成している。このグループ全体の昨年度の売り上げは、約百五十億ユーロ(二兆円近い)、純益は十億ユーロ(約千二百億円)、そのうちグッチだけの売上げは、二十七億ユーロ(約三千三百億円)で、21%が中国市場での成果という。(FH誌第5号による)
 私が学生だった頃の有名店通りは、つまり日本人の観光客が憧れの目でウィンド・ショッピングを楽しんだ通りは、ロンドンのオールド・ボンド街、パリのフォーブル・サントノーレ街、ミラノのモンテナポレオーネ街、ローマのコンドティ街ぐらいのものだった。それも今から比べるとかなり小型のお店が並んでいた。現在のように大きな繁華街は、著名ブティックだらけということはなかったか。ローマのスペイン広場から両脇に上っていく階段がついていて、「ローマの休日」という映画にオードリー・へップバーンのお姫様がそれを下ってくるシーンで、日本人の殆どが見覚えのある場所となっていた。スペイン広場と直角に走っている通りがコンドティ街で、広場に近いところに、昔から有名なゲーテも通ったというカフェ・グレコがある。その向かいがブルガリ宝石店だった。学生の分際で、宝石店なんか、冷やかしに入れる筈もなかったが、十九世紀の終わり頃に、南の方から出てきたソティリオ・ブルガリという男が、小さな店を開いて、こんな立派な店にしたのだということで、店は当然そこだけであった。 
 贅沢品というものは、基本的には希少価値である。なかなか手に入らないから、高価だし、手に入ったときには自慢の種になる。だからそこに行かねば買えないし、食べたりすることもできない、というのが良いのではないかと私などは素直に考える。今のように世界中に有名店が店を張り、お金さへ多少払えば、かってはパリに一店しかなかった店に、買いに行ったり、食べに行ったりすることを思えば安いから、その楽しみが得られる。はたしてこれは真の意味の贅沢だろうかと考えざるを得ない。また、言葉自体が矛盾するようだが、贅沢品の大衆化(みんなが持つようになったら贅沢品ではない)という現象が起きている。ヴィトンのバッグを一つ持っている事によって、お嬢さんクラブに入りたい人も多い。広告にそれを使用している有名人を起用するのも、有名人と同化する気分を煽っているといえる。
 近年、モノにこだわることを良しとする風潮が強い。生活の近辺にあるモノにこだわることは、大切である。しかし、こだわりがモノだけで終わってしまっては、単なるフェチズムになる。やっぱりこだわりは、生き方とか、考え方にも持つ必要がある。フェティッシュという言葉を手元にあるオックスフォードの昔の小辞典P・O・Dで見てみると、野蛮な人々が崇拝する命のない物体とあった。

LVMHとブルガリの合併

 今号のFH誌(第6号:3月11日刊)には、3月初旬に発表された、LVMHとブルガリ両社の合併記事を大きく二つの記事で伝えている。2009年には、四千七百万ユーロの赤字に陥っていたブルガリは、昨年売り上げを15%伸ばし、十一億ユーロに近く回復し、三千八百万ユーロの利益を稼いでいる。日本円にすると千三百億円の売り上げで、純利五十億円ぐらいだから、良くはないがまあまあといったところだろう。これまでは、ブルガリ一家の家族経営で実務をフランチェスコ・トラパーニが取り仕切っていた。五十年前には、ローマにたった一軒だった宝石商が世界的に店舗を張るようになったのは、トラパーニの過去二十年にわたる功績が大であった。今回の合併は、私見ではあるがオーナーのブルガリがある程度成長の限界を感じていたところに、LVMHのベルナール・アルノーから破格の条件を提示されたのを受け入れたという感がある。一種の持ち株の交換で、ブルガリ家は、 LVMHの第二位の株主になり、かつ役員になる。番頭格のトラパーニは、これまでLVMHの時計宝飾部門のトップだったフィリップ・パスカルの地位に納まる。パスカルは引き次ぎ終了次第、のほかの要職に移ると伝えられている。パスカルの地位の譲渡が一つの重要な案件であったことを、新聞での一問一答で、パスカル自身が認めている。 LVMHの時計の方は、タグホイヤーのJ・Cババン、ゼニスのJ・F・デュフール、ウブロのJ・C・ビーバーという一騎当千の経営者が控えているので、安心だが、ブルガリの時計が、今後どういうポジションをとるのか、ショーメ、デビアス、フレッドといった宝飾部門を宝飾品としてのブルガリと競合することなく、どうしていわゆるシナジー効果(協同作業)を出していくのか、トラパーニの活躍が見ものである。
 この合併は、実はLVMH Hの買収のように見えるが、FH誌が伝えるところによると、アルノーもパウロ・ブルガリも、合併に際し、相手のことをお互いに褒め称えてやまない。秀吉と家康のエールの交換に似ているという印象だった。秀吉は家康の服従が欲しくて、卑劣なほど厚遇した故事からである。(栄光時計株式会社会長 小谷年司)
■単なる生活必需品でなく文化遺産につながる時計 ■2011年4月18日 月曜日 11時34分46秒

 毎年、年初に日本のFHともいうべき、時計協会の新年賀詞交換会が東京のニューオータニ・ホテルで開催される。時計卸業者の代表の役目は中締めの挨拶をすることであった。しばらく代表を務めていたときがあって、いつもこんなお願いを主催者であるセイコーやシチズンといったメーカーの首脳部に訴えかけて、〆の言葉にしていた。クオーツ時計の低価格化と、携帯の普及化によって時間を知るための時計は殆ど不用品となりました。どうか売れる時計を考え付いてください。もう十年以上昔のことである。確かに、日本の技術者の方々は、優秀で、その後太陽充電と電波時計で著しい進歩があり、メーカーを救ったけど、そろそろ行き止まりになりつつある。
 実はめったに足を運ぶことがないのだが、安売りの大型電気店へ行ってみると、オーディオ好きなものだから、つい目がそっちのほうに行ってしまう。ソニーのように値は他社よりは高いが、音質は良いはずだよと威張っていたメーカーが、他社に混じって同じようなデザイン・価格競争をしている。勿論日本製ではないが、世の変転ぶりを痛感した。ソニーも今では、ハードよりもソフトやゲームの方に力点を移しているようである。コンピューターの機械を作って売るよりは、プログラムを制作する方が設備も投資も、人間以外は殆どいらなくてすみ、ずっと儲かるという理屈は良く解る。しかし、時計には、どんなソフトが存在するのか、答えられる人は少ないだろう。

時計の針が指し示す時間は無意味である

 今号のFH誌(第4号、二月二十四日刊)でウブロ社のビーバーさんが、この二月にローザンヌの成人教育大学講座で講義した内容の紹介が、新聞からの転載で載っている。
 今の携帯電話屋さんは、果たして電話をかけるためだけの機械を売っているのか、とビーバーさんらしい設問から話を進めている。時計が時間を告げる機械という概念が消え始めたのは、1980年、セイコーやシチズンの水晶時計に対抗して、スイスがスウォッチを作り頃からだ。どうすれば、値は高いのに、ずっと不正確な時計を売ることができるのか。結局、テクノロジーを売るより、文化伝統を売るべきではなかろうか。買う人々に腕につける時計が一種の文化遺産につながっていることを理解してもらおう。又は、スイスの天才たちが、スイス時計産業への愛着を表現しょうとして作り出したものであることをわかってもらおう。時計は、色んな感情を人にもたらす。幸福、誇りなど、だから派手すぎるとか高すぎるとかいった罪悪感だって、あっていいのじゃないか。時間を示す時計から、時間を示すものだけでなくなった時計へのマーケッティングの転換は、容易ではない。長年、スイス時計の売り物は、その正確さにあったからだ。機械時計の時間がよくあわないことや壊れやすいことで、苦情を言う店が多かったが、顧客はきっと時間を見るためだけに買ったのではないと願おうではないかと答えてきた。あとになって大抵のお店は解ってくれるようになった。この十年、この傾向は強まりつつある。先進国だけでなく、中国はもとより、インドネシア、メキシコ、インド、ブラジルどころか、ロシアやウクライナでも、この風潮が浸透しつつある。新しい、これらの国の購買層も、はめている美しい時計が当人の社会的階層を示すことを非常に早く理解してくれたようだ。
 いかにも昔の名門だったブランパンを再興し、スウォッチに近づき、オメガの経営を引き受け、また独立してウブロを躍進させ、これをルイ・ヴィトングループに併合させ、かつウブロ社の社長にとどまるというビーバーさんらしい内容である。こういった経歴を見ると、策士みたいだが、ビーバーさんからは決してそんな印象は受けない。直情径行の情熱漢に見える。一方、ルイ・ヴィトングループの総師であるベルナール・あるノーは、写真でしかお眼にかかってないが、小柄で優雅な体型、育ちの良さを感じさせるマナー、青い瞳、実に冷微な指揮官という気がする。

ルイ・ヴィトン・モエ・へネシー(LVMH)の業績

 大阪の広い御堂筋は、世界の著名ブティックが軒をつらねていて、その中心に借り店舗であるが、ルイ・ヴィトンがある。たいていのブティックは、いつも閑散としていて、あんなのでやっていけるのかなと、大阪人である私は、前を通るたびに余計なことを考えるのだが、このお店だけは、いつも客が入っている。近くにLVMH社有のビルがあって、これがとても美しい外装である。昼は普通の緑色の大理石に覆われた外壁だが、夜になると内側から照明されて、ビル全体がやわらかな草緑色の発光体となる。御堂筋に面した一階部分は、ショーメ、ディオール、フェンディといったLVMH系のブティックになっている。さらに南にLVMHは、土地を確保していて、ルイ・ヴィトンのブティックを新設するとの噂が立っていたが、大阪なんかに投資するより、その金を中国に回した方がより有効とかで、建設話は立ち消えになった。残念だが、その経営判断は正しかった。御堂筋は大阪を南北に貫く幹線道路だから、ひっきりなしに昼夜を問わず車が走るが、それと南半分が平行している心斎橋筋の凋落ははなはだしい。人通りは多いが、店舗の質が年々悪くなり、悲しいが今日の売上げさえ上げれば良いというところばかりである。
 LVMHの2010年度の業績分析が、この号に載っているので紹介してみる。総売上がニ〇三億ユーロ(2兆4千億円)、営業利益四十三億ユーロ(5千億円)、純利益三十億ユーロ(3千6百億円)。売り上げ前年比19%増、営業で29%増、純利73%増。LVMHの扱う商品は、そんなものがなくとも生きていくには一切困らないという贅沢品ばかりである。生活必需品は一切ない。先述のビーバーさんの話とつじつまが合う。
 ところで我々と関係の深い時計宝飾部門を見ると、全体で29%の伸びだが、約十億ユーロ(2千4百億円)と総売上げの5%に過ぎない。時計は、百五十周年を迎えるタグホイヤー、ウブロ、ゼニスの3部門、宝飾はショーメとデビアス、フレッド。このデビアスは、鉱山業ではなくダイヤモンド製品の小売業である。
 これは、FH誌は載ってないというより、発行後に公評されたことだが、宝飾・時計部分の売り上げが、全体の5%しかないのをLVMH首脳部はブルガリの買収を決定した。買収金額は、4千数百億円という。昨年のブルガリ社の総売上は、十億七千万ユーロ(千3百億円)、うち時計・宝飾品の売上げは七割。「買収金額がすごいね」と来日した友人のフィリップ・シャリオールに言うと「なに株式で払っているのだから現金は動いてないさ」ということだった。会社を売る前も、株券で受け取る。これまでの地位も保全されている。合併が発表される、株価は上がる、両者の資産価値が上がるというマネーゲームの循環が見える気がした。

スイス公式クロノメーター検査協会のこと

 あまり天上の問題についてか語るのを止めて、多少現実的な記事を探すと、ル・ロックルのクロノメーター検査協会が新しい建物、十七名の職員と三百平米の検査室を備えるところにうつったという記事が出ていた。クロノメーター規格の合格証は、元々公にはル・ロックルの時計学校の活動の一部として始まっている。それが協会の始まりで、サン・ティミエやビエンヌの検査施設がその後協会に参加している。1951年以来、法律によって協会にしかクロノメーター証書の発行権がなくなった。現在の協会は1973年に再編された非営利団体であって、ビエンヌ、ルロックルとジュネーブしか検査協会がない。検査後証書を発行した数は、1931年から1961年までの三十年間で十万個、1961年から1971年までの十年で二十五万四千個。現在では一年間に百万個近くを検査して保証書を出している。日本の大学の卒業証書みたいに乱発気味だが、それでも総生産個数の3%に満たないから時計の中のエリートといえるかも知れない。(栄光時計株式会社会長 小谷年司)
■昨年のスイスからの総輸入額は一兆六千億円 ■2011年3月31日 木曜日 14時2分33秒

前年比の22・1%増

 新しい年を過ぎて二ヶ月も経つと、昨年の成果もはっきりとした数字で出てくる。二月十日号のFH誌には、2010年のスイスからの時計の輸出総額がでている。一昨年に比べて明らかに回復の年であって年初から快調で、二割増が当たり前で、五月、七月には三割以上伸びている。
 年間総額は百六十億二千万フラン(1フラン百円の計算だと、一兆六千億円)で、現実のレートでは、一割引きぐらいか。前年比22・1%増である。しかも七月以降尻上がりである。全体の成績としては、最高の年であった2008年には及ばないが、同じように好調だった2007年より少し上回っている。回復には、四年、五年はかかるだろうと予想されていたのに、一年で殆ど取り戻してしまった。輸出額の九十四%が当然腕時計である。
 日本だと値段を一万円以下、三万円以下、五万円以下、十万円以下、それ以上を小売値で分類する。スイスでは、小売値のつけ方が各国で異なっているので、輸出価格で分類している。二百フラン以下(1フラン百円計算)が勿論、数の上で大多数を占めているのが、十八・五%増。二百〜五百フランの価格帯が数の上で十%を占めていて、三十%の増加、五百〜三千フランが前年並みのシュエでボツボツといったところ。驚くべき事に三千フラン以上が数の上で三割伸びて、金額で二十五%増加している。日本に来ると一ヶ小売りで一千万円もする時計が、これだけ好調なのだ。
 全体の数は、二千六百万個強といったところである。日本でもそうだが、外国に部品や機械を取りあえず輸出して加工させて、スイスで仕上げたという形の下請け●向きの輸出が十億フランばかりあって、これも十四%近く伸びている。時計の世界でも不況に悩んでいる日本には、うらやましい話だが、では一体世界のどの国がスイス製時計を買ったのか。一年間のベスト十を書き出してみる。

1位香港、2位アメリカ、3位フランス

アジア諸国へ総額の半分以上が輸出

 1位 香港=31億8千6百万フラン 146・9%(前年比)、2位 アメリカ=16億7千4百万フラン 113・8%、3位 フランス=11億6千7百万フラン 120・5%、4位 中国=11億フラン 157%、5位 イタリア=9億2千3百万フラン 102・6%、6位 シンガポール=8億9千9百万フラン 133・4%、7位 日本=8億6百万フラン
104・9%、8位 ドイツ=7億6千8百万フラン 96・8%、9位 英国=5億9千7百万フラン 109・6%、10位 アラブ首長国連合=5億7千9百万フラン 131・9%。
 以上、三億〜二億フランの間で、スペイン、台湾、韓国、サウディ・アラビア、タイと続くが、みんなニ〜三割の増加である。アジア諸国へ総額の半分以上が輸出されている。日本への輸出が僅かながら伸びているが、小売り店頭での売り上げ回復の手ごたえはまだ感じられない。

スウォッチグループの売り上げは六十四億四千万フランで過去最高

 スウォッチグループは昨年の夏にカリスマ総師ニコラス・ハイエックが亡くなっても、業績に影をさす事はなかった様子である。組織が強力なリーダーがなくとも十分に機能するほど成長し、成熟していたといえる。
 スイス時計全体の年度報告とは別に、スウォッチの業績が今号の巻頭に載っている。スウォッチグループ全体の売り上げは、六十四億四千万フラン。これは時計では、通常五%ぐらいを占めるスイス国内の売り上げや時計以外の製品の売り上げも多少含まれているので、そのままでは比較できないが、輸出総額の約百六十億フランと並べてみると、かなり大きな金額である。これは、売り上げの新記録で、昨年から二割近く上り、過去最高の2008年よりも十二・七%も多い。あらゆるブランドの売り上げを伸ばし、自社内でのムーブメントや部品も当然で、グループ以外へ戦略的な供給減を補ってあまりあるようである。向かうところ敵無しの感がある。

スイス時計産業の特質

 スイスで時計が作られ始めたのは、ドイツやフランス、英国よりはるかに新しい。宗教戦争で迫害されたユグノー(新教徒)が、カルヴァンの庇護を求めてジュネーヴに亡命したことが契機となっている。十六世紀後半のことである。
 時計製造の技術は、ジュネーヴから徐々に東北の方向へ斜めに昇っていった。今でも時計産業は、バーゼルに向かう直線上、約●●キロの南北にある山間の町や村に点在している。時計産業は、具体的には分業である。初期の十六世紀では殆どの職人は、色々な部品を専門に作っていた。一番重要な部品は、時計の骨格ともいうべき地板・エボーシュである。エボーシュとは、フランス語でデッサンを意味する。
 このエボーシュを買ってきて、そこに色々な部品を買い集め、文字板やケースをつけ、完成品にして売る業者を組み立て屋、エタブリサールと呼ぶ。エタブリールとは、フランス語で設立するとか、組み上げるという意味で、英語ではエタブリシュにあたる。大抵の時計は、こうして作られてきた。ところが、これでは職人は、徹底的に自分の気に入った時計を作ることができない。そこで、大抵の部品も自分で作る人々が出てくる。こっちの方が効率は悪いが、品質は一貫するため安定する。これをマニュファクチュールと呼ぶ。マニュファクチュールとは、製造である。スイスでは、高級時計は大抵マニュファクチュールだが、こっちの方が少数派であった。ある種の沢山の数が売れないと、やっていけないからである。
 十九世紀の後半に、時計製造に手をつけ始めた米国や日本では、資本化が独立して投資するから、当然マニュファクチュール形式の一貫製造方法である。こっちの方が発展は手っ取り早い。ニ十世紀に入って、アメリカ製の時計が世界を席捲した。明治の頃、鉄道時計はウォルサムだったし、東京帝大の卒業生主席に陛下から与えられた恩賜の時計はウォルサムだった。
 スイスの時計産業は、がけっぷちに追いやられたが、アメリカ式の大量生産の方策を学んだのと、第二次大戦が始まったので、やっと危機を脱した。時計より儲かる産業に色目を使ったということもある。アメリカ人は概してコストの安いところで製造させようという気質がある。ウォルサムもグリューエン、その他のアメリカのブランドは、スイスの工場を自営または他営で下請けに使っていた。これがスイスに幸いしたといえる。
 私が業界に入った頃、世界で一番売り上げの大きい時計会社は、オメガでもセイコーでもなく、ニューヨーク郊外に工場を持つブローバだった。その頃、ブローバのセカンドラベルであったカラベルを下請けで作っていたのがシチズンである。ブローバ社は、今シチズンの所有になっている。今昔の感に堪えない。

フランスワ・ポール・ジュールヌのこと

 高品質の機械時計を作るには、一貫生産のマニュファクチュールたる必要があり、沢山作らないとなれないといったが、それは近年までのことであって、近頃はコンピューターや工作機械の発達、個別的な協力を申し出る部品工場の出現などで、小さなアトリエでも可能になった。それに一箇所に何百万円も払う消費者の出現も手を貸している。
 この号には、そういった。小マニュファクチュールの先駆者であるF・Pジュールヌとの一門一答のシンブン記事が転載されている。ジュールヌは、1957年に南仏のマルセイユ生まれ、小さいときから学校の勉強嫌いで、機械好き。そこで両親が十四歳のときから、パリで時計修理をやっている、叔父のところに送って、技術を学ばせた。古時計の修理というのは、部品がないから直せませんなどと日本の職人さんみたいに、のんきなことは言っていられない。なければ自分で作るしかない。マニュファクチュールになる素地は、ここにある。1985年にパリで叔父の店の隣で独立し、独創的な手つくり時計を作り始め、1996年にアトリエをジュネーヴに移す。数人から始めたが、現在の社員は百四十人。年間製造量千個以下。東京の青山にも直営店を2003年にオープンしているが、百貨店中心の日本における商売に疑問を抱いたから、自分で店をやり始めたそうだ。世界で十軒の直営店と十五軒の販売協力店があれば十分で、今のように全部で四十ニヵ所は多すぎると明言する。この人の言うことは、時計同様、個性的で面白い。(栄光時計株式会社会長 小谷年司)
■文化的教養の啓発と時計製造技術における向上 ■2011年2月1日 火曜日 13時13分46秒

ジュネーブサロン

 新年一月は、いわゆるジュネーブサロンの月である。今年も1月17日から20日までの5日間開催された。一方、毎年感謝祭に先立つ時期にバーゼル見本市が開催されて、我々時計業界人はバーゼル出張から戻ると、春になるという意識を持っている。私も例年バーゼルへ通ったので、日本の桜を見損なった年が多い。ジュネーブサロンは、はじまってから十数年しかならないのが、元々バーゼル見本市は宝飾品も出展されているし、日本を始めアジアからの出展社も多くなって、もっと高級時計だけの見本市をやろうという気運がカルティエのグループの主唱によって始まったものである。最初はバーゼルを訪れる客と重複するので、バーゼルのすぐ後に連続して出席できる日程を組んでいたが、5、6年前から開催時期が1月に変わった。ジュネーブサロンは申し込めば誰でも出展できるわけではなく、まずF・H・H(フォンダション・オート・オルロジー)という財団的な機構に入会を認めてもらわねばならない。
 オート・オルロジーは、オートが高い、オルロジュエリーが、時計一般のことだから高級時計製造機構というのがF・H・Hの正確な訳だろうが、勿論オート・クチュールから転用された意味である。オート・オルロジーという言葉の響きは単に高級時計を意味するだけでなく、ファッショナブルを言外に示唆している。
 F・H・Hが今の形になったのは、2005年にリッシュモン(カルティエ)グループのフランコ・コリーニ氏の指導によるものであったが、昨年理事長の座を女性のファビアンヌ・ルポという魅力的な中年女性に譲ったとの記事が、昨年の最終第20号(12月5日発刊)のF・H誌に出ている。どんな経歴の人か分からないが写真から判断してもかなりファッショナブルな人ということは想像される。
 F・H・Hは目的として、時計産業人の文化的教養の啓発と時計製造技術における向上を目指している。このあたりが高級時計を作ったり売ったりする由縁だろう。日本でも百貨店が高級時計を中心にあちこちで「ワールド・ウオッチ・フェア」を開催してきたが、要は売れればいいのであって、時計文化の普及とか販売手法の訓練・向上といった理念は置き去られている。本音で勝負は、商人としてすっきりしていていいが、多少のやせ我慢というか、錦の御旗は欲しいという気はする。
 記事によるとF・H・Hの加盟ブランドはカルティエ・グループは言うまでもなく、オーデマ・ピゲ、シャネル、エルメス、ジラール・ペルゴーなど26で、年間総予算2百3千万フラン(2億円)、年会費、各ブランド均等の6万フラン(5百万円)。活動は、ジュネーブサロン開催ばかりでなく、セールスマン教育、技術教育・ネットによる広報活動と多岐にわたるとある。興味のある方は、(http://www.hautehorlogerie.org)へ。

グローベル・フォルセイという新ブランド
 
ジュネーブサロンの全ブランドは輸入時計業界の人なら誰でも、知っているものばかり。但し、昨年から聞きなれないグローベル・フォルセイというのが入っている。この号のF・H誌には、2ヶ所も1頁の記事が出ている。本題の同社の紹介に入る前に少し余談をしたい。デパートの発祥は十九世紀のパリである。そこへ行くと眼がくらむように沢山の商品があり、しかも正価販売、大人気となって瞬く間に世界中に広まった。デパートの魅力を作ったのは、便利とか、サービスもあっただろうが、一番は在庫の量だろう。行けば何でもあるという、買う方の期待だろう。
 それは売れ残る在庫はないという市場では絶対の力だった。しかし、この20年間世界中に商品が溢れ、在庫は売れ残ると廃棄品に近くなった。在庫は力だったのが、悪になってしまった。部品を在庫しないで必要なときに必要な量が来るシステムはトヨタを世界一に押し上げた。この工場内のシステムは商業流通の世界に広がっていった。万事、保守的で、世の中の動きが遅れている時計流通業界でもやっとこの事に気づいて、問屋も小売店も商品を持ちたがらなくなった。では誰に持たせるのか、もっと資金力や収益性を持つ人気ブランド、メーカーであるべきだ。ところがそちらの方も今やキャッシュフローが株主の経営判断の第一となっているので、手元に在庫はおかない。そこで誰でも思いつくのは注文による生産である。
 ジュネーブサロンが始まった頃、ある日本の小売店にどうして態々ジュネーブサロンに行くのですか、そんなに魅力的ですか、と聞いた事がある。その人の答えはこうだった。「確かにバーゼルに比べて優雅で静かだし、サービスも素晴らしいけれど、結局メーカーに呼びつけられて、サンプルで注文させられる事になるのです」と。もしも製品に人気があって、生産量が能力的に限定されている場合には、顧客は先に注文して納期を待つという事になる。こんな幸せな企業が、2004年にロベール・グルーベル
とステファン・フォルセイの二人によってラ・ショードフォンで創設されたグルーベル・フォルセイ社である。300年も昔の農家が主たる外観で、近代的な工場を隣接させ、100人ばかりの従業員が働いている様子。生産量は、年100個ぐらいというから恐れ入る。販売している価格帯が20万フランから60万フランというから、ほぼ2千万〜6千万円である。時計一個の値段とロールスロイス一台の値段と同じである。こんなもの在庫にはなってはたまらない。それでも将来性はあるらしくて、リッシュモン・グループが現在20%の株を保有している。

 自動車の世界にカー・オブ・ザ・イヤーがあるように、10年前からそれにあたる「金の時針賞」がジュネーヴでは毎年与えている。昨年はその賞がグルーベル・フォルセイの「二重トゥールビョン30度」という時計にジュネーブの大劇場で与えられた。11月18日で千5百人もの人が劇場に参集したという。これだけ人の来るのは、やっぱり時計の町である。他の時計製作者もこれに次ぐ色々な賞を受け取っている。ステファン・フォルセイの受賞の弁。「グランプリ設立10周年目大賞を頂き光栄だ。2004年に創業したばかりの若い会社にとって、これはご褒美ではなく象徴的な出来事だ。この時計の製作の実現を信じ、計画を発展させ支えてくれた人々に感謝する。特に65名の社員、収集家の皆様、小売り店及び審査員の方々に」。
 以前はスイスの高級時計というと金やプラチナのケースにダイアモンドがキラキラ輝いているというイメージだが、今や工芸的・技術的要素が強くなってきた。ほんの10年前には、トゥールビョン機構など知る一般人が少なかったが、今やこのグルーベル・フォルセイのようにトゥールビョンが特色の工場まで出現している。宝石に頼る前に、人間の知恵と能に頼るのはいいことだが、こんな時計を買う人はどんな人だろうか。新聞記事によると、男性、年齢は35歳から45歳と若く、勿論金持ちで、美術品に対する鑑識眼が高い人とある。私は退場した方がいいだろう。(栄光時計株式会社会長 小谷年司)
■実を言うと時計の「スイス・メイド」は、かなり紛らわしいもの −24− ■2010年12月22日 水曜日 15時27分54秒

FH誌 第18号(11月10日発行)の「原産地表示について」

 この一、二年、スイスの法律で「スイス・メイド」という表示と「スイスネス(スイスらしくとでも訳すべきか)に変えられることが議会で討議されて、立法化が近いようである。実を言うと、時計の「スイス・メイド」は、かなり紛らわしいもので、100%スイス製を意味するものではない。時計以外の工業製品や農産物でも、どこ製の判定に正確を期しがたいところが出てきて、スイス人がスイスの法律に従って良心的に作ったものですよというための「スイスネス」表示が立法化されたのだろう。
 イタリーでも、高級ブランドの世界では、イタリア国内に給料の安い中国人がたくさん働いているのは周知の事実である。「中国人の作っているイタリア製」と表示すべきだと言う人も居る。
 原産地表示とうのは、意外と重要であって、わが国でもスーパーへ行くと、肉でも魚でも国産という表示に人の注目が行く。その表示が法的に規制されたものでないと意味はない。偽装表示は犯罪とされなければならないのである。
 この号の巻頭には、2010年の秋にボルドーで欧州各国の時計関連業界の法制担当者が集まって、原産地表示に関する討議が行なわれたという報告が出ている。要するに各国が正確に原産地表示しようとすることらしい。ボルドーで開催というのがミソで、ボルドーはワインの原産地証明の発祥地であり、フランスの時計商工会議所の主催で開催されており、フランス製という表示の重要性が充分に認められていないと主張されたと書かれてあった。ワインや香水、ファッションは別にして、日常生活に使われるものの世界でフランス製がそんなに良い物かねという気はしなくもない。

ニセモノの話

 小さな囲み記事だけど、スイスで押収されたニセモノの統計が出ていた。一番多いのは、2009年の統計だが、バッグとサングラスで40・8%、続いて洋服の24・2%、時計・宝飾は12・2%、スポーツ用の服9・3%、なんとクスリが6・8%もある。この内4分の3が中国製で、ヨーロッパ人のうち4人に一人がニセモノを買わされているという。3分の2の会社が真似され被害を受けている。インターネットで非合法的に売られている薬品の半分はニセモノである。世界的に見て10%の薬はニセという。映画は公開されて二日目には海賊版が出る。スイスの中で4分の1のソフトウエアー・アプリケーションが不当使用されている、等など。
 ニセモノの薬というのも恐ろしいが、もしも効果が同じとしたらどうなるのだろう。ニセモノが本物と同じで、ただラベルの名を真似しただけという場合は、どうだろうと考えてみると話は哲学的になる。この間ジェネリック薬品の話を聞いた。ジェネリックとは、単に特許期間の終わった薬である。大雑把に言うと、ある製薬会社が新薬を開発するのに500億円ぐらいはかかるらしい。しかもその殆どが発売を認めてもらう前に実施する人体実験、つまり実際に使って副作用などがないかを調べるために、大半が費やされる。そのコストは特許期間の20年で回収される。特許が切れると他の製薬会社がコピーを作る。効果は変わらない。開発費が百分の一ぐらいですむから安い。医療保険料もかさまないから、国家もジュネリックを進める。ジュネリック薬品は本物だろうか、ニセモノだろうか。時計も時間測定の機能だけでニセモノ、本物を決められたら話は簡単だろうが、一種の文化性を持つから、その世界は複雑になる。薬品はA社のビタミン剤を飲む方がB社のビタミン剤を飲む方よりカッコいいということはない。それが化粧品となると、人は違った行動パターンを採るようになる。高価なものが良く効き、宣伝されているものが、よりきれいになる気がしてくる。

ヴォーシェという工場のこと

 ヴォーシェという名の時計はないので、この会社のことを知る人は少ないだろうが、スイスでは有名な時計工場である。この間のリーマンショックでは、4分に一の従業員をリストラして、あのヴォーシェ社までと大きな話題になったが、無事立ち直っているようである。工場はジュラ地方の時計の町というが、村というかフルーリェにあり、社員530名というからスイスにしては大工場である。株主は、スイスの薬品財閥のサンドス家の持つサンドス財団が4分の3、後に加わったエルメスが4分の一。エルメスの高級時計は、ここで開発・製造されている。リシャール・ミル、コルムも同様である。主力はパルミジャーニ。こういう工場がスイスのあちこちにあるから、年間に数百個しか作らないブランドでも下請け(といっても下請けの方が大きい場合がある)に使ってやっていけるのである。こんな工場の一つで、高級ムーブメントを作るピゲ社(オーディマ・ピゲとは関係なし)が、スウオッチグループのブランパンに買収されてしまった。スウオッチはかねがね、良いとこ取りされされたくないから、ムーブメント販売はしないと公言している。頭を抱えている人は少なくないだろう。
 この号では、ヴォーシェ社のジャン・マルク・ジャコ社長のインタビュー記事が載っている。リストラのことを聞かれて、ジャコ社長は「もう業績は安定してきたので、雇用は再開している」と答えている。その一問一答を纏めてみると、「我々のオーナーは財閥だが、慈善事業をするわけではなく、このニ、三年の間に利益を確保するのが目標であり、長期投資も当然視野に入れているが、まだ現実性を帯びていない。しかし、他社を買収してブランドを増やすことはない。ピゲ社から買えなかったからと接触してくるところに、興味はない。スイス時計産業の救世主になるつもりは毛頭ないと手厳しい。重要なのは「我々自身の持つブランドである。パルミジャーニで今のところ、世界に250ヶ所ある販売拠点を400ヶ所ぐらいにニ、三年で増やしたい。今は年産5千個だが、1万個に倍増するのが目標である」という。
 さて、日本でのパルミジャーニの代理店は元のシーベル・へグナー、今のDKSHである。当面の計画では国内で30ヶ所で展開して、1店平均年間25本、合計750個ぐらいの売上げたいというのが理想だろう。うまくいくことを願っている。(栄光時計株式会社会長 小谷年司)
■スイス時計の輸出額、対前年比で120・8%(約1兆円)を記録した −23− ■2010年11月15日 月曜日 2時27分16秒

中でも9月の25・5%の伸びは、不況の日本では考えられない(FH誌10月28日号)

 10月28日号のFH誌は、今日手元に着いたばかりなのに、明日がこの稿の〆切りというので気ぜわしい。夜は、大阪出身の現代音楽の作曲家でN響アワーの司会をやっている西村朗氏が、自作を語りながら、演奏させるというコンサートに招待されていたので、音楽好きとしては欠かせない。解説を聞いて、耳を傾けると難解される現代の音楽も満更ではなく、美しく聞こえてくる。なかなか楽しい音楽会だったが、休憩時間にはFH誌を読んでいた。FH誌は、二週間に一度発行されるスイス時計産業の機関誌であるから、いつも面白い記事があるとは限らない。今号からは、少なくともこの間は、平穏無事な業界の様子が伺われた。
 この9月で1年の四分の三が終わったが、スイス時計の輸出額、対前年比は9ヶ月で120・8%(約1兆円)を記録し、その中でも9月は25・5%の伸びを示している。不況の日本に居ては考えられない。別の記事に9ヵ月間のルイ・ヴィトングループの業績報告がでているが、タグ・ホイヤー、ゼニスを擁する時計宝飾部門は、30%程前年から伸びていて、総額6億8700万ユーロ、約800億円になっている。この額は、この3月期のセイコーの時計部門の1年間の売上より400億円以上多い。日本の産業全体が国内の消費低迷に惑わされて全体が縮小均衡、つまりデフレ・スパイラル止む無しという気分に陥ってしまっている。セイコーもそこから中々抜け出せない。
 最近のテレビ番組を見ると、大抵の物は売っている。もしテレビ販売を、立体眼鏡を使わず裸眼で浮き上がって見える画面を使えば、一層効果的であろう。スイスの隣国のルクセンブルクという小さな国にプレムルクという小さな会社があって、パリなど各地でその実験をしている。時計にも使ってみたい試みが、時計の町ル・ロックルで始まっているという記事が出ていた。但し安心めされたい。3Dテレビそのものは、今のところ日本製である。ただ小売店は、安心しておれないだろうが。
 時計の分野でも、二極化しているのは間違いない。大量生産で、安く多量に販売されるものと、ごく少量で値も張るが、特殊なものと。時計の大量、安価生産を始めたのは、クォーツが導入されるはるか以前でピン・レバーのロスコップ社である。むかし東京オリンピック(1964年)の頃、セイコーはすぐれた品質の機械時計で世界市場を席捲しつつあった。良くて安いから売れると私は信じて疑わなかった。ところが、私の時計産業史のお師匠さんであった山口隆二先生は、日本のメーカーはコスト・ダウンが下手だからなぁ、スイスの時計の方が安いよ、と言っていた事を思い出す。先生の頭にあったのは、このロスコップ時計であった。日本の時計メーカーは、幸か不幸かクォーツの出現によってあのチャチなロスコップ方法のピン・レバーを採用しなくてすんだ。ロスコップの特許を1923年取得したルコンヴィリエという時計製造会社が、1970年に廃業するまで、1000万個以上の時計を作り、ワンダラー・ウォッチの風潮を作った。ルコンヴィリエ社の真似をして安い時計を作った会社も、スイスには少なくなかったが、現在生き残っているのは、みんな高級化したところである。このルコンヴィリエ社も、復活させようという投資家がでてきて、四年程前から再生している。FH誌に転載されている新聞記事からみると、本社はツークという風光明媚な湖畔の町にあり、時計業の集まっている場所ではない。製造は下請け工場に任せているようだが、今年のバーゼル見本市で、ゴルフ・マスターズという時計を発表して評判になったという。

70、80万円でグリーンの距離が測定できるGPS機構を内蔵した時計が出た

GPSの機構を内蔵していて、プレー中にボールとグリーンの距離が測定できるという機能付である。ロスコップの伝統から安いのかと思ったら、7、80万円もするようだから、買手はあるのかしら。こんなものを着けるプレイヤーは公式競技で許されるのだろうか。石川遼が着けているとなると、売れるでしょうがね。
 日本人は、小技が好きなくせに、小さなメーカーは好まない。小技があってメジャーを好む。トヨタに沢山の車種があるのも、そのせいかと思う。実は小技とメジャーは両立しないものだ。一定の範囲の顧客にだけ満足して貰えば後は良いという哲学は、日本の産業に根付くには時間がかかる。競争相手の人気の商品が気になって仕方がないから、つい戦線を拡大する。

来年も1月16日から21日までジュネーヴで第2回「タイム・エキシビジョン」を開催

最近、パナソニックが、高級オーディオの部門テクニクスを閉鎖するときいて、惜しい思う一方、さもありなんと思う。上質のオーディオは、職人の世界で、大工場の分野ではない。真空管アンプのマッキントッシュだって、スピーカーのタンノイだって、決して大きなメーカーではない。それでいて大きなメーカーには、出せない親密な音を作り出す。
 時計もやっぱり職人の世界であって、時計好きは、大メーカーのものも当然所有するが、一方自分だけの少数者の為の時計を持ちたがる。そういった小さなメーカーばかりが38社集まって、今年の1月にジュネーヴで第1回「タイム・エキシビジョン」を開催して、大人気だった。来年は、1月16日から21日まで、ジュネーヴの国際会議場で開催される。詳しくは(www.geneva-time-exhibition.ch)にアクセスされるといい。
手前味噌ではあるが、私の会社が日本の代理店をしているサントノーレ社もジャン・メレ・ギルマン社も出展する予定である。(栄光時計株式会社会長 小谷 年司)
■「オーデマ・ピゲの博物館に泥棒が入った」と新聞報道 ―22− ■2010年11月2日 火曜日 5時43分36秒

《F・H誌9月30日号》 オーデマ・ピゲ(A・P)の本社工場のあるル・ブラッシュスは、ジュネーブの北東、フランス国境に近い山中の小さな町である。人口は千人もないだろう。標高は千米もあるから、一年の大半は雪に埋もれている。何故こんなところに有名な時計工場があるかといえば、このあたりは“ジュウ渓谷”と称される時計産業があちこちに散らばっている地域であるからだ。歴史的にそうなっているので、歴史をくわしく述べると長くなるので、詮索は割愛する。
フランスのグルノーブから、この地にやって来たジュール・ルイ・オーデマと後に協力者となったエドワール・オーギュスト・ピゲが、この地で創業したのが1875年であった。ピゲと言う名は、ジュウ渓谷に多い名前である。
さてスイスは、世界でも、一、二に治安の良い国である。ル・ブラッシュスの住人は外出する時に家に鍵をかけることはなかったろう。ところが、最近の雲行きは怪しくなった。今号のFH誌には、オーデマ・ピゲの博物館に泥棒が入って、重要なロイヤル・オークのコレクションをまんまと盗み出した新聞記事が出ている。博物館は常時公開ではなく、特別の客用であるが、近代的な防備施設は十分であったにもかかわらず、犯行は2分間、警察が警報を聞いて、現場に到着した六分後には、逃げ去った後という。おそらく国境を越えてフランス側に出たと推測されている。玄関にはしごをかけ2階の窓を壊して侵入、取るものだけとって、電光石火の行動だったらしい。(9月16日の記事)オーデマ・ピゲといえば、パテック・フィリップ、ヴァシュロン・コンスタンタンと並んで、3大最高級時計と言われ、多くの人にとって長い間高嶺の花であった。つい数年前までは常時店頭にあるといった代物ではなかった。それが、今や一寸したお金持ちなら買えると言う時代になっている。泥棒も売りさばくのに苦労しないだろう。
オーデマ・ピゲ略してA・Pは、日本の販売に直接現地法人を作って活動しているが、昔はデスコと言う商社が代理店をしており、私の会社(栄光時計)も副代理店として全国の小売店さんに買ってもらっていた。景気の良い時は、といってもバブル期以前であるが年間に千二百本輸入される半分ぐらいはデスコさんの協力で売っていた憶えがある。当時のA・Pのオーナー社長はジョルジュ・ゴレイさんで、英語もたどたどしい、でっぷりした、スイスの山から出てきた農夫といった感じだった。この人が、A・P中興の祖とされていたが、言動がユーモラスで、実業家としてよりも人間として好感の持てる人であった。商人として優れた感覚を持っている評判だったが、会っている時は、戦略的思考の持主とは思わなかった。残念乍ら、早く他界され、あとをスティーヴン・ウルカートさんに託されたが、近代的な感覚でA・Pを急成長させた。ウルカートさんは、スコットランドに同名の有名な城が存在することが示すように、スコットランド人で国際的思考方法が身についていた。のち、オメガに移り、現在でも社長を務め、社業の繁栄に寄与したこと大である。
A・Pはその後、ジョルジオ・アンリ・メランさんが社長、昨年フィリップ・メルクが引き継いだ。この人はデスコのスイス時計ブランド・モーリス・ラクロアの社長をこれまでやって来た人である。F・H誌の今号には盗難記事と並んで、メルク氏とのインタビュー記事が掲載されている。

オーデマ・ピゲの2010年度生産量は2万5千個強、売上げ額は4百億円強

A・P全体では現在従業員が千人おり、うち二百五十人が海外にいる。本社は、ル・ブラッシュスにあるが、ジュネーブに貴金属のケース製造部門、ル・ロックルに開発部門のオーデマ・ピゲ、ルノー・パピを持っている。ルノーとパピは天才的といってよい時計設計者の名だがルノーの方はもうフランスに引退している。ジュリオ・パピの方は、イタリア人のスイス生まれ、元々レースカーのエンジンを設計したかったそうだが、時計の設計に転向した男である。パピは今も現役で、一種の共同経営者として活躍中である。A・Pの複雑時計は大抵この2人のコンビで開発されて来た。2010年の製造個数は二万五千個強、売上は五〇〇万フラン強(四百億円)と目されている。
メルク氏の応答は、地味な性格からか、気負ったところはみられない。業績の昨年度からの回復は堅調のようで、良かった一昨年の実績には達すると言う。世界市場も満杯のところと、これからのところと明確に分かれていて、それぞれに適正な対応をとる。アジアでは、コーナーやらショップ・イン・ショップに力を入れ客が来るのを手をこまねいて待つことはしたくない。小売店の質の向上を目指す。市場別に見ると、良いのは香港(中国)、スイス国内も、中国人が買うので無い。

A・Pの新しい市場は、メキシコ、ブラジル、ロシア、中国が重点目標に

中米・特にメキシコ、ブラジル、ロシア、中国が重点目標。中東やアフリカは、努力すればA・Pが注目されるようになるだろう。華やかな経営陣のトップ・スター的な交代については、批判的で、工場生産は自然な発展が理想で、スターが旗を振ったところで限界があるという。アフターサービスの重要性を説くのは当然だが、その間に代わりの時計を貸せばよいと言っているが、A・Pの時計を当然貸すのだろうか。2012年には、かのジェラール・ジェンタがロイヤル・オークを開発して、もう40年になるので、記念モデルを色々考えているようだ。
今号別欄で、女子プロゴルファー、世界トップクラスのクリスティ・カーをA・Pレディに採用している記事が載っていた。彼女といまだ一族の資本による経営を続けているA・P社とメルク社長の健闘を祈りたい。(栄光時計株式会社会長 小谷 年司) 
■不必要品を売るためのマーケッティングは強い。−21− ■2010年10月12日 火曜日 7時24分41秒

 私の年少の友人に、スイス人のピエール・イヴ・ドンゼ君がいる。時計経済の専門家だが、今、大阪大学で日本の時計について産業の面からの歴史を研究している好青年である。来日以前に、スイス時計産業史の本を完成していて、実に要領よくまとめている。ドンゼ君によるとスイスの時計産業はかって、二度の危機に見舞われたという。
一つは、共通部品を使用する事によって、低コスト大量生産を可能とした。十九世紀末のアメリカ時計産業の抬頭であった。時計の名称でいえば、ウォルサムやハミルトンがロンジンやモバードを圧倒したが、この時計はスイス側も技術的には対応して立直る事ができた。
もう一つは、ついこの間のクォーツ革命である。セイコーが主役となって、安価・正確・堅牢・デザインの有利さで、スイス製時計を壊滅の瀬戸際まで追い詰めたと言ってよい。単に安くて良いものであっただけでなく、世界全体を相手にしたマーケッティングという感覚を少なくとも、セイコーやシチズンは持っていた。
ただクォーツのコストは、数を作れば作る程安くなるので、二十四時間稼動の自動製造設備の導入により、年間に何千万個の生産が可能になった。クォーツの黄金期は二十年程続き、世界市場は安い時計で満タンになった。安くて精度が良くなっても時計は売れなくなってしまった。空港の免税店でタバコを2カートン買うと、デジタル腕時計が一個つくような時代になった。2カートンで三千円もしなかった頃である。私も記念に一つおいてあるが、十年たっても電池を替えれば、ちゃんと動いている。その間にケータイ電話がおそろしい勢いで普及した。ケータイには時間が表示される。いよいよ時計を買う必要性はなくなった。
 日本人は、生産が拡大しても、それを飲み込む市場が存在する場合は、極端に強いし、努力や発明を怠らない。従って、どうしてもみんなが、それを自然に欲しがる新製品開発に頼りたがる。クォーツ時計は確かに時代を画する開発であったが、あとのソーラーとか電波とかはそれ程でもない。今は、一世を風靡しているが、沢山作り安くなって、みんなが持つようになり、陳腐化するであろう。
 スイスの時計が復活したのは、日本の必要必需品拡大販売のマーケッティングではなく、違う角度からのマーケッティングを採用したからであった。機能を売らずにイメージを売ることによって、同じ物を高く売ることができるし、不必要なものも売れるという方式である。顧客に満足度を売るのが眼目である。こんなに便利で役に立つ製品の上に、有名メーカー品、安いですよという日本方式の逆といってよい。

「リッシュモン・グループの直営店」
 
つい前置きが長くなってしまったが、今号のF・H誌第十四号(九月十六日発行)には、カルティエを中心とするリッシュモン・グループの直営小売店に関する新聞記事が掲載されている。
クォーツ時計の普及によって、時計は誰でも買える日用品となった。入学期に時計を買って貰える楽しみは、子供にも、与える親の方にもなくなったらしい。そうして時計は、ファッションとなり贅沢品ともなった。
 バックは日用品の一種であるが、ヴィトンやエルメスは、贅沢品である。彼等は世界中で小売直販店しかない。自分で作って、自分で小売りをする。大量販売をめざすには、各国に代理店を作り、各地の卸店を使って小売店に売るのが最短の常道であった。贅沢品の販売にとって、最大の課題は小売の顧客の趣向の変化を早く知ること、市場動向の察知であるそれと小売店側が、生産側の意向を十分に理解して販売に全力を傾注しているかどうかである。それが、贅沢品販売のための絶対的な条件である。供給が需要をやや下回るという状況を常に作り出したい。製造直売は、あたかも一人の人間が作って売る時のように、対応できる。
 カルティエも元々は煙草のダンヒルの小売店であった。しかし、これを擁するリッシュモン・グループは、直営小売店と同時に他者に販売する卸売りを併用して伸ばしてきた。リッシュモンが元々タバコ業者であったので、当然だろう。小売りを他者に任せることは、借し倒れの可能性もあることになる。アメリカでは、2008年から2009年にかけて千軒以上の時計店が店じまいをしている。シンガポールきっての高級店「シンシア」が行きづまり昨年末、身売りした。
 この五月期に、リッュモン・グループの決算報告書が出たが、最高経営責任者であるヨハン・ルパートは、不況をバネとして経営改善化をはかったと表明している。一つは、小売り窓口(ブティック)のスクラップ・アンド・ビルトを推し進めた。特にアメリカでの窓口を大量に閉めるといっている。リッシュモンの場合、直営小売店の売上げ比率は全体の46%である。スウォッチは、東京でも大阪でもオメガの直営店が目立っているが、全体としてみると直営店比率は10%にすぎない。リッシュモンの場合、自営小売店の売上は今期4%上昇したのに卸売りの店では10%減少している。売上げ滅の原因は、他者小売店では在庫を減らしたこと、取扱店の数が減ったことにある。
 全部直営店にすれば簡単ではないかという議論もあるが、時計の場合、地域が広すぎるから無理だろう。売上げも“100億円ぐらいの規模が条件となる“と記事にはある。さらに、ワンブランド・ショップが成り立つ為には、人口の集中する大都市であることと、新興国であることが必要とされ、ヨーロッパのような、飽和市場では難しいと結論付けている。さて日本は、どちらに入るか。まだまだ、ユニクロの成功があるので、ワンブランド店は進出してくるようだが。

「夢の時計を自分で作ろう」

もう一つの直販の形態は、インターネットである。この号では、インターネットによって、顧客がまず自分の好みの時計を画像で見て、購買するシステムの「ドランス」という会社の新聞記事が一寸興味を引く。モデルは一型だが、ケースの材質、ケースに石を埋めた八種類のケース、何種類かの文字板、色々なバンドを組み合わせて自分一人だけの個性的な夢の時計が完成し、画像となり、気に入れば発注をクリックすれば届けられてくる仕組みである。
 一度、「ドランス(www.delance.com)」を呼び出してもらえば、一目瞭然である。ジゼル・ルーファーという女性経営者が1996年に創業したというから、長続きはしている。条件付だが、自分しか持ってない時計を身につけるというのはアイデアである。代理小売店との共存もめざしているらしく、スイスの小売店のリストなども出ていた。大阪に一軒あったので、電話してみたが電話は使われてなかった。
 これで思い出したのだが、アルバの時計をセイコーと協力して、私の会社(栄光時計)が一手に販売していた時、個性的な時計ということで、いくつかのモデルに限って個人の署名入り文字板というのを発売したことがある。インターネットで映像のやりとりができる時代であったなら、簡単だったがお客さんの署名をもらうのは、店頭の応待から始まるから間違いのない、クレームのないシステムを作るのに金がかかりすぎて、商売にならなかった。いくらインターネットで工場直売とはいえ、細かい客の注文を聞いて製造にかかるのにはコストがかかりすぎる気がしなくもない。オーダー・メイドの洋服と同じことになる。一番理想的な料理店は、客がいま食べたい物を客好みに調理して出す店である。そんな店は存在しっこない。ドランスの時計は、ハーフ・オーダー・メイドだが、100%顧客を満たせる事が出来るかどうか、結局、出来たものをいかにうまく売るかに商売は尽きる気がする。マーケッティングはその為にあるのだろう。
(栄光時計株式会社会長  小谷 年司) 
■《番外編》 「父は今でも私を見守っている」(ナイラ・ハイエック) S ■2010年9月28日 火曜日 7時12分18秒

 スウォッチグループの牙城であるオメガ本社の町・ビエンヌの新聞に載った「ナイラ・ハイエックとの一問一答」。原文はドイツ語で転載されていたので翻訳は私の義兄(広島大名誉教授・丹治信義)の助けを仰いだ。文責は私(小谷年司)である。

ハイエック一族が地方紙のインタビューに答えた
 
 問「ハイエックさん、1週間前に会長に選出されましたが新しい職務をいかに果たそうとなされていますか」
答=今は徐々に手探りというところです。既に15年間取締役の任にありましたが、突然全責任を担う事とは別の話です。父の死には驚きましたが、充分に私たちは準備をしていたといえます。数日前にも弟と息子と私は父の執務室にいました。「もし俺が居なくなったらどうする」と言ったので、弟は「このうち誰かがその椅子に座ることになるが、お父さんが色々と指導してくれるだろう」と言いました。父は私たちにとって不滅の存在です。
問「今でも心の中で生きておられるということですか」
答=父の精神と力は私の中にあり、スウォッチグループは、父の子供です。毎朝電話してくることはもうありませんが。今でも頭の中では毎朝“調子はどうだ”と聞いて見守ってくれています。
問「もしも彼の意にそぐわない決定を下したら」
答=父は怒るだろうし、生前同様激しいやり取りとなるでしょう。父は様々な考えを持っていて、以前から反論することも良くありました。そのことも父は誇らしく見ていたようです。良くお前は俺の娘らしい娘だと言っていました。
問「お父上と異なる点はどこですか」
答=何かすぐに変わると考えているのが不思議です。私が15年役員として管理していたのです。その間、父はワンマン支配をしていたのではなく、常に私たちと戦略を語り合っていました。
問「会長としてスイスの政府に何か期待することはないですか」
答=今の所はっきりは解りません。ただ、父が亡くなって喜んでいる人々に対し、私は彼らが考えているほどお人よしではないといいたいところです。父は政治好きで死ぬ2日前にオバマ大統領に手紙を出して、“メキシコ湾汚染のBP社スキャンダルのあとで、何か変えなければならない”と忠告していました。
 問「メディアは、あなた方が会長職を全う出来るか疑問視していますが」
 答=それはそうでしょう。父は天才でしたから。しかし近くに居る人は、父が私を後継者として教育していたのを知っています。3月に副会長に任命してくれたのもその結果でした。
 問「確かに。しかしあなたが会長になられたことを意外と見ているようですが」
 答=外部の知らない人たちだけです。ある地方の政治家がびっくりしたよと言ったので、この3年間、重要な会合には父と同席していたのは、ご存知でしょう。私がタダの飾り物とみなされていたと答えました。「いやいや美しい飾り物でしたよ」と彼はいったのです。(笑)
 問「ところで弟さんのニックは自分の代わりにあなたが会長になられたことを妬んでいませんか。なにしろ弟さんは御子息・マルクさん最大のライバルとメディアは伝えています」
 答=私たちの家族に妬みはありません。私は弟もいまはブランパンの社長をしている息子も同じように誇らしげに思っています。彼らも私に対して同様でしょう。
 問「でも弟さんが自分の方が適任だと思っているという二,三のメディアもあるようですが」
 答=弟が7年前に社長に就任したとき、二,三のメディアに能力不足といわれましたが立派に能力があったと証明されました。父には彼が有能なことを解っていたのです。父が正しかったことは明らかです。
 問「でも貴方の能力が公然と疑問視されては傷つかれるでしょう」
 答=私たち女性は男性と対等であり、女性解放の進み具合を示す必要があります。父も男女差別はしたことがありません。
 問「あなたが会長で、弟は社長、争いごとはありませんか」
 答=私たちはまったく競争関係にありません。いつも同じ意見という訳ではなかったですが、二人の間では自分の意見を自由に語り合っています。
 問「あなたの知名度が低いという人がいますが」
 答=私はいつも顔を出してきました。多くの人が気づかなかっただけです。中東のメディアではよく私は知られています。でも新聞の表紙に載ることなどは望んでいません。スウォッチグループに役立つこと意外には。

こういうスタイルの立ち入った週刊誌的発想のインタビューは、やはり地方人物の関心が強い地方紙ならではという気がする。それに数値というものが一切出てこない。興味深かったので全文を紹介した。(栄光時計株式会社会長 小谷年司)
■スウォッチグループの売上げは30億フラン(約2千4百億円)  R ■2010年9月28日 火曜日 7時8分41秒

 今年は本当に猛暑で、真夏は秋の彼岸にまでずれ込んだ。新聞によると113年間で一番暑い夏という。スイスの夏は、30度を日中で越すとは稀だが、人々は夏休みを取る。日本で時計の商売をしていると、スイスのメーカー相手の8月はお手上げである。商売は殆ど出荷されてこない。FH誌も8月は休刊であった。
 この間「年収300万円で暮らす方法」を書いた人気エコノミストの森永卓郎の講演を聞く機会があった。彼によると、近年イタリア人の平均所得は、日本人のそれを上回るようになったらしい。残業はしない、休業出勤もしない、休暇はしっかり取るイタリア人が何故その逆の行動を取る日本人より良く稼げるのか。日本は平均所得が十分の一以下の中国の商品と価格競争をしても勝てる筈がない。やっぱり付加価値をいかにつけるかを考えることしかないというのが結論であった。確かに日本の国民総生産の高さは、働きづめに働いて生み出されたという面は大きい。

総師ハイエック氏の死は得意絶頂の時に訪れた

 さて近回のFH誌は9月2日発行の第13号である。スウォッチグループの総師であるニコラス・ハイエックが83歳で仕事中に心臓発作で急死したのは6月28日であった。ハイエックは、殆ど死に体であったスイス時計産業を復興した偉大な人物である。彼を悼む長いオマージュが出ているのかと思ったら、意外になくて後継者問題の記事が取上げられていた。
 まずスイス時計産業全体としては、今年の夏休みに入る前半の6ヶ月完全に立ち直ったらしい。日本向けの出荷が前年比8・6%減で、ドイツ向けの5・3%減とこの両国が、ブービーとブービーメーカー。後は全部増加している。殆どが二桁台の伸びである。全体として2割の増加で7月に入っても勢いは失われていないという。
 スウォッチグループだけを見ると、この6ヶ月間の成長率は22・2%、売上げは30億フラン(約2千4百億円)、純益は約6億フラン弱(約500億円)という。今年も厳しいという予想に反して驚異的な成果を上げている。ハイエックの死は得意絶頂の時に訪れたといえる。
 後継者として、ハイエックは2003年に息子のニック・ハイエック(50歳)に執行役員社長の座を譲っている。
 今回は業務執行役員の上部機関である取締役会の会長に、娘のナイラ・ハイエック(59歳)が全員一致で選出された。姉は経営能力で未知数であるとの噂を否定するがごとく、ニックはテレビに出て言明している。「姉は既にこの3月に副会長の席に就いているし、15年も取締役をしている。実際の社業もこなしてきた。これ以上良い人事はない」
 亡くなった父親のハイエックは、野武士型の超ワンマンで、現在は娘が会長、息子が社長、娘に出来た孫のマルク(39歳)はブランパンの社長兼執行役員。当分ハイエック一家の支配は続くようである。しかし一家の持ち株比率は41%で、取締役には、スイス・ナショナル銀行の元頭取のジャン・ピエール・ロート、機械工業で財を成したヨハン・シュナイダー・アマン、第2番目の株主で化粧品薬品会社「デッチ・グループ」の女オーナー、エステルーグレーテルといった錚々たる人が名を連ねているが、いまのところはニックとその補佐役である元宇宙飛行士クロード・ニコリエに全幅の信頼を寄せていると新聞には書かれている。
なお「番外編」として、スウォッチグループの牙城であるオメガ本社の町・ビエンヌの新聞に載った、いかにも地方紙らしい人情の機微をついた面白い記事「ナイラ・ハイエックとの一問一答」を掲載する(栄光時計株式会社会長 小谷年司)。
■スイスはかって時計後進国であった。時計王国となったのは十九世紀に入ってから Q ■2010年9月28日 火曜日 6時58分38秒

話題は変わるが、パリにはグラン・サンク(グレート・ファイブ)と称される高級宝飾店が5軒ある。ヴァンドーム広場に面して路上に位置する宝飾店で、「ヴァン・クリーフ・アーペル」「ショーメ」「モーブッサン」「ブシェロン」に「カルティエ」である。みんなが宝飾専門店で時計部門を保有していても、細々と時計を作っていた「ブレゲ」を持っていた「ショーメ」がやや例外であった。「カルティエ」も今や時計で有名だが、当初、カルティエ本体とは全く関係のない「シルバーマッチ」というライター会社が、カルティエの名を使って、勿論許可を得てライターや時計、バッグのような、別に大金持ちでなくとも買える製品を作り出したのが成功の始まりである。のちにこの会社が本体を丸ごと買い取る事になる。さらに「カルティエ」は、南アフリカのタバコ会社に売却され、今やかってのタバコ王、ルパート氏のリシュモングループの中核となっている。
一方、「ショーメ」は、ショーメ一族のものであったが、当主のピエール・ショーメが脱税で逮捕されたりして破局し、アラブ系のファンド会社「インヴェスコープ」の買収するところとなった。この会社は、ティファニーやグッチを持っており、グッチの売却で高利益を得たのに味をしめて、会社を育て大きくして売るというファンド会社本来の方向を目指し始めた。ショーメの場合、グッチ程は利益を望めなかったが、子会社だったブレゲを先ずスォッチグループに売却、のちに本体のショーメをヴィトン・グループに売却して現在に至っている。他の三社も似たような経歴を辿りつつある。
 私はバブルの始まりの頃、ショーメのピエール・ショーメやモーブッサンのアラン・モーブッサンといった一族経営時代の当主と数度会談している。この二人に共通するところは、フランス人らしい優雅な物腰、その裏にすけてみえる尊大さ、教養のあるエスプリの利いた話術であった。個人生活は、我々の想像もつかない金満ぶりのようであったが、会社としては意外に規模が小さく、売上の多くをアラブ石油成金のような大金持ち相手の超高級宝飾品に頼っているようにみえた。日本にもそういった大金持ちが沢山いる筈だと誤解の上に立ち、百貨店が自分達の名のもとに販売できることを有難がる筈だと考えていたようである。
 ヴァンクリーフ・アーペルの社長とは面識はなかったが、娘さんのドミニック・アペールさんとは親しかった。外科医に嫁いだといえ、自分で宝石のデザインをする人だった。スマートな体付きの美しく上品な女性で、ロンシャン競馬場のクラブで食事した時に、「一度うちに遊びにいらして下さい。絵が好きなら母の集めたモネやシスレーが見れます」と平然と笑って言ったが、ごく当たり前といった感じだった。この人が、独立してドミニック・アーペルという本名で宝石店をパリに持った時、アーペルの名は、使用相成らんと裁判を父が実の娘に起こし、お店は閉鎖に追い込まれてしまった。西欧人の厳しさに眼を覚まされた気がした。日本でも、京都の一澤帆布店のように、同じような事が起こるようになり、嫌な時代になったと思う。蕎麦屋でいうと、「更科」でも「藪」でもあちこちにある。昔は、あまりお互いにもめた話は聞かない。あれはどうなったのだろう。
時計の歴史を少し調べると解る事だが、スイスはかって時計後進国であった。時計王国となったのは十九世紀に入ってからである。技術の開発は殆んど十八世紀に活躍した時計師ジョージ・グラハム、ジョン・アーノルド、トーマス・アーンショウ、ジョン・エリコットと言った英国人、又はフェルディナン・ベルトゥーといったフランス人だった。王家・貴族といったスイスにない階級の保護が厚かったからである。スイス人ではあるが、パリでは仕事をしたブレゲもここに入れて良いだろう。
 今号のFH誌は、エリコットの名がスイスで復興されている新聞記事を載せている。グラハムも確か、復興されて日本にも輸入されている。こういった歴史上に残る名時計師を冠することも、ブランド政策の一方法だろう。なんとなく、手の込んだ(事実上そうだが)複雑な技術を行使した由緒ありげな製品を想像させるからである。一世代前、日本ではブレゲの名を知る人は、時計業界人の間でも殆んどいなかった。

年間三億五千万円を売り上げるカナダのケベック市にある「シロン」(CHIRON)社

 終りに、全く話題を変えてバッタやさんの話。時計も大体は大量生産品であるから、荷もたれ在庫もできれば、型おくれ品もできる。たいがい、何らかの形で安く売ろうとするが、現在そこに頼っている流通に流せば、混乱は避け難い。どこか、こっそりまとめて買ってくれるところはないだろうかとメーカーや問屋は考える。日本国内に存在することは知っているが、当然、外国にもある筈である。その大手の一つ、カナダのケベック市にある「シロン」(CHIRON)社の、モーリス・ゴールドベルガー社長のインタビュー記事が、この号のFH誌に載っている。従業員十人、年間三億五千万円の会社である。以下がその内容。
取扱いブランドは極秘にしており、私共持込む人々は安心している。又、当方でも既存の流通チャネルに流れたりすることのないように注意している。メーカー直の代理店に売ったりしない。販売先を教えないところにも売らない。私の目的は、ブランドに役に立つことであって、つぶしてしまう事ではない。インターネットを通じて販売もしているが、なるべくメーカー直のインターネット価格に近くしている。世の中には、ファンなるものがいて、正価の新製品は買えないが、安くなった旧型なら買ってくれる。メーカーは、年々、新製品をどんどん作り買う人々はそれに慣れっこになっている、その傾向は止まらない。我々の活躍する機会もいよいよ多くなる。経済危機によって消費者は、お値打ち物を探して安く買いたいと思っている。これも我々のチャンスだ。私は、バッタ屋ではない。過剰在庫管理者である。この人、なかなかの論客と見受けた。(栄光時計株式会社 会長 小谷 年司)
■日本人はコピーに対して意外に寛容である P ■2010年9月28日 火曜日 6時56分41秒

現代日本の制度や文明は、ことごとく欧米のコピーと言っていい。明治維新以来、欧米に出た留学生は、常に思想や技術を日本に持ち帰り続けた。明治政府は、多数の外国人を高級で招き、あらゆる分野で教示を受けた。明治四年には政府閣僚がまるごと、一年半も欧米に出張して学ぶことに熱心だった。明治政府の要人達がそのまま留学生になったような岩倉具視をリーダーとする使節団だった。従って、日本人はコピーに対して意外に寛容である。江戸の鎖国政策も、清朝中国の政策のコピーとも見なされるし、一旦開国したとなると軍事による領土拡大を西欧に学んだ。台湾・朝鮮を植民地化し、満州帝国を作って太平洋戦争に至った。西欧諸国の真似をしてどこが悪いと言う観念が国民になければ、アメリカに戦いを挑む事は不可能だっただろう。
 戦後の日本経済の発展も、「日本人は何でもコピーして、オリジナルより良いものを作るからだ」と外国人に悪口を言われたのもあながち間違いではない。日本人は明治以来、和魂洋才なら猿真似だろうが、許されると思ってきた。
ごく卑近な例だが、私の住む大阪の夜の繁華街でも、ピアジェとかシャネル、ランバンと言ったファッション・ブランドの名を付けたクラブやスナックが、ついこの間まで乱立していた。日本人の旅行客が、パリやロンドンの街でイッセイ・ミヤケとか、モリ・ハナエといった現地の人の経営による同様の店をみると、怪しからんと思うだろう。相手も同じ思いをするという事に、日本人は日本に住んでいると考えが及ばない。この程度なら、許されると思っていた。こういったことを止めさせるには、どうしても法律が必要となる。知的所有権、名称権、肖像権といったものに関する法の整備が必要であるが、何しろ対象が曖昧なので簡単にはいかなかった。それに国情によって概念も変わるので、民意がそっちの方に動くまで法律となって施行されるのに時間がかかる。
十数年以上も前になるが、安っぽいニセモノの氾濫に、業を煮やしたカルティエ社がニセモノの時計を集めて、ローラーで轢きつぶして、公開したことがあった。こうなると相手がモノであれ、一種の私刑(リンチ)である。これは日本人の心情に合わないと、カルティエ社の為に惜しんだが、以来ニセモノは悪という感情が日本人の間でも、税関で没収というようなキャンペーンと相まって常識化されたので、こんなことも行われなくなった。同慶の至りのである。

九月にニセモノ・セミナーをニューシャテル市のホテルで開催

 スイスでもニセモノは横行するらしく、FHが専門家を派遣して今年のバーゼル・フェアに合わせ、バーゼル・ミルーズ国際空港の税関史にニセモノを見破るセミナーを実施したという記事が、以前のFH誌に出ていた。今号(本年第十二号、七月一日発行)のFH誌には、FH主催で九月にニセモノ・セミナーをニューシャテル市のホテルで開催の予告記事が載っている。丸ごとのニセモノには法の網がかかるが、最近のニセモノは手が込んでいる。一つは、ハイブリッド・ニセモノで、部品はみんな本物だが、いくつかの古時計から使えるものだけ使って、一つの完成品にしている。主として、インターネットで販売される所謂ヴィンテージものに多い。もう一つは、特注ニセモノで、本体は全部本物だが、文字盤を変えたりベゼルを変えて、注文主の個性発揮の要請を引き受けたもの、これらを果してニセモノというべきか。その法的根拠を問うためのセミナーらしい。とい
うのは、スイスの現行法では税関でニセモノと判断されたら、即座に投棄するする事ができるらしい。
ニセモノを作る側も大変だが、それを摘発する法整備も追っかけごっこで大変だなという気がする。テレビの「何でも鑑定団」を観ていると、大抵のお宝がニセモノで、観客は大笑い、所有者も苦笑いをしている。日本人がニセモノに寛容な一端が出ている。(つづく)
(栄光時計株式会社 会長 小谷年司)
■アメリカの市場はスイス時計産業のアキレス腱である  ■2010年7月28日 水曜日 11時30分29秒

前の回で、中国市場に特出して強いチトーニという時計のことに触れたが、他にもこんな例は多い。随分昔の日本におけるラドーはそうだったし、欧米におけるサーチナ、タイにおけるミドーもそうだった。アメリカにおけるモバードも同様の例だ。
二年程前に亡くなったモバードグループの創業者だったジェリー・グリーンバークは、カストロの革命で“キューバにおける高級時計の将来はない”と見越してハバナから米国に亡命した男である。グリーンバーグさんが私に直接語ってくれたところによると、殆どが無一文から、キューバ時代のコネを使って、細々とピアジェやコルムの卸売りを始め、またたくうちに、スイスのコンコルドやモバードを買収してアメリカ時計業界のドンに成ったようである。尊敬するスイスの名門、モバードを買収したのが余程嬉しかったのか、会社も上場する際、「ノース・アメリカン」から「モバードグループ」に変えてしまった。10年程前にモバードはアメリカで30万個以上売れているから日本でも取り扱ったらと勧める人がいて、私の会社(栄光時計梶jも代理店になった。以来、ジェリー・グリーンバーグさんとニューヨークやバーゼルでも何度も会ったが猛烈なビジネスマンという噂とは異なって、私より10才程年長の静かなはにかみ屋で、他人の言によく耳を傾ける人だった。勿論、時計の販売には一家言を持っていて、広告の力の大信奉者であった。マンハッタンの自宅にも遊びに来いと、連れて行ってもらったが大富豪という評判に反して意外に質素な住宅で飾り気のない人柄を現していた。性格にも押し付けがましさが一切なかった。
芸術好きでニュージャージーの本社には、アンディー・ウォーホールの作品が会社中においてあった。「小谷さん良いワインを飲むかい」と上等のボルドーをさりげなくいつもご馳走してくれた。この人のことを思い出すと、懐かしい気持ちで一杯になる。

《モバードの新戦略》利益の上らない直営店は閉鎖、独立系の百貨店とチェーンストアへの販売に集中

 日本でのモバードは、素晴らしい時計という私の思い込みとは別にして、細々とやっているので(勿論、花咲く時は必ず来るとは信じつつ)本家のアメリカではリーマン・ショック以来、ルイ・ヴィトンからエベルを巨額で買い取り破竹の勢いに、かげりがさして来ているようだ。(FH誌本年第一号)
6月10日号では、モバードの米国直営店をロックフェラー・センター(N・Y)の基幹店を除いて31店舗閉鎖するという記事がでている。「アメリカの市場はスイス時計産業のアキレス腱である」で始まるバスティアン・ビュスの論評が転載されていて、以下の内容である。

リシュモン・グループ時計部門の2009年度の売上は13億5千万ユーロで前年比6%減

 2009年の対米輸出は38%の減になっている。全体の減が22・3%なので、世界全体に平均して売っているメーカーよりも、アメリカに特出しているモバードのようなメーカーはその影響をまともにまともに受けることになる。この号のFH誌の巻頭には、リシュモン・グループの2009年の営業成果が出ていて、グループの持っている、ジャガールクルトを始めとする時計ブランドの売上は13億5千万ユーロで、前年度減6%だから悪くない成績だったと書かれている。宝飾部門の自社ブティックを中心とした、カルチェとヴァンクリーフの売上が26億9千万ユーロで前年より3%の減という。宝飾部門の売上があの花形ブランドを並べた時計部門の倍であるというのはカルチェの強さを示している。
 ここで元のバスティアン記事に戻ると、そのリシュモングループですらも、アメリカでは小売店が一斉に在庫調整にのり出したのが痛手だったとぼやいている。モバードの新戦略は、利益の上らない直営店は閉鎖して、今後は独立系の百貨店とチェーンストアへの販売に集中すると、社長のリック・コテーが表明している。米国に小売店が何軒あるのか知らないが、記事では5千軒が今年一年間に消え去るだろうと言う。

アメリカの市場には高級時計を十分に説明するだけの知識と販売技術を持った専門家がいない

 「アメリカの市場は特殊だ。短期的な儲けだけが重要で小売店の頭には、ブランドを長い眼で育てて、付き合っていく心構えがない。売れないとすぐ安売りに走る。スイスの時計のイメージを損なうことはなはだしい」とデウィットという日本ではあまり知られていないメーカーの人が痛烈に批判している。「売り子はしょっちゅう代わるし、販売技術の低下と共に、ブランドに対する無理解どころか誤解を持ち込む。思い付きの仕入体制で在庫管理が出来ていない。アメリカの市場には高級時計を十分に説明するだけの知識と販売技術を持った専門家がいない。」とこれはご存知のウブロのビーパー社長は手厳しい。
 アメリカ社会は通販・TV販売・インターネット販売に慣れているので、ヨーロッパ人と異なって高価な商品でも購入する。だから、一発商売が増えに増え、五割引六割引がザラにある。一体これで正価で買う人にどんな釈明をしたらいいのだろうか。その大きな原因は流通過程がしっかりと管理されていないところにある。これ又、アメリカ市場にある代理店を通じて強かったレイモンド・ヴァイルも、自社の販売会社を作って、再建にのり出している。「販売量が一定の数に達したら、それを守るには細かい配慮と神経が必要になる。だからどうしても自分で流通を制御しなくてはならない。アメリカ市場はやはり重要で何といっても、全世界の20%の贅沢品が消費される市場ですから」と前出のデーヴィット社のナタリー・ヴェッセの言で、バスチアン・ビュスの論評は終わっている。
 ビュス記事のこういったアメリカ市場批判を読むと、日本市場にとっても耳の痛い点が多い。日本では広大なアメリカとは違い、メーカーの直販化も進み、流通は整備されているが、それなら販売は安定した成長を望めるかというと必ずしもそうはなっていない。つきつめると、自社の商品は自社の小売店で売れれば理想的であるが、アメリカ・モバードの例のように採算が合はねばどうしようもない。それに為替の変動による併行輸入との戦いもある。結局、カルチェのように、卸と小売の併用ができれば申し分ないが、それを胸を張って出来るのはこのブランドしかない。
 今回のF・H誌には、ロレックスのセカンドブランドであるチューダー(ロレックスと共通のムーヴメントは一切使っていないが)の新戦略の記事が出ていたが、論評は紙面の関係から割愛せざるを得ない。チューダーも、香港では強いブランドなので、拡大する中国市場を眺めながら新しい発展を目指しているようである。興味のある方は、F・H誌に直接あたってみられたら。
(栄光時計株式会社会長 小谷年司)
■“贅沢品の将来について” ■2010年7月12日 月曜日 4時25分18秒

今年の第10号(6月3日発行)の巻頭のF・Hのパッシェ会長さんの文章を見ても、スイス時計産業は復調しつつあるようだ。主として、日本を除くアジア地区の好調によるものらしい。スイスの時計産業は、機械時計に生産の中心を移すようになって、超高級時計が牽引車になっている。それが不況のせいか、現在は小売価が30万円前後の中級品に力のシフトが移って来ている。果して、またそれより上にもどるかどうか気がかりのところである。
 いつも仲々良い記事を書く「ラジフィ(’AGEFI)」新聞の記者バスチアン・ビュスがパリの商科大学のヴァンサン・バスチャアン教授との“贅沢品の将来について”のインタヴュー記事をのせている。以下はその要約である。

人間社会の中に、贅沢な行為は構造的に埋め込まれている

 贅沢品は立ち戻りつつあるが、不況にあっても贅沢な行為がなくなっていた訳ではない。人間社会の中に、贅沢な行為は構造的に埋め込まれている。他人より優れていたい。目立ちたいと誰しも思っているし、それについて自分の考えも持っている。贅沢は各人に夢を与えるものである。夢となると限界はない。人間は自己と他人とをいつも比較するし、贅沢は比較の表現となる。バセロンやブレゲのような高級時計はかって王候が持つもので、中級以下の貴族は安物の時計が精一杯、一般民衆は時計など買えなかった。贅沢にははっきりした限界が存在していた。その限界は現在では消滅し、近代人には、贅沢をすることによって常人に勝りたいという欲求が生理的なものになっている。
 この不況の間に、贅沢をするということを恥しがる風潮があるという人もいるが、それは恥しいというより、気がねからだろう。株で大儲けする人も不況でも少なくなかったが、それをみせびらかす気にはなっていない。気がねして贅沢を前おくりにしている。贅沢をするのは夢を買うことだから、金持はいくらでも前送りが出来る。不況は貧しい人を直撃する。同じく不況は金持にも影響を与える。金持は貧しいふりをせねばならない。しかし、いつまでも我慢する訳ではなくて、金持は少しづつ行動にでる。それは超高級品の世界から大体始まる。好・不況の波は大量生産品の市場に存在する量が消費量に見合っているかどうかによって出てくる。勿論これには大型の設備投資がからまっているが、贅沢産業は重厚な設備とは関係ない。だから波の巾が長期になる。

贅沢は大衆化、贅沢の価値が死ぬという仮説は間違っている

 時計もクオーツの出現で、ケータイにもつくようになって、時間を知る機械としては体をなさなくなってしまった。車も同じで大衆車のルノーやプジョーが苦しんでいるのと同じだ。それでも贅沢の未来は無限である。贅沢の次元が違ってきていることにも注目すべきだ。例えば美容整形、あるいはネッスレの開発した高価なコーヒーのネスプレッソ。
 贅沢は大衆化する。今まで一部の金持しか楽しめなかったことに、誰もが参加できることによって、贅沢の価値が死んでしまうという仮説は間違っている。贅沢が死ぬケースは、贅沢の本質を外したところから来る。人間が作って、人間が売る。あるいは、人間がサーヴィスをする、しかも、その品盾の高さを各段階で保持しつつという条件で贅沢は始めて成り立つ。この原則を外して、一時的な成功はあっても長続きはしまい。
 如何ですか、いかにもフランス人らしい議論で異論もあろうが考えさせる面は持っている。

競売の話

 人間は誰しも、なにがしかは蒐集家である。子供の頃は、もう死語となっているが、ベイゴマやメンコ(関西ではベッタン)を大ていの子供は集めていた。切手や昆虫採集に熱を上げる子供は今でも多いだろう。蒐集品は決して贅沢品ではないが大人になると贅沢品になる。集めたものの客観的評価は難しく、値段は需要と供給の原則で決まる。TVで人気の何でも鑑定団の値は参考値段であって、あの値で売れる保証はない。ネットのオークションが大流行だが、まだごく安い、落札した人にリスクのないあたりでとまっている。
 この号では、時計の競売価格としては世界記録の高価で革バンドの金側パテックがジュネーブのクリティーズ社でクロノグラフ腕時計が落札されたという新聞記事が載っている。
価格は570万ドル(約5億円)。写真でみると、ごく普通の複雑時計にみえるが、1943年製、製品番号1527の一つだけ手作りされたものらしい。値は最初2億円ぐらいから始まって、5億円の決着となった。会場のジュネーブにあるホテルデ・ベルグに831人の入場者があり、中国人が特に多かったという。今や中国人があちこちで美術品なども買い漁っているようだ。

チトーニという時計
 
 今、上海で万博が開催中である。テレビで詳しくみて、懐かしく大阪の万博のことを思い出したが、もう40年昔の熱狂である。今、上海では同じように燃えているらしい。上海の夏は暑く、それでなくとも人の多い町なのに混雑する広い会場で、入場何時間待ちは行く気になれない。会場にジュネーブ・バーゼル・チューリッヒ三都市館というパヴィリオンがあって、チトーニという時計が全面的に後押ししている。
 チトーニ(TITONI)は文字板に梅の花のマークが入っていて、中国語では梅花牌という。スイス本国でも我国でも、殆ど知られてないが、中国では有名なブランドである。毛沢東の文化革命が始まらない中国へ商用で行った頃すでにあちこちで、毛沢東の肖像画とチトーニの広告が目立っていた。チトーニの名は懐かしい。一時日本でも平和堂貿易さんがやっていたがすぐに消えてしまった。
 チトーニが中国に輸出し始めたのは1960年代である。この号で、チトーニのダニエル・シュロップ社長はその頃、スイスへ中国使節団が来訪して、中国向きの低価格製品を買いたいと言って来た、貧しい共産国なんか相手できないという人ばかりで、私の会社だけが話にのった。それ以来のお付き合いだ、という。大体以来、チトーニの売上の50〜65%は中国向けで毎年10万個位輸出しており、ラドーに続く高級ブランドになっていた。市場開放でオメガやロンジン、ロレックスに食われ、今は七番目になっているが市場は拡大しているから、機械時計を中心に健闘している。スイスの工場は53名の社員、中国に80名。

チトーニの年間生産量は15万個。

シュルップ社長は、万博パヴィリオンのテーマは「水の清らかさをいかに保つか」。私の時計と同じ「美しく、堅実で、不要な飾りや贅をこらさい」と言っている。昔はチトーニのようにある国にだけは滅法強いというブランドが存在し得たがマーケッティングというものが全世界的になっている今後はどうなるだろうか。(栄光時計株式会社会長 小谷年司)
■同業者組合の話 ■2010年6月28日 月曜日 5時8分35秒

 私のように20代から70才過ぎまで時計産業界に身を置いていると、士農工商というが士農は別として、工商はこの身分決定順序は当っているという気がする。工は工業に従事する人々、商とは商業に従事する人々である。大体、工場関係者は技術者が多く、物づくりに対する意欲は激しいが、販売となると単純な突撃兵になるか始めからサジを投げ出して専門家に任せてしまうタイプが多い。いわゆる人の好い性格。
販売に関係する人はこれに比べて人が悪い。元は純真でも、だまされたり、嘘をつかれたり、競争相手にしてやられたりするから、容易に他人を信じなくなる。生産と販売とが分離していると、同じ製品のメーカーであったとしても、生産担当の人々は正直でまっとうだ。販売担当の人は一筋縄では行かない。交渉相手からみると、あの会社の工場の人は良い人だが、営業の人は油断もすきもあったものじゃないとなる。生産技術よりマーケティングの方がより重要になった現在はその傾向がますます強い。だから営業部門がより集まった組合では、組合全体の向上につながる施策は、組合員各個の自我がでて、なかなかとりにくい。業体の如何を問わず事情は同じである。
ところが生産側の人々は企業秘密の技術や新製品の開発については口が堅いけど、その他の生産上の問題については同病相憐れむのか、協力関係を築きやすい。

スイスの時計経団連

スイス時計産業経営者連合(CP)はスイスの時計産業が支障なく発展するよう賃金の協定を労働組合と取り決めたりするばかりでなく、色々な施策をとっている。今回のF・H誌(5月13日発行、本年第9号)ではCPが主体となって指導している「転ばぬ先の杖運動」の報告があった。
スイスの工場は敷地が一体にせまいので、日本のように平面一層ではなく、数階建ての建築が多い。そこで、工場内で起こる事故年間、約1,300件の二割が仕事の上でなく、単に転倒することによって起こるらしい。それを避けるために、CPが12人を一グループにして一時間のセミナーを一人1,500円微集して巡回している。階段の模型やら、ぐらぐらする床板のモデルを使って、荷物を運んでいても転ばない訓練をするようだが、日本の消防訓練みたいなものだろうか。なんとなくユーモラスな日本人の発想にはないセミナーをやっている感がある。

時計教育について

 又、CPは時計の高度技術者の育成に力を入れていて、色々な大学と共同して理学系の大学卒業者に時計学修士号や博士号をとるためのコースを作っている。純粋に生産技術の専門家を作るコースで、国をあげて時計技術の向上につとめる姿勢がみられる。日本のように専門教育は就職してから社内で行っているのと大分様子が違う。その内容に興味のある人はインターネットでwww.cpih.chを検索されるといい。
時計学校というと、私のような営業一本の頭しか持たない人間は、ロレックスの東京テクニクムとか、水野さんのヒコ・ミズノ時計学校といった修理工を育てる学校しか思いつかない。日本の理系大学に時計学部があるのだろうか。もしないとすれば、やっぱり時計産業全体で教育の問題を考えないと、企業内教育といっても企業に余裕がなくなりつつある現在、優秀な技術的人材をこれまでのように生み出さなくなるのではと心配になってくる。金融とか保険といった実体のとらえにくい部門は別として、スイスの実体的な産業において時計は観光・製薬に次ぐ第三位を占めている。その存続にかける人々の努力は日本とは熱意が違うといっても、もう少し我が国も将来を考えるべきだという気がしてならない。日本時計メーカーの首脳の方々に公共な教育の重要性に気付いて実際の行動に移っていただきたい気がする。
 スイスを支えているのは高級時計の分野で、小規模の職人的名人芸に頼っているから日本の工業生産風土とは異なると、うそぶいてはいられない時がくるかもしれない。
 
時計生産国の移り変わり

 私が業界に入った時、世界一の売上を誇っていたのは、まだセイコーではなくてブローバ社だった。今やブローバはシチズンの子会社にすぎない。その前は、ウォルサムがあり、タイメックスがあった。ウォルサムは倒産し、タイメックスは小さくなった。アメリカはかって時計王国であった。技術は育てるよりは、他国から買った方が安上がりで早いと考えたアメリカから、時計生産工場はみんな消えてしまった。この教訓を他山の石としたい。
フランスもかつてはスイスと競合する時計王国であった。歴史的にみても、ジュラ山中に時計作りが散在したところから、ジュラの南がスイス、北がフランスだから、隣どうしフランスのブザンソン市は時計の町として昔有名だった。リップとかイェーマはフランスのブランドである。それが凋落したのはフランスの労働者に権利意識が強く、すぐにストライキに突入したから、スイスの同業者との競争に敗れたためとされている。
しかしフランスの場合、労働者は職を失ったわけではない。毎日、国境を越えてスイスまで働きに来る人が、1960年頃からだんだん増えてきて、きっと自動車の普及もそれに手を貸したのだろう。現在は16,000人になっている。スイスの時計産業従事者の三分の一が毎日国境を越え
て通う人になっている。この不況で、外人であるフランス人から先にリストラされるということはなかったらしい。待遇も平等らしい。こんな記事が今号に出ていた。きっと、同じフランス語を話すからトラブルも少ないのかなという気がしなくもない。いずれにしろ、時計産業そのものが日本から消えることがないよう、私達は努力しなくてはならない。(栄光時計株式会社会長 小谷年司)
■趣向を変えて今回は「名門ロンジン」を取り上げます ■2010年6月11日 金曜日 15時31分50秒

 今回は今年第八号(四月二十九日号)のF・H誌。前回ふれたバスティアン・ビュス記者が、エルメスのリュック・ペラモン・ショパールのカール・フリードリッヒ、ショイフェレ、レイモンド・ヴァイルのオリヴィエ・ベルネイムといった各社の最高責任者にインタヴューをした記事が載っているが、趣向を変えて名門ロンジンを取り上げたい。

アジア諸国で半分を売上げるロンジン

《ロンジンの現状》時計産業の中心地であるジュラ地方の新聞「ル・ジュールナル」の三月二十五日にロンジンの社長であるワルター・フォン・ケネルの記事が出ている。名が長いので、ワルターと短く書くが、ワルターがロンジンに職を得たのが一九六九年、今から四十一年前で社長になってから二十三年、昨年はスイス時計産業が前年比二十三%も落ち込んだのに最高の売上という。彼の功績は大だが、好成績はスウォッチ・グループの一翼を担っているおかげで、ハイエック親子のすぐれた指導が何よりのよりどころとリップ・サーヴィスも忘れない。推進力の最たるものは、中国市場で全体の三分の一、その他香港、マカオ、台湾といったアジア諸国を足すと半分以上になるという。残念乍ら、日本市場は言及されてない。中国にロンジンが最初に輸出されたのが一八六七年で明治維新の前年で歴史は古い。清朝以来である。毎年中国の全スタッフを集めてセミナーをしているが、今年の一月も、中国とロンジンの長い関係を強調して来たとワルターは語っている。

 《ワルターとの関係》 

日本では長い間、服部時計店が(現セイコー)が独占代理権を持っていた。自社のセイコーブランドが日本のみならず世界中で売れるようになり、スイスの時計をセイコーが売るのに熱心でなくなった。そんなことまでしなくとも、セイコーが売れて、儲かって仕方のない時代であった。当時は独立会社であったロンジンも斜陽で売りに出されていた。ある会合の席で若かりし服部礼次郎氏(現セイコー名誉会長)に「ロンジンをお買いになったら」と冗談まじりに提案したことがあった。「だってセイコーの工場に比べて設備も古いし、名前だっておバァさんだもんねぇ」と一笑に付された記憶がある。
確かに、オメガも同様、スウォッチの現両エースが低迷の時代で、ロンジンも新しいグループに入って、日本の流通をロンジン・ジャパンという会社を作って直接手がけ始めた。J・J・アッカーマンというエネルギッシュで日本市場に詳しい人をオメガから社長にスカウトして、スウォッチ・ジャパンの傘下に入るまで破竹の進撃をしたことは業界人もまだ憶えているだろう。私の会社も卸代理店(本
年で終了)していたから、ピーク時で総数年間十二万個近く国内で販売していた事実を知っている。現在は二、三万個といったレベルだろう。
 その日本のピーク時に社長になったのがワルターで、一年に何度も会う仲だった。ワルターはスイス連邦軍の大佐でもある。スイスは国民皆兵制だから、常備兵はいないに等しい。将軍の位は平和時には存在しない。大佐が最高の階級である。ワルターには良い意味での軍人気質があって、突撃専門である。「売って売って売りまくれ」というタイプで、それだけでは旨くいかないと解ったのが、いわゆるハイエックの指導だろう。一時は二人社長制など敷かれて干されたが、二、三年でカム・バックして人々を驚かせた。やはり実力が買われたのだろう。陽気なところと、神経のこまやかなところが併存して人心をとらえるのが上手である。容貌も坂田の金時を大人にしたような童顔で愛嬌のある大男である。

 ローラン・ギャロス全仏テニス大会

 この同じ号にロンジンがアンドレアガ
シとシュティッフィ・グラフ夫妻主催の財団に協力して、十才から十三才の子供テニスプレヤーを世界十六ヵ国から選抜して、全仏と同じ会場で男女の優勝者を作る企画を発表していた。全仏全体もロンジンが時計を提供したりしてスポンサーになっているので、行きたいなあと思っていたら、思はぬ幸運がとびこんできた。全仏の切符なんか取れるかなぁと一年程前にワルターに呟いたのを思い出してくれて、丸ごとこの企画に招待してくれたのである。
 六月五日には、クェルテンとマリー・ピエールスという二人のかつての全仏優勝者と、子供達二人のお遊び男女混合ダブルスがあって、これがとても楽しかった。昔鳴らした選手のマンスールという老人が加わって道化テニスを披露。観客は大喜び。夜は十万ドルを財団に寄附するためのパーティーがあった。ロダン美術館を一晩中開放し、広い庭園に立派な臨時会場をしつらえて正式のディナー。接待客は四百人近く。豪勢な宴会で一晩で五千万円はかかっただろう。翌日は、全仏の決勝戦男子観戦。超人気のナダールと、常勝フェデラーを破ったソダーリング。あっけなくナダ―ルの勝利に終わったが、ローラン・ギャロスの粋なお祭り気分は、フランスでしか味えない。ロンジンは全世界から二百人近い人を招待して、元気のよさを見せつけてくれた。パリの市内を走り回る沢山の吹き抜け天井の観光赤バスには全車背面にアガシの笑顔を使ったロンジンの広告があった。
 紙面を借りて、こんないたれりつくせりの旅を用意してくれたワルターに礼を申し上げたい。ロンジン社にも。(栄光時計株式会社 会長 小谷 年司)
■バーゼル見本市の報告では「スイスの展示会社がニコニコ」 ■2010年5月27日 木曜日 7時11分27秒

アメリカからの来場者が復活して入場者の数は10万700人と昨年比7%アップ

 これは4月15日号(第7号)のF・H誌なのでバーゼル見本市は終了しているから、その簡単な報告が出ている。「スイスの展示会社はニコニコ」という表題で、入場者の数は10万700人と昨年比7%アップ。今年になって、14ヶ月振りに時計の輸出が減少から増加に変った成果がみられたという。特に、昨年皆無に近かったアメリカからの来場者が復活しているという。

全従事者50,000人のうち4,000人の解雇で納まり業積は最悪の状況から抜け出した

 スイスは、小さいけど連邦共和国である。共和国というのは、人民主権であって労働組合は伝統的に強い。スイスで争議があまりおこらないのは、労使共に大人で、話し合いの精神が強いからだろう。ストライキしたところでどっちの得にもならない。
時計産業にも経団連のような経営者の団体から436社(通称CP)があって、労働組合と話し合って、色々な条件を毎年話しあっている。そのCPの発表によれば、全体で最悪5000人(総従業員の10%)の解雇が予想されたが、4,000人におさまり業積は最悪の状況から抜け出しつつあると発表している。これは新聞からの転載記事。スイスでは、550,000人ぐらいが時計産業に従事していることが判る。
バーゼル見本市の時期であったせいか、スウォッチの総師であるニコラス・ハイエック氏やオメガの社長スティーヴ・ウルカート氏など大物のインタビューが新聞紙上を賑はせていて、それがこの号に連載されているが、ここではパテック・フィリップの新社長、チェリー・スターン氏のインタビュー記事を取り上げよう。

パテックの成功は、大量生産が利く、高級にして大衆化を図ったことだ

 パテック社の沿革を前段として少し書く。1839年ポーランドからの亡命者、アントニー・ノルベール・パテックによって創業。6年後にフランス人のアンドリアン・フィリップが技術面の共同経営者として加わり二人の名を冠するようになった。20世紀になるまでは年間1,800個程度の生産で、20世紀に入って延びている。例えば1907年には6,000個を越している。
しかし、世界大恐慌を越えることはできなくて、今の経営者、スターン一家が1937年買収し、再建。成功の一因は高級宝飾時計や複雑時計ばかりでなく、やはり多少でも大量生産が利く、高級にして大衆化を作って(当時はカラトラーヴァと称されたモデルなど)、販売の基盤としたことにあった。この辺はロレックスの成功とよく似ている。日常の御飯の食えるモデルと超高級品との組合せの両輪経営。生産量は1970年に12,000個、2000年には20000個を突破し、現在は40000個である。

2009年度の売上げは幸いにも2008年を上回る画期的な記録年度となった

 さて、チェリー氏は、スターン家の四代目の御曹司として(8年間、父親の薫陶を受けたあと)社長の座についたばかりの青年である。パテックは他のブランドと比べて華やかなマーケティングでは、目立たないかも知れないが、大言壮語ではなく、長期的に堅実な経営を志すと言っている。今の不況だって、我々は長い歴史を通じて生き残るのであって、単に景気のサイクルにすぎない。大切なのは、工場で作る製品の質と小売店と協力して作る販売の質だ。15%の売上減少予算を昨年は組んでおられたのに、結果はどうでしたかと聞かれて、彼はこう答えている。
2008年は最高の年であったのに、2009年は幸いにもそれを上回る画期的な記録年度となった。

不況に対し、控え目な計画がベストだ(パテック)

 小売店との関係においても、他のメーカーがやるような押し込み販売は避け、小売店の在庫を減らし、我々が在庫を持つようにしている。しんどいが、これが良い時も悪い時も、小売店と我々が共に発展したり、我慢したりする長期的関係の基盤である。40,000個の生産も増やすとしても、年率1〜3%くらいのもので、品質を保つにはいきなり増強はできない。小売店にしても、世界で500店以上では上手く機能しなかった。現在では、世界で480ヶ所に充実した売場があり、それで十分。直営ブティックの拡大は考えていない。みんなは中国、中国というが、中国に市場開拓してまだ5年目だし、小売店も2軒しかない。これ以上増やしても生産が追いつかない。
それに中国人は、外国に出てどんどんパテックを買ってくれている。(このへんは昔の日本人みたい―私見)アジアは日本以外、今後有望だが、まだ手付かずなのが現状だ。

パテック社は家族経営であり、独立していることが購入者に対してもブランドへの信頼を強化する

 工場設備の拡大はラ・ショードフォンの新工場とジュネーブ郊外の拡張で一段落、とにかくリストラも避けることが出来た。きっとその時は来るだろうが当面雇用拡大はせず、今の1,300人態勢で行く。パテック・フィリップ社はあくまでも家族経営で、これが得意先から得る信頼の一番のしるしで、この方針は今後も決して崩さないだろう。家族経営で独立していることが購入者に対してもブランドへの信頼を強化する、とこのインタビューをしめている。
 このインタビュー記事に書いたのはラージュフィ(LAGEFI)紙の記者バスチアン・ビュスという人でいつも突っ込んだ良い質問をする。
(栄光時計株式会社 会長 小谷 年司)
■新設工場ラッシュは、スイスの将来の希望と新しい局面に移行している ■2010年5月13日 木曜日 4時22分29秒

パテック・フィリップやモンデーヌ、ジャガー・ルクルトなど

 時計産業はスイスの基幹産業の一つであるが、生産工場がスイス全域に広がっている訳ではない。レマン湖の西端にあるジュネーブから、東北の山地に登って、ジュー谷間に至り、ジュラ山脈の南側を伝って、ラ・シオード・フォンやルロックルという山間の町に至り、そこから南下して、ニューシャテルやビエンヌにつながるのが時計の地区であって、主としてフランス語が話される地方である。地方色がとても濃い。時計を産業に従事する人には、同じ工場で親子代々働いている例が多かった。長年の間、従業員、下請け等地域との関係が密着して、工場をどこかへ移転するのが難しくなっていた。ここにスイス時計産業の強みと弱みがあった。強みは手作りの単価の高い少量生産に発揮され、弱みは安価・高品質・大量生産の場合に露呈される。

もう20年以上近く前になるが、パテック・フィリップの生産量が年間2万個ぐらいと推定されていた時、セイコーの塩尻工場ででは、それと同じ数のアルバが毎日生産されていた。当時、アルバの販売会社の社長をしていた私は、ベルトコンヴェアーから2・6秒ごとに吐き出される時計をみて、これを売りさばくにはどうしたらよいか、武者震いをしたものであった。しかし、良いものを安く作れば、いくらでも売れるという時代は去ってしまったし、高級時計を人間の熟練でコツコツ作れば、生き残れる時代でもなくなった。技術革新は多量だろうが少量だろうがすべての形の生産に必要とされるようになっている。
 スイスの時計産業も丁度今が変換期であるのか、有名ブランドの新工場進出がさかんである。4月1日発行の「FH誌」本年第6号をみると本格的な新工場操業開始のニュースが、いくつか伝えられている。
 まず、パテック・フィリップ。3年前にラ・ショードフォン近くのクレ・デュ・ロックルという土地1万8千平米を取得して、床面積1万2千平米4階建のモダンな長方形の柱を横にゴロンと寝かしたような建物が俊工された。ムーヴメントはまだジュネーブの工場で組み立てられるが、ここではケース製作種々の研磨、宝石の石どめの工程が、それぞれの子会社を同じ新設工場に入れる形で、効率化をはかったという。従業員数150名。勿論、美しい従業員食堂のあることも報告されている。大分以前パテックは、伝統のあるジュネーブ製の刻印(ジュネバ・シール)を時計に打たないようにしたというニュースをいぶかしく思ったが、遠隔地工場での部分生産で、100%ジュネーブ製ではないという批難をかはすためであったのかなという気がしなくもない。

 次は、スイスの鉄道時計を模した単価の低い時計で有名なモンデーヌ社の新工場完成のニュース。この会社はまだ若く、1951年創業で、1967年からモンデーヌの名で時計を売り出し、現在では2代目のベルンハイム、アンドレとロニーの兄弟が経営している。ソロトゥーンといってラ・ショードフォンからバーゼルに向う街道に沿った町の近くにある。昨年末、アジアに製造拠点を持つマーロックスという会社と業務提携をしていて、この会社の作るエスプリとかジョープやプーマといった若者向きのライセンス時計を売ったりもしている。自社のブランドはモンデーヌ、M・ウォッチ、ルミックスだが、他社からの委託製造を請け負うなど、経営者が若いだけあって、多方面に色気を出している。写真でみると三階建ての体育館といった外観で、旧工場に勝ること4倍の拡張だそうだ。
 続いて、ジャガー・ルクルト、ル・サンチェという小さな村の昔ながらのアトリエ的な工場に隣接して9500平米の新工場を新築完成している。ジャガー・ルクルトの代理店だったデスコに勤めていた、この工場をよく知る増田さんが、つい先日みてきて大変立派になり昔の俤はないと言っていた。まあ、現在では25%ぐらいしか使ってないらしい。それでも従業員は1000人を超す。ここでも自慢は最上階に設けられた従業員レストランらしい。食堂ではなくレストランと称されている。五、六百食は毎日作るらしいが、美しい環境で食事し、歓談すると従業員は気分が良くなり効率も上ると会社側は言っている。アントアーヌ・ルクールトルが1833年、つまり天保の頃に創業した工場は177年たっても家庭的な雰囲気があると、この記事のレポーターは伝えている。
 まだ、我々の業界では本格的な景気の上昇がみられないがスイスの時計業はずっと明るい。FH誌によると、この1月と2月のスウォッチグループの売り上げは同月比較としてみると、この過去最高の2年前を5%から10%上回っているという。スウォッチは、精密機械用の電子チップの製造を担当するマイクロエレクトロニッ社(本社スイス・マラン従業員330名)に130億円の新規設備投資を実施している。
 新設工場ラッシュの意味は、スイスの地域密着から産業が効率化のため地域性を抜け出しつつあることと、将来の希望がでてきたことであろう。確実に新しい局面に移行していると思える。
(栄光時計株式会社 会長 小谷 年司)
■リシャール・ミルがカリブ海で開催されるヨット・レースのスポンサーに ■2010年4月27日 火曜日 2時45分36秒

一点豪華主義で、他航空会社との差別化をはかる為の「贅沢の将来」

現在、日本では個人所得の減少と共に、「ユニクロ」「しまむら」といった安い服を売るお店が驚くほど業績好調である。バブル時代に、日本中が贅沢品を買い漁ったのとは反対の現象が起こっている。そんな時に世界の中では新しい豪華さに対する流れが出ているらしい。ニュースウィーク誌の四月五日号は「贅沢の将来」という特集を組んでいる。例えばシンガポール航空やアラブのエミレート航空は、個室キャビン作りホテルの一室に泊まった気分で、目的地に到着する飛行機を就航させている。その試乗記がのっていた。
ロンドン、シンガポール間往復の料金が一万二千米ドルというからさして高くはないが、出発の空港チェックインから始まって至れりつくせりのサーヴィスのようである。何故この不況にこんなことをするのかというと、一点豪華主義で、他航空会社との差別化をはかる為であると分析している。同じ号に、フォルクスワーゲンに買収された、一台二十万ポンド(三千万円)もするベントレーの売上が好調という報告もでている。昨年は四千六百台売れたという。BMWがロールス・ロイスを買収しているから、工場生産の良さと手作りの良さが合わさったお金持ちにとって魅力的なクルマを出してくるだろう。日本航空も一年程前に、大都市間に一等席を売り出したが、大阪・東京の追加料金が七千円もするのでは、今や安物ブームの日本では不評であった。この辺が日本の贅沢人口の限界であろう。私にたとえ七千円の余裕があるにしても、気恥ずかしくて乗る気になれない。贅沢というのは首尾一貫すべきものであって、たった一時間の飛行機だけに一等に乗っても無意味である。
 葉山のヨットハーバーは行ったことがないが、西宮や芦屋のヨットハーバーは時偶行く機会がある。近年整備されて優雅になり、美しいヨットが停泊している。しかし、南仏のサン・トロペやモナコのヨットハーバーに比べると、はやっている船は月とスッポン程の差がある。日本のお金持はみんな働いて稼いでいる人だから、年柄年中クルーを雇って、あちこち航海できるような本当の有閑階級は皆無である。日本にもそういった階級は少数ながら存在したが、対米戦争の敗北、農地開放、財閥解体で絶滅したといってよい。
 リシャール・ミルという名の時計がある。近年台頭して来た超高級時計で、平均単価が一千万円という。我が友、河合暢雄さんの会社が代理店をしておられる。FH誌の本年第四号にリシャール・ミルがカリブ海での、サン・バルテルミー島で開催されるヨット・レースのスポンサーをするという
記事がでている。日本人にはピンと来ないが、ヨットレース、例えばアメリカス・カップのようなもののスポンサーになるというのは大変なことらしい。競馬場に来る観客が金持ちの集まりときいても一般日本人はピンと来ないのと同様であろう。ヨット・レースの観客はセレブの集まりである。
 リシャール・ミルは一時セイコーの傘下にあった時計工場のマトラ・イェーマの支配人、パリの宝石商モーブッサンの作る高級時計部門の経営陣へ加はり、十年程前に自立した人である。
 高級時計が商売として成り立つには技術面における配慮と共に資金面にも有能な人材がいる。フランク・ミューラーは、すぐれた時計技術者であったが、真実のオーナーともいえる協力者のヴァルタン・シルマルクの経営の才が無ければ、今の繁栄はおぼつかなかったであろう。リシャール・ミルは優れた経営の才も備えているようだ。
 FH誌の本年第四号は、リシャール・ミルの新聞記事が掲載されている。リシャール・ミルの会社の株の十分の一はオーデマ・ピゲ社が持っている。十年ばかり前に独立した人が自前の工場やアトリエをすぐに持てる訳はない。オーデマ・ピゲのかっては一部であったルノ・エ・パピエや、パルミジャアーノを所有している薬で財を成したサンドス財団の傘下のヴォーシェ・マニュファクチュールに機械部分の協力を受けている。フランク・ミューラーやパルミジャーノといった高価な時計が売上減少に困っている昨今、リシャール・ミルは昨年22パーセントも増収し、八千三百万フラン(約八十億円近く)の売上を記録している。しかしその個数はたったの二千五百個である。日本の市場は、この種のものは五%とみられるから、一ヶ月に最低十個売れば、代理店は成り立つ。言うは易く行うは難しだが、沢山の人を相手にしなくても贅沢品が成り立つ良い例だろう。リシャール・ミルの工場はジュラ山脈のブルルーという村にある従業員は七十人という規模。
 今年からジュネーブのサロンに参加しているが「カルチェやジャガー・ルクルトのような歴史のある確立したブランドと伴走できるのは名誉なことだ。だけど我々の占める場所はごく特殊で、価値のあるバイプレイヤーにすぎない」とケンソンした発言をしている。
 かつて贅沢な時計の御三家というと、パテック・バセロン・オーデマと言われ、その地位を長く確保していた。今では時計の世界でも新しく贅沢なブランドが次々と出てきている。昔はコミュニケーションの速度が遅かったので一度確立したブランドの位置が不動であったが、情報が即時に広がる現在では一躍檜舞台に上るチャンスが多くなったと言える。
(栄光時計株式会社 会長 小谷 年司)
■2009年のスイスの時計産業の売り上げ全体が23・7%減 ■2010年4月12日 月曜日 6時5分35秒

スウッチグループは全体の売上げが54億フランと前年比92%

この原稿は今年1月の第2号FH誌を翻訳したもので、現在は第4号まで出ている。
スイスの時計産業も昨年1年は、苦戦が続いたようだ。11月までだが売り上げ全体が23・7%減のようである。
スウッチグループの昨年の売上げは全体の売上げが54億フランと前年比92%と報告されている。落ち込みは前半激しく、後半は回復基調。特に12月は過去最高の売り上げになったとある。強かったのはオメガを中心とする中級ブランドであった。「全体としては健闘している」というのがその新聞記事の評価であった。
 以前の号の中で、リシュモン・グループが香港で時計学校を開校したという記事が出ていた。10名くらいの学生で我々の日本人の考える学校の規模とは多少隔たりがある。機械時計を修理するには、やはり熟練の職人が必要であり、機械時計中心のスイス高級時計には、新しい教育を受けた時計職人が全世界的に必要とされている。
 この号では、アメリカのシアトルでロレックスのスポンサーによる新しい時計学校が開校した新聞記事が紹介されている。定員は12名二年制。スイスのニューシャテルに、いわゆるWOSTEPという(時計技術修得スイスセンター)学校があって、そこで開発されたカリュキラムに従って、合計3千時間、大体1週間に40時間の全日制。卒業時にクォーツ・オートマ・クロノの三種類のムーブメント修理を完全にマスター出来れば免状が受けられる。日本でも東京のロレックス・テクニクスも ヒコみづのジュエリーカレッジの時計コースも同じシステムを採用している。例えば、東京テクニクムでは定員12名、学費が2年で200万円、材料費30万円(筆者調べ)というから、この程度の授業料では営利事業にはならない。
アメリカでは、2001年にロレックスが既に1校をペンシルヴァニアで開校し、2つの大学の時計技術修得コースに5年で100万ドルの助成金を出している。スウッチグループも負けじと、2005年にニュージャージーに時計学校を開校。アメリカでは、リシュモン・グループもオーデマピゲもブライトリングもそれぞれ時計学校に助成金を出している。みんな合わせて約40人ぐらいの職人が毎年巣立っている。
 昔、大阪の生野工業高校に時計科というコースがあった。その伝統を引き継いだのか大阪の時計小売組合は健気にも時計修理職訓練学校を主宰している。大阪府からも補助金を得ているが、大赤字の府からでは補助金の額も心もとないと想像される。WOSTEPのカリキュラムなど、やりたくてもできない。授業料が25万円、受講日は週3日、学生数5名(現状)という。ヒコみづのの校長の水野さんにおたずねすると、本格的な時計学校を開設するのに場所とか建物は別として最低2千万円の資金を必要とするとのこと。やっぱり大きなスポンサーが必要とされる。スイスの時計工場で出して上げるところはないだろうか
ついでながら、関西には近江神宮付属時計眼鏡宝飾学院がある。時刻制度を日本に最初に導入したと言う天智天皇を祭っている神宮の広大な敷地内に校舎がある。3年制で時計は必須項目、他の2部門は選択制である。授業料は年間百万円、入学金20万円。カリュキラムは独自のもので、10名内外が毎年卒業するようである。
ロレックスの補助による学校は、ロレックスの名を冠していない。東京の学校も正式名は「トウキョウ・ウォッチ・テクニクム」である。ニュージャージーのスウォッチの学校名は、カリスマ会長の名にちなんで「ニコラス・G・ハイエック時計学校」である。両社の性格の違いが良く出ている。(栄光時計株式会社、小谷年司会長)
■今年のFH誌第一号の記事から ■2010年2月28日 日曜日 2時47分52秒

一見役に立たないことを読む

 もう50年近く昔のことになるが、私が亡父の案内をしてビエンヌにある当時出来上がったばかりのオメガ新工場に行ったのは1963年の春だった。父が創業した栄光時計は、父の出身会社であるセイコーの卸売りを主としていたが、スイス時計の人気商標であったオメガも販売していた。丁度セイコーの勃興期であった。
 工場見学で父が感心したのは生産設備ではなく、女性従業員の子供を預かる保育園が設けられていたことであった。こんなことは日本の工場では高くつくとされ、考えられないとセイコーの工場を良く知る父の感想であった。
 その後、栄光時計に入社した私は、度々スイスの時計工場、特にジュネーブのロレックス社を訪れるようになった。丁度その頃から各社が工場を案内したりするPR担当者を置くようになった。最初父と訪れたロレックス工場は、ジュネーブの繁華街のややこしいビルの中にあって、案内してくれたのはロレックス中興の祖と呼ばれるアンドレ・ハイニガーさん自身で、今となると嘘みたいな話である。
 その翌年に新工場が少し郊外に完成し、PR専門の女性がにこやかに迎えてくれるようになった。アン・マーグレットといっても知らない人が多くなっただろうが、、アメリカの赤毛美人女優がいた。その人に似たミニスカートの似合う女性で、会うのが楽しみだった。PRというのはパブリック・リレーションの訳で、一般人に会社の好感度を植え付けるのが仕事である。金はかかるが、何かの役に立つかは漠然としている。またロレックスでは、ビルの一番展望のいいところに社員食堂がある。仕方無しに社員食堂をおいてある日本のこれまでの工場事情とは大違いであった。

時計産業の文化面を紐解いてみる

 今回はやや旧聞になるが、今年のFH誌第一号の記事から一見役に立たないことを読もうと思う。ロレックスは不思議な会社で、PRには、あえて人目を引かない活動をしている。メンター活動というのが、その一つで、読者の中にはNHKテレビの番組で「ようこそ先輩」というのをよく見ておられる方も少なくないだろう。ある小学校卒業の有名人が母校にやってきて二日ほど教師の役を務める趣向である。出前授業の一種。メンターというのは、この先輩でコーチというぐうたらの意味だろう。ロレックスのメンター活動というのは2002年から始まっている。芸術の世界から毎年6人の世に知られた人を選ぶ。その人たちの分野で有望な新人を一人ずつ選ぶ。5ヶ月間先輩が個人的に後輩を指導し、勉学費として後輩には2万5千ドルに旅費などの実費が支給される。またその後の活動をロレックスが支援する。
 今年の6人のメンバーには、私の知らない人もいるが、作曲家のブライアン・イーノ、演出のピーター・セラーズ、そして中国出身の映画監督で北京オリンピックの開会・閉会式を担当した張芸謀が選ばれている。過去のメンバーを見ると、指揮者のコリン・ディビス、ヴァイオリンのピンカス・ズカーマン、画家のディヴィット・ホックニー、ソプラノのジェッシー・ノーマン、作家のウィリアム・フォーサイスにトニ・モリソン、映画監督のマーチン・スコセージなど超一流の人物ばかり。企画そのものは、素晴らしいがどう時計の販売に役立つのか良く分からない。直接結びつかないところが良いのかもしれない。もう一つこの号に乗っている文化的話題。
 時計業界の人は大体ジュネーブを訪れる。ジュネーブの一番の魅力的な界隈いは、サンピエール大寺院を中心とした静かな旧市街である。ジュネーブの有名な時計師の家に生まれ、時計師の修行から逃げ出し、大思想家となったジャン・ジャック・ルソーの家がこの地区に存在している。いわば文化地区で壮大な歴史美術博物館もここにある。昔、この博物館の一隅に時計が展示されていた。ところが1972年に古いブルジョワの屋敷を丸ごと改装して少し町外れになるが、ここに館蔵の時計を移し、ジュネーブ時計博物館とした。なかなか居心地の良い2階建て木造のこじんまりした美しい館と展示であった。2002年に泥棒が押し入り、174点の展示品が持ち去られた。保険で得た10億円で新しく124点が購入された。
 ところが窃盗防備施設のため、3億円ぐらいかければよいと考えていたら、10億円以上かかることが判明して、資金難のために再開のメドが付かなくなった。館蔵品は1万8千点ある。それをどこに展示するか、昔のように歴史美術館に展示するか、あるいは旧市街のタベル館に置くか、色々と検討されているようである。いずれにしろ来年は、ラート美術館を使って、ある期間展示会が催される計画がある。なお盗まれた品の一点が先週ミラノの競売に出品されたというニュースも伝えられている。
 ジュネーブはスイス時計産業発祥の地である。宗教革命の主導者としてジュネーブに君臨したジャン・カルヴァンの庇護を求めて続々と亡命してきた新教徒の時計製作者の群れがなければ今のスイス時計産業は成立していない。
 今は近年充実著しいパテック・フィリップ社の時計博物館が市中にあって代わりを務めているが、やはりより企業色の少ない中立的な時計博物館がもう一つ欲しい気がする。
 ジュネーブの時計博物館は豪商の自邸という感じであったが、世界遺産に認められたジュラ山中の時計の町ル・ロックルの博物館は丘の上の広大な敷地にある領主の堂々たる城館で、建築の美しさは際立っている。その入場者が、館蔵品秀作展をしたせいか、昨年は一昨年の1万人に対して2万5千人に増加し、近代的なラ・ショードフォンの時計博物館も入場者が例年の3万人が10%増加したことが伝えられている。時計愛好というのが偏った趣味でなくなりつつあるのだろう。今回は時計産業の周辺のことばかりになったが、産業にも多少のゆとりが必要ではなかろうか。
(栄光時計株式会社 小谷年司会長)
■ウブロの新工場がジュネーブ郊外に総建坪約2千坪で完成 ■2010年1月13日 水曜日 7時32分52秒

新工場への投資金額は34億円で全部ウブロ社の自己資本

《FH誌を読む(第19号)》 スイス時計の輸出額は昨年の10月も前年比22.1%減で、下落傾向は続いており、10月だけでみると単価200フラン(約2万円)以下の部門が、37.2%のマイナスと落ち込み、この価格帯が足を引っ張っているらしい。安いものが売れているのではなさそうだ。年初から10月までのマイナスは25.5%と報じられている。
 当然この号でも、リストラをしているメーカーの記事はのっているが、景気の良い話ものっている。
 ウブロという、特殊ゴムのベルトで知られた高級時計は、日本でも大分以前から時計マニアの間で知られている。元々、ミラノのビンダという大きな時計卸商社のオーナー一族であるカルロ・クロツコが作ったブランドで、各国で地道に愛好者を増やしていた。このビンダ社に、すでに閉鎖してしまったが、栄光時計の子会社であるエイコー・クロックが置時計を輸出していたので、カルロ・クロツコはよく知っている。温厚な優しい紳士である。この人とは全く性格の反対なスイス時計業界の名物男の一人、ジャン・クロード・ビーバーさんがパートナーとして数年前にウブロに入ってから、この会社は大発展をした。ビーバー氏にも会ったことがあるが、ブランパンを起ち上げ、社長としてオメガを隆盛に導いたにもかかわらずスウォッチと袂を分かって独立した男である。60才代だろうか、スイス人には珍しい大音声の大きな人で暖かい感じのする熱血漢である。その後、カルロ・クロツコが退いて、株の大半をLVMHが取得して、今はルイ・ヴィトンのグループになっている。
ヴィトン社の時計ブランドには現在タグ・ホイヤー、ゼニス、ウブロが加わっている。
 景気の良かった頃の計画ではあろうが、ウブロの新工場がジュネーブ郊外といってもよい風光明媚なニヨンに完成した。総建坪約2千坪。将来は300人の工員を擁する計画の四階建の近代建築である。以前の古めかしい、旧設備の工場と比べると格段の進歩らしい。工員の半数が女性なので育児施設も完備している。
 その落成式が10月29日に行われ、世界中から取引先150名が参加し、多忙きわまりないLVMHの総帥のベルナール・アルノーがテープカットに来ていた。この工場は、スイスの時計業界人の夢とする一貫生産工場で、ユニコと称するクロノグラフ・ムーヴメントを製造する。今年(2010)中に2000個、近い将来に2万個の年産にしたいそうだ。
 この号では、FH誌が記事原稿の依頼をした女性のリポーターは、当然ベタ誉めの提灯記事になっている。「美しいレマン湖とアルプスに向って開かれたこの新工場は輝かしい未来に向っても開かれている」とややくすぐったい。この落成式は地元の新聞にも取り上げられていて、その記事がこの号に転載されている。こちらの方はやや皮肉っぽい。
 落成式でテープカットにやって来たアルノーは、テープをカットし新工場内を突撃兵のような速足で視察、記者団に対しスピーチは2分間、あと5つの質問に辛うじて答える程度で、滞在時間全部でも2時間足らず、終るやいなや、個人ジェット機で立ち去ったとある。アルノーはいつもの仕立てのよい黒っぽい服、地味で細いネクタイ、魅力的な微笑を浮かべるが眼差しは透明、平静。戦略発表においては、極端に慎重で情報は点滴液のようにしか漏らさない。それがあの陽気で独立力が強く、時に反抗的になりかねないビーバーといつまでうまく行くだろうかと誰しもが思っている。スピーチの中で、ビーバーのことを「我々は二人共起業家であり、私も彼と同じように始めた」と昨年の給与6億円、株式から上る利益330億円のアルノーが明言したと伝えている。
当面ムーヴメント生産目標は2万個とビーバーが公表するとアルノーがウブロの時計をはめた手を差し上げて、3万個と訂正したから、当面二人は協力するだろうと記者は書いている。この工場は本年1月からこれまでの128人に15人ばかりの新工員が加わって操業する。新工場への投資金額は34億円で全部自己資本でまかなっているという。(栄光時計梶@小谷年司会長)
■FH誌の中味で一番面白いのはトップ人事 ■2009年11月10日 火曜日 5時4分1秒

《FH誌を読む C》 月に2度出るスイス産業連盟(FH)の会報は、日本の会報とは異なった趣きがあって面白い。日本の会報誌は、会員に対して公平を守るのを軸に編集されるから、報道は中立無色を旨としている。会報誌ばかりでなく社内報なども面白くない。FH誌も面白いという程ではないが、スイスの現状やら、世界の時計事情が解って興味深い。スイスには色々な地方の新聞があり、時計産業が固まっている土地の地方紙は時計関係の記事を載せることが多い。FH誌は、そんな記事が転載されているから便利である。FH誌の記事の三分の一ぐらいはそういった転載記事といってよい。第三者にとって一番面白いのはトップ人事だが、会報や業界紙は差し障りがないかと報道を避けるのが通例である。

昨年のジャケ・ドロー売上数は2500個で金額は4500万フラン(40億円)

この号では新聞の記事からの転載でジャケ・ドローの社長:マニュエル・エムシュ(38歳)が突然辞任した記事がでている。名前から類推されるかと思われるが、スウォッチG日本法人の社長で、豪腕で知られたアーレット・エルザ・エムシュ女史の御子息である。勿論エムシュ女史は変わらずスウォッチG本社内の重鎮である。今後ジャケ・ドローの経営はグループ総帥のニコラス・ハイエック氏自身が指揮をとるようだ。
ジャケ・ドローは自動人形の制作で名高い名工の名を冠したスウォッチGブランドだが、現在工場の新設を計画中で90人程の従業員がいる。昨年の売上数は2500個で、売上金額は4500万フラン(40億円)と推定される。スウォッチG全体からすると1%に満たないが、個性的なブランドである。任期中の退任だけに、新聞も驚きの色をかくしていない。スウォッチG内で現在どのような地殻変動が起こっているのだろうか。

2012年にロレックスが地上4階、地下3階(23万平米)の巨大工場が出現

私の会社はロレックスの日本での代理店をしているので、見逃せない記事もでている。ロレックスの主要工場はジュネーヴにあるが、ムーブメントの協力合弁工場をビエンヌに持っていた。ビエンヌといえばオメガもここである。近年ロレックスがこの工場を完全な傘下に収め、新しい工場の新設に乗り出した。この9月30日にロレックスの新しいCEOであるブルーノ・マイヤー氏が建築の公式地鎮祭に出席している。すでに工事は昨年の7月から始められており、2012年に竣工の予定である。地上4階、地下3階、23万平米という巨大な工場が出現する。

マイヤー氏の見解は、2008年がロレックスにとって最高の年だった

ビエンヌの地方紙にマイヤー氏とのインタヴュー記事が載り、それが転載されている。10月1日号だから、地鎮祭の日に話したものだろう。昨秋、長い間CEOの座にあったパトリック・ハイニガー氏がこれまた突然辞任して、財政面をみていたブルーノ・マイヤー氏がその後にCEOとなった。2005年にドイツ銀行からロレックスに入社した根っからの財務畑の人間である。この方は温和な性格らしく、インタヴュアーがハイニガー父子の長期政権の間とってきた経営スタイルに大改革を加えるつもりか?という意地悪な質問に対して、「お二人の大先輩がやってきたことは立派だと思うし、私はその業績を引き継げればと思っている」とかわしている。マイヤー氏の見解は、2008年がロレックスにとって最高の年だった。今年は悪くても来年にはよくなるだろうし、新工場もそれに合わせて計画をやや縮小した。現在はビエンヌ工場に2000人いるが、三分の二が工員で三分の一が事務職となっている。新しい人員計画は完成してみないと解らないが、200人から300人は増員するかも知れないと穏かである。「まぁ、こんな難しい時代だから私のような財務専門家が役立つのではないか」とも言明している。

グループ嫌い、独立好きのF・P・ジゥールヌ氏

他にも面白いのはF・P・ジゥールヌという人のインタヴューで、彼は自身と同じ名前を冠したブランドのオーナー経営者である。世界中の高級ブランドが売上を落としている中、この人のブランドだけは10%の伸びを示しているという。社員は総計120人で、半分がジュネーヴの工房、あと半分は世界各地の直営店にいるという。近年家賃が下がったということで、ニューヨークと北京に直営ブティックを開店し、これで7軒目。色々なブランドを扱う小売店は各ブランドの特質がよく解っていない。又、メーカーの方も大きくなると商品を押し付け、決算を美化し、投資家に色目を使う。こんな架空の世界は長続きしないと手厳しい。又、昨年の生産量はという質問に答えて、850個で単価6万フラン(500万円)と答えている。
マルセイユ生まれのフランス人らしく、グループ嫌い、独立好きで、「グループの中で仕事をしてもロクなことはない」と切り捨てている。時計業界きっての異色な人物だろう。
(小谷 年司・栄光時計株式会社)
■時計業界もコーディネーター制度を考える時代に ■2009年10月8日 木曜日 14時27分8秒

《FH誌を読む B》 製造工場から消費者への距離は段々短くなる。つい十数年前、ニューヨークのホテルで24時間中、宝飾品を売っているTV番組をみて驚いたが、今やショップ・チャンネルは日本でもすっかりお馴染になった。宝飾品ばかりでなく、何でも売っている。TVの販売では、商品説明のおしゃべりが重要だ。商品は同じでも、説明上手だとよく売れるときく。時にはなぜあんな細かいところまで大げさにに言うのかなぁという気がする時もあるが。
この号では、ジュネーヴで時計愛好家のクラブができたという新聞記事が載っていた。9月4日には高級ホテルのボーリヴァージェでスウォッチ社の若社長ニコラ・ハイエックの講演、11月には時計作りの魔術師フランソワ・ポール・ジェルヌやリシャール・ミルの話があるらしい。面白半分で誌面に出ていたwww.delhorlogerie.comを画面によび出してみると、「MOVMENT」という消費者向けの時計専門誌が、雑誌を購入してもらうだけでなく、製造者と消費者を結ぶためにこんなことや、年に一度の大パーティーを催しているらしい。年会費は税込みで250フラン(2万円)。こんなクラブは日本のコレクターに受けるかしら。
日本でもジュエリー・コーディネーターの制度が関係者各位の努力で地味だが成果を上げつつあり、もう資格取得者が1万人に達しようとしている。スイスでも、こういった教育が無視されてきた訳ではなかったが、技術者の方に販売者より重きをおかれてきたといえる。
今回FHを含むいくつかの時計団体が協力して、ル・ロックルにもと看護学校の校舎を使って教育施設を作っている。時計のことを何にも知らない人の3日間初級コースから始めて、5段階ある。4段階目に35日間の外国人向けコースがあって、これなんかは日本人には向いてそうだが、日本語のコースはなく、独・仏・英語である。大体こういった販売員向けの教育というのは、主にごく当たり前のことを繰り返すことが多く、頭の良い日本人は、そんなこと解っているのにと退屈するのが常だったが、言ってくれなきゃ解らないという人が増えているので、日本でも必要になるだろう。ジュエリー業界にならって、時計業界もコーディネーター制度を考える時代に日本もきている。日本時計協会と輸入協会の責務と思われる。それにこれまでは会社側の都合と費用で社員に受けさせる例が多く、会社としては利益が上らなくなると止めてしまうし、受ける社員も強制でなくなって良かったとなる。終身雇用制がゆるぎ、現に仕事をしていてもしていなくても、販売のスキルが評価されるこの不況の時代には必要とされるだろう。

他人の猿真似はしないという良識がまかり通る世界でありたい

この9月の初めに香港で国際時計展が開催されたが、出品業者の数を時計関係でとらえると690社で、バーゼル・フェアーより上で世界一という。小売値20万円以下の中国製トゥールビヨンがでていて面白いと言う人もいたが、私のかつて通った頃の展示では、コピーみたいなのも少なくなかった。香港の繁華街を歩いてると、必ずニセモノを売りつけに近づいてくる時代であった。
香港展の主催は、半官半民のような性格(本当は全民である)を持つ香港貿易発展局である。FHと話し合って、ニセモノやコピー、まぎらわしいブランド名は排除することにした。この号にはFHがからの監査委員が色々とクレームをつけている記事がでている。金持ち喧嘩せずが身にしみている東洋人には御苦労さんという他ないが、そんなことを言ってると知的財産の保護は成り立たない。この号では別の稿に、デザイン等の知的財産の保護についての立法論や裁判所の態度について、ローザンヌ大学の法律学教授が筆をとっているが、専門家でない人間には解りにくい。スイスでの商法上の判決が日本にどう影響するかも定かではない。本物そっくりのデザインならまだしも、よく似ている、かなり似ている、似ているところもある、というのをどう決めるのか。他人の猿真似はしないという良識がまかり通る世界でありたいと信じるだけである。(栄光時計株式会社:小谷年司会長)
■スウォッチ・グループの今年前半期の売上高は、昨年対比15・3%減少で健闘の部類 ■2009年10月8日 木曜日 14時19分45秒

《FH誌を読む A》 月2回出版されるFHニュースも8月は休刊だった。夏になると工場が閉まるので、納品ができないと長年耳にしてきたが、情報誌も夏休みとは。まぁ生産活動が殆どなしになるのだから記事も少ないか。
 スイスでも新型のウイルスによるインフルエンザが猛威を振るっているらしい。名だたる衛生大国のスイスのこと工場側への注意、働く人々への注意を几帳面に示してある。患者は必ずマスクをしろとか、消毒を丹念にとか、日本でやっていることと大差はない。スイスからみると危険地域はアメリカ大陸、オーストラリアと英国と明示されていて、そこには行くなと忠告している。どうしても外国出張をしなくてはならないなら、身の回りの衛生に気をつけろ、石けんでいつも手を洗え、休養を十分に少しでも様子がおかしかったら医者に電話せよ。絶対に握手をするな、一米以上離れて会話しろ、帰国したら一週間は徴候が出ないか様子をみよ、その間は必要以外では人に会わないようにせよ。もしインフルエンザみたいに感じたらいくら軽症と思っても、医者に電話で相談する前に絶対に会社に行ったり人と会ってはならない。マスクは必須である、と至れつくせり。
 さて、時計のことだが、スウォッチ・グループの今年前半期の売上が公表されている。1月から6月までの半年間、昨年対比売上減少15.3%で、24億8千万スイス・フラン(約2千億円)純益が28%落ちて3億フラン強(240億円)。スイス時計全体の輸出が26.4%下落している割には健闘している。スウォッチは完成品のブランドを19保有しているが、その全体をみると16.4%減で、19億6千万フラン(1600億円)となっている。しかし今年の後半期は昨年並みの売上を予想しているので、株価はやや上がり気味である。その19のブランドの一翼を担うのがロンジンで、ついこの間、年来の友人である社長のフォン・ケネルさんと大阪で会食したが、ロンジンの売上減は昨年比10%にもならないと胸を張っていた。全体の数字からみると貢献組に入る。
 
輸出額ではアメリカ・日本・ドバイが足を引っ張っている

スイスは人口700万人の小国だから、スイス時計産業は当然95%を輸出に頼っている。今年前半6ヶ月間の輸出額を国別に順位をつけて並べてみる。※()内金額単位は全てスイス・フラン、後ろは昨対比。
@ 香港(10億2200万)−22.2% Aアメリカ(6億7300万)−43.3% Bフランス(4
億7200万)−10%、Cイタリア(4億5600万)−8.4% D日本(3億9500万)−29.6% Eドイツ(3億7600万フラン)−13%、Fシンガポール(2億6700万)−30.3% G中国(2億5300万)−36.4% H英国(2億5300万)−13.7%、Iアラブ首長国連邦(2億2500万)−34% Jスペイン(1億4200万)−38.8% K韓国(1億700万)+44.1% 
L台湾(1億300万)−30.6% Mサウジアラビア(8500万)−28.9%、Nタイ(7700万)−44.4%。この数字をみるかぎり、日本の地位の下落は明らかになっている。アメリカ・日本を最大の顧客にしていたスイスの仕向け先構造が、アジアとEUに変わりつつある。アメリカ・日本・ドバイが足を引っ張っていて、パテックの社長フィリップ・スターンはこの3つの地域で売上は半減するかもと言っている。スウォッチのように後半回復するというのは強気の見方で、暗雲は晴れつつあるが、本当の回復は来年のバーゼル・フェアー前になるだろうと、タグ・ホイヤー社の社長シャン・クリストフ・ババンはみている。
ここからは私見になるが、国内の高級ブランド離れは、必ずしも不況だけによるものではない。当然高級ブランドの愛好者は存在し続けるだろうが、猫も杓子もということではなくて、その商品の全消費量の高級ブランドが占めるべき割合に落ち着くだろう。現在はそのメーターがあまりにも逆に振れている感がある。ユニクロとかニトリとか安くて、かつ良い製品に消費者が気付くことによって、また高級ブランドの、その高価の真によって
来たる良さを次には学ぶことになると思われる。(小谷年司・栄光時計株式会社会長)
■ラ・ショードフォンとル・ロックルがユネスコの世界遺産に ■2009年10月8日 木曜日 14時13分50秒

《FH誌を読む @》 時計産業連盟という組織がスイスにある。通称FHといって、昔から東京に代表事務所を構えている。この組織はスイスの時計組み立て工場、部品工場、名のあるメーカーが殆んど会員となっている。日本のメーカーは、セイコー、シチズンなど、それぞれに下請けを含めて独立国の様相を呈しているので、時計協会という会もあるが、どちらかというと、差し障りのない情報交換の場所という感がしないでもない。
スイスでは、企業が一般的に小さいので、歴史的条件からもFHのような情報の取りまとめ役が必要とされる。日本の時計協会は会員相互の協力、支援等が主たる目的ではなくお役所相手、基本的には旧通産省にまとまって対応したいという日本的な動機で設立されたのではないだろうか。
FHは2週間に一度、情報誌を発行している。「REVUE FH」60頁近くあり内容もなかなか濃く、現地の新聞報道なども転載されている。会報であるから、読者が喜ぶようなスキャンダル的な報道などは当然避けられているが、それでも2週間内にスイス時計産業で何が起こっているかは、注意深く読んでいるとよく解る。会員企業にとって多少不利になるような記事でも、客観的に載せられている。
そこで、『FH誌を読む』という形で、日本の業界に興味のある記事を個人的な観点から選別してお伝えしようと思う。例えば、7月の2日号には、FHの総会がジュネーブで6月25日に開催され、3年間の任期で旧知のジャン・ダニエル・パッシェ理事長が再選され、20人の理事が選ばれたことを伝えている。ロレックス、カルチェを始め有名な会社から、殆どの理事が選出されている。これはFHがスイスの時計産業を実質的に代表することを明確にしている。日本のように沢山の組合が乱立して、どれが正統なのか素人には解らないことはないようだ。
総会の報告では、2009年のスイス時計輸出の落ち込みは、最初5ヶ月で25%減と発表されている。機関紙の内容は常時、殆どが各地の活動、新製品、キャンペーン等の報告だが、各企業を代表するような個人のインタビューが載っているのが興味を引く。
この号には年末、社長を息子に譲ったパテック・フィリップ社のフィリップ・スターンの会見記が新聞から転載されている。パテック社の従業員は1.500人おり、年間生産量が4万個、世界中の取扱店がこの一年間で600ヶ所から500ヶ所に縮めたことなどが社長自身の口から述べられている。売上の数字はロレックス同様公表していないが、ある銀行の推定では年商12億フラン、約1千億円とみなされている。この会見記は、パテック社の経営哲学が出ていて全部を訳すると面白いが、長くなるので割愛する。日本の輸入時計業者でも正確には知らない統計的数字が判明するのは有難い。
微笑ましいのは、ジュラ山中の時計の町、ラ・ショードフォンとル・ロックルがユネスコの世界遺産として認められたことだ。時計産業史に興味のない人にとっては散文的な2つの町が何故選ばれたのか、ここ以外にもっと世界遺産になりうるところはスイスにいくらでもありそうだと私には思える。しかし時計産業人としては御同慶の至りで、日本の観光客が世界遺産の看板につられて、どんどん訪れるようになれば申し分がない。今後この調子で『FH誌を読む』を続けたいので、ご愛読を乞う次第である。(栄光時計株式会社:小谷年司会長)

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